「ひきこりへの処方箋」 について


  ……そんなものがあればいいと思う、本当に。
 でも実際には、そんなに都合よくはいかない。
 そもそも、ひきこもりという状態そのものが「袋小路」みたいなもので、そこからはどこにも行きようがなかったりする。そこからは、どこにも道がつながっていない。そこからは、どこにも歩いて行くことはできない。
 そこには、蜘蛛の糸さえ届かない。その場所には、その人以外のものを入れる余地などないのだから。
 
 たぶん、「ひきこもり」については非難のほうが強い、と思う。現実からの逃避、家族への依存、社会への負担――
 実際、それは甘えでもあるし、怠けているのだとも言える。
 ただし、「甘え」や「怠け」というのは、当人にとってもけっこうしんどいものだったりする。それはただ、必要な力が出てこない、というだけのことでもあるのだから。
 切れかけた電池に、もう何の力も残っていないみたいに。
 
 ひきこもりの状態と言うのはピンキリではあると思う。
 そうなった事情も、千差万別だと思う。
 いじめだとか、裏切りだとか、挫折だとか、僕みたいにとりたてて理由がない場合も――
 でも共通しているのは、そこからは抜けられない、ということだ。
 簡単には、抜けられない。
 本人も周りの人間たちも、そのことをどうしていいかはわからずにいる。
 もし、どうしていいのかわかっているなら、そもそもそんなところにいたりはしないのだから。
 
 ひきこもりというのは、当人にも周囲の人間にも恐ろしくしんどいことだし、直視すらしにくいことでもある。
 時と場合によっては、破壊的・破滅的ですらありうる。美化のしようもなければ、同情の余地もあまりない。
 それは、悲劇ですらない。
 ただの、何というか――救いようのない状態、だ。
 
 けれど、問題性は明白ではある。
 人が生きている以上、どうしても避けて通れないことはある。それが高尚な問題であれ、低俗な問題であれ。要するに、社会的に存在している以上は。
 そこで当然ながら、公的支援が叫ばれることになる。
 就労支援だの、相談窓口だの、有識者会議だのが用意されて。
 救って欲しいのは、やまやまだと思う。何しろ、本人にも周囲の人間にも、もうどうすることもできずにいるのだから。
 けれど正直なところ、そうなったら辛うじて支えているものさえ壊れてしまうと思う。
 誰かがこの狭い場所に入ってきてしまったら。自分ひとりでいるのさえ精一杯のこの場所に、ほかの誰かが入ってきてしまったら。
 そうなったら、本当に壊れてしまうのだ。
 空気を入れすぎた風船が、破裂してしまうみたいに。
 
 ひきこもりの救いのなさかげんについては、僕はわりと正確に想像できていると思う。
 自分としても、そういう種類の人間、そういう傾向のある人間として。
 もちろん、それはあくまで「ある程度のもの」として、である。あまり病的になりすぎると、ちょっと手に負えないところはある。
 それでも一応、書いておきたいことはある。
 自分でもその救いのなさを、少しでもよく知るために。
 
 同時にこれは、中間報告みたいなものでもある。
 以前に書いたこと(「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」)の補足というか、続きというか、現状についての。
 それは全然、救いのある物語とは言えないけれど。
 
 結局のところ、これは「処方箋」でも「解決策」でもない。正直なところ、僕にはそんなものが本当にあることさえ想像できずにいる。
 だから前にも言ったとおり、これは一つのサンプルだと思ってもらえればいい。
 ひきこもりの全部が全部とは言わないまでも、そういう人間もいるのだ、と。
 それがどういう意味を持っているのかは、僕にもよくはわからないのだけれど。

 とりあえず、僕の現在の状況について。
 端的に言えば、働いている。そう言ってよければ。
 具体的に書いておくと、二十四時間スーパーの夜間品出し。いわゆる、ドライ部門。早い話、搬入された品物を売り場に並べるわけである。
 時給は大体1000円前後(時間帯によって異なるので、概ねそういう数字になる)。
 週に四日、一日五時間。3時から8時まで。正直、この時間が朝なのか夜なのか、いまだに判断がついていない。ただし、挨拶は「おはようございます」になっている。
 僕の仕事は飲料が中心で、台車にいっぱい積まれてきたやつを、売り場に補充していく。平均して六十箱以上のダンボールを開けていると思う。一つ12kg程度。出さないものでも整理する必要があるので、たんに動かすだけでも、まあまあの量にはなる。ただし、一人で全部こなすわけでもない。
 納品分だけで済めばいいのだけど、在庫が山のようにあるので、非常にややこしい。記憶力のテストみたいな面がある。どの商品がないのか、どこにないのか、そもそも商品が在庫に存在するのか。
 
