[魔女の約束]

 目の前には、魔法陣の書き込まれた白い皿があった。
 リリルは眼を閉じ、その白い皿に神経を集中しながら手に持った杖をかすかに傾け、呪文を唱えている。リリルの表情は、音のまとまらない楽団を前にした指揮者にも似ていた。
「イオケテドゥ・オ・イキエク」
 と、リリルは何度も繰り返している。
 しかし、皿には何の変化もなかったし、何かが起こりそうな気配もなかった。白い表面に描かれた魔法陣は、皿にとってひどく迷惑そうな装飾のように見える。
 リリルはちらっと眼を開けて、その皿に何の変化もないことに失望したようだった。彼女は、それでも諦めずに呪文を唱え続けている。
(魔法陣は間違ってないはずだけど)
 と、リリルは思考を集中すべき時であるにもかかわらず、そんなことを考えはじめていた。
(呪文はどうだろう? 確か間違ってないはず。じゃあ発音かな? そんなに変てこじゃないはずだけど。やっぱり私って、魔法の才能がないのかな)
 そんなことを愚痴っぽく考えているうちに、リリルはこの作業に対する集中力がどんどんなくなっていることに気づいている。
(ええい)
 とリリルは半ばやけくそで、
「イオケテドゥ・オ・イキエク」
 と、一段と声を張り上げて唱えた。
 すると、ボンッ≠ニいう音がして、皿から赤紫の煙が立ち込めている。何かが皿の上に出現したのである。
「やった!」
 喜んだリリルの顔は、すぐさま失望に変わった。皿の上には何だかよく分からない、緑色の腐った苔のようなものが載っていたのである。
 魔法がうまくいけば、そこにはモルブラントの人気メニューのミルフィーユが載っているはずだったのだ。
「どうしたの、大声で?」
 隣の部屋のドアが開いて姿をみせたのは、七十過ぎかと思える老婆だった。といって、背はすっきりと伸び、小さな丸眼鏡をかけた目は美しく青く光っていて、声はあくまでよく徹っている。それは普通より若く見えるというより、年ふりた美しい老木を見るような感じだった。
「ミューレばあちゃん」
 と、リリルは歯を見せて、ちょっと苦笑するように言った。老婆はリリルの母方の祖母であり、二人は現在一緒に暮らしている。
「本当はね、美味しいケーキを出てくるはずだったんだけど……、失敗しちゃったみたい。だって私、あそこのミルフィーユまだ食べたことないんだもん」
 リリルは目の前のカエルの死骸のようなものを見て、ため息をつくように言った。
「それにしても、ずいぶん不思議なものが出てきたわね」
 と、ミューレはその緑の物体に近づいてみた。
「美味しいかしら、これ?」
 つついてみると、ゼリーのようなプルンとした触感がある。
「私は……遠慮しとくよ」
 リリルはごまかすように笑いながら言った。ミューレは時々、リリルでもびっくりするようなことを平気でやることがある。
 が、この時はさすがに口にしてみる気にはなれなかったらしい。
「今度やる時は、気をつけるようにしましょうね」
 とミューレは笑顔で諭すように言った。
「うん」
「じゃあ、私がお手本見せてあげましょうか」
「ケーキがいいな。ちょうど三時だし」
「そうね。じゃ、うんと美味しいやつを出してみようかしらね」
 ミューレはそう言うと、新しい皿を二つ戸棚から取り出して、机の上に置いた。それから黒いペンで、その真ん中に美しい魔法陣を描いた。リリルはその手つきを見て、自分もあんなふうに魔法陣が描けたらな、といつも思う。
「さあ、出来たわ」
 白い皿の上には、はじめからそうだったような自然さで魔法陣が描かれていた。
「呪文をいくわよ」
 ミューレはそう言って杖を構え、呪文を唱えはじめる。それはリリルのと同じ文句だったが、声はずっとはっきりして抑揚があり、ふと眠りを誘うような不思議な響きがあった。
「イオケテドゥ・オ・イキエク」
 ミューレが三回目にそれを唱えた時、二つの皿からぼっと、淡いピンクの煙が上がった。見ると、そこにはイチゴのショートケーキが行儀よく置かれている。
「わあ、美味しそう」
 と、リリルは思わず手を叩いていた。
「お茶を入れましょ。リリルは手を洗ってきて」
「うん」
 すぐさま手洗い場に行って、水盤から流れ落ちる水で手を洗った。水は魔法で出されて、水盤にためられたのちに家の外に流れていくようになっている。
 リリルが部屋に戻ると、ミューレはちょうどハーブ茶を注いでいるところだった。庭に植えられたハーブから作られたそのお茶からは、かすかな甘さと清涼感のある香りが漂っている。
「さあ、頂きましょうか」
 ミューレが席について、リリルもその向かいのイスに座った。
 それからショートケーキとお茶を味わいながら、リリルはさっきの事を訊いてみた。
「私の魔法陣、間違ってたかな?」
 言って、リリルはケーキの一欠けをほおばる。それは確かに、イチゴのショートケーキに間違いなかった。つけくわえるなら、「美味しいイチゴのショートケーキ」だ。不思議な優しさと落ち着きが、そこには感じられる。
「間違ってなかったと思うわね。私が確認した時には、確かにそうだったわよ」
 リリルは魔法を実行する前に、念のためにミューレに確認を取っておいたのだ。
「呪文も?」
「もちろん、そうよ」
 ミューレは落ち着いて、お茶を口にしている。
