[血の夕陽、骨の鳴る音]

 子供の頃、ぼくはとても怖がりで、ちょっとした物音だとか、大きな黒い影だとかにいつも怯えていた。そういうものが今にも自分に襲いかかってきそうで、どうしても反応してしまうのだ。
 だから、きいちゃんと話をするようになった当初、ぼくは当然のようにきいちゃんのことを恐れた。何しろきいちゃんはぼくが怖がるのを知っているくせに、何かにつけて怖い話をしてくるからだ。
 ――例えば、体育でプールの授業があった日のこと。
 ぼくがクロールの息継ぎがうまくできず、不恰好に水しぶきを上げていると、きいちゃんは横から肩をつついて言うのだ。
「ねえ、よりくん。そこには近づかないほうがいいわよ」
 プールの底に足をつけて、ぼくはきいちゃんのほうを見る。鼻の奥が何だか塩素臭くて、つんと痛んだ。
「……どうして?」
 ぼくは鼻を押さえながら訊いた。
「昔、このプールの排水口に吸いこまれて、溺れ死んでしまった子がいるの」
 そう言われて、ぼくははじめて自分が排水口の真上にいることに気づく。プールのちょうど中央付近で、ぶ厚い鉄格子の蓋が足元にあった。
「――でもね、その子はまだ自分が死んだことに気づいていなくて、今でも助けを求めて手をのばしてくるの」
 ぼくは顔からさっと血の気が引いて、急いでその場を離れてしまう。そうしないと、今にも暗くて狭くて空気というもののない小さな管の中に、自分も引きずり込まれてしまいそうな気がして。
 きいちゃんの話が本当かどうかなんて関係がない。実際、怪しいものだと思う。でも、とにかくそうせざるをえないのだ。高いところから地面を見おろすと、自然と足がすくんでしまうみたいに。
 そんなぼくを見て、きいちゃんはいつも満足そうな笑顔を浮かべる。本当に、テストで百点でも取ったみたいに。
 ぼくとしては何がそんなに嬉しいのかわからないけれど、その笑顔のあとしばらくは、きいちゃんも怖い話をしなくなる。だから、とりあえずはほっとしてしまう。
 人によっては、そんなに怖い話が聞きたくないなら、耳を塞いでしまえばいいじゃないか、と思うかもしれない。けど、そんなのは無理だ。
 きいちゃんの話を聞かないよう、ぼくが必死になって手で耳を押さえたりしていると、きいちゃんは大抵にっこりと笑う。ごめんね、そんなに怖がらせるつもりじゃなかったんだよ、という感じで。
 それでぼくは、恐るおそる手を離してしまう。何しろその笑顔は、きいちゃんのことを疑っているのが恥ずかしくなってしまうような代物だったから。
「もう大丈夫よ、怖い話はしないから」
 と、きいちゃんは言う。ぼくは安心して、すっかり手を下ろしてしまう。
 すると、きいちゃんは言うのだ。
「そういえば、よりくん、知ってる? 夜中に明かりのない暗い部屋で鏡をのぞきこんじゃいけないんだよ。その鏡は異世界につながっていて、一度見たら最後、帰れなくなってしまうから」
 手で押さえるのは遅くて、ぼくはその話をばっちり聞いてしまう。記憶に刻みこまれた言葉は、忘れたいものほどかえって印象づけられてしまう。
 そんなわけで、ぼくはことあるごとにきいちゃんから怖い話を聞かされて過ごした。メリーさんの電話、トイレの花子さん、口裂け女といった有名な話から、たぶんきいちゃんがその場で思いついたありあわせの話まで。


 きいちゃんによれば、ぼくらの住んでいる町は怖いものや妖怪の類でいっぱいだった。例えば、道端に古びた公衆電話があれば、
「ここで秘密の電話番号にかけると、死者が電話口に現れるの。ただし、誰が出るかはわからないから、かけるときは慎重に」
 と、きいちゃんは言う。下水用のトンネルのそばを通れば、
「あの暗い場所には昔、生まれて間もない赤ん坊が捨てられたことがあって、その子は今もそこで生きているの」
 と囁くような声で言う。それから公園で青錆びた銅像を見れば、
「実はあれは殺された人を銅で固めたもので、その証拠に殺害された時刻になると血の涙を流すのよ」
 と、まことしやかに言う。
 とにかく、ちょっと変わったことがあると、きいちゃんはすぐに怖い話をはじめてしまう。
 ぼくはぼくで、あとで一人になったときに怖くなるのがわかっているのに、結局はその話を聞いてしまう。
 それはきいちゃんが無理にでも聞かせてくるというのもあるけれど、実際には好奇心からつい聞いてしまう、というところもあった。変な話だけど、需要と供給のバランスが取れていた、ということなのかもしれない。
 きいちゃんは怖がる人間を求めて、ぼくはその望みにおあつらえ向きだった。
 真っ赤な夕陽を見ると、きいちゃんは、
「あれは神様の首を刈ったときに血で赤く染まったの」
 と言う。道にあるレンガの敷石がぐらついて、がたがた音を立てると、
「これはこの下に埋められた骨が鳴ってる音なのよ」
 と、とても真剣な顔でつぶやく。
 そのたびに、ぼくはぞっとした顔をして、きいちゃんは満足そうな笑顔を浮かべてみせる。