 ……細部について語っていけば、いくらでも語れることはあるのだけど、特に重要でもないので省略する、意味もない。
 とりあえず、何とか慣れてはきている(そして、それがすべてではある)。レジだの、日配だの、乳製品だの、ほかのこともやらなきゃならないし、今でもしょっちゅうまごついてはいるけれど。
 一時、腰が痛くなって、ひどい時はイスに座っていることもできなかった。ダンボールを引きちぎるような痛みだった。今では多少ましになっている。完全に治っているわけではないにしろ。
 時間に追われるというのも、けっこうなストレスではある。マイペース型の人間としては、しんどいかぎりである。
 まあ、それが「普通」なのだろう。
 普通なんて、くそくらえだとも思うけれど。
 
 ただ、週四日というのはけっこう便利な数字でもある。
 一日目は「最初の一日」、二日目は「もう半分」、三日目は「あと一日」、四日目は「これで最後」と思えばいい。
 少なくとも、そうやって自分を励ますことくらいはできる。
 実際には、しょっちゅう時間が延びたり、日にちが増えたりもしているけれど。
 ……でも、何の文句がつけられるだろう?
 普通の人は、週五日、八時間働いているのだし、それに比べればぬるま湯か温室か楽園か桃源郷で暮らしているようなものである――例え、そんなふうには思えないとしても。
 
 はっきり言って、仕事が好きだとか、やりがいだとか、仲間だとか、世の中のためだとか、そういうのは、まったくない(ないのが「普通」だろうか?)。
 要するに、ただ言われたことをやっているにすぎない。自分ではそこに、意味も、必要も、目的も見出せないのだから。
 そういうのは、時と場合によっては恐ろしくしんどくなったりもする。自分が何のために、何をやっているのかもよくわからなくなる。
 すべては、空虚になる。
 その場所では、何の支えもなく、手でつかまるものさえなく、どっちが上でどっちが下なのかもよくわからなくなる。
 僕がやっているのは、ただ「空っぽの重み」に耐えているだけ。
 「今日を無事に生きのびる」ことを自分に言いきかせて。それさえ実現すれば、それ以上は望む必要はないと、自分に言いきかせて。
 帰って眠ることを、一人になることだけを願望しながら。
 
 ――こんなふうに書いてはきたけれど、別にひどい状態というわけじゃない。理不尽な叱責だの、無意味な暴言だの、非常識な要求だのがあるわけじゃない。
 もちろん、嫌なことはある。
 というか、自分でもまるで必要のない傷つきかたをしていると思うときもある。何でもない一言、仕草、当人には何の意図もない言動――そういうものの裏を探ってしまう。ちょっと手直しされたり、注意されたりしただけで、相手からとりかえしのつかないくらい悪く思われているんじゃないか、と。
 そもそも僕は、人から誉められれば、それを何かの皮肉かと疑うような人間なのだから。
 
 あと、客の中には怒鳴る人や、理解不能なくらい横柄な人や、常識的とは思えないほど偉そうな人がいたりもする。
 こっちの些細なミスに、罵詈雑言で応えるような人が。
 そういう時、僕は自分の手が震えていることに気づいたりする。
 自分でも意外だけど、はっきり言ってそういう人が怖いのだ。びくついてしまうくらいに。相手がおかしいのだと理解していても、こちらに非はないのだと信じていても、生理的にはそういう反応が出てしまう。
 シニカルな人間としては、これはけっこう屈辱的なことでもある。世界を上から眺めていようとするような人間としては、自分がたいした人間じゃないのだと、はっきり知らされることになるのだから。
 まあ、そういうのも「慣れ」の問題なのかもしれない。心の回路をうまくコントロールできるようにするしか――
 
