[自動列車]

 聖夜祭だった。新年を祝うそのお祭りの日、奇妙に寄せ集められたその五人と一つは、行き先の分からない列車の中にいた。
 世界の端っこに、二度と起こらない偶然で集合したそれらの、これは物語。

「自己紹介からはじめませんか?」
 と言ったのは、丸い眼鏡をかけた温和そうな二十代の青年だった。好奇心を奥底に秘めたような瞳は、彼の探究心の強さを表しているようだったが、同時に軽くカーブを描いた眉は、人の良さそうな印象をも与える。
 彼は自らを学者≠ニ名のった。
「学者といっても、どこかの助教授でも、教授でもありません。ただの学者です。興味を持ったことなら何でも調べます」
「せっかくだけど、私は自己紹介するつもりはないね」
 と言ったのは、手すりの近くに立っていた若い女だった。ややつりあがった眦は、固く引き結ばされた唇とあいまって、刃物のような鋭い印象を与えた。
「別に構わないと思いますが」
 それに反論したのは、最初に提案を行った学者≠ゥら右前方に向かい合った形で長いシートに座っている、学者≠謔閧ずかに年若と思える青年だった。茫洋とした瞳と、自分の姿に気を使わぬ風が奇妙なふうに感じられる青年である。
「僕たちは皆引き寄せられるようにこの列車に乗り込み、そしておそらく誰一人この列車の行く先も、何故動いているのかも知らないんです。となれば、この先どうなるか分からない以上、互いのことを知っておく必要はあると思います」
「賛成だな」
 ぼそりと言ったのは、その青年からやや離れて同じ席に座っている人物だった。ぶかぶかの服を着てニットの帽子を目深にかぶったその姿は、年齢、性別共に不明だった。
「ごたくはいい。私は不承知だと言っている」
「けど六人の人間がこうして集まってしまった以上……」
「殺し屋≠ゥ」
 ガタン、ゴトンと列車がかすかに音を立てた。地下の暗がりを走り続けていることは、それによってようやく知ることができた。
「なんだと?」
「あんたの頭の中を読んだ。おそらく状況はあんたが思っているよりも深刻だよ。協力してもらわないとな」
「能力者≠ゥ。噂に聞いたことがある」
 反吐を吐くように殺し屋≠ェ言った。触れれば切れるかと思えるほどの視線を能力者≠ノ向けたが、能力者≠ヘ意に介した様子すら、否、それに気づいた素振りさえ見せずに言った。
「その人の言ったとおり、私は能力者=B人の心を読むことと、虫の知らせ程度の予知能力を持っている。無闇に諸君の心を読むつもりはない、が詐称の場合はその例ではない」
「おもしろいですね。学者≠ノ殺し屋≠ノ能力者≠ナすか」
 と、おどけるように言ったのは背もたれに座って席に足を置いていた人物である。しかしそう言いながら、奇妙に集まったこの六つの意思体の中で、この人物こそが一等、奇抜であった。
 彼は体の指先から肘、足首、そして首にさえも関節の継ぎ目が見え、何よりその格好は誰がどう見てもサーカスで見かける道化≠ネのであった。
「僕のことはそう、道化≠ニ呼んでください。まだ生まれて間もない身ですが、そのことは今ここでなく、おいおい話していくことにしましょう」
 と、おどけて言い切った道化≠ノ、質問しようというものはいなかった。もはや事態は予想だにしないほど奇妙に、運命の神々でさえ扱いかねるほどに歪んでいるようでもあったからである。
「紹介が遅れましたが、といってもこれは厳密には紹介とはいえないかもしれません」
 としゃべりはじめたのは、先程殺し屋≠フ反対に対していちはやく異を唱えたあの青年であった。
「というのも、僕は記憶喪失の人間であるからです。そうですね……忘却者≠ニでも呼んでください。僕が失ったのは、記憶というよりは過去というべきかもしれません。言葉や簡単な動作に関する記憶は失わずに、自分が何者で何をしていたのかという記憶だけをまったく失ってしまいました」
