[天国まで持っていけるもの]

 ――その絵の中では、雨が降っていた。けっこう、本格的な降りかただった。誰かに決められた時間を守るみたいに、長い時間をかけて降る種類の雨だ。情景全体が雨に煙っていて、輪郭や色彩をぼやけさせている。駅、だろうか。遠くにそれらしい建物の影が、水面をのぞいたときの不正確さで描かれている。声や物音の聞こえてこないその距離に、大勢の人々が群れ動いているのが見てとれた。人々は一様にはっきりとしない沈黙の底にあって、その思考や運命は、絵の中の距離と同じくらい遠い。駅前にある広場には、駅舎と同じかそれ以上の高さの建物が並び、歩道のそばには一台の馬車が停まっていた。人を乗せるところなのか、下ろすところなのかはわからない。
 絵の手前には、一人の女性が大きく描かれていた。どうやら、それが絵の主題らしい。ちょっと古めかしい、十九世紀も終わり頃といった感じの黒っぽいドレスを身にまとっていた。ルノワールなんかの絵に出てきそうな感じのやつだ。彼女はそれほど歳をとっているわけではないけど、少女という年頃でもない。僕はその当時の衣装のことなんて全然知らないけれど、それなりにきちんとした格好をしているのは間違いなさそうだった。裕福かどうかはともかく、ごく平均的な中流階級の人間、という感じだ。彼女は雨傘をさして、駅のほうを向いている。でも駅をまっすぐ見ている、というわけじゃない。どちらかというと体を横に向けて、顔だけをほんの少し曲げている感じだった。ちょうど、聞き覚えのある声を耳にして、その正体を探っているみたいに。彼女の顔はわずかにのぞくばかりで、頭の半分以上は雨傘に覆われていた。
 全体の雰囲気からいって、彼女は誰かを待っているように見える。その誰かは当然、駅からやって来るのだろう。でも彼女は、努めて無関心を装おうとしているようだった。まるで、その誰かを案じていることを自分に知らせまいとするみたいに。そうした不安の中でその誰かについて考えることが、運命に悪い影響でも及ぼしてしまうみたいに。
 彼女がどれくらい、そこで待っているのかはわからない。彼女がどんな顔をして、どんな思いを抱いているのかも。音のない雨が絵の中で降り続き、運命から遠く離れた場所で人々が群れざわめいている。雨傘をさした女性が、そうした光景を一人で眺めていた。言葉も、表情も、明確な印一つさえなく――

 ――その絵は、志花(しはな)にとってお気に入りの一枚だった。彼女はことあるごとに出かけては、飽きもせずにその絵を眺めた。少なくとも僕が彼女から聞いた話によれば、そういうことになっている。出不精の彼女が、そんなに足しげく絵のある場所まで通ったとは信じられないけれど。
 でもどちらにせよ、彼女がその絵を深く愛していたことは間違いない。敬虔な信徒が、夜明けに祈りを捧げるみたいに。牢獄の罪人が、夜更けに救いを求めるみたいに。
 いや、違うな――
 その絵は彼女にとって、この世界において必要なある一つの定点だった。自分の居場所を知るための、固定された座標。夜の空にその位置を示す、名前のない小さな星みたいに。

 僕が彼女と知りあったのは、高校時代のことだった。そこの文芸部で、僕は志花とはじめて出会ったのだ。その出会いに関しては、これといって特筆すべきことはない。
 僕と彼女は同学年だった。世界の終わりも始まりも感じさせない、ごく散文的な四月のある日に、僕たちは新入部員として部室で顔をあわせた。そしてよくある簡単な自己紹介をすませてしまうと、運命の歯車はもう役目を終えてしまったとばかりに、それ以上噛みあうようなことはなかった。
 僕が文芸部に入ったのは、よく本を読んでいたので、どうせ入るのなら、というだけの理由でしかなかった。特に旺盛な執筆欲というものはなかったし、誰かに自分の書いたものを読んでもらいたいという願望があったわけでもない。
 志花のほうはというと、その姿勢だけは少なくとも僕より真剣なものだった。彼女は中学の頃から、そうしたことを続けていたのだという。
 そう――
 志花は小説を書いていた。というか、小説みたいなものを。
 本人によれば、自分が書いているものを小説と呼称すべきかどうかは、よくわからないということだった。別に詩や箴言集を書いていたわけじゃないし、形式的に見ればそれは小説というしかないものだったけど、志花にとってはそういうものらしい。彼女いわく、「わたしはただ、好きなものを好きなように書いているだけ」だった。
 だからというわけではないにしろ、彼女がどんなものを書いていたのかというのは、どうも説明が難しい。
 ジャンルに当てはまらない、といえば聞こえはいいけど、要するにそれは、作品を類別化できるほどの精度や技術に欠けていた、といったほうが近いかもしれない。純文学といえるほどのものじゃなかったし、かといってエンタメ小説というのでもない。雑多な種類のものを書いていて、その中にはSFやミステリといったものも少しだけ含まれている。
 僕は当然、そのいくつかを読ませてもらったけど、確かにどう評価していいいかは困るところがあった。読んでみて、結局それが何の話だったのかと言われると、ただちには返答しきれないところがある。
 彼女がいわゆる「小説家志望者」のようなものだったかというと、それは少し違っていたと思う。彼女は小説家になりたいというのとは微妙に異なる欲求で、それを行っていた。その二つが、ネジ頭のプラスとマイナスくらいにしか違わないものだったとしても。
 ごく客観的にいって、彼女に文筆家としての才能があったかどうかはわからない。
 僕の個人的で控えめな意見を述べさせてもらうなら、そのことに関してはかなりの疑問だった。彼女の書くものは往々にして、ポイントやテーマがゆるく、曖昧だったし、その文章は独善的で、鼻について、仰々しく、ほとんど読んでいる人のことなんて考えていなかった。
 そして――
 そして時々、はっとするほどきれい≠ネところがあった。波に洗われて丸くなったガラスや、光に透けて緑色になった木漏れ日みたいに。
 どちらかというとそれは、僕を悲しい気持ちにさせたけれど。

 前置きが長くなったけど、要するにこれは彼女の話だ。小説みたいなものを書いていた、ある女の子の話。彼女はある意味ではもう失われてしまったけれど、それでも冷蔵庫に貼っておくメモくらいには、語るだけのものは残っている。
 もちろん、これはたいした話なんかじゃない。地球が滅びることもなければ、人殺しや探偵が登場するわけでもない。はらはらするようなサスペンスも、きらびやかな舞台も、胸のすくようなストーリーもない。いわんや、文学的価値においておや、だ。
 これは本当に、何でもない話だ。たぶん、何の価値も、意味もない。風の囁きほども、手から零れ落ちていく砂粒ほども、次の日には溶けてしまう雪ほども。
 出てきたものをそのままごみ箱に捨ててしまったほうが、ずっとましな話。

 ――それでも、誰かがそれを語るべきなのだとは思う。

 十月も終わりに近づいていた、ある日。
 僕が市役所の窓口近くに座って仕事をしていると、おばあさんが一人でやって来た。時刻は昼近くで、市民課の窓口はすいていた。僕が一番近かったこともあって、すぐに立ちあがって声をかけた。
「どうかされましたか?」
 訊くと、おばあさんはほっとしたような様子で受付け窓口に近づいてきた。品がよくて、人畜無害そうな人だ。髪は半分ほど白くなっていて、「ちょっと困ったことがあって」的な微笑みを浮かべている。市民課の窓口係としては、市役所に用事のある人がみんなこうだったらいいのに、と思うタイプのお客さんだった。
 おばあさんが言うには、戸籍の写しがいるのだという。パスポートを作るのに必要なのだそうだ。
「いえね、孫が旅行に誘ってくれましてね」
 と得々とした表情で語るのを、僕は礼儀正しく謹聴した。いいお孫さんですね、僕も見習いたいものです。
「ええ、そうなのよ。実の子供よりよっぽど気を使ってくれて――」
 話がいささか長くなりそうな気配を察して、僕は訊いた。
「ところで、戸籍謄本ですか、それとも戸籍抄本ですか?」
「……あら、どっちかしら?」
 老婦人は首を傾げた。その仕草はなかなかチャーミングではあったけど、だからといって答えをごまかしていいものでもない。
「パスポート用なら、どちらでもかまいませんよ。値段も同じですから」
「じゃあ、どっちでも」
 老婦人はアヒルにもウサギにも見えそうな笑顔を浮かべる。けど、もちろんそういうわけにはいかない。僕は一応、説明する。
「謄本は原本の写しで、ちょっと詳しいやつです。抄本は抜書きになりますから、それよりも短くなりますね」
 なら抄本にしましょうかね、と老婦人は言った。合意さえ得られれば、手続きに問題はない。相手が金の斧を選んでも、銀の斧を選んでも。僕はにっこりと笑顔を浮かべた。
 そうして戸籍抄本の申請書類の書きかたを教えていると、向こうから志花がやって来た。
「…………」
 僕は書類を受けとると、専用のパソコンのところまで行って、それをプリントアウトした。所定の代金を納めてもらうと、老婦人にそれを渡す。僕も老婦人も、最後はお辞儀をして別れた。ごく平和的で理想的な手続きの完了だった。
 老婦人が行ってしまうと、志花が僕のところまでやって来る。
「何の用だったの、あの人?」
 志花はそう言いながら、婦人の後ろ姿を見送っている。どちらかというとそれは、部屋に見覚えのないものでも見つけた子供みたいな感じだった。
 本当は答える義理も権利もないのだけど、僕は教えてやった。
「パスポートを作るのに、書類が必要なんだそうだ」
 志花は、あまり興味はなさそうに言う。
「パスポートって、市役所で作れるんじゃなかったっけ。何で、帰っちゃうの?」
「証明写真がまだないんだってさ」
 さっき僕が確認してみたら、そういうことだった。
「ふうん」
 志花はまあどうでもいいんだけどね、という感じで言った。まあ、確かにどうでもよくはある。
 それから、僕はあらためて志花と向きあった。
 邪魔にならないように首元で束ねただけの、事務用品と同じくらい飾りけのない髪形。女子としての自覚があるのかどうか疑われる、もっさりとした格好。十人なみの容姿ではあるけど、それを少しでも向上させようと努力するつもりはなさそうだった。
 彼女がこの時間にわざわざ市役所にやって来たのは、特に用事があってのことじゃない。現在、彼女は絶賛無職中で、昼に決まった仕事はなかった。夜中のごく短い時間に簡単なアルバイトをしているけど、たいした問題にはならない。
 もともと、大学卒業後には一時的に就職していたらしい。僕は大学が別で、離れた土地だったから、その辺のことについては詳しく知らない。
 けど何にせよ、無理だったのだ、そんなことは。彼女がまともな職業に就いて、それをまともに続けるなんて、できるはずはなかった。月の形が一億年くらい前からあまり変わってないのと同じくらい、それは確かなことだ。
 別に、彼女の性格や能力に問題がある、というのではない。成績はまともだし(むしろ頭はいいほうだ)、及第点とはいえないにしろ、人あたりが最悪というわけでもない。
 それでも――
 志花には、そういうところがあった。まともに就職して、まともに勤務して、まともに人生を楽しむというのが、想像できないところが。たぶんそれは、クジラが陸にあがらないのや、ペンギンが空を飛ばないのと、同じくらいに。
 そんなわけで、彼女はあっさりと職を辞し、故郷の実家へと戻ってきた。それが大体、一年くらい前の話だ。以来、彼女は特に何をするでもなく、自宅で無為に時間をすごしている。
 とはいえ、彼女のほうでいくら時間があまっていたところで、それは僕とは関係のない話だった。いくら利用者がいないからといって、市役所の窓口はいつまでも知りあいと無駄口をきいていていい場所じゃない。
「――ところで、何か用なのか?」
 僕はちょっとデスクのほうの様子をうかがいながら言った。昼休憩に入ったらしく、いくつかは空席だ。残った同僚も、特にこっちのほうは気にしていない。
「ちょっと、頼みたいことがあってね、タカトーに」
 志花は何となく、言いにくそうに口を開いた。わざわざこんな時間に、こんな場所まで来たのに、だ。
 ……ちなみに、タカトーというのは僕のことだ、念のために。
 ちょっと眼鏡の位置を直してから、僕は志花のほうを見る。発言そのものは曖昧だったけど、彼女の用事が何なのか、その口ぶりからして大体の見当はついていた。今までにも何度か、同じことがあったのだ。
 僕は自然なため息をつきながら、訊いてみる。
「本屋に行くのか?」
「……まあ、そういうこと」
 彼女は何だか変に子供っぽい笑顔を浮かべながら、そう言った。

