備中守護細川通董(みちただ)は細川氏7代目の備中守護として戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将です。その遺徳を偲んで大島庄では番傘を持って踊るという風習が残っています。

大島傘踊り
大島傘踊りは県指定(昭和51年)重要無形民族文化財となっています。寛政10年(1798)の文書によると、貞享3年(1686)7月晦日、細川下野守通董の100回忌
大法要に回向のため奉納されたのが踊りの始まりといい、彼の遺徳を慕う地域住民の気持ちの表れと伝えています。

番傘を持ち、男女対になって踊る素朴で閑雅なもので、岡山県内では唯一の番傘踊りといわれています。


細川通董の生涯
備中守護細川氏は代々鴨山城(鴨方町鴨方・標高168mの鴨山)に居住し勢力を張っていました(15〜16世紀)。
細川通董は7代目備中守護として鴨山城に居ましたが、戦国時代の中頃、山陰の尼子氏に敗れて四国川之江に移りました。

その後、山陰の尼子勢と山陽の毛利勢との間で勢力争い、領地の争奪戦が繰り広げられ、戦乱が絶えませんでした。大島庄の地侍や農民たちは毛利方に味方し、尼子勢を撃退しました。そこで、この地方を戦乱から守るために、永禄2年(1559)毛利方に属する伊予川之江城主細川通董を青佐山城に迎えて防備に努めました。

城主の通董は、地侍や農民たちに信頼され、永禄9年(1566)六条院竜王山城へ移るまでの7年間、 青佐山城に在城しました。その後、天正3年(1575)祖先伝来の鴨山城を奪回して移りました。

同じ年毛利輝元が備中全土を平定し領有することとなり、細川氏は毛利氏の幕下に組み込まれ、7代120年余りにわたって備中守護として栄えた細川氏はその幕を閉じることになりました。その後、天正15年(1587)、通董は毛利輝元に従って豊臣秀吉の九州島津氏征伐に出陣し、凱旋の帰途長門赤間関で死去しました
青佐山・・三郎島の対面に聳えています。砲台跡は現在展望台になっています。