「それはいつのことですか?」
 と、学者≠ェ興味深い事例に眼を光らせるようにして訊ねる。
「一年ほど前です」
「確かに新聞で紹介されていた気もしますね。飛行機事故で、唯一の生存者とか。一体、飛行機の中でなにがあったのか、もはやこの地上にいるものには誰もわからなくなってしまった、と」
「そうです」
 その忘却者≠ヘ、事実それがまったくの他人事といってよいとはいえ、いささかの確執すらそこにこめずに言い切った。
「学者=A殺し屋=A能力者=A道化=A忘却者≠ニ一そろいそろったところで、最後の一人に紹介していただくとしましょうか」
 と、道化≠ェそちらを向いたのは、この一団の中で最も少年で、まだ十四、五歳ともとれる少年であった。彼はほとんど身じろぎも、また道化≠フ言葉に対するいかなる反応も見せなかったが、やがて小さな、しかし意外に澄んだ声で語り始めた。
「僕は魂を半分置き忘れてきた℃メです。僕が生まれた時、僕とまったく同じともいうべき存在が僕と同時に生まれるはずでしたが、突然の地震といくつかの不幸によってそれは適わなくなりました。しかし僕は生まれる以前、へその緒という命の絆によって母親と全一につながっている時、自分とまったく同じ存在が隣にいることに気づき、小さな、原初的な会話を互いに行っていたのです。僕らは「言葉」には出来ようもない、魂がかすかに音を立てるだけのような会話を交わしながら、そこにほんの小さな「自己」の息づいていることに気づき、一つの約束を交わしました。それは互いに魂を二つに分けあい、それを交換することでした。ある生物学者の言った、生物が己の遺伝子を残そうとするということを越えて、僕らは魂の残存をかけて、この行為を行ったのです。僕らの魂はそうしていわば、「二重」に守られるはずでしたが、最初に言ったとおり僕の魂の半分と、そして僕とまったく同一といっていいその存在は、生まれてくるはずの場所を失って永久永遠に失われてしまったのです」
 はじめから終りまで何の感興も交えずにそう言った少年は、さながら貝が一瞬の波の引き際に姿を現し、またすぐ姿を隠すかのように口を閉ざしたのだった。
「ふうむ、これはなかなか興味深い話ですね。魂の半分を交換しあい、そして互いを補うように存在するはずだった、つまり一卵性双生児であったもう一方の双子を失ってしまった君は、魂を半分置き忘れてきた≠ニいうわけですね。とすると、君のことは喪失者≠ニ呼ぶべきかもしれませんね。むろん、さしつかえなければ、ですが」
 と言った学者≠ノ対して異論を唱えるものは、当の喪失者≠ニ命名された少年をも含めて、むろんこの場にいるはずもなかった。
「それではこうして紹介の終わったところで、改めて状況の確認を行いたいと思います」
 と引き続き学者≠ェ一同を見回しながら言った。
「おそらく全員がそうだと思うのですが、私たちは西区行きの地下鉄に乗るべくホームを目指したはずです。地上で行われている聖夜祭のため、わざわざ暗い地下に降りる人はいないらしく、人っ子一人、まさしく死の国のごとく、そこには誰もいませんでした。そうして切符を買い、無人の改札を抜けた私たちは蛾が、その身を燃やすとも知らずに炎へと近づくように、その階段を降り、そしてこの列車に乗り込みました。六人がそろうと、まるでそれを待ち構えていたかのように列車のドアは閉まり、行き先も告げぬ間に出発した」
 学者≠ヘそう言うと、他の五人の反応を待つように言葉を切った。
「そうです。それで概ね間違いはないと思います」
 と答えたのは、この中でも学者≠ニともに唯一良識者と呼べそうな忘却者≠ナあった。
「この列車については、どう考えますか? ごく普通の地下鉄と様子はさほど違いませんね。そして進行方向に運転席がありますが、運転手はいません。つまり、この列車に乗っているのは僕たち六人だけということです」