 志花が本屋に行きたい、と言った場合それは「つきあって欲しい」というような叙情的な意味あいではなく、「足を貸して欲しい」というごく即物的な要求を意味する。
 血と鉄をあくまで散文的に表現するのと同じで、要するにそれは、車の運転をお願いしたい、ということだった。
 とはいえ、実のところ志花は運転免許を持っている。家には自由に使っていい車だってある。それでも自分で運転しようとしないのは、本人に言わせると次のようになる。
「――子供を轢きたくないから」
 どうやら、教習所の啓発ビデオはその効力を発揮しすぎたらしい。ジプシーのおばあさんに占ってもらうまでもなく、彼女にはいつかそうなるであろうという確信があった。だから、移動はもっぱら自転車ということになる。まあ、環境にも健康にも、そのほうが優しくはあるのだろうけど。
 僕は休日の午後、昼食を終えたところで、住んでいるアパートをあとにした。地元なので実家は近くなのだけど、僕は一人暮らしをしている。あまり意味はないけど、まあこっちのほうが気楽ではある。
 志花が市役所まで押しかけてきたのは、昨日のことだった。彼女が本屋ですごす時間は半日くらいにはなるから、午後の時間いっぱいくらいは目安にしなくてはならない。
 それなら、わざわざ直接職場にまで来なくても、電話なりメールなりですませばよさそうなものだったけど、彼女は何故かそうしない。そんなことは人倫に悖る、というのだ。大抵の人には、その理屈がわからない。僕にもわからない。たぶん、電子的な通信手段に何か恨みでもあるのだろう。
 志花の家は、街の中心からはだいぶ外れたところにある。街の中心といっても、目印でもなければ見落としてしまいそうな程度のものだった。ここはまあまあ田舎の、地方都市なのだ。そこからさらに外れているのだから、あとは推して知るべし、というところだった。
 僕は車を運転して国道に出て、そこから県道に進み、順調にグレードを下げて細い道に入った。昔は田んぼだったらしい藪と、まばらな民家のあいだを走る。スピードはかなり落としている。向こうから車が来ても、すれ違うようなスペースはなかった。
 何とか無事に彼女の家まで着くと、駐車場にとめさせてもらって志花を呼びにいく。ずいぶんと、天気はよかった。彼女の家のまわりには庭やら畑があって、十月にしてはずいぶん生命力にあふれていた。ナスやピーマンはともかく、赤いトマトがまだ実をつけている。
 ちょっと古くはあるけど歴史というほどのものはない、というのが志花の実家だった。僕は玄関の扉を開けて、声をかけた。すでに待っていたらしく、彼女はすぐに姿を見せる。
「もう、行けるのか?」
 すでに靴を履いている志花に向かって、僕は訊く。
「うん――」
 何だか急いでいるような不機嫌さで、志花は言った。
 何なのかと思ったら、廊下の奥から志花の母親が顔を見せていた。どうも釘を刺されたらしい様子で、小さく手を振っている。僕は軽く笑って頭を下げた。高校の頃にも、こんなことがあった気がする。
 志花はもう家の外に行ってしまっていたので、僕が玄関の扉を閉めた。迎えに来させたうえでの扱いとしては非道きわまるものだったけど、まあいつものことだ。
 小さな中庭を抜けて、古びた柵のついた門扉を通る。さすがに志花は、僕の車の横で待っていた。それくらいの分別はある。
 僕が運転席に着くと、志花もドアを開けて助手席に座った。そして無言のまま、シートベルトを締める。僕はエンジンをかけて、ハンドルに手を置いた。
「さて、どうするんだ?」
 神殿で託宣でも受けるみたいに、僕は訊いた。
「いつものとこ」
 志花の答えは短い。余計な解釈のしようもないくらいに。
「……てことは、遠くのほうに行ってから、近くか」
 僕はすぐさま、解読する。
「そう」
 答えは、やはり短い。
「オーライ」
 僕はサイドブレーキを外して、車を発進させた。予想通りとはいえ、志花のお決まりのコースだった。もちろん、道順のほうは間違いない。どこかの迷宮みたいに、王女のくれた糸球が必要なわけでもなかった
 十月後半にしては、かなりの陽気だった。僕が窓を開けると、反対で志花も窓を開ける。陽射しと風の混ざり具合は、気の利いたバーテンダーが配合したみたいにちょうどよかった。光も空気も透明で、ずっと奥まで透きとおっている。そしてそこには、来るべき冬の季節も感じられた。
 車は細い道から県道、国道へと逆の道順をたどって走っていった。交通量が増えてくると、のん気に窓も開けていられない。僕も志花も、窓は隙間が少し空くくらいにしておいた。入ってくるのが太陽光線だけになると、少々汗がにじむ。
 僕の、というか、志花の目的地は本屋だった。といっても、それは古本屋のことをさしている。県をまたいだ隣町にいくつか古本屋があって、彼女は主にそこをまわる。それが、彼女のお決まりのコースだった。
 普段、車に乗らない彼女の移動手段は、もっぱら人力であるところの自転車に頼られている。ところが、僕たちの地元にあるものといえば、あまり規模の大きくないリサイクルショップが一つきりだった。こんなのでは、ペルシアをあっというまに征服してしまったどこかの大王みたいに、すぐに行くところがなくなってしまう。
 そこで、志花は本を求めて遠征することになる。しかしそこまでの道は遠い。インドほどではないにしろ、自転車では手に(足に?)あまる距離なのだ。そこで思い出されるのが、僕という存在だった。
 はじめは僕も、その理不尽な要求についてはどうかと思った。どこかに適当な監獄があれば、襲撃していたかもしれない。
 でも結局は、こうしてすんなり言うことを聞くようになった。
 その辺の事情は、自分でもうまく説明できない。志花は自分の要請を通すために、強談したり、愁訴したわけじゃなかった。彼女は何も言わなかったし、僕に無理強いもしなかった。
 でも実際問題としては、彼女にそんな頼みごとができる相手が、ほかにいるはずもなかった。ロビンソン・クルーソーほどじゃないにせよ、彼女にはまともな話し相手さえいないのだ。そしてそれを知っているのは、僕だけだった。
 運転手代わりに使われることそのものには、特に実害はない。第一に、それはそう頻繁にあることではなかった。そして少々遺憾ではあるけれど、僕の休日の予定は今のところずっと白紙だった。
 そんなわけで、僕は志花といっしょになって古本屋へ向かう。考えてみると、地中海を漂流するほどではないにせよ、奇妙な話だった。
 国道をまっすぐ走っていると、志花はしかめっ面をして左右のこめかみを指で押さえていた。たぶん、頭痛がするのだろう。高校の頃からそうだったけど、志花は頭痛持ちである。どうも、まだ治っていないらしい。
 しばらくして、道は市街地に入っていった。信号に停められて、車の流れはだいぶ遅くなる。古の昔から変わることなく続く、渋滞というやつだった。
 その時、不意に志花が口を開いた。
「――あの車のやつ、バカなんじゃないの」
 何のことかと思って視線の先を探ると、すぐにそれがわかった。
 前のほうに停まっている一台の車の窓から、ごみが投げ捨てられている。空き缶だの煙草の吸殻だのが、中央分離帯の植え込みに放り込まれていた。もしかしたら、その場所は車の持ち主の住居なのかもしれない。もしそうなら、僕としては文句をつける義理はなかった。
 隣に座った志花のほうを見ると、ひどく憎々しげな目でその光景を眺めていた。習字用の薄い半紙くらいなら、突き破ってしまいそうなくらいに。
 ――彼女には昔から、そんなところがあった。
 もちろん、普通の人間にしたって無言の非難くらいはするし、眉をひそめもする。義憤に駆られ、悲嘆に暮れるだろう。世界の大半は、そうはいっても正義と公平で出来ている。
 でも彼女の場合は、そういうのとは少し違う。
 志花は本当にいろいろなものに腹を立てていて、その都度口汚く罵った。停まれるはずの赤信号で直進する車とか、訳のわからない空ぶかしをするバイクとか、意味もなく乗り捨てられた自転車とか、路上にごみを捨てていく不届き者とか。
 そんなものに対して、彼女はどうしようもなく頭にくるみたいで、律儀に心を煮えたぎらせていた。風船にどんどん空気を送り込むのと同じ要領で、体を破裂しそうにしながら。
 隣にいると、彼女のそんな様子は実によくわかった。僕は他人事ながらも難儀な性格だな、と昔から同情していた。怒りというのは奇妙な感情で、いつだってお互いを傷つけてしまう。ちょうど、拳骨で人を殴ると自分の手も痛くなるのと同じで。
 いったん社会人になってからも、彼女のそんな性格はまるで変わっていなかった。どうやら彼女は、人や物事を許すということを学びそこねたらしい。それはそれで、しんどいことではあったろうけど。
「――――」
 黄金の林檎をもらいそこねた女神みたいに不機嫌な志花の横顔を、僕はうかがってみた。
 年齢を感じさせないというよりは、たんに歳をとりそこねたような風貌。特殊な矯正器具が必要そうな、どこか世界とかみあっていない瞳。拗ねた子供みたいな、何かを我慢している子供みたいな、そんな表情。朝になってもまだ青空で光を放っている星を思わせる、ちょっと場違いな雰囲気。
 志花は昔と、少しも変わっていなかった。幸か、不幸か。もしも変化したところがあるとすれば、それは首のところで束ねられた髪型くらいのものだったろう。
「信号、青になったわよ」
 彼女はシートに深くもたれながら、ふてくされたような声で言った。もちろん、この世界の悪事をいくら弾劾したところで、きりのないことくらいは彼女にもわかっている。
「――ああ」
 僕は適当に返事をして、車を発進させた。
 再び景色は移動をはじめ、透明な陽光はくるくるとその輝きを変えた。十月の終わりにしては強い陽射しの中には、それでも確かに、来るべき冬の気配が含まれていた。

 古本屋での買い物は、志花にとって物資の補給を意味した。比喩的に、というよりは、どちらかというと実際的に。
 志花に、これといった趣味はない。旅行だとか、サーフィンだとか、各種スポーツだとかいったアグレッシブなものから、パズル、ゲーム、お菓子作りといったインドアなものまで。
 彼女にとって唯一の趣味といえるのは、読書だけだ。限定的な用途に使われる工具みたいに。
 それも実際には、実益をかねている。何かを書こうと思ったら、何かを読むのが一番いい。そうすれば知識も得られるし、文章の工夫もしやすくなる。テーマやその立てかた、構成やストーリーテリングといったことだってわかるだろう。何より、いい本を読むことが、書きたいという気持ちの涵養につながる。
 とはいえ、実体験のほうはどうなんだ、とは僕も思う。自分の部屋で本ばかり読んでいたって、限界というものがあるだろう。時計を眺めれば時間はわかるけど、その仕組みまで理解できるわけじゃない。
 しかしもちろん、これにだって反論はできる。例えば南極に行ったり、セノーテ(南米によくある特徴的な泉のこと)に潜ったりしたことのある人が、どれだけいるだろう? 無人島で生活したり、馬がしゃべる国に行ったことのある人は?
 すべてのことが体験できるわけじゃないし、本当にそれが必要なのかどうかもわからない。虹が何色あるのかさえ、僕たちは実際に確かめたわけじゃない。
 ともかく、彼女は健康志向の人間が野菜をよく食べるみたいに、よく本を読んだ。一般的な消耗品とは違うけど、本だって消費される。消費されれば、そのぶんだけ補給されなければならない。
 そのために古本屋を利用するのには、いくつか理由がある。
 まずはやはり、経済的な問題だった。ハードカバーでも文庫本でも、定価で購入すればそれなりの代価が必要になる。けど古本屋でなら、それが五分の一とか、二分の一ですむ。つまりは同じ資本でも、それだけ多くの本が買えるわけだった。王様なら奢侈が仕事のようなものだけど、仕立て屋のほうは場合によって、空想の糸やからっぽの織り機を使わなくてはならない。
 廉価であることはくわえて、それだけ本が買いやすくなる、ということでもあった。つまり、精神的に。本の価格は、その内容や質、相性をかんがみると、必ずしも適正とはいえない。神の見えざる手は、そんなことにまで世話をやいてはくれないのだ。
 だから本を購入するときに迷いや葛藤が生じるわけだけど、その値段が安ければ心理的閾値は低くなる。つまりは、後悔という名前のダメージが減る。そして、そのぶんだけ本が買いやすくなる。
 そんなわけで彼女は大量の本を、それも可能なかぎり安い値段で必要としていた。そうすれば、古典的名作から近代的駄作まで、気になった本は好きなように買うことができるからだ。ある意味では、木の枝からプラスチックまで、何でも利用して巣を作る鳥みたいに。
 僕たちが古本屋に着くと、彼女はさっさとカゴを持って書籍コーナーの棚に向かった。何となく、職人めいた真剣さがその足どりにはある。僕は特に急ぎもせず、同じようにそのあとを追った。
 古本屋といっても、そこは堆積した時間の層が埃っぽい重なりになっているような、秘密の裏店めいた場所じゃない。あくまで即物的でコンビニ的な、いわゆるリサイクルショップだった。
 でも志花にとって必要なのは、希覯本や本棚を飾るための本なんかじゃなかった。彼女が求めているのは、その中身だけなのだ。文章の情報価値は、手垢がついたりリボンで飾りたてられる類のものじゃない、というのが彼女の基本的な意見だった。まあ、多少の異論もなくはなかったけれど。
 休日だけあって、書籍コーナーにはいくつかの人影が立っていた。そうした人たちは、みんな示しあわせたように一人で、深海の魚みたいにひっそりと書棚の前に立っていた。何となく、死後の世界の一場面に出てきそうな光景ではある。
 志花ほどではないにせよ、僕も本は読む。とはいえ、別にわざわざ古本屋で買う必要はない。給料はもらっているし、それといっしょには時間をもらっていない。読みたい本があれば、ちゃんとそれが置いてある書店で探す。
 僕は適当に棚を眺めつつ、気になった本を手にとってみた。意外と、よくわからない本が並んでいたりするのが不思議だった。「ぶんこ六法」なんて、誰が売りにきたのだろう? やたらにぶ厚いけど、値札の表示は百円だった。この値段なら、確かに買ってみてもそれほど気にはならない。例え司法試験に挑戦する気がなかったとしても。
 外国文学のところにあったフランダースの犬を読んでいたら、志花がやって来た。彼女はブラウスにロングスカートという格好だったけど、何故だかそれはひどく野暮ったい感じがした。どういうわけか、どこかの田舎にいそうな女教師を連想してしまう。
 僕たちは何かの競技の途中みたいに挨拶もせず、そのまますれ違った。すべての棚を一通り見てまわるのが、彼女のスタイルだった。題名を見て、気になった本があれば手にとり、あらすじを読んでぱらぱらとページをめくる。それが多少なりとも気になる本であれば、あとは値段次第になる。多少でなく気になる本でも、値段と気分次第では棚の中へと戻される。
 すべての棚をまわって、一通りの検閲をすませるのに、大体二、三時間くらいかかった。彼女としてはそれでも急いでいるのだろうけど、もちろんただ待っているだけだといささか長い時間ではある。本の一冊くらいなら読めてしまえるところだ。
 これが「遠くのほう」のことで、もう一軒「近く」にも行く。
 彼女の手順はどちらも大体同じだけど、こちらのほうが規模が小さいので、かかる時間は漸減する。亀に追いつけないどこかの英雄と同じで、事態そのものは変わらなかったけれど。
 結局、志花は両方あわせて何十冊かの本を買った。ちょっと、冬の巣ごもりに備える熊に似ていた。比喩的にというよりは、どちらかというと実際的に。
 お駄賃、ということなのだろう、何冊かならおごってあげてもいいわよ、と言われたので、僕はその言葉に甘える。棚から抜きとった本を数冊渡すと、志花はあまり興味のなさそうな目でそれを見た。たぶんもう持っているか、彼女の求める水準には届かない本だったのだろう。

