[月夜の森のトカゲ]

 その森は、静かな満月の光のもとにありました。
 鬱蒼と茂る木々の下には、濃い闇がたまっています。昼さえ陽光の差さぬ地面は苔むし、空気は冷え冷えとしていました。辺りには生き物の気配すらなく、死そのもののような沈黙が漂っています。
 季節はもうすぐ、冬になろうとしていました。
 けれどこの森の静けさは、やがて来る冬の、静寂と白の世界の予兆ではありません。それは太陽が存在する以前の、太古の世界の魔法の名残であり、冷たい月の光の支配によるものでした。この森には、そんな古い魔法がまだ残っているのです。
 ――森の中を、一匹のトカゲが歩いていました。
 暗い闇の中では、トカゲの姿ははっきりとは分かりません。ただぼんやりと、白い霞のようなものが動いているのが見えるだけです。トカゲは苔の上を這いまわり、木の根を越え、どこかへ向かっていました。
 不意に、月の光が差しこんで、トカゲの姿を白く照らします。
 それは人の手の平に乗るくらいの、ごく普通の大きさのトカゲでした。全身が月の光に照らされて白く――いえ、かすかにくすんだ灰色のような、ぼんやりとした色合をしていました。その瞳も同じような白灰色をしていましたが、月の光を反射する分、いくぶんか白さが増しているようです。
 木々の葉の間から差した光はあっという間に途切れて、トカゲはまた元の闇の中へと戻っていきました。時折聞こえてくるかさかさ≠ニいう音だけが、トカゲのまだ動いていることを示しています。
 白灰色のトカゲは時々、立ち止まっては、辺りを見回しました。
 森の中の沈黙はさらに深さを増したようで、空気は敵意さえ持つかのように冷え冷えとしています。トカゲはゆっくりと体を下ろすと、また元のように歩きはじめました。
 頭上の葉の影の間を通して、時々冷たい満月が顔をのぞかせます。
 しばらくすると、白灰色のトカゲはある場所へとやってきました。
 そこには倒れた木が一本あって、ちょうどその木を照らすように月の光が差し込んでいます。見上げると、ぽっかり穴の開いたように木々の葉がよけ、そこから地上をのぞくかのような満月が見えました。
 倒木は、下のほうはすでに苔に覆われて、所々にはキノコが生え、かつて巻きついていた蔦がいまだにその身を覆っていました。横になったその木はまるで、長い眠りの途中にでもあるように見えます。
 トカゲは折れた枝の一つを伝って、その木の上へと移りました。月の光がその身を照らし、白灰色の体を浮かび上がらせます。
 倒木の上には、一つの壷がありました。
 それが本当に壷なのかどうかは、分かりません。白い表面は陶器か焼き物のようなぬくもりがあって、口のついた反対側には植物の芽が吹き出していました。見方によってはそれは、太い枝の跡に開いた穴のようにも見えます。
 トカゲはその口の下まで這っていって、壷を見上げました。壷の口はちょうどトカゲが頭を伸ばせば届くくらいのところにあって、中に入ることも出来そうでした。
 白灰色のトカゲは何かを確認するように壷の口をのぞき、それから上空の月に顔を向けます。満月は冷酷な王者のように白い光を放ち、トカゲのことなど気にもしないようでした。
 やがて、トカゲは日光浴でもするように木の上に腹ばいに身を横たえました。月の光に曝され、濃い影が体の下に焼きつきます。
 それはちょうど、斜めになった壷の口の先の辺りでした。そこで白灰色のトカゲは軽く目を閉じ、何かを待つようにじっとしています。壷にはすでに月の光が一杯にたまっていました。透明な光が壷一杯に満ちて、水のように揺れています。
 しばらくすると、その光は小さな雫となってこぼれ落ちました。雫はちょうど、トカゲの背中の辺りに落ちて、はじけます。トカゲは身動きもせずに、その月の光の雫を受けていました。
 白灰色のトカゲは、もうずいぶん長い間、そんなことを続けていました。

 森のはずれには、妖精(フェリエ)の村がありました。
 そこは山あいの谷間になった場所で、人間の目からは見つけにくい場所になっています。ですから人々は誰も、そんなところに妖精達が住んでいることなど知りません。
 妖精の村には軽い水音を立てて小川が流れ、陽の光が一杯に差していました。小さな野の草花が風に揺れて、あくまでも長閑で、美しい風景がどこまでも広がっています。
 村の所々には、小さな土の盛り上がりのようなものがありました。丈の短い芝草がその上を覆い、ちょうど土饅頭のような格好をしています。けれどそれは、お墓というわけではありません。
 その中には、生きた妖精達が住んでいました。つまり、妖精の住居です。
 妖精達の家は地面に穴を掘り、床と壁を固くつきかため、天井には木の枝を敷きつめ、土をかぶせたものです。入口の扉は丸く、天井につけられていました。その他には煙突があり、窓もつけられています。
 家の中にはベッドやテーブルがあり、居間や台所、食料庫といった部屋もあります。人間の家にそっくりでしたが、ただその大きさは比べるべくもありません。妖精の背丈は、人間の手の平ほどしかありませんでした。
 それに妖精には、羽が生えています。
 蜻蛉のように透明で、蜜蜂のような形をしたその羽で、妖精は空を飛ぶことが出来ました。それ以外は人間にそっくりで、その髪は柔らかい陽の光のような色をし、瞳も蜂蜜のような黄金色をしています。
 また、妖精は人間と同じように服も着ていました。
 蜘蛛の糸で織った、葉っぱや花びらの帽子、色とりどりの鳥の羽で織った衣服、どんぐりの皮で作った靴。妖精は身の周りのものを使って、そうしたものを上手に作ることが出来ました。
 妖精には人間と同じように、様々な仕事だってあります。
 例えば今いったような身の周りのものを作るのも、その一つです。他には、食料となるキノコの世話や、花の蜜集め、家を作るための材木の確保や、村の草刈などです。
 森に異常がないかどうかを確かめるのも、彼らの仕事の一つでした。森の植物や動物は、妖精達によって守られているのです。
 ルゥリはそんな妖精の村に住む、一人の妖精でした。

 ルゥリは村の厄介者でした。
 彼は村の西外れに一人で住んでいましたが、そこを訪れるものは滅多にいませんでした。部屋の中は散らかっていて、お客どころかそこに置かれている家具達にだって居心地のいいところではありません。
 ルゥリは、まだ若い妖精です。
 くせがかかった髪をして、目は落ちつかなげにきょろきょろとし、口は何か不満そうに難く引き結ばれていました。あまり人に好意を持たれたり、好意を持ったりする顔ではありません。
「ああ、つまんねえな」
 それが、彼の口癖でした。
 他の妖精達が仕事に励んでいる間も、ルゥリは一人気ままに空を飛んでいました。ルゥリは妖精の仕事なんて大嫌いで、馬鹿らしいと思っていました。
「どうして俺がそんなことしなくちゃならないんだ」
 ルゥリは自由に、風に乗って空を飛んでいることのほうが好きでした。
 簡単に言って、彼はまったくの怠け者だったのです。
 それにもう一つ、ルゥリは大のいたずらものでもありました。
 村の大切なキノコにいたずら書きをしたり、夜中に静かに眠っている妖精の家の上で楽器を鳴らしてみたり、村の共同倉庫にある蜜酒を空からばらまいたりといったことです。
 村の妖精達は誰もがルゥリのいたずらに辟易していましたが、どうすることも出来ませんでした。妖精達は特別な場合を除いては、刑罰などといった野蛮なものは持たなかったのです。
 そういうわけで、ルゥリは村の仕事など見向きもせず、いつも空を飛んだり、いたずらばかりして暮らしていました。食べ物がなくなれば、こっそり村の倉庫から盗み出したりもしました。
「ああ、つまんねえな」
 その日もルゥリはいつものように仕事を怠けて、高い空の上を飛んでいました。手を頭の後ろで組んで枕にし、足を組み、いかにも退屈だといった風に横になっています。
 そのさらに上空では風がびゅうびゅうと吹いています。地上を見ると、ちょうど妖精の村の谷間が見おろせ、森が広がり、さらにその向こうには山脈がぎざぎざした山並みを黒い影のようにのぞかせていました。
 昼間の太陽がそうした景色を照らし、草は明るく緑に輝き、風が時折、波のようにそれを揺らします。
 仲間達は今頃、熟しはじめた木の実を収穫に行っているはずでした。来るべき冬の季節に備えて、それは村をあげての大切な仕事です。
 けれどルゥリは、そんなものに興味はありませんでした。
 村のみんながそろいもそろってそんな仕事に出かけることが、ルゥリには不満でした。どうして誰も彼も、同じようにそんなことが出来るのでしょう。こんな気持ちのよい日にどうして誰も空を飛ぼうとはしないのでしょう……
 ルゥリにはそれが、不満でした。
 寝転んで空を飛びながら、ルゥリは様々に考えています。何か、村のみんながあっと驚くようなことはないだろうか。
 その時、ルゥリの目には森の向こう側にあるその場所のことが映りました。
 ルゥリは起き上がって、いたずらっぽく笑います。ちょうど今夜は、その日でした。