 時々、ぼくはきいちゃんのことをとても変わっているな、と不思議に思うことがあった。
 普通ぼくらみたいな子供が怖い話をするとき、そこにはある決まった特徴がある。話しているほうにしてもそれを信じているような、疑いきれないような、そんな調子を捨てることができないのだ。たぶん、心のどこかではそんなことも起こりうるかもしれない、と思っているせいだろう。
 でもきいちゃんが怖い話をするとき、それはまるで違っている。きいちゃん自身はまったくその話を信じていないみたいだった。頭のよい子が教科書の先まで勉強していて、こんなことはもうすっかりわかっているのだけど、というふうに。
 そのくせ、きいちゃんは話の雰囲気にしたがって声を暗く潜めたり、突然わっと驚かせたりしてくる。きいちゃん自身は怖い話をしているつもりがないみたいなのに、ぼくだけがそれで怖い思いをしている。
 ほかにも、きいちゃんは変わっているな、と思うことがあった。
 普通、ぼくらみたいな子供は、男子と女子がいっしょにいると何かと囃したり、からかったりするものだけど、きいちゃんはそういうことをまるで気にしていないみたいだった。そんなことは面白くも何ともない、という態度で過ごしている。
 ぼくもそんなきいちゃんの態度に影響されるのか、きいちゃんといっしょにいることを恥ずかしく思ったことはない。ほかの女子とはそうではないのだけれど。
 きいちゃんは長い髪をしていて、それは夜の一番暗いところから取ってきたみたいに深い黒をしている。すらっとした、人形を思わせる手足に、ガラス玉を嵌めこんだようなきれいな瞳。きいちゃんが笑うとき、それは口元の形を変えるというよりは、ただそんな雰囲気を静かに醸しだしているだけのように見える。
 まだそんなことは意識しなかったのだけれど、きいちゃんはとてもきれいな女の子だった。今なら、そのことがよくわかる。その時のぼくはただ、鮮やかな色の熱帯魚とか、形の整った鉱物でも見るような目できいちゃんを見ていただけなのだけど。
「あの自動車のへこみは人をはねた跡。あのビルの屋上からは、飛び降り自殺をした人がいるの」
 きいちゃんは時々、そんなふうに妙にリアルな怖い話をすることもあった。
 そんな時、ぼくは何だかきいちゃんが本当はとてもとても遠くにいて、ここに見えているのは幻とか蜃気楼みたいなものなんじゃないかと思うことがあった。その体に触れようとすると、すっと手がすり抜けてしまうんじゃないか、と。

