[天まで近きところ]

 昔、ある所に小さな村があった。雪が降れば村全体が震えているようにさえ見える小さな村だ。
 その村の一軒に母子二人で住む小さな家があった。この年、村は不作でどの家も冬が越せるかどうかを心配している。
「お母さん、今年はみんな大変だって。うちは大丈夫なの?」
 八歳になるコトが訊いた。
「大丈夫よ」
 編み物をしながら母親のスズが答える。
「でも食べ物が少ないから、ちょっとずつ食べていかないとね」
「どうしてこの村はいつも大変なのかなぁ?」
 母親の前のイスで足をぶらぶらさせながら、コトは子供らしい不服を言ってみる。
 スズは編み物から顔を上げてちょっとコトの方を見、それからまた顔を戻して、
「この村は土地がやせているし、たいした特産品もないの。貧しいのは仕方のないことよ」
 母親らしく教え諭すように言った。
 そんなスズをコトは好きだったが、それでも苦労しっぱなしの母親を見ると、コトには何とかしたいと思えるのだ。
「お母さんはそれでいいの? 貧しいままで」
 スズはコトを見て、それからにっこりと笑った。
「私にはコトがいる。だから十分、幸せよ」

 そうしたある日、コトが外に出て一人で雪と遊んでいると、友達のセンがやって来て、
「ねえねえ、向こうで旅の人が面白い話をしてるの。コトも見に行かない?」
 と言った。センはコトより二つ下で、コトのことを兄のように慕っている。
「旅の人?」
 雪玉をひとつ放り投げて、コトは訊いた。
「うん。何だかすごく高い建物の話。コトも一緒に聞こう」
 コトは何となく乗り気ではなかったが、センが袖を引っ張り始めたので苦笑しながら行くことにした。
 行ってみると、村の広場に子供たちが集まっていて、真ん中の切り株に汚れたマントを着た男が座っている。
「あの人だよ」
 とセンは言いながら、コトの袖を引いて端っこの一番前にしゃがみこんだ。
 コトはその後ろで立ったまま、その髪も髭もぼさぼさになっている男の話を聞く。
 それはこんな話だった。
 ここからずっと東に向かった所に、ひとつの巨大な塔が立っている。見上げても先が見えないほど高い塔だ。誰が造ったかは知らないがちゃんと階段もついている。
 その塔にはある噂があって、頂上には地上の誰も見たことがないようなすばらしい宝物があると言う。王様だって見たことがないようなすばらしい宝だ。
 それで何人もの人間がその塔を登ろうとした。でも帰ってきた者はいない。塔には三人の魔法使いがいて、三つのなぞを出すのだ。それに答えられなかったものは一瞬で八つ裂きにされてしまう。
「私は実際にその塔を見てきた。だからこれは本当の話だ。あの塔には近づいてはいけないぞ」
 そう言って男は話を締めくくった。
 子供たちは皆シーンとして口をきく者がなかった。皆、人を八つ裂きにするという恐ろしい魔法使いのことを想像しているのだ。
 やがて誰からともなく広場を離れていって、最後にコトだけがその場に残っていた。
 男はコトに気づいた。
「お前さんは今の話が怖くなかったのかね?」
 と、男は訊いた。
「ううん、それよりその話は本当なの?」
「何がだね?」
「頂上にすごい宝があるって言うのは」
男はしばらく黙っていた。
「あくまで噂だよ、本当のことは知らん。しかしそこに行った人間が帰ってこないのは事実だ」
「その塔はどこにあるの?」
「ここからずっと東に行って、ひとつの山を越え、ひとつの川を渡り、ひとつの町を通り抜けた、その先だ。しかし坊主、まさかそこに行くつもりかね?」
「うん。だってこの村は貧しくて、みんないつも苦労してるんだ。その塔にあるっていう宝物をとってくれば、みんなもっと幸せになれると思うんだ」
「感心な坊主じゃが……」
 男はちょっと言いよどんだ。
「それで誰もが幸せになるわけではないだろうな」
「?」
 コトにはその言葉の意味が分からなかった。

