1
見上げると、冬の青空が広がっている。それは濃い群青の、どこまでも続く色のついた世界だった。 「きれいな空だね――」 と、わたしは自分でも知らないうちにつぶやいていた。まるで、雪の一片(ひとひら)が偶然手の上に落ちてきたみたいに。 それに対して、意外にもみわちゃんからの返事があった。 「――ああ、きれいだな」 彼女は首筋をまっすぐのばし、何か大切なものでも受けとろうとするみたいに空を見上げていた。
それは世界が凍りついてしまいそうなくらいに寒い、冬の空に直接つながっているような屋上でのことだった――
2
教室には暖房がきいていて、冬の寒さをすっかり追い払ってしまっていた。元気のいいクラスメートになると、上着を脱いでしまっているくらいだ。一月も終わりで、季節は冬のまっただなかというところだったけれど。 「…………」 それでも朝礼前のこの時間、世界はまだ目覚めきっていないみたいだった。蛍光灯の明かりも、いつもより何割か暗く感じられる。窓の外には今にも雪の降ってきそうな鉛色の雲と、その下で身を縮ませる町の景色が広がっていた。 わたしは立ったまま、窓際で二人の友達と話をしていた。別にたいしたことじゃない。いつも通りの、他愛のない話だ。日常を健康的に通過させていくための、必要不可欠で儀式的な行為。 「――それでさ、忘れ物をとりに戻ったら、びっくりしちゃって」 「何で?」 「だってさ、そこに先輩がいたんだけど、二人とも距離が近くて。もしかして、あの二人……とか思ったわけ」 二人が交わす、テレビやら身近な人間関係やらの話題に耳を傾けつつ、わたしはふと教室の向こうのほうに目をやっていた。 そこには一人の女子生徒が座っていて、わたしの視線は自然と彼女のところに落ち着いていた。夜空を見上げたときに、特別な形をした星座に目をとめるみたいに。 ――彼女の名前は、藤梨美和(ふじなしみわ)といった。 鳥の巣みたいなひどい癖っ毛の髪をしていて、櫛を通すのにも苦労しそうだった。高校生の女の子としては平均的な背丈で、外見的にはその髪以外に特に目立ったところはない。鼻の形とか、耳の具合とか、あとは胸の大きさも。 ただ、彼女の瞳には不思議なほどぶれが少なくて、まじろぐということがなかった。いつも対象をまっすぐそのまま観察しているみたいで、それは何だか測量器具的な正確さを感じさせる。 彼女は自分の席に座って、一人で本を読んでいた。そのじっとさかげんは、何だかまわりの世界なんて存在していないようでもある。 「――ねえ、聞いてるの?」 しばらくのあいだ、わたしはそんな彼女の様子を眺めていたけど、声をかけられて現実に戻った。彼女だけが存在する世界から、彼女も含めて存在する世界へと。 そうして自分自身の中心を、日常を過不足なく通過させるための、他愛のないおしゃべりへと移行させる。最近できたばかりのお店とか、知りあいの噂話とか、こまごました家庭の出来事とか、そういったものへ。 けれど―― わたしの頭のどこかには、ついさっき見た彼女の姿が頑固な幻みたいにちらついていた。 その姿は不器用で、危なっかしくて、頑なで――何より、傷つきやすそうに見えた。
――彼女のことがそんなふうに気になっていたのは、先生から頼まれたせいというのもあった。 数日前、職員室に呼びだされたわたしは、何かと思っていたら、「最近、藤梨の様子はどんな感じだ?」と訊かれたのだ。 休み時間の職員室には、教室と同じでいろいろな物音にあふれていた。机に向かってペンを走らせる音、授業のことで質問に来た生徒の声、ストーブの上で薬缶の水が沸騰する音。 「……どんな、ってどういう意味ですか?」 わたしは質問の意図をはかりかねて、戸惑いながら訊き返した。わたしはクラス委員長というわけでもないし、ことさらクラスメートについての詮索を行うような立場でもなかったから。 「いや、何……」 と、クラスの担任教師である豊島(とよしま)先生は、指で鼻の頭を少しかいた。 「実は文芸部の池原(いけはら)先生から相談があってな。最近、藤梨のやつが部活に顔を見せないそうなんだ」 言われて、わたしは国語の先生である池原紗矢香(さやか)女史のことを思い浮かべた。若くて、美人で、いかにも才媛という感じの女性教師だった。でも、そのことを少しも鼻にかけたりはしない、親切な人でもある。ちなみに、胸も大きい。 「――――」 わたしはちょっと胡乱な目つきで、担任教師の顔を見る。もうすぐ中年にさしかかった、視力を矯正する必要のある人間が裸眼で見ないかぎりは、冴えているとは表現しにくい風貌。あまり格好がいいとは言えない野菜みたいな―― 「なんだ、そのカボチャの品定めでもするみたいな目は」 豊島先生は不満そうに唇をつきだして言った。どうやら、わたしが何を考えているのか十分にわかっているらしい。 わたしは軽く、ため息っぽいものをつきながら言う。 「……池原先生が美人だからって、これは職権乱用じゃないですか? いくら担任で、バレー部の顧問だからって」 わたしはバレー部に所属していて、豊島先生がその責任者なのだ。 「確かに池原先生は美人だが――」 その部分に関しては、否定しなかった。 「この話はそれとは別問題だ。俺はクラスの担任として、心配して言っているんだぞ」 わたしはあまり、無垢とはいえない目で先生のことを見た。先生にしてもあまり、それを期待しているようには見えなかった。 ――とはいえ、生徒のことを気にかけているというのは本当だろう。藤梨さんの様子がおかしいというのも。だから、 「けど、どうしてわたしに聞くんですか……?」 ずっと疑問に思っていたことを、わたしは訊いてみた。最初から、そのことが引っかかっていたのだ。 「沢本(さわもと)のやつから聞いたぞ」 と、豊島先生は言った。沢本杏子(きょうこ)はちょっとおしゃべりなところのあるクラスメートの女の子だ。わたしと同じく、バレー部の部員でもある。 「杏子が、何て言ったんですか?」 わたしが訊いてみると、先生はごく簡単に言った。教科書の年表に出てくる、歴史的な出来事みたいに。 「お前たちは小学校の頃、仲のいい友達同士だった――ってな」
確かに、わたしたちは友達だった。 ――小学校の頃、それはつまり、今から三年以上前のことだ。 仲がよかったというのも本当のことで、わたしたちはいっしょになってよく遊んでいた。具体的にそれがどんなふうだったかは思い出せないけど、それは間違いのないことだ。 でもいつ頃からか、わたしたちは疎遠になっていた。中学校に上がる頃には、もうほとんど没交渉といってもいいくらいだったと思う。 それがどうしてなのかは、わからない。 何かでこっぴどいケンカをしたわけでも、ひどい裏切りがあったわけでも、つまらない誤解をしたわけでもない。 気がついたら、そうなっていたのだ。大昔は一つだった大陸が、今はいくつにも分かれているみたいに。 わたしはその後、新しい友達を作って、新しい環境を築いて、その中でごく自然に生活をしていた。彼女のことは気にかけず、注意することもない。まるで、最初から彼女とは友達でもなんでもなかったみたいに。 考えてみると、それは少しだけ不思議なことだった。
――わたしはその頃、彼女のことを「みわちゃん」と呼んでいた。
3