「じゃあさ」
 リリルはもう一口ショートケーキをほおばりながら、
「どうして私は失敗したのかな?」
「魔法というのは、とても不安定なものよ。だから使用には、十分な注意と準備が必要なの。そして最も必要なのは、それを実現させる願望とイメージ。それがなくては、魔法に命を吹き込むことは出来ないのよ」
「願望とイメージ?」
 リリルはちょっとよく分からない、という表情をみせた。
「そう、例えばさっき、リリルは美味しいものが食べたい≠ニ願ったわね。そしてそのためにケーキをイメージした」
「イメージが悪かった?」
「それもあるでしょうね。リリルはまだ食べたことのないそのミルフィーユのイメージを、うまく出来なかった」
「だって食べたことがないんだよ、出来るほうがおかしいよ」
 ミューレはリリルに対して優しく首を振った。
「必要なのは全体の形≠ナはなくて、あなたの印象≠ネのよ。リリルにはそのミルフィーユに対する印象、つまりイメージがあったはずよ。でなければ、それを欲しいとは思わないでしょうからね」
 リリルはどこか、納得いかない顔をしている。ミューレは笑って、
「私達は魔法を使っている≠ニいうよりは、お願いしている≠フよ。そしてその望みがより強く、よりはっきりしているほど、魔法はそれに応えてくれる。例えば、そうね……」
 とミューレはちょっと考えるようにして、
「リリルは子犬を欲しいと思うかしら。丸くて黒いつぶらな瞳をした、可愛い子犬よ」
「欲しいと思う」
 リリルは頷いた。
「じゃあ、ライオンを欲しいと思うかしら?」
「それは、どうかな。分かんない」
 子犬が急にライオンになったせいで、リリルにはうまくイメージできない。
「どうしてライオンを欲しいとは思わないの?」
 ミューレはからかうように訊いた。
「だって、ライオンなんて出しても可愛がれないし、危ないだけでしょ。それに全然、必要ないんだもの」
 ミューレはそうね、と頷いてみせる。
「その場合、リリルがどんなに苦労して正しい呪文を唱えても、ライオンは出てこないでしょうね。あなたにはライオンを望むだけの動機≠ェないのだから。そしてもし、ライオンを呼び出せたとしても、それはあなたのイメージ≠ノ従って、本当に凶悪なものになるでしょうね。あなたの恐怖≠ェ深ければ深いほど、それは顕著に現れてくるわ」
「私の想像に、魔法が応えるの?」
「そう。だから決して、疑念≠竍怖れ≠持っていては、魔法は使えないの。魔法はあなたの心の正しさにこそ、応えてくれるのよ」
「ふうん」
 リリルはよく分からないように頷いて、残りのケーキを口にした。
「歳をとれば、リリルもきっと分かるわ。魔法というのは単なる便利な道具ではない。自分自身が試されるものなんだってことが」
 ミューレはそう、リリルに優しく語りかける。

 リリルは今、魔女の学校に通っていない。
 そこは魔法を習うところで、女の子なら誰でも八歳になれば行くところだった。リリルは今、十二歳である。
 リリルが学校に行かない理由は、簡単だった。
 彼女は学校があまり好きではない。みんなと同じように行動し、面白くもない授業を聞き、やりたくもないことをやるのは、彼女が嫌いなムカデを見るのと同じくらいイヤだった。
 通いはじめの、低学年の頃はそうでもなかった。けれどリリルに両親がいないことが分かり、学年が進むにつれ、彼女の周りは微妙に変化しはじめていた。
(どうしたんだろう?)
 と思いながら、しかしリリルは気にしていなかった。彼女は両親がいないことを、少しも変だと思ったり、いけないことだと思ったことはない。リリルは両親が亡くなってすぐにミューレに引きとられたが、彼女はこの祖母のことが大好きだった。
 だからリリルはそれが起こった時、まるで「訳が分からな」かった。
 最初それは、何かの予兆のようにはじまっている。学校に置いておいたものが、ほんの少し位置がすれていたりしたのだ。例えば、リリルの教科書が床に落ちていたり、魔法用の道具がどこかに隠されていたり。
 リリルは何か嫌な感じ、それこそ、後ろで誰かが自分の事を見てくすくす笑っているような感じを受けていたが、まだそれが何を意味するかは分からなかった。
 そうして手をこまねいているうちに、事態は加速度的に悪化していった。
 机が教室の外に出されていたり、黒板に誹謗中傷が書かれていたり、教科書に落書きがされていたりした。
 リリルは事ここにいたって、限りない不愉快さと、信じられないくらいの心細さが自分を襲っていることに気づいた。それは、十二歳の少女の力では、どうにもならないほどのものだった。それは深い深い、昏い昏い穴の底に閉じ込められたことを意味していた。
 結局、リリルは学校に行かなくなったし、二度と行きたいとも思わなかった。ミューレはそれについて、何も言わない。彼女はただリリルの傷の深さを思いやるように、そっと見守るだけだった。
 リリルはこの家にいる以上、幸せで、平和にいられる。庭の小さなハーブ園をミューレと一緒になって世話したり、ミューレがその長い時間の中で集めた不思議な細工物を眺めたり、ひんやりとした地下の図書館でいくつもの物語を読んだりすることは、リリルが今、確かに必要としているものたちだった。