 ともかくも、誉められたほどではないにしろ、「仕事」を続けることはできている。ひきこもり的な人間としては、これは多少はましなほうと言うしかない。
 しょっちゅう懐疑や、空虚や、無意味さを感じていたりしていたとしても。
 結局のところ、どこにいても、何をしていても、たぶん変わることはないのだと思う。体の中にできた空洞や、歪みや、脆さをどうにかすることなんて。
 ここにはただ、耐えられるくらいの「慣れ」があるだけでしかない。
 楽な仕事なんてものは存在しない。ただ、続けることが可能なくらいの仕事があるだけ。
 だから、それ以上のことは求めないで欲しい。やる気だの、積極性だの、愛情だのといった、陽性の感情を。
 ……それは、僕に対して「死ね」と言っているの同じことなのだから。

 僕のことはとりあえず置いておいて、ともかくも「ひきこもり」について、ちょっと一言しておくことにする。
 僕が「個人的」に感じるところの、「個人的」な問題としての「ひきこもり」について。
 
 まず最初に、はっきり言ってそれは、「救いのない状態」である。
 時々、ニュースで話題になったりするけど、どう考えてもそこに、肯定的な意味や、どんな種類の前向きさも含まれてはいない。
 ひたすら暗く、醜く、虚ろなだけの状態。
 テレビの特集なんかでやられた日には、死ぬほどしんどくなってしまう。
 そんなことわかってるけど、どうすりゃいいんだよ、と。
 
 ろくでなしが増えたから、ひきこもりも増えた――
 というのは、どれくらい正しいのかはよくわからない。
 人間の本質がそう簡単に変わるわけはないから、数が増えているのは「個人的」な問題ではない、とも言える。
 人体の構造や、脳みその仕組みは、基本的には不変である。幸いにして、あるいは不幸にして、人間はたぶん、相当長いこと「人間」をやり続けている。
 古代エジプトの老人が、今時の若者について嘆いているように。
 個人が変わらないとなると、変化しているのは社会のほうだということになる。
 つまりそれは、「社会的」な問題なのだと。
 だから、社会的に支援をしようという話にもなる。ひきこもりは社会に問題があるから、社会が解決しなくてはならない。
 
 では、社会はひきこもりを救えるのか?
 正直なところ、「無理」なんじゃないかと思っている。
 少なくとも、個人的にはそれでどうにかなるとは思えない。
 そもそも、ひきこもりというのは社会がしんどくて、そこから逃げた結果なのである。それを社会が救おうというのは、本末転倒というか、熱湯を使って体温を下げようとする行為に似ているというか……
 
 ひきこもりというのは、人の助けを借りにくい状態でもある。
 たぶんそれは、「個人が露出している」せいじゃないか、と思う。
 その人は、基本的に「何者」でもない。社会的な肩書きが一切ない。ただ、その人なだけである。世界に対して、完全に一人で存在しているのである。ある意味では、逆説的に。
 何故、人は働かなければならないのか、という問いに、ある人がいわく、「労働というのは、社会を利用するためのパスポートなのだ」というようなのがあった。
 あまり詳しくは覚えていないけれど、確かそういうことだった。その本質は、賃金や、貢献や、必要性よりも、社会に対する一種のペルソナにある、と。
 これは何となく、理解できることでもある。
 テレビで誰かを紹介する場合、大抵は肩書きとして職業がつく。それは社会的な認知が職業を通してなされることを意味する。
 そしてそれがないということは、その人物が社会的には存在しない……認知しえないことを意味する。もっと露骨に言うなら、不必要なのだ。そこまでいかないとしても、いてもいなくても変わらない存在、ということになる。
 
 社会的に何者でもない以上、その人は世界の諸々を自分だけで支えるしかない。
 そこでは一切の言い訳や、釈明や、泣訴は受けつけられない。
 忙しいから、疲れているから――働いているから、そんなふうには。
 となると、当然ながら「きつい」状態になる。自分の弱さや、傷口や、柔らかな部分を守るものはなく、それらはすべて剥きだしの状態にならざるをえないのだから。
 そんな時に、社会的支援なんぞ受けられるだろうか?
 社会的支援というのは、端的に言って個人を破壊する行為でもある。もう少し丁寧に言えば、個人を「個人」から「社会」に所属させようとする行為である。
 個人が露出した、個人でしかない人間を、社会に引っぱりだそうとする。もしも、公道で裸の人間がいれば、普通は誰でも眉をひそめるだろう。
 けれど社会的支援というのは、それをやれ、と言っているのに等しいのである。
 身の守りかたも知らない人間に、戦場に立て、と言っているのに等しいのである。
 