 市役所の公務員だろうと、一流企業の重役だろうと、仕事をしていることに変わりはない。
 仕事をしているということは、仕事仲間がいるということだ。
 となれば、何らかの集まりが生じるのは当然の帰結だった。親睦のためだろうと、ストレス発散のためだろうと、理由のほうはあまり問われることなく。
 そんなわけで僕は今、料理屋の二階座敷にいた。机には各種アルコールやら料理が並べられて、全体では十数人くらいの人数がいた。要するに、飲み会ということだ。
 僕の所属する市民課には、片嶋(かたしま)さんという宴会好きの課長がいて、その人がしょっちゅうこういう会を開いていた。
 勤続二十年目の片嶋さんにはどういう人脈があるのか、市役所中の職員からメンバーを集めることができる。どこかへ戦争に向かう偉大な王が、各地から兵士を召集して軍団を組織するみたいに。
 そういう集まりが特に嫌いでない僕は、誘いがあれば大体は参加するようにしていた。
 飲み会ははじまってから三十分くらいが経過したところで、座の雰囲気はだいぶ砕けていた。誰かが手をすべらせて割ってしまった、花瓶みたいに。主催者である片嶋さんは、人事課の職員に向かって給料の査定について何か抗議していた。それで俸給があがるとは思えなかったけれど。
 みんな酒がまわって、席次もかなり乱れていた。僕は同期の男と三人ほどで雑談していたけど、ふと向こうの席で豊条(ほうじょう)さんが一人なのを見つける。
 豊条依子(ほうじょうよりこ)さんは、同じ市民課の窓口係に所属する先輩だった。僕が仕事の手順を習ったのは、この人からだ。だからというわけではないけれど、一種の親近感がある。コンラート・ローレンツの言う、インプリンティングみたいなものかもしれない。
 僕は適当に機会を見つけて、いったん席を離れた。レモンサワーの入ったグラスを持ったまま、豊条さんの席に向かう。
「どうですか、調子は?」
 アルコールが入っているせいもあるだろうけど、僕は自分でも何だかよくわからない声のかけかたをした。
「――悪くないわよ」
 豊条さんは気にしたふうもなく、軽く笑う。
「隣、かまいませんか?」
 訊くと、豊条さんはお節介なコオロギにでも話しかけられたみたいに肩をすくめる。別にかまわない、ということだろう。
 さっぱりと短く切った髪に、どこか造形美を感じさせる姿勢のよさ。クールというか、達観しているというか、ちょっと神秘的な占星術師を思わせる雰囲気をしていた。詳しくは知らないけど、僕より二つくらい年上のはずだ。
 僕は豊条さんの隣に座って、話をはじめる。同じ仕事をしているから、話題にはさほど困らなかった。最近やって来て難儀したお客さんとか、書類の書式に関するちょっとした疑問とか、仕事のこつとか。そのあいだに、私的なこともいくつか訊いた。
 実のところ、僕は豊条さんのことについて詳しくは知らない。それは僕だけじゃなくて、おそらく市役所の誰もが。たぶん、かぐや姫の正体についてと同じくらいに、
 年齢はともかくとして、出身はどこなのか、どんな生い立ちなのか、家族構成、現住所、地元の人間なのかどうかさえ。一般企業にしばらく勤めてから、市役所にやって来た、ということだけは聞いていた。転職した理由は、不明。
「豊条さんて、休みの日とかは何をしてるんですか?」
 僕はかなり凡庸な質問をしてみた。
「映画を見たり、音楽を聴いたり、そんなところね」
 ちびりちびりと熱燗を飲みながら、豊条さんは言う。
「最近見た映画で、面白かったものはありますか?」
「……『デッドプール』かしら」
「そこは、もうちょっとマイルドな作品にしとけませんか?」
 しばらくのあいだ、僕は豊条さんと映画の話をした。
 ――それから気がつくと、僕はこんなことを訊いていた。
「僕には友達が一人、いるんですけどね」
「いるでしょうね、それは」
「その友達は、小説を書いてるんです。というか、本人に言わせると小説みたいなものを」
「悪くない趣味ね」
 豊条さんは笑う。
「それでですね、そいつは現在無職で、ほとんど家から外に出ないんです」
「あらあら――」
「たまに外出するっていっても、古本屋に行くくらいで、それも僕が車に乗せていってやるんです……休日に」
「それは災難ね」
「運転するくらいは別にどうってことないんですけど、このままで大丈夫かな、と思うんですよ。小説を書く以外、ほかに何かをしてきたわけでも、何かをしようとしてるわけでもないんですからね――豊条さんだったら、そんな友達をどうします?」
「私だったら?」
 豊条さんは意外そうな顔をする。
「ええ」
 僕がこくんとうなずくと、豊条さんはちょっと考えるようにうつむいた。その格好は美術的な均整がとれていて、そのまま彫像にして残しておきたくなるくらいのものだった。
 やがて、豊条さんは言った。
「私ならその人の主張を優先するわね」
「つまり、今のままでいいってことですか?」
「まあ、そういうことになるかしら」
「……どうしてです?」
 僕が訊くと、豊条さんは首を傾げた。
「理由が必要?」
 その言葉のあと、僕と豊条さんのあいだで一瞬、間があった。映画のフィルムが一時的に途切れるみたいな、そんな間だ。その空白が埋まると、座敷のあちこちからたった今覆いを外したみたいに、ざわめきが聞こえてくる。
「でも、僕としては――」
「その人って、女の子でしょ?」
 豊条さんは僕の言葉を遮った。
「……ええ、そうですけど」
 答えて、そこで会話は終わる。終着駅について、電車がもうどこにも行かないみたいに。豊条さんはごく自然な様子で熱燗を口にした。僕もつられるように、グラスに口をつける。
 そのうち別の女子グループが豊条さんに話しかけてきたので、僕はそれを潮にして席を立った。ついでに店員さんに尋ねて、トイレに向かう。
 僕が座敷に戻ったとき、中の様子に特に変わりはなかった。みんなが酒を飲んで、騒いで、笑っている。ごく一般的で、正常な飲み会の様相だった。
 ――でも僕はふと、志花のことを考えていた。
 彼女がこの景色の、どこかにでもいることはあるだろうか。誰かと談笑し、酩酊し、この場にいることを楽しむようなことが。
 おそらく、それは絶対にありえないことだった。転がり落ちる岩を山の頂上に押しあげる王が、ついにその頂に到達するみたいに。
 さっきの同期の男たちに呼ばれて、僕はその輪に加わった。一人の男が最近あったおかしな出来事を語って、みんなが声を上げて笑う。僕も、それはもちろん。
 夜は賑やかに、誰に気づかれることもなく更けていった。

「――悪いな、見舞いに来てもらって」
 尾瀬(おぜ)はそう、言葉ほどには申し訳なく思っていなさそうな声で言った。
 場所は、病室。四床ある大部屋で、僕はその窓際のところに座っていた。
 窓の外には、殺風景な街の風景が広がっている。大抵の風景画家なら、見向きもしないような代物だ。病院の玄関と灰色の駐車場があって、そこでは僕の乗ってきた車が、他人行儀な顔で待機していた。
 時刻は昼食が終わったところで、どのベッドもカーテンは開けっぱなしになっていた。病床は、すべて埋まっていた。病気という以外には共通項のない人間がこうして集まっているというのは、考えてみると何だか奇妙な感じではある。入口のほうのベッドにも、僕と同じような見舞い客がいた。
「たいしたことないのに、気を使わせちまったな」
 と尾瀬は言った。
「そう思って、手土産は持ってこなかったよ」
「じゃあ、それはまた今度頼むわ。フェラーリがいいな。快気祝いとかで」
 尾瀬はしれっとした顔で言う。
「快気祝いってのは確か、治ったほうがするんだぞ」
「そうなのか? まあ、細かいことは気にするなよ」
「気にしたほうがいいのか、気にしないほうがいいのか、どっちなんだ?」
 僕は尾瀬と同じように、適当にまぜっかえしておく。
 この男の名前は、尾瀬信吾(おぜしんご)という。いかにも融通の利かない、頑固そうな名前だ。何しろ、吾を信ず、だ。そしてそのことには、大抵の人間が同意する。少なくとも、直接会ったことのある人間なら、大抵は。
 台風が来てもびくともしない風見鶏を思わせるような、まっすぐ前を向いた目。人並みはずれたというほどではないにしろ、がっしりした体躯。全体的に、人とは違う、何か特別な材質ででも作られているような男だった。
 僕と尾瀬は高校の頃からの友達で、ちょっとした因縁もあって親しくしていた。ただし、クラスや部活がいっしょだったことはない。この男は高校時代、主にバレー部に所属していた。主に、というのはほかにも野球やらバスケやらにも手を出していたからだ。運動神経がよくて、やりたいと思ったことには何にでも挑戦する性格だった。何となく、キマイラ的な感じがしないでもない。
 そしてそんな男が大学卒業後についたのは、工業デザインという仕事だった。何故かは知らないけど、ウィリアム・モリスの作品に感激してのことらしい。節操がない、ということに関しては節操のある男だった。
「しかし、俺もどうかしてるよな。足を折っちまうなんて」
 尾瀬は不意に、しみじみと言った。
 ベッドの上に横たわる尾瀬は、右足にギプスをして吊りさげていた。よくある光景だけど、一口に骨折といってもいろいろと種類がある。
 単純骨折ならギプスで固定するだけで大抵はすぐに帰れるけど、尾瀬の場合は金属で骨を接合しているので、まずその手術で入院しなくてはならない。それに治ってからも、金属を抜く場合はまた手術をしなくてはならないし、痛みがなくなって完全に運動能力を回復するまでには、かなりの時間が必要になるはずだった。
 それでも本人が言うように、重傷というほどのものではない。一週間程度で退院できるし、たぶん元通りの生活がおくれるようになるだろう。とはいえ――
「何で、足なんて折ったんだ?」
 事前におおまかなところは聞いていたのだけど、僕は一応訊いてみた。
 話によると、尾瀬は公園にある遊具のデザインを任されたらしい。何とかプロジェクトの一環ということだったけど、ともかく新人の尾瀬としては一路勇躍して奮起すべきところだった。
「いや、俺も迂闊だったんだがな」
 と、尾瀬は苦笑するように言った。
 遊具をデザインした尾瀬は、さっそくその試作品を作ってもらった。何でも、楽器をモチーフにした遊具だったらしい。実物は見ていないので、僕には説明できない。実物を見ていても、怪しいところだ。その遊具を実際に使用しているときに、尾瀬は足を折ったのだという。
「欠陥品じゃないのか、それ」
 僕は未来の子供たちのために憂慮しながら言った。
「俺としても安全面には気を配ったんだがな」
 と尾瀬は反省するような声で言った。
「頂上からバク転で飛び降りたら、着地に失敗して折っちまったんだよ。骨の折れる音ってのは、はじめて聞いたけどな」
 そりゃ折れるだろう、と僕は心の中で嘆息する。
「それは、どういう使用法を想定しているんだ。子供がそんなことすると思うのか?」
「しないとはかぎらないだろう」
 尾瀬は至極まじめな顔で言った。
「製品てのは、すべからくそういうものだ。使用者が設計者の思ったとおりに行動してくれればいいが、なかなかそうはいかない。使いかたが一目でわかるのが理想だが、それは難しいところだ。だからこそ、安全面・機能面でのデザインが必要になる」
「…………」
 まるで名言でも吐いているような雰囲気だけど、それでもバク転はしないだろう。
 僕たちがそんなことを話していると、病室に新しく人がやって来た。その人はまっすぐこちらに向かってくる。
「ああ、尚(ひさし)くん来てたんだ」
 その人は、女性だった。というか、もっと便利で俗っぽい言葉を使うなら、尾瀬の嫁さん≠ニいうことになる。
 彼女の名前は、副崎雅(そえざきみやび)といった。もちろん旧姓が、だ。
 尾瀬と僕にまつわる因縁というのは、彼女に関するものだった。いささか野暮ったくはあるけれど、僕は例の太陽の神より強い弓を持った子供の役を仰せつかったのだ。
 高校時代、雅は僕や志花と同じ文芸部に属していた。尾瀬がどうやって雅のことを知ったのかは謎だけど、そのあとで僕に話しかけてきた理由は明白だった。つまり、僕に恋の仲介役になって欲しい、というのだ。
 かなりバカバカしくはあったけど、僕は結局それを引き受けた。尾瀬信吾というのは、そういう男なのである。
 はじめ、雅は尾瀬のことになんて目もくれなかった。月桂樹にこそならないけれど、どこかの美しいニンフみたいに。何しろ尾瀬というのは、か弱い乙女が影ながら恋慕うようなタイプの男ではなかったのだ。
 ところが、尾瀬は諦めなかった。断わられても、ことあるごとに雅に言いよった。つまり、そのたびごとに僕が呼びだされた。
 それはうんざりするようなことではあったけど、同時に何か心動かされることでもあった。僕は次第に、尾瀬のことを応援しはじめていた。それが応援なのか、不毛なやりとりに対する諦念なのかはわからなかったけれど。
 それで結局どうなったかというと、僕が目の前で見ているとおりのことになった。三年という月日はいささか長すぎるような気もするけど、卒業前に二人はつきあいはじめた。
 かくのごとく想像以上に一途な男なのだ、尾瀬というのは。そして自分の望んだことは、必ず実現させる男でもあった。それが三十八万キロ離れた月に行って、帰ってくるようなことだったとしても。
「ごめんね、うちの旦那がこんなことになったばっかりに」
 雅は缶ジュースを尾瀬に手渡しながら、にっこりと笑った。どうやら、そのジュースを買いにいくために席を外していたらしい。
 ずいぶん時間はたっていたけれど、雅の笑顔には高校時代と同じものがあった。春の日に、青空の下でたんぽぽの綿毛をふっと飛ばすような、自由で柔らかな雰囲気だ。それは、いかなる批判からも埒外にあるような、そんな笑顔だった。自然な強さと弱さが併存しているような、そんな。
 雅は尾瀬とは対照的な、どちらかというおっとりしたタイプの人間だった。ショートボブに、普段着らしいカーディガンを着た格好は、良くも悪くも飾っていない。その辺に咲いている、野の花みたいに。
「申し訳ない、非常に反省しております」
 尾瀬は僕の時とは打って変わった、ひどく神妙な顔つきで言った。
「本当だよね、こんな時期に入院だなんて。右足のほうも空気が読めないっていうのかな」
 雅はおかしそうに笑いながら、ベッドの脇にあったイスに座った。その動作は心持ち、慎重なものだった。
 僕はあらためて、雅の姿を眺めた。
 神様がよこした例の不吉な箱と同じく、その外見をいくら眺めてもわかりはしなかったけど、雅は妊娠していた。いわゆる、二ヶ月目というやつ。誕生から四週間が過ぎて、エコーで胎児の心臓が確認できる時期だった。そして、妊娠中では一番危険な時期でもある。
「調子はどんな感じ?」
 と、僕はあまり深刻には聞こえないようにして訊いた。
「まあ悪阻っぽいのもあるし、頬がちょっと赤くなったりもしてるけどね」
 そう言われて、僕ははじめて気づいた。確かに、雅の頬はほんのり赤くなっている。
「――でも、人生ってそういうものでしょ?」
 と、雅はおどけた仕草で肩をすくめた。
「何でもかんでもうまくいくわけじゃないし、何でもかんでもひどいことになるわけでもない。心の持ちかた次第で、愛しくも、憎らしくも思える」
 雅はそう、強がりにでも、不安げにでもなく言った。
「それに私の体は、もう準備ができている。心のほうは、これから何とかしていくつもり。でも、大丈夫。すべては大丈夫なように出来ているから――」
 それから僕たちは、近況報告やら最近の出来事やらについて話をした。時間がたって、そろそろ帰ろうかという頃、僕は一冊の本を取りだして尾瀬に渡した。
「何だ、これ?」
「この前、古本屋で苦労して見つけたものだ。お前にやるよ」
「――『フェルマーの最終定理』?」
 尾瀬は題名を口にした。
「いい本だよ。残念ながら、余白が少なすぎて説明はしてやれないけどな」
「よくわからないが、感謝しとくよ。時間のほうならたっぷりあるからな」
 尾瀬は尾瀬なりの丁重さで言った。まあこれを読んでも、さすがに数学者になりたいとは思わないだろうけれど。
 本のことで連想したのか、雅はふと思いついたみたいに訊いた。
「……そういえば、志花はどうしてる?」
 尾瀬も雅も、県内ではあるけど地元からは離れた場所で暮らしている。デザイナーとして仕事をしていきたかったら、小さな田舎町で隠居しているわけにはいかないのだ。
「まあ元気にはしてるよ、一応。骨も折ってないし」
 僕はやや曖昧な言いかたをした。
「そっちに戻ってるんでしょ。今、何をしてるの?」
 と、雅は当然の質問をする。
「――夜中に短いバイトをして、それから小説を書いてる」
 僕は正直に答えた。
「志花、まだ書いてるんだ」
 雅はちょっと驚いたように言った。どちらかというと、素直に感心している様子だ。
「高校で会う前から書いてるんだもんね……何だか、懐かしいな。今は、どんなもの書いてるのかな? 昔から、私たちなんかより本格的な作品をつくってたものね。うん、懐かしいな――」
 残念ながら、それは志花にとっては現在進行形の話ではあったけれど。
「まあ何にしろ、志花には文才があるから大丈夫だよね」
 と、雅は無邪気そうな口調で言った。
「……そう願いたいけどね」
 僕はあまり気のりしないまま、そう答えた。

