[詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない]

「詩人というものは」


詩人はいつだって嘘つきだ

 その言葉は 空に描いた透明な絵
 その言葉は 風に刻んだ文字
 その言葉は 重さのない月の光

それでも
詩人が真実を語ることだってある

 例えばそれは 光が踊るとき
 例えばそれは 風が歌うとき
 例えばそれは 生命が終わるとき


                    千瀬 凛

【C まだ汚れていない怪獣たち】


 冬休みももう間近に迫った、十二月のこと。
 空気は冷凍庫に入れたみたいに冷たくて、水道の水は手に触れると痛くなるくらいだった。形にならなかった言葉みたいに吐く息が白くて、夜空の星は凍てついた氷と同じくらい固くなっている。
 誰もが、もう世界が暖かかったときのことなんて思い出せなくなり、服を厚くしてそれを遠ざけようとしていた。体を小さくし、窓を閉め、手を震わせて、できるだけ冬をやりすごそうと。
 でもそんな寒さもまだ下準備の段階で、これからもっと、ずっと、世界は冷たくなっていくのだった。水も空気も言葉も、何もかも氷りつかせてしまうくらいに。
 虫も獣も植物も、もう眠りにつこうとしていた。土に潜り、塒に籠り、葉をすっかり落として。空の上の太陽さえも、それは同じだった。
 世界はそうして、いつもみたいにゆっくり、着実に、死へと向かっていた。
 まるで――
 遊び疲れた神様が、すべてのおもちゃを片づけてしまうみたいに。

 十二月はじめにあった期末試験も無事(?)終わって、学校の空気はどことなく緩んでいた。
 廊下を歩くみんなの表情も明るくて、すっきりしている。声は大きく、足音は軽い。何だか空を背負っていたどこかの巨人が、肩の重荷を降ろしたみたいに。
 それはあたしも同じで、まったくのところ解放感にひたりきっていた。テストの結果はどうあれ、すべては終わってしまったのである。幸いなことに、覆水は盆に返ったりしない。
 誰もがみんな、もう何もかも終わってしまったみたいな、そんな雰囲気だった。食事をして、歯磨きをして、お風呂に入って、宿題も片づけて、目覚ましをセットして、布団も整えて、さああとはもう寝るだけだ――そんな。
 いったん、すべてのことをリセットして、やり直すみたいに。
 ――でもそんな中で、先輩の様子はどこかおかしかった。
「…………」
 先輩とあたしは、部室で本を読んでいるところだった。
 前にも言ったとおり、文芸部の部室には高級マンションなんかと違って、冷暖房は完備されていない。夏のあいだお世話になった扇風機くんは、お役ごめんになってとっくに片づけられ、今は電気式のヒーターが置かれている。
 とはいえ、このヒーターもやる気のほどは似たりよったりで、あまり熱心に仕事をしてくれているとは言えない。部屋の空気はいつまでたっても冷たいままで、こっちから近づかないかぎり効果を実感するのは難しかった。何だか、ネズミを見ても知らんふりをしてるネコに似ている。
 文明の利器には頼れそうになかったので、先輩もあたしもオーバーを着たままでいたり、膝かけを使ったりすることが多かった。とりあえず、それで当面はしのげている。何しろ、南極の海に一年以上も閉じ込められているわけじゃないのだ。
 それに暑くても寒くても、本たちはそんなこと気にしたりはしなかった。勝手に文字を大きくしたり小さくしたり、文章の前後を入れ替えたりもしない。誰かも言ったとおり、万物は流転するけど、「万物は流転する」という言葉は流転しない。
 あたしは部室に置いてあった、古い航海記を読んでいるところだった。南極大陸の初横断を目指した探検隊の話だ。先輩はテーブルの向かいで、何か別の本を読んでいた。
「……今年の冬は寒くなるそうですね」
 と、あたしは言ってみた。特にしゃべる必要はなかったけれど。
「そうね――」
 先輩は本から顔を上げることさえしなかった。鯛を釣ろうと思ったら、もうちょっと上等なエビが必要なのだ。
「クリスマスまでに雪が降るって話ですけど、どうでしょう?」
 あたしはめげずに、下手な鉄砲を撃った。エベレスト登頂といっしょで、先輩と話をしようと思ったら、これくらいのことで諦めてはいられない。
「さあ、どうかしらね――」
 先輩は顔を上げて、窓の外を見た。少なくとも、一歩は前進したわけである。月に行くほどじゃないにしろ。
「……先輩は、雪は好きですか? あたしはわりと好きなんですけど」
「わたしは――」
 その時、先輩は何か言おうとしたみたいだった。神様がうっかり、自分の名前を教えようとするみたいに。
 でも結局、先輩は少しだけ首を振る動作をしてから、本のほうに視線を戻してしまう。
「――いえ、何でもないわ」
 それっきり、先輩は口を開こうとしなかった。どこかの女神さまが、洞窟の奥に隠れてしまうみたいに。
「…………」
 やっぱり先輩は、何だかおかしかった。まさか、誰かみたいに試験の出来を気にしているわけでもあるまいし。
 もっとも、先輩のどこがおかしいのかと具体的に訊かれると、あたしも困ってしまうのだった。それはほんの少しの、天文学者くらいしか気にしない惑星の軌道のずれみたいなものだったかもしれない。
 そのことについて、あたしは先輩に直接問いただしたりはしていなかった。長いつきあいとは言えないにしろ、先輩がそんな質問に素直に――あるいは、迂闊に答えるはずはなかったからだ。無理にそんなことをしたって、ネジ山の頭を潰してしまうのがオチである。
 でも、このまま手をこまねいている、なんてこともできなかった。それはあたしの性分じゃないし、望むところでもない。
「…………」
 あたしは本を読むふりをしながら、こっそりと先輩のほうをうかがってみた。
 ――本のページに目を落とす先輩は、どこか現実感に乏しかった。
 それは何だか、空と海が溶けあって、境界がはっきりしなくなるのに似ていたかもしれない。

「――三年生にすっごいイケメンがいるらしんだけど、千瀬も見にいかない?」
 という、わりとどうでもいいお誘いを受けて、あたし(他三名)は一年生の教室がある二階から、三年生の教室がある四階まで移動中だった。
 昼休みのことで、もう食事は終わっている。暖房の効いた教室の外に出ようなんて物好きは少なくて、廊下も階段も閑散としていた。凩(こがらし)が吹いてないのが幸いなくらいだ。
 人や動物と同じで、音や空気も冬ごもりをするのか、何だか校舎の雰囲気はいつもと違っていた。缶詰みたいに、固く密閉されている感じだ。
「……というか、今さらそんな三年生を見物に行ってどうするわけ?」
 途中、あたしはごくまっとうな意見として訊いてみた。三年生なんて、もうすぐ卒業してしまうのに。
 それに対する友人のご高説は、
「今だから、でしょ」
 ということだった。卒業してからじゃ、イケメン度なんて確認のしようがない、ということらしい。それも一つの意見ではあった。
 さらに言うには、
「何でも、タレントにスカウトされてて、芸能界デビューが決まってるらしいよ」
 とのこと。その尾ひれがどのくらいのものかは、あたしにはよくわからなかった。逃した魚はいつだって大きいものだ。
 そうやって輝かしい青春の一コマを増やそうとしていたときに、あたしはふと足をとめた。階段の途中、三階から四階に向かうところで。
「どうした、千瀬――?」
 先に行っていた三人が、踊り場から振り返る。カードゲームで、相手の順番を待つみたいに。
「悪いけど――」
 勝手に口が動くのを、あたしは黙認した。
「ちょっと用事が出来たから、先に行ってて」
 抗議の声は却下して、あたしは三階の廊下に向かった。豚の鳴き声みたいのが追っかけてくるけど、やっぱり無視。
「…………」
 あたしは確かに見たはずのその人を探して、きょろきょろした。学校の廊下はどこかの地下迷宮みたいには広くないので、親切な王女がくれた糸がなくても簡単に見つかる。
「モナカ先輩」
 と、あたしは声をかけた。
 呼びかけるときに、百奈先輩でも桃花先輩でもなく、モナカ先輩になるのは我ながら不思議だった。でもこれが一番しっくりくるのだし、何事にもフィット感は大切だ。
 百奈先輩はすぐ気づいて、こっちを向いた。購買で買ってきたのか、紙パックの牛乳を飲んでいる。
「……それ、購買のですか?」
 念のために、あたしは訊いてみた。
「――ああ」
 と、百奈先輩はストローをちゅうちゅうやりながら言う。
「成長するのに、牛乳は大事だからな」
「……大事ですよね」
 打ち出の小槌を発明したほうが早そうだけど、一応本人にも成長するつもりはあるみたいだった。
 百奈先輩は当然といえば当然だけど、白衣を着ていなかった。普通に、冬用のセーラー服を着ている。学校は日常的に白衣を着る場所としては、ふさわしくないのだ。
 でも白衣姿じゃない百奈先輩は、何だか百奈先輩らしく見えなかった。どちらかというと羽化する前の蝶とか蝉とか、そんな感じに近い。本人は特に、そんなこと気にする様子はなかったけれど。
「モナカ先輩は、教室に帰るところですか?」
 あたしは周囲を見まわしながら、訊いてみた。人の姿を消す画期的な薬でも開発されていないかぎり、百奈先輩は一人のはずだった。
「ああ、そうだが」
「……ちょっと、話をしてもいいですか?」
 声の調子をいくらか落として、あたしは確認した。とても大事で内密な話があったからだ。
 百奈先輩は何となくうさんくさそうな顔で、あたしのことを見た。実験結果が明らかにおかしかったので、途中で誰かが何か間違ってたんじゃないかと疑ってるみたいな顔だ。まあ、それも無理はなかったけど。
 でも結局、百奈先輩はあたしの言うことを聞いてくれたみたいだった。これでも、何百人もいるかわいい後輩の一人なのだ。
「まあいいだろう。別に用事があるわけでもないからな」
「じゃあ、向こうのほうに移ってもらっていいですか」
 あたしの頼みに、百奈先輩は軽く肩をすくめるだけだった。数学的帰納法によって証明されているとおり、一度受けいれられたお願いは、次もまた受けいれられるのである。
「…………」
 一応、あたしは廊下を確認してみた。ほとんど人影はないし、とりあえず問題はなさそうである。それでも、教室とは反対方向にむかう。どこに壁や障子があるかなんて、わかったものじゃない。
 東側の渡り廊下まで来たところで、あたしは足をとめた。ここなら、ほとんど人が来ることはないし、誰かに見られる心配もない。
「厳重だな、たまたま拾った書類に国家機密でも保存されてたか?」
「似たようなものです」
 あたしはまじめに冗談を受けとめてから、ふと思いついて訊いてみた。
「ところで、モナカ先輩は試験の結果はどうでした?」
 百奈先輩はこれが、つきあいきれない冗談なのか、そうでないのか、ちょっと迷うような顔をした。
「それは、国家機密に関係があるのか?」
「多少はあります」
 あたしが厳粛にうなずくと、百奈先輩は正確な科学測定を諦めたみたいな、そんな顔をした。そうして、答えてくれる。
「……化学はよかったぞ」
 嘘ではないけど、含みのある言いかただった。
「ほかはどうだったんです?」
「小説に登場する架空の人物の架空の心情を考察することに、何の意味がある?」
 どうやら、百奈先輩は現代国語がお気に召さないみたいだった。
「――志坂先輩はどうだったか、知ってますか?」
 と、あたしは訊いてみた。
 百奈先輩は確信はないけど含みのある目で、こっちを見てきた。蝶が羽ばたいたから、どこかで竜巻が起こってないか疑うみたいに。
「大体、想像はつくと思うが、リッコは成績のいいほうだ」
 どう解釈したかは不明だけど、百奈先輩は教えてくれた。
「それも、全教科まんべんなく――な」
 全教科まんべんなく悪いほうのあたしとは、好対照だった。
「あいつは昔から、それで一貫してたな」
「……ところでモナカ先輩は、先輩とはいつ頃から知りあいなんですか?」
 あたしは念のために訊いてみた。
「小学校四年くらいだな。ただ――」
「ただ?」
 あたしがうながすと、百奈先輩はちょっとだけためらうふうだった。ブランコにただ座って、少しだけ揺れているときみたいに。
 でも結局は、話してくれた。
「――この時期は、リッコの成績は少しだけ落ちる傾向がある」
「それは今回も、ですか?」
「まあ、そうだな」
 どうやら百奈先輩は実際に、先輩の試験結果を知っているらしい。
「それは、何でですか?」
 当然だけど、あたしは質問した。それが、ここ最近の先輩の様子がおかしいことと、関係あるかどうかはわからなかったにしろ。
「――――」
 百奈先輩は、長いこと黙っていた。実際は一分もたっていないのだろうけど、海の深いところまでフリーダイビングするみたいに。
「そのことに関しては、私からは何も言えないな」
 ――百奈先輩が口にしたのは、それだけだった。
 とはいえ、その短い言葉の空白にはいくつかの情報が含まれていた。まず、百奈先輩はそのことを「言いたくない」わけじゃないこと。そして百奈先輩はおそらく、そのことを「本当は知っている」ということ。
 たぶんそれは、百奈先輩があたしに与えることのできる、最大限のヒントだった。
 あたしは親切な神様にお祈りするみたいに内心で感謝しつつ、言ってみた。
「……モナカ先輩でも、そんなふうに遠慮することがあるんですね」
 考えようによってはまあまあ失礼な発言だったけど、百奈先輩は苦笑してみせるだけだった。
「人間は物理法則ほど頑丈じゃないからな」
 と、百奈先輩は冗談のような本気のような、あるいはその両方でもあるみたいな口調で言った。
「取り扱いには、十分な注意と愛情が必要だ」