 ……もう一つ、社会的支援を受けにくいのは、それが一方的な「借り」になってしまうからだろう。
 ひきこもりなんて、そもそも「借り」しかない状態である。自分で自分の生命さえ賄えないのだから、とやかく言う権利なんて存在しない。自分の生存を(程度の問題とはいえ)他人に依存しているのだから、はっきり言ってそれは、奴隷に等しい。
 「借り」のある人間は、「貸し」のある人間と対等ではいられない。
 攻撃性や、暴力や暴言、悪態、無視、蔑笑、皮肉というのは、結局のところは自衛のための空しい手段でしかない。彼らは、もうそうやってしか自分を守ることができない。
 あるいはもう、そんな力さえなくなって、植物のようにエネルギーを節約して、無反応でいることしか。
 
 ひきこもりというのは、自分が自分自身でしかいられない状態である。
 そこには、ほかのものを入れるスペースは存在しない。彼らは、最後の最後に残った、極小の「自分の部屋」で何とか自分を支えている。
 彼らはそこで、無力感だの劣等感だの絶望感だのに対して、日々、直面・直視・直結せざるをえないでいる。
 その場所にまで他人が入りこんできたとき、その人はもう「自分ですらいられない」。
 ある意味でそれは、「とどめ」に等しいとしか言えない。
 
 社会的支援によって社会復帰を目指す、というのは、「正しい」としても「不可能」というしかない。
 逆効果だし、ハードルが高すぎるし、そもそもそこに意味性を見出せない。
 明らかに、死んだほうがましである。「コスパ的」に言って、そうなるのである。
 例えその人がなけなしの勇気を絞ったとしても、残念ながらその勇気の量はたかがしれている。その知識の範囲は、現実に対して偏向しすぎている。
 実際、そうなのだ。
 「普通」とか「当たり前」というのは、それほど普通でも当たり前でもない。
 その根拠や経路を理解できていなければ、他人とそれを共有するのは難しい。しかも、一般常識や、年齢的な要求としてそれが前提として必要とされるならば、事態は絶望的というしかない。
 要するに、「何でそんなことも知らないの?」ということになる。
 しかし、知らないのだ――本当に、知らないのだ。
 
 時間をかければ、こうした問題は解決可能ではある。
 社会スキルだの、職業訓練だの、挨拶の仕方だの、ネクタイの結び方だの、その他諸々。
 そうはいっても、本当に細々したことは実地にやってみなければわからないし、それはそれでしんどいものではある。一日のスケジュールを時間通りにこなすとか、タイムカードの切りかただとか、遅刻したときの言い訳とか。
 当然だけど、すべてが最初からうまくいきはしない。それはおかしなことじゃない。けれど、ひきこもりというのは被害妄想があるのが普通だから、耐えられないのだ。ちょっとしたことでも、すぐに僻んだり、迷ったり、傷ついたりしてしまう。
 ひきこもりというのは、失敗したときのダメージが人一倍というか、人十倍くらいは強い。
 それは常に、致命傷になりかねない。
 
 そもそも、何故働くのか?
 前述したとおり、それは「社会に対する一種のペルソナ」である。自分が何者かをてっとり早く示すための、社会インフラ・サービスを堂々と利用するための。
 ところが、ひきこもりはそもそも社会を否定している。否定はしていなくても、拒絶しているし、逃避しているし、無視している。
 つまるところ、働くことに「意味性」を持たせられない。それに耐えるだけの「理由」を用意することができない。
 構造的に、強度が足りないのである。
 足が一本しかない机に物は載せられない。バランスの悪い机にも物は載せられない。足が折れているようなら、物を載せた瞬間に、それは壊れてしまう。
 なら、どうやって「意味性」を持たせられるというのか?
 自前では用意できない。だからといって、誰がそんなものを保証してやることができるだろう? そんな――世界を支えてやるようなまねを。
 ソーシャルワーカー? まさか。
 そこまで期待するつもりはないし、期待すべきでもないと思う。それはあまりに虫がいい話だし、甘えがすぎるし、相手への負担が大きすぎる。
 というか、そんなことはしたくない。
 うまくいくはずがないのだから。正しいことでもないのだから。
 それは、どんなに見込みがなかろうと、可能性が低かろうと、自分で用意するしかないものなのだ。
 でないと、ひきこもりなんて治るはずがない。

 ひきこもりというのは、「甘え」や「怠け」に囚われてしまった状態でもある。
 もっと正確に言うなら、そうであることを「強制された状態」でもある、と思う。
 何故、そんなふうになってしまったのだろうか?
 