「殺し屋≠ウんはどう考えますか?」
 と学者≠ヘ手すりにもたれてほとんど不動のまま立っている殺し屋≠ノ話を向けてみた。
「残念ながらこの列車を止めることができないのは確かだね」
「どうしてですか?」
「簡単だ。そこの運転席に通じる扉を開けられないからさ。最近の地下鉄の扉は頑丈でね。ちょっとやそっとじゃ開かないのさ。さっき試してみたが、鍵も開けられないね」
 と言ったのは、列車が出発した直後に彼女がドアに近づいた一瞬の所作に行われたことらしかった。
「つまり僕たちは閉じ込められて、木の葉が水を漂うように行き先も分からずにただ無力なのと同じに、こうしている他ない、ということですか」
 あくまでおどけた調子を崩さぬ道化≠フ言葉は、その様子とは裏腹に一種の正確な真理をすら言い当てていたのだった。
「あんたの予知能力とやらで何とかならないのかい?」
 と訊ねた殺し屋≠ノ対して、能力者≠ヘこの世界そのものをせせら笑うように答えたのである。
「さっきも言ったように、私の予知能力は虫の知らせ£度のものだ。しかしそれすら、虫の声が大きすぎる≠スめか、ほとんど詳細は失われて、ただ今までに一瞬一度たりとてなかった何かが行われつつあるのだということしか分からんね。そうしてそれ≠ヘあんたが思っているようなあんたの対立組織の策略などでも、ここの誰かをおとしめようとするものでもない。それはいわば、神の手≠ノよるものかもしない」
 それに対して異を唱えたのは学者≠ナあった。
「抽象的な議論ですが、しかしこの列車や、列車が走るトンネルやレールは当然ながら誰かが作ったものでしょう。とすれば、やはり誰かの意志によって……」
「死んでいるのかもしれない」
 ぽつりと投げかけられた言葉は、しかし完全無音の世界に、水滴の作った水滴の、その小さな音ですら拡散するように、かすかな振動を続けて走る列車の中へと広がった。
「僕らはもう、死んでいるのかもしれない」
 と、魂を半分失い、いわば半分の死≠体験したであろう喪失者≠ヘ、改めて無感動に言うのであった。
「はっは、それは面白いですね。とすると、まだ生まれて≠烽「ないはずの僕が死んだ≠ニいうことになりますね。というのはいいですか、道化≠ニ僕が名のり、また僕の外見を見ての通り、僕はあるサーカスの一団にあったピエロの人形なのですよ。そう、上から糸で操られなければ自ら動くことすら叶わない憐れな存在が僕です。自慢するだめでなく言うのですが、僕は大変な人気者でしたよ。どんな不機嫌な人間でも陽気に笑わせ、時に哀愁を込めた無言劇は、それこそ生きているようだとさえ、いえそれ以上だとも言われたのです。とはいえもちろん、それは私を操る糸の先に人間がいるためでした。私は彼が操り糸を持つ間だけ命を持ち、彼が手を離せばまたそれも失われたわけですが、しかしいつの頃からか私はこう考えるようになりました。つまり、あまりに精巧緻密に動く僕に対し、僕自身が『もしかしたら操られている人形である僕こそが、その実その僕を操っている彼を操っているのではないか』と。ここに命を与えるものと与えられるものの逆転が図られたのです。そのために僕はある日、自身の右の人さし指を動かしてみたのですよ。それは操り人形たる存在としては、もはや背徳とも、自己否定ともいってよい行為でした。僕は決して油切れして間接が動かしづらいわけでないにもかかわらず、ぎぎぎと震える指先をそっと動かしたのです。その瞬間、僕は操られるだけの人形ではない、一個の意志を持った生命へとなったのでした。魂の大転換がなされたわけです。その僕に果たしてすべての生物にあまねくやってくるところの死≠ェ訪れるかどうか、これはなかなか面白いところですよ」
「完全に死んだというわけではありません」