 その日の夜、コトは旅の支度をして旅立った。
厚手の服と革の靴、父親の着ていた暖かそうなマント、リュックサックには毛布やランプ、それにその日の昼に食べたお菓子の残りを入れて。
空には月が光り、地上はどこまでも雪で真っ白だった。
コトは母親のよく歌っていた唄を覚えているだけ歌いながら、白い雪道をザクザク進んでいく。
「僕がきっと村のみんなを幸せにするんだ」
 コトはそう思いながらずっと歩いていく。
 そうは言っても子供の足で、すぐに疲れて眠くもなってきた。
 コトは近くにあった炭焼き小屋に入って休むことにする。コトはちゃんと知っていたのだ。村から東に抜ける森の途中にその小屋があることを。
 扉を開けると、そこには月の光も届かない真っ黒な空間が広がっていた。コトは一瞬ぞっとして、それから目をつぶって思い切って中に入った。
 扉を閉めると、中はシンとしている。
 コトは手探りでランプを取り出すと、マッチをすって火をつけた。ぼんやりした光が洞窟のように小屋の中を照らす。
 ランプの前で毛布にくるまって、コトは体を小さくした。手をこすり、毛布の隙間がないように前をかき合わせる。
 揺れる炎は物影を生き物のようにくねらせた。と、
 ガタン、バタン。
 という音がして、小屋が揺れた。コトはびっくりして周りを見たが、音の正体は分からない。
 そのうちまた、ガタン、バタン、という音がして小屋が揺れた。何かが小屋に体当たりしているのだ。
「狼だ」
 コトははっとした。村にいる時もその姿は遠くから見たことがある。でもその時は、鋭い牙を持ったその動物が近くによってくるなんて事はなかったのだ。
 コトは怯え、じっとしながら、けれどはっとした。扉に閂をかけていないことに気づいたのだ。
 扉は外に開くようになっているから狼達もすぐには入ってこれない。
 コトは立ち上がって、急いで扉を閉めにかかった。その時、狼の目が扉からわずかにのぞいているのに気づく。
 だがコトのほうが早かった。間一髪でコトは扉を閉め、閂をかけた。狼がガリガリ扉を引っかくが、もう遅い。
 コトは怯えながら毛布にじっとくるまって、朝が来るのを待った。
 ふと母親と食べた夕食のことが頭に浮かんで、涙が流れた。

 気がつくと、朝になっている。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
 コトが窓からのぞいてみると、狼達は一匹もいなかった。しかしそこかしこに足跡が残っていて、昨日のことが夢ではないことを示している。
 リュックを背負って外に出ると、朝日がゆっくりと昇っているところだった。
 それが、東だ。
 コトはリュックを背負い直すと、もって来たビスケットをかじりながら力いっぱい一歩を踏み出した。

 コトは母親に教えられた食べられる木の実やキノコを食べながら何日も歩き続けた。
 そうしてやがて、雲を突くような山にさしかかった。今にもうなりだしそうな、岩肌の露出した山である。
「これが旅人の言っていた山だな」
 と、コトは思った。
 そしてコトは迷うことなく山を登り始めた。
 登山道がついているとはいえ、子供には高すぎる山である。自分の上ってきた道と、これからの道のりを考えると、コトは思わずくじけそうになるのを感じた。
 昼過ぎになるとコトは平らな岩に座って休憩をとることにした。風はビュウビュウ音を立てて吹き流れていて、火照った体をあっという間に冷やしていく。
 周りには食べるものもなかった。お腹がすくと、コトはわけもなく涙が流れた。
「子供が、どうした?」
 声がする。
 コトが振り向くと、よれよれのマントを着た老人が立っていた。杖をつき、大きな荷物を背負っている。
 旅人のようだった。
「ずっと東にある、とても高い塔を目指しているんです」
 とコトは言った。
「でもお腹がすいて……、足ももう動かなくて」
 旅人の老人は空を見上げて、それからコトの方を向いた。
「今日は雨が降る」
 空は晴れていた。
「どこか休める場所を探した方がいいの」
 二人が横穴のようなところに入ってだいぶ立ってから、確かに雨は降り始めた。横穴の入り口から滴が落ちるのを、コトはぼんやりと見ている。
「塔に向かうにはずいぶんと不用心じゃったの」
 と、鍋に火をかけながら老人は言った。
 コトが別の鍋に水を汲んでくると、老人はにっこり笑ってそれを受け取る。
「感心な子供じゃ。相応の理由があるのだろう?」
 コトはゆっくりと頷いた。
「どれ、どうせ雨が上がるまでは何もできん。ひとつスープでも飲みながら話をせんか。あんたはあんたが塔に向かう理由を、私は私が旅する理由を」
 コトはきょとんとしている。
「深い意味などないよ。ただの暇つぶしじゃ。まあ老人のうわ言と思って付き合ってくれんか?」
 コトがすっかり自分の話をすると、老人はそれを褒めてくれた。それからゆっくりと自分の話を始める。

