平安時代に留学僧として唐に渡った慈覚大師は玉島や浅口郡にいくつかの足跡を残しています。
また平安時代に活躍した陰陽の安倍晴明も鴨方町や金光町にその伝承と遺跡を見ることがでます。
(1) 慈覚大師と量剛廃寺
平安時代初期の承和5年(838)、遣唐使の留学僧の任をもった慈覚大師は、その入唐に際して、浅口郡内にもいくつかの足跡を残しています。玉島羽黒山の清滝寺(もと阿弥陀堂)に阿弥陀像を刻んで安置したり、柏島西山の本覚寺(最近まで廃寺であったが現在では再建されている)に枯れた柏の霊木を刻んで十一面観音像を造って祀ったりしています。

その慈覚大師が遣唐使の任を終えて帰国の途中に大島へ立ち寄り、標高320mの御嶽山(みたけさん)の山頂に壮大な山上伽藍を建立し量剛寺と称したと伝えられています。山頂東側には黒見堂・西賀寺・小林房・僧都などの地名が残っていたと云われ、大規模な寺院の遺構がしのばれると云われていましたが、平安時代末には廃寺になったと伝えられています。

その当時、御嶽山は両高寺山とも呼ばれていました。山の南西側8合目付近に滝があり、その滝の近くに御滝神社を祀っています。紀州熊野権現の分霊を勧請したものと伝えられており、御嶽山の名称もこれに基づくと考えられます。
御嶽山山頂・・御滝神社は山頂から少し降ったところにあります。眼下に笠岡諸島・笠岡湾が望めます。

(2) 安倍晴明・・その伝承と遺跡
安倍晴明は阿倍仲麻呂9代目の子孫と伝えられ、10世紀末平安時代の中頃の天文博士・陰陽師で、天文観測と吉凶を占う陰陽道の権勢家として、当時の平安貴族社会では重んじられていました。

鴨方町の北方、竹林寺山の山頂に東大天体観測所(現在その役割を終えています)が建設されて既に久しいが、その西方に聳える標高約400mの阿部山山頂には「阿部屋敷跡」があり、古くは平安時代中頃に安倍晴明が天体観測をした所だと伝えられています。山の名もこのことに由来すると云われています。

竹林寺山頂に聳える天文台・・最近は工場の灯りで見えづらくなっていると云われています

平安時代の天体観測所の近くに近代的な天文台が建設されたのも、清明の霊力が招いた由縁でしょうか。また、安倍晴明を「浅口殿」と呼んでいたようですが、金光町占見が、元々「浦見」であったのを、清明ら占い師が多数居住していたことにもとづいて「占見」と改称したという言い伝えもあり、また「浅口殿」についても浅口郡内に領地を賜って居住していたことに由来するとも考えられます。

さらに、総社市富原は清明の子孫と称する陰陽師の集落であったとも伝えられています。また、一説(備中府誌)には、旧大島村青佐山城跡(現寄島町・笠岡市大島中境の山頂)にあったという青佐山城は、安倍晴明が築城したのが最初とも伝えられていますが定かではありません。
阿部山にたたずむ清明神社と石碑・・清明伝説は全国に見られますが、岡山県では金光・鴨方に多く見られます
(3) 芦屋道満・・安倍晴明宿命のライバル
笠岡市尾坂に「道万」という地名があり、「芦屋道満屋敷跡」があると伝えられています。芦屋道満は伝説上の人物とも云われていますが、安倍晴明の弟子で、清明が渡唐した留守の間に清明の妻と通じた上、帰国した清明を殺したという伝承もあります。芦屋道満の伝承は金光町占見にも残っています。

(4) 浅口郡誌による安倍晴明と芦屋道満
浅口郡誌には2人のことについて若干の記述を見ることが出来ます。
  • 安倍晴明若くして浅口郡占見の里に住し、下道郡の加茂保憲のもとに通い、陰陽推算の術を学ぶ。その後禁中に召されて天文博士に任ぜられる。
  • 芦屋道満はもと薩摩の人、罪ありて播州に放たれるという。薩摩より都に上り、禁中にて術を比べ負けて安倍晴明の弟子となる。清明の渡唐に乗じ、清明の妻李花に通じ、其秘書「金鳥玉兎集」を写し了り、清明帰朝の後、之と争いて清明を殺すという。

    また一説には、芦屋道満は占見村に生まれ、占の上手也。安倍晴明訪ね来たりて師弟の約をなし、易道に達し、大勢集まりにより占見村と改名せり。阿部山に入ること10町ばかり道満屋敷とて礎今に残りて石塔あり。
  • 占見大宮神社東北方、佐古池の北に豊島石五輪塔あり。清明の墓という。明治21年玉垣をめぐらし墓標を立つ。また、宮山というところは清明の屋敷跡ともいう。さらに占見大宮神社東北方、佐古池の東柏林中に五輪塔の墓石あり。芦屋道満の墓という。