 ある日のこと、ぼくはきいちゃんといっしょに下校していた。都合があって少し遅い時刻だったので、ほかにランドセルを背負った子供はいない。そうして歩いていると、二人だけで知らない惑星にでもやって来たみたいで、標識や信号機が不思議に見覚えのないものに思えた。
 歩きながら、きいちゃんは例によって「赤い部屋」という怖い話をした。ぼくはやっぱりその話が怖くてたまらずに、きいちゃんの手を握ってすがりつきたい気持ちだった。自分のすぐ後ろに、とても怖いものが立っている気配を感じた。
 きいちゃんの家との別れ道まで来ると、ぼくはほっとした。少なくともこれで、もう怖い話は聞かされずにすむわけだ。
 でも手を振って一人で歩きはじめると、その辺の物陰や見えない場所から今にも何かが現れそうな気がして落ち着かなかった。ぼくは絶えずあたりを警戒しながら、最後には走って家まで帰った。
 家の中は一応安全圏なのだけど、油断はできない。ぼくは自分の部屋に一人でいるのは避けて、台所に向かい、さりげなくお母さんの見える位置に座ってマンガを読んだり、宿題を片づけたりした。
 けれどしばらくして、あることに気づく。縦笛を学校に忘れてきてしまったのだ。何度も確認したけど、どこにも見つからない。
 明日の音楽の授業で笛の試験があるから、どうしてもそれが必要だった。音楽の先生はヒステリックで厳しい人なので、練習なしで本番に臨むなんてできない。
 とすると、方法は一つ。学校まで取りに戻るしかない。
 ぼくはお母さんにそのことを告げて、家を出かけた。お母さんは夕飯の仕度をしていた。肉じゃがかカレーのどちらかを作っているみたいだったけど、どっちなのかはわからない。できればカレーのほうがよかった。
 外はまだ明るかったけど、時間的にはもう夕方になる頃だった。太陽はきいちゃんが言うように、血で染まったみたいに真っ赤になっていた。やがて暗闇がやって来る。暗闇には、よくないものが潜んでいる。
 ぼくはできるだけ急いで、学校に向かった。心臓が変にどきどきして、いつもの通学路が見覚えのないものに感じられた。何度も帰ろうかと思ったけど、明日の試験には代えられない。
 やがて、ぼくは学校に到着した。
 校庭には誰もいなくて、広い海みたいにがらんとしていた。いつも来ている場所のはずなのに、放課後の学校は何だか変にのっぺりして、不気味に感じられた。白いコンクリートが今にも溶けてぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないかという気がする。
 玄関に鍵はかかっていなくて、ぼくは下駄箱で靴を内履きに替えた。廊下がやけに長く感じられる。五年の教室に行くには、三階まで上がらないといけない。
 学校にはもう誰もいないみたいで、しんとしていた。でもその「しん」は何もない静かさじゃなくて、普通より密度が高い気がした。何かがそっと、聞き耳を立てている。何かがこっそりと様子をうかがい、見つめている。
 ぼくはできるだけ目立たないように、足音を立てないように教室に急いだ。
 クラスメートのいない教室はやっぱりいつもの教室には見えなくて、プレゼントのなくなった空っぽの箱みたいに寂しかった。空間がすかすかで、まるで月の裏側にでも来たみたいだった。本当に空気があるのかどうかも疑わしい。
 ぼくは恐るおそる中に入って、自分の机のところに行った。縦笛はやっぱり引き出しの中にあって、さすがにほっとする。これで本当は家にあったりしたら、何だかすごくまぬけだ。
 縦笛をつかんで、ぼくは教室をあとにした。用事が無事に終わったせいか、誰もいない学校は前ほど怖くは感じられない。
 そう思ったときのことだった。
 階段を下まで降りて、玄関に向かっているぼくの耳に、

 こつん、こつん……

 という音が聞こえた。
 何かの聞き間違いかと思って足をとめると、音はしない。今の時間、学校には誰もいないのだ。物音がするはずがない。
 でもぼくは急に、きいちゃんの怖い話をいくつか思い出してしまっていた。すると、さっきまで消えていた怖さがよみがえってくる。そういう怖いものは、ぼくが気づいていることに気づくと、たちまち襲いかかってくる。
 ぼくは痛いくらいに心臓の鼓動を感じながら、再び歩きはじめた。
 するとやっぱり、