 駅前にモープ琴寺≠ニいう百貨店がある。
 街の歴史と同じくらい古いデパートで、何とかという有名な建築家が設計した、重厚かつモダンな外観をしていた。街の観光スポットとしては、必ず取りあげられる建物だ。
 ご多分にもれず経営は苦しいらしく、数年前に一度、大規模な改装が行われていた。建物のよさはそのままに、利便性と経済性を高めよう、というわけだ。
 それが、めでたしめでたしで終わったかどうかは知らないけど、今も経営が続いているのは事実だった。世の中のほとんどのことなんて、白か黒に収まったりしない。
 何にしろ、ここに来れば大抵のものはそろっているし、便利なことは間違いなかった。幸いなことに、あたしは経営難に頭を悩ませる社長じゃなかったので、それ以上の心配は無用である。人間には、抱えられる荷物の量と重さに限界というものがあるのだ。
 品揃えが豊富なこと意外に、お店がおしゃれ、というのもこの百貨店の特徴だった。床はぴかぴかで、フロアは明るくて、たぶん空気だって特別に用意されている。もっとも、そんな新品状態がいつまで続くかはわからなかったけど。
「…………」
 先輩とあたしは、そんな百貨店に来ているところだった。
 別に、学校をさぼって非行少女っぽく遊びに来ているわけじゃない。あたしはともかく、先輩がそんなことするはずもない――いや、あたしもそんなことはしないけど。
 現在、時刻は放課後で、これは立派な文芸部としての活動の一環だった。先輩とあたしは、部で必要な備品を購入しに来たのだ。
 調達予定の品物は、本を補修するためのテープやフィルム、糊なんかだった。破れたページや外れたページ、背表紙の修理に使うものだ。文芸部ではもれなく、そんな技能も身につけられるのである。
 五階の文房具屋さんに行くと、たいした手間もなく必要なものは見つかった。そんなに高価なものじゃないし、別に伝説の勇者の武器防具とかを探しているわけでもない。
 当初の目的は達成したので、あとは自由時間だった。煮るなり焼くなり、好きにしていいわけである。
「本屋さんにでも行ってみますか」
 とあたりを見渡しながら、あたしは文芸部っぽく提案してみた。
 世間ではもうすぐクリスマスというものらしいので、デパートの中はそれに向けてなかなか賑わっていた。クリスマスツリー(たぶん、プラスチック製)やリース(これも、そうかな)がいろんなところに飾られ、たくさんのイルミネーションが点滅している。
 あたしのすぐそばには、サンタクロースの形をした等身大の空気人形が置かれていた。のん気に平和そうなその顔を見るかぎりでは、世界中の子供たちに一日でプレゼントを配り終えるなんていう、人間離れした激務をこなせそうには思えなかったけれど。
 ほかにも店内にはいかにもクリスマスらしいBGMが流れていて、嫌でもそのことを意識させてくれた。フロアを歩く人々もクリスマス仕様という感じで、何だかいつもとは違っている。笑顔にも服装にも、どことなく特別感があった。
 ちなみに先輩とあたしは、学校の制服にコート着用というコーディネイト。先輩は茜色を少しくすませたようなロングコートで、あたしは枯れ葉っぽい感じの茶色をしたダッフルコートだった。
「――先輩?」
 どうも返事がないので、あたしは先輩のほうを振り返ってみた。まさか、ただのしかばねというわけでもあるまいに。
 すると先輩は、どこか一点を注視しているところだった。穴があいてしまわないか、心配なくらいに。
「?」
 あたしは指で触って確かめるみたいにして、その視線の先を探ってみた。
 玩具屋さんや洋服店、カフェなんかが並んでいて、吹き抜けになったエスカレーターのそばには休憩コーナーみたいなスペースがあった。さらに先輩の視線を、視点にまで次元を下げてみると、その先にあるものがわかる。
 ――そこには、二人の子供の姿があった。
 姉妹、だろうか。おそろいの冬服を着て、どこかに向かって走っていた。しっぽを振る小犬が、ちょこちょこ駆けていくみたいに。子供って、走るのが好きなものだ。
 二人は休憩コーナーに置いてある、ピアノのところまでやって来た。アップライトのピアノで、誰でも自由に弾けるようになっている。いわゆる、ストリートピアノというやつだった。おしゃれなことに、鍵盤は虹みたいな七色になっている。
「――――」
 先輩の視点は、やっぱりそこに固定されたままだった。夜の空でいつも決まった位置にいる、北極星みたいに。
 二人の子供は仲よく並んだ音符みたいに、同じイスに座った。二人ともまだ全然小さかったけど、ちょっと大人びた姉と、それに甘える無邪気な妹、という感じだ。
 お姉さんがピアノの練習曲らしいのを少しだけ弾くと、その横で妹がたどたどしい手つきで同じところを弾いた。雪の上に残った足跡を、慎重に、正確にたどっていくみたいに。
 何というかそれは、幸福な光景だった。見る人誰もが微笑まずにはいられないような、そんな。ちょっと詩に書いてみたくなるくらいだった。
「わりと創作意欲を刺激される景色ですね、先輩」
 あたしは何気なく、先輩に向かってそう言ってみた。
 でも――
 先輩は何の返事もしなかったし、何の反応もしなかった。賛成も同意もしなかったし、ましてや微笑んでなんかもいない。
 その時の先輩はむしろ、何かを耐えているみたいだった。怪我や病気の痛みを静かにしのぐみたいに、壊れた蛇口からもれる水を何とか止めようとするみたいに。
 まるで、暗い宇宙の真空中で呼吸をしようとするみたいに。
「先輩――?」
 と、あたしは声をかけてみた。
「大丈夫ですか、先輩?」
 けど先輩は、なかなか答えようとはしなかった。何かを押さえようとするみたいに、胸元に軽く手をあてている。それでいて、視線は頑固なネジくらいに固定されたままだった。
 あたしはどうしていいか、まるでわからなかった。助けを求めるべきだったのかもしれないし、救急車でも呼ぶべきだったのかもしれない。
「――大丈夫よ、わたしは」
 やがて、先輩は言った。
「もう、問題はない。十分平気だから」
「でも先輩、顔色が……」
 ホラー映画みたいに真っ青ですよ、と言おうとして、あたしはやめておいた。それくらいの空気は読める。
「心配しなくても、大丈夫よ」
 と先輩は、頑なに同じものばかりを食べ続ける草食動物みたいに言った。
「それにこれは、千瀬さんとは関係のないことだから」
 ――千瀬さん?
 あたしは今までに一度でも、先輩から名前で呼ばれたことがあったかどうか思い出してみた。たぶん、ないはずだ。よっぽど特殊な場合をのぞいては。
 とすると、どうなんだろう。
 これは、月に足跡を残すくらいの大きな一歩なんだろうか。それとも、三歩進まずに二歩下がるくらいの後退なんだろうか。
「…………」
 先輩はそれでもしばらくのあいだ、二人の女の子を眺めていた。深い穴倉に何年も閉じ込められた囚人が、牢の隙間からもれるほんのかすかな光にでも、目を向けずにはいられないみたいに。
 その横顔に、あたしは何だか見覚えがあるような気がした。どこか遠い場所、いつか古い時間に。そこには原画と模写くらいの違いはあったかもしれないけど。
 そう――
 先輩の横顔に浮かんでいたのは、何か失ったものを見る人の表情だった。もう、手も声も届くことのない、そんな何かを失った人の。
 あたしはそんな先輩に、かけるべき言葉も、尽くすべき手立てもないまま、ただじっとそばに立っていることしかできなかった。