(ここは私の心を守ってくれる。私はミューレばあちゃんと一緒にいれば、幸せでいられるんだ)
 そう、リリルは感じるのだ。
 そんな状態が続いて、もう半年近くがたっていた。リリルはこの時間が永遠に続くことに、何の疑問も持っていなかった。彼女にとって、この時間こそがすべてだったのだ。
 そして今、十二月を迎えようとしている。

 十二月二十五日は、星夜祭≠セった。
 この日、星々はその輝きをもっとも強くして、地上には無数の光の柱が出現する。人々は銘々の思う場所に、思い思いの飾りを施した空き籠を置いた。その中に光が入っていれば、近いうちに幸運が訪れるとされている。
 それと同時に、この日はお祝いのパーティーが開かれるのだった。
「星夜祭の準備をしましょうか」
 とミューレが言ったのは、その一週間ほど前である。
「籠を作るんでしょ」
 リリルは言った。光を捕まえるための籠は、自分で作らなくてはならない。といってもそれは、屑籠でもバスケットでも、光を受けることさえ出来ればよく、後はそれに簡単な飾りつけをするだけだった。
「それにケーキもね」
 ミューレはにっこりして付けくわえる。
「やっぱり魔法は使わないの?」
 と、リリルは訊いた。ミューレは星夜祭の時に食べるケーキを、決して魔法で作ってしまおうとはしない。だけでなく、ミューレは普段からあまり魔法を使おうとはしなかった。
「魔法を使えば簡単なのに」
「歳をとるとね、なんでもゆっくり、時間をかけてやってみたくなるのよ。あんまりにも簡単すぎると、とても味気なく感じてしまうから。それともリリルは、自分でケーキを作るのがそんなに嫌いかしら?」
 ううん、とリリルは首を振った。
「とっても面白いし、大好き」
「ならよかったわ。それじゃ、ちょっと買い物に付きあってもらおうかしら」
「うん」
 頷いて、リリルは立ち上がって買い物籠を取りに行く。戻ると、ミューレは扉のところで待っていた。
「じゃあ、行きましょう」
 二人は並んで歩きはじめる。
 ミューレの家は街外れにあって、周りには森と畑が広がっていた。土の道が一本伸びていて、そこをずっと歩いていけば街にまで出られる。
「リリルは今年、どこに籠を置くつもりなの?」
 と途中、ミューレはそんなことを訊ねてきた。
「本当は内緒なんだけど、おばあちゃんには教えてあげるね」
 とリリルはミューレの顔を嬉しそうに見ながら、
「森の中にね、切り株があるんだけど、去年そこに光が立ったのを見てたの。だからそこに置くつもり」
「それならうまく光を捕まえられるかもしれないわね」
 ミューレは笑顔で言った。
「おばあちゃんは?」
 リリルは訊き返してみる。
「ん、秘密」
 冗談めかしく言うと、リリルは途端に口を尖らせて、
「ずるい、私にだけ言わせるなんて」
 と文句を言った。ミューレはごめんごめんと笑ってから、
「本当はね、私は籠を置かないつもりなのよ」
「どうして?」
 リリルは驚いた。
「私はもう十分に、ずいぶんたくさんの幸福を受けてきたし……、今も、そうよ」
 そう言って、ミューレはリリルの頭をなでてやった。
「だからね、これ以上幸福を望むのは、罰当たりな気がしてね。だから、今年は籠を置かないことにしたのよ」
「でも、星夜祭なんだよ」
「じゃあ、こうしましょうか」
 と、ミューレは困ったように言った。今のリリルに自分の気持ちを理解してもらうのは、少し難しい気がしたのだ。
「私の分も、リリルにお願いするの。そしたらリリルには二人分の幸福がやってくる。リリルはそのうちの少しを、私に分けてくれればいい」
「自分の幸福を人にあげちゃうの?」
「そうね。でも、そうして自分が幸福になることだってあるのよ」
 二人がそんなことをしゃべりながら歩いていると、道の向うから誰かが一人、こちらに向かってやって来ていた。その姿を見て、リリルははっとしたように怯え、ミューレの手をつかんでいる。
 その人物は黒いローブをまとい、顔を白い包帯で覆っていた。灰色の目だけがその間からのぞいているが、表情をうかがうことは出来ない。
 追放者≠セった。
「こんにちは」
 と、ミューレはリリルの怯えに気づいていながら、それに構わずに明るく声をかけている。
 その人物は立ち止まってちょっと頭を下げ、それから向うへと歩いていった。その間、リリルはずっとミューレの陰に隠れるようにして警戒している。
 その姿が見えなくなった頃、リリルはようやくミューレの手を離して、
「あの人、恐い人なんでしょう? おばあちゃんは恐くないの」
 と、信じられないように言った。
「そうね、恐い人かもしれないわね」
 ミューレは穏やかに言って、それから歩きはじめている。
「あの人は禁忌≠犯して追放者≠ノされた人よ。人前では顔をさらすことも、声を出すことも禁じられている。禁忌≠犯すというのは、それほど罪深いことよ」
「だったら……」
「でもね、あの人の眼を見ていると、そんな悪い人には見えないのよ。さっきだって、きちんと挨拶に答えてくれたでしょ?」
「でも私、あの人が恐い」
 ミューレはリリルの手をとって、その顔を見ながら言った。
「見た目だけで、それがすべてだと思っては駄目よ。自分の印象≠ノ捕らわれていれば、とても大切なものを見失ってしまう。できるだけ、自由な心を持ちなさい。そうしなければ、いつか大切なものをなくしてしまうから」