 志花の好物は、チョコレートである。
 それは彼女にとって、精神と肉体に関する大いなる滋養の一つだった。地球がその安定のために、常に太陽の存在とその光を必要としているみたいに、志花はその魂のためにぜひともそれを必要としていた。
 何しろ、彼女は朝食どころかしょっちゅう昼食まで抜いていたから、栄養源にはいつも不足していた。彼女がまがりなりにも活動していられるのは、夕食だけはきちんと摂っているのと、チョコレートという代替物のおかげだった。それに本人に言わせると、チョコレートは「精神をまともに保っているのに必要なもの」なのだそうだ。
 僕は差し入れのチョコレートを持って、志花の家に向かった。時々、様子見もかねてそんなふうに遊びにいくことがある。ついでに、何か本でも借りていくつもりだった。
 差し入れといっても、持っていくのはごく普通の市販品だった。その辺のスーパーやコンビニで買えるような代物だ。彼女にとって必要なのは、質よりも主に量だった。本を買うときにも、そうであるみたいに。
 いつものように車一台分の細い道を通って、彼女の家に向かう。今日はどちらかというと、秋っぽい天気だった。何かがひっそりと終わりつつあるような、そんな気配がある。
 到着すると、僕はいつものように自宅前のガレージに車をとめさせてもらった。スーパーの袋を持って、玄関のほうに歩いていく。庭の様子が何か違うな、と思っていたら、木が一本丸裸に剪定されていた。
 僕は玄関の扉を開けて、声をかける。
 足音がして、志花が出てくるのかと思ったら、違っていた。それは彼女の母親である、芦本衣枝(あしもときぬえ)さんだった。
「あらあら、尚くんいらっしゃい」
 衣枝さんは、娘のほうとは似ても似つかない朗らかさで言った。
「志花はいますか?」
 僕は特に気にせず訊いた。志花の母親とは顔見知りだったし、別に僕は大地母神の娘を攫いにきた冥府の神というわけじゃない。
「それが、今ちょっと買い物に出てるのよ」
 衣枝さんは困ったように言う。
「買い物?」
「夕飯の買いだしにね。晩ご飯を作るのは、あの子の仕事だから」
「……そうですか」
 と言って、僕は少し考えた。なら出直すか、荷物だけ渡して帰ったほうがいいかもしれない。喫緊の用事があるというわけでもないのだ。
 そう思って僕が口を開こうとすると、衣枝さんのほうが機先を制するみたいにしてしゃべっていた。
「買い物っていっても、そう時間はかからないから、しばらくお茶でも飲んで待っていればどうかしら?」
 そう言う衣枝さんの顔には、童女のように無邪気な笑顔が浮かんでいた。
 衣枝さんのその微笑みは、大抵の人間なら無視できない種類のものだった。冬の寒い日に、人々が自然と暖炉のまわりに集まってくるみたいに。僕は時々、それがちょっとした兵器なんじゃないかと思えることがある。
 この前も、僕は同じようにして衣枝さんにお茶をごちそうになることになった。その時に聞かされたのは、こんな話だった。
「――キノコバエは、卵を作らずに幼虫が幼虫を生むって、知ってた?」
 衣枝さんは上品な仕草でお茶を飲みながら、そう言った。
 もちろん、僕はそんなことは知らない。そう伝えると、衣枝さんは音楽家が曲のテンポを守るみたいにして、慌てず急がず、かといってもったいぶりもせずにこんな話をしてくれた。
 衣枝さんの話によると、キノコバエは文字通りキノコを餌にするハエの一種だそうだ。このキノコバエは、通常なら多くの昆虫と同じような成長過程をたどるのだけど、十分な餌があった場合のみ、その生活史は激変する。
 つまり、生まれた幼虫は成虫になる前に幼虫を生みはじめる。それも、最終的に母親はその子供たちに肉体を内側から食い尽くされてしまう。餌の不足が起こらなければ、この宿業は永遠に繰り返されることになる。
 かなりぞっとする話ではあるけど、これは不安定な食糧源に対しての適応的な進化といえるのだそうだ。こういう種をr戦略者と呼ぶのだそうだけど、人間がそうでなくてよかったとは思う。
 どうして衣枝さんがこんな話を知っていたのかはわからない。ちょっと、謎の多い人なのだ。テレビか何かで見たか、誰かに聞いたのだろうとは思う。衣枝さんは、志花のようには本を読むタイプではなかったからだ。
 ――何にせよ今回もやはり、僕はその誘いを断わりきれなかった。そんなのは、憐れな詩人の妻を冥界から無事に連れ戻すようなものなのだ。
 僕は居間に案内されて、そこのテーブルの前に座った。最近リフォームしたという室内は、まだ動きはじめたばかりの時計みたいに新品だった。アイランド型になったキッチンの向こう側で、衣枝さんはお湯を沸かしたり、お茶の準備をしたりしている。
 やがて紅茶とクッキーが一皿、僕の前に置かれた。何となく、空気にきれいな色がついたみたいな香りがする。衣枝さんは同じように紅茶だけを用意して、僕の向かい側に座った。
 衣枝さんは、志花とはあまり似ていない。
 いや、もちろん顔とか目の感じとかは似ているのだけど、雰囲気は全然違っている。志花を深海魚とすると、母親のほうは熱帯魚だった。棲んでいる海の深さが違う。共通点といえば、二人ともわりとやせているということくらい。
 僕は紅茶にちょっと口をつけてから、質問してみた。
「さっき、志花が夕飯を買いに出かけてるって言ってたのは?」
「ああ、それね」
 衣枝さんはまるで、僕が気の利いたことでも言ったみたいに笑う。
「あの子、私が作る料理が雑だって言うのよ。切りかたとか、具材の大きさとかがね。だから晩だけは自分が作るって」
「志花に料理なんてできるんですか?」
 正直なところ、僕にはその場面がうまく想像できなかった。
「あら、けっこうおいしく作るのよ、あの子……性格のせいかしらね?」
 志花にはああ見えて、かなり几帳面なところがある。勘だって、悪くない。レシピがあれば、かなり正確にそれを再現することはできるだろう。
「買い物も自分で? でも志花は、自動車は使いませんよね」
 僕は訊いた。
「近くにスーパーがあるから、そこまで自転車で行ってるのよ。近くっていっても、こんなところだから一キロくらいはあるのだけど。あとは私もそれとは別に買い物に行くから、足りないものはないわね。あの子、私が買ってくると量が違うとか、これじゃないとか言って怒るんだけど」
 何となく、それは想像ができた。
 僕は一言断わってから、クッキーを口に入れた。たぶん手作りなのだろうけど、けっこう本格的な味がした。もしかしたら、これも志花が作ったんだろうか。
「仕事は必要でしょ?」
 カップを両手で持ちながら、衣枝さんは言った。
 不意に言われたので、僕は一瞬その言葉の意味がわからない。難しい数式でも、見せられたみたいに。一応、それが志花のやっている夕飯の仕度のことなのだろうとはわかる。
 でも、衣枝さんの言葉が何を含意しているのかはわからなかった。僕は曖昧にうなずいておく。
 衣枝さんは紅茶を一口飲んでから、言った。
「することがないっていうのは、一種の悲劇だと思わない? ある意味でそれは、存在しないのと同じなのよ。そりゃ、あの子は小説を書いてる。したいことをしてる。でもそれは誰に頼まれたわけでも、誰かに必要とされてるわけでもない。それは仕事とは違うのよ」
 衣枝さんは小さな音を立てて、カップを皿に戻した。
「誰かのため、自分以外のもののために何かをするっていうのは、結局のところ人間にとって必要なことなんでしょうね。この世界に自分だけで存在するっていうのは、しんどいことなのよ、実際。人は自分で自分を支え続けるようには出来ていない。きっと私たちの魂には、重力よりずっと強い力が働いてるんでしょうね。普通の人間には、そんなことは耐えられない。そんな場所では立ち続けていられない。でもあの子が今やってるのは、そういうことでしょ――」
 僕は衣枝さんの言葉を、静かに聞き続けた。部屋の中を照らす太陽の光は、ほんの少しだけその密度を変えていた。太陽はいつだって、僕たちのことなんて無関心に、定められたその運行を続けるだけだった。
「衣枝さんとしては、志花には何か仕事に就いてもらいたいと思ってるんですか?」
 僕は訊いてみた。
「そうね、そのほうが望ましいでしょうね」
 衣枝さんはごく落ち着いた声で言った。
「じゃあ、どうしてそうしないんですか?」
 訊くと、衣枝さんは少し笑うような、少し悲しむような、そんな顔をした。
「あの子にとって、それは難しいでしょうね」
「難しい?」
「――あの子はね、理解できないことはしたくないのよ」
 衣枝さんはちょっと迷うようにして言った。
「自分で正しいと思えないことには、手を出すことができない。すべてを理解したうえでないと、答えが出せない。失敗するのが嫌だ、と言ってしまえばそれまでだけど、たぶん本当はもっと複雑なことなんでしょうね。ある意味では良心的だし、ある意味ではナイーブすぎる。時間も、世の中も、答えが出るまで待ってくれるわけではないから。たぶんそれは、私にも責任があることなのだけど」
 言葉が終わってから、僕は小さく首を振った。
「でも、それこそ悲劇みたいなものですよ。もしも答えがなければ、志花はずっとこのままってことになります」
「……あなたは、どう思う?」
 衣枝さんは不意に訊いてきた。
「あの子は、本当はどうすべきなのか」
 僕は口を閉じて、意味もなく紅茶の表面を見つめた。そこには琥珀色に色づいた世界が反射しているだけで、もちろん答えなんてどこにも記されてはいない。
「志花がこのままでどうなるかは、わかりません。どうあるべきなのかも」
 と、僕はやや吶々と語った。
「でも、彼女が何を求めているのかは知っています。そのために小説を、小説みたいなものを書いているんだということも。彼女の求めているのは、ささやかなものです。本当にささやかなのに、何故かこの世界ではそれを得るのが難しいもの。でも彼女が求めているのは、それなんです。書こうとしているのは、それだけなんです。例え自分以外の人間が、そんなものには見向きもせず、それを求めてはいないのだとしても」
 僕はそこまで言ってから、何だか急に混乱してしまった。自分がひどく見当違いのことをしゃべっているようにも思えたし、内容も支離滅裂な気がした。こんな言葉しか出てこないのなら、口にするべきじゃなかったのかもしれない――
 けれど、衣枝さんは否定も迷惑がりもせずに、僕の言うことを聞いてくれた。そしてごく穏やかな声で言ってくれる。たぶん、感謝のようなものさえ込めて。
「私には、あの子の何もかもがわかるわけじゃない。だからきっと、あなたのほうがあの子のことを深く理解してくれているところがあると思うの。そしてあの子は、それを必要としている」
 衣枝さんはにこっと笑った。花の蕾があったら、つられて開いてしまいそうなくらいに。その笑顔はやっぱり、志花とは似ても似つかない。
「あの子は私には何も言わないし、たぶん言えないんでしょうね。私には言っても仕方のないことだから」
 ほんの少しだけ寂しそうに、衣枝さんは言う。「誰にでも好きにしゃべる、っていうわけじゃないのよ、志花は」
「……何となく、わかります」
 僕はうなずいてみせた。
 それから、衣枝さんはどこか満足したような顔で言った。
「――できれば、これからもあの子の友達でいてね、尚くん」

