吉備大島周辺は古代からいろいろとおもしろい伝承・伝説が伝わっています。今回は
その中から3編ほどと、地名から類推される生活の様子を取り上げてご紹介します・・・


(1) 寄島と神功皇后伝説
日本書紀仲哀天皇9年(2世紀末?)新羅遠征に赴いた神功皇后は、帰国の途中、現寄島町の沖合の小島(寄島)に立ち寄られました。(島名はこれに由来するといわれています)

この島の西南に続く「三ッ山」で神功皇后自ら天神地祇を祀り戦勝を感謝されました。その時神勅があり、「三郎島」と称するようになったと云われています。三郎島には仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の3神をそれぞれ祀っているとされ、島頂の松は昔から絶えることのない古木で枯れようとすると若木が生え、霊験新たかと伝えられています。

神功皇后の一行は、さらに対岸の陸地に渡られて風光明媚な海岸を心ゆくまで散策し楽しまれました。このとき疲れた供の者たちはあちらこちらに席を設けて休息していましたが、皇后も疲れて「あくらは(注1)」と仰せられ、休息されたと云われています。これが「安倉」の地名由来とも伝えられています。

(注1) 「あ」は自分、「くら」は休む座席を意味する。従って「私の休む席はどこか」とお尋ねになりました。

三ッ山(三郎島)・・寄島町の西南海岸に浮かんでいます


(2) 黒崎村屋守
古代には屋守(山守)を中心として佐見(沙美)・南浦はその枝村であったと云われています。天文年間(16世紀中頃・戦国時代)、黒崎は州崎(現本村付近)の名で、まだ屋守の内に属していました。

寛永19年(17世紀中頃・江戸時代初期)松山藩主水谷勝隆のとき、沙美の豪族吉田家の八左衛門高次によって、州崎の名を改めて黒崎村と称し、屋守・佐見・南浦一帯を支配したことに始まります。 (備中誌・浅口郡誌による)                        
(3) 吉備中国(きびのなかのくに)のみずち退治
日本書紀仁徳天皇67年(5世紀初め?)の条に、次のような記録があります。
「吉備中国の川嶋川に大きなみずちが住んでいて人々を苦しめていたので、笠臣(かさのおみ)の祖、県守がこれを退治し 諸人の苦しみを解いた」

みずち退治の物語の真偽はともかくとして、当時の朝廷でも取り上げられて正史に記録されたということは、よほど重大な出来事であったと想像されます。


今から1500年以上もの昔、吉備中国川嶋川の派(かわまた)の淵に 「みずち」というおそろしい大蛇が住んでいたそうな。胴の周りが4m余り、身の丈は10m余り。4本足で角や鱗はないけれども、固い皮で全体が覆われ、背中にはいぼのような小さな突起が無数にあって毒を出す。そして赤ん坊の泣き声に似た「クアー クアー」という鳴き声を出す不気味な怪物であったそうな。

川を渡って旅する人や川の近くで百姓仕事をする人は、たびたびこの「みずち」に襲われて大変困っていたというこっちゃ。そこでこの地方に住む県守(あがたもり)という豪傑がみずち退治をすることになった。

大きなひょうたんを3個用意した県守は派の淵に投げ入れて、「やい、みずちよ。お前は毒を吐いては多くの人々を苦しめてきた。それでこれからお前を 退治しようと思ってやってきた。今投げ入れたひょうたんを沈めることができたら命を助けて やろう。しかし、もし、沈めることができなかったら殺してしまうがどうだ。」と言った。

するとみずちは鹿に化けて、ひょうたんを沈めようと一生懸命になったが、ひょうたんは一向に沈まない。1つめのひょうたんを淵のそこまで持っていって沈めて、2つめを沈めようとすると、先のひょうたんがぴょこっと浮いてくる。慌てて3つめを沈めると2つめのひょうたんがまたぴょこっと浮いてくる。大急ぎで初めのひょうたんを沈めると3つめのが浮いてくるというわけで、とうとう
みずちはへとへとに疲れてしもうた。

この様子をじっと見ていた県守は、頃は良しと、刀を持って淵に飛び込み、みずちを斬り殺してしもうた。殺されたみずちの血で川の水が真っ赤になったそうな。このことがあってから、この派の淵を「県守の淵」と呼ぶようになったというこっちゃ。

文政13年(1830)オランダ人シーボルトが体長30cmのハンザキをオランダに持ち帰り、51年間生存して体長140cmに達し、明治14年アムステルダムで死んだという。

真庭郡新庄村でも116年も生存したと推定される体長128cmのハンザキが昭和40年に死亡、津山科学教育館に標本として保存されている。

(4) 馬飼村と丁(よおろ)・・地名から想う古(いにしえ)の庸役

笠岡市に馬飼、鴨方駅の西方に丁(よおろ)という地名が残っていますが、これらの地名は古代の人々が従事した労働に深く関係していると想像されます。「備中誌」には次のような記述が見られます。

「古しへの馬戸なりし処にて、或は牧子護丁に充てられ又は調草に充てられし物にて、 その名の残れる地名なるべし」 また、大宝令の厩牧令には、

「凡馬戸分番上下其調草、正丁二百囲、次丁一百囲、中男五十囲・・・」と記されており、馬戸、調草、丁のような言葉が目につきます。

丁(「よおろ」又は「よぼろ」)とは古代における、21才から60才までの男子の呼び名であって「租・庸・調」の租税の内「庸・調」は男子にかかる人頭税でありました。畿内では年間10日間、都に上り朝廷の労役に服しましたが、畿外諸国の人民は労役の代わりに定額の布などを納めました。

この労役に携わった男子が「よおろ」または「よぼろ」と呼ばれたものと考えられます。そして正丁は21才〜60才、次丁は61才〜65才、中男は17才〜20才の男子と定めていました。

7世紀も終わり頃になると、播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の8カ国と都を結ぶ山陽道も国の大路として整備が進みました。道幅20mの直線道路には両側に側溝が設けられ、敷石舗装されたりして、10Kmごとに駅家が設けられました。

この駅家は瓦葺きで白壁の中国風の建物であったといわれ、ここに駅馬・伝馬が置かれました。当時、朝鮮半島や中国大陸から頻繁に訪れる外国使節の送迎往還用に、また地方の国衛と都との物資の輸送や連絡に使用されました。

この駅馬・伝馬用の馬を飼い、飼葉の草を作る人たちが、今の笠岡市馬飼付近に住んでいたのではないでしょうか。
奈良時代の駅鈴
8世紀初めになると、奈良の都平城京造営、さらに引き続いて東大寺大仏の建立と、延べ数百万人ともいわれる多くの人手を要する大工事に、全国の成年男子が強制労働にかり集められました。

備前の国では東大寺の屋根瓦が製作されました。瓦にする土を掘って運ぶ、瓦を焼く薪を伐って運ぶなど瓦作りの雑役は勿論、出来た瓦を東大寺まで運ぶ人夫としても、備前の国はもとより播磨・美作・備中など周辺の国々からも多くの成年男子が何年にもわたって徴発されたことでありましょう。『東大寺を造り、人民辛苦して氏々の人らもまたこれを憂いとなす』とまでいわれました。

「丁(よおろ)」と呼ばれている地名も、古代における庸役に服した人々の辛苦のなごりをとどめている由縁ではないかと想像をたくましくさせる思いがします。

庸役に服した民衆はこのような労役に従事していたと考えられます。