 リリルは分からないながらも、ミューレの真剣な様子につりこまれて、ともかくも頷いている。
 それからしばらく歩いていくと、街が見えはじめた。

 道が舗装され、石造りの建物が並んでいる。その向うには、魔法の儀式を行うために造られた水晶塔≠ェ、ランドマークとしてそびえていた。
 街に入ると、さすがに星夜祭が近いだけに、賑やかな喧騒に満ちている。道行く人の誰もがどこか浮かれて、幸せそうだった。
「ラフィスの店に行くわよ」
 と言ってミューレは道を歩いていく。リリルはその後を、隠れるようにして続いた。学校の知りあいに遭ったりするのが、嫌だったからだ。
 が、幸いにもリリルは誰とも遭わずに店までやってくることが出来ている。
「雑貨屋」
 と、看板には書かれていた。扉を開けるとベルの音が鳴って、店の主人が二人に気づいた。
「こんにちは、二人とも」
 と彼女は声をかける。店の主人といってもまだ歳は若く、頭巾を頭にかぶせて、髪は編んで背中に流している。笑顔がとてもよく似合う人だと、リリルは思っていた。
「ラフィス、お久しぶり」
 ミューレはそう言って、店の中に入っていく。リリルもぴょこんとお辞儀をして、後に続いた。少し緊張している。
「今日はどうしたんです? ああ、星夜祭でしたもんね。材料は、去年と同じですか?」
「ええ、卵に小麦粉、砂糖……」
「牛乳にバニラビーンズ、ベーキングパウダーに、バター、各種フルーツですね」
 ラフィスは去年の注文だというのに、しっかり覚えているらしい。
「ええ、そう」
「すぐに用意しますね」
 ラフィスの動きはきびきびしている。すぐさま店の奥に引っ込んで、注文の品を探しはじめていた。
(こういうところが、すごいんだよね)
 とリリルなどは思ってしまう。自分のやることを心がけて、余計な迷いや無駄がない。とてもしっかりした人だと、リリルは思うのだ。
 ほとんど待つこともなく、材料一揃いを持ったラフィスが出てくる。リリルがそれを買い物籠に入れながら、ミューレが代金を払っている。青水晶で作られた、透明な貨幣だった。
「ちょうどですね」
 とラフィスが確認する。
「ケーキが出来たら、ラフィスにも一つ、ごちそうするわ」
「楽しみにしています」
 と、ラフィスは笑顔で言った。
 それから二人は店を後にして、家にまで戻っていく。冬の冷たい風と曇った空は、もうすぐ雪が降ってくるのではないかと思われた。
 星夜祭の前日、二十四日にミューレはケーキを焼く準備をはじめている。その準備が出来るまでの間に、ミューレはリリルに籠≠置いてくるように言った。
「ミューレばあちゃんの分まで置いてくるから」
 リリルは自分とミューレの分、二人の名前を書き入れておいた籠を見せ、目的の場所に向った。
 家から少し行ったところの森の中に、目的の切り株がうわっている。そこから上をのぞくと、まるで空まで続く穴のように、周りの木の枝葉が真ん中を開けて丸く囲んでいた。
(きっと、願いごと叶うよね)
 リリルはその場所にそっと籠を置きながら、わくわくするような気分でいた。星夜祭の日にはきっと良いことが起きる、そんな気がしている。
 リリルは何度か振り返って籠の様子を確かめながら、家まで戻った。
「ただいま」
 そう言って、待ちきれないように居間にまで急いだ。これからミューレと一緒にケーキを作るのである。
 が、様子が変だった。
 居間に入った瞬間、それは伝わってきた。何かが、違う。大切な何かがそこから欠けてしまっているような、漠然とした不安感があった。
「おばあちゃん?」
 リリルはミューレを呼んでみる。
 返事はなかった。
「――」
 怯えるようにして少し歩いてみると、リリルはこの空気の不自然さの正体がわかった。
 そこに、ミューレが倒れている。この家の主人で、その雰囲気の要ともいうべき彼女が、そこに倒れていたのだ。この落ち着かなさ、異質な感覚は、彼女がそこにいないせいだった。
「ミューレばあ……」
 リリルはすぐさま駆け寄って、けれどどうしていいか、まるで分からなかった。訳の分からないほどの混乱が彼女を襲って、まともに考えることもできないでいる。
(医者、医者を呼ばないと)
 と、リリルがともかくも思いついたのは、大分たってからだった。ミューレはその間、ただ昏々と眠るような様子で、呻き声一つ上げることはない。
 まるで死んでいるようだった。
 リリルは急いで玄関を出て、それから戻って枕をミューレの頭にあてがい、毛布をかぶせておく。そうして外に出て、街に向った。
 家の外は冷たく、吐く息は白く曇っていた。が、リリルは外套を着ることさえ忘れて、夢中になって走り続けていた。
 走っている間中、リリルは自分の足が本当に地面を蹴っているのかどうかさえ、よく分からないでいる。不安が後から後から湧いてきて、まるで自分の足がその不安に食べられてしまったようだった。
 街にまで着くと、リリルはラフィスの店に向った。他に、頼るべき人を思いつかなかったのだ。
「ラフィス、さん」
 息を切らせながら、リリルはラフィスに向って言う。
