私と杏(あんず)は本当に仲良しだ あなたって本当にクズね、と杏は言う。時には口に出して言うだけじゃなくて鈍器を使って私の頭を小突いたりする。その結果私の頭蓋骨に罅が入ったとしても、杏との友情に罅が入ったりはしない。私たちは仲良しなのだ。 私と杏の友情のはじまりは、かれこれ小学生時代にまで遡る。 入学したばかりだった当時、私は教室の中で右も左も分からずにおろおろしているばかりだった。そんな私に杏はクラスの中で唯一声をかけてくれた。彼女は私と違って堂々としていた。昔から世界というものへの自覚が早かったのだ。 誰からもかまわれることのなかった私は杏と一緒にいられることを喜んだ。髪をつかんでひきずり回されたり、洗った手を服でぬぐわれたりすることに、私は言葉にできないくらい歓喜した。もしも神様がいたら、それはきっと杏みたいな存在なんだろうと思う。 学年が進んでも、私たちは一緒だった。給食のときにはいつも杏のくれるピーマンやニンジンを食べた。その代わりにゼリーやプリンを交換した。「これでおあいこだね」と杏はいつも天使みたいに笑った。やっぱり杏は何て優しいんだろう。 杏はしょっちゅう宿題のプリントやドリルをやらせてくれた。「何度も繰り返したほうが勉強になるでしょう?」と杏は言った。私はもっともだと思って、杏の親切にいたく感じいった。それだけでなく杏は、「私のぶんは、私の字を真似るといいわ。ほら○○の字って言っちゃ何だけど汚いでしょう?」。私はまた、もっともだと感激した。 小学校四年のあるときには、こんなことがあった。杏が私なんかよりずっと頭のいいことを示す例だ。 その日、私たちはデパートに出かけた。杏は地元のではなくて、電車で三十分のところにある市外のデパートにしようといった。そっちのほうがいろいろなものがあるから。杏はいろんなことを知っている。 普段見慣れない電車の景色や、子供二人だけでデパートに行くことで、私の心はガラスみたいに砕けてしまいそうなほど高鳴っていた。一方で杏はさすがに大人っぽいクールな態度で落ち着いていた。 杏の言うとおり、それは大きなデパートだった。屋上の遊園地で遊びたかったけれど、杏はそんなの子供だましだといってまっすぐ目的地に向かった。目的地というのがどこなのか、私はまだ知らなかったのだけど。 エレベーターで四階まで行くと、おもちゃ屋さんに向かった。広いフロアには見たこともないくらいたくさんのおもちゃにあふれていて、意味もなく心臓がドキドキした。そのたくさんのおもちゃがくれるであろう楽しい時間を想像すると、私の心は勝手に躍りだしてしまった。 「ねえ、これなんて素敵じゃない?」 と杏は一つのおもちゃを手にとってみせた。それは使いかたもよく分からないような変てこな代物だったけど、杏が言うのだから間違いはない。私はそれが欲しくてたまらなくなった。 「でも私、お金なんて持ってないよ」 残念ながら、私の家はお金持ちというにはほど遠い中流家庭なのだ。 「大丈夫よ」 そう言って、杏はちらっと店員さんのほうをうかがった。 「黙って持ってっちゃえばいいんだから」 「でもそんなことしたら怒られちゃうよ」 私はびっくりした。 「ばれなきゃ誰も怒ったりなんかしないわよ」 杏は本当に何でもなさそうに言った。それを聞くと、私は自分の臆病なことに腹が立った。杏は本当に勇気がある。 「うん、そうだね」 「見つからないように、私が店員さんに話しかけてるから、○○はその間に逃げるんだよ」 私は杏の頭のよさに脱帽した。それに比べると、私の頭はからっぽのソックスみたいなものだった。べろんとだらしなく床に転がっている。レントゲンで撮ったとしても、そこにはきっと杏の半分ほどの脳みそもないに違いない。 「じゃあ私は店員さんのところに行くから。いい? ちゃんと機会を見て逃げるのよ」 「うん、分かった」 こくんと頷いた。 杏が店員さんのところに行くのを、固唾を飲んで見守っていた。杏も私と同じくらい緊張した顔をしていた。でももし二人の立場が逆だったら、私はきっと杏ほど堂々としてはいられなかっただろう。 やがて店員さんと杏が何か話しあっているのを、私は注意深くうかがっていた。杏の言うとおり、機会を捉えそこねてはいけない。私は目をマイセンの皿みたいにしながら様子に注意していた―― と、店員さんが杏の元を離れ、おもむろにこちらのほうにやって来た。私は蘇生用の電気ショックを受けたみたいにびくっとした。