雪が降っていた。 下校時間。朝から降っていた雨が、雪に変わったのだ。本格的な降り方というわけじゃない。たぶん、積もることもないだろう。ためらいがちで、ちょっと地上の様子を見にきただけ、という感じの雪だった。白くて小さなその塊は、地面に落ちたそばから溶けてなくなっていく。 わたしは普段、自転車通学をしているのだけど、今日はバスを利用していた。中には傘をさして自転車のペダルをこいでいる生徒もいるけれど、やっぱりそれはちょっと危なっかしい。 部活のない日だったので、わたしはまっすぐバス停に向かっていた。同じように下校する生徒の群れが、色とりどりの傘になって連なっている。何だかそれは、カンバスにたくさんの絵の具を落としたみたいでもあった。 信号でとまり、いくつか横断歩道を渡ってから、バス停までやって来る。そこでわたしは、ふと見覚えのある人影がたたずんでいることに気づいた。 濃いめの黒色をした癖っ毛と、周囲との境界線がやけにくっきりしているように見える立ち姿。 ――「みわちゃん」だった。 彼女はぼんやりしているわりには形のはっきりした視線で、どこをともなく見つめている。わたしのことに気づいた様子はない。もっとも、気づいてはいたけど注意を払っていないだけかもしれなかったけれど。 わたしは彼女を発見して、どうしようか少し考えた。小学校の頃は確かに友達だったけれど、中学に上がってからはまともに会話をしたこともない。高校になった今は、なおさらだ。 彼女がどんな声をしていたかさえ、わたしはうまく思い出せなかった。 けれど気づいたときには、わたしは彼女のほうに近づいていた。わたしはその手のことであまり悩むほうではなかったし、小学校の頃のつながりが、まだどこかに残っていたのかもしれない。切りとられたあともうねうねと動き続ける、トカゲのしっぽみたいに。 「――みわちゃんも、これから帰るところ?」 と、わたしは傘の向こう側に声をかけた。何故だか「みわちゃん」という呼びかけは自然と口の中から湧きだしてきて、自分でも違和感を覚えなかった。 「…………」 みわちゃんはわたしの言葉を耳にして、その意味を頭の中で組み立て、わたしのほうに顔を向けた。その一連の作業は、明らかに一つ一つが段落ごとに、きちんと区別して行われていた。 といって、別に彼女の反応が鈍かったとか、相手のことを気にもしていない、という感じじゃない。ただ丁寧に、ゆっくり、きちんとそれを処理している、という感じだった。 そうしてみわちゃんはわたしを見て、わたしのことをほぼ完全に認識して――でも、結局は何も言わなかった。それは返答を拒否しているというわけじゃなくて、わたしの質問の中に答えが含まれている、ということらしい。 なんにしろ、わたしは気にせず先を続ける。 「今日は部活がなくって、わたしも今から帰るところなんだ。よかったら、いっしょに帰ってもいいかな?」 それに対しても、みわちゃんはすぐには答えなかった。まるで正しい答えが天から降ってくるのを、少しだけ待つみたいに。 「……別に、かまわない」 しばらくして、みわちゃんは言った。不ぞろいの大きさの小石を転がすみたいな、ぼそぼそとした声だった。その短い返答にどんな感情が含まれているのかは、わたしにははっきりとはわからなかった。 けどともかくも許可が下りたので、わたしは彼女の横に並んでバスを待つことにした。バス停にいるのは、ほとんどがわたしたちの高校の生徒たちみたいである。傘の下で熱心に携帯をいじっていたり、建物の屋根に入って談笑していたり、その様子はいろいろだった。 停留所には雨よけはなくて、色の薄くなった青色のベンチが寒さに凍えるようにじっとしている。 「――みわちゃんは、いつもバスで通学してるの?」 無難な話題として、わたしはそんなことを訊いてみた。 「うん」 返事は、それだけだった。いくら逆さにして振ってみても、からっぽのままの貯金箱みたいに。 「…………」 わたしはなんとか笑顔のまま、表情を変えずに彼女の様子をうかがってみる。 みわちゃんはさっきまでと同じ、特徴のある視線でぼんやりしていた。数学の問題に出てきそうな、くっきりした視線だった。とりあえず、不愉快だとか、困惑しているだとかいう気配はない。 わたしはめげずに、会話を続けた。 「この雪だと、積もりそうにないね」 「そうだね」 「わたし、いつもは自転車なんだ」 「ふうん――」 「みわちゃんは、自転車で来ることはないの?」 「バスのほうが好きだから」 「……どうして、バスのほうが?」 「さあ、どうしてだろう」 会話は、思ったようにはつながらなかった。まるで、接触の悪いスイッチを操作しているみたいに。 「――――」 わたしはちょっと、時計を確認した。念のために、時刻表も。 バスはやがて、時間通りにやって来た。
ステップをのぼるとバスの中は暖かく、ぬくぬくしていた。いかにも大雑把に調整された暖房で、忙しくて一人一人の都合になんてかまっていられない、という感じである。 雪が降っているせいで、車内はそれなりに混雑していた。わたしとみわちゃんは、通路の半ばあたりで銀色の手すりにつかまる。乗車口がごたごたして、発車するまでに余計な時間がかかった。 やがてブザーが鳴ってドアが閉まると、重たい水をかきわけるみたいにして、バスはゆっくりと走りはじめる。傘から落ちる水滴が通路を濡らし、窓の外では温度を失った雪が降っていた。 わたしはさっきの会話を仕切りなおして、再びみわちゃんとのコミュニケーションを試みることにした。 ――でも、やっぱりそれはうまくいかない。 「来月は期末試験だね」とか、「寒いのは嫌だね」とか訊いても、みわちゃんからは、「そうだね」という答えしか返ってこなかった。 その返事は曖昧で適当というよりは、やけにシャープでくっきりした印象を持っている。何だか、鋭利な刃物で切ったみたいな、滑らかな切断面をしていた。 「…………」 このままじゃ埒が明きそうにないので、わたしは単刀直入に例の話について訊いてみることにした。 「なんだか、部の担任がみわちゃんのこと心配してたみたいだよ」 「そう?」 みわちゃんは、まるっきり興味がなさそうだった。 停留所でバスがとまって、何人かが混雑をかきわけてステップを降りる。乗ってくる人は一人もいなかった。 軽いクラクションの音とともにバスがまた走りはじめると、わたしは質問を続ける。 「――部活にも顔を出してないんでしょ?」 「まあね」 彼女の言葉使いには、ちょっと男の子っぽいぶっきらぼうさがあった。そういえば小学校の頃もそうだったな、とわたしはふと思い出す。 「どこか体調が悪いとか、そういうの?」 「いいや、違う」 「部活で何かあったとか?」 「ないよ、何も」 みわちゃんは内容はともかく、返事だけははっきりしていた。そのせいか、 「悩みがあるんなら、言ってみなくちゃ」 と、わたしはつい説教臭い提案をしてしまう。 「もしかしたら案外、それで解決できるかもしれないんだし」 「――――」 その言葉に、みわちゃんはわたしのことを見た。たぶん、はじめて、わたしの顔をまともに。ちょっと言いすぎちゃったかな、とわたしは後悔する。 でも、わたしのことを見るみわちゃんの表情にあるのは、苛立ちや苦痛や傷心といった、そんなものじゃなかった。 そこにあるのは、もっと別の―― 「――かもしれないね」 と言って、みわちゃんはまた窓の外に顔を戻した。