「一つ先の成長物語 ―『ドラゴンクエストX』と『ぐるぐるまわるすべり台』―」 について


 この表題を見て大抵の人が思うのは、「ドラクエはともかく、ぐるぐるまわるすべり台って何?」だろう。
 その次が、「ドラクエとぐるぐるまわるすべり台がどうしたって?」。
 最後は、「ドラゴンクエストってなあに?」(それと同じくらいなのが、「ドラゴンクエストとぐるぐるまわるすべり台ってなあに?」)。
 ――もっとも、ドラクエを知らない人間(プレイしたかどうかはともかく)がいるのかどうかは、微妙である。
 あるいはそれは、火星の生物痕を探すのと同じくらい困難なことかもしれない。
 
 とはいえ、ともかくもまずはそこから話をはじめていきたいと思う。『ドラゴンクエストX』と『ぐるぐるまわるすべり台』とは何なのか?
 けれど両者には、共通するポイントがある。もちろん、それがなければ、いちいちこんな文章を書いたりはしない。
 そのポイントを先に言っておくと、こういうことになる。それは、両方ともが「何かになる物語ではなく、自分が何者でないのかを知る物語」――だということだ。


 とりあえずは、『ドラゴンクエストX』からはじめていこう。
 ちなみに、ここではあくまで初代(?)ドラクエ5を念頭にしている。リメイク版とか、小説とか、マンガとか、映画とか、そういうことは問題にしない。
 
ドラゴンクエストX  基本的な情報としては、1992年にエニックスから発売。SFC版での売り上げは280万本ということになる(Wiki)。
 僕が最初にプレイしたのがいつだったかは、どうも覚えていないんだけど(中学くらい?)、その後二回くらはやり直していると思う。特にやりこみとかはしてないけど、例の「ひとしこのみ」は試してみた。
 とはいえストーリーに関しては、大体のところが点として残っている人が大半だと思う(少なくとも、僕はそうである)。
 例えば、パパス(主人公の父親)が殺される「ぬわーーっっ!!」は覚えていても、「パパスは何故旅をしていたのか?」は覚えていなかったりする(答えは、「魔王にさらわれた母親であるマーサを救うため、天空の勇者を探していた」。オープニングを見ると、何だか出産後に亡くなったようなフラグが立ってはいるけど)。
 この点と点については、意外なほどきちんと結ばれて、線になっていることが多い。
 ちょっとだけプレイしなおしてみても、それはわかる(さすがに、クリアまでする気にはなれなかった)。
 最初の城――お化けが出るという噂で、子供たちにいじめられていたキラーパンサーを助けるために(浦島太郎みたいだなあ)ビアンカといっしょに向かう――でゴールドオーブ(天空城の起動に必要)を手に入れたりする。
 そのゴールドオーブにしても、村に自分そっくりの人間(実は過去に戻ってきた自分)がいて、その時ににせものとすりかえられている――という伏線があったりする(にせもののオーブはそのあとで砕かれてしまう)。これなんかは、何だかドラえもん的なパラドックス系の話で、初見時はひたすら感心していた。
 この過去に戻る話も、子供時代に妖精を助けたことが伏線になっていて――
 ――でもまあ、そんなことはどうでもいい。
 
 ざっくり説明してしまうと、『ドラゴンクエストX』とは、さらわれた母親を助けるために魔王を倒す話、である。もちろん、そのためには長い長い紆余曲折がある(ドレイにされたり、王になったり、石にされたり、城を空に浮かせたり)。
 特徴としては、世代を跨いだ物語であること(ただしそれは、「ロマンシング サ・ガ2」とか「俺の屍を越えてゆけ」みたいな、継承システム的なものではない)。
 実際のところ、ゲームで結婚イベントがあるのは衝撃的ではあった。その二者択一は、プレイヤーにかなりの迷いと葛藤を生じさせる。まさしく、人生の決断みたいに。
 これは、ドラクエの基本システムである、選択肢のない「はい」「いいえ」(勇者は魔王を倒すために旅立たざるをえない)と密接にリンクしたものだと思う。本来、常に一択であるはずの選択肢が、ここではその基本システムを例外にしてまで、二者択一を迫る――
 もっとも、その辺のことはどうでもいい。
 この話で重要なのは、次の一つ。つまり、主人公は「勇者」ではなく、「勇者の父親」である、ということ。
 
 前にも(「玩具と自由度と子供時代 」)書いたけど、ドラクエ5にも3と同じような「ジュブナイル性」がある。つまり、保護者が存在している。
 ところが、5ではその保護者である父親(パパス)は物語の序盤で死んでしまう。
 そのため、物語は保護者不在の状態で進んでいくことになる。プレイヤーはあくまで、不安定な自分自身を生きなくてはならない。帰る場所はなく、それを自分で見つける必要がある。
 主人公がその後、ドレイになるのは、だからかなり象徴的で物語的に優れた出来事だとはいえる。主人公に行き場はない、帰るところはない、力はない――守ってくれるものも、存在しない。
 そして、そこから脱出したとき、新しい物語がはじまる。保護者不在の、ジュブナイルでない物語が。
 うがった見方をすると、この奴隷時代は「義務教育」のストーリー内代替物、だともいえる。そこからの旅立ちは、尾崎豊じゃないけれど、「この支配からの卒業」というわけである。
 ただし、これは余談。
 