 空には月が輝き、星々は眠るような光を瞬かせていました。雲はなく、地上は銀細工のような白い光に照らされています。
 今夜は、満月でした。
 ルゥリは月が昇る頃に目を覚まし、窓からそれを確認しました。ちょうどベッドの上に窓がついていて、部屋のその部分だけが、深い海の底にでもいるように白く照らされています。
 ルゥリはしばらくそんな光の中にいましたが、やがて飛び起きて、急いで準備をはじめました。ルゥリはこれからのことを考えて、胸をわくわくさせています。
「きっと誰も彼も、あっと驚くに違いないぞ」
 寒くないように服を厚く着て、ルゥリは外に向かいます。脱ぎ捨てられた衣服が、何かの抜け殻のように無造作に床に転がっていました。部屋の中はどこもそんな、本来の居場所を失ったものであふれています。
 外に出てみると、昼間が裏返ったように、静かで明るい景色が広がっていました。何もかもが眠りについたような静寂で、まるで音さえもが深い夢の中にあるようです。
 夜の空はすでに肌寒く、ルゥリが呼吸をすると、吐く息はかすかに白く曇りました。冬はゆっくりと、世界の裏側から広がりつつあるようでした。
 ルゥリは体をなじませるよう何度か大きく息を吸い込むと、調子を確かめるように背中の羽を動かしました。小さな、鈴の音をかすかに聞くような音の気配があって、透明なルゥリの羽が月の光を散らすように細かな羽ばたきを繰り返します。
 羽の具合を確かめ終わると、ルゥリは早速飛び立ちました。ひゅうんという音を残すように、ルゥリはあっという間に空の高みにまで達します。光の欠片が、その跡に残されたようでした。
 空の上にやってくると、空気はますます冷たく、風はびゅうびゅう音を立てて吹いていました。ルゥリはそんな風に体を曝すように、目を細め、手を広げます。空を飛んで、こんな風を感じることが、ルゥリは大好きでした。
 しばらく、そうやって体一杯で風を吸収してから、ルゥリはその場所を見ます。
 それは妖精達の暮らす森の向こう、やや窪地になったところに広がっていました。森はそこで急に濃く深くなったように、昏く密になり、明らかに周りの森とは違っています。それはまるで、海が急に深くなって光の届かなくなる様子に似ていました。
 そこは、月の古森≠ニ呼ばれる場所です。
 妖精は誰も、その森に近づいてはならないのでした。やむをえない事情があっても、昼間の、それも新月の日に限られています。それは特別な森で、決して無闇に足を踏み入れてはならないのでした。
 特に、満月の夜には。
 ルゥリは黙ったまま、その森を見つめています。耳元では、風だけがびゅうびゅう唸りをあげて吹きすぎていきました。森はどこまでも暗く、そこが世界の一番深い、底の部分だとでもいうようです。
 ルゥリはほんの少しだけ慎重に、その場所へと向かいました。森に近づくにつれて、心なしか辺りはいっそう濃い闇に包まれていくようです。ルゥリは自分が森に近づいているのか、遠ざかっているのか、一瞬分からなくなるような不思議な感じにとらわれました。
 けれどもちろん、森はそこにあって少しも動いたりはしません。ルゥリはほどなく、その森の上へとやってきました。
 鬱蒼と茂る木々は、明るい月の光さえ通しはしないようです。
 ルゥリは森の上で、しばらく逡巡していました。森はあまりに深くて、そこにどんなものがいて、どんなものがあるのかも分かりません。その森は、明らかにルゥリの知っている森とは別のものでした。
「何を怖がることがあるっていうんだ」
 自分に向かって、ルゥリは呟きます。
「禁忌の森だなんていって、普通の森よりもちょっと木が生えているだけのことじゃないか。そんなのを怖がるなんて、馬鹿なやつのやることさ。僕は決して、そんなことを怖がったりしないぞ」
 それから大きく息を吸い込むと、ルゥリは思い切って森の中へと入っていきました。
 木々の枝葉の間を抜け、ルゥリは暗い森の下へとやってきます。深い海の底のようにそこは暗く、ルゥリはしばらくじっとしていました。
 ようやく暗闇に目が慣れ、かすかに差し込む月の光によって、ルゥリは木々のぼんやりとした輪郭だけを、なんとか見ることが出来ました。ルゥリは幹や枝にぶつからないように慎重に、ゆっくりと移動していきます。
「ほらね、やっぱりだ」
 と、ルゥリは思いました。
「怖いことや危ないことなんて、どこにもないんだ。掟なんて、大昔に意味をなくした、もう必要のないものなんだ」
 森の所々には、岩の割れ目から光が顔をのぞかせるように、月の光が差していました。ルゥリは時々その光の中で休憩して、それからまた羽を動かして移動しました。
 それでも、何も起こることはありません。
「みんなこんな場所を怖がって、なんて馬鹿なんだろう」
 ルゥリはけたけたと笑います。
 けれど、その時でした。
 何かに見られている気がして、ルゥリはびくっと身を固くしました。ルゥリはちょうど月の光の中にいて、その羽がきらきらと輝いています。
 ルゥリは最初、それが何かの勘違いのように思えました。辺りを見回してみても、どこにも、何の気配も感じられません。少なくとも、何かがこちらを見ているような気配はありませんでした。
 ゆっくりと、慎重に、ルゥリは光の中を出て、少しだけ前に進みます。
 するとやはり、何かがじっとこちらを見ているような気配がありました。ルゥリが動くにしたがって、視線もそれを追って動きます。
 たくさんの生き物が息を潜め、じっとこちらを見ているような、そんな粘っこい視線でした。
 ルゥリはなんだか寒気を覚えるような気がして、その視線の元を探ろうとしました。
 すると徐々に、森の中に何かがいることに気づきます。
 それはじっとして、ルゥリのほうを見つめていました。
 ルゥリは急に体の芯が冷えてくるような、奇妙な寒気を感じました。まるで冷たい月の光が、体の中にしみこんで凍えさせているようでした。ルゥリは身震いして、両手を肩に回して、体を小さくします。
 白いものの正体は分かりませんでしたが、それらはみな生き物のようでした。森には、そんな正体不明の生き物達がたくさん息づいているようです。そして、それらはみな、ルゥリの事を見ていました。
 ルゥリにはもうそれ以上、その場所にいることは出来ませんでした。白いもの達はルゥリをその場所にとどめようとするかのようにかたくなに見つめ、満月の光はルゥリを凍りつかせようとするかのように、冷たく、容赦のないものでした。
 ルゥリは、息をすることさえ出来ませんでした。
 木の枝や葉っぱに当たるのも構わず、ルゥリは急いで森の上へと抜け出しました。それでもまだ、森の黒々とした姿がそこにあることに耐えられず、一散にその場所を離れます。
 しばらくして、森がようやく見えなくなる頃にルゥリは立ち止まって、息をつきました。そんなに激しく動いたというのに、体は相変わらず冷え冷えとして、少しも温かくはなりません。
「ふん」
 と、ルゥリは強がって言います。
「こんなの、なんでもないさ。すぐに治っちまうんだ。今はちょっとびっくりして、それで体の具合がおかしいだけなんだ。なんでもないんだ、こんなの――」
 ルゥリはそれから、妖精の村の自分の部屋へと戻りました。
 けれどいつまでたっても、体の寒気がなくなることはありませんでした。

 それから二、三日の間、ルゥリは部屋の中から一歩も外へ出ず、タンポポの綿毛で作った布団にくるまっていました。けれど、どれだけ布団をかぶってみても、まるで心臓が氷になってしまったように、体の中の寒気はなかなか去ろうとはしませんでした。
 その間、村では大騒ぎになっています。
 ルゥリが掟を破った兆候は、すでに現れはじめていました。
 キノコは半分以上が腐り、花は蜜を作らず、川の水には黒い濁りが生じていました。空には灰色の雲が蝗の群れのようにやってきて、風は不吉な予感をはらみ、大地は死者の骨のように冷たく固くなろうとしています。
 来るべき長い冬への備えのほとんどを、村は失いました。今年の冬には、何人かの妖精が命を落とすことでしょう。遅い春が訪れるまで、今年は特に長い時間がかかりそうです。
 誰が禁忌≠犯したのか――
 それが分かるのに、時間はかかりませんでした。あの日、真夜中にルゥリが森のほうへと飛び立つのを目撃した妖精は、何人もいました。それに、この騒ぎの中でずっと部屋に閉じこもっているのは、ルゥリただ一人だけだったのです。
 このことは、長老と村の主だつ者の間で話しあわれました。大楠の、会議所となるうろの中に、長老と五人の妖精が集まります。
「ことは由々しき事態です」と、円座に座ったうち、のっぽの妖精が言いました。「禁忌が破られました。風は凍え、水は淀み、大地は腐りはじめています」
「村の生活には、大きな支障が生じるでしょう」今度は、頭の大きな妖精が言います。「これを放っておくことは出来ません」
「掟を破ったものは、ルゥリです」
 体が小さく、目つきの鋭い妖精が言いました。
「やはりこんなことになる前に、彼の妖精には然るべき罰を与えておくべきだったのだ」
 太っちょの妖精が、忌々しげに床を叩きました。
「しかし、掟を破るほかに罰は与えないのが、われわれ妖精の掟でもある」
 座の中では、比較的若い妖精が穏やかに言いました。
「そんなことを言っていれば、また同じことが繰り返されぬとも限らぬ」
「今はそのようなことを話しても仕方ない」
 目つきの鋭い妖精が諭します。
「そう、問題はこれからどうするかということだ」
 頭の大きな妖精が言いました。
「禁忌を破りし者への処罰は決まっている……」
 のっぽがため息を吐くように告げました。
 そこで一同の間には、重い沈黙が流れます。
 五人は一様に、長老のほうへと視線を向けました。
「さよう」
 と、長老は白い髪と髭に覆われた顔を上げ、厳かに言いました。
「ルゥリは生命の樹≠ヨと召喚され、然るべき刑を受けるであろう。黒の妖精≠早速その者のところへ遣わすがよい」
 五人の妖精は粛々と頭を下げ、了解の意を示しました。

