[時計]

 時計は自分の中で、何かが動きはじめたのを感じました。それは私たちの心臓と同じように、コチ、コチ、と一定のリズムで動いています。いえ、それよりも何倍か正確なようでした。何しろその心臓は、歯車とゼンマイで出来ていたのですから。
「ここはどこだろう?」
 と時計は思いました。時計はたった今、生まれたばかりでした。時計は出来上がって、はじめてそのネジを巻かれたのです。
 時計のネジを巻いたのは、時計を作った職人自身でした。職人はその時計を、自分の家で使うために作ったのです。ですからそれはごく小さな置時計で、細かな細工もありませんでした。でもその代わり、優しく心がこもり、丁寧に作られたものでした。
 時計は自分を作ってくれた親でもある、職人の顔を見ました。職人はもう若くはありませんでしたが、一人前の親方らしい威厳と誇りを持っていました。いかめしい顔の中で、目だけが優しく光っています。
 職人の後ろには、その様子を見守る女の人の姿がありました。それは職人の奥さんでした。彼女は、いつもは明るい顔を少し心配そうにして、時計のほうをのぞきこんでいます。奥さんの金色の髪は、夏の草原の光のようでした。
「さあ、時計が動きはじめたぞ」
 と職人が言いました。
「俺たちが自分の家と店を持った記念の時計だ。どうだい、イリオーネ。ちゃんと動いているだろう」
「ええ、確かに動いてます」
 と、イリオーネと呼ばれた奥さんは答えます。彼女は夫の無邪気な喜び方が、少しおかしくもあったようでした。
「この世に数ある機械のうちでも、こいつはまったく特別なものさ。何しろこいつが作り出しているのは時間≠ネんだからな」
 職人は得意になってしゃべり続けます。でも職人がこんなにも口を開くのは、その奥さんであるイリオーネの他にはあまりいませんでした。
「ええ、そうねクレーデ」
 イリオーネは子供のようにはしゃぐ夫に向かって、そっと微笑みかけます。
 その間、時計はずっと二人の話を聞いていました。そして自分の中でコチ、コチ、と動いているものこそが時間なのだと理解しました。
「そうだ、僕の作るものこそはどんな職人にだって作ることの出来ない、すばらしい細工物なんだ。そしてこれがなければ、世界にだって何の意味もない、貴重な宝なんだ」
 時計ははじめて見る世界にいささか興奮していました。そしてこの家のクレーデ親方よりもなおいっそう得意になっていました。すると横から忠告するものがあります。
「若者よ、決して自分のことをうぬぼれたり、傲慢になったりしてはいけないよ」
 それは古いタンスでした。タンスは、時計がその上に置かれた暖炉の横にあって、時計の言葉を聞いていたのです。
「お前はまだ生まれたばかりで、世界について何も知るまい。若者らしい無知や無恥を早く捨てることだ。でなければ、世界の本当の意味を知ることは出来ないよ」
「あなたは何を作っているんです?」
「私は何も作ってはいないよ。私はただの容れ物だからね」
「じゃあ、黙ってるがいいや」
 と、時計は軽蔑したように言いました。時計はまだ生まれたばかりでしたから、そうした忠告に耳を貸すことはありませんでした。でもそれは、仕方のないことでもあります。
 しばらくすると、クレーデ親方は下へ仕事をしに、イリオーネ奥さんは市場へ買い物に出かけました。すると部屋には誰もいなくなりましたから、時計は自分こそがこの家の主人なんだ、と思いました。
「うぬぼれてはいけない」
 と暖炉の前のイスが言いました。でも時計は聞きません。壁にかけられた絵も、同じことを言いました。でもやっぱり、時計は聞きません。
 やがてイリオーネが戻ってきました。奥さんは時計を見てにっこりしました。時計は得意になります。そのうちクレーデも仕事を終えて上がってきました。親方も時計を見て、嬉しそうにします。時計はやっぱり得意になりました。
「ほら見ろ、僕こそがこの部屋の中で最も尊いものなんだ」
 それに対しては誰も何も言いませんでした。
 やがて夜がやって来て、みんなが眠りにつきました。でも時計は眠りません。夜になっても時間は必要ですから、時計は眠ることがないのです。
「ほら見ろ、僕はいつだって必要なんだ」
 と時計は言いました。でもそれは、みんなを起こさないように小さな声でです。