 一つは、人から甘やかされること(あるいは、その逆)があると思う。
 生物には適応性がある。空を飛ぶ必要がなければ、翼は退化する。光がなければ、視覚器官は退化する。あるいは、その逆のことが起こる。
 生命は案外、即物的な設計をされている。必要のないものは育たないし、不必要なものは投げ棄てられていく。
 だから当然、甘やかされていれば、甘えるようになる。
 ……じゃあそうじゃなかったら、今みたいになっていないのか、と言うと、それはよくわからない。変数が多すぎるし、運命は複雑すぎる。
 とはいえ、甘やかされていると、自分で何かをすることが「いけないこと」になってしまう、というのは間違いない。甘やかすというのは、基本的にはそういうことである。相手を自分の言いなりにしてしまうこと。
 殴られれば、まだそれを防ごうとするかもしれないけれど、優しく頭をなでられたとき、誰がそれを振り払えるだろう?
 しかし結局のところ、それは主体性の抑圧でもある。それがどれだけ善意によるものだろうと、どれだけの愛情によるものだろうと。
 それは、本人の意志を奪うことでもある。
 
 そうしたスポイルというのは、特に母親によく見られることだと思う。
 子供の意志を汲んで、それを先回りしてしまう。彼/彼女が意思表明を行う前に、それを実現してしまう。
 まるで、本人に意志がないかのように。
 要するに、過保護なのである。てっとり早く、そう言ってよければ。
 たぶん母親というのは、本能的に「世話をする対象」を求めているのかもしれない。そうすることで、自分の価値や役割を満足させているようなところが。
 あるいは、そういう社会的な圧力が存在するのか――
 いや、しかしこれはもっと生理的なことだと思う。例の、赤ん坊はみんなかわいい、というのと同じようなレベルで。
 
 ともかく、まあまあひどい言いかただとは思うけど、これは事実だと思う。
 彼女たちは、誰かの世話をすることで自分の価値を認識する。それは同時に、自分の優越性を保持する快感でもあるかもしれない。
 その対象が、特に幼い我が子ともなると――
 けれどそれは、相手を「支配する」ことと変わらない。
 その根底にあるのは、相手には無力なままでいてもらいたい、ということでもある。そのほうが都合がいいわけである。相手が自分で何でもするようなら、自分が存在する必要はない。
 それに、相手が人形でいてくれれば、それを様々な形で利用することもできる。自分の痛みや、傷口や、ストレスを処理するために。
 確か、ニーチェが言ってたと思うのだけど、こんな言葉がある。
「――母親は自分の子供を見るのではない、子供の中の自分を見るのだ」
 
 誰かの世話をするというのは、献身であると同時に、相手を自分のもとに留めておこうとするエゴでもある。相手を自分のコントロールに置こうとするような。
 相手に対してコントロールがきかなければ、当然ながらそれは不満や、ストレスや、葛藤や、憎悪にもつながっていく。母親はエネルギーを失う。
 もちろん、すべてはバランスの問題でもある。放任が最適である、というつもりはない。というか、それは過保護とほぼ同一の効果しか生まない。
 手助けは、適切な場所やタイミングであることが肝要になる。啐啄一致の言葉通りに。
 
 甘やかされておいて、甘えておいて、それを非難したり、不満を持ったりするのは、かなり自分勝手というか、傲慢な行為ではある。
 僕としても、そういうのはかなりアホらしいとは思う。引け目もあるし、羞恥もあるし、情けなくもある。
 とはいえ、僕は母親の世話になるために存在しているわけじゃない。彼女を満足させるために存在しているわけでもない。
 もしも子供を育てる人がいるなら、そのことには気をつけてほしい。
 「甘やかす」というのは、子供の主体性を破壊することでもある。相手が、自分なしでは存在できないような、してはいけないような、そんな思考を刷り込む行為でもある。
 僕は今、よくそのことを考える。

