ツェフトレントの国の中央には、この国で一番大きなお城である王様のお城があって、その中心には高い塔が一つだけ伸びています。 その塔は何百年も前からあって、頂上には悪魔が閉じ込められているという噂でした。 けれど誰も本当のことは知らなかったし、確かめようとするものもいません。塔はただ、不吉につきささった槍のように城から生えているだけでした。 ある晩のことです。 その日は月も星も、甘いお菓子のように輝いていて、風もそっと息をひそめているようなしんとした明るい夜でした。 末っ子のお姫様であるシャミルは今年で十歳になる女の子で、栗色の髪に黒炭のような黒い眼をした、小鹿のように元気な少女です。 シャミルは今、寝つかれないまま窓の外を眺めていました。 (お昼寝しすぎたのがいけないんだわ) とシャミルは思いました。その日は陽射しが柔らかく、風も温かで、シャミルはお城の中庭にある花畑の中でついうとうとと眠ってしまったのです。 (みんなもう眠っちゃってるし) 遊び相手になる侍女も、お話をしてくれる老婆も、こんな時間に起きているはずもありません。 シャミルは退屈でした。 それにこんな静かで不思議な夜には、何か起こりそうな気もします。 窓の外を眺めていたシャミルは、ふと気づいてベッドを抜け出しました。部屋の扉を開け、月明かりに照らされた廊下へと出ます。 城中がしんとして、シャミルはまるでお城に自分ひとりしかいないような気がしました。月の光に照らされた白い廊下は、見慣れたいつもの廊下とはひどく違っているようにも思えます。 銀の光の中をとことこと歩きながら、シャミルは塔にのぼる階段のところまでやって来ました。 窓から見えていたのは、お城の塔だったのです。 シャミルは扉を開けて塔の中に入りました。塔に近づくものは誰もいないので、扉に鍵がかかっていないことをシャミルはちゃんと知っていたのです。 狭い螺旋階段がピアノの鍵盤のような行儀よさで並んでいます。月の光で色分けされた階段を踏んでいくと、足音の一つ一つまでも音が違うようでした。くるくると回る階段を上っていくと、まるで時間をさかのぼっていくようです。 シャミルが途中で穴の開いた窓をのぞいてみると、塔の周りには風がびゅんびゅんと吹き荒れていました。地上を見下ろすとほんの小さな明かりが少しだけ見え、何だか空にずいぶん近づいたような気がします。 それだけで、こんな日の夜としては十分だったのですが、シャミルは思い切って塔の頂上を目指すことにしました。 もちろん、シャミルは悪魔の話は知っていましたし、塔に近づいてはいけないとも言われていました。 けれど皆にしてはいけないと言われると、かえって気になってしまうものですし、ここまできてしまった以上、たいした違いはないようにも思えました。 (悪魔なんているはずがないし) シャミルはそう思うと、長いながい階段を途中で何度も休憩しながらのぼっていきました。 そうしてずいぶんのぼったと思う頃、一つの扉が目の前に現れました。 階段は、そこで終わっています。 扉はずっしりと重そうな鉄製の扉で、大きな鉄の塊がその場所に置き忘れられただけのような、無愛想なものでした。とっての代わりに鉄のわっかがついているほかは、何の装飾らしいものもありません。 シャミルは少しどきどきしながらわっかをひっぱってみました。 すると鉄の扉は不平を言うようにぎぃぎぃと音を立てながら、ゆっくりと開いていきます。 十分な隙間が開くと、シャミルは恐る恐る中をのぞいてみました。けれど中は真っ暗で、何も見ることはできません。 シャミルは思い切って足を踏み入れてみました。すると、 「――誰だ?」 という声がします。シャミルは驚いて、慌てて部屋を出てしまいました。 けれど、部屋の中はしんとしたままで、誰も追ってくる様子はありません。それに声はまったく人間のもので、怖い感じもありませんでした。 シャミルは恐るおそる、もう一度足を踏み入れてみました。 「誰だ、この場所には近づいてはいけないと言われてはいなかったか?」 「私、シャミル。あなたは塔に住んでいる悪魔さん?」 シャミルは思い切って訊ねてみました。 「悪魔?」 声はふと笑ったようです。 「そう、そうかもしれない。確かに私は悪魔と呼ばれても仕方のないことをしたのだから」 シャミルは鉄の扉を大きく開けてみました。 月の光が射し込んで、中の様子を照らし出します。 そこには、長くて白い髪と髭をした老人が座っていました。顔には古い木のようなしわがいくつも刻まれ、着ているものも元が何色だったのかも分からないほど薄汚れています。 その眼を見ると、白く濁っていました。 「おじいさん、目が見えないの?」 