 定時になったので帰り仕度をしていると、豊条さんに声をかけられた。
「――どう、調子は?」
 どうやらそれは、この前の飲み会の挨拶を茶化してのものらしい。
「悪くないですよ、もちろん。これから頭のたくさんある蛇を退治に行く、というほどじゃないですけど」
 僕は貴重な保管庫の中にしまってあるうちでも、できるだけ見栄えのいい笑顔を浮かべた。
 豊条さんはすでに帰り仕度は終えているらしく、机の上もすっかり片づいていた。ほかの部署ではまだ何人かが残って、残務処理にあたっていた。一体、豊条さんが僕に何の用があるのかは、不明。
「ちょっと話があるんだけど、かまわないかしら?」
 豊条さんは、勤務時と特に変わらない口調で言った。
 その様子からは、やはり何の用事があるのか判断はできなかったけど、僕は机を片づけてしまいながら言った。
「もちろん、恋の相談ならいつでものりますよ」
 豊条さんはややきょとんとした顔をしたけど、微苦笑よりは指一本ぶんだけ好意的な笑顔を浮かべた。
「君にそんなユーモアがあったとは知らなかったわね」
「ユーモアのある後輩は嫌いですか?」
 今度は、豊条さんはちょっと肩をすくめただけだった。どうやら、豊条さんにとってユーモアは人生の必要条件ではないらしい。あるいは、僕の発言がユーモアの必要条件を満たしていないか、だった――後者の可能性が高い。
「話はすぐに終わるから、駐車場まで歩きながらにしましょう」
 言われて、僕はうなずく。これ以上余計なことを口にして、ロバの耳に変えられたりはしたくなかった。
 僕たちは連れだって、市役所の裏口に向かう。どこの部署も仕事の片づけに追われて、その辺を象が歩いていても気にしないくらいの慌ただしさがあった。廊下で同じように退勤途中の職員とすれ違って、挨拶をかわす。
 裏口から外に出ると、まだ青空があって明るかったけど、そこには日暮れの気配が含まれていた。音の響きはどこか遠く、光には目に見えない翳りが滲んでいる。この時間になると、空気は急に冷たくなっていった。
 駐車場は道路の反対側にあるので、横断歩道のところに向かう。僕も豊条さんも、コートを着ていた。歩行者用の信号は、いかにも機械的な態度で赤を示している。
「昼間、彼女が来てたわよ」
 不意に、豊条さんは言った。
 僕はちょっとぼんやりしていて、豊条さんの言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「……彼女、ですか?」
「時々、来てた子。君のことを訪ねて」
 考えるまでもなく、それは志花のことだろう。
 昼間、僕は所用でちょっと席を外していた。反古紙を隣町のごみ処理場まで運ぶ、というそれだけのことだけど、どうやらそのあいだに志花が訪ねてきたらしい。
「何の用だか言ってましたか?」
 僕は訊いてみた。
「さあ、それは聞かなかったわね。伝言しておこうかって言ったんだけど、それはいいからっていう話だったし」
 志花が一体何の用でやってきたのか、僕はちょっと考えてみた。本の補給は、しばらくは大丈夫だろう。古本屋にはこの前行ったばかりだから。かといって、ただの雑談をするために職場を訪ねてくる、というのは考えにくかった。むしろ、そういうことは過度に遠慮するほうなのだ。
 だとしたら、一体――
 そんなことを逡巡していると、僕はふと豊条さんの視線に気づいた。
「つかぬことを聞くみたいだけど、あの子って君の彼女?」
 豊条さんは珍しく、ちょっとからかうような微笑を浮かべている。
 けれど僕は、ほとんど間を置かずに答えた。特に迷いも、衒いもなく。
「たぶん、違いますね」
「そう?」
「志花は……志花ですから」
 ふうん、と豊条さんは納得したような、まだ疑義が残るような、そんな顔をしている。
「でも、なかなか可愛らしい娘さんじゃないかしら?」
 と、豊条さんは続けて言った。
「志花が、ですか?」
 僕はちょっと変な顔をして訊き返す。
「そうよ、そう思わない?」
 重ねて訊かれたので、僕はあらためて志花のことを考えてみる。記憶の底が裏返るくらい探っても、志花に「可愛らしい」という要素は見つからなかった。ほかの要素に関してなら、余計なくらいにあるのだけど。
「なかなか母性本能をくすぐられるわよ、あの感じは」
 豊条さんは、僕の凡俗な意見など求めても仕方がないと思ったのか、自分でそう言った。
「隠しきれない弱さみたいなのが滲みだしていて、つい放っておけなくなっちゃうんでしょうね。傷ついた小鳥とか、雨に濡れた猫とか、そういうのを保護したくなるみたいに」
 そう言われて、僕は志花が一人で市役所に来ている姿を想像してみた。
 ――彼女には、そういうところがある。
 自分の領域外のことや、知識外のことについては、極端に臆病になるところが。いわゆる引っこみ思案というやつなのだけど、志花の場合は少し違っている気がする。彼女にとってそれはどちらかというと、人として正常な反応なのだ。それが、望ましくすらある。
 つまり志花にとっては、僕たちみたいな「普通の人間」のほうがおかしいということになるのだった。宇宙人から見たときに、地球人が奇妙な習慣を持っていることや、不合理な肉体をしていることと同じで。彼女はいまだに、他人のことをよく理解できずにいる。
 いずれにせよ、現実としてそれは、志花に借りてきた猫みたいな態度をとらせる。それが結果として、豊条さんみたいな感想にもつながるのだろう。
 信号が変わって、僕たちは前に進んだ。
 駐車場はすぐそこで、とめてある車の位置は離れている。だから入口のところで、僕たちは別れることになるだろう。そう思っていたら、豊条さんは立ちどまって、僕のほうを振りむいて言った。
「あの子、高藤(たかふじ)くんがこの前の飲み会で話してた子でしょ?」
 不意に言われたので、僕は一瞬返答に窮してしまう。
「……ええ、そうですけど」
 僕は辛うじて、そう答えた。
 それから、僕と豊条さんのあいだで妙な間があく。例の半神の英雄が、巨人の代わりに無理をして天空を支えているような間だった。僕は空が落ちてこないうちに、質問した。
「豊条さんは、志花のことをどう思いましたか?」
 訊くと、豊条さんはちょっと空を見上げてから答えた。空はゆっくりと、静かに、その重さを変えつつある。
「たぶん、彼女は世界をきれいなままにしておきたいのよ」
「……何か話したんですか?」
 僕は訊いてみる。
「ううん」
 と、豊条さんはごく簡単に首を振った。
「でもね、すぐにわかるわよ、そのくらい――わかっちゃうのよ」
 豊条さんの言葉は、それだけだった。空はもう、正当な担ぎ手の肩に戻っていた。夕暮れの気配は、いっそう濃くなりつつある。
 それから、僕と豊条さんは別れて、それぞれの家に帰っていった。
 運転する必要があるのか疑問になるくらいの距離を移動して、アパートに戻る。僕は一人暮らしの寒々しいドアの音を聞きながら、部屋に入ってテレビのスイッチをつけた。便利な機械の箱からは、今日もカラフルな音があふれている。
 でも豊条さんの口にした言葉は、もう固まってしまったセメントみたいに、いつまでも僕の中に残り続けていた。

 念のために志花に確認してみると、用事というのは美術館にいくことだった。それでてっきり、車の必要な遠くに行くのだと思ったら、市内にある美術館だという。それは本来なら、志花にとっては自転車での移動範囲だった。
 ちょっと妙だとは思ったけど、僕としては否やはない。地元の美術館とはいえ、久しく訪ねたことはなかった。たまには、郷土愛に敬意を払うことも必要だろう。
 それですぐ次の休日に、僕はいつものごとく志花を迎えにいった。彼女はほとんどいつも通りの格好だったけど、上着の選択には多少の気遣いが感じられないでもない。何にせよ、彼女が馬鹿にでも見える服を着ているのは幸いだった。
 僕たちは車に乗り込むと、さっそく出発した。目的地はわかっているし、手作りサンドイッチの入ったピクニック用のバスケットや、火口に放り込まなければならい厄介な指輪を持ってるわけでもない。簡単なものだった。
 移動中もそうだったけど、志花の様子はいつもと少し違っていた。不機嫌そうなところや、何かに怒っているような感じがしない。どちらかというとぼんやりしているというか、何もかもに無関心そうな表情をしていた。落ち着いている、というのとは少し違って。
 高架橋を渡り、平べったい干拓地に作られた市街地に入って、そこから少し細い道に入る。美術館は特にもったいぶった様子もなく、住宅地のあいだに建てられていた。特徴的な柱や、凝った破風があるわけでもない。建物は市立図書館の横にあって、駐車場はどちらを利用してもかまわないようになっていた。
 僕は図書館の裏にまわって、白いワゴン車の隣にとめた。駐車場は半分くらいが埋まっていた。市役所の職員としては、公共施設の利用率について多少の思考を巡らせないでもない。
 今日はわりと秋らしい日で、空気には冷えびえとしたところがあった。車から降りると、まるで待ちかまえたみたいに冷気が忍びよってくる。体を震わせたり、息を白くしたりするほどではないけれど、季節の終わりを確実に予感させる空気だった。
 僕と志花は図書館の建物をぐるっとまわって、美術館のほうに向かう。
 余談、というわけではないけれど、志花は本を読むわりには借りるということはあまりしない。本の供給はもっぱら、古本屋に頼っているのが現状だった。どうしてなのかは、よくわからない。抱卵中の鳥が巣からじっと動かないみたいに、自分で読んだ本が手許にないと不安なのかもしれない。
 いったん通りに出て、そこから入口へ向かう。美術館は全体が塀に囲まれていて、敷地内に見えるのは木立が何本かくらいのものだった。平屋の建物をうかがうことはできない。ごく控えめに表現しても、地味な美術館だった。
 この美術館は、「名前のない美術館」という名前をしている。ひどく哲学的な名称だった。名前があるのか、ないのか、わからない。例の嘘つきなクレタ人と同じで。
 何でそんな不思議の国のアリス的な名前なのかというと、それは収蔵品と関係している。ここは元々、大正時代の実業家のコレクションを母体にしているのだけど、それらの収集品にはある特徴があった。すべて、作者不詳なのである。
 その人は家具の貿易で一身代を築いたという話だけど、一風変わった人物だったらしい。何か、ややこしい幼少期を送ったのかもしれない。その実業家が管理財団をつけて市に寄贈したのが、この「名前のない美術館」というわけだった。
 塀の途切れたところに、入館口があった。僕たちは自動ドアを開けて中に入る。暖房はまだつけられていなかったけれど、中の空気は屋外ほどの冷たさはなく、ちょうどいいくらいの温度だった。
 受付けには女性の事務員が一人いるだけで、ほかに人影はなかった。僕たちが近づくと、中年くらいの女性は今ようやく気づいた、というふうに顔を上げた。進化論的に集約されたような、万国共通の間の取りかたである。
 でもその人は僕たちのほうを見ると、少しだけ「あら……?」という表情を浮かべた。僕たちというか、主に志花のほうを見て。
「こんにちは、また来ました」
 その反応を見て、志花のほうが先に挨拶する。
「ええ、ようこそいらっしゃいました」
 その人は事務的なものより、いくぶんか好意的な笑顔を浮かべてお辞儀をする。どうやら、二人は顔見知りらしい。
「何だ、知りあいなのか」
 僕はとりあえず志花のほうを向いて、そう言った。
「まあね」
 と、志花は簡単に言う。
「そんなに何回も来てるのか?」
 僕が訊くと、それに答えたのは受付けの女性のほうだった。
「いえ、そういうわけでもないんですけど、何となく私のほうで覚えてしまっていて。それでつい、馴れなれしくしちゃってるだけなんです。すみません、本当に」
 屈託のない言葉に、志花は「気にしないでください」と言って首を振る。とりあえず、志花がここの常連であることは確かなようだった。
 世間話をするほどのこともないので、僕たちはさっそく入館料を払って中に入ることにする。ここは今回の主唱者が料金を負担すべきかと思ったけど、どうやら違うらしい。
「……俺が払えって?」
 割り勘ですらないらしい。人の生肉を要求するどこかのごうつくなユダヤ人か、こいつは。
「まあ、そういうこと」
 志花は悪びれもせずに言った。
「何でだ?」
「そういう気分だから」
 何とも斬新な答えだった。
 それでも、僕は言われたとおりに二人ぶんの入館料を払う。そのうち、海で釣ったヒラメに向かって、皇帝になりたいとか何とかお願いするつもりなのかもしれない。入館料は特に高いわけでもないので、気にするほどでもなかったけれど。
 受付け女性のお辞儀に見送られて展示室に入ると、中はしんとして人影はどこにも見あたらなかった。市の収支報告によると、確か一日平均で六十人くらいの来館者がいるはずだったけど、ほかの人間の姿は影も形も見えない。たまたまそういう時間帯なのか、僕たち以外の人間が急に透明になってしまったのかは不明である。
 美術館は円形の作りになっていて、漆喰を塗ったような白い壁と廊下が、一定のカーブを描いて続いていた。円の外周にあたる壁はガラス張りになっていて、塀に囲まれた小さな庭に面している。
 その光景を見て、僕は前に一度、ここを訪れたときのことを思いだしていた。あれは確か高校時代のことで、今と同じように志花といっしょだったはずだ。その記憶は保存状態の悪い写真みたいにはっきりしなかったけれど、間違いないはずだった。
 ガラスの向こうにある狭い庭を眺めていると、今にも木々や地面を濡らして雨が降ってくるような気がした。
 正直なところそれが何故なのか、この時の僕にはまるでわかっていなかったのだけれど――

 廊下や壁面が円形になっていると書いたとおり、この建物はやや特殊な作りをしていた。
 館内は都合、四つの同心円で構成されている。さっきも言ったガラス張りの外周と、室内を区切る円状になった三つの壁。内壁はそれぞれが九十度ずつ切れめが入っていて、互いの切れめは半分ずつずれている。ちょっとした迷路みたいな作りではあったけど、少なくとも牛の頭をした怪物は棲んでいないはずだった。
 展示品は、彫刻、絵画、陶芸作品、ガラス作品、綴れ織り、版画といった雑多なものだったけど、すべてその作者の名前がわからないということでは共通している。もしかしたら、有名な芸術家の一品という可能性もなくはないだろうけれど、すべての品は厳正な鑑定を受けたうえで収蔵されているらしかった。
 僕たちは幾何学上の点にでもなったみたいに、円周にそって歩きながら美術品を鑑賞していく。
 無作法ではあるけど、ほかに来館者はいないらしいので、僕たちはけっこう好き勝手にしゃべりあった。美術品は自分たちの前で騒がれても、不当な評言を受けても、気にしたそぶりは見せなかった。たぶん、自分たちの本当の価値を知っているからだろう。
 彫刻の一つの前では、僕たちはこんなことを話しあった。それは例のラオコーン像みたいに苦悶の表情を浮かべた頭像で、全体に乳白色の蝋を被せてあった。そのせいで輪郭は曖昧で、沈殿した光を塗り固めたような感じがしている。
「何に苦しんでるんだろうな」
 僕は訊いてみた。
「さあ、奥さんの浮気とか、住宅ローンとか、そんなところじゃない?」
「……それは嫌だな」
「それよりこれって、何か白菜みたいに見えないかな?」
 言われると、そう見えてきてしまうところが厄介だった。
 次のガラス瓶は、昆虫をモチーフにした装飾が施され、自然石めいた色彩と質感をした美術品らしい一品だった。それに対する志花の感想は、「割れたらきれいな破片になりそうね」だった。製作者が聞いたら、泣いてしまうかもしれない。
 展示品の中には現代アートもあって、縦横一メートルくらいのカンバスに、乱雑そうな黒い線がやけに丁寧に描かれていた。実に現代アートらしい、意味不明の作品だった。
「題をつけるなら、何にする?」
 と、僕は訊いてみた。
「五線譜から逃げだして、自由と混沌を手に入れた音符たち」
 というのが、志花の答えだった。やはり、意味はわからない。
 そうして作品を見てまわるうち、僕たちは美術館の中心にたどり着いていた。世界の果てまで旅したわけじゃないにしろ、ずいぶん遠くまでやって来たような気がする。
 中心――つまり四つの円の真ん中は、空洞になって四角いソファが置かれているだけだった。周囲にある四つの壁には、絵画作品が一点ずつ配置されている。そこには空白の中心にでもやって来たような、奇妙な静寂が存在していた。
 志花は四つある絵のうち、一つの前に立った。その様子からすると、どうもこの場所にやって来た理由は、その絵を見るためだったらしいとわかる。
 僕も同じように、彼女の絵を眺めてみた。
 それは、少し古い時代のものらしい油彩画だった。画面全体に雨が降っていて、駅かどこかを遠くにとらえている。手前には若い女性の姿があって、熱心とも無関心ともいえない態度でそちらのほうを眺めていた。特に劇的なところも、特に感激するところもないような絵だった。そこにはただ、雨音より小さな、つぶやきにさえならなかった誰かの声が描かれているだけだった。
 でもその絵を見たとき、僕は部屋の中の明かりを点けられたみたいに、はっきりと思いだしていた。ずっと前、高校時代に志花とここにやって来たときにも、僕はまったく同じものを目にしていたのだ。
 ――僕はあらためて、志花のことを眺めてみた。
 彼女はまるで、金庫の中にでもしまっておいた大切な時間を使うみたいにして、その絵の前に立っていた。そこに永遠や、絶対や、世界の正しさがあるみたいに。彼女は真剣に、優しく、丁寧に、いささかの過不足もなく、一番短い距離でその絵と向きあっていた。
 ああ、そうだ――
 僕はまるで、星に願いをかける子供でも目にしたみたいにして思った。
 高校の時からずっと、彼女はそこにいる。その絵の前に。いや、もっとずっと前、その絵を直接目にするときよりも、ずっと前から。たぶん彼女が、何かを書きたいと思ったその時から。
 志花は微動もせず、その絵を眺めていた。まるでコップの中にきれいな水でも注いでいるかのように。そして何か、大切な告白でもするみたいにして言った。
「こういうものを、残せたらいいなって思わない?」
 僕は前を向いて、答えた。
「――ああ、思うよ」