心臓が破裂してしまいそうなくらい早くなった。 「きみ、悪いけど右のポッケを見せてくれるかな?」 言われるままに上着の右ポケットを探った。するとそこからは不思議なことにベーゴマみたいなおもちゃが出現した。 「困るなあ、そんなことされちゃあ」 若い男の店員さんは心底面倒そうに言って、私を事務所へと連れて行った。 一時間ほどお説教をされたすえ、「今日は見逃してあげるけど、次にやったら警察を呼ぶからね」と言われて解放された。何が何だか分からなかった。 翌日、学校に行くと杏は見たこともないおもちゃをみんなに見せびらかしていた。それはテレビなんかでよく見かける、でも高価すぎてクラスの誰も持っていないおもちゃだった。 杏は私のところにやってくると、「昨日はあなたのおかげでうまくいったわ」と誉めてくれた。私は何のことだか分からなかったけれど、誉められたのはすごく嬉しかった。
その後、中学、高校、大学と私は杏と一緒だった。高校と大学に行くときには杏の提案で自分の答案をこっそり見せてあげた。そうすれば落ちるにしろ受かるにしろ二人とも同じ結果になるからだ。杏はそこまで私のことを考えてくれていたのだ。 晴れて大学生になったものの、私は杏と一緒にいる時間が減っていくことを嘆かざるをえなかった。杏はいろいろな友達とつきあっているみたいだし、それが仕方のないことだというのはわかっていた。普通に考えるなら杏みたいな女の子が私と一緒にいてくれるほうがおかしいのだ。 それでも杏は今までと同じようにレポートや試験といったものを代わりにやらせてくれた。時には代わりに講義に出ることもあるし、その時は杏のふりをして返事をすることもある。 そういう時、私の心は痛んだ。だって、私なんかに杏の代わりが務まるはずはないのだ。杏だったらもっと人に好印象を与えられるのだろうけど、私では到底そんなことはできない。 大学時代、私と杏が一緒にいられる時間は少なかったけど、それでも幸せだった。 でもそんな時間も大学を卒業してしまうまでだった。 卒業後、私は大手の企業に就職し、杏は地元の親戚がやっている会社に就職した。とうとう離ればなれになってしまったのだ。何百通も手紙を書いたけれど将来有望な彼女は忙しいのか、返事をくれることはなかった。電話やメールにも一切反応はなかった。 人生の中で、この時ほど絶望と味気なさを感じたことはなかった。杏のいない人生なんて、ゴール直前で結局兎に抜きかえされてしまう亀と同じだった。どれだけ苦労してがんばろうと、そんなのに意味なんてない。 私は杏のいない寂しさを仕事にぶつけることにした。杏が代わりにやらせてくれたレポートや試験のおかげだろう、私の業績はぐんぐん伸びていった。会社はそのことを評価してくれて特別チームに参加させてくれた。 小木と出会ったのは、その頃のことだった。 彼が私のどこを気にいったのかは、正直なところいまでもよく分からない。小木は会社代表の御曹司で、社内では女子たちの噂の的だった。人柄がよくて、能力もあって、ルックスも図抜けている。いわゆる銀のさじをくわえて生まれてきた、という人だった。私はそういうことに興味はないのだけど、とにかく彼に関する噂で悪いものを聞いたことはなかった。 「○○さん、今度の日曜は暇かな?」 と言われ、確かに何の予定もなかったのでそう答えると、驚いたことにその日の朝にSクラスベンツが私のアパート前に停まった。 何だかよく分からないうちにブティックや高級レストランや高原の星空に案内されると、彼はおもむろに、「結婚してくれないか?」と尋ねてきた。小学校四年生のときにデパートで店員さんに話しかけられたときと同じくらいにびっくりした。例の蘇生用電気ショック的痙攣をまざまざと思い出していた。 結婚する気はないからと断ると、小木はいったん引き下がったものの、その後も何度となくつきまとってきた。周りの人間は誰もが結婚を受けるべきだ、と強くすすめた。何度もそんなことを繰り返しているうちに私もそんな気がしてきた。それに結婚式ということになれば、杏も会いに来てくれるかもしれない。 杏に対して、私は長い長い手紙を書いた。杏がいなくてどんなに寂しい思いでいるか、それはまるで殻のないカタツムリと同じで、そんなのはナメクジと変わりがない。最後に、結婚するから式に出席してくれないか、相手はこうこうこういう人だ、と書きくわえた。 嬉しいことに、杏からの返事が来た。 「これから会いに行きます」 私は狂喜乱舞した。