 こつん、こつん……

 という音が聞こえる。
 ぼくはもう一度、足をとめた。
 するとやっぱり、音も止まる。
 瞬間、ぞっとした。何かが、ぼくのことを狙っている。それは間違いなく、ぼくのところに向かっている。ぼくは正しい行動をとらなくちゃいけない。でないと、きっと――
「こつん、こつん、こつん、こつん」
 物音はもう、ぼくを待ったりなんかはしなかった。その音は明らかにこっちに近づいてきている。
「!」
 ぼくは急いで走りだした。廊下を走ってはいけません、なんてことは知らない。お化けに襲われそうになっているのだから、それくらいのことは許してもらえるはずだ。
「こつん、こつん――」
 音はもうすぐそこまで迫っていた。ぼくは思わず後ろを振り返ってしまう。そんなことはすべきじゃないとわかってはいたのだけど。
 廊下の先、そこには何かが立っていた。
 透明なビニールのレインコートを着て、雨も降っていないのに傘を差している。そこだけ浮かびあがっているような真っ赤なエナメルの靴をはいていた。顔は真っ白で、目のところは髪に隠れている。
 雨女だ。
 と、ぼくは思った。
 それは、きいちゃんの話してくれたことだった。雨女は、恋人を待ち続けて、結局肺炎をこじらせて死んでしまった女の子の話だ。待ちぼうけをくらったのは、彼女が約束の日を間違えていたせい。でもそれ以来、彼女は雨の降る日には一人、来るはずのない恋人を待ち続けている。
 今はもちろん、雨なんて降っていない。雨どころか、ここは学校の中だ。
 でも幽霊にはそんな理屈を言ったって通用しない。何しろもう死んでいるんだから、多少のシチュエーションの違いなんて気にならない。
 不意に、やけに大きな声が聞こえるな、と思ったら、それはぼくが大声で叫んでいるのだった。
 雨女がこつこつと靴音を立てながら、こっちにやって来る。
 逃げなくちゃ、と思うのだけど、ぼくは逆に腰から力が抜けて座りこんでしまっていた。もうまともにものが考えられなくて、がたがた震えながら頭を抱えて小さくなるしかない。そんなことをしたって、身を守れるはずはなかったのだけど。
 足音は確実に近づいていた。
 殺されるんだ。きっと取り憑かれて、あの世に連れられていってしまうんだ。
 そう思ったぼくの耳に聞こえてきたのは、激しい笑い声だった。
「……?」
 恐るおそる顔を上げてそっちのほうをうかがうと、雨女がお腹を抱えて身をよじっていた。何かよくないものでも食べて、食あたりでも起こしたのだろうか。
 そう思っていたら、どうもその声には聞き覚えがあるような気がした。
「よりくん、いくらなんでもそれは怖がりすぎだよ」
「……きいちゃん?」
 ぼくが訊くと、レインコートの相手は笑いながらフードをとって、その顔がよく見えるようにした。
 全体が白く塗りたくられてはいたけれど、それはどう見てもきいちゃんだった。長い髪、冷静になって観察してみればぼくとそう変わらない背丈。
「どうして……?」
 ぼくは訳がわからなくて訊いた。どうしてきいちゃんがレインコートを着て、どうしてきいちゃんがここにいるのだろう。
「あのね、よりくん」
 と、きいちゃんはまだくすくす笑いながら言った。
「わたし、実はよりくんがリコーダーを忘れたのに気づいてたの。だからきっと、学校に取りに戻るだろうと思ってた」
「それで?」
「うん、それで」
 きいちゃんはこくりとうなずいた。とても無邪気に。
「わたし、よりくんを怖がらせたくて」
「…………」
 そうなのだ。きいちゃんはぼくを怖がらせるためだけに、こんなことをしたのだ。わざわざこんな格好をして、顔をポスターカラーで真っ白に塗りたくったりなんかして。
 ぼくはいっぺんに力が抜けて、安心していいのか呆れていいのか、自分でもよくわからなかった。
 帰り道、ぼくはきいちゃんといっしょに並んで歩いた。とてつもなくおかしな格好をしたきいちゃんのことを見て、まわりの人がどう思ったのかは知らない。
 ただ、きいちゃんはずっと笑っていたけれど。
 次の日、ぼくは音楽の試験にめでたく合格した。同じ授業で縦笛を吹くきいちゃんの顔には、絵の具の汚れが落ちにくかったのか、白い跡が少し残っていた。


 どうしてそんなふうに怖い話ばかりするのかと、ぼくはきいちゃんに聞いてみたことがある。
「聞きたい?」
 と、きいちゃんはブランコを揺らしながらぼくのほうを見た。
 大きめの通りに面した公園には、ぼくたちのほかには誰もいなかった。時折、車が前の道を通るほかは物音一つしない。公園にはミニサッカーくらいできる広場があったけど、今はそこも空っぽだった。
 ぼくときいちゃんはブランコに座って、時々それを揺らしたり、簡単な言葉遊びなんかをしたりしていたけど、その合間あいまにきいちゃんはやっぱり怖い話をした。
 夜中に徘徊する殺人鬼だとか、昔のトンネルに埋められた人柱だとか、壁男の話だとか。そうして怖くなって深夜にトイレに行けなくなったり、誰もいないのに背後に何かの気配を感じたりするとわかっているのに、ぼくはそれをおしまいまで聞いてしまう。
 そんなふうにぼくときいちゃんは相変わらずで、時刻はいつのまにか夕暮れ時になっていた。
「黄昏時っていうのはね」
 と、色の変わりはじめた公園を見ながら、きいちゃんは言った。
「誰(た)そ彼(かれ)、から来てるんだって。つまりね、あの人は誰?≠チていうわけ。知っているはずの人が知らない人に見えたり、見えるはずのないものが見えたりする時間。何もかもがあやふやで、普段は安全だと思っているものが危険になってしまう――」
 その時、ぼくは訊いたのだ。「きいちゃんはどうして怖い話ばかりするの?」って。
「聞きたい?」
 と、こちらをのぞきこんでくるきいちゃんに向かって、ぼくはうなずいた。
「それはね、わたしがそういうものを怖いと思っていないから」
 きいちゃんはそう言った。
「お化けとか、幽霊とか、そういうものを、わたしは少しも信じていないの。ううん、違うかな。わたしは信じられないの。時々、がんばって怖がってみようと思うんだけど、どうしても怖くならない」
 ぼくからしてみれば、とても信じられない話だった。
「――うん、そうだよね」
 と、きいちゃんは頬を緩ませた。例の、雰囲気だけを変化させるみたいな笑顔だった。ぼくとしては、笑うどころの話ではなかったのだけれど。
 ぼくの考えていることに気づいたのか、きいちゃんは笑顔のままで言った。
「それはね、よりくんに想像力があるから」
「想像力……?」
「そう、よりくんはね、繊細なんだよ。ちょっとした物事でも、そこからいろんな想像をふくらませられる。暗がりの向こうには何かいるかもしれないし、水の底には何かが潜んでいるかもしれない。そこにはどんなものだって存在する可能性がある」
 誉められたのかどうか、ぼくにはあんまり自信がなかった。
「でも怖がりでいると、男らしくないってバカにされるよ」
「あら、そんなのどうだっていいじゃない」
 きいちゃんは埃をつまみとるみたいに簡単に言った。
「わたしはね、そういうよりくんが好き。どうしてもそれを信じずにいられないよりくんが。わたしが怖がることができないかわりに、よりくんが怖がってくれる。だからわたし、よりくんにいっぱい怖い話をしてあげたくなるの」
 喜んでいいのか悲しんでいいのか、ちょっと困る話だった。
「でもきいちゃん、そんなに怖い話ばかりしてるのはよくないよ」
 ぼくは怖い話をされるのはやっぱり嫌なので、そう言った。
「きっと悪いことが起きるよ。怖い話につられて、本当に怖いことが起きちゃうんだ」
 それはぼくが怖い話をされるたびに思うことだった。お化けや幽霊というのは、こっちが気づかないでいるあいだは安全なのだ。けどぼくたちがその存在に気づいて、向こうもそのことに気づいたら、途端にぼくたちに襲いかかってくる。
「ううん、そんなの平気よ」
 けれどきいちゃんはやっぱり、こともなげに言った。
「――もっと怖いことなんて、いくらでもあるんだから」
 平然とそう言ってのけるきいちゃんに対して、ぼくは何の言葉も返すことができなかった。
 夕陽の赤色はますます濃く、明るくなって、そのまま何もかも溶かしてしまいそうだった。