 廻廊を通って外周に戻ると、僕たちはそこにあった休憩用のソファに腰を下ろした。病院の待合室にあるような、黒いビニール張りの簡素な代物だった。残念ながら、市の予算は限られているのだ。
 相変わらず人影はなく、空気はしんとして、誰かが念入りに掃除でもしたみたいだった。じっと耳を澄ませば、時間の軋みでも聞こえてきそうである。
 僕も志花も、しばらく何も言わなかった。少し歩き疲れていたし、心の水位みたいなものをゆっくり元に戻す必要もあった。ガラスの向こうでは、特に急ぎも焦りもせずに、世界が変化し続けていた。
「時々、思うのよ。何やってるんだろう、わたしって」
 志花は不意に、雨粒が一つだけ落ちてきたみたいにして言った。
「――うん」
 僕は聞いている、ということだけを示して、先をうながす。志花は形のないため息みたいなものをつきながら、言った。
「わたしのやってることなんて、本当に意味なんてない。誰かがそれを食べられるわけでも、誰かがそれを着られるわけでもない。誰も必要としてないし、誰の役にも立ってない。明日、わたしがいなくなっても、誰も困りはしない、誰も悲しみはしない」
「いや、そうでもない」
 僕は礼儀正しくというわけでもないにしろ、念のために口を挟んだ。
「何人かは悲しむよ、僕を含めて」
「それは、ありがとう」
 志花はにこりと微笑む。どちらかというと、礼儀正しく。
「…………」
 もちろん、志花の言うのがそういう意味ではないことは、僕にもわかっていた。彼女はもっと、現実的で、形而下的で、実際的なことを言っているのだ。
「何にしろ、わたしがいなくなっても天変地異は起きないし、国が一つ滅ぶわけでもないし、後世の人々が何かの記念日を作って祈りを捧げてくれるわけでもない」
 それは、同意せざるをえないだろう。世の中の大抵の人間は、そうだとしても。
「わたしはもっと、努力をすべきなのかな?」
 志花は言った。
「努力?」
 僕はそこに含まれているものをはっきりさせるために、訊いた。
「社会と交わるような努力。誰かを必要とするような、誰かに必要とされるような努力」
「……つまり、まともに働いて、まともに給料をもらって、まともに生活して、ということ?」
 こくん、と彼女はうなずく。
「早い話が、きちんと就職するってこと?」
「――まあ、そういうことだと思う」
 僕は志花のほうを見た。
 ぼんやりと足を投げだして座ったまま、彼女はどこか地面のほうを眺めていた。体を小さく揺すって、今にもそこから転げ落ちてしまいそうに見える。もしもそうなったら、王様の馬と家来をみんな集めても、元には戻せないだろう。
「それについては、何とも言えない。良いほうに作用するかもしれないし、悪いほうに作用するかもしれない。」
 僕は判断を保留した。
「でも、そういう経験も必要だって思わない?」
 志花は自信なさげに言う。
「――うん」
 少なくとも、僕には何とも言えなかった。山月記的な主題だ。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。多彩な人生経験は役には立つだろうけど、それが必要条件かどうかはわからない。ミステリ作家が毎回、殺人の実証実験をしているわけではない。
「わたしはただ、自分の書きたいと思ったことを書いているだけ」
 と、志花は聴罪師にでも告げるようにして言った。
「それは的外れなことや、独りよがりの言い訳でしかないのかもしれない。他人にとっては、何の価値もない、言われるまでもないような話。そしてわたしは、誰かが必要とするものや、誰かが読みたいと思えるようなものを書こうとしているわけじゃない。正直なところ、そうしようと思っても何も書けないの。ただの一文だって、頭の中から出てこなくなる。だって、わたしにわかるのは、わたしのことだけであって、他人のことなんかじゃない。他人がどんなふうにものを考えたり、何を欲しがっているのかなんてわからない」
 僕はただ、黙って耳を傾けていた。
「だからわたしは、自分の書いたものを誰かが読みたがるなんて想像もできない。……じゃあ、わたしのしてることって、何なんだろう? 自己満足のための、時間の浪費? 自分だけが安全な場所から世界を眺めているだけの、卑怯者の行為? でも――」
 彼女はまるで、自分自身を押し潰すみたいにして言った。
「わたしにはほかに、望むことなんてない」
 美術館の静けさには、何の変化もなかった。いくら願いをかけてみても、星が何の答えも返してこないのと同じで。世界はいつだって、僕たちに無関心だ。
「たぶん、わたしは間違ってる」
 志花はそっと、花でも摘むみたいな静かな声で言った。
「――でもその間違いを、わたしは愛しすぎてしまった」

 その日の夜、僕は尾瀬に電話をかけてみた。特に用事があったわけじゃない。錆びついた風見鶏でも、時々はその向きがどっちなのか気になるものだった。
「何だ、どうかしたのか?」
 電話の向こうで、脳天気そうな声が聞こえる。年間降水量の少ない、ひどく陽気な口調だった。
 さしあたって、僕は怪我の具合について訊いてみた。尾瀬の話によると、すでに退院して家で暮らしているという。ギプスと松葉杖の生活は、快適きわまりないそうだった。階段の上り下りはヒマラヤ登山なみに難しいし、風呂に入る手間も省くことができる。隔靴掻痒を文字通りに体験することもできるし、おまけに松葉杖という便利至極なアイテムも入手することができた(借りてすませることはできなかったらしい)。
 確認するまでもないことだったけど、尾瀬の天気はいつものごとく晴れだった。
 そんなことはスフィンクスの出してくるなぞなぞと同じくらいどうでもよかったにしろ、妊娠二ヶ月の雅のほうはどうかというと、こちらはそれなりに大変そうだった。とにかくいろいろと気を使うし、考えることもある。業務を簡単なものに変えてもらって仕事は続けていたけど、先のことをどうするかは決めていない。おまけに未来の父親は、不吉な予言でも実現するみたいに足の骨を折るしまつだった。
 そんな話が一段落してひとまず話題が尽きた頃、僕は何の気なしの口調で訊ねてみた。
「お前は、志花の書いたものを読んだことがあるか?」
「芦本の?」
 急に話題が変わって、尾瀬は枕に乗せていた頭の位置を変えるみたいにして言った。
「高校時代のことか?」
「ああ、そうだ」
 記憶を呼びだすための、短い時間が流れる。
「あるよ、中身はあまり覚えてないがな」
「――読んだとき、どんなふうに思った?」
 僕が訊くと、尾瀬は難しいパズルでも前にしたみたいに黙った。どこから手をつけるべきか、慎重に考えるような気配がある。
「一言でいうと、しんどくなるな」
 尾瀬は、やがて言った。
「俺はお前たちみたいには本を読む人種じゃないから、何とも言えないけどな。ただ俺の記憶にある印象では、そういうことになってる。雅の書いたものを読んだこともあるけど、それは大抵、バカらしいか、何だよこれって笑う程度のものなんだよな。俺なんかから見ても。けど芦本のやつは、しんどかったよ、何か。読みにくいとか、面白くないとか、そういうことじゃないんだ。でも何でだか、そういうふうに感じたんだよな」
 僕は電話のこちら側で、しばらく黙っていた。一人暮らしのアパートには、見覚えのない空白があちこちに澱んでいる。掃除の行きとどかない家に、埃がたまっていくみたいに。
「どうかしたのか?」
 尾瀬は電話の向こうで、明るさの変わらない声を出した。
「いや、何でもない」
 僕はちょっと目をつむってから、そう答える。
 病院で貸した本のことについて訊ねると、非常に面白かった、ということだった。それはよかった、と僕は言って、同じ著者の書いた別の本も薦めた。
 ――読むべき本があるというのは、いいことだった。

 高校時代の志花について、僕は多くを知っているわけじゃない。
 前にも言ったとおり、僕と彼女はクラスが別々だった。同じ文芸部ではあったけど、三年間、彼女の教室での姿は見たことがない。
 でもそれは、簡単に想像できる種類のものだった。
 第一に、部室にいるときですら、彼女はまわりとは馴じんでいなかった。ほとんど個人的な話もしないし、無駄口もきかない。暴力的だとか、完全に無関心とかいうのじゃない。そうだとしたら、問題はもっとずっと簡単だったろう。
 彼女はただ、どうしていいのかわからないだけだった。姿も言葉も違う、火星人たちがまわりにいるみたいに。
 何かを訊かれれば礼儀正しく答えるし、仕事があれば文句も言わずに参加する。反抗的な態度も、慇懃無礼な口のききかたも、批判的で皮肉っぽいそぶりを見せることもない。少なくとも、よく知らない人間の前では――
 彼女はほとんどの時間を一人ですごしていた。そうしている時だけが唯一、心穏やかでいられるみたいだった。彼女にとって学校での日常は、ルールのわからないゲームに参加させられているようなものだったのかもしれない。自分では参加したいとも思っていないゲームに。だから彼女にできるのは、可能なかぎりそのゲームの邪魔をしないことだけだった。
 時々、僕には彼女が透明になって、そのまま消えてしまうんじゃないかと思えることがあった。あるいは、本人がそう望んでいるような気のすることが。例えいつも一人でいて、すべてのことがどうでもよさそうに本を読んでいたとしても。
 そんな彼女に、まともな友達なんて出来るはずもなかった。一人でいることを望み、一人でしかいられないような人間に、まともな社会生活なんて送れるはずがないのだ。たぶん彼女は、虎や河童にでもなったほうが、まだましだったのかもしれない。
 その一方で、彼女はいろんなことに苛立ってもいた。
 思考の欠如、正義の不在、合理性の排斥、不合理の氾濫、公平さの軽視、礼儀と節度に対する遵守違反――そんなことに対して。
 そして何より、そんなことに苛立っている、自分自身に対して。
 ――僕には、そんな彼女がひどく危うい場所に立っているように見えた。

 たぶん僕は、彼女にとって数少ない友達の一人だったのだけど、それは大体次のような経過をたどってのものだった。
 ある日――確か、何かの機会に部室の掃除をしていたときのことだ。
 先輩も同級生もいなくなって、部屋には僕と志花の二人だけしか残っていなかった。元々、人数も少なかったし、ほかの部員は荷物を取りにいったり、ごみを捨てにいったりしていたのだろう。時計を見たら、たまたま数字がそろっていたみたいな、そんなささやかな偶然によるものだった。
 天井の埃をはたいたり、本の並びをそろえたり、机の位置を直したり――窓は開いていて、透明な青空がその先につながっていた。すべてのことはどこか遠くにあって、世界は平和で、静かに眠っている。
 彼女はその時、壁にかけられた鏡のほうへ向かった。たぶん、汚れか何かを取ろうとして。
 鏡には、不思議なくらいの鮮やかさと確かさで、太陽が映っていた。沈みかけて、少し疲れたような様子で。何だかそれは、そこに本物の太陽が閉じ込められているみたいに見えた。
 その鏡に捕らえられた光を、彼女はそっと拭った。まるで、太陽そのものを磨くみたいに。
「まるで、ディオゲネスだな」
 と、僕はぽつりと言った。
「ディオゲネス――?」
 彼女は不審そうな顔で、振りむく。
「古代ギリシャの哲学者。樽の中に住んだり、日中にランプを灯して人間を探したりして、狂えるソクラテスなんて呼ばれたりもしたけど、アレクサンダー大王が誉めてる人」
「……それと、何の関係があるの?」
 訊かれたので、僕は続けた。
「アレクサンダー大王は、ある時彼のもとを訪ねて訊くんだ、何か欲しいものはないか?≠チて。もちろん、大王にとって彼は虫けらみたいな存在だった。でもディオゲネスは言うんだ。そこをどいてくれ、陰になって太陽の光がささないから≠チて」
「ん――ああ、なるほどね」
 志花はしばらく考えてから、鏡の中の太陽を見て言った。
「太陽をよこせ、ってわけだ。タカトーって、案外いろんなことを知ってるのね」
 間違ってなのかわざとなのか、彼女は僕のことをそう呼んだ。そして現在まで、僕のことをそんなふうに呼ぶのは、彼女一人だけだ。
「案外、は余計だよ」
 僕が笑うと、彼女はそれに応えるようにして笑った。それは普段の彼女からすると、驚くほど柔らかくて、子供っぽくて、無防備なものだった。
 ――そんなふうにして、僕は彼女の世界に存在する数少ない人間の一人になった。

 もちろん僕は、同じ文芸部員として彼女の書いたものを何度も読むことになった(そして僕の書いたものも、もちろん同じことになった――けど、ここではそのことは省略する)。
 最初のほうでも言ったとおり、彼女の書くものはいつも一方的で、テーマが感傷的すぎて、表現力には十分な深みというものがなかった。部員の中でも特に評価されることはなかったし、もちろん学校で彼女のことが有名になることもなかった。そもそも、文芸部の機関紙になんて、注目する人間はいない。神に呪いをかけられて、誰も言うことを信じなくなった憐れな女予言者と同じで。
 でも僕は、そんな彼女の文章が個人的には好きだった。確かに幼稚な感じや、専断的な文章もあったけれど、それでも。
 彼女はいろいろな場所に、何かの印をつけるみたいにして文章を残していた。森に捨てられた子供たちが、精一杯の目印を置いていくのと同じで。僕はそんな目印を拾い集めながら、彼女の道筋をたどることができた。彼女がどんな場所にいて、どんなことを思っていたのかを――
 それに彼女は、書くことに対してはあくまで真剣だった。いつでも常に正しいことを、最高のことを書こうとしていた。そのために、できるだけ自分の感情をコントロールしようとしていたし、邪魔になりそうなものは事前に排除したり回避したりしようとした。
 でも、そうしたことがうまくいかずに文章が書けなくなると、彼女は苛立った。というより、彼女の苛立ちのほとんどは、思い通りに文章が書けないことに原因があった。それは彼女にしょっちゅう起こることだったし、そのたびに彼女は自分の心臓を叩いたり、虚しく深呼吸を繰り返したりしていた。
 それでもどうしても文章が書けないときには、彼女は平気で自分を傷つけ、恫喝し、罵った。
 彼女は自分を抱えているのだけでも精一杯だった。そこに、ほかの誰かや何かを入れる余裕なんてなかった。ましてや、世界の重みを支えるのなんて、怪物の首を見せられて石にでもしてもらわなければ不可能だった。
 そうして今でも、彼女はその行為を続けている。不毛で、何の意味もなくて、誰も必要としてくれないとしても――
 彼女は一度、僕に向かって言ったことがある。人間に火をくれた優しい巨人が、ついうっかり秘密をもらしてしまったみたいに。
「たぶんわたしは、死ぬまでこうして書き続けているんだと思う――天国まで持っていけるものを、集めておくために」
 彼女の文章は、冬の夜に空を見上げるみたいにきれいなところがあった。そこでは澄んだ暗闇の中で、結晶になった光がいくつも瞬いている。そしてそんな文章のうちのいくつかは、消えることなく僕の胸の中を照らし続けていた。

