ヒナがその話を聞いたのは、小学四年の夏休みにクラスの全員が学校に泊まった時のことだった。 「学校の近くの山に深い谷があって、そこには蝶がたくさん飛んでいるんだ。それでその場所を見つけられたら願がかなうんだって」 という。 夜中、消灯後によくやる怪談話の際に、どういうはずみでかそういう話が出て、ヒナは何となくそれが心に残っていた。この少年自身、その山でよく遊んでいて、それで無意識に気なったのかもしれない。 といって、他の子供たちにとってはちょっとした不思議な話といったくらいで、あとに続く怖い話の方が印象に残りやすく、ヒナがあとで聞いてもその話を覚えている者はいなかった。 ともかく話の端緒からそれは、ヒナにとってある種の神秘さを持っている。
ヒナの母親が病気で倒れたのは、それから一年ほどのことだった。ヒナには想像もつかないような原因の病気だったが、とにかくそれが死につながる危険性を持ったものであることだけは、唯一理解することができる。 ヒナは寝つかれない時など、今でも母親と同じ布団に入れてもらうような幼児的なところが抜けなかったから、不安にならざるをえなかった。 「お母さんはどうなっちゃうの?」 と父親と二人だけの夕食についたときなどに、心配そうに聞く。 実のところ医者から、「助かる見込みは四・六といったところです。だからできるだけ助かるものと祈ってください。そうして治るということもあります」と言われている。父親としてはわざわざ不安がらせるわけにはいかないから、 「大丈夫だよ。母さんがヒナを置いていくわけないだろう。すぐに良くなる。だから母さんがさびしくないように明日もお見舞いに行こうな」 そう言わざるをえなかった。最悪の場合、少しでも長く母親とあわせておいてやりたかった。 「うん」 ヒナは、父親のことを信じていて別に疑問はさまない。元気に夕食を食べた。父親の食が遅いことは、子供だけに気づきようもない。 翌日になると、ヒナは学校から帰って父親と一緒に病院へ向かった。車で二十分くらいの大学病院で、個人病室でヒナの母親は寝ている。 二人が行くとちょうど看護婦の人と話しているところで、意外と元気そうな感じだった。 「いらっしゃい、二人とも。私がいなくても大丈夫?」 と、まず自分のことより相手のことを心配している。 父親のほうはベッドの隣のイスに座って、「やっぱり静菜がいないと困るよ。おいしいご飯も食べられないしね」と笑って言った。 そのあとヒナが隣に座り、看護婦は気をきかせて病室の外に出て行った。 「ヒナは大丈夫? さびしくない?」 静菜はやはり、この甘えん坊のことが気になるらしい。 が、男の子と言うのは妙なもので、 「寂しくない」 とヒナは片意地をはって、少し不機嫌そうに言った。 「そう。私はヒナに会えなくてさびしいけどな。学校のほうはどう? 授業は面白い?」 「学校は面白いよ。たっちゃんもお母さんのこと心配してくれてた」 たっちゃん≠ヘヒナの学校での一番の友達である。 「じゃあ、早く元気にならないとね」 と、静菜は笑う。病者特有の、透明でふわりとした笑いだった。 「うん」 そう言いながら、ヒナは案外元気そうな母親の様子にほっと安心をしている。 「そういえば前にもこんなことがあったね」 と、父親の省吾が不意に言った。 「なに?」 「いつだったか。ほら、ヒナが事故で入院した時のことさ」 「ああ、一年生の時ね」 静菜は何がおかしいのか、くすくすと笑っている。 「小学校に上がったばっかりで、緊張してた頃よね。車にひかれたって聞いたときはびっくりして、エプロンつけたまま病院に行ったのよね、私」 懐かしそうに、眼を細めた。 「幸い怪我はたいしたことなかったし、二三日で退院できるって聞いて……。あの時は本当に慌てたわ。それでどうしてひかれたのかって聞いたら、この子、恥ずかしそうに早く帰ってお母さんに会いたかったから≠セって」 そっと、手を伸ばした。 ヒナは分からずに父親のほうを見たが、省吾は小さくうなずくだけだった。それでヒナはそっと母親の手を握り返した。 「お父さんも一人じゃ大変だろうから、はやく良くなって帰らないとね」 と静菜は言う。 それが誰より自分自身に向けられて言葉だとは、ヒナには気づきようもなかった。