どこかを見ているようで、どこも見ていないような、そんな視線。 わたしはまごついて、けれど懲りもせずに言葉を続けた。 「何かあるなら、言ってくれなくちゃわからないよ。一人で抱えこんでてもいいことはないと思うし」 それに対して、みわちゃんは少しうんざりしたふうに、窓の外を見たままですぐに返答する。 「言わなきゃわからないなら、言ってもわかるわけないよ」 「けど、何か力になれることだってあるかもしれないし――」 わたしがそう言うと、みわちゃんは再びわたしのほうに顔を向けた。 「――本当に、そう思うの?」 彼女の瞳はまっすぐに、本当にまっすぐに、わたしへと向けられていた。 その視線はわたしの奥の、わたしも知らないような場所まで届いていた。遠くの星の光が、何百年もかけて、それでも地上までやって来るみたいに。それでわたしは、少しまごついてしまう。居心地の悪さとか、戸惑いとか、反感とかとは、何か違ったふうに。 わたしは彼女にどう答えていいのか、まるでわからなかった。月がどうしてあんなに小さくて、あんなに離れているのか、子供から突然訊かれたみたいに。 けれど、彼女のその瞳―― その瞳に、わたしは何故か見覚えがあるような気がした。とても昔、とても大切な場所で、とても大切な時間に、同じものを見たような、そんな気が。
4
部活が終わって、わたしは杏子と床掃除のためのモップを取りに向かった。 練習のあとで体はまだ熱を持っていたとはいえ、恐竜の骨みたいに天井が剥きだしになった体育館は、いかにも寒々しい感じがした。窓の外には濃い夕闇が迫っていて、ガラスにぺったりと張りついている。 二人で用具庫に向かいながら、わたしは訊いてみた。 「みわちゃんのこと、覚えてる?」 首筋を手でほぐしていた杏子は、「ああ――」というふうにわたしのほうを見た。さっぱりしたショートカットに、弾みのいいスーパーボールみたいに変化しやすい顔の表情。 ちょっと背中をのばしてから、杏子は肩をすくめるみたいにして言う。 「先生に何か言われたわけだ。最近、藤梨の様子がおかしいとかなんとか」 わたしのことを先生に推薦したのは、杏子なのだ。 「うん、そうなんだけど――」 うなずいて、わたしはちょっと困ったふうに続ける。 「中学になったあとは、あんまりつきあいがなくて」 「けど先生に訊かれたときは、ゆきなのことしか思いつかなかったしなぁ」 ゆきなというのは、わたしのことだ。皆川(みながわ)ゆきな、というのがわたしの名前だった。 「少なくとも小学校の頃は、二人とも友達だったでしょ?」 杏子はのん気そうに言った。確かに、それはそうなのだけど。 「……どうも思い出そうとすると、記憶が曖昧で」 わたしは軽くため息をついて言った。実際、どうしてだかその頃のことをはっきり思い出せないのだ。 「ふうん」 と清掃用のロッカーを漁りながら、杏子は気のない返事をする。 「……みわちゃんて、どんなだったっけ?」 わたしはあらためて、訊いてみた。 「どんなって――」 杏子は、がたがたいわせながらモップを取りだそうとしている。ちょっとがさつなところのある性格なのだ。 「何考えてるのか、よくわからない子だったな」 「そう?」 「今でもそれはあんまり変わってない気がするけど、まあけっこう特殊だったと思うよ、藤梨は」 特殊、という言葉はわたしの中に不思議な反響を残した。 「なんていうか、いろんなことを難しく考えてるみたいだった。みんなとは存在してるところが違うみたいな、ね。私としてはむしろ、なんであんたがあの子と仲がよかったのか、そっちのほうが不思議だったけど」 そう―― 確かにそれは、わたしも不思議だった。どうしてわたしたちは友達で、それはどんなふうに友達だったんだろう。 その時にはあんまりにも当たり前だったせいなのか、わたしはやっぱりうまく思い出せずにいた。昨日の晩ご飯を思い出せないのと同じで。 杏子は積み木を乱暴に崩すみたいにしてモップを取りだすと、一本をこっちに渡した。わたしたちはそれを持って、バレーコートのほうへと戻っていく。 三年生はとっくに引退していて、部員の数はずいぶん減っていた。だから片づけに手間どって、時間のかかることも多い。 ネットのところで誰かが何かもたついているのを見つけて、「またかな?」と杏子は言った。 確かにそれは、「また」だった。そこには予想通り、同じ一年生の小宮山(こみやま)さんの姿があった。 ポールからネットを外し、それを畳んでいく作業のところで、三人がまごつくように動いている。ネットにはかなりの長さがあるから、意外と片づけが面倒なのだ。特にそのうちの一人が、うまく協力できないとなると。 小宮山さんはどこか、見当違いな動きをしていた。ほかの二人と、明らかに畳みかたのイメージが違うのだ。でも、そのことに気づかないから、それを直そうともしない。結局、小宮山さんは脇にどいて、二人だけでネットを片づけることになった。 ネットをぐるぐる巻きにして用具庫のほうに持っていく二人を、小宮山さんは無人島に置き去りにされた漂流者みたいな、しょんぼりした表情で見送っている。 小太りで、動作が鈍くて、誰かに聞かされた悪い星占いを気にしているみたいな、おどおどした顔つき。 ――別に、悪い子というわけじゃないのだ。 乱暴でも、無神経でも、自分勝手なわけでもない。 でもどうしてだか、彼女の行動にはちょっと見当違いなところがある。普通なら右に行くところを、一人だけ左に曲がっていくような、そんなところが。 それはほんの些細なことなのだけど、彼女の場合はどこか笑ってすませられないところがあった。 だから部活では、彼女に話しかける人間はあまりいない。いじめだとか、仲間はずれだとか、そんなことではないのだけど、何故だかみんな彼女と積極的に関わろうとする気にはなれないのだ。 それはたぶん、誰が悪いということじゃないような気がする。もちろん、小宮山さん自身にしたところで。 「…………」 わたしと杏子がモップをかけていくと、小宮山さんはすぐそばまで近づいたところで、ようやく気づいたみたいにして体をどけた。すごく慌てて、申し訳なさそうに。 それは何だか、こっちのほうが悪いことをしたような気にさせられる動きだった。
――みわちゃんのことについて、わたしは何故だかすっきりしなかった。 実際のところとしては、それはわたしの問題じゃなかった。そのことでわたしに何か具体的な責任や関係があるわけじゃないし、わたしが気にしなくちゃならないような理由や必要もない。 それでも、何故だか―― あの日、バスの中で見た彼女の瞳。 どうしてだか、わたしはあの瞳のことが忘れられなかった。記憶の中からすっかり消えてしまっても、写真の中ではしっかりとそれが保存されているみたいに。 それはとても大事なものかもしれないし、案外たいしたものじゃないのかもしれない。 でもそれは、確かめてみないとわからない種類のものだった。 だからわたし個人としても、このまま彼女のことを放っておくわけにはいかなかったのだ。
5