10

 ――その電話に気づいたのは、勤務時間が終わって帰ろうとしているときのことだった。
 もちろん、職場では呼び出し音は切ってあるので、気づくことはない。着信は三回で、どれも同じ相手からだった。
 携帯の画面には、それは志花の家からだと表示されていた。携帯ではなく、彼女の自宅からの電話だ。
 僕はいつものように市役所の裏口から外に出て、そこから電話をかけた。遠くの空にも、近くの街路樹にも、世界にはいつもと同じように大急ぎで後片づけをするような気配があった。まるで帰港した船が帆を畳み、碇を降ろしているみたいに。
 呼び出し音が、何度か続いた。信号は赤になったところだった。車は耳障りな音を立てて通りすぎ、少し冷たい風が吹いていた。歩道の向こうを、部活帰りらしい近くの高校生が、何人かふざけながら歩いている。
 しばらくして、通話がつながった。
「――――」
 僕は相手と、短いやりとりをした。思ったとおり、相手は志花ではなく、母親の衣枝さんだった。僕はうなずいたり、簡単な質問をしたり、いくつか確認をしたりした。
 電話を終えたときには、信号は青になっていた。
 青――進んでよし、進むべき、あるいは、進め。
 でも僕の足は、地面にくっついてしまったみたいに動かなかった。これでは、世界そのものを動かさないかぎり、僕はどこにも行けなかった。でも地球ごとその体を動かすことなんて、誰にもできはしない。今なら帆柱に体を縛りつけたりしなくても、危険な海の上をやりすごせるかもしれなかった。
 自分の体によく言いきかせるために、僕はさっきの通話内容を頭の中で反芻した。
 僕の耳が確かなら、その電話は志花が倒れたことを伝えていた。

11

 いったん家に戻ってから、僕は指示された病院へ向かった。詳しいことはまだよくわからなかったけれど、志花は救急車で搬送されてその病院にいるのだという。
 診療や面会時間は過ぎていたので、病院のロビーはがらんとしていた。その光景はどことなく、すっかり火の消えた暖炉を思わせた。幸い、受付けにはまだ人が残っていたので、その人に志花のことについて訊いてみる。「芦本志花」の名前で尋ねると、病室を教えてくれた。僕はすぐそちらに向かう。
 エレベーターを待つのも面倒だったので、横にあった階段を使う。利用者がほとんどいないのか、非常用みたいに狭い階段だった。三階までのぼるあいだ、僕は誰ともすれ違わなかった。
 三階に着くと、案内板を確認して病室へ向かう。病棟の廊下には入院患者の姿があったりして、そこかしこに生活の気配があった。消灯時間まではまだ間があったし、誰もまだ眠るような時間じゃない。
 僕は廊下を歩いて病室の前まで行くと、そのドアをノックする。ノックの音はごく普通で、特に音楽的インスピレーションにあふれているわけじゃなかった。
 中から返事があって、僕は扉を開ける。
 病室には、志花の母親と父親の姿があった。衣枝さんはすぐさま立ちあがって、僕のほうに近づいてくる。父親は僕を一瞥して、それっきりだった。その様子は別に迷惑がったり、わざと無視しているというわけでもない。たんに障子が桟にはまらないみたいに、僕のことがうまく目に入らない、という感じだった。
 部屋の中央にあるベッドでは、志花が横になっていた。
 毒リンゴを食べたり、紡錘(つむ)で指を刺したというのでなければ、たぶんただ眠っているだけなのだろう。見たところは呼吸器も点滴もされず、心電図モニターがつながれているだけだった。そのモニターも、弾きなれた譜面でも表示するみたいに何の異常もなさそうだった。
 衣枝さんにうながされていっしょに廊下に出た僕は、さっそく訊いてみた。
「何があったんですか?」
 僕が電話で聞いていたのは、昼すぎ頃に志花が突然倒れ、救急車で運ばれた、ということだった。そして病院でも昏睡したまま、意識は回復していない、という。
 いったん帰宅していた衣枝さんに聞かされた、それがすべてだった。もちろん、これでは何もわからない。僕にはそれほどの想像力は備わっていない。
 けれど今のところ、衣枝さんにも状況は不明のままなのだという。緊急搬送された志花は、すぐにCTや血液検査を受けたけど、そこに異常は見られなかった。とりあえず、脳卒中といった可能性は低い。バイタルは安定していて、外傷も確認できない。昏睡状態の原因は特定できていない。
 医者の説明によれば、おそらく器質的なものではなく、心因性のものではないか、ということだった。
「つまり、現状で私たちにできるのは、ただあの子が目覚めるのを待つしかない、ということなの」
 どこか遠くで、台車を運ぶ音が聞こえた。何かの金属器具が立てる、かちゃかちゃといった響きも。院内放送がかかって、医師か誰かが呼びだされていた。
 僕は何かを訊こうとして、けれどいったん口を閉ざした。まるで、見えない真空に言葉を吸い込まれてしまったみたいに。
 とにかく、志花の様子を見せてもらってかまわないか、と僕は訊いた。
「ええ、もちろんよ」
 衣枝さんは気丈な感じでにっこり微笑んだ。
 病室に戻って、僕は父親のほうに軽く頭を下げる。志花の父親はそれに気づいて、同じようにうなずいた。そしてそれでもう興味を失ってしまったみたいに、眠ったままの娘のほうに目をやる。それは深い暗闇の中で、小さな灯火を掲げるようなまなざしだった。
 僕は壊れやすい時間にでも触れるみたいに、そっと彼女のことをのぞいた。
 ベッドに横たわる志花には、特に何の表情も浮かんではいなかった。苦悶の痕跡も、安逸の気配も。彼女は眠っているというより、何かを中断しているみたいな感じだった。その唇はかすかに開かれていて、それは何かを言いだそうとしているよりは、何かを言い終わったあとのようにも見えた。
 衣枝さんたちはとりあえず志花が目覚めるまで、病院にいるということだった。もちろん、僕にできることはない。ここにいても、邪魔になるだけだった。容態が変化したら知らせるから、と衣枝さんは言った。それがいつになるかはわからないけれど。
「――あの、一つお願いしてもかまわないでしょうか?」
 立ち去る直前に、僕はそんな言葉を口にした。
 衣枝さんは父親のほうにちょっと目配せしてから、うなずく。
「何かしら?」
「彼女の、志花さんの部屋を見させてもらいたいんです」
 それが馬鹿みたいな、突飛なお願いだということはわかっていた。耳をロバに変えられた王様だって、もう少しまともなことを願っただろう。
 でも――
 僕はどうしても、そうしておきたかった。それも、今のうちに。それはもう、失われてしまうものかもしれなかった。光源がなくなってしまえば、瞳に映った光の残像が徐々に薄れていってしまうみたいに。
 志花の部屋には、彼女の書いてきたものがあるはずだった。ある意味では、彼女のすべてが。そこは志花にとって、この世界と等しい場所だった。
 僕の申し出に、衣枝さんは困惑したような表情を浮かべた。それは、そうだろう。どう考えても非常識だし、滅茶苦茶だし、まともじゃない。時宜を心得たものでもないし、礼節に適ってもいない。それは、ただの僕の――わがままだった。
 衣枝さんは父親のほうに目をやった。どう断わるべきか、迷っているみたいに見えた。志花の父親はどういう感情も表に出さずに、衣枝さんと、僕と、志花にそれぞれ視線を移した。
 それから、水をそっと両手ですくうみたいな、ひどく穏やかな声で言った。
「かまわんよ、そうしてもらって」
 そして、続ける。
「今はあそこが、この子に一番近い場所なのかもしれんな……」
 僕は深々と頭を下げて、病室をあとにした。

 ――当然だけど、志花の家に明かりはなく、真っ暗だった。
 玄関先の電灯だけが点けられているけど、ほかの場所に光はない。そこには、百年も前からそうだったような空虚さがあった。人が作ったものは、人がいなくなればあっというまにその意味を失ってしまう。
 僕は、本来は僕のものではない静寂をできるだけ乱さないように、そっと玄関の扉を開けた。
 家の中は、外で感じたのよりずっと多くの空虚さで満たされていた。水と油が自然と分離するみたいに、それは底から浮かびあがってきて、世界の表面を覆っていた。じっとしていると、濃度の高い塩酸に体を浸すかのように、手足の先から徐々に暗闇の中へ溶けていった。
 僕は廊下に上がって、二階へ向かう。
 明かりは点けず、携帯のライトで足元を照らした。やや急になった階段を、慎重にのぼっていく。
 二階にあがって、まっすぐな廊下の一番奥にあるのが、志花の部屋だった。本を借りにきたこともあるので、勝手は大体わかっている。明かりはやはり、点けなかった。僕の存在を、できるだけその場に影響させたくなかった。
 廊下のつきあたりまで来て、ドアの前に立つ。その向こうが、彼女の部屋だった。彼女がいつも、小説……みたいなものを書いていた場所。たぶんこの世界で唯一、彼女が自分を守れる場所――
 僕はドアを開けて、中に入った。
 部屋の中は、前に見たときとほとんど変わっていなかった。小さな書斎といっていいくらいの広さで、布団を敷くスペース以外はすべて机と本棚で占められていた。本棚はもちろん、入居者でいっぱいのアパートみたいに端まで本が詰まっている。本棚に入りきらない本は、タンスに入れて別の部屋に保管されていた。
 机は二つ並べてあって、一つが九十度向きを変えてくっつけられている。いろいろと物を置くのに、そのほうが便利だからだ。単純に、大きな机が手に入らなかったから、という理由もあった。横になった机のほうは、まだ読んでいない本や、今年に読んだ本、鉛筆削りや文房具、広辞苑といったものが置かれている。
 そしてもう一つのほうが、志花がいつもものを書くときに使っている机だった。
 彼女は旧式にというか、古風にというか、紙のノートに鉛筆で書く、という習慣を持っていた。だから机の上には何冊かのノートと、メモ用紙のようなものが散らばっている。あまりこまめには掃除をしなかったらしく、そのあいだに糸くずみたいな消しゴムの滓がたまっていた。半分程度の長さになった鉛筆と、親指の先くらいにちびた消しゴムも転がっている。
「…………」
 僕は何の変哲もないオフィスチェアに座って、机のほうに向かってみた。
 たぶんそれは、志花がいつも目にしてきた光景だった。
 世界中の何よりも、馴じみのある光景。船乗りが夜の海を眺めるみたいに、砂漠の隊商が夜の空を眺めるみたいに、世界で一番見慣れた光景。そしてそれは、彼女以外には誰も知らない光景。
 彼女はどれだけの時間を、どれだけの夜を、そこで過ごしてきたのだろう? 時には眠れないまま、夜明けを迎えるまで。時には一行も文章を書けないまま、ひどい苛立ちを抱えて。時には無我夢中になって、言葉を綴りながら。
 彼女はそこで、どれだけの想いを抱えていたのだろう――
 どれだけの言葉を、形にしてきたのだろう――
 世界のどこにもつながらないような、その場所で――
 ――誰に伝えるわけでも、誰に伝わるわけでもなく。
 僕は机の上に手をのばして、卓上ライトのスイッチを入れてみた。
 部屋の暗闇をほんのわずかに押しのけて、蛍光灯の光が机の上を照らす。僕は携帯のライトを消して、あらためて机の前に向かった。何故だかその光景は、僕には少しだけ見覚えのあるものに思えた。長いあいだ、写真か何かで眺めていたみたいに。
 机の上には、三冊のノートがあった。一つには、思いついたアイデアやらストーリーについての書きつけがあった。一つには、短い文章や箴言めいたものが書き込まれていた。
 そしてもう一つが、彼女が小説を――小説みたいなものを書いていたノートだった。
 僕はそのノートの、最近書かれたものを読んでみた。僕が読むのは、いつもパソコンを使って清書して、プリントアウトされたものだった。だから、彼女の生のノートを見るのははじめてだったし、書いたもののすべてを読んでいるわけでもなかった。実のところ、彼女の作品の大部分は散逸した古代の書籍みたいに、ノートの中で埋もれたままだった。彼女は自作の発表に熱心じゃなかったし、あまり興味も持っていなかった。それにそうしたところで、執筆意欲が刺激されるという性格でもなかったのだ。
 手書きで書かれたノートには、癖のある文字が並んでいたけれど、不思議と読むのに苦労はしなかった。そこには迷いや、葛藤や、答えの出ない逡巡の跡があった。ためらいや、苛立ちや、諦めといった感情の跡も。
 そして何より――そこには大切なものをそっと、両手にのせて移し変えているようなところがあった。
 僕は丁寧に、一文字一文字をゆっくりと読んでいった。小さな心臓の音に、耳を澄ますみたいに。部屋の暖房はつけられていなかったのでかなりの寒さではあったけど、ほとんど気にはならなかった。遠くから聞こえる車の音や、時計の秒針が立てるかすかな音も。
 そして――
 どれくらい、時間がたったのだろう。僕はノートを、そっと閉じた。
 ――物語は、途中で終わっていた。
 それは完成させられることなく、ある文章で途切れていた。その先がどうなるかは、わからない。制作用のメモか、設計図か、プロットくらいはあるかもしれなかったけど、それでどうなるというものでもなかった。そしてこれから先、その物語の続きは永遠に存在しないのかもしれなかった。
 僕は背もたれに体を預け、意味もなく天井を見上げた。
 そこには、手で触れられるくらいの深い穴があった。どんな光を投げかけても、その穴の底まで照らすことはできないし、どんな長いロープを用意しても、下まで降りていくことはできない。穴は冷たく、無機質で、何の呼びかけにも応じなかった。
 そしてある意味では、それが彼女の見続けてきたものだった。
 彼女はここで、どれだけの時間を費やしてきたのだろう。どれだけのあいだ、その穴を眺め続けていたのだろう。
 僕にはそれを、想像することしかできなかった。
 それからふと気づいて、僕は卓上ライトの明かりを消した。
 暗闇に目が慣れると、それはすぐにわかった。机のすぐ前にある窓から、月の光が射しこんでいる。三十八万キロも彼方から届いたとは思えないその光は、ひどく優しげに机の上を照らしていた。
 もしかしたら彼女はその手を、そんな月明かりを使って温めようとしていたのかもしれない。誰にも気づかれない、誰にも見つけられることのない、その場所で。
 いつまでも、いつまでも――

