平清盛が宋との貿易を積極的に推し進めていた頃は、大島北の水道を利用していたのであろうと推測できますが、その後この水道は次第に浅くなり、ついには航行不能になっていったのだろうと思われます。それはいつ頃のことであったのでしょうか?。その後いつしか大島は地続きとなり現在の形を形成していったのであろうと思われます。

【平清盛と宋貿易】
時代がずっと降って、室町時代中頃の文安2年(1445)の「兵庫北関入船納帳」に、備後米を積んだ南浦(玉島黒崎南浦)からの船が兵庫北関へ入港したという記録が見られます。
当時、南浦は瀬戸内海航路の港として開け、中継地、風待ち・潮待ちの港として栄えていたと推測されます。(平凡社「岡山県の地名」)このことから考えられるのは、室町時代初めごろ(14世紀中頃)には、大島北水道は船の航行が次第に困難になってきたのではないかと推測されます。
当時、水道東部の甕ノ泊沖一帯の海は、干潮になると一面の干潟が広がる浅海と化して、満潮時にもわずかに残る小舟が沖で漁をする程度であったと云います。

また児島の北側、吉備の中海も浅海化が進み、藤戸海峡が通りにくくなるなど海の変化に伴って、大型船は大島の南側海上を東へ下津井沖を通る航路へと変わっていったと考えられます。
広島県東部の府中や神辺付近で作られた備後米を積んだ小舟は芦田川を下り、福山から笠岡沖を通り、神島瀬戸を回って、寄島沖を南浦へ。そして南浦で大船に積みかえて、瀬戸内海を東へ進み兵庫へ送っていたのであろうと想像できます。

【おわりに】
とにかく全ては想像でしかありませんでしたが、8世紀初頭の古事記に書かれた大島は多分に当時島であったこと、そして古事記以前からの伝承や伝説の中で、千年以上にもわたって瀬戸内海の重要な島として位置づけられてきたものであると考えています。