 主人公はその後、冒険を重ね(どんな冒険かは割愛する。そこは自分でプレイするしかない)、結婚して、子供も生まれる。まさしく、人生そのものみたいに。
 それで、この子供(男女の双子の男のほう)が勇者なのである。
 主人公自身は、勇者ではない。あくまで、勇者の父親なのである。ゲーム内でのステータス上でも、肩書きは「ゆうしゃのちちおや」だったりする。
 これは、物語としては相当、異質で、異端で、異常ですらあるだろう。
 ドラクエにおいては、主人公=プレイヤーの図式が基本である。そして、それを支えているのは、主人公が勇者以外の何者にもなれない、という強制的なシステムにある。
 ――主人公が勇者以外の何者にもなれないことによって、プレイヤーが主人公以外の何者にもなれないことを保障している。
 しかしドラクエ5は、「自分」ではない「誰か」が勇者(=物語の主人公)になった世界なのである。
 そしてゲーム製作者は、このゲームの特徴の一つを「人生」そのものであることだと言っている。
 自分が勇者にはなれない物語、それが「人生」なのだと。
 
 自分が物語の主人公ではない世界――
 でもそこには、不思議な満足感のようなものさえある。何故ならプレイヤーは勇者でなかったとしても、それを生みだした存在ではあるからだ。
 勇者ではなく、勇者の父親としての物語――そこが、『ドラゴンクエストX』の最大の特徴だと思う
 そしてそれが、『ぐるぐるまわるすべり台』との共通点でもあるのだ。それが、「一つ先の成長物語」であるという共通点。 
 ――というわけで、次は『ぐるぐるまわるすべり台』を見ていこう。


ぐるぐるまわるすべり台  『ぐるぐるまわるすべり台』は、中村航による短編小説である。単行本が2004年6月、文庫本が2006年5月、初出は2003年12月号の「文學界」(単行本からは、もう一編「月に吠える」が書き下ろされている)。
 個人的にはものすごく好きな小説ではあるけれど、作者は何故だか恋愛小説を主に書いていて、そっちのほうは、あまり肌にあう感じではない。
 ただし、この『ぐるぐるまわるすべり台』は僕の部屋にある「本棚の一番いい場所」に置いてある。
 
 ちなみに、小説の題名の『ぐるぐるまわるすべり台』は、ビートルズの「ヘルター・スケルター」から来ている。それと、「黄金らせん」。
 この二つは物語の重要なモチーフになっているのだけど、とりあえずここでの主題とはあまり関係ないので、はしょってしまうことにする。

(……余談だけど、黄金螺旋といえば荒木飛呂彦の「スティール・ボール・ラン」を思いだす人がいるだろう。ジャイロの能力。そして余談の余談だけど、あの時描かれた黄金螺旋は正方形の「中心点」を通るものになっていた。
 普通なら、正方形に内接する四分円を描くのだけど、何でだろう? 大体、中心点をどうやって結んでいくのかが、どうもよくわからない。
 もっとも、作中では「黄金の回転」と言っているし、そのほうがイメージとしてあっていたのかもしれない……)
 
 とりあえず、小説のあらすじをざっくり説明しておこう。
 主人公の「僕」である小林はある日、大学を退学する。そして塾の講師を続けながら、バンドを結成することを目指す(ただし、そこが小説の主題ではないので、目指すというか、主題の「きっかけ」として語られる感じが強い)。
 メンバーが順調に集まる中で、「僕」は最後に「中浜」というボーカル担当に出会う。そして最終的に、自分自身はバンドに参加せずに、彼らがバンドを結成する場面を物語るところで、小説は終わる。
 ――ある程度予想はつくと思うけど、これは「僕」がバンドに「参加する」話ではなく、バンドの誕生を一つ上のところから「物語る」話なのだ。
 ちょうど、主人公が勇者ではなく、勇者の父親であるみたいに。
 
 もう少し、詳しくみていくことにする。
 主人公の「僕」が退学する理由は、実ははっきりとはしない。でも「僕」は新しい物語を求めている。たぶんそれは、「生きるうえでの確信」みたいなものである。それがどんなものなのかは、まだわからないとはいえ。
 そのために、「僕」はバンドを結成することにする。そして携帯電話(アップルによるiPhoneが登場するのは2007年のこと)のサイトでメンバーを募集する。確かに、何かを求めて――
 とはいえ「僕」のバンド歴は、「一年ちょっとくらい」のものでしかない。作中では、それ以上のことは語られない。技量とか、好みとか、演奏するジャンルすらも。
 