 ルゥリのもとに黒の妖精がやって来たのは、翌日の早朝のことでした。ルゥリは体の冷えがいくぶん治まったとはいえ、まだ布団にくるまって少し震えていました。
 ノックの音が聞こえたのは、太陽の昇りはじめた頃です。ルゥリは布団を肩からかぶったまま、扉を開けました。外にはルゥリよりは年かさの、けれど若い妖精が二人立っています。
 二人は双子らしく、そっくりの顔立ちをして同じ黒い服を身にまとっていました。
「ルゥリだな」
 と、右のほうの妖精が言います。次に、
「禁忌を犯した疑いにより、お前を裁判所に召喚する」
 と、左のほうの妖精が言いました。二人は声もそっくりで、どちらがどちらともつきません。
 ルゥリはただ黙って、二人の言うことを聞いていました。黒の妖精は忌み人を裁判の場へと連行し、刑の執行を行う役目の妖精でした。その姿を見たときから、ルゥリは大体の事態を理解しています。
 ルゥリは頷いて、支度をするために部屋の中へと戻りました。それから着替えて、再び外へと姿を現します。黒の妖精の二人は厳かに、ルゥリの両脇に立っていました。
 それから二人は飛び立ち、ルゥリはその後におとなしく続きます。手錠も、戒めもありません。けれど誰も、それに逆らうことは許されませんでした。
 早朝の空気はまだ冷たく、それよりもなおルゥリの中には凍える寒さが残っていました。
 裁判の場へと向かう途中、朝の早い何人かの妖精はその姿に気づきます。
 その誰もが、戸惑いと憎しみの混じった複雑な視線を投げかけていました。犯された罪には、罰が下されなければなりません。けれど、彼らはルゥリがこれからどうなってしまうかを、知っていました。
「……」
 ルゥリはただ黙って、凍りつくような体の冷えだけを感じながら、黒の妖精のあとに従っています。その様子はまるで、ルゥリの心までもが、とうに冷えきってしまっているようにも見えました。
 三人は谷の奥、妖精の誰も踏み入らない場所へと向かっています。普通なら、妖精がそこにやって来ることは二度しかありませんでした。生まれる時と、死ぬ時です。
 そこには、一本の樹が生えていました。
 樹は湖の中に立ち、湖の周りには白い花が広がっています。その白い花のつぼみから、妖精は生まれました。はじまりの花≠ニ、それは呼ばれています。
 そして、湖。
 湖は、終わりの湖≠ニ呼ばれていました。そこは死んだ妖精が穏やかな眠りにつく場所です。湖の底には、そんな妖精達の消えてしまった跡の、透明な羽だけが残されています。
 黒の妖精とルゥリは、そんな花と湖の上を飛び、中央の樹のところへとやって来ました。
 それは、とても大きな樹です。
 いくつもに枝分かれした根を水の中へと下ろし、青々と茂る葉が、天を掃くように空に向かって広がっていました。幹は太陽の光を長い時間かけて鈍く磨いたような柔らかい色あいで、その表面は歳ふりた老爺のような無数のしわが刻まれています。
 樹は古く古く、まだ妖精達がこの世界におらず、淡い夢にまどろんでいた頃からそこに立っているのでした。
 その樹の、無数に分かれた根のところに、罪を犯した妖精のための裁判の場所がありました。一本の鉄の杭が、根の一つに打ち込まれています。そしてそこから少し離れた上のほうに、長老と、二人の妖精が控えていました。
 二人は赤の妖精≠ニ青の妖精≠ナす。二人は壮年の、威厳に満ちた顔つきの妖精でした。
 ルゥリは促されて鉄の杭の前に立ち、その後ろに黒の妖精の二人が並びました。鉄の杭は咎人の罪を宣告するように、不吉な黒さでそこにあります。
 ルゥリが顔を上げると、判定者である長老の姿が、少し見上げるような位置にありました。ほんの少し離れているだけだというのに、それはひどく遠いところのように思えます。
 長老が、右手を上げました。
 裁判がはじまります。
「汝、ルゥリよ」
 と、赤の妖精が言いました。罪の確認、それが赤の妖精の役目でした。
「汝は禁忌を破り、まったき月の夜に森へと入った。それは我ら妖精が生まれた太古より禁じられしことで、決して妖精の破るべきことではない。汝が禁忌を犯したがために、村には災厄が訪れた。冷たき月の光が村へと持ち込まれ、様々なものに狂いが生じている。汝はその罪により、この場所へと召喚された」
 赤の妖精はそう言うと、口を閉ざします。
「ルゥリよ、今の言葉に間違いはないか?」
 中央に座す長老は、その奥深い瞳をルゥリに向けて、言いました。
 ルゥリはしばらく何も言いませんでした。
 けれどやがて、自然な重みに耐えかねたようにして、その首が曲がりました。
「その通りだと、いうのだな?」
「……」
 長老はルゥリに向かって言います。
「あの森は妖精が存在するよりはるか昔、月があまねくこの世界を支配していた頃に作られた森じゃ。そして太陽が彼の地において見出されたあとにも、森は生き続けた。葉を厚くし、明るき光をさえぎり、冷たく暗い光を維持しつづけた。そこには古い魔法の力が残っている。そしてその力は妖精のこと、この新しき世界のことを憎んでおるのだ。お前はその力をこの村へと引き込んでしまった。そしてお前自身も、その力に身を冒されているはずだ」
 長老はそこで、ルゥリの体の中の冷えを見透かすように、深く長い一瞥を加えました。ルゥリは自分の体が丸裸になって、さらにその奥まで見られているような、そんな気がしました。
 長老はかすかなため息をつくように、目をふせ、白い髪と髭の奥に、その表情を隠してしまいます。
「我ら妖精は、同じ地、同じ花より生まれた同胞であり、家族じゃ。われらは互いを傷つけ、罵りあうことは好まない。争いや刑罰はあの月と同じく冷たいものだ。それは何かを押し殺すためのものじゃ。しかし、いかなる妖精といえど、禁忌を犯すことは許されぬ。その者はいかなる理由、いかなる事情があろうと、決められた罰を受けねばならぬ」
 それは、長老の裁定でした。
「……」
「汝、ルゥリよ」
 と、青の妖精が言いました。罪の決定、それが青の妖精の役目でした。
「汝には追放≠フ刑が処せられる。汝の名はこの生命の樹より除外され、その存在はもはやこの世界にはとどまらぬであろう。汝はこの世界とのつながりを断たれ、この世界は汝を受けつけなくなるであろう。汝に科せられた、それが罰である」
 青の妖精はそう言うと、口を閉ざします。
 それから、長老が左手を掲げます。それは裁判の終わりと、刑の執行を意味するものでした。
 ルゥリの背後に立つ黒の妖精はうなずき、樹の上へと飛び立ちます。
 生命の樹
 この樹は生まれたばかりの妖精に、温かい熱と真新しい風の息吹、それにこの世界での名前を与えてくれるものでした。与えられた名前はその葉の一枚一枚に刻み込まれ、その妖精の死と共に、その葉もまた枯れ落ちるのでした。
 けれど、死ぬ前にその葉を枯らし、切り離すことが出来ます。
 それが、追放でした。
 黒の妖精の二人はたくさんの葉の中から「ルゥリ」の名前の入った葉を見つけ出しました。その葉にはうっすらと霜が積もり、冷たく凍えた様子をしています。
 二人は頷きあい、片方がまず透明な粉の入ったビンを取り出しました。
 それを、「ルゥリ」の名前の書かれた葉へと振りかけます。
 透明な粉が振りかけられると、葉はたちまちのうちに黄色く変色し、さらに白灰色へと変化しました。それを見届け、もう片方が葉を鉄の鋏で断ち切ると、葉は簡単に樹から離れてしまいます。
 追放は、完了しました。
 それと同時に鉄の杭の前で、ルゥリには変化が訪れています。その蜂蜜色の髪と瞳は、枯れ落ちた葉と同じように白灰色へと変化していき、背中の透明の羽は、濁った水のように輝きを失います。
 その姿はもう、妖精とはいえないものでした。
「さあ、もはや意味なき名前を持つもの、ルゥリよ」
 と、長老はそんなルゥリに言いました。
「汝に罰は下された。どこへなりと、好きなところへ行くがよい。もしもお前のいるべき場所が見つかるというのなら。お前はどこにでもいられ、しかしどこにもいることも出来ないだろう。お前の存在はもはや、この世界と交わることがあたわぬからだ」
 長老はその言葉を最後に、二度と口を開こうとはしませんでした。
 ルゥリは静々と、その場所を去っていきます。

