テケトは目が見えませんでした。 子供の頃、病気で失明したのです。でもそれはテケトが物心つくかつかないかといった頃のことで、彼自身は自分の陥ったその環境について、ひどく混乱したり、深い絶望に襲われるということはありませんでした。 光のない世界は、彼にとってごく当たり前な、それこそが真実の世界だったのです。 テケトは大きくなるにつれて、街の図書館で働くようになりました。それは、本を書き写すためです。街では筆記者≠ェ必要でした。本は、そのようにしてしか増やすことが出来なかったのです。 図書館で、テケトは本を読んでもらって、それを美しく書き記しました。そうすることによって、その本には新しく、みずみずしい命があらためて吹き込まれるようでした。 少年は、美しい文字を書くことが出来たのです。 それは両親のおかげでした。テケトの両親は彼に文字を書くことを覚えさせました。そして最も美しいと思われる文字を、何度も何度も練習させたのです。テケト自身には自分の書いた文字を見ることは出来ません。ですから、その文字はまるで機械を使ったように正確で、天使が記したと思えるほど美しいものでした。 テケトは、何百冊という本を書き写しました。 彼は昼頃になると杖をついて図書館へとやって来て、奥のほうの一室に入ります。そこは静かな、まるで音というものをすっかり忘れてしまっているように思える場所でした。 「こんにちは、テケト」 と、少女の声がします。テケトは、「こんにちは、ラシーヌ」と返事をして、いつものようにイスに座って傍らに杖を置きます。 それからラシーヌが紙と筆、インク壷を用意して、テケトの前に置きました。テケトはそれを使ってラシーヌの読む本を書き写すのです。 ラシーヌはテケトと同じ年でしたが、もちろんテケトはその姿を見ることは出来ませんでした。ただ、声を聞くことは出来ます。ラシーヌの声は決して美しいものではありませんでしたが、その代わりにとても優しく、温かいものでした。彼女の声はまるで春の柔らかい陽射しのようで、テケトはその声がとても好きでした。 「今日は昨日の本の続きね」 とラシーヌは言って、ぱらぱらと本をめくっているようでした。それからつと手を止めて、「それじゃ、読むわね」と言いました。 「――男は言いました。(p) 『星と太陽と月が果てる地を目指して僕は旅して来た。しかし、どうしたことだろう。ここには何もない。光り輝くもの、美しいもの、それどころか一片の土くれの暖かさも、一杯の水の清らかささえないのだ』(p) 男は地に崩れ、大声で泣き始めました。けれどその声さえ、そこでは永遠の闇の中へと溶かされていくよう――」 テケトはラシーヌの読むのと少しも変わらない速さで文字を書き綴っていきました。筆のインクが切れそうになると、きちんとインクを足して、です。おまけにその一字一字は、測ったように同じ感覚で並び、美しく配列されていました。 三十分ほどたつと、ラシーヌは読むのをやめて、休憩にしましょう、と言いました。それ以上は喉が痛くなって、読み続けていられなかったのです。 テケトのほうはまだいくらでも書くことは出来ましたが、もちろんラシーヌに従いました。 部屋の窓を開けて、ラシーヌは外を眺めているようです。風が入ってきて、テケトの頬に触れました。 「いい天気ね。白樺に陽が当たって、とても気持ち良さそう」 でもテケトには、何も見えませんでした。ただ、時々吹き込んでくる風の具合によって、それを知ることが出来ます。風は涼しく、かすかな陽のにおいを運んできました。 「テケトは世界≠見たいと思う?」 と、ラシーヌは突然訊いてきました。 「世界=H」 テケトにはその言葉の意味がよく分かりませんでした。なぜなら、テケトはちゃんと自分の世界を見、感じているのですから。 「何て言ったらいいかな……」 ラシーヌは困っているようでした。 「例えば、耳が聞こえない人がいるでしょ。その人は私たちが聞くような音≠ェ聞こえないわけで、それってすごく悲しくないかなって思わない? その人はどんなにきれいで幸せな音が近くにあっても、それを聞くことは出来ないのよ」 「うーん」 テケトは考えました。 「でも僕は、それがどれくらいきれいなのか想像することも出来ないし、悲しく思ったりはしないよ。それに見ることが出来なくても、触れたり、においを嗅いだり、味を確かめることだって出来るんだから」 「そうか、そうよね……」 と、ラシーヌは満足したように、 「やっぱりテケトは、テケトのままでいいよね」 少し微笑んだようです。 「ん、じゃあ、そろそろ再開しようかしら。さっきの続きね。男が家に帰るところ……」 そうしてその日も、いつもと同じように過ぎていきました。