 たまの日曜日だというのに、あたしは図書館に一人で来ているところだった。
 県立の図書館で、もちろん規模は学校の図書室なんかとは比べものにならない。メダカとクジラくらい、とまでは言わないけど、イワシとイルカくらいには。
 ここと比べたら、文芸部の部室にある本なんて、全部ちょこんと指先にのってしまう程度のものだろう。先輩やあたしの存在にしたって、世界と比べれば実際はそんなものなのかもしれない。
 あたしは案内板を確認し、目あての場所に向かった。事前にある程度の調べは出来ているので、そんなに時間はかかったりしない。
 ――必要なものを持ちだし、机に座って、さっそくページをめくっていく。
 図書館の中は、空気が平らに均されているみたいに静かだった。物音や人の声がちょっとしただけでも、すぐ元に戻ってしまう。目に見えないたくさんの小人が、掃除でもしているみたいに。
 あたしの調べものは、すぐに終わってしまった。ある意味でそれは、もうわかっていたことの確認でしかなかったからだ。黄金虫が、秘密の財宝の隠し場所まで導いてくれるみたいに。ヒントさえあれば、あとはちょっとした齟齬に気をつけてさえいればいい。
 いくつかのメモをとって、あたしはページを閉じた。そこにあった情報量はたいしたものとはいえなかったし、最初から期待もしていない。何しろそこに書かれていたのは、世界の片隅で起きた、とるに足りない出来事にすぎなかったのだから。
 でもそれは当事者にとってみれば、世界のすべてでもあるのだった。
「…………」
 それから、あたしは文化祭のことを思い出していた。
 次の問題を探すために、みんなで手分けをしていたときのことだ。あたしは一人で校舎を離れ、弓道場のほうに向かったのだった。人気のない、林の奥に。
 そしてそこには、怪しい人影がいた。
 人影はライトのようなものを使って、壁を調べていた。月までの交信に時間差があるみたいに、あたしは少し遅れてから、ようやくその人が誰なのかに気づく。
「あの、もしかして――」
 と、あたしは慎重に声をかけた。
「学校のいろいろなところに、見えない文字を書いていたのは、あなたですか?」
 すると、その人はこっちのほうを見た。内心でどれくらい驚いているのかは不明だったけど、まるでずっと前から、こうやってあたしに話しかけられるのがわかっていたみたいに。
 それは、ちょっと陰はあるけど穏やかな、好青年風の男の人だった。嫌味のない目鼻立ちをしていて、礼儀正しく、思慮深そうな表情をしている。透明で明るい、月の光みたいな雰囲気があった。年齢はたぶん二十代後半というところで、それは先輩の推測とも一致している。
「――――」
 その人はしばらくのあいだ、黙っていた。それは、そうだろう。いきなり目の前に現れた女の子に、自分たちの秘密のやりとりのことを訊かれたのだから。それに第一、その人が当の本人かどうかさえ、まだわかっていない。
 種類のよくわからない空白の時間が続いて、あたしが不安になってきた頃、その人は言った。
「……どうして、そのことを?」
 ひとまず、あたしは安心した。ということは、人違いでも勘違いでもなかったわけである。
 あたしは事の経緯を、可能なかぎりかいつまんで説明した。それは虫喰いだらけのダイジェスト版もいいところだったけど、その人には通じたみたいである。それにこの場合に重要なのは、過程じゃなくて結果のほうだった。
「なるほど、ね」
 と、その人はうなずいた。あたしの説明の、十倍くらいは理解している感じだった。
 それから、とりあえずお互いの自己紹介をしておく。その人は、清塚真悟(きよつかしんご)という名前だった。ちなみに、やりとりをしていたもう一人の相手は、咲島(さきしま)まどかという人らしい。
「それで、えっと……」
 あらためて質問しようとして、あたしは迷った。ある意味では、あたしたちは個人的な手紙のやりとりを盗み見ただけの、部外者だった。詳しい話を聞く権利や資格なんてないかもしれない。
 でも躊躇したのは一瞬で、あたしはすぐに訊いていた。迷ったり考えたりするのは、あたしの性分じゃない。
「――清塚さんと咲島さんは、どうしてこんなことをしてたんですか?」
 その質問に、清塚さんはまたしばらく黙っていた。心情的に答えたくないのかもしれないし、事情的に答えられないのかもしれない。どっちにしろ、あたしに文句を言うような筋合はなかった。
 でも清塚さんは、やがて言った。夜の空が、音もなく回っているみたいに。
「たいした話があるわけじゃないんだ」
 それは、森で静かに鳴く鳥に似た感じの声だった。
「よくある話……よくある話だよ。ちょっとした誤解とか間違いが、どうしようもないくらいの結果を招いてしまう。そうやって壊れてしまったものは、もう二度と元に戻ることなんてない」
 それから聞かされた事情は、大体次の通りだった。
 清塚さんと咲島さんの家は近所にあって、仲がよかったそうだ。親同士が大学時代からの親友で、家族ぐるみのつきあいだったという。
 清塚さんと咲島さんはそんな家に生まれた同い年の子供で、当然のように兄妹みたいにして育った。いわゆる、幼なじみというやつだ。別にギュスターブ家とモロー家みたいに、長いいざこざをやっていたわけじゃない。
 中学時代まで、二人はぴったり身をよせあうようにして育った。光と影の境界線が、いつもくっついているみたいに。二人はパズルのピースみたいにお互いの形を補いながら、もう一つ別の形を作っていた。誰にも、それをばらばらにすることなんてできない。
 すべてのことは、何の問題もなさそうに思えた。この幸福の完全は、誰かを犠牲にしたり、何かを代償にして得られたものじゃない。恥じることも遠慮することもない。
 でも結局、そんな完全が続いたりすることはなかった。
 金の切れ目が縁の切れ目、というのは本当のことみたいだ。清塚さんの言う「よくある話」というのは、要するにそれだった――つまり、金銭トラブルだ。
 咲島さんの家が、詐欺の被害にあったのだった。絶対に儲かるから、という謳い文句の投資詐欺だった。きれいなパンフレットに、丁寧な説明、最初にだけ返ってくる配当、そんな感じの。
 その話をすっかり信じてしまった咲島家が、清塚家に持ちかけたのだった。最初は半信半疑だった清塚家も、最後には全面的に信じてしまうことになる。目隠しをされた馬は、どんな崖だって怖がらなくなる。
 それでどうなったかというと、どうにもなりはしないのだった。
 何かおかしいと気づいたときには、会社への連絡がつかなくなり、責任者は高飛びし、投資したはずのお金はどこかへ消えてしまっていた。残ったのは、パンフレットの表紙で自信満々の笑顔を浮かべる社長の写真くらい。
 ――いや、ほかにも残ったものはある。
 それは、憎悪だった。被害にあったのは両家とも同じだし、お互いに納得づくの行為ではあったけど、実際の中身は少し違う。清塚家の場合、犠牲になったのは、いつかお店を開く目的で積みたてておいた開業資金だった。その夢が、すべて水の泡になって消えてしまったのである。
 お互いに仕事をなくしたわけじゃないし、生活そのものがどうにかなってしまうわけでもない。被害額ということでいうなら、咲島家のほうが少し多いくらいだった。
 でも、それで話をなかったことにできるほど、人間は単純じゃない。水は泡になって消えてしまったけど、すべてを流したりはしてくれないのだった。
 まずは、清塚家が咲島家にくってかかる。あんたたちが余計な話さえ持ち込まなければ、こんなことにはならなかったんだ――と。
 それに対して、咲島家も黙っていない。被害にあったのはうちも同じなんだ。それに途中からは、あんたたちのほうが乗り気だったじゃないか――
 見事なまでに、それは泥沼の争いだった。お釈迦様は濁った水の中で咲く蓮華の花を尊ばれたそうだけど、ここではどんな花だって咲きっこない。
 下手に元の仲がよかったせいなのか、事態はこじれるところまでこじれてしまった。こんなのを見たら、アレクサンドロス大王だって困ってしまうだろう。結び目の一つや二つを切ったって、何も変わりはしないのだから。
 そんな親たちの争いに、当然だけど清塚さんと咲島さんの二人は巻き込まれてしまうことになる。ひどい嵐が来てるときに、壁にくっついてるだけの一枚の葉っぱが無事でいられるわけなんてないのだ。
 親同士が絶交状態になると、二人の交際も禁止状態になった。ちょっとでも口をきいたり、いっしょにいるところを見られただけで、二人は親たちから口を極めて罵られた。たぶん人を殺したって、こうまで言われることはないだろう、というくらいに。
 そんな状態で二人にできたのは、物事がこれ以上悪くならないよう、気をつけることだけだった。汚れてしまった絵が、それ以上傷んでしまわないように。破れてしまった本のページが、それ以上千切れてしまわないように。
 ――二人の形が、これ以上壊れてしまわないように。
 中学校時代も、それからも、清塚家と咲島家の関係が修復されることはなかった。ハンプティ・ダンプティでさえ、塀から落っこちたら元に戻らないのに、こんがらがった人間関係が元に戻るわけなんてない。
 そんな中で二人が同じ高校に進んだのは、ただの偶然だったそうだ。強情な魔法瓶みたいに情報を遮断していたせいで、逆に気づかなかったのだという。
 何だか、神様がちょっとウインクして気を利かせたみたいだけど、現実はそれほどロマンチックじゃない。何故なら、二人は一切会うことも、口をきくことさえなかったからだ。友人やクラスメートで、二人が幼なじみだと気づいた人間はいないはずだった。
 二人はもう、自分たちがどこにも行けないのだということを理解していたのだ。地球が、結局はただ太陽のまわりをぐるぐる回っているだけみたいに。その軌道は厳密に、残酷に決定されている。
 壁に見えない文字を書きはじめたのは(先輩が想像したみたいに)、ただの思いつきだった。ダメ元でパスワードを入力したら、ファイルが開けてしまった、というような。
 でも二人は、そのたまたまを受けいれることにした。危険がなかったわけじゃないし、苦労だって多かった。そもそも、こんなことをしたって何も変わりはしないのはわかっていたのに――
 二人はそれでも、秘密の手紙を書き続けた。春に花が咲いて、夏に蝉が歌って、秋に木々が葉を落として、冬にすべてが雪の下で眠りにつくみたいに。あたしたちの心臓が、頼みもしないのに鼓動を続けるみたいに。
 それは二人が卒業するまで、終わることはなかった。憐れな女の子が、小さなマッチの光で暖をとるのと、それは同じようなことだったのかもしれないけれど。
「……それで、二人はどうしたんですか?」
 あたしはその話の先を何となく想像できてはいたけど、訊いてみた。どれだけ確率が決まっていても、サイコロの目がいくつかなんてことは、実際に振ってみるまでわかりはしない。
「卒業以来、僕たちは一度も顔をあわせたことはないんだ」
 清塚さんは、とても淡々とした声で言った。とても淡々とした、そうでないと何かが壊れてしまうみたいな声で。
「風の噂によれば、彼女は結婚して、子供もいるそうだよ。僕も今つきあってる人がいるし、その人のことはとても大切に思ってる」
「これはかなり余計なお世話かもしれませんけど――その、駆け落ち≠ニかはしなかったんですか? だって、あの桑畑の記号は」
「ああ、そこまでわかってるんだね」
 清塚さんは感じのいい先生が生徒を誉めるときみたいに言った。
「あれは中学時代に、彼女が冗談で言いだしたことなんだ。私たち、何だかロミオとジュリエットみたいだね、って。家同士の仲が悪くなりはじめた頃で、でもまだ完全にはダメになっていなかった頃のことだよ。もっともそれは、壊死がはじまって切断するしかない足が、まだくっついてるってだけの話ではあったんだけどね」
「…………」
 あたしは何とも言えなかった。それは冗談ですませるには、あまりに救いのない話だったから。
 それから清塚さんは、あたしの質問に対してあらためて言った。
「実のところ、そのことについては僕たちは一度も考えたことはないんだ」
「一度も、ですか?」
 あたしはちょっと意外だった。変な話だけど、どう考えてもそうするほうが正しくて、まともな気がしたからだ。憲法だって、恋愛の自由を謳っている。
 でも、清塚さんは首を振った。手についた砂を払うみたいに、簡単に。
「僕たちは、世界を損なうわけにはいかなかったんだ。自分たちのために、誰かを犠牲にすることなんてできなかった。そんなふうに幸せになったとしても、いつか必ず、それは壊れてしまったと思う。雨風に野ざらしにされた絵が、あっというまに色あせてしまうのと同じで」
 もちろんそれは、あたしには何も言えないことだった。たぶん、二人は自分たちの両親を愛していたんだと思う。かつてそこにあった、きれいな思い出といっしょに。
 だから、それを壊すことができなかった。それは自分たち自身を――世界を、壊すことだったから。
「――――」
 その時、携帯の着信音が鳴った。あたしのが、だ。たぶん、目あての人物を見つけたという知らせだろう。もう、ここにはいられないみたいだった。目覚まし時計が鳴ったら、夢から覚めなくちゃならない。
「最後に、訊いてもいいですか?」
 と、あたしは言ってみた。
「どうぞ」
「――清塚さんは今でも、咲島さんのことが好きなんですか?」
 あたしのその質問に、清塚さんは長いこと口を開かなかった。一滴の雨粒が、地面に落ちて、川を流れ、長い旅を終えて空に戻り、また地上に降ってくるみたいに。
「バカバカしいと思うかもしれないけど、そうなんだ」
 と、清塚さんは言った。自嘲するような、それを誇りに思うような、そんな声で。
「僕は彼女のことを、今でも愛している――たぶん、永遠が終わるその時までは、ずっと」
 先輩とあたしが見つけた秘密の物語の、それが結末だった。

 ――学校の廊下は冷たくて、空気は自分で自分の寒さに震えているみたいだった。光も音も、冬のあいだは人間と同じように、身を縮こませてやりすごすことに決めてしまったらしい。
 窓の外に見える空は灰色で、ちょっとした色見本に使えそうな単調さでどこまでも続いている。そこからは、いつ雪が降ってきたっておかしくなさそうだった。祈祷師が雨乞いをしていたのと比べると、天気予報はずいぶん進歩したみたいだ。
 放課後の時間、あたしは文芸部の部室に向かっているところだった。ちょっとした用事があって、時間はわりと遅くなっている。もっとも、お茶会に遅刻しそうなどこかのウサギほどじゃなかったけど。
「…………」
 人気のない廊下を歩きながら、実のところあたしは考えていた。珍しく、真剣に。
 それは、昨日図書館で調べたことについて、先輩に聞くべきなのかどうか、ということだった。
 あたしはいくつかの情報と推測を整理して、一つの結論を得たのだ。先輩が抱えている、ある秘密についての。図書館で調べものをしていたのは、その裏づけをとるためだった。あたしにだって、石橋を叩くくらいの知恵はあるのだ。
 それでわかったことは、ほぼあたしの推理通りで、ほかに新しくわかったこともあった。いくつかの数字とか、事実、その結果なんかについて。
 でも本当に大切な、肝心なことはわからないままなのだった。
 もしもそれを確かめたかったら、先輩に直接訊いてみるしか方法はなかった。秘密の鍵と扉を見つけたら、あとは塀の向こうまで行ってみるしかない。例えそこがどんなところなのか、何があるのか、わからなかったとしても。
 けれど――
 それを知るどんな権利や資格があるのか、あたしにはわからなかった。あたしは先輩の幼なじみでも、特別な関係でも、血がつながっているわけでもない。
 ――ただの、赤の他人だった。
 そんな人間が、その人が心の奥に秘めていることに、勝手に手を触れていいものなんだろうか。大切な場所を、土足で踏みにじるみたいに、大事にしまわれていた箱を、許可なく開けてしまうみたいに。
 あたしにはやっぱり、わからなかった。
 そうこうするうち、部室の前まで来てしまっている。いつも通りの扉に、いつも通りのドアノブ。あたしの悩みごとなんて知らん顔で、何のアドバイスも、ヒントもくれることはない。
 陸上競技のスタートラインに着くときみたいに、あたしは一度だけ深呼吸をした。
 それから、軽くノックをしてドアを開く。
 部室の中は外と同じくらいの温度で、冷えびえとしていた。格好ばかりのヒーターはつけられていたけど、絵に描いた餅くらいの役にしか立っていない。電気はつけられていなくて、窓に貼りついた光が部屋全体をうっすらと灰色に照らしていた。
 そんな中で、先輩は机にうつぶせて眠っていた。
 あたしが入ってきたことに気づいた様子もなく、顔を上げたり、眠りから覚めたりする気配もなかった。すっかり眠りこんでいるみたいで、毒りんごを食べた白雪姫みたいに身じろぎもしない。
 先輩のその姿は無防備というか、意外なほど子供っぽいというか、何だか――弱々しかった。まるで、根っこから乱暴に抜かれてしまった、きれいな花みたいに。
「…………」
 あたしはそんな先輩を見ていると、何も訊けなくなってしまっていた。結局のところ、あたしはそれほどの勇気も、残酷も、持ちあわせてはいないのだった。
 気をとりなおして、あたしはいつもみたいに脳天気な、悩みのない声で言った。
「――先輩、起きてください。そんなところで寝てると、風邪ひきますよ」