 と道化≠フ長い告白に対し、喪失者≠スる少年はあくまで無感動であるようだった。
「いわば魂に近しいところ≠ノ僕らはいるのです」
「ふうむ、確かにだとすれば、この列車の不可解さについては説明できる……、というより、説明不可能であることの証左によって説明される、と言うべきかもしれませんね」
 と学者≠ェ述べたのに対し、かといって本人も納得してはいないようではあったが、直ちに承認しようというものはいなかった。
「魂≠ネんていう奇妙な言い回しに対しては、ここにいる同じくらい奇妙な能力者≠ウんに訊いてみるのがいいんじゃないかね」
 と皮肉めいた調子で言った殺し屋≠ノ対し、性別不詳の能力者≠ヘそれに答えるでもなく言ったのである。
「生死の境≠感知するほどの能力は非常に複雑なもので、私は持ちあわせてはいない。人間の心≠ニ魂≠ヘ似て非なるものだ。私が関与するのは心≠フほうであって、それはより可視的で可言的なものだよ」
「心と魂は別のものなんですか?」
 能力者≠ノ対して質問したのは、その心≠ニいうべきものを一瞬で作り変えられてしまったともいえる忘却者≠ナあった。
「そう、違う。私は心≠ノついては確かに漠然とだが一人一人に備わっているのを感じるし、それを読み取りもする。しかし、魂≠ノついては、私はその所在も存在も感得することはできない。私よりそれに近しい能力を持った人間に言わせると、魂≠ヘ存在というものの最も原子的で不可分な、最小にして絶対の規定なのだという。すなわち、存在以前の存在にして存在するもの≠アそが魂のなのだ、と」
 これに対し、殺し屋≠ヘある種の容赦のない笑いとでもいうべきものを発した。
「こいつはお笑いだね。現実離れした能力を授けられた人間は、やはり現実離れした妄想をするものらしい。いいさ。そんな現実離れをしたあんた達に、一つ面白い話をしてやるよ。それは私が殺し屋としてはまだ駆け出しで、ひよっこ同然だった頃の話さ。私はその頃、一人の男と組んで殺人の以来を請け負っていたが、ある組織からごく平凡な一家を殺害してほしいという依頼がやってきた。それは偶然にも組織に関する不利な情報を、知らぬうちに手に入れてしまったその一家の父親を殺すために、報復その他の事態を考慮した上で、一家すべてを惨殺してしまったほうが有効であると判断されたためだった。私と相棒にとって、それは非常にうまい話だったさ。仕事としてはこの上なく簡単で、危険もなく、そのくせ大金を手にすることができた。私たちはさっそく仕事に取りかかり、ある雨の日を選んで殺人を実行した。その時、家の地下室にいた最優先に抹殺すべきその家の父親を殺した私は、様子を見にやってくる家族を次々に、自分の死に気づく間も与えぬほどにすばやく殺し、そうしておそらくもともと避難用に作られたためであろう重い扉を開こうとして、それがぴくりとも動かないことに気づいた。私はその際、努めて冷静にある一つの事実だけを理解した。それは上で万が一に備えていた相棒が私を裏切り、ここに閉じ込めたということさ。他の可能性はまったく考える必要もなかった。そして私は自分が死ぬということに関し、その絶対確実性のあまり、わざわざ諦めるという行為を必要としないほどにすぐさま受け入れた。もちろん、私は今ここにこうしてしゃべっているように、後で助け出されている。しかし、それまでの間、正確には七日という時間を、私は私が殺したその元人間たちと向かいあって過ごすことになったのさ。物置代わりに使っていたであろう、狭いその一室で、明かりのスイッチが外につけられていたために電灯を消すこともできず、皓々と明るいその部屋に私はずっと座り込んでいた。私は合計五つの死体の前で、自分で自分を殺す気にすらならずにただぼんやりとしていた。死体のうち三つは目が開いたままで、そのうち一つ、娘のものはちょうど私をじっと見つめるような格好で横になっていた。