バスでのことがあってから数日後―― わたしは学校の階段をのぼって、ある場所に向かっていた。放課後で、バレー部はお休みの日。 先生の話によれば、とりあえずみわちゃんは部活に出ていないということだった。 そこで、わたしはその部室を訪ねてみることにしたのだ。ちょっとお節介すぎる気もするけど、仕方がない。前みたいに直接尋ねたとしても、みわちゃんは答えてはくれないだろうし。 校舎の最上階、その突きあたりまでやって来る。 そこには、図書室があった。別にたいした広さも変わったところもない、ごく普通の図書室だった。文芸部の活動は、その隣にある図書準備室で行われているのだ。 わたしはドアの前までやって来て、中の様子をうかがった。磨りガラスの小さな窓からは、室内をのぞくことはできない。辛うじて、明かりがついているのがわかるくらいだった。 躊躇するより先に、わたしはドアをノックした。わたしが学んだ、何か思い切って行動するときのコツの一つだ。昔の人はそれを、見る前に飛べ、と言った。 「――どうぞ」 ほとんど間を置かずに、中から返事がある。まるで、最初から待ってみたいに。わたしはドアを開けた。 図書準備室兼文芸部部室というだけあって、部屋の中は本でいっぱいだった。それも、本棚にきちんと整理されているわけじゃなくて、あちこちの棚や机の上に山積みになっている。何だか、建設工事中の資材置き場みたいな感じだった。広さ自体は十分なのに、有効に活用されているとは言いがたい。 部屋の中央には大きなテーブルがあって、そこには男子生徒が一人で座っていた。 見たところ、ほかに人はいない。 文芸部の活動日は事前に確認していたのだけど、わたしは一瞬何か間違えたのかな、と思った。この広さの部屋に人がたった一人しかいないと、何だか絵の中の人物がいなくなってしまったみたいな、妙な違和感がある。 「こんにちは、何か用事でもあるのかい?」 たった一人の男子生徒が、わたしのほうに向かって訊いた。ノックに返事をしたのも、この人で間違いないだろう。 「……あの、ここって文芸部の部室ですよね?」 念のために、わたしはまず訊いてみる。 「もちろん」 その人は、にっこり笑って言った。ネームプレートの色から、一つ上の二年生だとわかる。名前が、「久戸(くど)」だということも。 「……一応訊くんですけど、あなたは文芸部の人ですよね?」 「そうだよ。幻でも錯覚でも幽霊でもなく、ね」 笑顔のまま、その人は言う。 品のいいセルフレームの眼鏡をかけた、わりと整った顔立ちの人だった。表情はフレンドリーで、人あたりもよさそうな感じをしている。それから、頭も同じくらい―― けど何故か、遠すぎてうまく聞きとれない音みたいに、その姿がはっきりしないというか、本当はそこに存在なんてしていないというか、何だか妙な感じもした。 「ほかの部員の人はいないんですか?」 と、わたしはもう一度部屋を見渡しながら訊いてみた。もちろん、何度見たってそれは変わらないし、わざわざ姿を隠す必要なんてなかったけれど。 「今日は運悪く、ね」 久戸さんはわざとらしく残念そうな顔をしてみせる。 「週に一度の集まりだけど、それでもこういう日があるんだ」 「ずいぶん自由なんですね」 別に皮肉のつもりじゃなく、わたしが言うと、 「それが人間の本質だからね」 と、ずいぶん形而上的な答えが返ってきた。 とりあえずここが文芸部で、この人が間違いなく部員だということがわかったので、わたしは当初の目的に戻ることにした。 「ここに、藤梨美和さんて、いますよね? 一年生の――」 「ああ、いるよ」 久戸さんは気さくに答える。何かの親善大使にでもなったほうがよさそうな笑顔だった。 「彼女のことで、少し教えて欲しいことがあるんです」 「――――」 その言葉を聞くと久戸さんは不意に、真顔になったみたいな目でわたしのことを見た。それは機械の部品を組みあわせたみたいな、温もりと柔らかさを欠いた目だった。 この人は本来、そういう目をしているんだろうか――? わたしはふと思ったりしたけど、それは一瞬のことで、久戸さんの表情はまた元のような親切そうなものに戻っている。 「どうやら、君は真剣みたいだね」 「――一応、そのつもりです」 久戸さんは立ちあがると、イスを一つ持って来てわたしの前に置いた。 「どうぞ、座って話そう。お茶の用意はできないけどね」 「大丈夫です、お構いなく」 そうして、わたしは久戸さんと向きあって座った。 何故か、陽気で親切な悪魔にでも出遭ったみたいに、心のよくわからないところで緊張を感じながら。
部屋の中には毛布をこすりあわせるような暖房の音が響いていた。窓の外には、雪のない冬の景色が広がっている。 「さて、藤梨のことだったね」 と、久戸さんは言った。あくまでにこやかに、あくまで感じよく。 「彼女の、何を聞きたいんだって?」 「――その前に、いいですか?」 わたしはいったん、話を横道にそらした。 「何だい?」 「久戸さんは、藤梨さんと親しいんですか?」 質問に、久戸さんは少しだけ間をあけた。手から転げ落ちたボールの、その行方を見定めるみたいに。 「親しいという表現が正しいかどうかはわからないけど、似たところはあるかもしれないね」 「……例えば、どんなところですか?」 「本の好みとか、そういうところだよ」 久戸さんの言う「とか」が、どれくらいの範囲を含んでいるのかはよくわからなかった。 「部活では、藤梨さんに最近変わったところはありませんでしたか?」 「さあ、どうかな」 久戸さんは曖昧に首を傾げてみせる。 「けど――」 わたしはちょっとだけ、身を乗りだすようにして訊いた。 「休んでるって話ですよね、文芸部を」 「活動の参加、不参加は強制じゃないよ」 「心配じゃないんですか?」 訊くと、久戸さんはわたしのことを見た。たぶん、きょとんとした表情で。 「無理をしてここに来ることのほうが、僕は心配だけどね」 その言葉はある意味では正しいことのような気がして、わたしはとっさに何も言い返せないでいる。 「……けど、藤梨さん、クラスではあまり元気がなさそうでした」 少しして、わたしはようやくそれだけを口にした。けれど久戸さんは、 「元気がなくて、それで?」 と不思議そうに訊き返している。 「え――」 「元気がないと、そんなにダメかい。いつも元気よく、機嫌よくしてないと、許してもらえないのかな?」 「えっと……」 わたしはなんとなく、しどろもどろになってしまった。久戸さんは責めるでも、反論するわけでもない、とても静かな口調で言う。 「何でもないのに元気なほうが、僕には異常に思えるけどな。むしろ元気のないほうが、普通なのかもしれない」 「それは――人による、と思います」 わたしはそう言い返すのが精一杯だった。 「藤梨の場合も、そうかな?」 久戸さんはあくまで、落ち着いた調子で言う。 「……わかりません」 「君は、藤梨の友達か何かなのかな?」 「わたしは――」 答えようとして、けれど何も言葉が出てこなかった。わたしにとって、彼女は何なのだろう。あるいは、彼女にとって、わたしは―― 「さっきも言ったけど、人間は本質的には自由だよ」 わたしの答えを待つでもなく、久戸さんは言った。どちらかというと、至極どうでもよさそうに。 「元気があろうとなかろうと、無理をしようとしなかろうと、それは本人の勝手だ。誰かに強制されたり、励行されたりする必要はない。そんなことをしたら、人間の存在そのものを冒すことになる」 「でも、何もかも自分の自由にするなんてわけにはいきません」 「そりゃ、そうだよ」 あっさりと、久戸さんはまるで気にしたふうもなくうなずいた。 