吉備大島周辺は古代からいろいろとおもしろい伝承・伝説が伝わっています。今回は
その中から3編ほどと、地名から類推される生活の様子を取り上げてご紹介します・・・
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三ッ山(三郎島)・・寄島町の西南海岸に浮かんでいます |
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今から1500年以上もの昔、吉備中国の
川嶋川の派(かわまた)の淵に
「みずち」というおそろしい大蛇が住んでいたそうな。胴の周りが4m余り、身の丈は10m余り。4本足で角や鱗はないけれども、固い皮で全体が覆われ、背中にはいぼのような小さな突起が無数にあって毒を出す。そして赤ん坊の泣き声に似た「クアー クアー」という鳴き声を出す不気味な怪物であったそうな。 川を渡って旅する人や川の近くで百姓仕事をする人は、たびたびこの「みずち」に襲われて大変困っていたというこっちゃ。そこでこの地方に住む県守(あがたもり)という豪傑がみずち退治をすることになった。 大きなひょうたんを3個用意した県守は派の淵に投げ入れて、「やい、みずちよ。お前は毒を吐いては多くの人々を苦しめてきた。それでこれからお前を 退治しようと思ってやってきた。今投げ入れたひょうたんを沈めることができたら命を助けて やろう。しかし、もし、沈めることができなかったら殺してしまうがどうだ。」と言った。 するとみずちは鹿に化けて、ひょうたんを沈めようと一生懸命になったが、ひょうたんは一向に沈まない。1つめのひょうたんを淵のそこまで持っていって沈めて、2つめを沈めようとすると、先のひょうたんがぴょこっと浮いてくる。慌てて3つめを沈めると2つめのひょうたんがまたぴょこっと浮いてくる。大急ぎで初めのひょうたんを沈めると3つめのが浮いてくるというわけで、とうとう みずちはへとへとに疲れてしもうた。 この様子をじっと見ていた県守は、頃は良しと、刀を持って淵に飛び込み、みずちを斬り殺してしもうた。殺されたみずちの血で川の水が真っ赤になったそうな。このことがあってから、この派の淵を「県守の淵」と呼ぶようになったというこっちゃ。 |
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文政13年(1830)オランダ人シーボルトが体長30cmのハンザキをオランダに持ち帰り、51年間生存して体長140cmに達し、明治14年アムステルダムで死んだという。 真庭郡新庄村でも116年も生存したと推定される体長128cmのハンザキが昭和40年に死亡、津山科学教育館に標本として保存されている。 |
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奈良時代の駅鈴 |
8世紀初めになると、奈良の都平城京造営、さらに引き続いて東大寺大仏の建立と、延べ数百万人ともいわれる多くの人手を要する大工事に、全国の成年男子が強制労働にかり集められました。 備前の国では東大寺の屋根瓦が製作されました。瓦にする土を掘って運ぶ、瓦を焼く薪を伐って運ぶなど瓦作りの雑役は勿論、出来た瓦を東大寺まで運ぶ人夫としても、備前の国はもとより播磨・美作・備中など周辺の国々からも多くの成年男子が何年にもわたって徴発されたことでありましょう。『東大寺を造り、人民辛苦して氏々の人らもまたこれを憂いとなす』とまでいわれました。 「丁(よおろ)」と呼ばれている地名も、古代における庸役に服した人々の辛苦のなごりをとどめている由縁ではないかと想像をたくましくさせる思いがします。 |
庸役に服した民衆はこのような労役に従事していたと考えられます。 |