 雪は夜のあいだに、音もなく降りつもっていた。
 朝、目が覚めてカーテンを開くと、白い世界がどこまでも続いている。砂漠や、海原や、平原みたいに。線路はなかったけれど。
 あたしはパジャマのまま窓を開けて、ちょっと身をのりだしてみた。獲物を見つけた狼みたいに、冷たい空気が襲ってくる。息を吐くと白く濁って、まるで誰かが言い残した言葉みたいに世界から消えていった。
 まだ少し雪を降らせたりないのか、空は薄い灰色の雲に覆われていた。使い古した絨毯みたいな、毛羽だった感じの雲である。そのくせ光だけは、奇妙な明るさで世界を満たしていた。
 あたしは深く息を吸って、まだ新品同様の冷たい空気を肺いっぱいに満たしてやった。そして自分の体が今日もつつがなく、律儀に、まじめに働いていることを確認する。
 ――世界はいつだって、死んでは生き返ることを繰り返しているのだった。

 学校まで行くと、あたしは自分の席から窓の外ばかり眺めていた。
 積もった雪は、二、三日くらいは残っていそうである。まだ十二月だし、それほど本格的に降ったわけでもない。積もったのは数センチで、ちょっとした試運転みたいなものだった。少しすれば、雪の名残りなんてすっかりなくなってしまうだろう。
 たぶん、人々の記憶の中からさえ。
 あたしはでも、別に自分の記憶に焼きつけたくて、雪を眺めているわけじゃない。そこまで雅な人間でも、酔狂な人間でもない。
 ただ、あたしは――
「さっきから何見てんの、千瀬?」
 と、不意に友達の一人が話しかけてきた。あたしはイスに座ったまま、鷹揚に答えておく。
「別に、何でも」
「しかしまあ、積もったよね」
 友達はあたしの机に腰かけて、窓の外に目をやる。机というのは座るためにあるものじゃない、ということを知らないらしい。きっと育ちが悪いせいだ。
「千瀬は雪って、好き?」
「どうかな――」
 あたしはいつかと違って、気のない返事をした。それから、つけ加えておく。
「あれが全部、砂糖菓子みたいに食べられりゃよかったんだけど」
「そりゃ、子供は大喜びだろうね」
 友達は笑う。それは、そうだ。何しろこれは他愛のない、ただの会話なんだから。
「……でも本当はね、あたしにはあれが違ったものに見えるんだ」
 あたしはちょっと身を起こして、ただの会話を続けた。
「違うものって?」
「すべてを地の下に埋めてしまう土――墓堀りが棺を降ろした穴に、土をかぶせるみたいに」
「何それ、詩人の感性ってやつ?」
 友達はやっぱり笑う。あたしも、笑う。何しろこれは、他愛のないただの会話なのだから。もっとも、あたしに詩人の感性なんてものがあるかどうかは不明だったけど。
 やがてチャイムが鳴って、先生がやって来た。友達は手を振って、自分の席へと帰っていく。当然だけど、雨が降ろうが雪が降ろうが授業は行われるのだ。槍が降ったらどうなるかは、知らないけれど。
 授業中、あたしはかなりの上の空で窓の外ばかり眺めていた。今だったら、どこかの大泥棒がやって来ても無駄足を踏むだけだろうな、というくらいに。いつもは心の入っているはずの箱がからっぽで、自分でもそれは何だか不思議な感じだった。
 あたしの心がヘリウムガス入りの風船みたいにふわふわ漂っていても、時間は関係なく過ぎていき、やがて放課後になっていた。ちょっとしたタイムリープというところだ。
 帰り仕度を終えて、友達にさよならの挨拶をすると、あたしは部室へと向かった。今日は活動日なのだ。もうすぐ冬休みだし、春には部誌も発行しなくちゃならない。一寸の虫にも五分の魂があるみたいに、二人しかいない文芸部にも相談することくらいはあるのだった。
 何かの工事現場みたいにがちゃがちゃした空気の中を、あたしは北棟三階にある部室まで歩いていった。
 地球の裏側に行くほどの苦労も冒険もなく到着すると、あたしはドアをノックした。返事のある気配はないし、返事のない気配はあるので、そのままドアを開ける。
 部屋の中はからっぽで、誰もいなかった。そうしていつもみたいにカバンを置こうとしたところで、あたしはふと気づく。そこにはもう先輩の荷物が置かれて、澄ました顔で鎮座していた。ということは、先輩はもう来ているということだ。
 あたしは長机のところに向かう途中、少しでも仕事をしてもらうためにヒーターをつけようとした。その時に、何か気になるものが目に入る。
 ――見ると、机の上に紙が一枚置いてあった。
 ごく普通のコピー用紙には、どこか見覚えのある文字がボールペンで書かれていた。丁寧で几帳面だけど融通の利かなそうな、職人気質っぽい文字である。
 それはどう考えても、先輩の字だった。
「…………」
 あたしは紙を手にとって、そこに書かれていたものを読んでみた。どうやらそれは、先輩の作った詩みたいである。

子供たちが無邪気に走りまわっているのを見ると
 昔々にどこかでなくしてしまった約束が
 ひょっこり目の前に現れたみたいで
 思わずまごついてしまう

 その約束の 幼さ 拙さ
 純粋さが
 今のわたし自身を
 写真のネガとポジみたいに
 対照する

 わたしはどこまで来たのだろう
 どこまで行くのだろう?

 なくしたもの 捨ててしまったもの
 壊れてしまったもの
 それらは今 どこに消えてしまったのだろう?

 子供たちはわたしのそんな疑懼など知らぬまま
 無邪気に遊び続けている
 その遥か彼方にいるはずの
 わたしのことなど気づきもせずに

 あたしは二度ほどその詩を読んでから、習慣的な動作でイスに座った。紙に書かれているのはその詩だけで、ほかには空白が広がっている。あるいは、文芸部らしく言えば、行間が。
 イスに座って、紙を見つめたままで、でもだからといってどうするわけでもない。
 その詩はたぶん、先輩によって今日書かれたもののはずだった。少なくとも、昨日たまたま部室によったときにはなかったものだ。
 机の上にこれがある以上は、やっぱり先輩は一度部室に来ているはずだった。荷物だって置きっぱなしだし、そう考える以外に答えはない。オッカムさんだって、きっと同意してくれるだろう。 
 でも、先輩はここにいないのだった。
 もちろん、考えられる理由なんていくらでもある。ちょっと席を立ってるだけとか、いったん部室によってどこかに行ってしまったとか、いじめられてた亀を助けたら海の底まで連れていかれたとか。
 あたしは何の変哲もないその紙を、もう一度眺めてみた。火をつければ燃えてしまうし、くしゃくしゃに丸めてごみ箱に放り投げることもできるし、細かく千切って紙ふぶきみたいにすることだってできる。
 でも、そこには――
 一つの詩が、一人の人間の心が、書かれていた。永遠が終わるその時までは、変わることも、消えることもなく。

