[詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない]

「祝祭」

世界は時々 子供みたいに退屈して
それで 困った人間たちは
お祭りなんてものを 考えてやったりする

むずかる子供を あやすみたいに
ぐずつく子供を なだめるみたいに

はりぼての人形
まにあわせの劇場
にわか仕立ての舞踏

それはみんな まがいもの
明日には忘れてしまう 意味のない夢
一夜限りのサーカスと同じで
広場の天幕は すぐに畳まれてしまう

でもそれは 特別製
クチュリエの作った 一点物のドレスみたいに

そこではどんな可能性だって 許容される

(表が裏で 裏が表)(生が死で 死が生)
(黒が白で 白が黒)(無が有で 有が無)

何故なら 嘘のほうが
うまく真実を語ることだってあるからだ


                    志坂 律子

【B The Catcher in the School Festival】


 鵬馬高校には、「紫清祭(しせいさい)」という名前の文化祭がある。
 その名前は、杜甫だか李白だかの(どっちがどっちかはわからない)漢詩からとられたそうだ。
 文化祭のご多分にもれず地元ではまあまあ有名で、開催日には近隣の人々や生徒関係者がたくさん訪れてくる。もちろん、オリンピックやリオのカーニバルほどじゃないけれど、それなりの賑わいには違いない。月もすっぽんも、丸いことでは変わりがないのだ。
 十月の初め頃に行われる文化祭には、夏休み期間中と九月のあいだをあわせて準備が行われる。学校の飾りつけや展示物の作成、イベントの企画や各種模擬店の立案と計画、エトセトラ、エトセトラ。
 何しろそれは、高校生活における最大の共通イベントなのだ。生徒も先生も、運動部も文化部も、女も男も、老いも若きも、猫も杓子も、みんな一丸となってことにあたるのである……猫も杓子も?
 合計二日間にわたる文化祭は、様々な催し物がめじろおしだった。そこには涙があり、笑いがあり、忘れられない物語が存在する……たぶん。
 とにもかくにも、各クラス、各部活、各有志たちは、この日のために長い試練と厳しい道のりを越えてきたのである。天竺やサンティアゴ・デ・コンポステーラほどじゃないにせよ。
 ――そしてそれは、我が文芸部にしても同じことだった。

 文化祭の初日、あたしは文芸部の部室で店番中だった。
 大抵の文芸部がそうであるみたいに、我が鵬馬高校文芸部でも文化祭にあわせて部誌が発行される。伝統的に「櫂歌(とうか)」と名づけられたその部誌は、春と秋の年二回作られるのが習わしだった。
 ちなみに、櫂歌(棹歌)というのは舟歌のことである。ヴェネツィアのゴンドラ乗りたちによるバルカロールで、クラシックにおける一つのジャンルにもなっている――という先輩の話だった。
 歴史あるその部誌の執筆陣は、当然ながら先輩とあたしの二人だった。親切な小人が眠っているあいだに何か書いてくれれば別なのだけど、あいにくと文芸部にそんな便利な妖精は棲んでいない。
 部誌のデザインは主に先輩が行って、プリンタで印刷したものを自分たちで製本する、というのが基本だった。作品を用意するのもそうだけど、この製本作業がなかなかの骨折りではあった。
 表紙にはタイトルの「櫂歌」と号数、それから先輩の書いた詩の一つが配置されている。
 その詩というのは、こういうものだ。

あの子がのばした手がつかんだのは
 透明な光の雫だろうか
 それとも
 わたしの心そのものだったのだろうか

 それは先輩とあたしが動物園に行ったときに書かれたもので、先輩は広場である女の子を見つけたのだった。その女の子は落ちてくる葉っぱか何かに手をのばしていて、その光景がこの詩のモチーフになっている。
 ちなみに、先輩は動物園反対派だそうだった。「シートンもコンラート・ローレンツも、野生動物は自然の中でこそもっとも美しい、と言っているわ」とのこと。あたしとしては、どちらとも言えないところではあったけど。
 文化祭ではこの部誌に、お手製の栞もいっしょにつけられる。栞には縮れの入ったちょっと古風な感じの紙を使っていて、先輩とあたしが小説その他から勝手に選んだ文章がプリントされていた。
 それは例えば、こんなふうに――