母親のいない生活に、ヒナは次第に慣れていった。朝も一人で起きるし、父親が仕事で帰りが遅くなる時などは自分で夕飯を作ったりもする。 それでも、毎日のように見舞いには行った。 (はやく良くなって欲しいな) とも思っている。きちんとしていれば、静菜が帰ってきたときに誉めてもらえるかもしれないと期待していた。 静菜の病状は、ヒナにはよく分からない。この少年の目からすれば、静菜はどこも悪くないように思えるのだった。 それで一度、ヒナは病院の看護婦の人に聞いたことがある。 「お母さんはどこが悪いの?」 「今はお薬が効いてるから大丈夫そうなんだけど」 と言ってから、その人は困ったような顔をして、 「特効薬はないから、病状を和らげることしかできないの。今は自然治癒に頼るしかなくて……」 「それってどういうことなの」 ヒナにはそういう言われかたでは分からない。 「本人しだいと言うことよ」 その人はしゃがんでヒナの眼をのぞきこみ、 「だから君も治ると信じてあげることよ。お母さんを元気づかせてあげて」 「うん」 ヒナには、うなずくことしかできない。 生活そのものはきちんとしていても、ヒナはどこかぼんやりしていた。学校などではまるで授業を聞いていないときがある。 「お母さん、心配なんだろう?」 と休み時間に運動場で声をかけてきたのは、例の友達の達也だった。 「そうなんだ」 ヒナはどこか憂鬱そうに答える。 「悪いの?」 「わかんない」 首を振る。 「おばさん、元気そう?」 「僕が行く時はいつも元気そうにしてる。だからそんなに悪そうじゃないんだけど」 「ふうん」 達也はそばの鉄棒でぐるりと前回りをやった。 「ねえ、あの話おぼえてる?」 と、ヒナは不意に聞いた。 「なにを?」 「学校の裏山に蝶がいっぱい飛んでる谷があるって」 「うーん、聞いたことないな」 「ほら、学校に泊まったときあったでしょ。その時に誰かが話してたんだけど」 「そういえば、そんな話もあったような……」 どうもはっきりしないらしい。 そのとき休み時間の終了を告げるチャイムが聞こえてきて、話はうやむやのまま終わってしまった。 母親の病状が悪化したのは、それからしばらくしてのことである。
静菜は眠っているように見えた。 少なくともヒナの目からは、そうとしか思えない。鼻に呼吸管を通されてはいるが、眼をやわらかくつむり、呼吸も穏やかである。 「昏睡している」 と医者は省吾に説明していた。その半ばまでがヒナには分からなかったが、どうも二、三日中がやまであるという。 医師の説明が終わったあと、省吾はヒナと静菜の手を重ね、自分もそれを強く握った。 「お母さんな、このまま目が醒めないかもしれないんだ」 ぽつりと、言う。 ヒナには信じられなかった。「だってあんなに元気そうだったじゃないか」と言おうとして、今握っている静菜の手のか細さに、耐えられなくないくらいに涙があふれてきた。 「大丈夫だよね、お母さん、どっか行ったりしないよね」 と言うが、省吾はなにも答えない。ただ、強く手を握り締めるばかりだった。 その晩、二人は病室に泊まったが、翌日はいつものように家に戻ることにした。晩からは病室に泊り込むことになるという。 「先生に理由を話してこれるな?」 家に戻って準備をしながら、省吾はヒナに聞いた。 「うん。大丈夫だよ」 ヒナは半ば機械的に答えている。