 人の助けを受けにくい以上、最善・最適・最後の方法は、「自助努力」ということになる。
 実際のところ、そうするしかない。
 そしてたぶん、それが一番簡単な方法かもしれない。
 もしも誰かの助けを借りるつもりなら、かなりの部分を「諦めてしまう」覚悟がいる。相手に完全に身を委ねて、頼って、自分を白紙に戻す必要が。自分を一からやり直す必要が。
 本当にもう、どうにもならないところまで行ってしまったなら、たぶんそのほうがいいのだろう。もう壊れてしまうしかないなら、壊してしまうしかないなら。
 けれど、それができないなら、まだやれることがあるなら、やはり自分で何とかするしかない。
 
 自助努力でおすすめなのは、金銭的な目標を立てることだと思う。
 生活に必要な経済性を、自分の力で確保する。
 実際、自分で自分の食い扶持さえ稼いでいれば、人はその人のことをほとんど問題にはしないだろう。
 その目標さえ達成できれば、とりあえずは「自由」でいられる。非難や、批判や、軽蔑から、とりあえずは解放されることになる――完全にではないにしろ。
 年百万というのが、それに十分かどうかは不明ではあるけれど。
 
 その時に、何らかの仕事につくなら、できるだけ人づきあいの薄いものがいいかもしれない。
 しゃべったり、協力したり、世間話をしたりせずにすむような仕事。好きなだけ考えごとのできるような仕事。
 それではいけない、と言う人もいるかもしれない。失われた社会性を回復することこそが、重要なのだ、と。
 しかし、そんなのはくそくらえだ。
 唯一にして最低限の目標は、生存である。
 そのためには、できるかぎりハードルを低くする必要がある。未来だの人生だの、そんな贅沢は言っていられない。
 もしも再び友達が欲しいのなら、誰かと笑いあいたいなら、その人はそれを目標にすればいいと思う。
 けど、僕はそうじゃない。
 僕はそんなことは望めない。どれだけ努力しても、そこに意味性を見出せないから。
 
 それから、もしも誰かの助けを受けることがあるなら、忠告を一つ。
 与える側にも、受ける側にも。
 助けというのは、所詮は助けでしかない、ということを双方が理解しておくべきだ。
 甘やかされてきた人間というのは、どうしても相手に甘えようとしてしまう。犬が、餌をくれた人間におもねるみたいに。習い性というのは、簡単に直ったりはしない。
 これは、双方にとって不幸なことになりうる。
 直截的な言いかたをすると「勘違い」をしてしまうことになるからだ。
 助けを受ける側は、何でも要求していいのかのように考えてしまう。ごくごくつまらない些事や、正当な範囲を越えたところにまで。
 けれど、助けを与える側にしても、限界というものがある。神様じゃないのだ。今日の運勢や、靴の履きかたまで教えてやれるはずがない。
 ところが、受ける側としては、「勘違い」せざるをえないところがある。何でもかんでも、甘えていいのだ、と。
 そうなると、当然面倒なことになる。
 ある時点に達すれば、もう助けは与えられなくなる。ところがそれは、受ける側にとっては裏切られたことや、今までと何も違わないのだ、というような挫折につながってしまう恐れがある。それがどれだけ不当なものや、限界を越えたものだったとしても。
 それは、間違っているとか、正しくないとか、そういう問題ではない。そういうものなのである。投げたボールが落ちてくるくらい、どうしようもないことなのである。
 というわけで、もしもそういう機会があったとしたら、双方ともに注意して欲しい。
 これは、「どこまででも助ける」なんて気軽に答えていいほど、単純な問題ではない。限界はある。その事実を無視しても、何のメリットもない。
 どこまでができることで、どこまでができないことなのかを、はっきりさせておく必要はある。
 ある意味では、ファミレスのメニューみたいに。あくまで即物的に、あくまで具体的に。
 「勘違い」をしないですむ程度に。

 ――ここで、ちょっと余談。
 「寛容な社会」という文句が、まるで流行り言葉みたいに繰り返されている。
 もちろん、そのことに反対はしない。寛容は、社会にとって重要な資質である。差別や、憎悪や、戦争をよしとする人間はいない(――少ない、と言うべきかもしれない)。
 でも、どれくらい「本当のこと」がわかっているのか、というのは疑問である。
 寛容というのは、本当はどうあることなのか。
 たぶんそれは、「苦しみ」に対する寛容なのだろう。
 本人の努力では、運命では、どうにもならないこと――そういうものに対する寛容さ。それを許し、存在を受容すること。
 