その夜、テケトは不思議な夢を見ました。 夢の中で、テケトは真っ白な光の中にいました。それはずっと昔に見たことのある、ひどく懐かしい光のような気がしました。子供の頃、ただ立ち尽くして、そして泣きたくなるような気持ちで眺めていたような、古い匂いのする光です。 テケトがその光についてあれこれと考えていると、どこからか鈴の音が聞こえてきました。鈴の音はゆっくりと、誘うように鳴っています。それは赤ん坊の笑い声のように無邪気な響きを持っていました。 (なんだろう?) とテケトは思いました。そして鈴の音を追いかけるように歩き出します。 そうして歩くうちに、テケトの目はいつしか覚めていました。まるで夢の続きのような目覚めです。 けれど、耳には夢で聞いていた鈴の音が、今も聞こえていました。 (……?) テケトは一瞬、まだ自分が夢を見ているのかと思いました。けれど体は間違いなくベッドに横になっていて、手や足にシーツが当たる感触は、どう考えてもちゃんとした現実のものでした。 テケトは起き上がって、自分の部屋を出てみました。 「おはよう、テケト。どうかしたの、慌てて?」 と、お母さんが声をかけます。 その声は、テケトにも聞こえました。けれどテケトには、同じように鈴の音も聞こえていたのです。 「お母さん、どこかで鈴の音がしていない?」 とテケトは訊いてみました。お母さんは不思議そうにちょっと黙ったようでしたが、 「いいえ、私には何も聞こえないけど」 と答えました。 テケトはその間も聞こえてくる鈴の音が、何か悪い病気のせいなのではないかという気がしました。けれど母親に心配をかけたくなかったので、案外それがすぐに治るのではないかと思って、黙っていることにしました。 それからテケトは、いつものように図書館に出かけます。そしていつものように奥の部屋に入って、いつものように本の書写を始めました。 けれど、その日はいつものように文字を書くことは出来ませんでした。ラシーヌが本を読んでいる間もずっと、鈴の音が聞こえてくるのです。とても集中して文字を書いてなどはいられませんでした。 「どこか調子でも悪いの?」 と、ラシーヌが心配そうに訊いてきます。 「そうじゃないんだけど……」 テケトは鈴の音のことを、ラシーヌに話してみました。 「鈴の音?」 「うん。昨日、夢で聞いて、それが今朝起きてからも続いてるんだ」 「ふうん」 ラシーヌは不思議そうに言いましたが、かといってそれをどうすることもできません。 「どこか痛いところとかはないの?」 テケトは黙って首を振ります。 「耳が良く聞こえないとか」 「ちゃんと聞こえてるよ。ただ、どこかから鈴の音が聞こえるんだ」 その日、家に帰ったテケトはまた同じ夢を見ました。 夢の中でテケトは、白い霧のような光の中にいます。そしてどこからか、鈴の音が聞こえていました。 テケトは少し迷ってから、やはりその鈴の音のほうへ歩いていきました。その鈴の音は、どうしても人をひきつけずにはいられない響きを持っていたのです。 (この先に、何があるんだろう?) とテケトは思いました。白い光はどこまでも果てしなく広がっていて、鈴の音はその向こう、どこか、とても遠いところで鳴っているようです。 テケトは急にその果て、鈴の音の鳴るその場所まで行ってみたくなりました。この鈴の音を奏でるものの正体、それを自分で確かめてくなったのです。 けれど夢の中、テケトがもう少しで鈴の鳴る場所までたどり着くかという頃、どこからか声がしてきたようでした。 テケトは一瞬、そちらに意識を向けます。 すると白い光はすっかりなくなり、いつの間にか夢から覚めていました。周りに意識を向けると、どうやら窓の外で小鳥が鳴いているようです。 (鈴の音……) テケトの耳には、やはりその音が響いていました。夢と同じように、どこか遠く、かすかな水音が響いてくるような感じで、その音は確かに聞こえています。 (どこから聞こえてくるんだろう?) とテケトはベッドに座ったまま、考えました。他の人には決して聞こえない鈴の音が、どこか遠くの、小さな小さな部屋でずっと自分を待っているような、そんな気がテケトにはしました。 (――探しにいかなくちゃ行けない) テケトはそう思いました。テケトは旅に出る決心をしたのです。 それは自分でも不思議な気持ちでした。この鈴の音だって、ただの耳鳴りや、幻聴かもしれません。けれどテケトには、その鈴の音がこの世界のどこかで確かに鳴っていることが分かるのです。そしてそこには、とても大切な何かがあるのだと。 テケトはそのことを両親に話して、旅に出たいのだと言いました。もちろん、両親はとてもそれを許すことなど出来ませんでした。テケトは目が見えないのです。途中、どんな危険があるかわかりませんでした。 けれど、テケトは決して諦めようとはしませんでした。その決心は石か鉄で出来ているかのように固かったのです。 両親も、やがてテケトの意志がとてものこと翻るものではないことが分かりました。 「どうしても旅に出るというんだね?」 と、お父さんが訊きました。 テケトは黙ったまま、声のほうに頷きます。 「いつ帰ってくるの?」 お母さんが心配そうに訊きました。 分からない、というふうにテケトは首を振ります。 両親は結局、テケトのために旅に必要な道具一式を用意してやりました。それが結局はテケトのためでもあったからです。 テケトはいつも使っている古い樫の杖を一本手に持つと、さっそく家を出ました。 「いってきます」 と、テケトは言います。テケトには両親の顔を見ることはできませんでしたが、その顔が心配そうにしていることは、雰囲気や、ちょっとした気配ですぐに分かりました。 ですからテケトはできるだけ元気に、しっかりした足取りで歩き始めました。
テケトはまず、西へと向かいました。鈴の音はそちらから聞こえてくるような気がしたからです。 街を出ると、道は石畳から土を踏み固めたものに変わり、人々のざわめきは耳から遠ざかりました。土の道を杖ついて歩いていると、のどかな陽の光や、穏やかな木々の気配が聞こえてくるようです。 道はどうやら馬車一台分くらいの幅で、そこを外れると草むらが広がっているようでした。テケトは車のわだちを頼りに道を進んでいきましたが、それでもうっかり草むらに入ってしまうこともありました。でもそんな時は鈴の音が少し弱まり、正しい道に戻ると、また元の大きさで響いてくるのです。 テケトは一人で野宿をし、持ってきたパンやチーズを口にしました。季節は初夏の頃で、毛布を一枚かぶれば十分に眠ることができます。運が良ければ、親切な人に助けてもらうこともできました。 そうして何日か歩くうち、テケトはある村に入りました。それは、風に混じった作物や家畜の匂い、水車や機織りの音、それに人々の暮らす暖かい雰囲気などで知ることができます。 (少し休んでいこうか) と、テケトは思いました。陽はまだ暖かく、日暮れまでにはまだ大分ありましたが、テケトはここで一休みしていくことにしました。村の中なら危険な動物の心配もなくゆっくりと休むことができますし、何より人の気配が、テケトには懐かしく思えました。 しばらく行くと川の音がすぐ近くに聞こえ、テケトは橋の上を渡ったようでした。そこでテケトは川の、少し急な土手に寝そべって、両手を組んで頭の下に置きます。 (何て静かなんだろう) とテケトは思いました。水の音が涼しげに流れ、風がそよそよと吹いています。鈴の音は相変わらず、何かを求める赤ん坊の泣き声のように、かすかな響きを持ってどこからか聞こえてきます。 その時、それらの音に混じって、小さな旋律が聞こえてきました。その音は春の陽よりも暖かに、夏の風よりも清々しく、秋の気配よりもなお透明に、冬の雪より凛として響いていました。 それは、一体なんでしょう。 テケトはそちらのほうに土手伝いに移動してみました。すると、その音はなおいっそうはっきりと聞こえてきます。それは、声でした。誰かが歌をうたっているのです。 歌は、土手の上から聞こえてくるようでした。 「!」 ふっと、歌が止みました。歌い手は、テケトのことに気づいたようなのです。 「あの、ごめんなさい」 とテケトは慌てて言いました。 「歌うのを邪魔するつもりはなくて……。ただちょっと聞いていただけなんです。邪魔だったら、すぐにどこかへ行ってしまいます。だからできれば怒ったり、不愉快に思ったりしないで下さい」 テケトは見えない相手に向かって言いました。 その様子に歌い手は不審を覚えたようです。 「あなた、私の姿が見えてないの?」 