シャミルは光が射し込んだことにさえ気づかないでいるらしい老人に向かって訊ねました。 「ああ、長くここにいるからな」 盲いた老人の声は、まるで長い年月をかけて出来上がった鉱物のようなさびさびとしたものでした。 「もうずいぶん人とも会っていない」 「おじいさんは誰なの?」 と、シャミルは訊ねました。 「私かね」 老人は永い眠りから目覚めたようなゆっくりとした調子で、 「レザル・アルティシエというのが名だ。かつてはこの国の王でもあった」 「……」 「聞きたいかね、私の話を。私が何故ここにこうしているのか」 老人の言葉は、嵐の夜を窓の外に聞くような不吉な感じを持っていました。 けれど、シャミルは部屋の中に入って老人の前に座りました。ここまで来てしまった以上、もう後には引けないような、そんな気がしたのです。 レザルはシャミルの座った様子から、静かに語り始めました。 「そう、あれは私と王妃の間に子供が生まれた頃のことだ――」
王妃の名前はアリエスといいました。真珠のように白い肌と、太陽のような亜麻色の髪、それに湖のように澄んだ瞳をもった美しい人です。 レザルと彼女は親の決めた許婚同士でしたが、お互いに深く愛しあってもいました。 二人の結婚は誰からも祝福され、心地よいそよ風と暖かい陽のにおいの中にいるような幸せに二人は包まれていました。 アリエスは決して体の丈夫ではない女性でした。少しの熱でも寝込んでしまい、城の外に出ることはめったにありませんでした。そういう時、アリエスはベッドの上でなんでもないというふうに良く笑って見せます。 彼女の笑顔はふれれば壊れてしまいそうな、不思議な感じの微笑でした。 レザルはそんな彼女を愛していましたし、彼女を失うくらいなら世界を失ったほうがましだと、本気で考えていました。 そんな二人の間に、穏やかで満ち足りた日々が過ぎていきます。 そうして何年かが過ぎた頃、アリエスは子供を欲しがるようになりました。 もちろん、レザルは反対しました。彼女の体ではとても無理だと思えたからです。 「お前を失うくらいなら、私は他のどんなものも欲しいとは思わない」 そう、レザルは言いました。けれどアリエスは決してうなずこうとはしません。彼女は母になりたかったのです。それは、彼女の中に不思議と強くて優しい感情として存在していました。 「私の命は長くありません。その時に、あなたに何かを残しておきたいとも思うのです」 アリエスはそうとも言いました。 結局、レザルは彼女の意志を曲げることはできませんでした。 そうしてまた何年かが過ぎた頃、アリエスは子供を身ごもりました。レザルは高価な宝物を扱うような慎重さで彼女のことを気づかいました。 そのかいもあって、アリエスは順調にお産の日へと向かっていきました。レザルもほっと胸をなでおろしていました。 けれど出産の日が近づいた頃、アリエスは急に体調を崩し、病に倒れてしまいました。子供を諦めなければ、彼女の命さえ危うい状況です。 それでもアリエスはうなずこうとはしませんでした。繊細で、少し弱々しい感じさえする彼女からは想像もつかないほど、その意志は強かったのです。 出産の日を迎えました。 その日は雷雨が地上を覆い、風が悪魔の叫び声のようにごうごうと鳴る暗い一日でした。 アリエスは熱に浮かされ、意識も朦朧としながら、それでも我が子に会うために懸命にがんばりました。傍らで、レザルはただ二人の無事を祈ることしかできません。 凍ったような時間が、信じられないほどゆっくりと過ぎていきます。 やがてその氷が不意にかききえるようにして、赤ん坊の産声が響いてきました。 レザルははっとしました。 見ると、アリエスはその手に小さな命を抱えて、美しく微笑んでいます。汗と涙に濡れた顔は、彼女の努力をたたえていました。 アリエスはわが子の姿を見て、安心したように目をつむりました。 そして、二度と目覚めることはなかったのです。 彼女は自分の子供を産み、代わりに自分の命を失いました。彼女の体は結局、出産には耐えられなかったのです。 子供は、自分を最も愛してくれる存在の死を知らずに、ただ泣き続けていました。 レザルは深く、絶望的な悲しみの中にありました。体が二つに裂けてしまうのではないかと思えるほどの悲しみです。けれど、それがアリエスの意志でもありました。彼女はもっとも彼女であり続けたまま、死んだのです。 生まれた子供は女の子で、レミアという名前がつけられました。それはアリエスの生前に二人で決めておいた名で、光≠表すものでした。 レザルは無理にでも悲しみのことを忘れ、目に入れても痛くないような大切さでレミアの世話をしました。 けれど、しばらくした頃、赤ん坊は明日をも知れぬ病にかかりました。顔が赤く、息も絶え絶えで、もはや助からないようにも思えました。 