 どこへ行くともなく空を飛びながら、ルゥリはしばらくして自分の中から月の光の寒気がなくなっていることに気づきました。それが何故なのか、ルゥリには分かりません。けれどそれは、ルゥリがこの世界の理から抜け出てしまったことを意味していました。
「一体、どうしたっていうんだろう?」
 ルゥリは何かが変わってしまったことを感じていました。そしてそれが決して、元には戻らない種類のものであることも。
 少しぼんやりとした気分で、ルゥリは村のほうへと向かってみました。さしあたって、他に行くところなどなかったのです。
 間もなく、いつもの馴染みの、谷間の村の風景が見えてきました。
 高度を下げ、ルゥリは村の上を通り過ぎて行きます。ルゥリは何だかひどくぼんやりとして、自分が半分夢の中にでもいるような、奇妙な気分でした。
 ルゥリがやって来ると、村人達はすぐさまそのことに気づきました。白灰色のルゥリの姿はまるで霜を引きつれているかのように冷たく、この世界にそぐわないものでした。
 そして誰も、ルゥリに近よろうとするものはありません。村人達はルゥリの姿を見て、ひそひそと話しあいました。
 ――見てごらん、あれを。冬の霜でも身にまとっているようじゃないか。
 ――いい気味だ。あいつが禁忌を破ったおかげで、一体何人この冬を無事に越せるか分からないんだ。
 ――なんとも憐れっぽい姿じゃないか。いつものはしゃぎ具合はどうなっちまったんだい。あれじゃまるで、死にかけた蛾か何かだよ。
 ――あいつはもう、妖精じゃない。あんな姿になってしまったものが、妖精であるものか。
 一方で、その姿に同情する者達もいます。
 ――可哀そうに。あの子はもう、元の姿に戻ることは出来ないんだ。そして永遠に、昏く、深い闇の中にいなくてはいけないんだ。
 ――あいつは決して許されない罪を犯した。けれど、もう十分にその報いは受けている。これ以上、俺達に出来ることはない。
 ――どうしてあのお兄ちゃんは、ぼくたちと違うの? 禁忌? それはぼくたちをあんなふうにしてしまうくらい、悪いことなの?
 ルゥリはそんなひそひそ声の間を抜けていきます。
 そしてしばらくして、ルゥリは自分がどう変わってしまったのかを理解しました。
 ルゥリは自分の家の前にいます。
 けれどそれは、もう自分の家ではありませんでした。中に入って、自分の散らかしたその部屋の様子を眺めても、そこはやはり自分の家ではありませんでした。
 かつてそこにいたルゥリという妖精は、もうこの世界のどこにもいなくなっていたのです。
 村を見た時に、夢の中にいるように何も感じなかったのは、当然でした。そこはかつてのルゥリがいた村であり、今のルゥリとは何の関係もない場所だったのです。そしてどのような関係も、もう生じたりしないのでした。
 ルゥリはそのことが、たまらなく悲しいことのような気がしました。この世界で、ルゥリは突然放り出されたように独りでした。そして世界は、こんなにも広いのです。独りでいるにはこの世界はあまりに広く、悲しい場所でした。
 けれど同時にルゥリは、そのことを心のどこかで小さな穴が空いたような、そんな感じ方しか出来ませんでした。それは悲しいというよりも、現実的な体の傷のような、見て触れられるもののように思えます。
 それはあたかも、ルゥリの心がすっかり死んでしまって、その代わりに生きている体が傷の肩代わりしている、とでもいうようでした。
 ルゥリは自分の傷を増やさないために、その場所を後にしました。
 それから、一散に空の上へと駆けのぼります。そこなら、見覚えのあるものに出会うことはないように思えたからです。
 けれど、ルゥリはすぐに間違いに気づきました。
 そこはかつてルゥリが最も心を震わせた、風の吹く場所でした。何ものにも妨げられず、何ものも残さず、ただ吹きすぎていくだけの風。
 その風に、ルゥリはもう何も感じることは出来なくなっていました。
 そして悲しみにならない、心の傷だけを、ルゥリは体に感じます。
 もはやルゥリの中からはすべての喜びは消え、すべての悲しみもまた、去ったのでした。
 ルゥリは覚めない悪夢の中にでもいるように、辺りをさまよい続けました。

 追放の刑を受けた者には、飢えもなければ寒さもなく、病気になることも、何かに傷つけられることもありません。
 世界の理のすべてから、彼らは追放されてしまうのです。
 死すら、彼らには訪れませんでした。
 彼らは、どこにでも行くことが出来ます。光ささぬ深い海の底でも、鉄を溶かす熱い炎の中でも、吐息すら凍る冷たい大地でも、どこにでも。
 けれど彼らはどこにいることも出来ません。どこにいようと、そこにあるのは悲しみにさえならない悲しみと、絶望さえすることの出来ない自分の心でした。この世界のどこにも、彼らのいるべき場所はありません。
「どうして、こんなことになったんだろう……」
 ルゥリは後悔さえ出来ない心で、考えます。
「僕はただ、自由でいたかっただけだ。そして風や、太陽のにおいや、朝の空気の冷たさを感じていたいだけだった。確かに、まじめな妖精というわけじゃなかった。いつも人の迷惑ばかりして、村の仕事を手伝うことなんてなかった」
 むなしく空を飛びながら、ルゥリは考えます。
「でも、こんな風になるなんて思ってもみなかった。誰も、こんな風になるなんて教えてくれなかった。風も、太陽も、朝も、何もかもが意味をなくしてしまった。他愛もなく大切だったものが、もう何の心の震えも感じさせてはくれない……」
 この世界のどこにも、ルゥリの向かうべき場所はありませんでした。どこに行こうと、もうルゥリが何かを感じるようなことはありません。
 だからルゥリは、もうそこに行くしかなかったのです。
 冷たい月の光だけを受け入れ、古い魔法の残されたそこへ、木々が空を覆い、古の闇がいまだなくならぬそこへ。
 月の古森へ。
 その森はかつてルゥリが訪れた時となんら変わらぬ姿でそこにありました。以前に訪れたときは夜中だったというのに、陽のまだ明るい昼間にも、そこは同じような暗さを保っています。
 ルゥリは同じように世界からはみ出した、その森へと入っていきました。
 木々の下へとやって来ると、そこには死者の沈黙を思わせる静寂と、この世界が出来る以前の宇宙の闇を残したような世界が広がっていました。かすかな陽の光はあるというのに、それは返ってこの森の暗闇を際立たせているだけのようです。
 ルゥリはそんな森をしばらくさまよった後に、一つの岩の上に腰を下ろしました。その岩の上にはかすかな隙間があって、小さな空がそこにはのぞいています。
 そこで、ルゥリは長い時間じっとしていました。
 もはや時間は、ルゥリにとって何の意味もないものでした。どこに行くこともなく、どこを目指すわけでもありません。何をするわけでもなく、何が起きるわけでもありません。
 そんな中で時は、流れる水ほども意味のないものでした。
 ルゥリはただ見上げる空が明るくなり、暗くなりするために、一日が過ぎていくことを理解するだけでした。
 何度か雨が降り、何度か晴れの日がありました。
 月はゆっくりとその力を増し、満月の日がやってきます。
 空の間から、ルゥリの下へもその光は差し込んできました。
 けれど、以前のような体の冷えを、ルゥリは感じません。一切の痛みや、傷は、ルゥリに与えられることはありませんでした。月の光の冷たささえ、ルゥリが感じることはなかったのです。
 そして、何日かが過ぎた頃のことです。
 ルゥリは自分の体に何か、変化が起きていることに気づきました。普通に背中をのばして立っていることが出来ず、岩の上で腹ばいになっています。
 視線が妙に低く、お尻の辺りに何かがくっついているように重く、指や足先の感覚まで違っていました。
 ルゥリは自分にどんな変化が起きたのか、分かりませんでした。
 それからまたしばらくした頃、一匹のカエルがルゥリの前に姿を現しました。
 カエルは全身が白く、――というより、くすんだ灰色のような色あいで、カエルらしいぴょこん、ぴょこんという足どりでルゥリの前にやってきます。
「はじめまして、と言うべきだろうな」
 と、カエルは言いました。
「お前は知らないだろうが、俺達のほうではもうお前のことを知っているんだぜ。いつかの満月の日、お前がやって来るのを見ていたからな」
「見ていた?」
 ルゥリは問い返します。
「そう、お前にも少しは見えていたはずだ。長いこと月の光を浴びていたからな。森の中で、白くぼんやりしたものを、お前は見かけたんじゃないか?」
「……」
 確かに、そうでした。
「それは俺達だ。月の魔法の力で姿を変えられた俺達は、普通の奴にはもう見ることは出来ない。お前はあの時、わずかな魔法の影響で俺達の姿をぼんやりとだが見ていたのさ」
「月の力で姿を変えられる?」
 ルゥリは訊ねます。
「そうだ。満月の光を長く浴びすぎたものは、そうなる。お前だって気づいているだろう? 自分の姿が変わってしまったことに」
 ルゥリはそう言われて、じっとカエルの目をのぞき込みました。
 白く、濡れた瞳の中には、白灰色のトカゲになった自分の姿が映っています。
「これが……?」
「そうだ」
 と、カエルは言います。
「それが、お前だ」