 ぼくときいちゃんには、二人だけの秘密基地があって、ある日そこできいちゃんと遊ぶ約束をした。
 放課後、いったん家に帰ってから、あらためてその場所に向かう。秘密基地で会うときはいつも別々で、いっしょに行ったりはしない。そういうルールになっているのだ。
 近所の公園をつっきり、ホームセンターの裏手を通りこし、コンビニの横を抜ける。それから鉄道下のトンネルをくぐった先に、その場所はあった。
 入口はフェンスで封鎖されているので、別のところに回る。トタンの壁にそって歩いていくと、すぐ横が排水溝になった細い道に出る。その場所には一ヶ所、壁に小さな穴が空いているのだ。
 ちょうどぼくがかがみこんで通れるくらいの穴で、そこを抜けると建物の中に入れる。
 中には、何もない。
 そこはたぶん、昔は何かの工場だった場所で、今は使われていなかった。いったいいつ頃から廃棄されているのか、コンクリートの床や壁際に、緑色の植物が茂っていた。屋根の一部には穴が空いていて、天井からきれいな砂でも降ってくるみたいに光が射しこんでいる。変に清潔で、がらんとした場所だった。
 この廃工場を見つけたのはきいちゃんで、ぼくは知りあってしばらくした頃に教えてもらった。怪しげな場所ではあったけど、不思議と怖い感じはしなかった。怖がりのぼくとしては、それは珍しいことだったのだけれど。
 きいちゃんはまだ来ていないのか、どこにも姿が見えなかった。巨人の寝室みたいに何もない場所を、ぼくは歩いていく。静かで、くっきりした形の足音が響いて、時間は完全に止まっていた。
 少し歩くと、入口のほうに何か小さなものがいることに気づく。猫だった。この場所で猫を見るのははじめてだった。でも何となく、その様子から猫はずっと前からここに住んでいたようでもあった。
 ぼくが近づくと、猫は警戒するように身を起こした。いつでも駆けだせる格好だった。光線の具合なのか、不自然なくらい濃いエメラルド色の瞳が、じっとぼくのことを見ている。
 できるだけ静かに近づいてみたけれど、ぼくがある線を越えると、猫は一散に走りだして姿を消してしまった。まるで夢の中にでも消えてしまったみたいに、そこには何の痕跡もない。