 「僕」には、尊敬する人間が二人いる。
 一人は大学で、「研究室などは持たず、もう何年も新入生相手に建築概論だけを教えて」いる、木島教授(この人が、小説冒頭で「黄金らせん」についての印象的な講義を行う)。
 もう一人は塾の教室長で、「宿題を忘れてきた生徒を真剣に、そしてもの凄い勢いで叱ることができる」という「パーフェクトなスキル」を持つ、榎本室長。
 
 この二人は、「僕」にとって理想の大人そのものになっている。何故なら、二人は人間として完成されているから。
 人間として完成されている、というのは、ここでは「自分に確信を持っていること」と思ってもらえればいい。そして、だからこそ他者を正しい場所へと導くことができる。
 導くというのは、けれど、聖人が善導するとか、そんな生易しいものではない。
 嵐が小舟を翻弄するような、そういう圧倒的な力でもある。それが如実に現れているのが、榎本室長。
 この人が塾の二人を仲直りさせるシーンは、確かにけっこう圧巻なものがある。そこには言い訳や理由すら必要とはされない。そんなものは超越してしまっている。
 ――そして「僕」は実のところ、退学したことについてすら、言い訳や理由をつけて周囲に嘘をついているのだ。
 
 そんな「僕」は、最後に「中浜」というボーカル希望の男と会う。
 中浜と「僕」はとてもよく似ている。けれど「休学している」と嘘をつく「僕」とは違って、中浜のほうはあっさりと大学を辞めてしまったことを明かす。
 そして、数理学科だった彼は、何故大学を辞めたのかを語る。それは、どんなに努力しても数学を理解できなかったから。数学を「生きる確信」にできなかったから。
 だから、彼は別のものを求めるしかなかった。それが何かは、まだわかっていない。けれど、今度のバンドには期待している。もしかしたら、「両思い」になれるかもしれない、と。
 そんな中浜に対して、「僕」はお礼を言う。何故なら、彼が「自分には語れなかったことを語ってくれた」から。
 
 そして中浜の「どうしてバンドをやってるんですか?」という問いに、「僕」は答えることなく終わる。
 ――たぶんその時に、「僕」は気づくのだ。本当の望みに。「僕」はバンドをやることじゃなく、大人になりたかったのだ、と。それが「僕」にとっての、「生きる確信」なんだ、と。
 だから最後、「僕」はバンドには参加せず、それを物語ることにする。もしかしたら、僕の物語であったかもしれないものを。
 屋上でのこのシーンは、切なくて、寂しくて、悲しくすらある。けれど、不思議な満足感もあるのだ。
 それは「僕」が、「物語られる」立場ではなく、「物語る」立場に移ったところから来ている。
 一周回ったんだ、とその時に「僕」は思う。そこは同じ場所でも、今までいた場所とは違う。相似形の螺旋みたいに、ぐるぐるまわるすべり台みたいに。
 そしてそれでも、遠い音楽は確かにそこにある――
 
 ……ちなみに、文庫本にある解説は、そこのところを唖然とするほど理解していないものになっている。これはバンドを結成する「物語」ではなく、それを「物語る物語」なのだ、ということを。
 もっとも、実際にバンドをやっている当事者としては、それが正しいのかもしれない。そんなどうでもいいような理屈なんて、現実の音楽の前では全然関係ないんだぜ、みたいに。
 それに、理解していないのは、本当は僕のほうなのかもしれないのだ。


 ――『ドラゴンクエストX』と『ぐるぐるまわるすべり台』。
 二つの作品に、共通点といっていいところはほとんどない。世界観も、ストーリーも、キャラクターも、作品の媒体さえ。
 けれど不思議なほど、その印象は一致している。例え物語の主人公になれなかったとしても、そこには、別の新しい物語が存在するのだ。
 
 結局のところ、誰もが勇者になるわけではないし、ずっと勇者でいられるわけでもない。どんなに希ったとしても、夢がすべて叶うわけじゃない。
 けれどその時には、人は誰かにそれを託したり、誰かが勇者になる手助けをしたりすることができる。物語の主人公ではなく、それを「物語る」立場にたつことが。その、一つ先の立場にたつことが。
 
 そこにはもちろん、切なさや、寂しさや、悲しみすらある。それは、もしかしたら自分の物語だったのかもしれないのだから。
 でも、そこには不思議な満足感もある。諦念とは違う、諦め。受容とは違う、受け入れ――そんなものが。
 ――何故なら、それは一つ先の成長物語だからだ。それは自分を別の場所へと導く、新しい物語だからだ。
 たぶんこの世界には、叶えられなかった夢にも、祈りにも、ちゃんとした意味がある。勇者になれなくても、バンドのボーカルにはなれなかったとしても。
 それに少なくとも、そこは誰かが勇者になれた世界でもある。例えそれが、自分自身ではなかったとしても。
 たぶん、僕らは誰かに物語を託すことによって、その物語を生かすことができる。その物語を、新しく物語ることができる。僕ら自身の、一つ先の成長物語として――

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