「僕だって、そのくらいの譲歩はするさ。責任とか、義務とか、約束とか。社会のルール、倫理、法律。人が効率よく生きるために生みだしてきた、制度や習慣。でもね、それ以上のことは知ったことじゃない。いくら僕が他人に貸し借りがあるといったって、奴隷じゃないんだ。最低限のものは守らせてもらう」 「最低限のもの?」 「僕自身の生命の自由、だよ」 瞬間、わたしは心の裏側みたいなところがぞっとするのを感じた。草むらをかきわけて進んでいたら、足元のすぐ下に断崖絶壁が広がっていたみたいに。 その崖は細くて狭くて、簡単に飛びこえてしまうことができる。そのくせ、太陽の光も受けつけないくらいに深くて、どこまで落ちていったとしても底なんて存在しないかのように思えた。 「…………」 わたしはあらためて、久戸さんの顔を見つめた。その柔和で、あどけなささえ感じさせる顔を。 この人はみわちゃんのことを、自分に似ているところがある、と言っていた。人間には自分の生命を自由にできる権利がある、とも。 それは、どれくらい本当のことなんだろうか――
6
しばらくのあいだ、わたしは何となく上の空だった。思考が頭の中からふらふらと出歩いてしまっているみたいで、時々自分のしていることがわからなくなったりする。 わたしは主にみわちゃんと、それから久戸さんのことを考えていた。 ――あの人は、自分は彼女と似ているところがある、と言った。 ――人間は、自分の生命も含めて本質的な自由がある、とも。 わたしは教室で、たった一人きりで本を読んでいるみわちゃんを眺める。彼女はどんな場所にいて、何を考えているんだろう。そこにはもしかしたら、あの時わたしが感じた断崖絶壁みたいなものがあるんだろうか―― それで、ある日のこと。 世界史の授業中だった。チョークが黒板を打つ音がかつかつ響いて、相変わらず暖房がうなっている。窓の外は、この時期には珍しいくらいの青空だった。 「…………」 わたしはやっぱり上の空で、授業にはあまり集中していなかった。機械的に黒板の文字をノートに写すだけで、内容はほとんど頭の中に入ってきていない。 それでしばらくすると、先生が授業とは関係のないことについて話しているのに気づいた。 「――死ぬ前に、せめて誰かに相談すべきだった」 ごくまじめな、真剣な面持ちで言う。 先生が言っているのは、県内の高校で起きた、ある自殺についてみたいだった。いじめとかそういうのではないので報道沙汰にはなっていないけれど、噂だけはきちんと伝わってきている。 「死ぬだけの勇気があるということは、生きるだけの勇気もあったということだ。安易な道を選んでもいいことはない。そういう時は、最後にもう一度よく考えるようにしなければいけない」 しみじみした感じで、先生はしゃべっている。まるで、自分ならその死んだ生徒を救えたみたいに。 ――その時、不意にがたんという音がした。 教室中の人間が、いっせいに振り向く。その先には、みわちゃんの姿があった。音は、イスが倒れそうになるくらいの勢いで立ち上がったせいで起きたものだった。 ほんの一呼吸分くらいの、奇妙な間があく。花瓶が地面に落ちて割れるまでの、そのあいだの時間みたいな。 やがてみわちゃんは、何か発言が必要なことに気づいたみたいだった。急に立ちあがったのは、自分でも思いがけないことだったらしい。 「――あの、気分が悪いので、保健室に行ってかまいませんか?」 みわちゃんの口から出てきたのは、そんな言葉だった。ずいぶん勢いよく立ちあがったあとのことではあったけど。 世界史担当の先生はちょっと面食らったみたいだったけど、余計な詮索はしなかった。たぶん、そのほうが賢明ではあったんだろう。怪しげな藪があったら、つつかないほうが無難だった。 許可が下りると、みわちゃんは教室をあとにした。ひっそりと、最初からその場所にはいなかったみたいに。 彼女が姿を消す頃には、教室の空気はまたいつもの通りに戻っていた。チョークの音が響き、暖房がうなり、みんな創造的とはいえない手つきで鉛筆を動かしている。 だから、みわちゃんがさっきの発言とは裏腹に、保健室があるのとは逆の方向に向かったことに気づいたのは、たぶんわたし一人だけだった。
休み時間のチャイムが鳴ると、わたしはすぐに教室をあとにした。 張りぼてみたいに空っぽな、まだ誰もいない廊下を歩いていく。そのまま階段をのぼって、ある場所に向かった。 何となく、わたしには予感があったのだ。 やがてわたしは、屋上に続くドアの前に立った。鍵はかかっていない。取っ手をつかんで横に引くと、それは簡単に開いた。 屋上にはざらざらした地面と、音まで凍りついてしまいそうな冬の空が広がっている。 そして、そこには―― 思ったとおり、みわちゃんの姿があった。 彼女は柵のところに立って、ぼんやりとどこか遠くを眺めていた。その姿は空から間違って落っこちてきたようでもあって、変に寂しい感じがしている。とはいえ、彼女が雪みたいに溶けて消えてしまうなんてことはない。 わたしはみわちゃんが気づく程度に、でもむやみに空気をかき乱さないように注意して、彼女のほうに近づいていった。 「…………」 その途中で、みわちゃんはちらっとこっちのほうを見たけど、特に何かを言ってきたりはしなかった。歓迎してるわけでもないけど、迷惑なわけでもない、のだと思う。わたしはそれを、勝手に進入許可として受けとった。 わたしはみわちゃんの隣に、しかるべき距離をとって立った。ものさしで測ったわけじゃないけど、ちょうど一メートルくらい。たぶん、それが適切な隙間≠フような気がした。 それからわたしは、同じようにして柵の向こうを眺める。 乗りこえられないように、背丈より高くされた鉄柵の向こうには、わたしたちの住んでいる街の景色が広がっていた。単調な住宅地の所々に、ビルや公園が仕方なくといった感じで並んでいる。遠くのほうには、見えるか見えないくらいの水平線があった。残念ながら、地球が丸いことを実感するほどじゃなかったけれど。 鉄の棒で区切られたそんな景色を眺めていると、何だか自分が特殊な檻の中にでも入れられたみたいな気分になる。 「ねえ、みわちゃん――」 と、わたしは彼女のほうを見るともなく、けどこれ以上ないくらい自然な声で言った。 「どうして、さっきの授業で急に出ていっちゃったりしたの?」 みわちゃんはすぐには答えなかった。答える気配もなかったし、それはそれでかまわないような気もした。でも、みわちゃんは答えた。 「――さあ、どうしてかな」 返事はそれだけだった。でもそれだって、答えには違いない。 わたしは冬の空気を胸いっぱいに吸って深呼吸をした。空気はもちろん冷たかったけど、それはそれで悪くない気がした。 何も言いたくないなら、何かをうまく言えないなら、別に無理をして言う必要はなかった。歯医者で虫歯を抜いてもらうわけじゃないのだ。 わたしとみわちゃんはそうして、長いこと何も言わずに並んで立っていた。時間が光の粒になって消えていく。校舎の喧騒も、ここまではなかなか伝わってこない。まるで、神様の手のひらにでもいるみたいに静かだった。 見上げると、冬の青空が広がっている。それは濃い群青の、どこまでも続く色のついた世界だった。 「きれいな空だね――」 と、わたしは自分でも知らないうちにつぶやいていた。まるで、雪の一片が偶然手の上に落ちてきたみたいに。 それに対して、意外にもみわちゃんからの返事があった。 「――ああ、きれいだな」 彼女は首筋をまっすぐのばし、何か大切なものでも受けとろうとするみたいに空を見上げている。 その瞳―― 彼女の瞳が何を映していたのか、わたしはようやく思い出していた。その瞳はずっとずっと昔の、あの場所につながっていたのだ。