と、訊きました。テケトは声のするほうに顔を向けて、 「僕は目が見えないから」 と答えました。 歌い手は少し戸惑ったようでしたが、木の枝の揺れる音がして、上のほうから降りてきたようです。その歌い手は、木の上にいたのです。そしてテケトの前で何か、いろいろとやっているようでした。 「……?」 「うん、本当に見えないみたいね。ごめん、一応確かめてみときたかったの」 声は、少女のもののようでした。澄んでよく徹った美しい声で、その底のほうに小さなかすれのような、甘い響きがあります。 「とてもきれいな声をしているんだね」 と、テケトは思わず言っていました。その声を聞いた人間なら、誰だってそう言わずにはいられなかったことでしょう。 「ありがとう」 少女はにっこりと微笑んだようでしたが、それはどこか複雑な笑みのようでした。 「私、エアナっていうの。あなたは?」 「テケト」 「ふうん。テケトは、どこから来たの?」 「街のほうからだよ」 「東のほうの?」 「多分、そうだと思う」 「じゃあ、あなたは西を目指して旅しているわけ?」 テケトは自分が旅に出た理由をエアナに話してやりました。 「ふうん、鈴の音をね」 「エアナは信じる? 僕の言ってることを」 「さあ、私は鈴の音なんて聞こえたことはないから、ちょっと分からないな」 二人はいつしか土手の上、木の根元のところに座って話し始めていました。 「街にはさ、きれいな人が、たくさんいるの?」 エアナは、恐る恐るといった感じで訊いてきました。 「分からないよ、僕は目が見えないから。でも僕が働いてた図書館にはラシーヌっていう子がいて、その子の声を聞いて僕は本を書き写すんだ。その子の声もきれいだったけど、君のほうがずっときれいな声をしてるみたいだ」 エアナは少し考えて、それから言いました。 「私はね、実のところあなたの目が見えなくてよかったな、と思ってるの。その、ひどい意味じゃなくて。だって、そうじゃなかったら私、こんな風にしゃべってることなんてできなかったから」 テケトはエアナの言葉を黙って聞いていましたが、彼女が何を言おうとしているのかはさっぱり分かりませんでした。 「私、あんまり可愛くないの。というか、はっきり言ってとても醜い顔をしている。村のみんなが私の顔を見て笑うし、豚が間違ってまぎれてるとか、そんなこと言うの。だから多分、あなたも私の顔を見たらすぐに嫌いになるから……」 エアナは言葉を続けていられませんでした。テケトが手を彼女の顔のほうへと伸ばしてきたからです。 「な、なに……?」 と、エアナは驚きました。テケトは、けれど少し困ったように、 「僕はこうしないとものの形が分からないんだ。ちゃんと手で確かめないと。ぼくは僕の手でじかに触れてみなくちゃ、君がきれいかどうかなんて分かりようがないんだ」 テケトの言うとおりでした。本当に美しいものというのは、きちんとした方法によって最もそれをよく知ることができるのです。決してほんのわずかに触れた程度で、その美しさのすべてが分かることはありませんでした。 「それに、君がきれいかどうかなんて、僕には関係ないんだ。僕は君の姿とつきあっているわけじゃないから」 「そう、そうだね」 エアナは少し笑ったようでした。 「君の声を聞けば、誰だって君を好きになると思うよ。でなければ、その人はきっと、物事をうまく見ることのできない、目の悪い人なんだ」 テケトはそう言って、少し笑います。 「ありがとう」 エアナは、思わずテケトの手を握り締めていました。でもテケトには、その理由がよく分かりませんでした。彼は、自分にとってごく当たり前なことを言っただけなのですから。
少女と別れて、テケトは再び旅を始めました。耳には相変わらず鈴の音が聞こえてきます。その音のするままに、テケトは歩き続けました。 やがてテケトは、ひどく静かな場所にやって来ました。時折吹く風によって鳴る木の梢の音や、しんと押し黙ったような空気の雰囲気から、そこが森だということが分かります。テケトは昼頃にこの森に入って、夜が近づく今になっても、まだ森から抜けられないのでした。 テケトは杖で地面を探りながら、できるだけ足を速めました。夜の森は、あまり安全な場所とはいえません。危険な獣や、場合によっては追いはぎだって出てくるかもしれませんでした。 湧きあがってくる恐怖に少し怯えながら、テケトは道を歩いていきます。 と、その足が不意に止まりました。