 時計がただただじっとそうしていると、いつしか窓の外から明るい光がさしこんでいました。時計はその光にびっくりしました。何と強く、温かく、その光は輝いていることでしょう。時計はその力強くも神秘的な光に、しばし言葉を失いました。
「あれは朝陽というものだよ。この世界の朝を告げる、最も偉大な時計の輝きだよ」
 と、タンスが横から言いました。
 時計は恥ずかしそうにうなだれて、一言も返すことが出来ませんでした。

 時計は三日に一度ずつ、ネジを巻かれました。すると時計の中に新たな力が湧き起こって、また元気よく針を回し続けるのでした。そしてそんなことを繰り返すうち、時計はゆっくりと年をとっていきます。そうして十分な分別と、思慮も身につけていくのでした。
 親方と奥さんは毎日忙しく、そして幸せそうに暮らしていました。親方は職人を雇って一緒に時計を作ったり、徒弟に対して時計作りについて教えたりしています。奥さんは親方や徒弟たちの服を作ったり、毎日美味しい食事を作ったりしています。
 二人はとても慎ましやかに、そして誠実に暮らしていました。
 そうしているうち、時計はふと奇妙なことに気がつきました。奥さんのイリオーネのお腹が段々と大きくなっていくようなのです。
「どうしたんだろう?」
 時計は心配になりました。お腹が大きくなるにつれて、イリオーネは何だか具合が悪く、動きにくくなっているようでした。このまま大きくなり続けると、きっと動けなくなってしまうんじゃないかな、と時計は思いました。
 でも不思議なことに、奥さんはまるで不安そうな顔を見せず、クレーデ親方も何だか嬉しそうでした。二人は何かが待ち遠しくて仕方ないようなのです。
「早くあなたの顔が見たいわ」
 と、イリオーネはそのお腹を優しくなでて、誰かに話しかけるように言いました。
 でも時計には、二人が何を待っているのか分かりません。
 しばらく時がたつと、急に家の中があわただしくなりました。寝室から時計のいる居間にベッドが移され、そこにイリオーネが寝かされます。そしていつもは見かけない人が、その傍らにつきました。
 その人はお湯を用意したり、たくさんの布巾を持ち出したり、イリオーネに何か言ったりして、忙しそうに動き回っています。まったく、時計にはその人が何をそんなに慌てているのか、分かりませんでした。
 やがてイリオーネは苦しそうな呻き声を上げはじめました。するとその人はイリオーネに声をかけます。
「さあ、がんばるんだよ。吸って、吸って、吐く。お腹の子もがんばっとる。お前さんもがんばるんじゃ」
 イリオーネはその言葉を聞いて、何とかがんばろうとしているようでした。呼吸を強く繰り返して、歯を噛みしめます。
 時計はそれを見ていると、何だか自分まで力が入ってくるようで、その力で奥さんを手助けしてやりたいくらいでした。でも時計は几帳面な性格だったので、それで決して針を速めたり遅くしたりするようなことはありません。
 どれくらいの時がたった頃でしょう。一つの泣き声が、部屋に響きました。それは誰の声でしょう? それは奥さんのものでも、産婆さんのものでもありません。
 産婆さんが何かをお湯につけて洗い、布巾にくるんでイリオーネに渡してやりました。
 イリオーネはその子を優しく見つめました。それは本当に優しいまなざしです。けれどその子はそんなことにはお構いなしに、大声で泣き叫んでいます。
「なんて大きな声を出すんだろう」
 と、時計はいささか辟易して言いました。
「僕が親方の手で作られたのと同じように、あの子供も奥さんの仲で作られたというわけなんだ。しかし生まれてくる時、僕はあんなにも騒がしくはしなかったぞ」
 時計はそう言いましたが、もちろん誰も聞いてはいませんでした。イリオーネは本当に喜ばしそうに、自分の子供を見つめています。
 やがてクレーで親方が上がってくると、親方はイリオーネの頬にキスをして、それから子供を抱き上げました。すると子供はまたもや火のついたように泣き出します。
「よしよし、元気な子だ。男の子はこうじゃなくちゃならん」
 クレーではそう言って笑いました。けれど赤ん坊はそんな事は知らず、泣き続けています。
「それ以上あなたが持っていたら、子供が泣きやみませんよ。さあさあ、私に渡してくださいな」
 イリオーネがそう言うと、クレーでは子供を手渡します。お母さんの手の中に戻ると、子供は安心したように泣きやみました。