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幼稚園でのことだった。雨に滲んでしまった絵みたいに、もう記憶もおぼろになってしまっている頃―― いつだったか正確には覚えていないけど、園の先生が絵本を読んでくれたことがあった。確か、『秘密の花園』だったと思う。天涯孤独の身になって急に引きとられたお屋敷、暗い病室に眠る幽霊みたいな少年、土の中から偶然拾った古ぼけた鍵、蔦に覆い隠された秘密の扉。 昼食後の自由時間になったとき、わたしの中にはその絵本の世界がまだまるまる残っていた。わたしはメアリーになって、お屋敷を探検した。園舎の風景は、簡単にイギリスのそれに交代した。 その時、わたしと同じように空想世界を満喫している人間がいた。 ――みわちゃんだ。 わたしたちは自然と協力して、「秘密の花園」ごっこをはじめた。建物の中や、運動場、遊具のあたりを駆けまわって、絵本の場面を再現していく。 そうして、どちらが言いだしたのかは忘れてしまったけれど、幼稚園にある秘密の扉を探検することを思いついた。 子供らしい、他愛のない噂話だ。 幼稚園には一つの扉があって、そこには絶対に近づかないよう注意されていた。扉は建物の奥にあって、ちょっと薄気味の悪い雰囲気をしている。普段から近づくような場所じゃないから、子供たちにとっては格好の題材だった。 扉はあの世につながっているとか、金銀財宝が隠されているとか、恐ろしい怪物が閉じ込められているとか――まあ、そんな感じだ。 わたしとみわちゃんが思いついたのは、その扉への挑戦だった。秘密の扉の向こうには、秘密の花園が広がっているかもしれない。 園内のあちこちで遊ぶ子供たちを尻目に、わたしたち二人は先生の監視をすり抜けてその場所に向かった。廊下を建物の奥に進んでいくと、急に人気がなくなってひっそりとしている。何となく墓地を思わせるところで、あんまり心楽しくなるような雰囲気じゃなかった。 わたしたちは多少怯みはしたものの、それでも二人いっしょだという心強さがあった。絵本のページもまだ開かれたままになっている。おっかなびっくりではあったけれど、先に進んだ。 問題の扉は、確かにそこにあった。不気味な赤色をしていて、何か読めない文字が書かれている。今から思うとたぶんそれは、「開放厳禁」とかそういう言葉だった気がする。 扉に手をかけると、鍵はかかっていなかった。わたしたちはどちらからというわけでもなく見つめあった。お互いの覚悟と勇気と信頼を、確認しあうみたいに。 そうして、わたしたちは秘密の扉≠開けた。心臓を痛いほどどきどきさせながら。 ――扉の向こうには、階段が続いていた。 どうしようかと迷ったかどうかは、覚えていない。 気づいたら、わたしたちは階段をのぼっていた。彼女が先だったか、わたしが先だったのか、それとも二人いっしょだったのか―― 階段はずいぶん長く続いているように感じられた。子供の足だからというのもあるけど、緊張していたことのほうが大きいと思う。ジャングルの奥地にでも踏み込んでいくみたいな、神秘的な感じがした。 やがて階段は途切れて、わたしたちはその場所≠ノ立っていた。 そこは、屋上だった。階段はたぶん、非常階段か何かだったんだろう。 けどもちろん、当時のわたしたちにはそんなことわからなくて、それにそんなのはどうでもいいことだった。 わたしたちはその場所に立って、同じように空を見上げた。遮るもののないその場所は、両手をいっぱいに広げても抱えきれないくらいの青空が広がっていた。 どこまでも自由に、どこまでもきれいに。 そうだ―― どうして、忘れていたんだろう。 わたしとみわちゃんはあの時、確かに同じものを見ていた。手をつなぎあわせるのより、ずっと確かに。言葉で何かを伝えあうより、ずっと確かに。 そしてみわちゃんの瞳は、今でもまだその空の青さを映しているのだった。
7
空がそのまま落ちてきたみたいな、大雪の日だった。 ――一月も終わって、二月の初め。 夜に降りだした雪は、誰にも知られないうちに世界の様相を一変させていた。暗闇を通り抜けてきた小さな氷の結晶は、地面を真っ白に染めている。 降ったりやんだりの不安定な天候は、放課後を迎える頃には小休止を迎えていた。灰色の絵の具を塗りたくったみたいな空からは、またいつ雪が降ってきてもおかしくなかったけれど。 部活はなかったので、わたしはそのまま下校した。雪の上を歩いて、バス停まで向かう。さすがにこの状態だと、自転車で来るような酔狂な人間はほとんどいない。 歩道の雪は踏み固められ、融雪装置のついた車道では、自動車が霙になった雪をかきわけて進んでいた。 「…………」 わたしは歩きながら、担任の豊島先生に言われたことを思い出していた。 数日前、例によって職員室に呼び出されたわたしは、先生からこんなことを告げられたのだ。 「――実は俺も知らなかったんだが、藤梨のところの両親が離婚することになったらしい」 職員室は相変わらず雑然としていて、先生のその言葉は本来の重みを欠いているような気がした。 「だから頼んでおいてなんなんだが、藤梨のことはあまり刺激してやらないほうがいいのかもしれない。他人がどうこう言うことでもないし、本人にとっても微妙な問題だからな」 歩きながら、わたしはその時のことを思い出す。どことなく現実感が損なわれてしまったような、その時のことを。 バス停に着いてみると、いつぞやと同じく大勢の生徒たちが集まっていた。傘こそ差していなかったけど、たぶん前よりも人数は多いだろう。ちょっとした集会といってもいいくらいだ。 わたしは適当なところに場所をとって、バスを待つことにした。 そうして、ふとあたりを見渡してみると、そこにみわちゃんの姿を見つける。 彼女はこの前と、同じ場所に立っているような気がした。もしかしたら、いつもその場所でバスを待っているのかもしれない。何故だか、そんな気がした。 わたしは彼女のことに気づいて、けど声をかけることはしなかった。どうしてなのかは、よくわからない。先生の言葉が頭に残っていたせいもある気がする。向こうでは相変わらず、こっちに気づいた様子はなかった。 ――雪のせいか、バスはなかなかやって来なかった。 予定より十分以上遅れて到着したバスの車内は、すでに乗客で混雑していた。何しろ、大雪なのだ。いたしかたのないところだった。 近づいてくるバスの様子を見るかぎり、停留所の全員が乗るのは難しそうだった。そのことに気づいた何人かが、乗車口になりそうなところに集まりはじめる。こうなると、早いもの勝ちとしか言いようがない。 バスが停車して、ブザーといっしょにドアが開く。順番も何もなく、ちょっとした押しあいになっていた。何しろ外は寒いし、次のバスはいつ来るかわからないし、みんな必死だ。蜘蛛の糸にすがりつく亡者さながらである。 