 そしてぼくは出し抜けに、きいちゃんの死体を発見した。

 視界の陰になった、壊れかけた仕切りのあるところだった。ちょっとしたスペースがそこにはある。元々は事務所か休憩所に使われていたのかもしれない。
 その真ん中に、きいちゃんの壊れた体が置かれていた。全体的に見ると、きいちゃんの死体は半壊状態というところだった。
 髪の毛の一部は頭皮ごと剥ぎとられ、赤い表面がのぞいている。側頭部に穴があいて、よく見ると砕けた白い骨のようなものが床に転がっていた。千切れかけた耳朶が顔の横にぶらさがり、鼻はひしゃげて折れ曲がっている。目玉はくりぬかれて両方とも暗い眼窩がのぞき、顎が外されているのか口元がおかしなことになっていた。
 指先はすべてあらぬ方向に砕かれて、腕は可動域をはるかに越えて捻じ曲げられている。左胸のところには心臓が見えるように丸い穴があけられ、そこから失敗した料理みたいに肋骨が飛び出していた。心臓はもちろん止まっていて、どす黒い血がそこにたまっている。腹部は横一直線に切り裂かれて、腸の大部分がはみ出していた。
 スカートの下からのぞく膝は鈍器のようなもので砕かれ、足の腱は切断されていた。足首は両方とも変な具合に曲げられ、爪はすべて剥ぎとられている。隠れていて見えなかったけど、スカートの下だってどうなっているか知れたものではなかった。
 ぼくはそれだけのことを、ごく冷静に観察した。ほら、だから言ったんだ、とぼくは思った。そんなに怖い話ばかりしていたら、きっと本当に怖いことがやって来るって。きいちゃんはまるで聞かなかったけど、やっぱりぼくの思ったとおりだったって。
 なおもきいちゃんの壊れた体を眺めているうち、ぼくはふと、もしかしたらきいちゃんは死んでもぼくを怖がらせようとしているのかもしれない、とそんなことを思った。わざわざこんなふうに残酷な殺されかたをしてまで、相変わらずぼくを怖がらせようとしているんだ、と。
 それからぼくは、急に殴られたことを思い出しでもしたみたいに、胃に激痛が走って、叩きつけられるようにその場にかがみこんだ。体を締めつけるネジがすべてばらばらにゆるんで、血液がでたらめな流れかたをはじめる。
 体が熱くなったり冷たくなったりして、視界が高速でスピンした。重力があっちにいったりこっちにいったりして、誰かに手を突っこまれて頭の中をかき回されている気がした。
 そうして盛大に胃の中のものをぶちまけてしまうと、ぼくはこういう場合に唯一正しい行動をとった。
 ぼくは地面に倒れ、気を失った。

 気がつくと、ぼくは自分の部屋のベッドに寝ていた。
 目覚めてすぐは何だかよくわからずに、ただぼんやりしていた。どうして頭に輪っかなんてはめられているんだろう、と思った。でもそうじゃなくて、ただ頭痛がするだけだった。
 そう意識すると同時に、ぼくはきいちゃんのことを思い出した。壊れたおもちゃみたいにぼろぼろにされたきいちゃん。空っぽの二つの穴から、暗い瞳がぼくを見つめる。
 胃の中に直接手を突っこまれたような吐き気を覚えて、ぼくは思わず体を丸くした。咽の奥が酸っぱくなって、胃に塩でも擦りこまれたみたいだった。吐こうとしても吐くだけのものがないのか、息ができなくて鼻の奥がつんと痛くなるだけだった。
 物音を聞きつけたのか、ドアが開いてお母さんが入ってくる。新聞紙を引いた洗面器を置いて、背中をさすってくれるけど、粘っこい唾液が出て、胃が裏返りそうに痛くなるだけだった。
「大丈夫?」
 しばらくしてようやく呼吸の整ったぼくに向かって、お母さんは言った。
 途端に、ぼくはきいちゃんのことを何もかも話さなくては、と思った。きいちゃんは殺されてしまったのだ。それも、これ以上ないくらい残酷な方法で。
「――お母さん、大変なんだよ!」
 そして、ぼくは一気呵成にしゃべった。
「ぼくね、工場できいちゃんと会う約束だったんだ。でもそこで会うときは、いっしょには行かないんだ。工場には猫がいて、ぼくが近づいたら逃げたんだ。それでぼくはきいちゃんが死んでるのに気づいたんだ。滅茶苦茶なんだよ。滅茶苦茶に壊されてたんだ。目玉がくりぬかれて、心臓のところに丸い穴があけられてるんだ。血は赤くなんかなくて、どす黒く固まってた。指が全部、鉛筆みたいに折られてた。とにかくひどいんだ。きいちゃんはぼくを怖がらせるために、あんなひどい死にかたをしたんだ。怖い話ばかりしているから、本当に怖いことが起こっちゃったんだ」
 ぼくが叫ぶようにまくしたてると、お母さんはただ困ったような顔をするだけだった。ぼくは不思議だった。きいちゃんは殺されたのだ。
 もしかしたらまだわかっていないのかと、ぼくはもっと詳しく説明しようとした。髪が引きちぎられていたことや、膝が砕かれていたこと、床に転がった白い骨の破片。するとお母さんは首を振って、「とにかく、落ち着いて」と静かな口調で言った。
 ぼくは口を閉じて、黙った。
「その話は、またあとでゆっくりしましょう。今は何も考えずにとにかく横になって。ぐっすり眠ったら、頭もすっきりするだろうから」
 ぼくにはどうしてお母さんがそんなに冷静なのか、理解できなかった。けど、頭の芯がしびれて、ぐらぐらするほど眠たいことに気づいた。確かにこんなんじゃ、まともにものなんて考えられそうにない。
 お母さんにそっとベッドの上で横にされると、ぼくはそのまま目をつむった。頭の中は宇宙戦争でも起こったみたいにごちゃごちゃしていたけど、眠りはすぐにやって来た。
 ぼくは夢も見ないくらいに深く眠り、気づいたらいつもの朝になっていた。