「おばあちゃんがケーキを作る準備をしていて、それで私は星夜祭の籠を置きに行って、でも戻ってきたら何だか様子が変で、おばあちゃんが大変で……」
 ラフィスは買い物客に待ってもらうよう言って、ともかくリリルを落ち着かせようとした。
「大丈夫よ。ミューレさんが、どうかしたの?」
「だから、大変で、急がないと」
 リリルはもどかしそうに、無闇と手を振ったりしている。
 今一つ分からないながらも、ラフィスは事の重大さに気づいたらしい。ともかく店を閉めて、リリルと一緒にミューレの家に向うことにした。
 その途中、リリルはようやく事のあらましをラフィスに説明している。
「ミューレさんが倒れたの?」
 ラフィスは驚いたが、同時に何かの予感のようなものを持っているようだった。それだけのことを、ラフィスはミューレから聞かされたことがある。
 二人が家についてみると、ミューレはリリルが家を出た時の格好のままで横たわっていた。リリルが慌てて近づいて、ラフィスがゆっくりと後を追う。準備された材料が、まるで息を潜めるようにテーブルの上に置かれていた。
「とにかくベッドまで運びましょう」
 と、ラフィスは落ち着いて言った。
 二人が苦労してミューレを寝室まで運んでも、その目は鉄か何かで出来ているように、まるで開かなかった。その姿は、よく出来て人形のように見える。
「ラフィスさん、おばあちゃん大丈夫だよね?」
 リリルは心配そうに訊いた。
「……呼吸もしているし、脈もちょっと弱いけど安定している。そのうちにきっと目を覚ますわ。それよりも、リリルちゃんに言っておかなくちゃならないことが……」
 とラフィスが言おうとしたところで、ミューレの目がゆっくりと開いた。花のつぼみが開いたような、不思議な感じの開き方である。
「あら、どうしたの?」
 ミューレは心底不思議そうな、そんな微笑を浮かべて言った。
「ラフィスまで。それにリリルは何だか泣きそうな顔をしてるわね。私、どうしてこんな所で寝てるのかしら?」
「居間のところで倒れたんです」
 と、ラフィスが冷静に伝える。
「居間で?」
 ミューレはちょっと考えて、それから、「ああ」と気づいたように、
「そうだったわね。ケーキを作る準備をしていて、急にくらっときたんだったわ。そう、倒れて……、気を失ってたのね」
 ちょっと苦笑するように言った。
「ミューレさん……」
 ラフィスが何か言おうとするのを、ミューレはそっと目で抑えて、
「悪いけど、ラフィスは少し席を外してくれるかしら。リリルと、話があるものだから」
 穏やかに言った。ラフィスはその目をのぞいてから、少しためらうように部屋を後にする。
 ラフィスが扉を閉めると、すぐさまリリルが心配そうに口を開いた。
「ねえ、おばあちゃん大丈夫なの? どこも悪くない? お医者さんに見てもらったほうがいいんじゃないの?」
 矢継ぎ早に質問するのをミューレは笑顔で優しく止めて、
「心配してくれてありがとう、リリル。大丈夫、私はどこも悪くないわ」
「本当に?」
 リリルは何かすがりつくような、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「じゃあこれからも一緒だね。おばあちゃん、いなくなったりしないよね」
 が、ミューレは目を閉じて、諭すように首を振った。
「それは無理なの」
「どうして……?」
 リリルは信じられない、というよりは信じたくないといったふうに、目に涙をためながら言った。
「ねえリリル、落ち着いて聞いて頂戴」
 と、ミューレはあくまでも穏やかに話すことをやめない。
「いずれにしても、私とあなたでは歳が違いすぎるのよ。どうしたって、私のほうが先にいなくなってしまうわ。悲しいことだけど、それはどうしようもないことなの」
「でも私は! 私にはおばあちゃんが必要なのよ」
 リリルは叫ぶように言っている。
「私がいなくなっても、リリルなら大丈夫よ。学校に行きなさい。それから、友達を作るの。大丈夫。あなたならきっと良い友達が出来るわ。だって、あなたはとても優しい子だもの」
「そんな、そんなこと知らないよ。私、おばあちゃんがいなくなったらどうしていいか分からないよ」
 リリルは自分でもどうしようもなく、泣きはじめている。
「そんな顔をしないで、リリル。私まで悲しくなってしまうわ。大丈夫よ、あなたなら。私が保証する。……ごめんなさい、少し疲れたから眠るわね。このことはまたゆっくり話しましょう」
 そう言うと、ミューレは気がゆるんだかのように目を閉じ、再びベッドに横たわっている。こんなわずかの会話さえ苦になるほど、彼女の体は衰えてしまっているらしい。
「――」
 目を閉じたミューレに何も言うことが出来ないまま、リリルは部屋を出て行くしかなかった。
 外では、ラフィスが沈痛な面持ちで待っている。
「ミューレさんは、どうだった?」
 リリルはしかし、無言で首を横に振るだけである。
「そう」
 ラフィスは居間のテーブルの席に座って、リリルにもイスをすすめた。テーブルの上には、ケーキの材料や調理道具が、見捨てられたように転がっている。
 リリルがイスに座ると、ラフィスは、
「魔女にはね、自分の死ぬ時が分かるの」
 とリリルの目をまっすぐに見つめながら言った。リリルは涙をぬぐいながら、けれど黙ってその話を聞いている。