 老人の名前はカシといった。ある街の商人の子として生まれ、兄が二人、妹が一人。
カシは裕福な家庭の子として育った。家族に問題はなく、単調だが幸せな日々を過ごす。
 二人の兄は商人に向いた性格と才能を持っていた。カシ自身も、商売は嫌いではないし、仕事はそつなくこなすことができる。
 でも、何かが違っているような気がした。それが何なのか、カシには分からない。
 ある日、カシはついうっかり寝過ごしてしまって、仕事がひとつ間に合わなかったことがある。
 しかし、何も問題はなかった。別の者が気を利かせてカシの分の仕事までやってしまったからだ。
 カシはその時に悟った。
「俺は唯一必要とし、必要とされるものを求めているのだ」
と。
 そしてカシは旅に出ることにした。親も、兄妹も、当然のように反対した。ここにいればいい、一体何の不満があるのか。
 カシが説明しようとすればするほど、彼らは不可解な表情を作った。カシはそのことを悲しく思い、そしてある日、何も言わずに家を出たのだ。

「それが私の旅する理由だよ」
「見つかったんですか……、それは?」
 コトは、何となく訊きづらかった。
「いいや見つからん」
 カシは火に一本の枝をくべた。
「そんなものは、あるいは存在しないのかもしれん。しかしな、私は思うんだ。この広い世界と無限の時間の中では、そういうものだってあるいは存在しているのかもしれん。私自身が会えなくとも、それを見つけた人がいてくれればいい。もしかしたら私は次の瞬間にはそうしたものに出会えるかもしれないんだよ。そう思うだけで、私は生きていけるんだ」
「……」
 コトにはよく分からない話だった。
「すまんな、勝手にこんな事を話をして」
 笑って、それからカシはスープを一口すすった。
 翌日に雨は上がり、カシはいくつかの旅の道具をくれた。
「私は一度故郷に戻ってみるつもりだ」
 と、カシは言う。
「会えるといいですね、あなたの会いたいものに」
 コトは手を振った。
 カシが故郷で一体何に出会い、何を見るのかは、誰にも分からない。

 高い高い山をようやく越えて、コトはまた平地を歩き始める。白い雪はどこまでも広がっていた。
 時々すれ違う隊商に食べ物を恵んでもらったりしながらコトは歩き続ける。
 やがて川にさしかかった。対岸がぼんやり見えるような大きな河だった。水はまるで凍った時の中を動くように静かで、寒々しく、澄み切っている。
 橋はない。
 コトが座ってじっと川を見つめていると、遠くでかすかに声がした。渡し舟が出るのだ。
 急いで行くとコトは何とか舟に乗るのに間に合った。乗っているのは舟頭と行商人らしい男が一人。川の中でどこか知らないところに流されてしまうんじゃないかと思えるほど頼りない小舟だった。
「それじゃ行くよ」
 寒さで言葉を惜しむように舟頭が短く言い、舟は進み始めた。
 まるで音のない世界に迷い込んでしまったように、物音ひとつなく舟は進んでいく。
 対岸に着くとコトは船賃を渡して歩き始めた。行商人の男はどこへ行ったのか、もう辺りに姿がない。
 しばらく行くと森に道が続いていた。死んだように静かな森だ。コトはかすかに残った雪を踏みしめながら道を歩いていく。
 その途中に鹿が倒れていた。大きな角を持った立派な牡鹿で、腹から血を流している。
 もうすぐ死ぬようだった。
 コトは恐々と近くにより、鹿の上にかがみ込んだ。鹿はかすかに目を開いて、不意に訪れた少年の目を見る。
「どうか私の話を聞いてくれないか?」
 そう、その目は言っていた。