「それにしても、あの小さいものは何を作るんだろう?」
 時計は思います。時計にはそれが何のためにあるのか、さっぱり分かりませんでした。けれど時計にしてもやっぱり、その子供のことを可愛らしく思ったのです。
 それから時がたつにつれて、子供はすくすくと大きくなりました。子供はいろいろな玩具や身の回りのもので遊びました。けれど時計に触ることはありません。何しろ時計は暖炉の上にあって、子供には手が届きませんもの。
「あの子はネジを巻いてもらわないんだろうか?」
 と時計は思いました。ネジを巻いてもらえなければ、いつか動かなくなってしまうだろうな、と時計は思っていました。何しろそれは、作られ、生み出されたものなのですから。
 でももちろん、男の子がネジを巻いてもらうことはありません。男の子が大きくなると、イリオーネは暖炉の前に座って、よく男の子にお話をして上げました。
 暖炉の暖かな光のそばで、男の子はお母さんの膝の上に座ってお話を聞きます。時計も黙ってその話を聞いていました。海蛇に助けてもらいながら、王子様と結婚する一番幸せなときにその名前を呼んでやる事を忘れ、海蛇の呪いを解いてやれなかったお姫様の話や、あと少しのところで口を開いてしまったために、黄金をもらい損ねた男の話などです。
 それからまた、神様に永遠に生き続けるように言われた名前を持たないことについてのお話もありました。
「確かにこれはよく出来た話だぞ」
 と時計は思いました。
「でももっと歯車やゼンマイについての話もしてくれるといいのだけどな。何しろ僕はそうしたもので出来上がっているんだから」
 でも残念ながら、そうした話はありませんでした。普通の人はあまり歯車やゼンマイの話を聞きたがらないのです。
 男の子はしばらくすると、もっと大きくなりました。男の子は部屋の中を駆け回ったり、主の喜び≠歌ったりしました。男の子がいると、家の中は大変賑やかで、二人はとても幸せそうでした。
「つまり、これがあの子の作り出すものというわけだな」
 と、時計は思いました。確かにそれは、時計が作り出すものとはまた別のものでした。
「そろそろ、この子に時計作りを教えようかな」
 ある時、クレーデ親方は言いました。
「エリオットにですか? 少し早い気もしますけど……」
 イリオーネは子供をなでてやりながら、不安そうに言います。でも当の本人は、そんなことはまるで分からない様子でお母さんの顔をじっと見つめていました。
「今から時計作りを学べば、この子はきっとすばらしい職人になることだって出来る。王様の時計を作るような、すばらしい職人にだ」
 そしてエリオットはその日から、時計作りをはじめることになったのです。
 まだ幼いエリオットにとって、それは遊びと同じでした。エリオットはお父さんに教えられながら歯車を組み立て、時計の枠を彫り、一つの時計を作っていきました。
「うんうん、筋が良いぞ。この子が大きくなれば、王室の時計職人になることだろう」
 それがクレーデ親方の口癖です。けれどエリオットには確かに、何がしかのものがあるようでした。それは才能≠ニ呼ばれるものです。
 エリオットが成長するにつれて、彼の時計作りの技術も同じように成長していきました。部屋の時計も、一度エリオットの作った時計を見たことがあります。エリオットの時計は、複雑で精巧な彫刻が施してあって、針の動きはこの上なく正確でした。まったくそれは、たいしたものです。
「でも、いささか派手すぎやしないだろうか?」
 と時計は思いました。その時計に比べると、暖炉の上の時計はいささか控えめで、質素でした。つまり、華がなかったのです。
「これが新しい時代というものですよ」
 と、その時計は言いました。
「時代が変わればデザインも変わる。時間だって変わっていくんです。新しい時間には新しい時計が必要です。僕のようなね」
 古い時計はその言葉にいささかむっとしましたが、何も言い返すことはありませんでした。新しい時計の言うことにも、確かに一理あるように思えたからです。
「そうなのだ。僕はあまりに控えめで、この部屋の中の時計になるのが精一杯だった。僕は決して王様のお部屋や、町の時計塔に飾られるには不向きだったものなあ」
 古い時計はそっとため息をつきました。
 やがて新しい時計は売られ、いなくなりました。それと同時に、エリオットの評判は高くなりました。彼は新しい時代に必要な時計を作ることが出来たのです。