「もちろん、誰にだって分かるわけじゃない。ちゃんと魔法というものを理解≠オていて、それと親しい人が、ということよ。けどミューレさんは優れた魔法使いだったし、それをきちんと理解している人でもあった。それにね、前に言われたことがあるの。私はもう長くないみたいだ≠チて」
 ラフィスはリリルの手を引っぱりだして、その手を強く握りながら言った。
「いい、リリル? ミューレさんのことはもうどうしようもないの。どこかが悪いわけでも、ひどい病気にかかったわけでもない。――寿命なの」
 リリルはその手を振り払って、立ち上がった。
「……」
 何か言おうとして、しかし言葉が出ないようにしながら、ようやく、
「だから、私にどうしろっていうの? ミューレばあちゃんがいなくなったら、私は一人になっちゃうんだよ。そんなの耐えられるわけない。それじゃ、どこにもいられない……!」
 ラフィスはその言葉に、何も言い返すことは出来なかった。

 ミューレはそれから、ほとんど目覚めることはなかった。たまに目の覚めた時でも、ほとんど食事をとることもないし、ベッドから起き上がることもない。
(本当に、もう一緒にいられないのかな)
 リリルでさえ、そんな気がしはじめている。
 二十四日の夜、彼女は星夜祭の光の柱を見に、籠を置いた森に向ってみている。
 道すがら、降るような光の群れが天からいくつも落ち、地上のものとも思えぬ幻想的な光景を作り出していたが、リリルはまるでそれらのことが目に入らなかった。
(おばあちゃんはいなくなったりしない)
 と、リリルはそんな希望を抱いていた。星夜祭の光を捕まえることが出来れば、願い事が叶うのだ。そして、彼女の置いた籠はミューレの分も含めて光を捕らえているはずだった。
 が、リリルが切り株のところにまでやって来たとき、そこには光がなかった。
 森はしんとした暗闇のまま、かすかな月の光が射しこんでいるに過ぎない。リリルの吐く息が白く銀色に光るほか、そこには何の変化もなかった。
(そんなのないよ)
 全身の力が一時に抜けるような奇妙な感覚がリリルを襲って、思わず立っていることが出来なかった。そのまま、耐えることも出来ないうちに涙があふれてくる。
 以来、リリルは家でもほとんど何もせず、じっとミューレの傍らで座っているだけだった。リリルにはもはや、それ以外のことが考えられなくなっている。
 たまに様子を見に来るラフィスに対しても、必要以上に口をきこうとはしなかった。
(おばあちゃんがいなくなったら、私どうしたらいいか分かんないよ)
 リリルは絶望的な気分のまま、ミューレの手を握っている。けれど、その手が握り返してくることはなかった。
 そんな時間を過ごしながら、リリルはミューレとの昔のことを思い出すことが多くなっている。両親が病気で亡くなって、ミューレに引き取られた日のこと、星夜祭の日に作ってくれた手作りの美味しいケーキのこと、ミューレが見せてくれたいくつもの不思議な魔法のこと。
(そう、魔法……)
 リリルの心の中で、その瞬間何かが響いた。
(そうだ、魔法だ。おばあちゃん言ってた、魔法は自分の望みに応えてくれるって)
 はじかれるように、リリルは立ち上がっている。それから地下の図書室にこもって、リリルは必死にその方法≠探しはじめた。
(時間がないんだ)
 ミューレがいつ死んでしまうのか、分からない。リリルは必死になって本のページをめくった。
 ほとんど時間の感覚が失われるほどに、リリルは本を読みふけった。その合間に時々、ミューレの様子をうかがい、まだ息をしていることが分かると、安心して再び本を読みはじめている。
 何日たったか、リリルには分からない。
 ただリリルはその日、ようやく目的の方法≠見つけた。不死とまではいかないが、人の、寿命を延ばす魔法である。
(これがあれば、おばあちゃんはいなくなったりしない)
 リリルはその魔法のノートを作り、さっそく準備にとりかかった。
 魔法にはいくつかの薬と魔法陣、それに舌をかみそうな長い呪文が必要になる。リリルはまず、薬の材料を集めにかかった。ルディノア草、虹色蝶の燐粉、空魚の卵……。
 それらのいくつかはミューレの実験室や、家のハーブ園で手に入るものだったが、けれどどうしても手に入らないものもある。
(どうしよう?)
 考えるうちにふと、もしかしたら、という気分になった。
(あの人の所にならあるかもしれない)
 それは、リリルとしてはあまり行きたくないところではあった。が、もちろんそんなことをいっている場合ではない。
(頼めばきっと分かってくれる)
 むしろ自分に言いきかせるように思って、リリルはその場所に向った。

 ミューレの家を出て、町とは反対の方向に道を歩いていく。空は灰色に染まって今にも雪が降ってきそうで、地面は凍てついてひどく固そうに見えた。
 リリルはコートを着て、白い息を吐きながら歩いていく。
 やがて、その場所が見えはじめた。
 玄関の先には雑草が茂り、家は所々が朽ちていて、指で押せばたちまち崩れそうにも見える。窓から見える中の様子は死んだように静かで、人が住んでいるようには見えなかった。
 追放者≠フ家である。
(いないのかな?)