誰かの、いえ、何かのほんの小さな声が、聞こえたような気がしたのです。 (狼だろうか) 一瞬よぎった想像が、テケトにはっとするような恐怖を与えましたが、そのか細く弱々しい声は、とてもそんな恐ろしい獣のものとは思えませんでした。 声は、何かのすすり泣きのようにも聞こえます。テケトはそっと、その音のするほうへと行ってみました。 「そこに誰かいるの?」 とテケトは訊ねてみました。そこは道から少し離れた、草やぶの中のようでした。 テケトが声をかけた途端、声は嘘のようにしなくなりました。まるではじめから、そこには誰もいなかったようです。 けれどしばらくして、 「君は、誰かね?」 という声がしました。それは間違いなく、人間の声でした。 「僕はテケトと言います。旅をしているんです」 テケトが答えると、 「そうか、私はイリオンという。神の教えを伝えるのが、私の仕事だった」 と、声の主は言いました。その声は年老いた人間のそれで、積み重ねてきた年齢が、層のように堆積したものでした。その響きの中にはさまざまな喜びや悲しみが感じられます。 「だった?」 テケトは、老人の言いかたが気になりました。それに、その声はひどく疲れているようでもあります。 「そう、そうなのだ。私はそれを過去のこととして語らねばならない。私は私の生涯をかけて仕え、奉仕したものに対して、最後の瞬間に裏切られてしまったのだ」 「……」 テケトはその話を聞いてみることにしました。 イリオンは、語ります。 「私は神の教えを広める宣教師だった。私が神の教えに触れたのは、まだ小さな子供の時分だった。神は、あふれる光と偉大な祝福、満ち足りた平穏を説いておられた。私はすっかりその教えに心酔し、熱心に勉強し、神学校へと入った。私はそこで宣教師となって、さまざまな土地を旅するようになった。素晴らしい神の教えを知らせるためなら、たとえどんな困難な地にあろうとも喜んで出かけていった。私はその教えに少しの疑問を持ったこともなく、それこそが人間に大いなる幸福を与えるものだと信じていた。 そしてある時、私は死の病を押して宣教の旅に出かけた。私の信仰が、決して肉体の苦しみなどに屈しはしないことを証明するためだ。私はそうしてこの森で力尽き、地に倒れた。しかし私は満足だった。私は神のために生き、神のために死ぬのだ。神は大いなる祝福を与えるだろう。私は天なる国に迎え入れられるはずだった。 ところが、神の栄光は私には訪れなかった。私は地に臥したまま、長く待ち続けた。神が輝かしい光とともに、その忠実なる僕を迎えに来ることを。私の信仰は完璧だった。私こそが、地上のどんな人間よりも神の祝福に値するはずだった。 私は待ち続けた。私の肉体が滅び、肉の一片すら朽ち果てようとも、待ち続けた。しかしそれでも救いはやっては来なかった。私は、私の最も信じていたものに、裏切られてしまったのだ」 そう、イリオンが語り終わるまで、テケトはずっと黙って聞いていました。この老いて死んでしまった宣教師の声には、強い悲しみと怒り、そして今なお救いを求め続ける悲しくも憐れな響きが含まれていました。 「あなたはもう、神様のことを信じてはいないんですか?」 と、テケトは訊いてみました。 それに対して、イリオンは長く黙っていました。まるで答えるべき言葉が深い穴の中に落ちて、それを取り戻せないような沈黙です。 「分からないのだ」 イリオンは、ぽつりと言いました。その言葉には大変な苦悩と混乱が込められていました。 「私は私にこのような仕打ちを与えた神を、恨み、憎んでいるはずなのだ。しかしそれでもなお、私がかってそのために生きた時間は、私を今も束縛しさえしている。私は、私を捨てることが恐ろしいのだ」 そういったイリオンの声には、かすかな震えが含まれていました。 テケトは姿の見えないその人に向かって、言います。 「あなたはきっと、今でも神様のことを信じているんです」 そしてなお、続けました。 「それに、信じていいのだと思います。あなたはそれだけのことをしてきました。たとえ相手がどうであろうと、あなたはそれを信じ続けていいのだと思います。何百年であろうと、何千年であろうと、あなたの中からいつかそれが消え去らない限り」 テケトがそう言うと、イリオンはずいぶん黙っていました。それはテケトの言葉が耳から入って、体の中にゆっくりと定着するのを待っているようでもあります。 