 ――その時、不意にノックの音が聞こえた。

 あたしは反射的に立ちあがって、そっちのほうを向いてしまう。狼に怯えながらお母さんヤギの帰りを待つ、七匹の子ヤギたちみたいに。
 それからドアが開いて、中に入ってきたのは――春先生だった。
 あたしの心臓は勝手にがっかりして、勝手にほっとしたみたいだった。長いこと水に浮かんでいた葉っぱが、とうとう沈んでいくみたいに。あたしの体からは力が抜けて、自然と座ってしまっていた。
「――あら、志坂さんはいないのかしら?」
 と、春先生こと三春薺先生は、部屋の中をきょろきょろ見渡しながら言った。もちろんここには柱時計もないし、あったとしても先輩が隠れるのなんて不可能だ。
「それが、あたしにもよくわからなくて」
 とあたしは正直に言った。少しだけ、助けを求めるみたいに。
「部室には一度、来てるみたいなんですけど……」
「あら、そうなの」
 春先生は眼鏡をちょっと直して、それでもあたりの様子をうかがっている。もしかしたらそれは、見えないものが見える特殊な眼鏡なのかもしれない。
「……先生は、どうしてこっちに来たんですか?」
 と、あたしは訊いてみた。定年退職して非常勤の春先生は、文芸部にはよく顔を見せてくれるけど、顧問というわけじゃない。それにどうやら、先生には何か用事があったみたいだ。
「うーん、実はね、ちょっと気になることがあったものだから」
「気になること?」
「志坂さんが、さっきの私の授業に出てきてなかったのよね」
 春先生は、二年生の現代国語を担当している。つまり先輩は、その授業をさぼったということだった。
「今日、先輩は学校に来てるんですか?」
 そのはずだと自分で思いながら、あたしは訊いてみた。
「ええ、そのはずですよ。クラスの生徒に訊いてみたら、前の時間まではいたそうですから」
「…………」
 あたしは少し、状況を整理してみた。
 先輩は休みとかじゃなくて、学校には来ている。でも、最後の授業には出ていない。先輩の荷物は部室に置いてあって、詩を書いた紙が残されていた。
 たぶん先輩は、最後の授業時間中、ここにやって来て詩を書いたんだろう。そして荷物と詩だけを残して、行方不明になってしまった。
 まるで、鳥の巣から卵だけがなくなってしまうみたいに。
 あたしは机の上の紙に手をやって、それを春先生に渡した。
「これ、先生はどう思いますか?」
 春先生は紙を手にとって、全体に目をやる。料理人が味見するみたいにいくつかの言葉を拾い読むと、あたしのほうを向いた。
「書いたのは、志坂さんですね?」
 もちろん、あたしが書くような詩じゃない。
「たぶん、そうだと思います。さっき来たら、机の上にそれがあって……」
 春先生はちょっと真剣な顔をしてから、いったん近くのイスを動かしてそこに座った。靴を右と左のどっちから履くかみたいに、何事にも決まった手順というものはある。
 少しの時間、春先生は先輩の詩(と思われるもの)を黙読していた。何だかそれは、静かに雨が降っているみたいでもある。読書中の雰囲気は、意外と人によって違っていた。
 やがて春先生は、紙をそっと机の上に戻した。鳥の羽が落ちてくるのと同じくらい、そっと。そうして小さなため息に似た吐息をついてから、言う。
「志坂さんらしい詩ですね、これは」
「……先生は、どう思いますか」
 と、あたしは訊ねてみた。
「どうして先輩は、こんな詩を書いて、残していったんでしょう?」
「さあ、どうしてかしらね」
 春先生はおおらかに朗らかに、でもちゃんとした声で答えた。大きな木にはいつも、大きな根っこがあるのといっしょで。
「人の心なんて、わからないものよ。それは当の本人にとってさえ。自分が悲しんでるのか怒ってるのか、泣きたいのか笑いたいのか、そんなことさえ決められないときだってある」
 でも、と春先生はつけ加えた。
「詩というのは、意外なほどその人の心が反映されるものよ。時には、本人が意図した以上に。あるいは、思ってもみなかったふうに。志坂さんがどうして、どういうつもりでこの詩を書いたかなんて、わからない。でもこの詩には間違いなく、志坂さんの心が現れてるでしょうね」
「…………」
 あたしはもう一度、紙に書かれた先輩の詩に目をやってみた。その詩はたぶん、先週に先輩とあたしが買い物に行ったときのことをきっかけに書かれたものだった。幼い二人の姉妹が、ピアノを弾いていたこと。
 そして、あたしが図書館で調べた先輩についての事実。
 だとしたら、先輩は――
「――あの」
 あたしは春先生に、そのことを相談してみようかと思った。それは一人で処理するには、重すぎるし、難しすぎることだったから。困難は分割せよ、とどこかの修道士も言ってなかったっけ。
「実は先輩は、昔――」
 でもあたしはその言葉を、不意に弦の切れたピアノの音みたいに、途中でやめてしまう。
 いろいろなことが、あたしの頭の中をぐるぐる回っていた。抽選のためにがらがら音を立てている、福引き器みたいに。
 まず第一に、それをあたしが人に話していいのか、ということがあった。それはあくまで先輩の個人的な過去の問題だったし、他人が勝手にどうこうしていい種類のものじゃない。
 それから、実際的にそれで少しでも問題が解決するのか、ということがあった。餅については専門家に相談するのが筋だけど、先輩のこと≠ノついての専門家なんていない。例えそれが、春先生だったとしても。
 けれど――
 何よりあたしが躊躇していたのは、たぶんそんなことじゃなかった。
 本当のところあたしは、自分で何とかしたかったのだ。あたしが自分で、先輩のことと向きあいたかった。
 たぶんそれは、それは――あたしの問題でもあったから。
 あたしは完全に言葉を飲み込んでしまうと、別のことを訊いた。
「……春先生は、今までに何かとりかえしのつかないことって、したことがありますか?」
 すると先生は、電線にとまってる鳥みたいに首を傾げた。それも、無理はなかったけれど。でも、気をとりなおすと、
「そりゃあね」
 と、苦笑するみたいに答えてくれる。
「思い出したら、きりがないくらいね。あの時、ああしていれば。どうして、あんなことをしてしまったんだろう。あの子に、もっと別の言いかたをしてあげてれば――」
「後悔してますか?」
「ある程度は、というところかしら」
 春先生はいたずらっぽい少女みたいに笑った。半世紀分くらいの時間を、軽々と越えて。
「この歳になると、さすがに角はずいぶん取れちゃってるわね。痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、傷跡そのものは残っても、傷口はふさがってしまっている。歳をとるのも、悪いことばかりじゃないわね。もちろん、その当時にそこまでの余裕なんてありませんけど。傷口から血が流れているのに、平気でいられる人なんていないでしょうね」
「春先生は、どうやってそれを乗りこえたんですか?」
 あたしが訊くと、先生はちょっとおかしそうな顔をした。相手の幼さや生まじめさ、不器用さを笑うみたいに――あるいは、懐かしむみたいに。
「私はそれほどドラマチックな人生を送ってるわけじゃありませんからね。大抵の人間と同じ……悩み、迷い、考え、何とか解決するための手段や方法を模索する。少なくとも、その努力を、ね」
「――――」
 一瞬、あたしはその言葉を口にするのをためらった。もう決まってしまっているテストの点を見るのに、それでも抵抗を覚えるみたいに。
 でも、やっぱり訊くことにする。それは、訊かなくちゃいけないことだったから。
「――それでも、解決しなかったら。そもそも、解決なんてできなかったら、どうするんですか?」
 春先生はあたしの滅茶苦茶な質問に、しばらく黙っていた。でも先生は呆れているわけでも、面倒くさがってるわけでもない。もしかしたらそれは、むずがる子供をあやす母親に似ていたのかも。
「私の名前が薺≠ニいうのは知ってますね?」
 訊かれて、あたしはうなずいた。何しろ初対面のときに、そう教えられたからだ。私の名前は薺、つまりぺんぺん草のことね――
「この名前をつけたのは、私の父なのだけど」
 と、春先生は続けた。
「それが何なのか知ったときは、まあまあショックだったものよ。ぺんぺん草なんて、雑草の名前をつけるなんて――。それで、父に向かって何でこんな名前にしたのかって、食ってかかったの。そしたらね、言うのよ。私が冬の真っ最中に生まれたからだ、って」
「冬なのに、春の名前をつけたんですか?」
 あたしは首を傾げる。
「そう、ちょっと変わった人だったの、父は。もう亡くなってしまいましたけどね。それで、ええ、父が言うには、冬の一番寒い時期に生まれてきたから、せめて名前は春らしいものにしたいって」
「それで、薺ですか」
 何しろ春の七草ではあるわけだし、先生の苗字は三春でもある。
 春先生はうなずいて、笑いながら言う。
「でも何も、そんな雑草の名前じゃなくったって、桜でも弥生でも何でもあるわけでしょ? それで抗議したら、薺は有用な植物だって、大まじめに言うのよ。それにぺんぺん草のことわざ通り、荒蕪地でも育つ丈夫な植物だ――って」
「確かに、変わった人みたいですね」
 あたしは春先生と同じみたいに笑った。自分の娘にぺんぺん草の名前をつけて、それを真剣に論じている父親の姿を想像しながら。
「そう、それでね、私はしょっちゅう思ったものよ。冬に咲いてる春の薺を、ね。そうすると、不思議といろんなことを乗りこえられたものよ。本当に、不思議と」
「…………」
「人は真冬のさなかでも、春のことを思えるものよ。不思議なほどの弱さと、不思議なほどの強さを持っているのが、人間だから」
 あたしはその言葉を、心の中の引きだしにしまっておいた。いつかどこかで、役に立つような気がして。
「――フランスの警句に、こんなのがあるそうよ」
 それから春先生は、最後に言った。
「川に入って濡れずにいるのは難しい=\―私はそれで、思うんですよ。傷ついて生きるのは難しい、けど傷つかずに生きるのはもっと難しい≠チて。人間というのは、そういうものじゃないかしら?」

 春先生が行ってしまうと、あたしは一人になった。たぶん、広いひろい宇宙を漂う、人工衛星みたいに。
 部屋の空白が大きくなると、空気は今が冬なことを急に思い出したみたいに冷えびえとした。影はほんの少し濃くなって、テレビのボリュームを下げたみたいに音が小さくなる。
「…………」
 あたしはぼんやり、机のところに座ったままでいた。
 目の前には、先輩が書いた(であろう)詩が残されている。そこに書かれている文字たちは自分のぶんをわきまえているので、必要以上のことなんてしゃべろうとしない。物理法則が、あくまでいつも決まった通りに働くみたいに。
 紙を手にとったり、指でなぞったりしても、それは変わらない。ランプの精みたいにジンが現れて、先輩のことを教えてくれる、なんてことは。
 あたしは目をつむって、深く息をした。頭を、気持ちを、言葉を整理するために。
 それから、今日が何日なのかを思い出す。その日付が持つ、意味のことを。
 ――そうだ。
 あたしはもう、答えを知っている気がした。先輩がどこに行ったのか、何を考えていたのか。
 だから本当に問題なのは――あたしが、どうするのかだった。

 バスの中には、ほとんど人はいなかった。
 元々、本数が少ないし、普通の人が利用するような路線でもない。おまけに平日の、それも雪の日となると、乗客がいないのも当然といえば当然だった。
 ほぼ無人の車内には黙々と働くまじめなミツバチみたいに、暖房とエンジンの音だけが飛びかっていた。からっぽの座席ばかりが並んでいるのを眺めていると、もうとっくに地球なんて滅びてるんじゃないか、という気もしてくる。
 車内の空気は毛むくじゃらの犬みたいにぬくぬくしていて、窓ガラスだけがその恩恵を受けられずにいた。あるいは、みんなのために犠牲になっている、のかもしれない。
「…………」
 あたしは先輩と同じように荷物は学校に置いて、バスに乗っていた。これから行く場所にそんなものは不要だったし、あっても邪魔なだけだ。
 窓の外には、灰色の空と雪景色がどこまでも続いていて、しばらくのあいだ消えることはなさそうだった。その景色は、この世界が空の底にあるんだということを思い出させてくれる。あたしたちはみんな、アリみたいにその場所を這いずりまわっているんだということを。
 そんな風景を眺めながら、あたしはふと昔のことを思い出していた。
 ――かつてあたしは、バスケットボール選手だったのだ。
 あたしはそのことに何の疑問も持っていなかったし、持つ必要もなかった。あたしはそこそこうまくて、中学ではきちんとレギュラーをとって、何よりもボールに触れているのが楽しかった。新しいおもちゃをもらったばかりの、子供みたいに。
 でも時間がたつにつれて、経験を積むにつれて、それは何故だか難しくなっていった。あたしはより多く考えるようになり、より多く努力するようになり――より多く、迷うようになった。
 それは要するに、成長したということなのだけど――うん、要するにそういうことなのだけど。
 あたしはいつしか、自分が凡庸な人間でしかないことに気づいていた。あたしは高く飛ぶことも、速く走ることも、難しいシュートをうまく決めることもできなかった。おたまじゃくしが自分はカエルなんだと気づくまでには、それほどの時間はかかったりしない。
 そうして、あたしはバスケに対する自分の気持ちが、いつのまにか変容していることに気づいた。それは前ほど純粋じゃなくなって、濁り、鈍くなった。
 いや、でもそれは少し違うな――
 正確に言うと、あたしはバスケを好きであることと、あたし自身とのあいだに、乖離を生じていたのだ。あたしは、あたしが望むだけの人間になれていなかった。
 どこかの作家が書いた言葉にならえば、こういうことになる。
あたしは、あたしが要求するだけのスペックを満たしていなかった。
 正直なところ、あたしはあたしなりにがんばったし、うまくやろうともしたのだ。いろんなことを考え、試し、また考え、また試した。
 もうこれ以上、どうすることもできない、というくらいに。
 でも――
 試合中、対戦相手の選手が羽でも持っているみたいに高く跳躍したり、針に糸を通すくらいの難しいシュートを楽々と決めたり、とても追いつけないような速さでドリブルしたりするのを見て、あたしは思ったのだ。
 ああ、あたしにはあそこまで行くことはできないんだな、と。
 どこかの意地悪で、お節介で、親切な天使が、そのことをわざわざ、あたしに教えてくれたような気がした。
 それでどうなったのかというと――そう、あたしはバスケをやめてしまったのだ。未練も、後悔も、躊躇もなく。きれいさっぱりと、跡形もなく諦めてしまった。
 まるで、戦争ですっかり破壊されて、廃墟になった町をあとにするみたいに。
「…………」
 何でこんなつまらないことを思い出しているのか、自分でも不思議だった。
 そのことについては、あたしは完全にけりをつけてしまったはずなのだ。人の絶対に来ないどこかの山奥に、念入りに深い穴を掘って、死体を埋めるみたいにしてきれいに土をかぶせてしまった。
 それで、何の問題もないはずだった。あたしはその場所をあとにして、どこか新しい別の場所へと向かったはずだった。埋めたはずの死体は微生物によって分解されて、ただの記憶でしかなくなってしまっている。それは幽霊と同じくらい、何の力も持っていない。
 持っていない、はずなのだけど――
 バスの外を平気な顔で流れていく風景を見ながら、あたしはふと考えていた。
 あたしたちは結局のところ、何にもなれず、どこにも行けず、ただ同じところをぐるぐる回っているだけなのかもしれない。地球がいつまでも、太陽のまわりを回り続けているのと同じで。
 そうして、何の役にも立たないような、ささやかな、些細な、意味や価値のない、個人的な記憶や想いは、あっというまに消し去られてしまう。使われない筋肉がすみやかに衰えていくみたいに、真っ暗な洞窟で白い魚の目が退化していくみたいに。
 だとしたら――
 一人の人間の苦しみや悲しみは、どうなってしまうのだろう。
 それはやっぱり必要のないものとして、消し去れられてしまうのだろうか。砂に書かれた文字と同じで、世界はあっさりとそれを削りとり、覆い隠し、最初からなかったことにしてしまう。
 あたしには、よくわからなかった。
 それはただそれだけの、当然な話なのかもしれない。世界はそれほど暇なわけでも、都合よく出来ているわけでもない。それは正しいとか間違っているとか、そんな話じゃないのかもしれない。
「…………」
 あたしにはやっぱり、よくわからなかった。
 こんなのは何もかも全部、何てことのない話、何てことのない話ではあるのだけど――
 何てことのある話でも、あるのだった。
「次は、市揖湖、市揖湖。市揖湖自然学習センターをご利用の方は、こちらでお降りください」
 やがて目的の停留所が告げられて、あたしは降車ボタンを押した。
 ――世界の運命を決めるために、少しだけ念入りに。