 鹿の名はフエという。
 フエは子供の頃から他の牡鹿達より体つきが大きく、喧嘩をしても負けることがなかった。その立派な角で相手の首を押さえ、参ったと言わせるのは簡単なことだったのだ。
 フエは成長すると群れのリーダーとなって皆を率いる。フエはけしてすべてに優れたリーダーではなかったが、自分の足りないものに固執することなく仲間の力を借りた。水飲み場、えさの多いところ、安全な場所、そういった知恵はより優れた仲間に頼った。
 フエはそういう意味でリーダーに向いている。フエ自身、仲間を守るためには力を惜しまなかった。そして機転も利いた。フエの群れは狼に襲われても一頭もつかまることなく逃げのびることができた。
 群れはフエを必要とし、フエは群れを守るために存在する。
 フエは満足だった。
 自分はそのために存在しているのだと確信していた。それが当然のことで、考える余地すらないことだと思っている。
 ある日、フエは一人で水を飲んでいた。群れは別の餌場へ移動中で、少し離れたところに休んでいる。
 一匹の狼が現われた。群れからはぐれた狼が偶然その場所へやって来たのだ。
 フエは狼を威嚇した。相手の大きさを見れば自分が勝てるのは間違いない。狼にもその事は分かっていた。
しかし狼は襲ってきた。もはや餓死寸前だったからだ。牙をむいてフエに飛びかかる。
フエはその角で狼を一突きにした。狼が苦しそうに叫んで、その拍子にフエの目の近くを少し引っかいた。
 そのせいでフエはバランスを崩した。後ろに大きく踏み出した足元が崩れ、フエは崖を落下し、岩に何回も体を叩きつけられ、結局腹に致命傷を負った。
 フエは最後の力でここまでやって来て、そしてコトに出会った。

「私は群れと共にあり、群れは私と共にあった」
 と、フエは苦しそうに呻きながら目で訴えかける。
「私は私が群れからいなくなるなどとは考えたこともなかった。そして私のいなくなった群れのことなど考えたことがなかった。それは当たり前のこと過ぎた」
 フエは探るようにコトの目を見た。
「今でも信じられない。これは夢ではないのか? あるいは今までが夢だったのか? 教えて欲しい。私は結局、何だったのだ?」
 コトには分からなかった。
「僕には分からない。だって、僕はあなたじゃないもの」
 フエはじっとコトの眼を見て、ふと笑うように目をそらす。
「確かにお前は私ではないな。なるほど、簡単なことだ。私は自分の影すら見失っていたのかもな」
フエはゆっくりと目を閉じた。
「つまらん話を聞かせて悪かった。先を急ぐといい。夜中までに森を抜ければ、人間の街がある。狼に襲われないよう気をつけてな」
コトはお礼を言って歩き始めた。
何度も振り返っていると、フエは頭を上げてこちらを見ていた。しかし最後に振り返ったとき、もうフエの頭が上がることはなかった。