わたしはとりあえず、そんな様子をそばから眺めていた。もちろん、バスには乗りたかったけど、冷静に考えるかぎりでは難しそうだった。みんなに混じって仲よくおしくら饅頭をする気にもなれない。このまま大人しく、次のバスを待ったほうがよさそうである。 その時、ふとみわちゃんのほうを見ると、彼女は一人で停留所を離れて、さっさと歩きだしているところだった。 どちらかというと、みんなを置き去りにするみたいに。 わたしは慌てて、とっさにそのあとを追った。バスではまだ押しあい中で、しばらく発進しそうもない。 雪道を、みわちゃんはただ黙々と歩いていく。その歩調は何となく、怒っているようでもあるし、不機嫌そうでもある。けれどそれがどこに向けられたものかは、はっきりとはわからなかった。 わたしは小走りになってその後ろに追いつくと、同じ速さであとについていく。 その足どりのまっすぐさと断固さからいって、みわちゃんは家まで歩いて帰るつもりみたいだった。距離的には、がんばればそれが十分可能なことをわたしは知っている。でも雪道を徒歩で行くのは大変だし、風は刃物みたいに鋭かった。 「――ねえ、みわちゃん」 と、わたしは声をかけた。比較的、大きめの声で。 でも、返事はない。振り向く気配さえなかった。しかばねじゃないのははっきりしていたけど。 歩道を歩いているのはわたしたち二人きりで、その隣を車がいつもよりゆっくりと通りすぎていった。ぐしゃぐしゃにかき回された雪の中に、二本の轍が残されている。一体何台くらいの車が、その線の上を走っていったのだろう。 「ねえ、みわちゃん――みわちゃん!」 わたしはしつこく声をかけた。距離も、少しだけ縮める。けどそれでも、みわちゃんは自分一人しかいないみたいに足をとめなかった。 幹線道路を外れて、坂道を下り、小道に入る。そこは川沿いの、住宅地の脇にある細い道だった。川床にはごくささやかな流れがあって、白い雪の中に不規則な線を刻んでいる。 雪道の上にはまだ誰の足跡もなくて、わたしとみわちゃんの歩いた跡だけが、そのままの形で残っていた。 「本当に、歩いて帰るつもりなの?」 影みたいにあとを追いながら、わたしはまた声をかけてみた。 「バスを待ったほうがいいよ。次は乗れるだろうしさ。この雪道じゃ、靴だって濡れちゃうよ」 みわちゃんは何の反応もしなかった。急に、耳が聞こえなくなってしまったみたいに。 「…………」 わたしは立ちどまって―― それから突然、腹が立ってきた。 理由は、自分でもよくわからなかった。何に対してなのかも、どういうふうに怒っているのかも。けど何故だか猛烈に、頭にきてしまったのだ。みわちゃんや、世界や、自分自身に対してさえ。 それで気づいたときには、わたしは地面の雪をすくって、手で強く固めていた。そうして作った雪玉を、みわちゃん目がけて放り投げる。 ――正直なところ、当てるつもりはなかった。そもそもの話、わたしにそれほどの投球コントロールはない。 でも―― 雪玉は見事に、みわちゃんの後頭部を直撃していた。 瞬間、わたしはさっと青ざめてしまう。喉の奥で声がつまって、手を振り切った姿勢のまま体が固まった。いくらなんでも、これはまずい。 みわちゃんはさすがに、これには振り返ってわたしのほうを見た。もちろん、雪玉を誰が投げたかは一目瞭然だ。容疑者のアリバイやトリックを暴きだすなんて、まどろっこしい真似をするまでもない。 「…………」 わたしは言葉も出ないまま、ただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。謝罪の言葉さえ、頭に浮かんでくることはない。 みわちゃんはそれから、ちょっとしゃがんで地面の雪をすくいとった。 その雪を手で小さく丸めると、わたし目がけて放り投げる。 ――ぱぁん と確かに音がして、それはわたしの顔面に命中した。四散した雪の冷たさと衝撃が、そのことを親切にもわざわざ教えてくれる。 わたしは頭を振って雪を落とすと、すばやく次の行動に移っていた。すなわち、雪玉を作って投げるのだ。 それは、みわちゃんも同じだった。わたしたちのあいだで、にわかに雪合戦が始まる。 とはいえ、大抵の雪玉は相手にかすりもしなかった。 二人とも、そんな制球力は持ちあわせていないのだ。最初に当たったことのほうが、むしろ奇跡だった。 白い雪玉は子供が描く線みたいな、でたらめな軌道で交差していく。どれも相手からは大きく外れて、命中はしなかった。それでも懲りることなく、わたしたちは雪玉を投げ続ける。 そうして下手な鉄砲を打ちあっているうち、不意にみわちゃんからの雪玉が飛んでこなくなっていた。見ると、みわちゃんは手をとめて、笑いだしている。それも、お腹を抱えるくらいに。 わたしも同じように手をとめて、そうしてやっぱり笑いだしてしまう。 確かにそれは、とてもおかしなことだったから――
ささやかな雪合戦が停戦を迎えると、わたしたちは橋の上に並んで立っていた。 それは自転車が一台ようやく通れるくらいの、何の変哲もないコンクリートの塊だった。誰も名前をつける気にならないような、橋と呼んでいいのかどうかさえ危ぶまれるような代物だ。 そこから二、三メートル下を、今にも途切れそうな細い川が流れている。誰かの都合で世界の隅っこに追いやられたような、不遇な川だった。けど、水はそれでも文句一つ言わず、懸命に下流へと向かっていく。 わたしは大きく口を開けて、息を吐いた。呼気は迷惑そうに白い痕跡を残すと、そのまま冬の中へと消えていく。 「――別に、何がどうってわけじゃないんだ」 と、みわちゃんは言った。とても静かな、雪が積もるくらいの声で。まるで、自分自身に言いきかせているみたいに。彼女の言葉も白い痕跡を残して、そしてやっぱり消えていく。 「不満だとか、反感だとか、軽蔑だとか、そんなのがあるわけじゃない。本当は、みんなともっと仲よくしたほうがいい、みんなといっしょにいる努力をしたほうがいい、そう思う……でも、どうしてもそんな気になれないんだ」 わたしは黙ったまま、ただちゃんと聞いていることだけは示しておいた。そうするほうが正しい場合だって、あるのだ。 「できるだけ一人にならないほうがいい、それは確かだと思う。でも、私にはそれがうまくできない」 そう言ってから、みわちゃんは悪い夢でも見ているみたいに、ものすごく苦い薬でも飲まされたみたいに、表情を歪ませる。 「――怖いんだ。私はただ、すごく怖いんだよ」 みわちゃんはあのバス停から歩きだしたときと同じような、方向性のない怒りや不機嫌さを滲ませながら言った。 「このままだと、世界が無価値になっちゃうような気がするんだ。ロウソクの炎が、そのうち燃え尽きてしまうみたいに。何もかもがバカバカしくて、醜悪で、何の意味も持たなくなってしまう。そうなったら、私はどうやって生きていればいい? 真っ暗闇の中で、どこに行くあてもなく」 「……みわちゃんは、世界のことが嫌いなの?」 と、わたしは訊いてみた。 それに対して、みわちゃんは軽く首を振っている。肯定と否定の、その両方がない交ぜになったみたいな首の振りかただった。 「私はただ、世界が好きになれないだけ。ただ、それだけなんだ――」 みわちゃんは何かをそっと握りしめるような、何かをそっと手放すような、そんな口調で言った。 