目がどこかうつろだった。 昼近くになっていたが、ヒナは学校に出かけた。先生に事情を説明すると、「大変ね」と心配してくれて、 「何なら今から病院のほうに行ってもいいのよ」 と言ってくれたが、ヒナは首を振った。行って、静菜が眠ったままでいることが恐ろしかったのだ。 そうして昼からの授業を一通り受けたが、ヒナはまるでそのことを覚えていなくて、気づいたときには放課後になっていた。 (どうしよう) と思いながら、体のほうはすでにランドセルを担いで教室の外に出ている。ヒナは現実というものがこうも脆いものだとは、それまで知らなかった。 歩いていると、森の入り口にさしかかった。 学校の裏山に通じている森である。 ヒナは、蝶のことを思い出していた。 思い出したときには、すでに駆けている。不器用に足を動かして、時々倒れそうになった。 (蝶にお願いすれば、お母さんを助けてくれる) ヒナにはもはや、そのことのほかに考えられなくなっていた。 山では何度も遊んだことはあるが、蝶の舞う深い谷などは知らない。が、ひろい山だからどこかにそういったものがあるかもしれなかった。 ともかく今まで行ったことのないところに行かねばならないということで、ヒナは本道をそれて藪の中を分け入り、夢中で歩き続けた。もはや自分がどこにいるのかも分からない。 無闇に歩き回るうちに、日が暮れ始めていた。うっそうとした森だけ、辺りが暗くなるのは早い。 ヒナはそれでも帰ろうとはしなかった。が、 「あっ」 と思うまもなく、足を踏み外している。そのままくるくると体を回しながら崖を滑り落ちて、自分でもどうなっているのか分からない。 気づいたときには体をあちこちぶつけながら、やわらかい土の上に転がっていた。大きな怪我はないが、すり傷がいくつかできていて、ランドセルも途中でどこかにいってしまっている。 上のほうを見ると、崖が絶壁のように傾斜していて登れそうもない。 ヒナは呆然とした。 夕陽が沈み、空が藍色に染まり始めている。かすかに星が瞬き、月が上る。いったい、これからどうすればよいのか。 と、なにかが目の前を横切った。 (?) ヒナは、顔を上げる。 蝶だった。 光り輝く蝶が、目の前を飛んでいる。周りをよく見ると、それは一面をひらひらと飛び回っていた。 (蝶の谷だ) ヒナは自分が夢を見ているのではないかという気になった。 銀色に光る蝶が、紙ふぶきでも散らすように飛びかっている。それはあたかも、あの世の魂が、一夜限りの邂逅をこの場でとげているかのようでもあった。 ヒナは呆然としたまま立ち上がった。 そのうちの一匹がひらひらとヒナのほうに向かって飛んでくる。 ヒナがそっと手をのばすと、蝶は夢から醒めるように無音の音を響かせて砕け、小さな光の欠片になって消えた。 月の光の下で銀色の蝶が舞う姿を、ヒナはいつまでも見ている。
夢だったのかもしれない。 と、ヒナはこのときのことを思い返すと、いつもそう思わずにいられなかった。あのあと、自分が一体どうやって家まで帰ったのかも覚えていないし、ランドセルもきちんと担いでいたのである。 南米に鱗粉が光を反射してあたかも光そのもののように見える蝶がいるというが、あるいはそれが海を渡ってやってきたのかもしれない。 実際のところは、分からない。 ただ、その晩やまを迎えた静菜の病状は回復に向かい、一週間たった今日、退院の日を迎える。 ヒナはこれからそれを迎えに行く。 あの日、自分の目の前に飛んできた蝶について、ヒナは時々考えることがある。あるいは、あれはあの世から迎えに来た母親自身の魂ではなかったのか、と。 ヒナは晴れ渡った空を見上げて、ふっとため息をついた。
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