 その時、少し気持ち悪く思うのは、まるで誰もがそれを「理解できること」としてしゃべっていることである。
 性的マイノリティーや、身体障害者や、難民、難病患者、うつ病その他の精神疾患――そういうものを、理解可能であるかのように扱うこと。
 正直なところ、それは無理だと思う。本当にはわからない、わかるはずがない。それがわかるのは、当人だけだ。その苦しみを苦しんでいるのは、当人だけだ。
 そしてもっと気持ち悪いのは、それをまるで「理解しなくてはいけないこと」としてしゃべっていること。
 他人のことが、そんなに簡単に理解できるわけがない。そうするためには、みんな忙しすぎるし、余力がなさすぎるし、関心もなさすぎる。
 あなたはALS(筋萎縮性側索硬化症)についてどれくらい知っていますか?
 例のバケツチャレンジはどうなったんだろう? かく言う僕だって、その病気のことは『宇宙兄弟』くらいでしか知らない。それがいつか、石になったように身動きができなくなり、呼吸さえできなくなり、最後には心臓そのものがとまってしまうものだとしか。
 あなたは、日常の中で無反動砲が飛びかったり、幻聴が聞こえたり、車イスで生活をしたり、無意味な暴力にさらされていたり、自分自身に身体的な違和感を持つことについて、どれくらい知っていますか?
 
 僕たちにできるのは、せいぜい節度を持って、礼儀正しくやる≠アとだけだと思う。
 偽善より、そのほうがよっぽどましだ。
 「わかったふり」をされるよりは、よっぽどましだ。
 本当のことを知ろうと思えば、相応の時間と、労力と、決意が必要になる。でもそれは、はっきり言って難しい。
 重要なのは、「わからない」時にどうするか、だと思う。

 ついでにもう一つ、余談に近いこと。
 「境界性パーソナリティ障害」という言葉を知っていますか?
 いわゆる精神疾患の一つで、摂食障害だの睡眠障害だの適応障害だのと、同じ扱いの障害になる。
 この手の障害の中には、悪夢障害なんて魅力的(?)な名称のものもある。
 精神疾患を「病気」と呼んでいいのかどうか、そもそも「病気」とは何か、というのは気になるところだけど、主題ではないのでここでは放置する。
 病気観の問題というのは、かなり根本的な、重大な点のような気はするけれど――まあ、どうしようもない。第一、こういう障害は血液型占いと同じで、誰の場合でもある程度は当てはまるものでもある。
 
 で、「境界性パーソナリティ障害」。
 かなりわかりにくい名称だけど、この精神疾患についての診断が、自分に対してわりとよくあてはまっている気がしている。
 不安定な気分、不安定な対人関係、自傷、怒り、空虚感――
 もっとも、そこまで重篤でもないし、極端でもない。第一、症例を見ていると、いわゆる「メンヘラ」と言われるものに近いのだけど、そこまではいかない。
 それでも、いくつかの特徴はすんなり理解することができる。
 回避性、依存性、強迫性。
 失敗や挫折を恐れて重要な責任は避ける、相手の顔色をうかがって自分の意見は抑制する、完全であることにのみ意味性を求める、などなど。
 
 「境界性」という言葉のせいでややこしくなっているけど、これは神経症と精神病のあいだ、という意味で使われている。
 要するに、境界性の状態に陥ることが問題なのである。そこまで行くと、障害として診断される。
 そういうのは障害の機序を理解したり、専門家には意味があるのだろうけど、ぱっと見では何のことかさっぱりではある。睡眠障害、というほどわかりやすくはない。
 けどこの障害は、僕は要するに「主体性を喪失した状態」なんじゃないかと思っている。自己像が不安定で、自分に対しても他人に対しても、「正常」な態度をとることができない。
 
 主体性がないというのは、「自分のことがわからない」と言ってもいい。それはもっと即物的な言いかたをすると、「自分の本当の気持ちがわからない」ということである。
 その状態でいると、何をしても「しっくりこない」ことになる。何しろ、自分がそれを本当に望んでいるのか、それで本当に後悔や嫌な思いをしないのかがわからないのだから。
 主体性がないというのは、世界に意味がないということでもある。
 あるいは、その逆か――
 