 バスから降りると、北風は慇懃無礼に今が冬だということを教えてくれた。息を吐くと、まるで文句でも言いたそうに白く濁る。この上なく、寒い。あたりに人影はなく、月面上と同じくらい閑散としていた。
 すぐそこにはやけに広々とした駐車場があって、視界はずいぶん開けていた。向こうのほうに学習センターがあって、ほかには木が何本か生えているだけである。枯れ木も山の賑わいというけれど、これじゃあイチゴがまばらに乗っただけのショートケーキなみの寂しさだった。
 ちょっと向こうのほうを見ると、湖がすぐそこにあった――市揖湖だ。
 バスがさよならも言わず無愛想に行ってしまうと、あたりは急に静かになった。聞こえてくるのは風の音ばかりで、実に人間味というものを欠いている。そのうち、お釈迦様が空の上から蜘蛛の糸をたらしてくれるかもしれない。
 もちろん、こんな場所で降りるのはあたし一人だけで、何だかクレーンゲームでひょいとつかみあげられてしまったみたいだった。それで落っこちたところが、世界の果てだった、というわけである。
「――ふむ」
 と、あたしは意味もなくうなずいて、それから歩きはじめた。もちろん、ここまで来て引き返すわけにはいかない。それに帰りのバスだって、一時間くらいはしないと迎えに来てはくれない。
 あたしは偏屈な画家が描いた風景画みたいな場所を、湖に向かって進んでいった。雪の上にはセンターの職員か、物好きな人のものか、いくつか足跡が残っている。
 ――本当のところ、ここに先輩がいるかどうかなんて、あたしにはわかっていない。
 いくつかの事実と、最近の先輩の様子、この一年での経験、それくらいが推理の根拠だった。どこかの名探偵なら、笑うだろうか。
 でもあたしには不思議と迷いがなくて、足は勝手に前へ進んでいく。
 確信があったわけじゃなくて、むしろここに先輩がいないほうがいい、とさえ思っていた。それが何を意味しているのか、あたしは知っていたから。
 第一、可能性ならほかにいくらでもあるのだ。荷物は部室に忘れただけで、もう家に帰ってしまった。そうでなくても、どこか別のところに行ってるだけ。かぐや姫みたいに急に月が恋しくなって、屋上で空を見上げている――
「…………」
 いや、あたしはやっぱり――
 ロッジというか、大きめの犬小屋というか、あまり予算のかけられてなさそうな学習センターの前を通りすぎると、そこは湖だった。
 たいした大きさがあるとは言えないけど、それでも風が吹いて、小さな波が立っている。渺々としているというか、寒々としているというか、かなりもの悲しい雰囲気だった。悲憤した詩人が身を投げるには適当そうだったけど、陽気なサーファーが波のりするのにふさわしいとは言えない。
 かすかに揺れる湖面には何種類かの水鳥がいて、あまり優雅とはいえない格好で泳いでいた。せっせと水面をくちばしですくって、餌をとっている。どちらかというとその様子は、一刻も早く北の故郷に帰りたがっているようにも見えた。
 湖のはしっこのほうには桟橋があって、工事中みたいに途中で途切れている。夏のあいだはボートなんかも並ぶのだけど、今はテトリスの棒くらいに味気ない状態でしかない。
 それから、対岸の向こうには奥城山が見えていた。
 湖の近くまで行くと遊歩道があって、左右に別れている。湖岸をぐるっと一周できるコースになっていて、先輩の言ったとおり、整備されたのは十年ほど前のことだった。
「…………」
 あたしは遊歩道を前にして、腰に手をあてて考える。
 さて、はたして先輩はどっちに行ったのだろう?
 別れ道には姿だけそっくりの二種類の天使が立っていたりしないので、何とかして自分で答えを見つけるしかなかった。もちろん、湖は天国にも地獄にもつながっていないから、どっちに行っても一周さえすればいいのだけど――
 その時、あたしはふと気づいた。
 よく見ると、雪の上に誰かの足跡が残っている。どこかのとんまな熊みたいに、それが自分のでないことだけは確かだ。あたしはしゃがんで、その足跡を詳しく調べてみた。
 それは間違いなく、先輩の足跡だった。
 何故ならあたしは以前に一度、先輩の足跡をじっくり観察したことがあるからだ。まだ春の頃の、例の壁の詩を調べていたときのことである。あたしはたまたまその足跡に気づいて、そのまま覚えてしまっていたのだった。
「シャーロック・ホームズも、意外と役に立つものだな」
 と、あたしは独りごちて立ちあがった。
 それから、足跡の続く先へと目をやってみる。
 ――誰かの忘れものみたいなその足跡の先に、先輩はいるはずだった。

 雪の上にはくっきり足跡が残っていて、うっかり見失ったり迷ったりする心配はなかった。森の中で鳥たちが食べそこねたパン屑をたどるみたいにして、あたしはそのあとを歩いていく。
 それがどこまで続いているのかはわからなかったけど、別に母を訪ねてブエノスアイレスまで行くわけじゃない。いつかは、先輩のところにたどりつけるはずだった。
「…………」
 あたしは世界の縁を歩くみたいにして、雪に覆われた湖の岸辺を進んでいった。ちょうど子供の頃、歩道の縁石の上で落っこちないようバランスをとって歩いたのと同じで。
 湖の水は、凍りつかないのが不思議なくらい冷たそうだった。
 そうやって歩いていくうち、あたしの心臓は何故だか急にどきどきしはじめていた。ぜんまいを巻いたおもちゃが、ぎこちなく振動するみたいに。
 あたしの目の前には、夜の星座みたいに先輩の足跡があって、あたしはただそのあとを追っていけばいいだけのはずだった。その先には必ず、先輩がいるのだから。
 でも、そんなあたしの考えや気持ちを無視して、心臓は勝手に鼓動を強くしているのだった。まるで、意地の悪い悪魔にでも唆されたみたいに。
 先輩は、大丈夫なはずだった。無事なはずだった。今までだって、ずっとそうだったのと同じで。ずっとそうしてきたのと、同じで。ここに来たのだって、ただの感傷とか、哀惜とか、そんなことのはずなのだ。
 その傷が、どんなに深いものだったとしても――
 その傷が、どんなに耐えがたいものだったとしても――
 あたしは聞きわけのない子供みたいな自分の心臓を叱りつけながら、不機嫌そうな顰めっ面をして歩いていった。そうしないと、もしかしたら泣いていたかもしれない。
 ――先輩のことを、あたしは考えてみた。
 初めて出会ったときの、先輩の印象。開いたドアの向こう側、白いレースを編んだみたいな光の中で本を読む、先輩の姿。
 今にも壊れてしまいそうな、今にも消えてしまいそうな、そんな。
 先輩は不思議なほどの強さと、不思議なほどの弱さを持っていた。その瞳は謎を見とおすのと同じくらい、謎に包まれてもいる。頭がよくて、優しくて、でも人はよせつけない。
 まるで雪の結晶が、人の温度に耐えられないみたいに。
「…………」
 あたしはふと、顔を上げた。
 遊歩道の左側に草地らしい地面が広がって、海岸線みたいに向こうまで続いている。灰色の空と、色のない湖。波打ち際には砂利が転がっていて、水面はかんしゃくを起こした子供くらいに揺れていた。
 雪に埋もれたその白い岸辺の真ん中あたりに、先輩は立っていた。
「――先輩!」
 あたしは思わず叫んで、駆けだしてしまっていた。

 先輩は灰色のマフラーに、いつもの紅葉っぽい色のコートを着ていた。もちろん制服姿のままで、コートのポケットに手をつっこんで立っている。
 あたしに気づいてこっちのほうを見た先輩は、口元で息が白く濁っていた。息をしているということは、生きているという証拠だった。それとも、幽霊でもやっぱり息をして、それは白く濁るんだろうか。
 雪の真ん中まで来たあたしに、先輩は言った。
「――よく、ここがわかったわね」
 それは癪に障るくらい、いつも通りの先輩の声で、あたしの心配なんてどこ吹く風だった。とはいえ幸いなことに、先輩はピノキオみたいに鼻が長くなったりはしていない。悪い大人に唆されて学校をさぼった、というわけじゃないみたいだった。
 あたしは呼吸と、それから心臓の動きを整えた。大きく息をすって、ふいごみたいにゆっくり吐きだす。それで何とか、自分を落ち着かせることができた。
「先に確かめておきたいんですけど」
 と、あたしはまず訊いておくことにする。
「部室にあった詩を書いたのって、先輩なんですよね?」
 その質問に、先輩は少し考えるふうだった。別にとぼけているわけじゃなくて、どうやら忘れてしまっていたらしい。
「――ええ、そうね。たしかそんな気がするわ。あまりよく覚えてないけど」
 とすると、あれは置き手紙でも、ダイイングメッセージでもなかったわけだ。それは何となくわかっていたし、先輩は死んだりしていなかったけど。
「何で、あんな詩を書いていったんですか?」
 もう少しだけ、あたしは訊いてみた。
「そうね、何でかしら?」
 先輩はまるで他人事みたいに言う。
「あの場所にいると、詩や文章が不思議と書きやすくなるせいかもしれないわね。特に書こうとしたわけじゃなくて、電話の内容をメモするみたいな感じだったと思うけれど」
「…………」
 あたしは指でつまめそうなサイズのため息を一つ、ついておく。まったく、こっちはそのせいで回数制限つきの、貴重な心臓の鼓動を無駄にしたっていうのに。
「今度は、こっちがあらためて聞く番ね」
 と先輩はそんなあたしにはかまわずに言った。少し、笑っていたかもしれない。
「それで、どうしてわたしがここにいるってわかったのかしら?」
 訊かれて、あたしは一度咳払いをした。何しろこれは、犯人を波濤の立つ断崖絶壁まで追い込んだのに等しいのだ。いわゆる、見せ場というやつだった。
「初歩的なことです――と言いたいところだけど、けっこう大変でした」
 と、あたしはまず言った。
「ここに先輩がいることを推理するのには、いくつかのヒントがありました。情報と、それを分析する方法についての。あたしはそれを利用して、ここまで来たんです」
「…………」
 先輩はポケットに手をつっこんだまま、黙っていた。どうやら、一時間いくらなんてせこいことは言わずに、好きなだけしゃべらせてくれるらしい。
「――まず、今まで先輩といっしょにいた中で、わかったことがあります。それは、幽霊が出るトンネルに興味を持ったこと、姉妹について強いこだわりがあったこと――これで、何となく見当のつくことはありますけど、でも実際には何もわかっていないのと同じでした。それで、あたしは考えたんです。それが事実だとして、一体いつ頃に起こったことなんだろうか、って。
 これには、壁の詩を調べてたときのことがヒントになりました。つまり、時間の上限と下限を推定するんです……先輩がやったように。そのために利用できる人物は、二人いました。モナカ先輩と、久慈村先輩です。二人とも先輩の友人ですが、知りあった時期は違います。モナカ先輩は、小学校時代。久慈村先輩は、中学校時代です。正確に言うと、小学四年生から中学に入るまでですね。そして先輩の過去にあったことについて、モナカ先輩は知っていて、久慈村先輩は知らなかった……」
「つまり、わたしに何かあったとしたら、それは大体その範囲のことだと考えていいわけね」
 と先輩は親切に補足してくれる。あたしはうなずいて、続けた。
「これで一応、時間については条件を絞れました。次は、場所です。5W1Hの、whenとwhereですね。この二つから、whatが知りたいわけです。
 さて、それについては先輩がいくつかのヒントをくれていました。まず、壁の詩を調べていたときのことです。あの時、先輩は市揖湖の記述について注目しました。湖を周回できるようになったのは、遊歩道が整備された十年前からだ、というやつです。その事実を、先輩はたまたま知っていた、と言いました。時間も含めて、です。その時は特に何も思いませんでしたけど、これは考えてみると奇妙なことでした。いくら善良な市民だからって、一般的な知識の水準を越えています。
 それから、もう一つ。幽霊トンネルについてのことです。あの時、先輩は霧が発生してそこに影が映ったんだ、と推測しました。けど、あの奥城山の向こうに湖があるなんてことを、どうして先輩は知っていたんでしょう? しかも、あたしはあとで気づいたんですが、その湖というのは市揖湖のことだったんです――」
 先輩は何も言わなかった。龍の目に点が入ってないとか、屋根の上に屋根がついてるとか。つまり、あたしの説明は大体あっている、ということだった。
「――先輩に何かがあったとして、これで時間と場所がわかりました。あとは、その範囲を条件にして何があったか調べるだけです。
 今は便利ですよね。古い新聞の記事について、簡単なことなら検索して調べられるんです。それで、やってみました。先輩が小学四年生から六年生のあいだで、場所は市揖湖。それらしい記事が見つかったので、実際に図書館まで行って古い縮刷版にあたってみました。それで、日付と、何があったかについてわかりました。さすがに名前は伏せられてましたけど、条件は完全に一致しています」
 あたしは少しだけ、目をそらした。それを告げるだけの勇気も、残酷も、持ちあわせていない気がして。
 でも――
 それをしないでいる勇気も、残酷も、あたしはやっぱり持ってはいないのだった。