「そう、そうだな」 とイリオンは、その声がいくぶん和らいだようでもありました。 「私は、私をこそ信じればよいのだ。それが神を信じるということでもあるのだ。神を信じることができないものには、己を信じることさえできないのだ」 イリオンの声は、喜びに満ちているようでもあります。 その日、テケトはその場所で眠って夜を明かすことになりました。 翌朝、目を覚ますとイリオンの姿はどこにもないようでした。それでテケトが辺りを探っていると、一つのざらざらした石がそこにあるようでした。 その石は、古い墓石でした。表面に触れてみると、そこには何百年もたってほとんどすりきれてしまった文字で、「イリオン」と刻まれていました。
テケトは鈴の音の鳴るままに、旅を続けました。草や鳥の囁きに耳を傾け、手の杖の感触を確かめながら、歩き続けていきます。鈴の音は相変わらずの調子で、不思議な透明さを持って響いていました。 そうしたある日、テケトは激しい夕立に襲われました。耳一杯に雨音があふれて、道はぬかるんで満足に歩けそうもありませんでした。 (どこか雨宿りのできる場所を探さないと) と、テケトは思いました。このままずぶ濡れになってしまえば、風邪だってひきかねません。 テケトがともかくも歩き続けていると、雨音が変わって、途中で雨の途切れたところがありました。小さな丘の頂上の辺りで、どうやら大きな木か何かがそこにあるようです。 (ちょうどいい) と思って、テケトはその木の下で雨の上がるのを待つことにしました。テケトはその木の根元に腰を下ろし、荷物と上着を脱いで近くにおいておきました。 雨音は木の枝でさえぎられ、いくぶん静かになったようです。 (いつになったら上がるんだろう?) テケトは少し冷えた体を抱えるように座りながら、とりとめもなく考えてみました。このまま雨が降り続いていれば、今夜はこの木の下で一夜を過ごさなくてはならないかもしれません。 途切れなく続く、ため息のような雨音の中でも、テケトの耳には鈴の音だけははっきりと、まるで特別の耳の入り口を持っているかのように変わらずに聞こえていました。 と、その音が不意に、ほんの少し大きく鳴ったようでした。 「?」 テケトはほんの少し顔を上げて、辺りの様子をうかがってみましたが、壁の向こうから聞こえてくるような雨音の他には、何の変化も感じられませんでした。 「君は旅をしているのかい?」 そんなテケトに、急に声がかけられます。 テケトは少し驚きながら、でも決して慌てたりはしませんでした。声のしたほうに顔を向けて、 「そうです。急に雨が降ってきたから、ここで休んでるんです」 と答えました。 「そうか、僕も同じなんだ。旅の途中で、この木の下で雨宿りをしている」 その人はそう言って、テケトの隣に腰を下ろしたようでした。 「よければ、少し話でもしないかい? どうせこうしていても退屈だろうから。もちろん、君が嫌なら、無理にとは言わないけれど」 声の感じからすると、悪い人ではありませんでした。テケトは別にいいですよ、と答えます。テケトも、こんな雨の中でじっとしているのは退屈なことだったのです。 その男の人は、自分のことをレーネルと名のりました。物静かで落ち着いた、それでいて朗らかな声をしています。歳は二十歳過ぎといったところでしょう。 「君は目が見えないのに旅をしているのかい?」 レーネルはテケトの事を聞いて、驚いたようでした。 「それでおかしいとは思ったんだよ。だって、君は僕がこの木のところにいるのに、まるで気づかないようだったからね」 テケトはそれで、自分が旅に出た理由をすっかり話してしまいました。 「鈴の音……?」 レーネルはびっくりしたような、すこしぎくっとしたような奇妙な声を出しました。 「そうです。僕にはその鈴の音が今も確かに聞こえているんです」 と、テケトは言います。そして、 「レーネルさんは、どうして旅をしているんですか?」 と訊いてみました。 「僕かい? 僕は……、そう、君と同じなんだ。君と同じ理由で、僕はもう十年も旅を続けている」 「同じ理由?」 テケトはとっさに、レーネルの言うことをうまく飲み込めませんでした。 「そう、同じ理由だよ。僕も鈴の音を追って、旅を続けているんだ」 「――」 テケトはうまく口を開くことができませんでした。まったく、そんな事は思いもしなかったのです。まさか自分と同じ理由で旅をしている人がいるなんて。 