1
――目が覚めると、外には雪が降っていた。 わたしは冷たくひえたガラスの向こうにある、真っ白な綿ぼこりのようなそれをぼんやりと眺めていた。街はいつもより静かで、湖の底にでも沈んでいるようだった。 わたしが息を吐きかけると、窓ガラスは白く曇って、いつまでも元には戻らなかった。 温かい布団から苦労して体を外に出し、ストーブに火を入れ、氷のように冷えてしまった服に着替える。パジャマを洗濯籠に放り込み、朝食の準備にかかった。 トースターのタイマーをあわせ、コーヒーを沸かし、冷蔵庫からベーコンと卵をとりだして、油を引いたフライパンで焼く。黒い鉄のフライパンの上で、ジュージューと音がした。 目玉焼きを皿に移し、コーヒーをコップに注いでテーブルに並べる頃、トースターのチーンという音が鳴った。わたしは二枚のパンを皿に置き、マーガリンを持ってテーブルのイスに座る。 わたしはこんがりと焼けたトーストにカリカリと音を立てながらマーガリンを塗り、一口かじった。それからコーヒーに砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき回す。 わたしはいつもより心持ち丁寧に、静かに朝食を口にした。
2
アパートの外に出ると、強い風が吹いてわたしは少し息を止めた。雪が慌てるようにくるくると動いて、それからまた元のようにふわふわと落ちていく。 わたしは帽子を少し直し、髪をなでつけ、背負った皮の鞄をかつぎなおした。 道は白く染まって、赤いレンガ造りのアパートを見返すと、周りの建物と肩を寄せあって寒がっているようにも見えた。カーテンはどこも閉まっている。 積雪三cm―― 世界はほんの薄い膜に包まれていた。明日になれば太陽の光に溶かされてしまうような、薄い膜。 わたしはギュッギュッと雪を踏みながら、歩き出す。 両側のビルが山の谷間のようにそびえ、薄い影が地を覆っていた。わたしは大地の底でも歩くような気分で、ゆっくりと足跡を残していった。 どこまでも続く―― 白い世界。
3
横断歩道の信号が変わる。 いっせいに歩き出す人々、虚ろに響く足音、信号の音が警笛のように響き、車のエンジン音がおとなしい獣のうなり声のようにその場にとどまっていた。 雪はすべての音を拡大し、誇張しているようだ。 わたしはそんな中、大勢の人々と一緒に横断歩道を渡る。 通勤や通学のために道行く人々、白い息を吐き、誰もが寒さに表情を固くしている。足だけを無意識に動かし、厄介なこの白い世界から少しでも早く逃れようとしていた。 わたしは歩きながら、白い雪の降ってくる空を見上げる。 どこか遠くで、カラスが一声だけ甲高く鳴いた。
4
河川敷。 わたしは細い土手道を歩いていく。 短い傾斜の向こうにあるグラウンドも今は雪の下にあって、小さな眠りについていた。川はいつもよりもいくぶんかぎこちなく流れ、川上の鉄橋はひどく弱々しく見えた。 人のいない、まだ足跡のついていない道を、わたしは歩いていく。 そうしているとまるで、世界には誰もいなくなってしまったようだった。 わたしだけが、この世界にとり残されている。 それは案外―― 悪くない気分だった。
5
音がして、線路の遮断機がゆっくりと下りてくる。 わたしはポケットに手を突っ込んだまま、立ち止まっていた。 こんな日でも、遮断機はいつもと同じようにその役目を果たしていた。 信号が赤い明滅を繰り返して、向こうから小さな箱のような列車がやってきた。ガタゴトガタゴトという音が次第に大きくなってきて、丸いライトをつけた特急列車がどこか遠くへ行こうとしている。 列車はわたしの前までやってくると、まるでわたしのことに気づいた様子などなく、行き過ぎてしまった。連結車両から漏れる明かりが、何かを囁くように通り過ぎていく。 風がわたしの帽子を揺らし、音が遠ざかっていった。 しばらくして遮断機がゆっくりと上がり、何事もなかったようにその場所は元に戻っていた。 わたしも、何事もなかったように歩き出す。 列車の中の何百人かの行く先に思いをはせるには、わたしはあまりにこの世界にとどまりすぎていた。
6
陸橋を歩くわたしの足元を、音を立てて車が通り過ぎていく。 地面には車のタイヤの跡が轍のように残り、雪の積もる間もなくそれは新しくされていった。車はまるで止まることを忘れてしまったように、絶え間なく過ぎてく。 わたしは川のない橋の片側に立って、そんな景色をぼんやりと眺めていた。 橋の上にはいくつもの足跡が乱雑に残されていた。子供の小さな足跡、反対からやってきてすれ違う足跡、急いでいるように歩幅の大きな足跡、誰かを待つように立ち止まっている足跡―― わたしは自分の足跡を眺め、その先のまだわたしの足跡のついていない道を眺めた。 それから欄干の上に積もった雪を落としながら、わたしは歩きはじめる。
7
住宅地には子供達の残した気配がいくつもあった。 なんだかそれは、今にも動き出しそうだった。 駆け回るようにつけられた足跡や、作りかけの雪だるま、ブロック塀に残る雪玉の跡や、雪の上に書かれた落書き。 わたしはそんなものを丹念に見ながら歩いていった。 降り積もる雪はゆっくりと、優しく、そんな跡を消していこうとしている。 ふと、わたしは立ち止まった。 そこには黄色い傘が開かれらまま置かれていて、その下には小さな雪兎が並んでいた。 赤い目と、緑の耳をした小さな兎――
8
公園の中は、森閑とした静寂に包まれていた。 道には足跡一つなく、木の枝には雪が白く積もっている。そこはまるで、ちょっとした世界の果てという感じだった。 心なしか、吐く息の白さまでが少し濃くなっているような気がする。 わたしは自分の息の白さを見つめながら、奥へと進んだ。 end
of the world
―― 世界の、終わり。 木立が切れて突然視界が開け、そこには大きな池が広がっていた。 レンガ敷きの広場の手すりにまで行って、わたしはその神様の水たまりを眺めた。 鏡のような水面に、雪が音もなく溶かされていく。向こうには、白いボートが永遠の時に閉ざされたように、水の上にじっと浮かんでいた。 そんな光景を、わたしはいつまでも眺めている。 時間はゆっくりと意味をなくし―― 空間はゆっくりとその座標を失っていった。 そして―― 世界から、音が消える。
――バサバサバサバサ
森の中から鳥の羽音が響いて、カラスの群れが空へと飛び立っていった。黒い影が空を横切り、そして去っていく。 わたしは一度大きく息を吸って、吐いた。 時間はゆっくりとその意味を取り戻し―― 空間はゆっくりとその座標を回復していく。 世界にはもう一度、音が満ちはじめていた。 わたしはなんだか嬉しくなって―― 少しだけ、微笑った。
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