 森の中には、古い月の魔法で姿を変えられた者達がたくさんいました。いまや、ルゥリはその姿をはっきりと見ることが出来ます。
 それはネズミであったり、モグラであったり、ヘビであったり、チョウであったり、カタツムリであったりしました。
 彼らの多くはルゥリと同じような追放者で、やはり同じように行き場を失って、この森へとやって来たのでした。そして知らず知らずのうちに冷たい月の光を体の中にしみ込ませ、姿を変えたのです。その中には、ルゥリのまったく知らない、妖精ではないものや、他のものとは少し違った理由でここにいるものもいました。
 ですが、彼らはみな世界の外縁からはみ出してしまったということで、共通しています。
 すべきことも、することもなく、彼らはただ森の中にいるのです。暮らしているのでさえ、ありません。彼らは餌を探す必要も、外敵に怯える必要も、夜の寝床を心配する必要もありませんでした。
 彼らはただ、そこにいるだけです。
「時を数えることさえ、俺達はしない」
 と、カエルは言いました。
「ただじっと、時間が行き過ぎていくのを眺めているだけ。時はここでは何の意味も持たない。ここでは何も変化したりはしない。永遠に止まった時が、どこにも行けずにここにとどまっている。俺達はただ、そこでじっとしているだけ……」
 そんな生活を、ルゥリは最初うまく想像できませんでした。それはおよそ、石や土と変わらない生活です。自分がそんなふうに出来るのかどうか、ルゥリには分かりませんでした。
 けれどしばらくしてみると、カエルの言ったことがまったくの間違いでないことにルゥリは気づきました。
 ここでは、時は何の意味も持ちません。
 昼と夜はその区別をなくし、季節の移ろいは気まぐれな風ほどの意味も持ちませんでした。まだ何も生まれない遠い昔のことなのか、すべてのものが滅び去ってしまったはるかな未来のことなのか。
 ルゥリは、時を数えるのをやめました。
 カエルの言ったように、ルゥリはじっとして時間をやり過ごすようになりました。そうすると時は、まるで流れる水をぼんやり眺めるように過ぎていきました。
 ルゥリは、少なくともそうしている間は心の傷を感じずにすみます。石や、土と同じでした。それはむしろ、ルゥリにとって幸せなことでした。そうした生活のほうが、結局のところ今のルゥリにはあっていたのです。
 そうやって、永遠の時をやり過ごすことになるのかと、ルゥリはぼんやりと思っていました。

 けれどある日、ルゥリは花の少女に出会います。

 その花にルゥリが出会ったのは、まったくの偶然でした。
 この世界のいつとも知れないその日、月の古森には珍しく陽の光があちこちに差し込み、奇妙に明るい景色を作っていました。もちろんそれは、普通の森のような明るさとは違って、まるで辺りが陽光に熔かされて蜃気楼のようになっている、そんな明るさです。
 森はその光の中でほんの少し力を弱め、外の世界の一部が中へと入り込んでいるようでした。森は孤独な老婆のように、そんな光に毒づいているようです。
 ルゥリはそんな中、落ち着きませんでした。
 明るい太陽の光はルゥリに遠い昔のことを思い出させました。もうずっと昔で、冷たい土の地面の底ですっかり形をなくしてしまったと思っていたもののことを。
 ルゥリは落ち着かないまま、久しぶりに木の葉から起き上がりました。
 もっと、暗くて冷たい場所を探さなくてはなりません。
 ルゥリは身じろぎするようにしっぽを少し動かし、四本の足をゆっくりと動かして移動しはじめました。石の上の苔は奇妙に暖かく、土はいくぶんその色が薄くなっているようです。
 空から差し込む光はまるで、ほんのかすかな傾斜をつけた柱のようでした。そんな柱が、森の中に幾本も立っています。
「何て落ち着かない光なんだろう」
 ルゥリはそっと、呟きました。光の柱は森に侵略者の巨大なモニュメントのように突き刺さり、森の中で生きるもの達は、声もなく退き隠れたようです。
 藪の木陰を伝い、石の下の影をくぐりながら、ルゥリはより深い闇を求めて歩きます。太陽の光は現実的な重みさえもって、のしかかってくるようでした。
 そうしてしばらくした頃、藪の下を通り抜けたところに、一際明るく、開けた場所がありました。丈のごく短い草が生えそろい、海の中を照らすように陽光が差し込んでいます。木々はあたかもそこが神聖な場所であるかのように、中心から身を退けたところに立っていました。
 ルゥリは見るともなく、その場所を見ます。
 その、森にぽっかりと空いた隙間のような場所には、中央に一つの石があり、傍らには一輪の花が咲いていました。
 花は、白いドレスのフリルを幾重にも重ねたような格好をしています。茎はたおやかな貴婦人の手のように細く、葉は今生まれたばかりのような艶やかな緑色をしていました。
 そしてその傍らの石には、一人の少女が腰かけています。
 彼女はまっすぐに降る銀の雨のような髪をして、永遠に溶けることのない雪のような白い瞳をしていました。そのまつげは陽炎のようなほんのかすかな翳りを帯びていて、顔は何かを待つように少し上に向けられています。少し大人しく、弱々しい感じのする少女でした。石の上で、彼女は地面に届かない足を小さく揺らしています。
 妖精でしょうか?
 けれど彼女の髪や瞳は妖精のように黄金色でもなければ、その背中には羽だって生えていません。第一、妖精がこの森に来てあんなにぼんやりとしているでしょうか。
 ルゥリはその正体をつかめないまま、光の中のその場所へと進んでみます。
 陽光の明るさの割に、ここでは光が薄められているようでした。ルゥリは、それほどの重苦しさを感じません。
 ルゥリが姿を見せても、少女はそれに気づいていないのか、気にしていないようです。ルゥリはゆっくりと、少女の前にまで進んでみました。
 それでも、少女の視線がルゥリのほうに向くことはありません。
「?」
 いえ、そうではありませんでした。
 少女の瞳に、ルゥリの姿は映っていません。まるで透明な空気か何かのように、少女の目にはルゥリのことが見えていないようでした。
「この子は何ものなんだろう?」
 ルゥリは考えます。生き物の姿を変える力を持ったこの森で、彼女はその魔法の影響を受けずにいるようでした。
 彼女は目の前の時間をゆっくり愛しむように、同じ格好をして足を揺らしていました。少し退屈そうに、けれど決して不満そうではなく。
 彼女は少し諦めたような、けれど何かを待ちこがれているような目をしています。今すぐにでも、この世界に何か素敵なことが起こるんだ、とでもいうように。彼女のそのまなざしは澄んだ水のように透明で、彼女の仕草は風にゆれる小さな花のように儚げでした。
 彼女は沈殿した穏やかな月の光を、腕の良い職人が長い時間をかけて削りだしたような、そんな雰囲気をしていました。
「この子は、何ものなんだろう?」
 ルゥリはもう一度、思います。
 その時、森の上のほうから小鳥が一羽、舞い降りてきました。道に迷ったか、風を避けてかして降りてきたのでしょう、でなければ、この森に生の定めを負ったものがやって来るはずはありませんでした。
 小鳥は光の底の地面にまで舞い降りると、少女のことに気づいたようです。もちろん、ルゥリのことには気づきません。
「こんにちは」
 と、小鳥は言いました。
 少女はぱっと顔を輝かせて、この不意の訪問客を迎えました。
「こんにちは、小鳥さん。外の様子はどうですか?」
 少女の声は、渓流のせせらぎのような、ほんのかすかな湿り気を帯びていました。
「上は風がとても強くてね」
 羽をくちばしで整えながら、小鳥は答えます。
「仕方なくここに避難して来たんだ」
「それは大変でしたね」
 少女は同情するように言いますが、声の中のある種の明るさは隠せないようでした。
「ここなら、強い風は吹きませんよ。どうぞゆっくりしていってください」
「そうだろうがね」
 小鳥は少々薄気味悪そうに辺りを見回します。
「ここは、あんまり長居したい場所じゃないんだよ」
「そうですか」
 少女は心底がっかりしたように言いました。
「風が止んだら、すぐにお暇させてもらうよ」
 二人はそれからしばらくの間、話をしました。少女は小鳥の話しに目を輝かせて耳を傾けました。それは他愛のない、ごく普通の小鳥の話です。けれど少女にとってそれは、まるで別の星の話を聞くみたいに貴重なことのようでした。
「そろそろ風が止んだみたいだ」
 と、不意に小鳥が言いました。
「それにここは、少し冷えるようだ。私はもう行くことにするよ」
「ごめんなさい、引き止めてしまって」
 少女は本当に申し訳なさそうに言いました。少女は決して、小鳥を引きとめようとはしません。
 小鳥は別れの挨拶をすると、すぐに飛び立ってしまいます。ほんの名残の小さな風を残して、小鳥は行ってしまいました。
 しばらく、少女はその存在のこだまのようなものを聞くようにじっとしていました。彼女はそれがゆっくりと空気の中に溶けていくのを、悲しそうに眺めていました。
 それから少女はまた、元のような格好に戻ります。何かを待つように少し顔を上げ、石の上で小さく足を揺らして……。
 ルゥリはそんな少女の様子を、ずっと眺めていました。

