薄荷の歴史


当社社長 東山 龍雄による薄荷の歴史を掲載いたします。



日本の薄荷 (その3)




 薄荷取卸油からL−メントール(薄荷脳)が精製されて商品化するのは、明治 15年以降の事である。明治15年、イギリス人コッキング氏が横浜に再結晶法による薄荷精製工場を建設し「Menthol Crystals」の名称で輸出を始めた。これが本邦に於けるメントール製造の創始となる。明治25年コッキング氏は事業に失敗し破産する。この工場は多勢吉太郎商店と矢沢藤太郎商店の共同事業として継承された。
 その後薄荷精製技術は伝承されて明治26年小林桂介商店が、更に明治27年長岡佐介商店が相次いで精製事業に参入した。従って、当時の薄荷取引の中心は横浜であった。大正13年関東大震災の被害を受けた薄荷精製工場は相次いで神戸に拠点を移した。以降は現在にいたっている。
 薄荷栽培も取卸油として流通を始めると、その栽培適地を求めて地域特産物として産地形成が確立した。明治末期から大正期にかけて大増産を果した北海道北見地区は好例である。岡山県南部及び広島県東南部も気象条件を刈取期の区分で克服した好例である。大正末期から昭和16年(太平洋戦争開始まで)までがその最盛期であった。栽培面積2万ha、取卸油収穫量1千tであった。戦時下にあって食料増産の為、減反を強制され壊滅的状態となった。戦後の混乱も治まり、輸出産品として政府の薄荷栽培奨励が行われたのは昭和25年以降であった。
 農事試験場での薄荷栽培は、大正期、昭和初期はその栽培法の確立が中心であり、品種改良には成果を得られなかった。昭和18年、中国長江流域(上海周辺)に栽培される薄荷品種を地区別に数点持ち帰り農試での品種改良の資としたが、実質的にこれを母体として人工交配による品種改良が行われたのは、昭和22年以降となる。北海道農試遠軽薄荷試場が寒地薄荷を担当し、岡山県農試倉敷薄荷分場が暖地薄荷を担当した。昭和23年倉敷薄荷分場の圃場で、中国種によるものと考えられる偶発実生が発見された。従ってその来歴は明らかではないが、収穫率が高くメントール含量も高い優良品種であった。国の品種登録は出来ないまま岡山県の奨励品種として一気に普及し「さんび(三美)」と名付けられた。昭和22年、北海道農試でも、中国種「南通」を母体として「あかまる」を父とした実生種子を育成し、昭和26年「まんよう(万葉)」を開発した。従来の「あかまる」「北進」に比較して収油量が多く、農家の歓迎する品種として一気に普及をみた。
 この様に昭和26年以降の薄荷栽培は増収の新品種の登場で作付面積を増やした。又一方では農林省の奨励で昭和25年から全国各地で薄荷栽培への取り組みが行われた。

                                          つづく)

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