[空を飛んだ魚の話]

 とある国のとある湖に、大きな魚が住んでいました。イサナという名前で、大きいといってもお城ほど大きくはなく、小さな部屋になら収まるといったほどでした。
 日がな一日小魚を追い回したり、岩についた藻を食べるうち、イサナはいつしか自分の上の、なにやら奇妙にゆがんだ場所を、くるくると泳ぎ回っているものに気づきました。
 イサナはそれがひどく気になったので、ヨナという湖で一番歳とって、何でも知っているというウナギの翁に会いに行きました。
「おおい、ウナギのじいさま」
 イサナは湖の底まで潜って、ヨナの住んでいる穴に呼びかけました。
「なんじゃ、うるさい。まぁ、誰かと思えばイサナの坊主か」
 穴から顔を出して、ヨナは言いました。
「ウナギのじいさま、あのぐにゃぐにゃゆがんだ水の中を泳いでるのは何じゃ?」
「何を言っとるのか、分からんぞい」
「あれじゃ、あれ。いつも泡が上っていく方にある、あれじゃ」
 イサナはあごで上のほうを指し示しました。
「なに、ありゃ、そう、『空』じゃ」
「ソラ? 何じゃ、そりゃ」
 イサナはびっくりして訊きました。今まで自分たちの上にそんなものがあるなんて事を知らなかったのです。
「空というのは水のないところじゃ。この湖の上には水のない『地上』というものがあって、そのずっと上に空というのがある。あそこで泳いでいるように見えるのは『鳥』という奴じゃ」
「トリ?」
 イサナにはまた聞き覚えのない名前でした。
「そう、空をすいすい飛んでいる。わしらが水の中を泳ぐように、鳥は空を自由に飛んで泳ぐことが出来る」
「そいつは、おもしろそうだのう」
 と、イサナはえらを動かして興奮しました。
「じいさま、そこに行くにはどうしたらいいんじゃ?」
「無理じゃ、無理じゃ」
 ウナギのじいさまは体をくねらせて首を振りました。
「わしも地上までは少し出たことがあるが、苦しくて五分ともたん。ましてや空に行くなんて無理なことじゃ」
「じいさまには無理でも、俺には出来るかもしれん」
 イサナはなおも体をくねらせるヨナを残して、泳いで行ってしまいました。

 その翌日、イサナは湖岸で水浴びをする鳥を見つけ、近づいてみました。
「こんにちは」
「わっ、驚いたなぁ」
 鳥は、イサナが大きくて自分なぞ一飲みにしてしまえそうなことに幾分びくびくしながら言いました。
「僕に何か用かい?」
「空の飛び方を教えて欲しいんじゃ」
「空の飛び方?」
 鳥はイサナを避けて岸の方に戻りながら言いました。
「僕を食べるつもりはないんだね?」
「そんな気はないぞい」
 イサナは首を振って言いました。
「空を飛びたい?」
 と、鳥はもう一度訊きました。
「君が?」
「そうじゃ」
 途端に鳥は大笑いを始めました。
「だって君は魚じゃないか。魚は水の中を泳ぐことは出来ても、空を飛ぶことなんて出来ないよ」
「そんなことはない」
「じゃあ訊くけどね、君は水の外で息が出来るのかい?」
「いいや」
「空を飛ぶための羽を持っているのかい?」
「いいや」
 鳥は笑って言いました。
「じゃあ無理だよ。君に空なんて飛べっこない。君は僕のように水の外で息をすることも出来なければ、風を打つための羽も持っていないんだもの」
「そんなことはない」
 とイサナは憤然として言いました。
「いいや、無理だね」
 イサナが怒って飛びかかろうとすると、鳥は笑いながら空に飛んでいってしまいました。

 イサナは、それから空を飛ぶことばかりを考えていて、食べ物もとらずにとうとう病気になってしまいました。
 ある日、イサナがまるで死んだように湖を漂っていると、岸に一人の人間が立っていました。
 その男は着ているものはぼろぼろで、ひょろりと痩せ、今にも倒れそうでした。イサナと同じように何も食べていないようです。
 イサナはその男に話しかけてみました。
「こんにちは、そこの人」
「あ、なんだ、魚か。珍しい、しゃべる魚なんて」
「そこで何をしてるんじゃ?」
 と、イサナは訊ねます。
「私は絵描きなんだがね、食べる物がなくてお腹がすいて、もう一枚だって絵を描くことが出来ないんだ」
「『絵』ってなんじゃ」
「絵か、絵というのは自分の空想を形にすることだよ」
「空想を形にする?」
 イサナは驚きました。
「そんなことが出来るのかい?」
「まあね。でも今は無理なんだ。腹ペコで筆を持つ力だって出ないからね」
「じゃあ、腹いっぱいになったら俺の頼んだ絵を描いてくれるかい?」
「そりゃ構わないけど」
 絵描きは訝しそうに言いました。
「じゃあ俺を食ってくれ」
 と、イサナは言います。
「俺を食って、それで腹いっぱいになったら俺が空を飛んでいる絵を描いてくれ」
「それでいいのかい?」
 イサナはうなずきました。
 絵描きの男は家までイサナを連れて帰ると、さっそくイサナを半分に切って焼いて食べました。
 それから一週間かけて絵の半分を仕上げると、次はイサナのもう半分を頭だけ残して食べて、残りの絵を仕上げました。
 完成した絵の中では、大魚が悠々と空を泳ぎ、気持ち良さそうに翼をはためかせています。
「ああ、なんて気持ち良さそうなんじゃろう」
 イサナはそう言って、それからゆっくりと眼を閉じました。

 絵はその国の王様に献上され、絵描きは大変なほうびをもらいました。国王はその絵をたいそう気に入って、絵はお城の広間に飾られることになりました。
 その絵は今でも同じ場所に飾られているそうです。

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