 彼女は、妖精の花≠ナした。
 アフェリエル。花と妖精の嬰児で、森を守る存在です。彼女は月の古森の魔法を生きながらえさせるものの一つで、その魔法の影響を受けないものでした。
「彼女の名前は、ティエレというんだ」
 と、カエルは言いました。
「ティエレ?」
「月が与えた、生命を持たない名前だ」
 彼女は妖精と同じように花から生まれますが、決してその場所から離れることは出来ません。自由に飛べる羽もなく、冷たい月の光の下に生まれた彼女は、その場所を離れる力を持っていませんでした。
 彼女はずっと、ずっとその場所にいなければならないのです。
 それは、悲しいことでした。
「ティエレはあの場所から離れることは出来ない」
 と、カエルは言います。
「あの花が彼女であり、彼女はあの花だからだ。そして月の光が、彼女がそこから離れることを許さない。彼女は、月の魔法をこの地にとどめるものの一つだからな」
「彼女はずっと一人なのかな?」
「月の魔法の力は、彼女には働かない。そしてこの森にいるのは、俺達みたいに月の魔法の力を受けたものだけだ。彼女に俺達の姿は見えない。俺達と彼女の存在は交わっていない」
 カエルはげこげこと、のどを鳴らしました。
 ルゥリは言います。
「……彼女を救うことは出来ないのかな」
「救う?」
 不思議そうに、カエルはルゥリのことを見ました。
「誰が、何を、どうやって救うんだ? そして、救うというのはどういうことだ? 世界からはみ出してしまった俺達には、何も出来ることはない。そして彼女を救う方法なんて、この世界のどこにもありはしない」
「……」
「俺達は決して、何かを救ったり、何かに救われたりすることはない。永遠に時をやり過ごしていくだけ。ただ、それだけの存在だ」
「……」
 ルゥリは何も言えませんでした。
 カエルの言うことは、まったく正しいことです。ルゥリはもう、何かを望んだり、何かを求めたりしていい存在ではありませんでした。時の流れの外に置かれ、決してこの世界とは交わらない。
 そんな存在に、何が出来るでしょう。
 ルゥリは暗い木陰の下に戻って、思います。カエルの言うことは、まったく正しいと。
 けれど気がつくと、ルゥリはまるで糸のついた操り人形のように、彼女のところへと向かっていました。
 その森のわずかに開けた場所で、ティエレはいつも、少し退屈そうに、少し悲しそうに同じ格好をしています。彼女は誰にも救うことの出来ない、永遠の孤独の中にいました。
 ルゥリがその傍らに近づいても、彼女がそれに気づくことはありません。どれだけ近くにいても、どれだけ大きな声を出しても、ティエレがそれに気づくことはありませんでした。
 二人の心が、通いあうことはありません。
 それでもルゥリは、彼女の傍らにいるのをやめることが出来ませんでした。
「悪いことは言わないから、そんなことはやめるんだ」
 と、カエルは言います。
「そんなことをしたって、何にもなりはしないんだ。それは無為で無意味で無駄な行為なんだ。俺達の時間は止まっている。そして、それがすべてだ」
「……」
 ルゥリはやはり、何も言えませんでした。
 けれどルゥリにはどうしても、ティエレの元を訪れるのをやめることが出来ませんでした。
 どこか遠く、時も場所も隔たったどこか遠くにある心のうずきのようなものが、ルゥリにそうさせたのです。
 雨の日でも、雪の日でも、重苦しい太陽の光が射す日であっても、ルゥリはティエレのいる場所へ行くのをやめませんでした。
 ティエレはいつも一人で、空気の中に消えてしまった自分以外の存在について、耳を澄ましているみたいでした。時々、彼女は細いピンで刺されて標本にされてしまった蝶のように、弱々しい感じがしました。
 無力で、どうしようもなく孤独で、ずっとその場所に閉じこめられ続けている……
 ルゥリはそんな彼女を見ていると、体のずっと奥のほうで、かすかな心の震えのようなものを感じました。水面にたつ、ほんの小さな波紋のように。草原に吹く、遠い風の気配のように。
「俺達の時間は止まっている」
 カエルは、言いました。
 けれどそんな時間をどれほどか過ごすうちに――
 ルゥリの中ではいつしか、時が流れはじめていました。

「言ったはずだぜ」
 と、カエルは言いました。
「彼女に関わるのはやめるべきだってな。そんなことをしたって、何にもならないし、そんなことはすべきじゃない」
「……」
 ルゥリは黙って、カエルの言うことを聞いています。
「俺達にはもう、この世界の存在と関わる方法もないし、理由もない。権利さえ、俺達にはない。俺達はそうなると知っていて、この場所にやって来たんだ。この世界からもうすっかり放っておかれたくて、ここにやって来た。そして実際に、そうなった。俺達自身が、そう望んで。……なのにお前は、今さら何をしようっていうんだ?」
「彼女に会いたいんだ」
 と、ルゥリは言います。
「会いたい?」
 カエルは長く、長くため息をつきました。
「会いたいだって? 一体どうやって? そして、どうして? 俺達には誰も救えやしない。そうしたことは、もう放棄されてしまっているんだ。そしてそれを放棄したのは、俺達自身だ。誰かのために何かをすることさえ、俺達にはもう許されていない」
 ルゥリは言いました。
「でも、会いたいんだ」
「これはお前が望んだことなんだぞ」
「それでも、会いたいんだ」
「分からないのか? もう遅いんだ。何もかも。そんなことを言うくらいなら、お前はここに来るべきじゃなかった。お前は自分の行為に対する責任を負わなきゃならない。お前は決して何もすることは出来ない。何もしてはいけない」
「……」
 ルゥリはちょっと目を閉じました。そして体の奥のかすかな風の音を聞くようにしてから、言います。
「もう、僕の時間は動き出してしまっているんだ」
「……」
「それを止めることは、もう出来ない。たとえそれが無駄で、無意味で、無分別で、無思慮で、無作法で、無理なことだとしても、僕はそれを諦めることは出来ないんだ。例え明日この世界がなくなってしまうとしても、僕は彼女に会いたいと思う」
 カエルはもう一度、前よりももっと、ずっと長く、長くため息をつきました。
「どうしても諦めないと言うんだな?」
 ルゥリは、黙って頷きます。
「俺がどれだけそれが無理だと言っても、どれだけそれがひどいことかを言っても、お前は諦めないというんだな?」
 ルゥリはもう一度、黙って頷きます。
 カエルは今度は、少し短くため息をつきました。
「あなたがその方法を知らないんなら、僕は一人でもそれを探します。どれだけかかろうと。そのための時間は、いくらでもあるんだから」
「……」
 カエルは、長いこと黙っていました。
 そして、
「もちろん、方法はある」
 と、重い重い岩の下から小さな声を出すように言いました。
「それは気の遠くなるような時間がかかって、しかもうまくいく見込みは限りなく薄い。ないといってもいいくらいだ。すべての努力と苦労は徒労に終わり、果たされない願いへの無力さと困難さを知るだけになるかもしれない。そうすればお前は、今よりもずっと悪い場所へと行かざるを得ないだろう。絶望と悲嘆の穴の、もっとも深い場所へ」
「僕はもう、このままでいることは出来ないんだ」
 ルゥリは小さく首を振りました。
「その方法を教えてください」
「どうしても、というんだな」
「――」
 ルゥリは黙ったまま、頷きます。
「いいだろう」
 と、カエルは息さえ止めるほど真剣に言いました。
「方法を教えてやる」
「はい」
 ルゥリはカエルのかすかな吐息さえ聞き逃すまいと、まっすぐカエルを見つめました。
 すると、カエルは話しはじめます。
「この森のずっと奥のところに、俺達さえ凍えるほどの冷たい闇に満たされた場所がある。そこは月の魔法が濃く重く沈殿したところで、そこには一本の倒木と、その上に一個の壷がある。壷には何も入っていない。けれどそこには、月の光がゆっくりと注がれている。そして満月の日、そこからは一滴の雫がこぼれ落ちる。お前はその雫を体に浴びなくてはいけない。しかし、お前はその場所に長くとどまることは出来ない。そこはあまりに冷たい場所だからだ。もしもそこで時を過ごしすぎた時には、お前は冷たい闇の中で凍り、永遠に月の夢を見続けなくてはいけない。お前はそうなる前に、そこを離れなくてはいけない」
「月の夢?」
 ルゥリは訊きました。
「白く、冷たい月の上に、ただ一人自分だけがいる夢、そういう噂だ。俺は見たことはないが、それは恐ろしく孤独な夢だそうだ。俺達ですら凍えついて動けなくなってしまうような、そんな夢」
「その夢を見る前に、僕は雫を浴び、そこを離れなくてはいけない……」
「そうだ」
 カエルは頷きます。
「一体、どのくらい雫を浴びなくてはならないんです?」
 ルゥリが訊くと、カエルは少し黙ってから、言います。
「百年――」
「……」
「お前は百年間、一度も欠かさずに満月の日、その壷の前に行って雫を浴び、すっかり凍りついてしまう前に、その場所から離れなくてはいけない。雫が落ちる時刻は定まってはいない。月の光は気まぐれだ。そして百年のうち、一度でも雫を浴びそこねれば、すべての効力は失われる。お前はまた一から、同じことを百年続けなくてはならない。例えそれが、残す一日だったとしても」
「……」
「言っただろう? これは見込みのない望みだと。費やす労と努力だけがいたずらに多くて、決して報われることのない。そして誰も、これを成し遂げたものはいない。本当にそれで月の魔法が解けるのかどうかさえ、分からないんだ」
「……」
「悪いことは言わないから、そんなことはよしたほうがいい。お前は時をやり過ごすことさえ出来なくなってしまうぞ。永遠に続く、変わらない時の中で、それはあまりにつらいことだ」
「でも、僕は――」
 ルゥリは、呟くように言いました。
 もちろん、はじめからルゥリの心は決まっていました。どれだけ難しかろうが、どれだけ見込みがなかろうが、ルゥリにはそれをやるしかなかったのです。永遠の少女の孤独が、ルゥリにそうさせるのでした。
 ルゥリはカエルと別れた次の満月の日、さっそく森の奥へと向かいました。明るい月の光の下で、森はいつもよりざわついています。白い生き物達が幻のように辺りをさまよい、音にならない物音が辺りに満ちていました。
 その場所は、すぐに分かりました。
 森の奥へ向かうにつれ、空気は冷たく、闇は濃く重くなっていきました。まるでこの世界が生まれてから、一度も陽の光を浴びたことがないとでもいうように。
 ルゥリはもう失くしたはずの体の冷えを感じながら、一歩、一歩と進んでいきました。森は、その景色を変えはしないものの、暗闇の向こうで密やかにその密度を濃くしているようでした。
 しばらくすると、ルゥリはその倒木を見つけます。いつ倒れたとも知れないその古い倒木には、墓標のようにして白い月の光が差し込んでいました。倒木の周りに動くものの姿はなく、闇から溶け出したような濃い色の下草が、身を縮ませるように生えているだけでした。森のざわめきは遠ざかり、体の中にしみこんでくるような沈黙が、辺りには満ちています。
 ルゥリは朽ち倒れた巨人のような倒木に上り、辺りを見回してみました。
 そこにはカエルの言ったように、たった一つだけ、まるで遠い昔に置き忘れられたようにして、壷がありました。ルゥリがすっぽり中に入ってしまえるような大きさで、その白い壷は森の木々と同じような肌あいをしています。
「これが、そうなんだろうか……?」
 ルゥリには、自信が持てませんでした。それは確かに壷のようでしたが、まったく特別なものには見えません。小さく、目立たず、ぼんやり見ていると樹の一部であるかのように思えてきます。
 中をのぞいてみても、そこには何かあるようには見えませんでした。暗い空洞が広がっているだけです。あるいはこの日の一雫は、すでにこぼれ落ちてしまったのかもしれません。
 けれど、ルゥリはとりあえず壷の口の辺り、その雫がこぼれ落ちてくるだろう場所に横たわり、じっと目をつむりました。体の冷えは徐々に心臓へと向かいつつありましたが、まだ少しなら時間の余裕はありそうです。
 森は、ぴんと糸を張ったような静けさに満たされていました。
 じっと目を閉じていると、世界のすべてが消え去って、言葉を持たない闇だけがそこに残されているようです。
 ――
 その時、かすかな音の気配のようなものが、ルゥリの耳に伝わりました。水面がほんの小さく揺れるような、音にもならない、光の揺らめきのような気配です。
 ルゥリがその音の正体について考える間もなく、何かが、ルゥリの体を打ちました。
 それは、小さな光の一雫が体に落ちる感覚です。