 と、リリルは不安になりながら、玄関の扉をノックしてみた。乾いた音が、不都合なほど大きく響いている。
 反応は、意外なほどすぐにあった。
 まるで幽霊が現れるようなかすかさで扉が開き、男が一人姿を現したのだ。灰色の髪と、同色の不思議と吸い込まれるような感じの眼をした、二十四、五といった男である。
「あの……」
 リリルはそれが予想外のことで、少し慌てながら言った。
「あなたは、その、追放者≠フ人ですよね?」
 男は、しばらくリリルの顔を見つめてから、いつから気づいていたのか分からないような無表情さで、
「あんたは確か、ミューレさんと一緒にいた子か」
 と呟くように言った。
「僕に何か用か?」
「あの、お願いがあるんです」
 リリルは相手が何故、顔をさらし、しゃべっているのかを疑問に思う余裕もなく、言っている。
「……」
 男はちょっと考えるふうにリリルの顔を見た。
「私、必要なものがあって、それで、あなたのところにならそれがあるかと思って」
 少し怯えながら、しかしリリルは男から目を離そうとはしない。
 無言のまま、男は目だけで示して家の中へ戻って行った。リリルにも、ついて来いと言っているらしい。ほっとする間もなく、リリルは慌ててその後を追った。
 家の中にはテーブルやイスといった家具がわずかにあるばかりで、人の住んでいる気配や匂いといったものに、ひどく乏しい。
(こんなところに一人で住んでいるんだろうか)
 と思うと、リリルは人事ながら寂しい感じがした。
「追放者≠熾s意の人の訪問には姿を見せてもいいし、声を使ってもいいことになっている」
 と男は言いながら、リリルにお茶を出してくれている。
 リリルは慌ててお辞儀をしながら、手近のイスに座った。お茶を口にすると、ミューレの入れたものと同じ味がした。
「これ……」
「あんたのとこのミューレさんがくれたお茶さ」
「私は、リリルといいます。えと……」
「クローディだよ」
 と男は名乗った。
「その、クローディさんは一人で暮らしているんですか?」
「追放者≠ェ何人もで暮らしていると思うのか?」
「そんなつもりで訊いたんじゃなくて」
 リリルは急いで謝りながら、
「一人だと、寂しくないかな、と思ったから……」
 遠慮するように言った。
「禁忌≠行うというのは、そういうことだ。それでも、誰一人救うことなんて出来なかったが」
 クローディは、あくまでも無表情にしゃべっている。
「……」
「僕に用というのは何なんだ?」
 うながされて、リリルは一枚の紙を渡した。
「それが、こちらにないかと思って」
 クローディは目を通しながらすぐにそれと気づいたらしく、
「延命≠フ魔法か」
 と、どういう感情がこもっているのか分からない口調で言った。リリルはそれに頷いて心配そうに次の言葉を待つ。
 クローディは何かを考えているような、あるいは何も考えていないような様子のまましばらく黙っていたが、
「ミューレさん、だな」
 とだけ、言った。
「はい」
「この材料なら、確かに僕のところにある」
 リリルの顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ……」
「君は、何のためにこの魔法が必要なんだ?」
「え――」
 唐突な問いに、リリルはつまってしまう。
「君は、一体何のためにこの魔法を必要としている? ミューレさんのためか、それとも自分が一人ぼっちにならないためのものか。君は、この魔法に何を望んでいる?」
「それは……」
「例えこの魔法が成功してミューレさんの余命がほんのわずか伸びたとして、それで君はどうするんだ? 君には、そのことが分かっているはずだ。状況は、決して変わらない、そのことが」
「でも、私は」
 リリルは拳を握って、唇を固く結んでから、それでも言うしかなかった。
「このままじっとおばあちゃんが死ぬのを見てなんていられない。わがままでも、自分のためでも、私はおばあちゃんに生きていて欲しい。無駄でも無意味でも、私は、何かせずにはいられないんです」
 クローディはちょっと黙って、それから立ち上がった。そしてそのまま、別の部屋へ行ってしまう。
(怒らせたんだろうか?)
 と、リリルは心配になったが、クローディは戻ってきていくつかの物品を机の上にのせた。
「あの……?」
「何が正しいかは、自分で決めろ。例えそれで、どんな結果になろうとも、な」
 リリルは立ち上がって、急いでお辞儀をした。

 材料がすべてそろった以上、後は準備である。リリルはミューレの実験室を使って、何度か手酷い目に遭いながら薬の調合を終えた。
 次は、魔法陣である。
 リリルは包帯を巻いた手を使って、練習のために何度か描いてみた。が、うまくいかない。
(どこが変なんだろう?)