そしてその人は、もう十年もそれを追い続けているというのです。 「レーネルさんは、まだ鈴の鳴る場所を見つけられないんですか?」 と、テケトはいささか興奮するように慌てながら訊きました。 「うん」 レーネルは、苦笑するような、やりきれないような声で答えました。 「僕はずっとそれを求めて旅しながら、いまだにそれを見つけることはできないでいるんだ。十年間、ずっとだ。その間、鈴が鳴り止んだことはないし、僕はずっとそれを追い続けた」 「ずっと、ですか?」 「そう、ずっとだよ。その音を聞いていると、そうせざるをえないんだ。君にも分かるだろう、それがどういうことか」 テケトは、こくりと頷きました。 「でもね、正直なところ僕は最近、その場所が本当にどこかにあるのかどうか、信じられなくなっているんだ。このまま鈴の音を追い続けていても、どこにもたどり着きはしないんじゃないかとね」 レーネルは、少し言葉を切ります。 「けど同時に、僕は決してそれを追うことをやめられないんだ。その鈴の音は、あまりにも確かに聞こえてくるのだから。そしてその場所には、僕が求めるべきものが存在しているような気がするから。僕は僕のすべてを犠牲にしても、そこを目指さなくちゃならないんだ」 そういったレーネルに、テケトは言うべき言葉が思い浮かびませんでした。
鈴の音は、結局は追いかけてもたどり着けないものなのでしょうか。それは永遠に追いかけっこを繰り返す昼と夜のように、決して追いつけはしないものなのでしょうか。あるいはそれは、人の身にはあまりにも遠いところで鳴っているのかもしれません。 テケトの足は、そんなことを考えて前より重く、鈍くなっていました。鈴の音は相変わらず聞こえていましたが、テケトにはその音を聞くのが、何だか怖い気もしています。 (僕は決してたどり着けない場所を目指しているのかな?) その思いは、決して洗い落とせないしみのように、テケトの頭から離れませんでした。 テケトは旅を続けながら、迷っていました。このまま旅を続けるか、それとも引き返すかということです。レーネルは決して引き返しませんでした。けれどテケトには、まだ帰るべき場所があります。 それから何日かたった時のことでした。 テケトは自分がどこをどう歩いたのかも覚えてはいません。ただ足だけが、光を求める夜の虫のように勝手に動いているだけでした。 そして気づいた時――。 テケトの鈴の音は止まっていました。 まるでそんなものは最初からなかったんだといわんばかりに、鈴の音はまったく聞こえなくなっていました。テケトはその音を思い出すことはできます。今までずっと追い続けてきた音を。けれどそれは、もうどこからも聞こえてきはしませんでした。 その代わりに、テケトの耳には今、体全体をくすぐるような、奇妙な音が聞こえています。 音は一定のリズムでやってきたり、引いていったりしました。それはまるで、何かを求めてやって来て、けれど何もつかめずに帰っていく、そんな悲しい音にも聞こえました。 その音は、永遠に求めるものを手にすることはできない、そんな宿命を背負っているような気がしました。 テケトはそっと、その音のほうに近づいてみます。 すると水がテケトの杖と足元を洗い、すぐまたどこかへ戻っていってしまいました。その水は、なめると塩からい味がします。テケトが聞いていたのは、海の、波の音でした。 テケトは海を知りませんでした。だからその音が何なのか、テケトには分かりません。でも、その音を聞いていると、テケトは何だか心が落ち着いてくるようでした。 なおも、テケトが波打ち際でじっとしていると、不思議な光が辺りにあふれてきたようでした。その光は暖かく、どんなものをも一緒くたに溶かしてしまうようでした。それは、夕陽です。テケトは、陽の沈む海の前で、立ちつくしていました。 夕暮れが、その体を赤く染め上げています。 旅が終わったことを、テケトは知りました。 テケトには帰る場所がありました。そこには父親や、母親がいました。図書館の奥の一室で、ラシーヌが退屈そうにしています。そここそが、テケトの帰る場所でした。 鈴の音は、もう聞こえてきません。 けれど、テケトはもっと大切なものに気づきました。それは幸せです。それこそは、自分の内側から響いてくる美しい鈴の音でした。
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