<ルゥリが目を開けてみると、そこには荒涼とした大地が広がっていました。
 見渡す限りが、白と黒の世界です。まるでハサミで切り取ったようにはっきりと、二つの色が分かれていました。地表には虫食いのような穴が無数に広がり、岩と砂だけがどこまでも続いています。
(……)
 ここは、どこでしょう。
 ルゥリの周りには倒木も、壷も、森の木々さえもありません。一瞬のうちにそれらがなくなって、時も場所も違うどこかへ、ルゥリは運ばれてきたようでした。
 けれど、ルゥリにはどこか違う場所へと移動したような感覚はありません。
 ルゥリがしたことといえば、ただ目を開けただけでした。それ以外には、指一本動かした覚えもなく、何らかの変化が回りに起こった気配さえありません。
 それでもその白と黒の景色は、まるではじめからそうだった、とでもいうように広がっています。
(……)
 ルゥリはもう一度、辺りを見回しました。
 今は、一体いつなのでしょう。白い光はあまりに明るく、はっきりとして、時刻は昼間のように思えます。けれど空はあまりに黒く、暗く、すべての雲が吸い込まれてしまったようなその空には、刺すような鋭い光を放つ星々が輝いています。
 今は、夜なのでしょうか。
 けれどその空のどこにも、月の姿は見当たりませんでした。こんなにも地上を白く、明るく照らしているというのに、その姿が見えないのは奇妙なことです。空には一欠片の雲さえ浮かんではいないというのに。
(……)
 それにルゥリは、先ほどから妙な違和感を感じていました。いつも身に着けているはずのものなのに、それがすっかり抜け落ちてしまっているような感覚です。あまりに身近なものなので、返ってそれが何なのか分からない感じでした。
 ルゥリは不思議に思って、まず自分の手を見ようとしました。
 けれど、どうしたことかそれはどこにもありません。
 目は、確かに下を向いています。白く照らされた海原のような砂地を、ルゥリは見ていました。それに、手をその前に持ってきているという意識もあります。
 でもそこには、何もありません。
 ルゥリは視線を巡らして、自分の体を見ようとしました。けれどやはり、そこに自分の体はありませんでした。まるですべてがすっかり透明になってしまったようです。いえ、透明になっただけでなく、それらはすっかり失われてしまっているようでした。感覚はおぼろで、どこか離れた場所にでも置いてあるようです。
 足を動かして歩こうとしてみて、ルゥリはそれさえ出来ないことに気づきました。ルゥリはその場所から移動することさえ、出来なかったのです。
 ルゥリに残されているのは、目だけでした。
 それはまるで、ルゥリに今の状況を理解させ、その広漠とした牢屋に囚われた自分の身を、観察させてやろうとでもいうようでした。
 辺りには、物陰一つ、物音一つありません。吹く風もなければ、目の前の景色を少しでも変化させるものさえありませんでした。
 そこには、ルゥリの体さえなかったのです。
 けれど意識と目だけが、ルゥリには残されていました。そうして、変わらない時間を見続ける責務を負わされた、とでもいうように。
 動くことも出来ず、聞くことも出来ず、触れることも出来ず、息をすることも出来ず、歯を噛みしめることも出来ず、においもかぐことも出来ず、手や足を動かすことも出来ず、死ぬことも出来ない。
 世界に関わることも、関わられることもない――!
 それは、とても孤独なことでした。
 そこにはルゥリという意識だけがあって、ほかの存在というものがありません。他者もなく、自分の体さえなく、そして変わらない時間だけが過ぎていきます。
 自分だけが、世界から取り残されてしまったように。
 それは、手で触れられるくらい確かな孤独でした。心がすっかり冷たくなり、いくつもの穴が空き、錆びて動かなくなってしまうほどの。
 時間がたつにつれ、ルゥリは自分の意識さえ本当にそこにあるのか、分からなくなってきました。
 無音さえない静寂が、ゆっくりと存在の隅々まで侵食していくようです。
 眠りに落ちるように、ルゥリの意識は消えはじめていました。一滴の雨粒が、広大な孤独の海に溶けてしまうように。
 ――僕は……。
 と、ルゥリはまだ残された意識でかすかに思います。
 ――僕は、どうしてこんな場所にいるんだろう?
 そしてルゥリは、花の少女のことを思い出します。>


 ルゥリは、目を開きました。
 月の雫が体ではじけ、その力が自分の中にかすかに影響していることを感じます。最初の一雫を、ルゥリは浴びたのです。
 辺りは相変わらず、物陰一つ、物音一つありませんでした。月の光はわずかに角度を変え、上空の木々の間に見える月は、ほんの少しその位置をずらしているようです。
 体の冷えは、まだ心臓にまでは達してはいませんでした。ルゥリは病人のように力なく起き上がり、おぼつかない足どりでその場所をあとにします。
 しばらくして、空気は徐々に温かく、闇は役者が舞台の袖へと消えていくようにその密度を薄くしていきました。ルゥリの体の冷えはなかなかなくなりませんでしたが、それでも冷えは収まったようです。
 ルゥリはほっと、ため息をつきました。
 そして、これからのことを考えます
 ルゥリにはまだあと、九十九年と三百六十四日という時間がありました。
 そしてそれさえ、もっともうまくいった場合の時間なのです。それは、気を失いそうになるほど、途方もなく長い時間でした。

 月の雫が落ちる時間は、カエルの言ったように定まってはいません。
 ある時、それは月の昇りはじめた時刻であり、ある時、それは月の沈みはじめる時刻でした。ルゥリははじめ、一体雫がもう落ちたかどうかさえ、分からずにいました。
 カエルの言うとおり、それは望みない努力です。一体、誰が百年も気まぐれな月の一雫につきあえるというのでしょう。それならばいっそ、何もしないほうがましというものです。
 けれど、ルゥリはその無益な行為をやめようとはしませんでした。
 昼の間、ルゥリはティエレのもとへと行き、その傍らにいました。ティエレはいつも何かを待つように、孤独で、そしてルゥリのことには気づきませんでした。時折、小さな鳥が道に迷ってやって来たりもしましたが、彼らはそこにとどまることなく、すぐに去っていきます。
 ルゥリは、そんな様子をいつも近くで眺めていました。ティエレが、去っていったものの気配を出来るだけ長くとどめておこうとするのを。
 夜がやって来ると、ルゥリはその場所をあとにしました。ティエレはその時間、花の中で眠りにつくからです。それに昼の間、太陽の光の中で過ごすことは、ルゥリにはつらいことでした。体の層が一枚はがれ落ちるようで、それを元に戻す時間が必要でした。
 ルゥリはそんな風にして、満月がやってくるのを待っていました。

