薄荷の歴史


当社社長 東山 龍雄による薄荷の歴史を掲載いたします。



日本の薄荷 (その2)




 薄荷を水蒸気蒸留して植物精油として薄荷取卸油を採取するのは、19世紀初期の事であった。1817年(文化14年)備中門田村(現岡山県総社市)の秋山熊太郎が江戸より薄荷の種根を持ち帰り栽培を始めた。彼は蒸留法を会得していたと言われ、取卸油を採取して薬種商や菓子商に売り利益を挙げた。しかし、彼はその蒸留法を秘伝として公開しなかったので、地域の産業としては育たなかった。
その蒸留法の記録もなく現在も謎とされている。  
 1854年(安政元年)備後助元村(現広島県駅家町)の佐藤玄三郎が大和より薄荷の種根を持ち帰り栽培を始めた。彼は取卸油を採取する事で利益の大きい事に着目し、焼酎の製法にヒントを得て、蒸留法を独自に創案した。改良を重ねて取卸油として市場に出したのは明治初年であった。彼はこの蒸留法を公開した為備後地域の特産品として大きく育ち、更に備中、備前(岡山県)へも伝わり、三備薄荷の名称を受けるまでに育った。 
 明治期に入ると、海外技術の導入から水蒸気蒸留の手法が明らかとなり、薄荷栽培も新潟、千葉、神奈川、愛知、山形、北海道へと広がり、薄荷取卸油としての取引が定着した。この様な薄荷増産を背景として明治6年(1873年)薄荷取卸油が初めてロンドンへ輸出された。当時の栽培品種は、中国よりの渡来種かあるいは日本在来種なのか判然としないまま品種もまちまちであった。前述の佐藤玄三郎は大和より持ち帰った薄荷は野生のものであったと述べている。 
 昭和初期、岡山県農業試験場が薄荷の品種改良を目的に全国の栽培薄荷を集めて保存栽培した記録がある。これによると

   「あかまる」 茎が赤く葉の丸いもの       山形、北海道
   「あかぐき」 茎が赤色をしたもの        岡山、広島
   「おあぐき」 茎が青色をしたもの        岡山
   「しろばな」 花が白色のもの          岡山
   「やなぎば」 葉が柳の葉の様に長いもの     愛知

すべて形態的な特徴で分類し呼称していた。
                                          つづく)

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