「あの時計には確かに新しい何かがある。人をひきつけるだけの何かが」
 人々はそんなふうにしてエリオットの時計のことを誉めました。
 クレーデ親方やイリオーネ奥さんは、そのことを喜んだでしょうか。いえ、二人は喜びませんでした。それどころか、怒ってさえいました。エリオットはこの街を出て行くと言いだしたのです。
「僕はもっと広い世の中で自分を試したいんです」
 とエリオットは言いました。
「そんなことをして何になるというんだ」
 と、クレーデ親方はそっぽを向いて言います。
「うぬぼれるのもいい加減にしろ。この街を出て、一体どこに行くというんだ。この街こそが、俺たちにとって分相応なんだ」
 クレーデは年をとって、いささか気が弱くなっているようでした。クレーデはエリオットの才能を信じるよりも、家にいて街で時計を作ってもらいたいと思っていました。
 エリオットはけれど、そんな父親の言うことは聞きませんでした。彼の中には何がしか熱いものが、自分を試さずにはおれない衝動のようなものがあったのです。
「なら、仕方ありません」
 エリオットはそう言うと、父親の前から姿を消しました。そして自分の部屋で必要な荷物をそろえると、家を出て行ってしまいます。
 それでもクレーデはあくまでもそっぽを向き、イリオーネは心配そうに窓から去り行く子供の姿を見送るばかりでした。
「何てことだ」
 と、時計は思いました。
「結局、これがあの子の作り出したものなんだ。悲しさと侘しさ。あの子の残していったものはそれだけなんだ。すべては失われてしまった。すべては失われてしまった」
 時計はただ一人で、二人のために嘆いていました。でも二人にはそれは聞こえません。何しろ人間には時計の言葉は聞こえないのです。
 エリオットがいなくなると、家では灯が消えてしまったように寂しくなりました。クレーデは終始不機嫌そうに押し黙り、イリオーネが何を言っても聞きません。そしてイリオーネも、子供が昔遊んだ玩具を取りだしては、長いことそれを眺めているのでした。
「すべては失われてしまった。すべては失われてしまった」
 時計はそう言っては嘆き暮らしていました。
 やがて二人が年老い、亡くなってしまうと、家だけがそのままに残されました。もう時計のネジを巻くものはありません。時計はゆっくりと動かなくなって、やがて完全に止まってしまいました。
「すべては失われてしまった」
 そして時間さえ止まってしまいます。

 どれくらいの時間がたったでしょう。
 時計はふと、自分の中で何かが動きはじめたような気がしました。それは懐かしい、あのコチコチとなる時計の心臓の音です。
「一体、誰がネジを巻いたんだろう」
 と時計は思いました。
 時計の前には見知らぬ、立派な格好の男が立っていました。男は小さな丸い眼鏡をかけ、上等のコートを身にまとっています。それは貴族の着るような高価なコートでした。
「僕は貴族の家にでももらわれたんだろうか?」
 と時計は思います。けれど周りを見ると、そこはいつもと変わらない、クレーデとイリオーネの家の、暖炉の上でした。
 見知らぬ男は時計を抱えて、それを懐かしそうに見つめ、言います。
「この家は何も変わっていない。こうしてお父さんの時計のネジを巻くと、まるで時間までもあの頃に戻っていくみたいだ。でも決してお父さんも、お母さんも戻ってはこない。僕は不孝な子供だな。でもただ一つ、お父さんの夢は叶ったんですよ。それも王様より立派な、皇帝の時計を僕が作っているんです」
 そうです。立派な格好をしたその見知らぬ男こそが、あのクレーデ親方とイリオーネの息子、エリオットでした。そしてエリオットは今や、皇室御用達の時計職人となったのです。
「うん、こいつは素晴らしい、何とも素晴らしいことだぞ」
 と時計は思いました。
「これこそ名前を持たない、永遠に生き続けるものというものだ。それは時間だ。時間のネジが巻き続けられる限り、物事は良くなっていくんだ。そしてそれを生み出しているものこそが僕というわけなんだ」
 でも時計の言うことは誰も聞いていません。時計の言葉は人間には分からないのです。

――Thanks for your reading.

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