けれど私は、奇妙とさえ思えることだが、その時どんな些細な感情すら抱いてはいなかった。恐怖も、憎悪も、絶望も、死≠ニいうものに人間が根源的に持つであろう何らかの感情さえ、私は一切感じることがなかった。やがて訪れた水の欠乏による幻覚症状が起こりはじめたはずの時にさえ、私はまるで幻覚らしい何ものをも見ることはなかった。私がその時に喪失していたものは、想像≠ウ。つまり分かるかい? この世界では事実≠ニいうのが確然と、何ものにもよらず事実≠ナあるということが、物事の存在性の実非を考えるまでもなく、事実≠ニいうのは何の変化のしようもなく事実≠ネんだよ。過去というものがなんらの力も借りずに過去であり続ける限り、この絶対原則が変わることはない」
 と、そう言いきった殺し屋≠ノ対し、すぐさま反応を示したのは学者≠セった。
「またまた興味深い話を聞きましたが、いささか整理して言うなら、魂≠ツまり存在することの不思議≠ノ対し、いわばそれを超越するものとして事実≠ェあるわけですね。簡潔にいうなら、存在性≠フ否定……」
 と、その時かすかな加重の変化が列車の一方へと加わり、背もたれに腰を下ろしていた道化≠ヘ危うく転倒しかけたのだった。それは列車が曲線に従ってカーブしたことを示していたのである。
「しかし、僕の経験したのはそれとは違うことですね」
 と話しはじめたのは、いわば二つの異なる存在を同一の存在として体験した忘却者≠セった。
「僕は最初に言ったように以前の記憶一切をなくしています。そしてまた奇妙なことですが、僕の過去を知る人間すべてもまた、この世界にはいないのです。まったく珍しいことに、僕は戸籍、治療記録、その他一切の僕に関する情報というものを持っていませんでした。飛行機の搭乗記録すら、どういうわけかなかったのです。それでも、僕は自分の事を僕≠ニいう存在であると認識することはできるのですが、しかしかって間違いなく存在したはずでありながら、その痕跡をまったく、そう完全完璧に塵芥さえ残していない僕以前の僕≠ノついて思う時、僕はまったく奇妙な思いにとらわれてしまうのです。それはつまり、完全にその存在を証明できるものを残さなかった、いわば不在の存在≠ニさえいえるその僕以前の僕≠ェ、今もどこかに存在しているのではないかという予感です。僕は、もはや別人とさえいってよいその僕以前の僕≠ニ現在の僕とが同一存在であるという、奇妙な、いわば二重存在性≠ニいうものを強く感じ続けているのです。この一種矛盾した不思議は、単にそれを事実≠ニしては簡略化しきれない、恐ろしい秘密をはらんだものであるような気が、僕にはします。つまり存在≠フ秘密は、ただそれを事実≠ナあるとして片付けてしまうには、あまりに複雑で、そうして奇怪なものでさえあるのです」
 そう言った忘却者≠ノ対し、考え深そうに次の発言を行ったのは、学者≠ナあった。
「ふうむ、不在の存在≠ニは、いってみればこの宇宙の根本原則であるまず存在する≠ニいうことへの恐るべき懐疑といってよいかもしれませんね。そう、こんな話を知っていますか? この宇宙のはじまりを想像し続けた科学者たちの中で、ついにこの宇宙が現在も広がり続けていると唱えるものがいました。その端は高速よりも速く広がっているために、高速を絶対にこえることの出来ないすべてのものにとって、その端は存在しないのと同じなのだそうです。しかし私は、この話を聞いた子供の時から、一体その端の向こう≠ノは何があるのかと想像し続けていました。そこにはすなわち、この世界で何も存在しない≠ニころに存在≠オている闇≠ウえもない世界で、いってみれば無限大の零によって占められている世界のなのです。私はその世界が一体どんなものなのか理解したいとずっと思い続けていましたが、それはむろん永劫究極絶対不可能な理解しえないという理解≠ウえもはねつけるものでした。しかし、もしかしたら……」