 それからぼくはあらためて、きいちゃんのことをお父さんとお母さんに話した。けど、二人ともどうしてだかまともにとりあってくれない。話をすっかり聞かせてみても、何故だか二人はそれを信じようとしないのだ。
 お父さんにいたっては、「軽く混乱しているんだよ」と言うくらいだった。ぼくは混乱なんてしていない。確かにきいちゃんは殺された。ぼくはこの目でそれを見たんだ。でもいくら言ってみても、お父さんは笑ってとりあってはくれなかった。
 ついには学校に電話をされて、ぼくは二三日のあいだ休むことになった。まだ気持ち悪いのは残っていたけど、病気になったわけじゃない。それなのに、ずる休みをさせるなんて――
 でも二人ともぼくが外出することを許さなくて、一日中家の中にいなくちゃいけない、と言われた。お父さんはいつもみたいに仕事に行って、家の中にはぼくとお母さんしかいない。
 二人が信じないというなら、もう警察にでも行くしかない。あそこであったことをみんな話して、きいちゃんを殺した犯人を捕まえてもらうのだ。
 ぼくが着替えて出て行こうとすると、お母さんがそれを見つけて訊いてきた。
「どこに行くつもりなの?」
 警察に行くんだ、とぼくは正直に答えた。
「ダメよ、寝てなくちゃ」
 お母さんはどうしてだか、ぼくを外に出したがらなかった。
「だって、お父さんもお母さんも、ぼくの話を信じてくれないじゃないか」
「いいから、今は寝てなさい。混乱してるのよ、あなたは」
 また、混乱!
 ぼくはまったくの正気だった。おかしいのは二人のほうだ。きいちゃんが殺されたっていうのに、どうしてこんなにいつも通りでいられるんだろう。二人とも、きいちゃんのことなんてどうでもいいんだろうか。
 でもぼくが何を言ったところで、お母さんはそれをとりあおうとはしなかった。おまけにぼくの外出を禁止して、リビングから廊下を監視した。そこを通らないと、玄関までは行けないのだ。
 仕方なく部屋に引っこんで、ぼくはどうすべきか考えてみた。でも考えてみると、二人が話を聞こうとしないなら、ほかの人だって同じかもしれない。こっちがどれだけ真剣に話しても、子供のたわごとで一蹴されてしまいそうだった。
 現場を見せるしかない、と思って、途端にぼくはきいちゃんの死体を思い出した。頭がくらくらして、胃が雑巾でも絞るみたいに締めあげられる。ごみ箱に向かってげえげえ吐いた。さっき飲んだスポーツドリンクが逆流して、紙くずやお菓子の袋と混じった。
 頭が痛んで、ぼくは立っていられなくなった。ベッドに横になると、ぼくが来るのを待っていたみたいに眠りがやって来た。でも今度の眠りはとても浅くて、ぼくは何度も起きたり眠ったりした。夢と現実の境界が曖昧で、まわりのものが大きくなったり小さくなったりした。
 そのどちらかで、ぼくは誰かの足音を聞いた。
 子供が不器用に走りまわるような、どたどたした足音だった。妙だな、とぼくは思った。お母さんがそんなふうに足音を立てるはずがない。
 一度ちゃんと目を覚まして、お母さんの持って来てくれたジュースやゼリーを口にしているときに、ぼくはそのことを訊いてみた。
「――足音?」
 と、お母さんは訝しげだった。
「そんなの聞いてないわよ」
 ぼくはまた眠り、再び夢と現実を行ったり来たりした。
 咽が渇いたので、飲み物を取りに階段を降りて台所に向かった。その時、ぼくは奇妙なことに気づいた。階段のところに、誰かの靴跡がはっきり残っているのだ。革靴みたいなぺたんとした足跡が、上に向かっていた。どうしてこんなところにこんな跡が残っているんだろう、と思いながら、ぼくは台所で水を飲んだ。
 部屋に戻るとき、その足跡はもうなくなっていた。
 結局、夜中になるまで、ぼくは眠ったり目覚めたりを繰り返した。時計の進みかたがでたらめになった感じで、気づいたら部屋の中が真っ暗になっていた。
 お父さんもお母さんも、もう眠ってしまったみたいで、一階からは何の物音もしない。晩ご飯を食べていなかったけど、特に空腹は感じなかった。
 ぼくはベッドから抜け出すと、トイレに向かった。
 夜中に、暗い家の中を一人でトイレに行くというのに、ぼくは全然怖くなかった。あんなものを見たあとだけに、きっと耐えられないくらい怖くて仕方ないだろうと思っていたけど、実際には何の気持ちも湧いてこない。
 暗がりから白い手がのびてくることもないし、便器の中に突然引きずりこまれることもない。時計の音が何かを引っかくみたいに大きく響いて、冷蔵庫のコンプレッサーが立てるぶーんという低い音が聞こえた。
 たぶん、怖いものはみんなあそこにあるからだ。
 半壊したきいちゃんの死体といっしょになって、あそこに。怖いものはここにはなくて、ずっと遠く、世界の裏側みたいな場所にあって、絶対に手が届かない。怖いものはみんな、そこにだけ存在し続ける。
 ぼくは部屋に戻って、明かりもつけない暗闇の中であることを考えていた。
 ――どうして、二人ともきいちゃんの話を信じようとしないんだろう?
 ――寝ているときに聞いた、あの足音は誰のものなんだろう?
 ――階段についていて、あっというまに消えてしまった靴の跡は?
 ――そもそも、ぼくをあの場所から家まで運んできたのは誰なんだろう?
 それに、きいちゃんがいなくなっているのに騒ぎになっていないのは何故なのか。きいちゃんの家の人だって、今頃は心配しているはずだ。それなのに、少しもそんな様子がない。
 ぼくは考えた。
 夜が明けるまで考えつづけた。