「――この湖で、妹さんが亡くなったんですよね」

 だから、あたしは訊いた。まるであたし自身が、死神にでもなったような気になりながら。
「…………」
 先輩はそれに、何も答えなかった。黙ったまま、じっとこっちを見ている。とはいえ先輩は、不愉快そうだとか、苦痛に苛まれているとか、怒りに我を忘れてる、なんてことはなかった。
 ただ、夜の静かな月みたいに立っているだけで。
「……それを知っていたから、あたしはここに来たんです。きっと、ここにいるはずだと思って」
 あたしは、先輩にまっすぐ向きなおって言った。もうこうなったら、悩んだり迷ったりなんてしていられない。一度サイコロを投げたら、どんな目が出るかなんて気にしたって無駄なのだ。
「雪の上に足跡が残っていたから、先輩を見つけるのに苦労はなかったです。シャーロック・ホームズなら、きっと誉めてくれるんじゃないですかね?」
 あたしがそう言うと、先輩は少しだけ笑った。昔なくしてしまった、お気に入りのおもちゃでも見つけたときみたいに。
 それから、先輩は言った。
「ちなみにシャーロック・ホームズは、小説では初歩的なことだよ≠ニいう言葉は使ってないらしいわよ」
「そんなこと知りません」
 ホームズもシャーロキアンも目指していないあたしは、失恋した乙女が髪を切るみたいに、ばっさりと言った。

「あなたの言ったことは、ほぼ全部正解ね」
 と、先輩は言った。
 湖面は交響曲のはじまりくらいに騒がしくて、それ以外には白と灰色だけの世界が広がっている。時々、強めの風が吹いてくるけど、それを冷たいなんて感じるだけの余裕はなかった。
「――一体、何があったんですか?」
 あたしはバランスの悪い積み木から、棒を抜くみたいにして言った。
「たいした話じゃないわ」
 と、先輩はどこかで聞いたようなセリフを口にする。
「あの日、わたしたちはオオハクチョウを見に来たの。本当はこのあたりで見かけることはないのだけど、たまたまやって来たらしいわ。迷ったか、気まぐれか、白鳥なりの複雑な事情があったのか、それは知らない。でも結局――オオハクチョウはどこにもいなかった」
 先輩の話によればその日、先輩たちは家族みんなでこの湖を訪れたのだという。両親と先輩、それから妹さんの四人だ。
 妹さんの名前は、志坂小鳥(しざかことり)――
 名前の通りの小柄な女の子で、りんご飴みたいな丸っこいおかっぱの頭をしていたそうだ。光をこねて作ったみたいな笑顔をしていて、きれいな雨の雫に似た瞳をしている。床にちょこんと置かれた、ぬいぐるみ的なかわいらしさだった。
「わたしのことが好きらしくて、どこにでもくっついて歩いてきたわね」
 と先輩は言う。手のひらから、光の塊をぽろぽろ零すみたいに。
「ちょっと頑固なところはあったけど、人の言うことはよく聞く子だった。いつも機嫌よくにこにこしていて、でも腹を立てることだってできたわ。みんなから愛されて、みんなを愛するような、そんな子だった――」
 先輩たちはオオハクチョウを見にきたわけだけど、湖には鴨なんかの水鳥がいるだけで、白鳥の姿はなかった。またどこかに迷っていったのか、本来いる場所に帰っていったのか、あるいは王子にうまいこと呪いを解いてもらったのか、それはわからない。
 でもせっかくだからということで、しばらくあたりを散策してみることにした。新聞の小さな記事に載っただけだし、雪の積もった寒い日だった。ほかに人影はなくて、景色は広々としている。
 両親が湖を前にあれこれ話しているあいだ、二人は近くにある林のほうへと向かった。そこで駆けまわったり、雪玉をぶつけあったり、白くなった木を眺めたりしていたけど、ふとかくれんぼ≠することになった。
「――向こうに見える、あの辺よ」
 と、先輩は指さした。
 見ると、枯れ木や常緑樹が混じった、小さな林がある。雪の中で身をよせあって、何とか暖をとろうとしているみたいにも見えた。それが当時と同じ光景ということはないだろうけど、似たようなものだったかもしれない。
「かくれんぼを言いだしたのがどっちだったかは忘れてしまったけど、最初に鬼になったのはわたしね」
 現場検証中の警察官みたいな口調で、先輩は言った。
 先輩が目をつむって数をかぞえるあいだに、小鳥ちゃんは隠れる場所を探した。でも冬の林は意外と見通しがよくて、あまり隠れられそうなところはない。それで湖岸のほうへ向かうと、一本の木があって緑が茂っている。
 まだ小さかった小鳥ちゃんは、不器用な手つきで木をよじ登りはじめた。そこならきっと、見つけられないだろう。お姉さんはびっくりするに違いない。
「――音が聞こえたのは、その時のことよ」
 先輩によれば、それはとても静かな音だったという。小さな石を一つ井戸に放り込んだくらいの、そんな。それはただ、鳥が立てただけの音かもしれないし、枯れ木が水面に落ちただけかもしれない。
 最初は、何とも思わなかった。数をかぞえ終わった先輩は、妹さんを探しに出かけた。林の中はしんとして、物音一つしない。雪の上はさっき自分たちがつけた足跡でぐちゃぐちゃになっている。
 何度も呼びかけながら、先輩は小鳥ちゃんを探した。何故だか、彼女はなかなか見つからなかった。遊園地の迷路にいるわけじゃないし、絵本の中で縞模様のシャツを着た人間を探しているわけでもない。すぐに見つかったって、おかしくないはずなのに――
 時間がどんどん空白に食べられていくと、先輩はさっき聞こえた音のことが気になりはじめた。あれは本当は、何の音だったんだろう。小鳥は一体、返事もせずにどこに隠れたんだろう。
「……わたしはとうとう、両親のところに戻ることにした」
 その時の先輩は、大丈夫、別になんてことないんだ、と自分に言いきかせたそうだ。
 小鳥はうまく隠れたせいで、ただちょっと見つからないだけ。さっき聞こえた水音は、ただの気のせい。だって、音はとても小さかったし、それっきり何も聞こえてなんてこない。何か問題があったら、もっと騒がしくなっているはず。
 お父さんとお母さんのところに戻るのは、念のためだ。念のために、小鳥のことを報告しておくだけ。別にたいしたことじゃない。本当は小鳥はどこかに隠れていて、見つからないだけなんだから。
 でも、二人のところまで戻ったとき――
 先輩は、泣いてしまっていた。壊れて鳴りやまなくなった目覚まし時計みたいに、誰かが手を離して坂道を転げおちるボールみたいに。
「わたしは、泣くタイミングを間違えたんでしょうね――」
 と、先輩は言った。まるで自嘲でもするかのように。
 両親はすぐ消防に連絡して、学習センターの人にも助けを呼びに行った。父親が先輩の案内で湖面を探していると、少し離れたところに小鳥ちゃんが沈んでいるのを発見した。
 いろいろと苦労したすえ、小鳥ちゃんは岸にあげられた。その時点で呼吸は止まっていたし、心臓も動いていなかった。水温は低かったし、こういう時に子供はびっくりして身動きができなくなってしまうものだ。溺れてから、もう十分以上が過ぎていた。
 たぶん、彼女は自分が今どうなっているのかもわからないまま、眠るみたいに死んでしまったのだろう。
 懸命な救命措置がとられるあいだ、先輩は妙に冷静だった。大人たちが慌てふためいて右往左往する中で、死んだ小鳥ちゃんをじっと見つめている。
 それはたぶん、想像の中の小鳥ちゃんが先に死んでしまったせいだった。もう読める人間がいなくなってしまった文字といっしょで、それ自体には何の意味もなくなっている。いくらそこに現実的な小鳥ちゃんの死が転がっていたところで、そのことは何の意味も持ってなんかいない。
 アキレスが、永遠に亀に追いつけないのと同じで。
 結局、小鳥ちゃんは救急隊員の人が到着する頃には亡くなっていた。搬送先の病院で死亡が確認されて、みんなが涙を流した。雨が降ったときには、傘をさすみたいに。
 ――ただ、先輩だけをのぞいて。
「はっきり言えば、わたしのせいで小鳥は死んだのよ」
 先輩はポケットに手を入れたまま、吹いてくる風に目を細めた。風は遠慮でもしたみたいに、すぐやんでしまう。
「あの時、かくれんぼなんてしなければ、わたしが鬼になんてならなければ、音がしたときにもっと早く助けを呼んでいれば――」
 先輩の口調はメトロノームと同じくらいに淡々として、機械的だった。夜空の星を、ただの番号で確認していくみたいに。
「……後悔してるんですか?」
 と、あたしは訊いてみた。それは言わずもがなのことではあったのだけど。
「タイムマシンが欲しくなるくらいにはね」
 先輩はまじめな顔で答える。新しい発明というのは、こうやって作られていくのかもしれない。
 七年前、ここで一人の女の子が死んだのだった。何の意味もなく、何の理由もなく。何の必要もなく、何の責任もなく。
 そして先輩は、今でもその場所に囚われていた。
「――先輩は、悪くなんかないです」
 あたしは自分の言葉が全然何の強さも、説得力も持っていないことを承知しながら言った。例えモールス信号みたいな弱々しくてわかりにくい言葉だったとしても、伝えなくちゃならないことはあるのだ。
「先輩はまだ小さかったんですよ。それに大人だったとしても、結果は少しも変わらなかったかもしれない」
 でも、先輩は首を振った。
「それは無理ね」
 先輩のその言葉は、雪が空から降るのより、雪が地面に積もるのより、もっと静かだった。
「わたしを慰めようとしたって、意味なんてないわ。前にも言ったと思うけど、わたしの心はまあまあ死んでいるのよ」
「…………」
「それに、わたしは悲しんでるわけでも、苦しんでるわけでもないわ」
 あたしは何故だか、強く首を振った。強く、大きく、子供が駄々をこねるみたいに。
「そんなはずない、先輩が平気なんて、そんなはずないですよ」
 あたしの言葉は白い息といっしょになって宙に浮かんだ。
「いくら平気なふりをしたって、そんなのは嘘です。傷口がふさがっていないのに、今でも血が流れてるのに、ちゃちな絆創膏だけ貼ってそれでおしまいなんて、正しいはずないですよ」
「なら、どうしたらいいのかしら?」
 先輩はいつも通りの表情で言った。
「千瀬さんの望み通り、泣いて喚いて、服をひきちぎって胸をかきむしって、わたしがどれくらい傷ついているのか示せば満足かしら? それで少しでも世界がよくなったり、救われたりするとでも?」
「そうじゃない、そうじゃないんです」
 あたしはもう一度、首を振った。やっぱり、子供みたいに。
「妹さんが亡くなったことは、先輩には何の責任もないことなんです。先輩は悪くなんかない。誰にも、どうすることもできなかったことなんです。例え、神様がいたとしたって――」
「いいえ、違うわね」
 先輩は言った。さっきよりも少しだけ強く、はっきりと。
「あれは、わたしの責任だった。わたしは何とかすべきだった。わたしには何かできることがあるはずだった。わたしはきちんと、慎重に、賢く行動すべきだった。わたしはもっと、うまくできたはずだった」
「……先輩」
 それから先輩は、静電気を帯びた猫くらいの、かすかな苛立ちと憤りの混じった声で言った。
「あの時、わたしは確かに何かすべきだった。さもなければ、何もすべきじゃなかった。わたしは世界を損なったのよ。わたし自身が、世界をダメにしてしまった――!」
 先輩の声がその響きといっしょに消えてしまうと、世界は急に静かになった。まるで、空気が全部真空と入れ替わってしまったみたいに。
 ある意味、先輩の言っていることは事実だった。あの時、先輩には妹さんを助けられる可能性があった。彼女を死なせずにすむような選択肢があった。
 でも、それは――
 実際には、存在なんてしなかったのだ。
「……先輩は、あの壁に書かれた詩のことを覚えてますか?」
 あたしはできるだけ静かな、けど真空に負けないくらいの声で言った。
「見えない文字で書かれてて、先輩が暗号を解読した、例の手紙のやりとりです」
 先輩は簡単にうなずいた。もちろん、忘れるわけなんてないだろう。
「実はあたし、あの手紙を書いた本人に会ったんです」
「――本人に?」
 さすがに、先輩もそこまでは予想できなかったみたいだ。自慢することじゃないとはいえ、あたしはちょっと得意だった。
「清塚さんという人で、文化祭の日にたまたま学校に来てたんです」
 あたしはその時のことを、かいつまんで説明した。弓道場の裏で出会ったこと、もう一人の相手は咲島さんということ。
「それで、二人はどうなったのかしら?」
 先輩が質問する。やっぱり、そこのところは気になるみたいだった。
「残念ながら、別々の人生を歩んでるみたいです」
 と、あたしは正直に答えておく。こんなところで嘘をついたって、三文の得にもならない。
「決闘も、駆け落ちも、悲劇的な二人の死もありません……大団円も、なかったわけですけど」
「――でしょうね」
 先輩は特に満足そうでも、特に不満そうでもなく言った。
「世界はそんなに都合よく出来てたりしないわ。どこまでも、散文的でしかない」
 その言葉に、あたしはしばらく黙っていた。先輩の言うとおり、たぶん世界は愛想がなくて、サービス精神にも欠けている。それはどこまでも現実的で、一方的で、詩的になんて出来ていない。
 ただ――
「清塚さんは、先輩に感謝してましたよ」
「感謝?」
 先輩は怪訝な顔をする。服の小さなほつれに気づいたときくらいの。
「そうです」
 言って、あたしは強くうなずいた。
 学校で会ったあの時、清塚さんは別れ際に言ったのだ。僕からも最後に一言いいかな、と。
「清塚さんは先輩に感謝してました。先輩みたいな人があの手紙を見つけてくれて、よかったって。それだけでも、ずいぶん救われた気がするって」
「…………」
「妹さんだって、感謝してるはずです」
 あたしは自分でも半分くらい何を言っているのかわからないまま、続けた。
「今までずっと、忘れずにいてくれて。今までずっと、大切に思っていてくれて――」
 しゃべりながら、でもあたしは自分が間違っていないことがわかっていた。潮の満ち干が決まった時間に起こるみたいに、教えられもせずに蜘蛛が巣をはるみたいに、渡り鳥たちが迷わずに長い旅を終えるみたいに。
「妹さんだって、わかってるはずです。先輩は悪くなんてない。誰も、悪くなんてないんです。だから、妹さんはきっと先輩が苦しむことなんて望んでません。誰かが苦しんだり悲しんだりすることなんて、望んでるはずないですよ」
「――論理的じゃないわね」
「論理なんてくそくらえです!」
 あたしは叫んでいた。今までに、こんな大きな声を出したことはないというくらいに。今までに、こんな心の底から声を出したことはないというくらいに。
「あたしだって、感謝してるんです。先輩と会えたことに。これまでの一年近く、先輩と過ごしてきたことに。先輩みたいな人が、いつまでも苦しんでいちゃいけないんです。いつまでも、傷ついたままじゃいけないんです。だって、もう十分ですよ……」
 何故だか自分が泣いてしまいそうになりながら、あたしは言った。
「だから、先輩は自分を救ってあげてください。自分を許してあげてください。でなきゃ、でなきゃ――
 世界は、あんまりです」
 あたしが意味不明にして支離滅裂、唯我独尊にして五里霧中な言葉を吐きだすと、先輩は黙っていた。
「わたしは……わたしは――」
 それからしばらくすると、先輩の目からは流れ星みたいに涙が零れていた。
 最初の一雫が流れてしまうと、あとは壊れた水道管みたいにとめどがなかった。大粒の涙がぽろぽろと、途切れることなく落ちていく。
 先輩は空を見上げ、目を閉じ、顔をくしゃくしゃにして――大声をあげて泣いていた。
 同時に、世界のどこかで何かが壊れていた。そこには音も、形も、色も、重さも、匂いも、手触りも、何もなかったけれど――確かに。