 リリルにはよく分からなかった。魔法陣には一定の描き方があって、それを踏まえていなければうまく描くことは出来ない。リリルの描こうとしている魔法陣は、普通の大人にでも少し難しいものだった。
(時間がないのに)
 リリルは焦らざるをえなかった。が、それでも本を調べ、基本的な魔法陣の描き方から急いで練習していく。
 数え切れないほどの紙を無駄にしたあげく、リリルはようやくのことでその魔法陣を描くことに成功した。
(次は呪文だ)
 とはいえ、それが一番の難物だった。
 魔法の呪文は発音やリズム、抑揚が正確なだけでなく、魔法に対する正しい知識が必要だった。
 つまりは、ミューレのいう印象=Aイメージである。
 呪文を唱えている間、それを絶えず自分の中に思い浮かべていなくてはならない。かすかな迷いや疑いによっても、魔法はどんな影響を受けるか分からなかった。
 リリルは繰り返し呪文の練習をし、できる限り正確になるよう努力した。自分でも何がどうなっているのか分からないほど同じ文句を繰り返しながら、リリルはただ、ミューレにもう少しでも生きていてもらいたいという、その想いだけははっきりと持ち続けている。
 そしてミューレが倒れて数週間が過ぎた頃、もはやリリルにはそれ以上の時間は残されていなかった。まるで花の枯れしぼむような感じで、ミューレの顔から生気が失われはじめていた。
(もう、やらなくちゃいけない)
 準備は、必ずしも完全とはいえない。が、それでもリリルはやるしかなかった。
 リリルはミューレの寝室に入って、まずその額と両手の甲、三ヶ所に魔法陣を描き入れた。それから薬を、その上に塗りこんでいく。
 冬の冷たい光に照らされたミューレの顔は、ひどく穏やかに見えた。
 リリルは傍らの杖をとって、一度大きく息を吸った。
(よし)
 それからおもむろに、呪文を唱えはじめる。
「エラゥ・イティトゥンランネトゥ・アハフゥラニトゥ・イノヨノクゥ・イセナマ・オニアディス……」
 発音、リズム、抑揚、どこにも間違いはなかった。それは歌うような、囁くような、不思議な響きを持ってつむぎ出されている。
(……)
 リリルは一心に呪文を唱えていく。
 ――君は、一体何のためにこの魔法を必要としている?
 呪文は、続いていく。
「君には、そのことが分かっているはずだ。状況は、決して変わらない、そのことが」
「魔女にはね、自分の死ぬ時が分かるの」
「私がいなくなっても、リリルなら大丈夫よ」
「ミューレさんのことはもうどうしようもないの。どこかが悪いわけでも、ひどい病気にかかったわけでもない。――寿命なの」
「ミューレさんのためか、それとも自分が一人ぼっちにならないためのものか」
「だって、あなたはとても優しい子だもの」
「何が正しいかは、自分で決めろ」
(私は……)
 リリルは、いくつの想いが交錯する中で、自分が本当に望んでいることを考えた。
(私は、ここに……)
 そして答えは、最初から出ていたのだ。
(この世界に、私はいたい)
 ミューレとすごしたこの世界に、ミューレが示してくれたこの世界に、リリルはもっといたいと思った。そしてもっといろいろなことを、いろいろな想いを、自分で感じたかった。例えミューレがいなくなったとしても、そこはミューレのいた世界なのだから。
(おばあちゃん、私……!)
 リリルの呪文は、終わった。
 彼女は杖を置き、イスに座った。そして荒い息をつきながら、しばらく呆然とする。
 ベッドの上のミューレには、何の変化も現われなかった。
(失敗――)
 リリルは、けれどどうしてもそれが悲しくて、涙を流しはじめている。納得したつもりでも、それは悲しくて仕方のないことだった。
「私、学校に行く。友達も作る。この世界で、私がんばってみる」
 リリルは涙をぬぐいながら、誰にともなくしゃべっている。
「だから、きっとおばあちゃん安心してるよね。悲しんだり、してないよね。私が心配で、ゆっくり眠れないなんてことないよね」
「ええ」
 リリルは驚いて顔を上げた。
「それだけ聞けば、十分に安心よ」
 いつの間にかミューレが起き上がって、静かに微笑んでいた。
「おばあちゃん……」
 リリルは信じられないものを見るような目で、そのミューレの姿を見ている。ミューレの顔色は血色を取り戻して、ひどく健康そうに見えた。
 魔法は、成功したのだ。
「あなたの想いに、魔法が応えたのよ。……おめでとう、リリル」

 それから、リリルは学校に通いはじめた。
 はじめの頃、彼女はひどくぼんやりしていた。そのせいか、周りでのいたずらはほとんど気にならなかったし、そうしたことで傷つくというよりも、それが何だか馬鹿らしいことのように感じている。
 ミューレが亡くなったのは、それからしばらくしてのことだった。
 その事は、リリルの中で十分な予感としてあったらしい。彼女は取り乱しもせず、あまり驚きもしなかった。ただ、学校から帰ってそのことに気づき、しばらくその部屋で、何かを確かめるようにぼんやりとしていただけである。
(あの魔法は、本当は失敗していたんだ)
 失敗とまではいかないが、あの時、ミューレが手を貸してくれたのだろう。リリルの想いに応えてくれたのは、魔法ではなくてミューレだったのかもしれない。
 翌日、リリルはかってのいじめっ子とこっぴどい喧嘩をやって、以来、彼女が二度といじめにあうようなことはなかった。友達も、それに伴って増えていった。
 リリルは大勢の人の力を借りたり、大勢の人に力を貸したりしながら成長した。
 折にふれて、リリルはミューレのことを思い出している。そこには手に触れられるほど確かな何かが、きちんと息づいていた。
 それがリリルに、この世界で生きていくだけの力を与えてくれる。

――Thanks for your reading.

戻る