薄荷の歴史


当社会長 東山 龍雄による薄荷の歴史を掲載いたします。



日本の薄荷 (その1)                                          
  




日本で栽培されたハッカ(薄荷)は通称を和種薄荷と言い、海外ではJapanese Mintと言う。学術的にはMentha Arvensis種として、欧米で栽培される洋種薄荷(Mitcham Mint、Mentha Piperita種)と区別される。
和種薄荷の原産地は中国であると言われ、日本へは中国より種根で持ち込まれたものとする説が定説になっているが、その時期や伝わり方は定かではない。明治初年、薄荷取卸油として輸出されたものが日本の独占品であったために、Japanese Mintの名称がついたものと考えられる。918年完成した「本草和名」と言う薬物書に、中国で言う薄荷は日本の「めぐさ」が相当するとしている。以来、薬用としての薄荷の名称が定着して、ハッカの発音で呼称されている。現代中国でも名称は薄荷と同一文字であるが、「bòhe」と発音される。
古来より日本と中国の交流の歴史から考えると、中国よりの渡来説が有力であるが、日本での古来よりの自生植物であった可能性も否定できない。
1191年、僧栄西によって茶と共に薄荷が中国より持ち帰られて、茶は宇治に、薄荷は山城(現在の京都府)の長池で栽培されたとする説があるが、茶の記録は残っているが薄荷に関する記録はない。
中国より「本草」(薬物書)が伝えられて以降、薄荷が漢方薬として利用された事は当然と言えるが、その栽培についての記録はない。
薄荷草が栽培されていた記録の見えるのは、江戸期18世紀に入ってからであり、19世紀に入ると薄荷の栽培は全国的に行われるようになる。山城(現在の京都府)に渡来したと考えられる種根は、奈良・堺へ、更に福井・長野・岡山へ伝えられ、長崎に渡来したと考えられる種根は肥前で栽培された。
当時は、まだ水蒸気蒸留によって植物精油を採取する方法を知らず、葉を乾燥して生薬として使用された。
薄荷は温帯地域に生育する宿根性の植物で、冬を越して翌春萌芽するので、山野に自生して増殖していたとしても不思議ではなく、日本全国沖縄から北海道まで可能であった。


                                            つづく


                                                                                (その2)(その3)(その4)(その5)(その6)


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