「ああああ、あああああ――」

 先輩は、小さな子供みたいに泣いていた。
 そう――
 それは、そうだ。
 何しろ先輩は何年も前に、まだ子供のときに流すはずだった涙を流しているのだ。
 子供のときにはたすべきだった約束を、はたしているのだ。

「ああああ、あああああ――」

 まるで雪が溶けるみたいに、先輩はいつまでも泣き続けていた。灰色の空と、白い雪のあいだで。子供みたいに大声をあげながら。

 次の日、学校は終業式だった。
 ネジやら釘やら、そんな何やかやを全部ゆるめたり外したりしてしまった雰囲気の中、学校は午前中で滞りなく終了した。来年になるまでのしばらくのあいだ、すごろくの一回休み≠ノとまったみたいに、お休みが続くわけである。人間も学校も、年を越すためにはいろいろ準備というものが必要だった。
 先生によるありきたりな訓戒やら、友達との短い語らいやら、教室でのこれまでの時間との感傷的なお別れやらののち、あたしは文芸部の部室に向かった。
 廊下を歩く途中、窓から見える景色に雪はなくて、世界はすっかり元通りだった。もっとも、寒さはこれからもっと厳しくなるわけで、いつ雪が降ったっておかしくはない。
 ――とはいえ、昔の人も言っているとおり冬来たりなば春遠からじ≠ネわけだった。
 あたしは部室の前まで来ると、小さくノックしてドアを開けた。
 手前の荷物置き、大きめの本棚、ソファ、パソコン用の机、壁の黒板、中央に置かれた会議用テーブルとパイプイスの群れ。それなりの歴史を感じさせる埃っぽい空気に、気の利いた文章が通常よりも高い密度で漂っていそうな雰囲気。
 それはいつも通りの文芸部の部室で、そこにはいつも通りに――先輩の姿があった。
「…………」
 先輩はよくそうしているのと同じ格好で、中央のところのイスに座って本を読んでいた。蛍光灯の光の下だといつもほど神秘的には見えないけど、それでもあたしの三割増しくらいで絵にはなっている。
 それに、その様子はいつもより少しだけ、柔らかくなっている気がした。北風と北北西の風くらいの違いではあったけど。
 あたしは荷物を置いて、先輩の向かい側に座ってから言った。
「これから、冬休みですね」
 先輩はモールス信号的に、実にフレンドリーに返事をしてくれる。
「――ええ」
「先輩は、何か予定とかありますか? うちはお母さんの実家に行く予定なんですけど」
「特にないわね」
 言ってから、先輩はふと思い出したみたいにつけ加えた。
「春には部誌を出すから、作品を用意しておくのを忘れないでね」
 どうやら、先輩には思い出して欲しくないことを思い出す、というスキルがあるみたいだ。
 実にエスプリに富んだ会話を交わしたところで、あたしは言ってみた。
「――先輩は、特に変わりはないですか?」
 そう訊くと、先輩は持っていた本をいったん机の上に置いた。
「ええ、そうね……あなたのほうは?」
「あたしは、うん、あたしは変わらないですね。バカは死んだら治るそうですけど」
 言うと、先輩は少しだけ笑った。
「あなたの場合、死んでも今と変わりそうにないけれど」
 誉められたようなので、あたしは得意になって言った。
「どうやら、先輩にもあたしのことが少しはわかってきたみたいですね」
「――門前の小僧、というところかしら」
「そのうち、和尚にレベルアップできますよ」
 あたしは太鼓判を押した。実に慶賀すべきことである。
 先輩は本に手を置いたまま、少しだけうつむいていた。別にあたしのことに呆れているわけじゃない、はずだ。
「……久しぶりに、妹の夢を見たわ」
 と、先輩はぽつりと言った。小さな水たまりに落ちた、一粒の水滴みたいに。
「どんな夢ですか?」
 訊くと、先輩はしばらく黙っていた。本を静かに閉じて、そっと本棚に戻すときの時間に、それは似ていたかもしれない。
「わたしもよくは覚えていないのだけど、妹が笑っていた夢よ」
 そう言う先輩の顔を、あたしは付箋をつけて心の中に保存しておくことにした。たぶんそれは、今までに見た先輩の表情の中で、一番幸せそうなものだったから。
「――先輩の書く詩に小さな女の子がよく出てくるのは、そのせいなのかもしれませんね」
 と、あたしは言った。
「先輩はきっと、妹さんをきれいなところに守っておいてあげたかったんですよ――たぶん、妹さんだけじゃなくて」
「……かもしれないわね」
 珍しく、先輩はあたしの言うことに同意した。でも、しばらく雪は降らないはずだ。もちろん、雨も。
 それから先輩は、一片(ひとひら)だけ降ってきた雪みたいにして言った。
「わたしはそろそろ、わたしを許すべきなのかもしれない――」
 部室の空気は相変わらず冷たくて、ヒーターは永久機関なみの仕事しかしていなかった。これが夏になると扇風機の怠慢をなじっているのだから、人間て不思議なものではある。
 世界はただ、同じことを繰り返しているだけなのに。
「あなたには、感謝すべきなんでしょうね」
 と、先輩は不意に言った。
「――え?」
 あたしは別のことを考えていたせいで、その言葉をきちんと聞きとることができなかった。少なくとも、流れ星に願いを三回唱えるほど準備万端でいたわけじゃない。
 でも先輩は、そのことについてはもう何も言う気はないみたいだった。まったくのところ、志坂律子という人は素直に出来ていないのだ。
 だからあたしとしては、その分まで素直になって言うしかなかった。
「今の言葉、大事なことだからもう一回言ってください」
 当然だけど、先輩はそんなことを安請けあいはしなかった。もしも先輩に頼みをきいてもらいたかったら、三遍まわってわんと言うくらいじゃないとダメなのだ。
 代わりに先輩が言うことには、次のようである。
「――大事なことだったら、きちんと覚えておくことね」
 そう言って、先輩は少しだけ子供っぽく笑った。


【エピローグ 最後の瞬間のすごく小さな変化】


 とりあえず、あたしの話はこれで終わる。
 もう語るべきことなんて何一つないし、言い残したこともない。あったとしてもたぶんそれは、雨降りのあとの小さな水たまりみたいなものだ。そんなのは、長靴をはいた子供が、ちょっと遊ぶくらいのものでしかない。
 だからこれは、ただのつけ足しだ。余計な一言、無駄口、言わずもがなのこと――古典的な表現でいうところの、蛇足というやつである。
 もしくは、手紙の最後につけられた、ちょっとした追伸みたいなものかもしれない。
 ともあれ――
 先輩の言うとおり、たぶん世界は詩的になんて出来ていない。
 そこで起こることはあまりに現実的で、救いがなくて、ちゃんとした意味を欠いている。太陽はただ暑いだけで、風はただ鬱陶しいだけで、雪はただ冷たいだけ。そこにあるのはあくまで、ただの事実だけだ。
 そしてそこでは、あまりに多くのことが意味もなく損なわれてしまう。どんなに大切なものも、簡単に失われてしまう。そこで流れる血は本物で、色やにおいや手触りや――痛みを持っている。
 世界はあくまで、散文的に出来上がっているのだ。音も、形も、色も、重さも、匂いも、手触りも、それ自体には何の意味もない。
 でも――
 だからこそ、あたしたちはそこに意味を与えなくちゃならないのだろう。からっぽの器に、いろんなものを注いだり、盛りつけたり、飾ったりするみたいに。
 その器をどう使うかは、あたしたちの自由だ。料理に使ったっていいし、床の間を飾ったっていいし、気に入らなければ頑固な職人みたいに割ってしまったっていい。あるいは、殺人事件の凶器にだって。
 あたしたちはみんな、詩人になるべきなのだ。自由に想像し、表現し、物語るものに。この世界に、何らかの意味や価値を与えるために。
 例えそれが、どんなに拙くても、うまくいかなくても、ひどい出来だったとしても、あたしたちは詩を作るべきなのだ。このからっぽで散文的な世界を、少しでもよいところにするために――
 もうすぐ、春がやって来る。
 季節は一巡りしたのだ。地球は相変わらず、文句も言わずに太陽のまわりを回り続けていた。あたしや、あなたを、その上に乗せたまま。
 すべてが一周して、でもそれは同じところに戻ってきたわけじゃない。そこにあるのは違う場所、違う時間、違う物事、違う方法、違う理由。
 ――違う、自分だ。

 結局のところ、あたしは本物の詩人にはなれないのかもしれない。
 誰かも言ってるとおり、詩人になるためにはちゃんとした学校も、方法も、ありはしないのだから。そのためには、たった一人で荒野をさまよったり、魂の遍歴を経験したり、息をとめて深く水にもぐるみたいに、自分の心ときちんと向きあったりしなくちゃならない。
 それは誰にでもできることじゃないし、ことあたしに関しては実に怪しかった。才能とか、動機とか、経験とか、素質とか、そんないろいろにおいて。
 やっぱりあたしは、詩人にはなれないのかもしれない。
 でも、きっと――
 何かになりたいとは、思っているのだ。

――Thanks for your reading.

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