 日が暮れる頃にコトは森を抜け出した。振り返ると、森は姿を隠したように暗く変わり始め、やがて大きな黒色の塊になる。
 森を出た道は街へと続いていた。
 教会の鐘が鳴って、街の門が閉められるようだった。コトは息を切らしながら走っていく。
 閉門には間に合ったようだった。少し開いた隙間から門番の男が中に入れてくれる。
 コトは街の中を歩いていった。
 どの家も明かりがついている。黄色い、温かそうな光だ。コトはそっと白い息を吐いて手を温めた。
 無数の名もない明かりの下を通りながら、コトは休める場所を探す。そこかしこに自分と同じくらいの子供たちがぼろを身にまとってうずくまり、かすかな視線をコトに送った。
 コトはいくつかの大通りと、いくつかの裏通りを歩くうち、大きな教会を見つけた。古くて、威厳のありそうで、不思議な静かさのある教会である。
 その教会の裏の方に回って、コトはあまり風の来ないところを選んで横になった。眠りはすぐにやってきた。夢も見いないほどにコトは疲れていたのだ。
 次に気がついた時、コトは誰かに頬をつつかれているような気がした。というより、確かに頬をつつかれていた。
 コトはようやく目を開く。
 目の前には少女がいた。同じくらいの年齢で、かがんでコトの頬をつついている。きれいな赤いコートを着た、可愛らしい女の子だ。
「そこ、私の場所なのよ」
 と、少女は有無を言わせぬ調子でまず言った。
「だからどいて」
 コトはとりあえず辺りを見回してみた。時間的には朝と昼の間といったところで、場所は教会の裏庭のようである。小さな泉があり、草や花が生え、廃材らしきものが隅のほうに雑然と積まれていた。
 コトは少女のほうを見て、
「君は教会の人なの?」
 と念のために訊いてみた。
「いいえ、ぜんぜん違うわよ」
 少女はこともなげに首を振る。
「じゃあ、どうしてここは君の場所なの?」
「私の場所だからよ」
 コトはどう答えていいのかよく分からなかった。
 そのまま二人ともしばらく黙っていて、二匹の蝶がふわふわと花の周りを飛んでいた。
「あなたって旅をしているの?」
 と、少女が不意に口を開く。
「そうだよ」
「旅っておもしろい?」
 コトは少し考えてみた。
「分かんない、そんなこと考えてみたこともない」
「私は家出したの」
 と、少女は言った。
 それから少女の話が始まる。

 少女はフウという名前だった。
 教会と通り一つはさんだ向かい側に家があって、そこの一人娘である。父親は資産家で、街の参事会も務めているという。
 フウはお嬢様だった。
 父親も母親もたった一人の娘であるフウを溺愛していたし、望むものは何でも与えた。お付のメイドが何人もつき、毎日何の不自由もなく暮らしていく。
 それでも、フウはひどく不満だった。
ある日、フウは自分の部屋の窓から見える教会を見るうちに一人でそこに行ってみたくなった。誰にも見つからないようにどきどきしながらそっと家を抜け出し、教会へ走る。
教会の裏につくと、そこには雑草の生えた荒れ放題の庭があった。
生命があふれている。
そういうふうにフウには感じられた。そこには定められた場所もなければ拘束する何者もいない。解放された空間だった。
フウはそこが気に入り、以来機会を見つけては何度も足を運んだ。
それからある日、フウは両親に連れられてあるパーティーに出席した。誰かが誰かを祝うために開いた、ごく普通のパーティーだ。
フウは退屈だった。無意味にしゃべる人々、無意味に笑う人々。まるで誰もが機械仕掛けの人形のようだった。
でもフウは面と向かってそんな事は言わなかった。両親は顔に上品な笑いを浮かべて談笑し、フウは幸福な家庭を演出する出来の良い人形だった。
そこのどこにもフウはいない。
フウはその日、眠らなかった。
そして夜明け近くになって家を抜け出し、ここにやって来たのだ。