 何年かが過ぎた頃、ルゥリはようやく月の雫が落ちる時刻に見当がつけられるようになっていました。それは闇の濃さ、月の光の強さ、空気の冷たさ、森の静けさなどによります。
 けれど、それで間違いなく雫の落ちる時間が分かるというわけではありません。もう少しというところで間にあわないことや、長く待ちすぎて危うく体が凍りつきそうになることもあります。
 そうして何年も何年も、時が無駄に費やされていきました。
 ルゥリはその間、少女の孤独について考えていました。
 それは同時に、かつての自分について思いを巡らすことでもあります。
 ルゥリは、孤独でした。
 今から思うと、ルゥリにはそれがよく分かります。自分が何を求め、何に怖れ、怯えていたのか。村にいたあの日々、自分は本当は何を想っていたのか。
 ルゥリは、独りになりたくなかったのです。
 この広大な世界という場所にあって、ルゥリという存在はあまりにちっぽけでした。ちっぽけで弱くて、放っておけば誰にも気づいてもらえないくらい。
 ルゥリは、誰かの傍らにいたかったのです。そして、誰かに傍らにいてもらいたかったのです。
 けれどみんなの間に入っていくには、ルゥリはその世界にあまりに馴じめませんでした。どうしても、みなと同じ考えを持ち、村の仕事に精を出すということが出来なかったのです。この世界で本当に大切なのは、そうしたものではないように、ルゥリには思えていました。
 だから、ルゥリに出来たのはただ、みんなのほうにこっちに来てもらうことだけでした。自分がみなの世界に入っていけないのなら、みなのほうで自分の世界に入ってもらうしかない。
 ルゥリはいたずらをして、みんなにも同じようにして欲しかったのです。同じような仲間を、ルゥリは欲していました。それにいたずらをしていれば、みんながルゥリのことを忘れてしまうことはありません。
『オ・レ・ハ・コ・コ・ニ・イ・ル』
 ルゥリは自分の心の奥底にあったその声を、今はっきり聞くことが出来ます。石のように硬くなった心の底で、ずっと小さく叫び続けていたその声を。
 そしてその声に気づかせてくれた少女のことを、ルゥリは思います。
 百年。
 それは、途方もなく長い時間でした。

 何年、何百年過ぎたか分かりません。動きはじめた時間の中で、それはあまりに長く、つらい時間でした。ルゥリは時にこの行為の望みなさに絶望するような気持ちを抱き、時に幾度かの幸運のために歓喜を覚えることもありました。
 けれど結局のところ、百年という時間はあまりに長大です。
 ルゥリは自分がとても長く、薄くひきのばされているような気がしました。自分が一体どこにいて、今がいつなのかも、よく分からなくなります。そして自分がどこに向かおうとしているのかも。
 そんな時、ルゥリは少女の孤独について想います。その傍らで、決して気づかれることのない自分のことを。
 何年、何百年が過ぎました。

 そして、ある日のことです。
 その日ルゥリは珍しく森に差し込んだ朝陽の中で、目を開きました。
 生まれたばかりの光は、新鮮で、透明で、まだ弱々しいものです。斜めにまっすぐ差し込んだ光はきらきらと輝いて、世界の朝を告げていました。
 ルゥリは起き上がろうとして、奇妙なことに気づきました。
 体が、いつものように動きません。
 尾を震わせ、手足を動かし、腹ばいに進もうとするのですが、どうしたわけかいつもなら自由に動くはずのそれらが、まったく思うようにいきませんでした。
 そればかりか、なんとなく体が窮屈になって、ひどく不自由です。
 まるで、何かの中に閉じこめられているように。
(一体、どうしたんだろう?)
 ルゥリはもぞもぞと、体を動かしました。
 そして自分が何か、白い皮のようなものにくるまれていることに気づきました。それは薄い布のようなもので、うっすらと向こうの景色が透けて見えます。
 指で押してみると、皮は簡単に破れていきました。
 ルゥリはある程度皮を破ると、体を外へと出してみました。
 いつものように足に力を入れ、腹ばいになって進もうとして、ルゥリは奇妙なことに気づきます。
 足に力を入れると、そのまますっくと立ち上がってしまったのです。
 それは、いつものようなトカゲの低い視線ではありませんでした。地面からは離れ、草を見おろしています。
「……?」
 ルゥリは不思議そうに、自分の体を眺めてみました。
 手の先から肘、肩を眺め、ついで胸、腹部、太ももから膝、足先にまで視線を巡らします。
 それは、トカゲの体ではありませんでした。
 朝の光の中で、ルゥリは元のような体に戻っていたのです。
 それは、まったく元の姿というわけではありません。その背中からは妖精の羽が失われ、髪と瞳はカラスのような黒に変わっていました。
 けれど、ルゥリはその目覚めたばかりの一日の中で思いました。
 魔法は解かれたのだ、と。
 けれど魔法が解かれ、元の姿に戻ったからといって、すぐに心の震えが戻ってくるというわけではありませんでした。
 ルゥリは戸惑ったように朝の光の中で立ちつくし、森を歩いたりしてみましたが、自分が何をどう感じてよいのか、分かりませんでした。
 あるいは、ルゥリの心はもうすっかり失われてしまったのかもしれません。
 また、それは単に、まだこの世界に馴じんでいないだけかもしれません。
 けれど、ただ一つ――
 あの花の少女に会いたいという思いだけは、変わりませんでした。それは強くなるわけでも、弱くなるわけでもありません。
 ルゥリはただ、彼女に会いたいのです。

 森の開けたその場所で、ティエレは今日も一人で、花のそばの石に腰かけていました。彼女がそこから動くことは出来ません。彼女はそう、運命づけられているのです。
 朝の光を、ティエレは見るともなく、ぼんやりと眺めていました。
「こんにちは」
 と、声をかけられたのは、そんな時です。
 ティエレは少し慌てたように、そちらのほうを向きました。
 そこには、一人の少年が立っています。
 ティエレはほんの少し、首を傾げました。少年に見覚えはありませんでしたし、ここにやってくるのは小さな鳥がせいぜいでした。普通の生き物が、この森にいることは出来なかったのです。
 とはいえ結局のところ、相手がどんな存在であろうと、ティエレには関係ありませんでした。彼らはどうしたって、いなくなってしまうのです。
「まだ朝だから、おはようじゃないかな?」
 にっこり笑って、ティエレは答えます。
「そうだね、おはようだ」
 ティエレに言われ、少年は同じようにちょっと笑って挨拶をしました。それから、
「近くに座ってもいいかな?」
 と、訊きます。
「うん」
 ティエレはにっこりして頷きました。誰であれ、例え一時でも自分のそばにいてくれることは、ティエレにとって嬉しいことでした。
 少年は歩いて、ティエレの座っている石に背をもたれさせるように、座ります。
 それは、いつも少年がティエレのそばにいた時の場所でした。
「不思議だね」
 と、ティエレはふと言います。
「何だか前にも、あなたに会っていたような気がする。どうしてかな? 初めて会ったような気がしない」
「たぶん、会っていたんだ。どこか、別の場所で」
「そうかな?」
「そうだよ」
 少年は、少し笑いました。
 ティエレは、少年に訊きます。
「ねえ、あなたの名前を聞いていいかな?」
「ルゥリ――」
 少年は答えます。
「でもそれは、君と同じように意味のない名前なんだ。生命を持たない、この世界では祝福されない名前」
 ティエレはちょっと考えるようにして、言いました。
「でも、いい名前だと思うよ。私は好きだな、その名前」
「僕もティエレっていう名前は好きだよ」
「じゃあ、私達の名前は、少なくとも私達には意味のあるものなんだね」
 ティエレは、とても素敵な発見をしたように笑いました。
「うん」
 と、ルゥリも少女と同じように笑います。
 しばらくして、
「ルゥリは、どこから来たの?」
 とティエレは訊ねました。
「月の上からさ」
 ルゥリは答えます。
「月の上……?」
「そこはとても寂しいところなんだ。白と黒の、岩と砂だけの何もない世界。そこに僕は一人でいたんだ」
「そんな場所に?」
「でも地上のことも、僕は良く知ってるんだ。珍しい蝶や、花や、風のことを」
 ティエレはその話を、ゆっくり聞いてみたいと思いました。
 でも、それは無理です。
「ルゥリの話はとても聞きたいけれど、ここにはあまり長くいないほうがいいと思う。普通の生き物が長くここにいることは出来ないから」
「僕は、大丈夫なんだ」
「?」
 ティエレは不思議そうにルゥリのほうをのぞきました。
「僕はもう、月の魔法の一部だから」
 そう言ってルゥリは、ティエレに笑って見せます。
 ティエレにその言葉の意味は、分かりません。けれど目の前の少年が、自分とよく似た存在なのだということは、なんとなく分かりました。深い孤独を抱え込んだ、似たような存在。
「じゃあ、ルゥリはずっとここにいられる?」
 そう訊くと、ルゥリはちょっと下を向いて、黙ってしまいました。ティエレは慌てて、
「あの、別に無理にいてくれなくてもいいけど……えと、でもそれはいて欲しくないってことじゃなくて……その、いられるならいて欲しいというか……」
 ルゥリは立ち上がって、まっすぐにティエレのことを見つめます。
「あの……」
「僕は君のそばにいたいんだ。君のそばに、僕はいてもいいかな?」
 ティエレは長いこと恥ずかしそうに黙っていました。
 けれどしばらくして、
「……うん」
 と、頷きます。

 世界のどこかの片隅に、月の古森は今もあります。そこは古い魔法の残る森で、冷たい月の光が差し込み、生き物の姿を変える力を持った森です。
 そしてそこには、一輪の花が孤独に咲いています。
 花は、ずっと一人ぼっちでした。ティエレという生命のない名前を与えられた彼女は、決してそこを離れることは出来ません。
 けれどある日、彼女の前には一人の少年が現れます。ルゥリという名前を与えられ、その意味をなくした、かつては妖精であり、白灰色のトカゲであり、そして月の魔法の一部となった少年。
 二人は長い、長い話をします。
 彼らはもう決して、一人ではありませんでした。ルゥリの傍らにはティエレがいて、ティエレの傍らにはルゥリがいます。
 これは、小さなお話です――
 一人ぼっちの少年と、少女が出会う、ただそれだのお話。
 でも、冷たい月の森で起きた、これは奇跡です。

――Thanks for your reading.

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