「みんなが誉めているから、賛成しなくちゃいけない? 興味のないことでも、うまく話をあわせないとダメ? 誰ともいっしょにいたくないと思うのは、そんなに変なこと?」 「…………」 「私はただ、世界をできるだけきれいな場所にしておきたいと思ってるだけなんだ」 と、みわちゃんは言った。大切なものをしまっておいた箱を、そっと開けるみたいにして。 「でも、そのきれいなもの≠ヘ、ほかの人にとってもそうだとはかぎらない。私が混乱しているのはね、世界をきれいなままにしておくためには、私は世界と関わるのをやめにしなくちゃいけない、ということなんだ。そうしないと、すべてをきれいなままにしておくことなんてできはしない。私の望むような形のままにしておくことなんて、できはしない――だって、世界は私だけのものじゃないんだから。いくら私が嫌だと言ったって、そんなものは誰も聞いたりなんてしない」 みわちゃんは、そして最後に言った。 「でも、そんなのが生きてるだなんて言える? 誰とも関わらずに、たった一人だけの世界で生きてることが。そんなことに、何の意味があると思う? 宇宙空間を、ただ慣性に従って漂ってるだけみたいな、そんなことに。その場所がどんなに暗くて、狭くて、救いがなくて、苦しいかがわかる? そして結局のところ、私はそこにしかいられないんだっていうのが、どういうことなのか――」 気持ちが悪いときに無理をして胃の中の物を吐きだすみたいにして、みわちゃんは言った。とても苦しそうに、とても辛そうに。 「…………」 わたしはもちろん、そんなみわちゃんに簡単に答えてあげられる言葉は持っていなかった。どんな慰めも、どんな導きも、わたしには思いつくことなんてできはしない。 でも、たった一つだけ、確かなことがある。それは―― 「……わたしは、みわちゃんの味方だよ」 そうだ、わたしは彼女の力になりたいと思っている。できるなら、彼女と友達になりたいと思っている。 小学生の時にはもうすっかり忘れてしまっていた、あの時の空を映している瞳―― 今なら、はっきりとそれを思い出すことができるから。 わたしの真剣な口調に、みわちゃんは不思議そうに振り向いた。癖のかかった髪に、それ以外はあまり特徴のない外見。その姿はやっぱり不器用で、危なっかしくて、頑なで、何より傷つきやすそうに見えた。 ――たぶん、誰かが守ってあげなくてはいけないくらいに。 「わたしは、みわちゃんの味方になりたい」 と、わたしはもう一度言った。自分でも不思議なほどの強さと確かさで、照れたり、ためらったりせずに。 「みわちゃんがきれいなことを、わたしは知っているから。それがどんなふうにきれいなのかを、わたしは知っているから。だからわたしは、それを守りたい。この世界で、みわちゃんの味方でいたい」 「…………」 「みわちゃんは、どう思う?」 わたしは訊いてみた。 「わたしを、みわちゃんの味方にしてくれる? みわちゃんのそばに、いさせてくれる? みわちゃんが世界に対してどうしようもなくなったとき、支えさせてくれる? あまり、頼りになるとはかぎらないけど……」 それが提案なのか、嘆願なのか、それともまったく違う何かなのかは、わたしにもよくわからなかった。それはたんなる余計なお節介なのかもしれないし、見当違いの自己満足なのかもしれない。 ただ―― それでも誰かがそうすべきなんだと、わたしの心の声が強く主張していた。 みわちゃんはそれに対して、長いこと黙っていた。その様子は何も考えていないようでもあったし、本当は迷惑に思っているようでもあったし、ただ戸惑っているだけのようでもあった。空を見上げたら、見覚えのない星が光っていたみたいに。 そうして、どれくらいの時間がたったのかはわからないけれど、
「――うん」
と、やがてみわちゃんは、かすかにうなずいてみせている。それは注意深く耳を澄ませていなければ聞こえないような、とてもとても小さな声ではあったけれど、わたしはちゃんと聞くことができている。 だからわたしは、にっこりと笑顔を浮かべた。 ――彼女に対して、心からの感謝と祈りを込めて。
8
教室には暖房がきいていて、冬の寒さをすっかり追い払ってしまっていた。元気のいいクラスメートになると、上着を脱いでしまっているくらいだ。二月も初めで、季節は冬のまっただなかというところだったけれど。 わたしは今日も、友達と他愛のない話をしていた。いつも通りの、日常を健康的に通過させていくための、必要不可欠で儀式的な行為だ。 「でさ、ちょうどその時に携帯の電池が切れちゃって」 「何それ、最悪じゃん」 「でしょー」 教室の向こうでは、みわちゃんが相変わらず一人で本を読んでいた。じっとして、ただ黙々とページの上に意識を集中している。賑やかなクラスメートの話し声も、暖房の送り込んでくる温かい空気も、彼女にとってはまるで存在していないみたいだった。 でも―― 何故だかそれは、前ほど危なっかしいものには見えなかった。前みたいに、世界のはしっこから落っこちてしまいそうな感じには。 そこにはちょっとした補強材というか、バランスをとるための重石が加わっている気がした。多少の風や、水面のさざ波くらいじゃ、ひっくり返ったりはしない。 ――それはただの、わたしの希望的観測だったのかもしれないけれど。 「…………」 わたしとみわちゃんはこの日常では、つながっているわけじゃなかった。わたしたちは普通の友達みたいに、笑いあったり、ふざけあったり、おしゃべりをしたり、そんなことはしない。 たぶん、そうするにはこの場所はふさわしくないんだと思う。 それでも、あの日の空がわたしたちをどこかで結びつけていた。心のどこか奥のほう、それこそ秘密の花園みたいな場所で。そのつながりは目には見えないし、手にも触れられないし、曖昧で、不確かで、頼りなかったけれど――それでも、確かに。 不純物の多すぎる教室のざわめきや、調子の悪そうな蛍光灯の光、窓の外に広がる厚くて重たい鉛色の雲。わたしたちの日常を構成する、そんなものたち。 ――くしゅん と、その時、みわちゃんが不意にくしゃみをした。それを見ていたわたしは、何故だかくすりと笑ってしまう。 「……どうかしたの?」 友達に訊かれて、わたしは「何でもない――」と、首を振って答えた。それはわたしだけの、ちょっとした秘密みたいなものだったから。 そうしてわたしは、あくまで惰性的で、荒っぽくて、あまりきれいとは言えない日常を過ごしていく。心のどこかでは、夜空の特別な星座みたいな、みわちゃんのことを考えながら。
※
たぶんみわちゃんの言うとおり、世界をきれいなままにしておくのは難しいのだろう。そこには、どうしようもない行き違いや、避けようのない痛みや、抱えきれないくらいの悩みがあふれている。 そんな場所を好きになるのは、とても難しいことだ。 けど、彼女の瞳を見ていると、それでもわかることがある。世界にはちゃんときれいなところもあるし、それは意外なほどの強さと確かさで守られていたりもするのだ。 わたしはこれからも、みわちゃんの味方でいたいと思う。 ――そうすればきっと、世界を少しでもきれいなところにしておくことができると思うから。
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