「ママもパパも私にかまいすぎるのよ。そういうのって時々すごく疲れるの。分かる、私の言ってること?」
 コトは首をかしげた。
「そうよね、あなたみたいに自由な人には分からないわよね」
 フウはため息をつく。
「でも君は家出をして、これからどうするつもりなの?」
「どうもしないわ」
 フウは何を訊いているのだ、と呆れるようにして言った。
「私だって馬鹿じゃない。今の私は小さいし、どこへだって行けない事は分かっている。あなたが連れて行ってくれるなら別だけど」
 コトはそれを聞いてフウを連れて旅をしているところを想像してみたが、きっかり一秒も立たずにそれは嫌だな、と思った。
 フウは段差に座って足をぶらぶらさせながら、
「私はここにいるつもり」
 と言った。
「パパとママが私の気持ちに気づくまではここを動かない。そう決意したの。焦げたクッキーみたいに固い決意よ」
 固いのかもろいのかよく分からない。
「ところであなたはどうして旅してるの?」
 と、フウは訊いた。
 コトは東にある塔のことや、おじいさんや牡鹿にあったことを話した。
「ふうん、あなたって見かけによらず苦労してるのね」
 フウはとりあえず感心しているようだった。
「君は塔のことを何か知らないの?」
 首を振って、フウは膝を抱える。
「外の事は何も知らない。でもお話でなら、聞いたことがあるわ。ここからずっと東に神様の作った高い高い塔があるって」
「多分、それの事だよ」
「コトはそこに行くの?」
「うん」
 フウは黙ってコトの顔を見つめた。
「男の子っていいな」
 と、フウはぽつりと言った。
「私もいつかそんな所に行ってみたい」
「行けるよ、君なら」
「ありがとう」
フウは微笑って、立ち上がった。コトもゆっくりと立ち上がる。
 お別れだ。
「私もがんばるから、あなたもがんばってね」
 と、フウは最後に言った。
 コトは一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑った。確かにフウのいうことは正しい。

 街を出て、さらに東に向かう。
やがてコトの前に荒れ果てた廃墟が広がり始めた。石造りの建物や道路が所々壊れていて、まるでそれらは誰かの帰りをじっと待っているようにも見える。
 コトは音にさえ忘れ去られたような冬の街を歩き続けた。どこにも人の姿はなく、街は夢でも見ているように穏やかだった。
 日が暮れ、コトは空き家の一つに入って休んだ。
 次の日、コトが眠たい目をこすりながら外に出てみると、ずっと遠くに高い高い塔が太陽を背にして立っているのが見えた。
「……」
 コトは思わず荷物を取り落として、走り出してからすぐにまた戻って荷物を取り、それからもう一度走り出した。
 あの塔が目の前にあるのだ。

 塔を見上げると、それは首が痛くなるほど高かった。コトは息を切らしながら塔を見上げ、そっと壁面に触れてみた。
 本物だ。
 頑丈そうな石で出来上がった壁はきれいな円筒をかたどって頂上まで伸びており、所々に美しいレリーフが施されている。
 塔は、一本の大きな樹のようにも見えた。
 コトは、正面の大きな扉についた小さな扉をくぐって中に入る。
中は巨大な空洞だった。でたらめに行ったり来たりする一本の階段がずっと上まで続き、空中にいくつも不思議なものが光っている。その光は線のような鋭い光を放ちながら、それでいて熱かったり眩しかったりする様な感じはない。
「どこまで続いているんだろう?」
 コトはふと呟いてみた。
 それから上に行ったり下に行ったりする階段を歩き始める。
 どれほど立っただろう。もう塔の底も見えなくなり、虹に届くくらいの高さまでやって来た時のことだ。
 一つの部屋がコトの前にあった。階段はその扉のところにつながっていて、他に道はありそうもない。
 コトは扉を開けた。
 中には銅色の、何だかごちゃごちゃした感じの服を着た少年が立っていた。部屋の中は色とりどりのガラスで飾られている。
「君は誰なの?」
 とコトは訊いた。
「こんにちは、僕はホシっていうんだ」
 と、その少年は言う。
「今から僕の出す質問に答えられたら先に行かせてあげる」
 コトは戸惑いながら頷いた。この少年が一番目の魔法使いなのだ。
「それでは質問。使っても使ってもなくならないものは?=v
 ホシはそういってにっこりと笑った。