 と、なお続けようとする学者≠ノ対し、ある変化がその時、この誰の意志にもよらず走りはじめた列車に起こったのだった。
 すなわち列車はゆっくりとそのスピードをゆるめ、停止したのである。
 列車の中の六人、より正確には五人と一つは、この変化に対しすぐさま反応するものもなく、深海の底の底のような沈黙が辺りに漂うこととなった。窓の外を見るかぎり、そこはそれまでと同じ誰が何のために掘ったかすら分からぬトンネルの中で、特別変わったことはなんら見うけられないのだった。
「扉を、開けられませんか?」
 と卵の殻を踏むように慎重に言ったのは学者≠セった。それに対し、列車の扉に最も近くにいた殺し屋≠ェ、その言葉に従ってゆっくりと扉に手をかけ、少しずつ力を加えた。
 すると扉はかすかなモーターの回転音を迷惑そうに響かせながら、静かに開いていったのである。
 そうして半ば開いたとも、またそれにわずか足りぬとも分からぬ夢の境界のごとく曖昧な瞬間に、一切のものを闇≠ェ包んだのであった。
 その時、はるか遠くのロウソクのか細い光を見るような、そんなかすかながらも意識≠ニ呼べるものを持っていたのは、喪失者≠スるあの少年ただ一人だった。
 彼はこの突然の闇の中で、かといって彼の性質どおりに騒ぎ立てることもなくじっと事態の経過を待ち続けたのだった。
 しかし、この純粋な闇と眠りの一部であるような、かすかな意識の中では、時間に対する正確さは失われて、自分がここにいるのがたったの一秒ほどであるのか、それとももはや百年もたってしまったのかすら判然とはしなかった。
 喪失者≠スる少年はその夢見るようなもどかしくどうにもならない意識の中で、使い慣れたほんのわずかな部分を用いながら、今の事態や他の五人が一体どこへいってしまったのかについて考えてみた。
 けれどそれは、夢と現実が恐るべき錬金術の秘法で調合されてしまったこの空間では何の意味も持たなかったのであるが、それでもなお少年にはわずかに考える余地が存在するようにも思えたのである。
 そしてこうなる直前、あの学者≠ェ話していた何も存在しないことすら存在しない≠ニいう虚≠アそこれであると思い至ったのであった。それは絶望的なまでの混沌≠フ支配する世界だった。ここではすべてのものが、軽い水素原子であろうと重いウラン原子であろうと、また一人の人間としての個であろうと超巨大な赤色巨星であろうと、すべてが同一存在≠ナあり、また存在しないともいえるのである。
 それはまったく純粋な零にして無限の世界だった。
 喪失者≠スる少年は、その一片の容赦すらない混沌たる虚の世界で、何故自分だけがほんのか細くながらも意識を持っているのかと考えたが、それこそはあの生まれることすらなく死んだ一卵性双生児たる弟と共に失われた半分の魂≠ノよるものであった。
 すなわち失われたその半分の魂≠フ行き先こそがこの虚の世界≠ナあり、今ようやく一つとなった喪失者≠フ魂は、その結合によるかすかなエネルギーとでもいうべきものによって、意識を保ちえているのだった。
(そうなのだ)
 と彼はもはや正確な感覚にすらしようのない意識の中で、あえて言語化するならば、思ったのである。
(こここそが、魂≠フ行き着く場所。存在≠フ死んだ世界こそがここ。存在≠キら未分化なまますべてが存在する虚の世界=B宇宙の端の向こうにあるそここそがここだったのだ。
 そしてここにはまた存在∴ネ前の存在として、存在≠はらんだ虚の子宮でさえあるのだ。すなわちそれは……魂と呼ばれる存在≠フ循環を表しているのだ)

――Thanks for your reading.

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