 最終的にぼくが得た結論は二つだった。
 一つは、きいちゃんは幽霊になったというもの。足音や消えた靴の跡についてはこれで説明ができる。きいちゃんは死んだときも、死んでからもぼくを怖がらせようとしている。うちの親が騒がないのも、それと何か関係があるんだろう。
 でも実際には幽霊なんて存在しないのだから、こんな可能性はありえなかった。
 二つめは、実はきいちゃんは死んでなんかいないというもの。
 あの時の死体は確かにきいちゃんに似ていたけど、本当にそうだということはできない。何しろ半分以上は原型を留めていなかったから。でもそれは、きいちゃんにも関係のあることだった。殺人鬼みたいな人がいて、きいちゃんはそいつに狙われていたのかもしれない。死体は、きいちゃんに似ていたせいで殺された別人のものかもしれない。
 殺人鬼から逃れるために、きいちゃんは身を隠した。それできいちゃんはそのことをぼくに伝えるために、足音なんかの合図をぼくに送った。できるだけほかの人間には知られないように。そうでないと、殺人鬼に居場所がばれてしまうから。
 ここで重要になってくるのは、あの場所から誰がぼくを運んできたのか、ということ。そしてどうして両親が何も言わないのか、ということだ。
 二人は何かを知っている。
 きいちゃんは二人に知られないように、ぼくに合図を送っている。
 そこから考えられることは一つ――
 殺人鬼は、ぼくの両親なのだ!
 そうすれば、いろいろと辻褄があう。二人が何かをごまかそうとしていることも、本当のことを少しも話そうとしないのも。二人はぼくが見たものを夢か幻だと思わせたいのだ。
 やがて昨日とひとつづきになった今日を、ぼくは迎える。カーテンの向こうから太陽の光が差して、朝がはじまった。ぼくはある一つの決意を抱いて、一階へと向かった。
 階下では母親が朝食の準備をしていた。コンロの火や、まな板の上で材料を切る音。台所に立つ母親の後ろ姿。いつもと変わらない景色。
 でも、ぼくは言った。
「お母さん、本当のことを教えて」
 母親ははじめてぼくのことに気づいたみたいに、こちらのほうを見る。ぼくの真剣な口調に、少し驚いたように。ぼくは言葉を続ける。
「――きいちゃんはどこにいるの? 自分の家? どうしてぼくが言ったことを信じてくれないの。きいちゃんは行方不明なんじゃないの。もしかしたら、きいちゃんはこの家のどこかにいるんじゃないの」
「いったい何を言ってるの、あなたは?」
 母親は困惑した顔で言った。あるいは、そのふりをした。
「ごまかさないで。ぼくにはわかってるんだよ。二人がきいちゃんを殺したんだ。いいや、殺したつもりになってるけど、本当は違う。二人が殺したのは別人なんだ。きいちゃんは生きてる。そしてこの家のどこかに隠れて、そのことをぼくに伝えようとしている。うちの両親が殺人鬼なんだって。きいちゃんは頭がいいから、きっとそのくらいのことはできるよ。ねえ、教えて本当のことを。何もかもぼくに教えて」
 ぼくがいっぺんにそれだけのことを言ってしまうと、母親はそれでも戸惑った表情を浮かべていた。
「ねえ、何を言ってるの、良範(よしのり)」
 そして、母親は言った。
「きいちゃんはもういない。知ってるでしょ? 彼女は自殺したのよ」

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