再び、私の人生には杏の存在が復活することになった。 結婚式の日に再会した杏は、懐かしい彼女の姿そのままだった。多少、顔に今までの苦労がにじんでいたり、指先がひび割れていたりしても、そんなのは杏の魅力に何の陰も落としてはいない。 ブーケトスのときには杏の場所をきちんと狙ったのだけど、それは横からのばされた誰かの手に強奪されてしまった。たぶん優しい杏は他の人に譲ってあげることにしたのだろう。 私はその日、杏には是非うちに泊まってほしいと言ったのだけど、丁寧に断られてしまった。あなたたちの新しい生活を邪魔したくないの、と言うのだ。邪魔になんてなりっこないのに。杏は少し礼儀正しくなりすぎてしまったみたいだ。子供の頃は私の家であんなにもくつろいでいたのに。 でも私は杏ほど大人になんてなれはしない。また杏と離ればなれになってしまうなんて耐えられなかった。私はマンションや生活費を用意するからすぐ近くに住んでほしいと頼んだ。 こんなわがままな願いを、杏は驚いたことに受け入れてくれた。やっぱり彼女は天使みたいな人だ。ただ私なんかのためだけに、仕事も地元の生活も放り出して、近くに住んでくれるという。 私はさっそく杏にふさわしい住居を探し出した。それには夫の力も必要だった。大切な恩人のためだと言うと、夫は快く協力してくれた。 最高ランクのマンションを見つけ出し、それにふさわしい家具、調度品を用意した。急いでの仕事になってしまったために完璧とはいかなかったけれど、何とか杏に満足してもらえるだろうという程度のものが準備できた。はじめてこの家を案内したとき、私はどきどきしながらその言葉を待った。 「ふうん、○○にしてはなかなかいいんじゃない?」 私は全身の骨がぐにゃりと抜けてしまうくらいに安堵した。よかった、杏は満足してくれている。それが彼女の優しさからくるごまかしだとしても、私には十分だった。思わず泣いてしまいそうだった。 こうして私の人生は正しく軌道修正されることとなった。そこには杏がいた。ああ、何よりも大切な私の杏! 彼女がいない時間をどんなふうにすごしてきたのかさえ、私には分からなかった。だってそんなのは、宇宙の辺縁に一人ぼっちでいることと何も変わらないじゃないか。そんなことになれば、ブラックホールにあっというまに吸い込まれてしまうに違いない。 できるだけの時間を杏と一緒に過ごすことにしたかったけれど、杏はそんな私の短慮を押しとどめた。あなたには仕事もあるし、立派な旦那さんだっている、それをおざなりにしてはいけない、と言うのだ。私は杏の思いやりに感涙した。 それでも、たまにその家を訪ねると杏は昔みたいに歓迎してくれる。あなたって本当にバカでクズで間抜けね、と杏は言う。そういって私のことを心配してくれているのだ。私より私のことを心配してくれるなんて、杏は本当に優しい。 ある時には、杏は私のことを強かに殴りつけてきた。どうしてなのかと尋ねると、 「いずれあなたの旦那さんはこうやって○○を殴るようになるでしょ」 と言う。 「その時のための訓練よ」 私は彼女の先見の明に脱帽してしまった。やっぱり杏は頭がいい。そんなこと私は思いつきもしなかった。 杏の訓練は私の習熟にしたがって次第にそのグレードが引き上げられていった。最初は単純な殴打だけだったものが、木刀やハンマー、煙草の火や絞殺用の紐、熱湯や冷水にランクアップしていった。杏は私が申し訳なくなるくらいの熱心さでそうした道具を集め、新しい手段を考えた。 「傷跡が目立ったりしないように」 ということで、決して顔を傷つけることはなかった。杏は本当に優しい。私は全然そんなことを気にしないというのに、かえって杏のほうが私のことに気を使ってくれている。 頭蓋骨にひびが入ったのは、その頃のことだった。 その日、私は杏の家でお茶を飲んでいた。杏が手ずから入れてくれた、とても香りのいい紅茶だ。わざわざ現地から取りよせた一級品だという。そういえばこの前うちに見覚えのない請求書が届いていた。 リビングのソファに座って紅茶を飲んでいた。すると後ろに人の立つ気配があって、次の瞬間には私の意識はブラックアウトしていた。何が起こったのか分からない。 あとで杏に聞いたところでは、彼女は私の危機管理能力を確かめるために背後から青磁の壷を思い切り振り下ろしたのだという。