 使っても使ってもなくならないもの?
 コトは考えた。
 そんなものがあるんだろうか。火や水は使っていればいつか消えたりなくなってしまうし、どんな物だって使っていれば壊れてしまう。
 この世界に永遠にあり続けるものなんて存在しない。
「分かりません」
 コトは弱々しく首を振った。
「君は正直だね」
 ホシはにっこりとしている。
「特別にヒントをあげるよ。それ≠ヘこの世界のどこにでもある。今ここにだってそれ≠るんだ。そして君たち人間は誰だってそれ≠使っている。今も、今までも、これからも――」
 コトはもう一度考えてみた。
「……もしかして、それは時間≠ナすか?」
 と、コトは言った。
 ホシはにっこりと笑う。
「正解だよ。この世界はずっと時間というネジを使って回り続けているんだ。この宇宙で唯一の永久機関、それが時間だよ」
 帽子を脱いで、ホシは気取ったおじぎをして見せた。
「さあ次にいくと良いよ。君には是非とも頂上までたどり着いて欲しいな」
 それから星をかたどった奇妙な形の鍵を渡してくれる。
 コトがお礼を言って、そして部屋の反対側の扉を開けたとき、もうそこにホシの姿はなかった。

 コトがホシの部屋を出て少し階段を登ると、今度は白く淡い光に満ちた空間が広がっていた。
 階段は不規則に折れ曲がりながらも、ほぼ壁面に沿って螺旋状に上まで伸びている。
 コトは前と同じように階段を登り始めた。
 雲に届くほどの高さまでやってきた時、前と同じように一つの部屋があった。
 コトが扉を開けてみると、中には銀色の飾り気のない服を着た女性が立っていた。部屋の中は銀色の机やタンスが置かれている。
「こんばんは、私はツキと言います」
 と、その女性は言った。
「今から私の出す質問に答えられたら先に行ってもかまいませんよ」
 コトは前と同じように頷いた。二番目の魔法使いだ。
「それでは質問です。追いかけても追いかけても追いつかないものは?≠アれが私の質問です」
 ツキはそう言って、優しく微笑った。

 コトはホシの時と同じように考えてみた。しかし、やはり思いつかなかったし、そんなものがあるとも思えない。どんなに足の速い鹿だって追いつけないわけではない。
 せっかくここまでやって来たのに、と思うと、コトは何だか悲しくなってきた。
 ツキはそんなコトの様子をじっと見ながら、
「あなたの旅の様子はずっと見ていました。あなたはとても優しい子ですね」
 ツキは優しくコトを見つめる。
「ひとつだけヒントをあげましょう。それはいつもあなたと一緒にありますが、けれども消えたり現われたりします。あなたはそれを追いかける事は出来ますが、捕まえる事は出来ません。さあ、答えて下さい――」
 コトは地面を見て、そして気づいた。
「……もしかして、それは自分自身の影≠ナすか?」
 ツキは優しく微笑った。
「正解です。人はずっとそのもの影を追い続けますが、けして影を捕まえる事は出来ません。人はあくまでも、そのものの影ではなく現実を捕まえなくてはならないのです」
 ツキはそっとコトを抱きしめて見せた。
「さあ、上に行くとよいでしょう。そして、決して最後まで諦めないように」
 それから月をかたどった奇妙な形の鍵を渡してくれる。
 コトがお礼を言って部屋の反対側の扉を開けた時、やはりもうそこにツキの姿はなかった。

 コトが月の部屋を出て少し階段を登ると、温かく明るい光が広がっていた。階段は規則正しく壁面を螺旋状に伸びていく。
 コトは最後の部屋に向かって階段を登り始めた。
 気が狂いそうなほど変わり映えのしない階段を登るうち、星の高さほどに達するとそこに一つの部屋があった。
 コトが扉を開けてみると、中には金色の立派な服を着た老人が立っている。部屋の中は金色の彫像や飾り物が置かれている。
「おはよう、コト。わしの名前はタイヨウ」
 と、その老人は言った。
「よくここまでやって来た。これが最後の、三つ目の質問じゃ。心して答えるがいい」
 コトはタイヨウの顔を恐々と見て、そして少し震えながら頷いた。
「では、質問じゃ。この世でもっとも固いものは?≠ウあ、答えるのだ」
 タイヨウは厳しい表情を崩さぬまま、コトに問いかけた。