 志花の家をあとにした僕は、見知らぬ道を車で走っていた。
 正確な時間はわからなかったけど、深夜だけあってほかに走っている車はほとんど見かけない。夜は遮るものもなく、どこまでも広がっていた。
 自分でも何をしているのか、僕にはよくわからなかった。どこにも行く場所なんてなかったし、行けるところもなかった。それでも、気がつくと車は速度超過して、カーブで車体が横に振れた。僕はただ、ここにいたくないだけだった。
 一体どこまで、どれくらい走ったのかはわからない。もしかしたら、地球を一周くらいはしたのかもしれなかった。それでも、月までは届かなかった。月はあまりに遠すぎた。そこには水も空気もなければ、重力だって地球の六分の一以下だった。光の速さでさえ、往復するのに二秒以上かかってしまう。誰かが一人で目指すには、そこは遠すぎる場所だった。
 機械的に車を走らせながら、けれど僕は不意に車を停めた。
 そこは何もない、山あいのただの道路だった。ゆるい傾斜地にそって灌木が生え、下り坂のずっと向こうに、工場らしい光の群れがうずくまっていた。海の向こう側にあるらしいその光は、まるでその場所で夜の生産が行われているみたいに、休むことなく稼動し続けていた。
 それから、どれくらいの時間がたっただろう。
 気がつくと、空はゆっくりと白みはじめていた。雲の形が急にはっきりして、紫色の光がそれを照らす。光は画家が絵の具を用意する時間も与えずに、決して目ではとらえられないスピードで変化していった。雲は大切な約束でもあるのか、驚くほどの速さで空の向こうに去っていった。そのあいだにも光は刻々と姿を変え、一体何度目になるのかわからない誕生を迎えている。耳を澄ませば、どこからか音楽が聞こえてきそうだった。
 夜が明けるのを見るのは、久しぶりだった。確かにそれを見たことがあるのに、一体前に見たのがいつだったか思いだせないほどに。
 けれど――
 考えてみれば、それは毎日起こっていることなのだった。

12

 ――志花が目覚めたのは、それから数日後のことだった。
 そのあいだ、僕は普通に仕事をこなしていた。実際的にできることは何もなかったし、神様に祈るほどの信心は持ちあわせていない。まるで自分がロボットになって、自分でそれを操縦しているみたいだったけど、人はそんなふうにでも生きていけるものだった。
 彼女の意識が戻ったと聞かされたとき、そこには大抵の物事がそうであるように、良い知らせと悪い知らせがあった。表だけの紙も、裏だけの紙も、作ることができないみたいに。
 良い知らせのほうは、志花の体に問題はなく、命にも別状はない、ということだった。手術の必要も、長いリハビリ期間の必要もない。たぶん、予後を心配する必要も。
 悪い知らせのほうは、ちょっと複雑だった。それを単純に「悪い」と言っていいのかどうかも判然としない。一種の齟齬がある、あるいは問題は未解決のままになっている、と言ったほうが近いのかもしれない。機械についていた部品の一部が、どこかに行ってしまったみたいに。
 はっきりと、ごく簡単に言ってしまおう。
 彼女は医者が言うところの解離性健忘症にかかった。いわゆる、「記憶喪失」というやつにである。

 志花に現れたのは、逆行性(過去方向)の健忘症だけではなかった。
 それとどれくらい関連があるのかは不明だけど、失声症や軽い退行のような症状も確認された。いずれも心因性のもので、つまりは短期的、効果的な治療は期待できない、ということだ。高校の頃からずっと抱えていた頭痛との関係もわかっていない。
 健忘症のほうは、過去の記憶の大部分について失われてしまっているようだった。何しろ失声症も発症しているのだから、その辺の聞きとりは遅々として進まない。質問に対して、彼女は筆談で返すしかないのだから。確認作業は、不完全な古文書の解読をすすめるみたいに非効率だった。
 おまけに、彼女には退行現象も現れている。
 何にせよ志花が覚えているのは、自分の名前や、家族のこと、いくつかの断片的な出来事だけだった。自分の歩んできた人生についての全般的な知識、ということではほとんどが失われてしまっている。
 それはちょうど、大洪水で世界が水びたしになって、ほとんどのものが水底に沈んでいるような状態だった。方舟に乗せられたのは、ごく限られた範囲の知識や記憶でしかない。ほかはみんな失われてしまって、水が引いたあとも破壊しつくされたままになっている。
 ただし、社会的、科学的な知識は残っていて、自分のいる場所が病院だということは理解している。その他の一般知識についても、同様に。
 彼女の記憶が回復するかどうかは、本人も含めて誰にもわからなかった。たぶん、未来を見通す力を持った、どんな神様にだって。もちろんそれは、僕にも。
 いや――
 そもそもの話、彼女は僕のことなんて覚えていなかった。今までに関わったほとんどすべての人間と、同じように。彼女はもう余白のなくなったメモ帳を捨てるみたいに、僕のことを忘れてしまっていたのだ。
 そして、もう一つのことも。
 彼女は自分が小説を、小説みたいなものを書いていたことを、忘れてしまっていた。

13

 不安定な状態ということで、僕はしばらくのあいだ彼女に会えなかった。その間、彼女はずっと病院にいて、あまり効果のない治療や、念のための細かい検査やらを受けていた。ガラスの靴があうかどうか、慎重に確認するみたいに。
 症状の説明や、その進行具合については、衣枝さんが詳しく教えてくれた。
 やがて一通りの検査も終わり、症状も落ち着いたということで――記憶に関しては何一つ回復していなかったけれど――、僕は病院まで面会に行けることになった。十二時の鐘を待つまでもなく。
 その前日、僕は志花の部屋からある物を持っていくことにした。衣枝さんにそのことを話すと、別にかまわないだろうと許可をくれた。それでどうなるか、どうすべきかは、僕にも衣枝さんにもわからなかったけれど。
 僕はあの日と同じように、車に乗って病院へ向かった。休日の昼すぎで、あの時とはだいぶ様子が違っている。空は午睡でもしているみたいにのん気そうで、自動車の群れは亀よりも遅く走っていた。空気は冷たく、秋の深まりを感じさせる。
 病院に着くと、僕は精神科の開放病棟に向かった。やや特殊な症例ということで、志花はそこに入院している。閉鎖病棟とは違って、面会や出入りは自由で、施錠されるのは夜間だけだった。主に回復期の患者が入れられるところである。
 戦争中だからというわけではないだろうけど、扉は大きく開けっ放しになっていた。そこをくぐると、すぐロビーになっている。カフェみたいな丸いテーブルが並び、それぞれにイスが四脚ずつ置かれていた。部屋の隅にはゆったりしたソファがあって、テレビやいろいろなものの入った棚なんかも設置されている。太陽王の宮殿ほどじゃないにしろ、壁紙や天井、床は明るくて清潔だった。ちょっと、保育園みたいな雰囲気がある。
 室内でくつろいでいる人たちも、特に変わった様子は見られなかった。少なくとも、絶望して我が目を刳りぬいたり、怒り狂って復讐のために自分の子供を殺す、なんてことはなさそうだ。一般病棟とは違う、調律がわずかに狂った楽器みたいな、微妙な緊張感はあったけど、ともかく傍目には何の問題も見あたらない。
 ちょうど看護婦さんが前を通ったので、僕は志花のことを尋ねてみた。
「芦本さん?」
 その人はきょろきょろとあたりを見まわし、不意に視線をとめた。「芦本さんなら、あちらにいらっしゃいますよ」
 言われて、僕がその視線の先を追うと、そこには確かに志花の姿があった。オセロの最初に置かれた四つの石みたいに、テーブルに一人で座っている。彼女にはあまり似あいそうにない、ピンク色のパジャマとカーディガンという格好で、目の前に置いた本らしいものを熱心にのぞき込んでいた。
 僕が看護婦さんに案内されて近づくと、彼女はそれに気づいたみたいにして顔を上げた。
 そうして、僕のほうを見て――
 にっこりと、微笑う。
 僕は一瞬ためらって、足をとめた。彼女は、何も覚えていないはずだった。世界中の大半の人も、僕のことも。それらの名前はもう、彼女のノートから念入りに、消しゴムで消されているはずだった。
「あら、珍しいわね」
 と、看護婦さんは感心したように言う。
「芦本さんが、初対面の人にこんな顔をするなんて。普段は、知らない人には近づかなくて、絶対信用しようとしないんですけどね。もしかしたら何か覚えていて、それでこんな表情になるのかも」
 その言葉を聞いて、僕はあらためて志花を眺めてみた。
 でも――
 彼女は笑顔を浮かべているだけで、僕が誰なのかに気づいた様子はなかった。天国かどこかで、昔知っていた人が姿を変えて、会いにきたみたいに。その瞳は、意味のあるものは何も反射していない。その光の中に、僕は存在しない。
 もう少しテーブルに近づくと、彼女が何の本を読んでいるのかがわかる。それはレオ・レオニの『フレデリック』だった。
 看護婦さんは、「何か御用があれば、いつでも」と言って去っていった。テーブルには僕と、志花だけが残された。手品師が気を利かせて、帽子の中にすべてを隠してしまったみたいに。
 僕はイスに座って、彼女のほうを見た。彼女は相変わらず、少しも皮肉っぽいところのない笑顔でこちらを向いていた。
「――こんにちは」
 とりあえず、僕は挨拶をした。
 彼女はあまり志花らしいとはいえない、可愛らしい仕草でお辞儀をした。その様子には、僕のことを警戒している気配は全然感じられなかった。ちょうど、人間に狩りつくされて絶滅してしまった、多くの鳥たちと同じように。
 以前は束ねられていた髪は解かれて、それは高校時代の彼女にそっくりだった。いや、その様子はもっとずっと幼い、ずっと子供みたいな感じがした。肩までかかる、少し癖のかかった髪に、遠慮がちにつけられた鼻と口。少々、猫背気味のその格好は、小さな箱の中にでも入れてしまえそうに思える。
 声が出せないせいだろうけれど、彼女は目でしゃべろうとするみたいに、じっとこちらを見ていた。ほかに言葉を持たない赤ん坊が、そうするみたいに。彼女は何だかひどく、ひどく――きれいだった。まるで、彼女の書く文章そのものみたいに。
 何を話すべきか、僕は迷った。相手はまるで、志花らしくは見えなかった。彼女の胸の奥底にあって、一番大切だったはずのものは、もうどこにも感じられない。
 でも結局は、蓋の閉まった箱は開けられざるをえないのだ。その中に悪しきものが詰まっていようが、善きものが満たされていようが。
 心持ち深く息をすってから、僕は訊いた。
「……僕のこと、覚えてる?」
 彼女は小首を傾げるようにして、僕の顔をのぞき込んだ。ジグソーパズルのピースがはまるところを、丹念に探すみたいに。でもやがて、小さく首を振った。
「そっか――」
 僕は自分でも、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。どんな期待をしていたのかも。
 彼女はそんな僕を見て、慌てるようにウサギの絵のついたメモ帳を取りだした。ページをめくって、そこに何かを書く。しゃべれなくても耳は聞こえるし、理解することもできるのだった。

ごめんなさい

 メモ帳には、そう書かれていた。ノートに書かれていたのと同じ、見覚えのある志花の文字だった。どうやら、そんな癖だけはきちんと残っているらしい。
 気にしていないことを示すために、僕はやんわりと首を振った。彼女は何だか、ひどく壊れやすそうに見えた。あるいは、壊れてしまったばかりのような。
 僕が気にしていないとわかると、彼女はぱっと笑顔を浮かべた。ちょうど、花が咲く瞬間みたいな笑顔を。そうして、メモ帳にまた何か書き込んだ。

でも、初めて会った気がしません

 それを読んで、僕も笑顔を浮かべる。できるだけ、彼女と同じものになるよう努力して。
「実は僕も、そう思ってたんだ」
 そう言うと、彼女は笑った。声がないので、テレビの音を消して見ているみたいな、ちょっと奇妙な笑いだった。でも自然で無理のない、魅力的な笑顔でもあった。
 それから僕は、僕のことについて話した。僕が何者で、今何をしているのか。記憶をなくす前の彼女とは、どんな関係だったのか。以前の志花のことに関する話については、できるだけ無理のないよう、今の彼女が余計な責任を感じたりしなくてすむよう留意した。
 よく古本屋に車で送らされた、という話をすると、彼女は明るく笑った。

ひどい人だったんですね、私

 メモ帳には、そう書かれていた。
「うん、実に稀に見る極悪人だったんだ」
 そう言って、僕も笑った。
 僕たちは面会終了まで話をしていたけど、何の話をしていたのかは少しも覚えていない。白山羊と黒山羊が、結局はお互いの手紙を食べてしまったみたいに。
 ただ印象に残っているのは、彼女の自然な笑顔とリラックスした態度だった。まるで世界と新しい約束でも交わしたみたいに、彼女には苛立ちも緊張も見られなかった。頭痛もすっかり消えてしまったようだった。虹の印こそ、そこにはなかったけれど。
 そろそろ帰らなくちゃならない、と言うと、彼女は大抵の人間が決心をぐらつかせそうな、悲しそうな顔をした。けれどそこには、無理を言って相手を困らせてはいけないと、自制しているらしい様子も見られた。白雪姫と意地悪な継母くらい、もとの志花とは似ても似つかない。
 僕は最後に、持ってきたものを彼女に見せておくことにした。前日に、彼女の部屋から持ちだしたものである。
 それは、一冊のノートだった。
 書きかけの物語が残されたままになった、ノート。
 ――たぶんもう終わることのない物語が記された、志花のノート。
 僕はそれを、彼女に渡した。
 はじめ、彼女はそれが何なのかわからないようだった。見覚えのない家族のポートレートでも目にするのと同じで。彼女は番号だけが振られた、何も書かれていないノートの表と裏を見まわす。そのノートが自分のものなのか、僕のものなのかもわからないのだろう。
 でも、やがて――
 彼女はそのノートのページをめくった。
 しばらくのあいだ、ページを繰る音だけが僕の耳に響いていた。特殊な形の貝殻を、砂の上に落としていくみたいに。
 どれだけの時間が、たっただろう。

「あ、あ――」

 志花は不意に、涙を流していた。
 それはびっくりするくらい、大粒の涙だった。小さなガラス玉の入った瓶を倒したみたいに、それはぽろぽろと零れ落ちていった。
 唇が虫の羽みたいに震え、声にならない嗚咽がその口からあふれている。空中で固定されたように動かない頭部とは対照的に、その小さな肩は小刻みに振動していた。
 彼女はその格好のまま、泣き続けた。たぶん、何のためかもわからないまま。
 自分の失ったもの――
 世界で何より大切だったもの――
 そんなもののために。
 雨がいつまでも降りやまないみたいに、彼女は泣き続けた。
 いつまでも、ずっと――
 彼女は、涙を流し続けていた。

 ――これで、彼女についての僕の話は終わる。
 彼女のその後については、僕が語るべきことじゃないだろう。それは終わることなく終わってしまった彼女のノートと同じで、誰かが書き足したり、書き換えたりすべきことじゃないのだ。そんなことをする権利は、誰も持っていない。
 もちろん、彼女のこれからを想像することはできる。それはどんなふうにだって、展開させることができる。彼女が記憶を取り戻すことも、あるいは今までとは違った新しい物語を書きはじめることも。
 でも――
 僕には、わかっている。
 彼女の記憶が戻ることは、たぶんないだろう。今までずっと抱えてきた重みに耐えられなくなって、彼女は手放してしまったのだ。それを持っていた、両手といっしょに。それを取り戻すことは、もう不可能だった。
 結局のところ、世界そのものを一人で支えられる人間なんて、どこにも存在しないのだ。
 もちろん、彼女は幸せになる。少なくとも僕は、そうなるように努力するつもりだ。それが無意味で、感傷的で、小説みたいなものを書くような行為でしかなかったとしても。たぶん彼女は、そうなるべきだと思うから。誰かが、そうすべきだと思うから。
 彼女の書いた文章は、今でも僕の中に残り続けている。
 それは、ずっと――天国まで持っていけるものだから。

――Thanks for your reading.

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