 もっとも、こんなのは素人の理解だし、自分が「境界性パーソナリティ障害」なんだと言うつもりはない。
 この手のことは、自己診断ほどあてにならないものはない。人は時々、自分のことを病気だと思いたがる。
 それでもまあ、自分を理解するための一つのヒントくらいにはなるのではないか、という気はしている。それが血液型占い程度の信頼性であったとしても。

 さて、最後に。
 ――たぶん、僕は腹を立てているのだと思う。
 今の自分に対して、自分をそんなふうにしてまった諸々に対して。
 僕の言っていることは不当だろうか?
 はっきり言って、そうだと思う。
 僕は何もしなかった。僕は勇気を出さなかった。僕は一歩を踏みださなかった。
 何もしなかった人間に、何かをした人間を責める資格はない。
 でも、腹を立てるくらいの権利は僕にだってあるはずだ。
 
 僕の状態というのは、バランスの悪い小舟に乗っているようなものである。
 近くでちょっとした波が立っただけで、誰かがそばまで漕ぎよせてきただけで、それは簡単に転覆してしまう。
 それがどんなに小さなものでも、どんなに静かに行われたとしても。
 関係性そのものが、僕を混乱させ、不安定にする。
 どこかで書いた気もするけど、誉められるのも貶されるのも、僕にとっては同じくらいしんどいことである――もちろん、貶されるほうが。
 それは、僕の乗っている小舟をぐらぐらと揺らす。
 
 それなのに、人はそのこと自体を責めてくる。
 弱いことを、卑屈なことを、不安定なことを。
 もっと強くなれ、と。もっとしっかりしろ、と。
 長々と考えたすえ、僕自身はたぶん、そのことに――腹を立てている。その要求の無神経さを、難しさを、無理解さを。
 例えその腹立ちに、正当性も、論理性も、救いもないとしても。
 
 僕の最終的な結論は「ほっとけ!」である。
 ……そうとしか言いようがない、残念ながら。
 考えるのも嫌なら、見るのも嫌なら、せめて「ほっとけ」と思う。罵ることしか、苛立つことしか、勘違いすることしかできないのなら、「ほっとけ」と。
 僕自身としても、そのほうがずっとましだと思う。
 そのほうが傷つかずに、不安定にならずに、混乱せずにすむことができる。
 というか、そうでないと書いていることさえできなくなってしまう――
 
 現在、僕は一応は働いている。ひきこもりの人間としては、これはまあまあ好意的に見てもいいことだとは思う。
 とはいえ、はっきり言ってその状態は治ってなどいない。心性としては、相変わらずひきこもりのままだと言っていい。
 僕はこの「世界」に「現実」に、あまり「意味性」を持たせることができずにいる。
 それが何故なのかは、自分でもいまだによくわからない。
 ――主体性がないから、意味性がないのか。
 ――意味性がないから、主体性がないのか。
 僕としては、どちらかというと後者のような気がしている。もっとも、そう思うこと自体が主体性のなさを示しているのかもしれないけれど。
 
 もう一度言うと、僕の望みは放っておいてもらうことである。
 愛も、親切も、社会的支援も、きっと僕を傷つけるだけだから。
 もちろん、すべてがすっかり変化してしまうこともありうる――そういう奇跡≠ェ起こる可能性も。
 何しろ、ここはまだ「試されている可能性」なのだから。

 ――もしもできるなら、どうか僕を憐れんで欲しい。
 この世界への憎悪を、この世界への愛を、どうか奪わないで欲しい。どうか壊さないで欲しい。
 「生まれてきてしまったもの」に対する、共感や憐憫や寛容があるなら。
 そういうふうにしか、僕は生きられないのだから。
 
 僕が望んでいるのは、僕に唯一望めるのは、その方法を考えることだけである。
 誰とも関わらないこと、誰にも傷つけられないこと、誰にも迷惑をかけないこと。
 それがアホらしい望みなのは認める、正直間違っているとも思う、不可能だとも。
 でも、それ以外に方法はない。
 ――ない、のだ。
 僕が求めているのは、僕が欲しいのは、ただ「平和で静かで、孤独なところ」なのだから。

戻る