レザルはあらゆる手を尽くして、娘を助け出す方法を探しました。愛する娘を救うためならば、レザルは自分の命さえ喜んで捨てたことでしょう。 けれど、思わしい方法は見つかりませんでした。 もはや娘の命は助からぬものと諦めるしかなくなった頃、一人の老婆が城を訪ねてきました。彼女は言います。 「その娘を救う方法をお教えしようか?」 女は魔女でした。 レザルはわらにもすがる思いでその方法を訊きました。 「まず、四人の赤ん坊を用意するのだよ」 「四人?」 「そして生きたまま一人は眼を、一人は舌を、一人は耳を、一人は心臓をくりぬく。そうしてそれらをトネリコの皮に包んで子供の寝台の下においておくのだよ」 「そうすれば本当に娘は治るのか?」 魔女は薄く笑ったまま、何も言わずに去っていきました。 レザルの迷いはそう長くはありませんでした。 彼はその方法を実行したのです。 城下から四人の赤ん坊が無作為に選ばれ、レザルは自らの手でその子供たちの眼と舌と耳と心臓を切り取りました。彼らの泣き叫ぶ声は、獣の泣き叫ぶ声のようにレザルには聞こえました。 そうして魔女の言うようにそれらをトネリコの皮に包み、レミアの寝台の下に置いておくと、赤ん坊はそれまでの高熱が嘘のように良くなりました。 レザルの喜びは大変なものでした。 その晩、レザルは久しぶりに安心して眠ることができました。 ところがその夢の中にあの魔女が現れ、言うのです。 「王様、実はもう一つもらわなければならないものがあるのだよ」 魔女はあの時と同じ、薄笑いを浮かべていました。 「それはあなたの死=Bあなたは永劫の闇の中を、人の姿のまま生き続けねばならないのだよ」 「なんだと?」 レザルは驚きました。 「もう後戻りはできないよ。あなたはそれだけのことをしてしまったのだから。あなたは彼岸で愛する者に会うこともなく、永遠にこの地上という牢獄に生き続けねばならないのだよ」 待て、と言う間もなく魔女の姿は白い霧の中に消えてしまいました。 レザルは眠りから目覚めると、はじめて己の罪深さを知りました。彼は悪魔でさえ眼をそむけるような所業を自分がしたことを、はっきりと思い出していたのです。 そしてその罪を、レザルは永遠に抱え続けなければならないのでした。 あの赤ん坊達にも、自分の子供と同じように父親がいて、母親がいるはずでした。そして彼らと自分との間に、ましてや子供たち自身との間に、生きる価値の違いなどはなかったはずです。 それは、あまりに重い罪でした。 レザルはいつしかその罪の重さに耐えかねて、様々な手段で自分の命を絶とうとするようになりました。 けれど魔女の言ったとおり、レザルは死ぬことができませんでした。彼は死≠奪われてしまったのです。 この地上はレザルにとって地獄と同じでした。 そのため彼は、塔を造らせました。 高く、高く、何者も近づいてこれない場所で、レザルは一人になりたかったのです。いえ、それは彼が自らに科した罪でもありました。 そして時がたち、レザルが闇の中でひっそりと生きる間に、塔の役割はいつしか忘れられて、ただその天を衝く高さだけが、人の罪のオベリスクであるような昏い印象を与えながら、在り続けることとなったのです。
「――これが、私の話だ。決して救われることのない私の、な」 老人は、そう語りました。 その前でシャミルは自分の心臓が入れ替わってしまったような、なんともつかない感情の中にいました。 「おじいさんは」 と、シャミルは訊きます。 「これからもずっとここにいるつもりなの?」 「ああ、そうだ」 老人は何のためらいもなく答えます。 シャミルは首を振りました。 「もう十分だと思うよ。だって、もう誰もおじいさんのことは覚えてないんでしょ。こんなところに一人でいたって、寂しいだけだよ」 「誰が覚えていなくとも、私だけは覚えているんだよ」 老人は少女の優しさに、かすかに微笑んだようでした。 「私にはこの場所がふさわしく、この場所の他にいるところなどないのだから」 「……」 「さあ、そろそろ戻ったほうがいいろう。君は君のいるべき場所へ」 シャミルは何か言おうとするかのように口を開きかけましたが、結局何も言えずにゆっくりと立ち上がりました。 そしてためらうように後ろへ下がると、部屋を出てそっと扉を閉めました。 「さよなら」 最後に言いながら。 シャミルは階段を下りながら、ふと窓の外に目を向けました。 地上にはもう明かり一つなく、風は相変わらずびゅうびゅうと吹き荒れています。 シャミルは何故か、それが哀しいことのような気がしました。
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