で、どんくさい私は見事にその一撃を脳天で受けとめた、というわけだ。 幸いなことに、杏の適切な処置のおかげで病院に行くこともなかった。ひびが入ってるみたいだけどそんなの大丈夫よ、と杏は太鼓判を押してくれた。杏がそう言うなら間違いはない。 その後、杏は怪我のためだというのでさまざまな治療法を試してくれた。鍼灸や按摩、手かざし療法、オステオパシー、特別に調合した自家製の薬。 「どう?」 何だか頭がぼうっとして痛みも引いてきたし、治ってきたみたいだ、と答えた。杏は世界一の看護婦でも真似できないくらいの素敵な笑顔を浮かべた。あんなに口を大きく裂いてにっこりするなんて、杏にしかできないことだ。その後ろでは何故だか魚が空中を泳いでいた。 ところが風邪が人にうつって治ってしまうのと同じなのか、私がよくなるにつれて杏は病気になって寝込んでしまうことになった。熱を測ると38℃もあった。 「大変」 私は慌てた。 「ただの風邪よ」 と杏は言うが、そんなのはただの強がりだった。きっと彼女は私の代わりに不治の病に冒されてしまったに違いない。繊細な彼女のことだからそれも無理のない話だった。だってほら、彼女の耳から触手状の何かが伸び出ているもの。こんなのがただの風邪なはずはない。 でも残念なことに、私は医学的な知識なんて何一つ持ちあわせてはいない。どうして私は経済学部になんていって医学部に進まなかったのだろう。いつかこんな事態がやってくることなんて、分かりきっていたことだったのに。 己の無力さに打ちのめされた私は、けれどはたと思いあたった。そうだ、杏と同じことをすればいいんだ―― 私と違って杏のやることに間違いのあるはずがない。私は杏がそれまで私にしてきたことを逐一思い出していた。うん、大丈夫、そのとおりに同じことをすればいいのだ。 さっそく、杏の使っていた道具類を用意することにした。 「何をしているの?」 病床から、杏が不安そうな声を出した。私は答える暇さえ惜しんで準備に没頭した。いまや触手状の何かは杏の鼻からさえ伸びてしまっている。 まずは、針だ。 縫い針を杏の目に突き刺した。 「ひぎゃー!」 杏は絶叫した。よかった、元気を取りもどしているみたいだ。効果覿面というやつだった。さすが杏だ。私は次々に針を刺していった。針が刺さるたびに、杏の体はびくびくと力強く震えた。 次は按摩。 見よう見まねで、杏の体をほぐしたりさすったりした。杏の体はひどく固くなっていて、肩や腕の関節を外すのには苦労した。ぼくっ、ぼくっ、と骨の外れる感触のあるたびに、杏は、「のぎゃっ」「こきょっ」と奇声を発した。とれたての魚みたいに元気だった。 手かざし療法はただ手をかざすだけでは足りないと思って、はんだごてを使うことにした。こてが皮ふに近づくと、ちりちりと肉の焼けるにおいがした。「んももももも」と、杏はくぐもった声をもたらした。効いている……。 オステオパシーの正式な道具はなかったので、トンカチを使用。頭蓋骨の継ぎ目を意識しながら力いっぱい叩きつけた。「おにょにょ」、「ふにに」と杏は白目をむき出しにした。口端から泡状の何かが噴き出している。 最後に、杏の持っていた薬をすべて混ぜあわせて飲ませてあげた。ほとんど意識を失ってしまっていたようだけど、杏はそれを拒否した。たぶん牛乳の腐ったみたいなひどいにおいのせいだろう。でもこうなってしまっては一刻の猶予もない。必死の努力も空しく杏の様態は悪くなる一方だった。 私は杏の顎を外してしまうと、薬を水とともに一気に流し込んだ。杏は言葉にも表せないような奇妙な声を発した。薬はすべて杏の胃の中へと流し込まれた。やれやれ、これで一安心。 ひくひくと痙攣をくりかえす杏を見ながら、私はふと今こそ杏の危機管理能力を試すときだと直感した。家の中から白磁の壷を見つけ出すと、それを持って杏の枕元に立った。 重い重い壷を頭上に掲げると、一気にそれを振り下ろした。ぐにゃりと何か柔らかいものの砕ける感じがして、ついで壷は粉々に破砕した。さすが杏、こんな硬いものを頭に受けて微動だにしないだなんて。 「……――」 いまや杏は安らかな眠りについていて、変てこな声を発することもない。私は心の底からほっとしてため息をついた。私と杏は本当に仲良しなのだ。彼女のいない人生なんて、私には想像することさえできない。
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