 コトは思いつく限り固そうな物を思い浮かべてみたが、どれも何かあれば砕けてしまいそうだった。石や鉄、レンガや木材、ダイヤモンド……?
 コトはそれでも必死になって考え続けた。
「お前にはチャンスをやろう、コト」
 と、タイヨウは急に言った。
「今から帰るなら、わしはお前の命を取らず、無事に家まで送り届けてやる。だが、あくまでも諦めず、そしてお前が間違った答えを言った時には、魂の牢獄で永久に苦しみ続けるのだ」
 コトは一度目をつぶり、それからタイヨウの顔を見つめる。
 答えは決まっていた。
「例えどんなことになっても、僕は諦めません」
 コトはタイヨウにまっすぐに向き合う。
「今ここで諦めたら、僕はずっと苦しみ続けなくちゃなりません。それは魂の牢獄に入れられるより、もっとずっと酷いことです。僕は僕の意志でここまでがんばって来ました。それを否定してしまえば、僕は僕を失ってしまうんです」
 タイヨウはぐっとコトを睨んだ。
 何という愚かな子供だ、と思っているのかもしれない。
 そしてタイヨウは――「正解じゃ」――とぽつりと言ったのである。
 コトには一瞬わけが分からなかった。
 表情をやわらげ、タイヨウは言った。
「この世で最も固いもの、それは決意≠カゃ。そう、お前が言った通り、お前の意志は誰にも砕くことは出来ぬ。例えどんな事があっても」
 タイヨウはコトの頭をそっとなでてやった。
「さあ、三つの質問に答えたお前にはこの塔の宝を得る資格がある。その扉から頂上に行くとよい」
 そして太陽をかたどった奇妙な形の鍵を渡してくれる。
 コトは扉を開け、そして塔の頂へと登った。

 空気がしんとして、空が白み始めている。西の空にはまだ月の姿があって、いくつかの星が瞬いていた。
 もうすぐ太陽も姿を見せるだろう。
 コトは遥か彼方に見える青と緑の大地を眺めた。それはこの世のどんな青色より、この世のどんな緑色より、もっとずっと素敵なものだった。
 世界はこんなにも美しかったのだ。
「わあ……」
 コトは知らないうちに涙が流れるのを覚える。
 やがて太陽が現われて、優しい光でそっと人々を起こし始めた。
 コトはホシとツキとタイヨウからもらった鍵を探してみた。
 でも、それはもうどこにもなかった。
 そして気づいたのだ。
 コトの胸の中はもうある宝物で一杯なことに――。
 それは幸福≠セった。
 コトは胸に手を当てて、心が柔らかな感情で大切に包まれているのをそっと感じる。
 それからコトは空を見上げて、言った。
「お星さま、お月さま、お日さま、お願いがあります。この幸せをみんなにも。今日、この日を目覚めるすべての人に――、この幸せを、みんなにも分けてあげて下さい」
 ホシとツキとタイヨウはその願いを聞き届け、空からは優しく光る温かな雪が降り始めた。
 それは朝、目覚めて窓を開けた人々
 仕事を行くために道を行く人々
 まだ静かに眠りにある人々
 不安で眠れぬ夜を過ごした人々
 元気に挨拶する人々
 眠たげに目をこする人々
 見知らぬ旅の地で朝を迎えた人々
 愛する人の傍で目を覚ました人々
 今日の始まりを待ち遠しにしていた人々
 ずっと夜が終わらないことを願っていた人々
 ……あるいは自分を探し続ける者
 ……あるいは自分を見つけて死んでしまった者
 ……あるいは自分を気づいてもらいたがっている者
 雪は世界のすべての今日≠迎えた人々の胸の中に優しく降り積もり、その心をそっと温かく包み込んだ。
 幸せをみんなに分けてしまうと、コトの手には小さな幸福の欠片がたった一つだけ残った。
 それはコトが自分で届けなくてはならないのだ。
 愛する人のところへ。

――Thanks for your reading.

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