夜の空気は自由にする。

彼女の瞳は空を見上げると、一等青く染まった。

心のキックスターターを踏む。

 文章には引用元もつけられているから、興味があったら調べてみるのもいい。ささやかな広報活動というところだった。
 この部誌と栞がセットで、百円という値段がつけられている。それが高いのか安いのかは判断に迷うところだけど、缶ジュースよりもお手頃価格なのは事実だ。先輩によれば毎年、作ったぶんは大体売れてしまうということだった。
 部誌の販売を行う以上、それを管理する人間が必要である。野菜みたいに無人販売にしてもいいのだけど、それだとやっぱり不用心だった。お金を扱う以上、慎重にならなくてはいけない。
 そんなわけで、あたしは店番をしているのだった。文化祭をまわるのや用事のためなんかに、先輩とは一時間おきに交代することになっている。何しろ部員が二人しかいないのだから、こういう時には不便だ。
 部室はそれなりにお店っぽく演出されていて、中央にあった二つの机は脇によせられていた。その一方(黒板側)には販売用の部誌が山積みにされて、もう一方(窓側)には売り子であるあたしが座っている。ドアはあくび中の猫みたいに目一杯開けられていて、「文芸部 部誌販売中 一冊百円也」と書かれた看板が立てられていた。
 肝心のお客さんについては、ひきもきらずにというほどじゃないにせよ、ぽつりぽつりとやって来る、という感じだった。雨の降りはじめがずっと続くみたいに。
 あたしはそんなお客さんに、できるだけ愛想よく、礼儀正しく、かつ女子高生っぽさをアピールしながら販売を行った。子供からお年寄りまで、いろんな人がやって来て、ちょっとした会話をすることもある。
 忙しいというほど忙しくはなく、暇というほど暇でもない、という感じだった。時間に合間があれば、本を読んだり、お金の勘定をしたり、部屋の中を整えたりもする。
 ――その二人組みがやって来たのは、まだ午前中の、そんなふうにあたしが店番をしているときのことだった。
 親子連れのお客さんに向かってあたしが手を振ったあと、しばらくしてその二人が姿を見せている。一人は同じ高校の制服で、もう一人は私服を着ていた。一見したところだと、姉とその弟、という感じである。
「おはよう、凛ちゃん」
 と、そのお姉さんのほうが声をかけてくる。
 たんぽぽの綿毛が飛んでいくのに似た、ふわふわした長い髪。大切に育てられた花みたいな、穢れを知らない瞳。ふっくらした頬は、マシュマロ的な柔らかさだった。子供が無条件でなついてしまいそうな、そんな雰囲気をしている。
「――おはようございます、久慈村(くじむら)先輩」
 とあたしは立ちあがって、そう答えた。
 久慈村望(くじむらのぞみ)先輩は、先輩の知人の一人だった。中学校時代からの友達で、今でも親しくしているそうだ。文芸部の部室にも時々遊びに来たりしていて、あたしもお近づきになっている。見ため通りのほんわかした、和み系女子という感じだった。
「ちょっと、部誌のほうを見せてもらってもいいかな?」
 と久慈村先輩は言ってきた。文芸部としては、もちろん大歓迎である。こういうイベントに、友人知人の伝手は欠かせないのだ。それがすべてといっても過言じゃない。
 久慈村先輩はおっとりした足どりで、机のほうに向かった。一冊手にとって、ページをめくる。何となく、赤ん坊でもあやすみたいな手つきで。
 それにくっついていたもう一人も、同じ場所に向かった。でもこっちはあまり興味はないのか、壁にとまったハエでも眺めているみたいな目つきだった。なかなか失礼な視線ではある。
 特にどうするでもないので、あたしはノートに訪問者数のメモを増やしておいた。新しく二人分、と。
 そうして鉛筆を動かしていると、不意に声をかけられている。
「――ねえ、志坂って人はいないの?」
 顔を上げると、久慈村先輩にくっついていたもう一人がそこにいた。
 男の子、だろうか。癖のないまっすぐな髪をして、輪郭線がまだ決まっていない絵みたいな、危うい感じの雰囲気をしている。頭のよさそうな、でも強情そうな目つきをしていた。美少年、といっていいかもしれない。それと、物事を笑うのが上手そうな鼻をしている。
 志坂というのは先輩のことで間違いなさそうだったけど、かといってこの子と先輩がどういう関係なのかまではわからなかった。
「先輩なら、今は休憩中だよ」
 あたしがそう言うと、その子は「ふうん」とだけ返してきた。今時の若者のあいだでは、そういう返事が流行っているのかもしれない。
「志坂って、どんな人なわけ」
 かなり、「?」な質問だったけど、あたしは答えておいた。浦島太郎だって、亀には親切にしている。
「先輩は優秀にして親切な、人間の鑑みたいな人だよ」
「ふうん」
 また、ふうんだった。
 その子はそのまま、すたすたと久慈村先輩のところまで行くと、
「先に行ってるから」
 とだけ短く告げて、言葉通りに部屋を出ていってしまう。
 そのあとすぐ久慈村先輩が、購入するために部誌を一冊持ってきたので、
「まあまあ、生意気な子でしたね」
 と、あたしは感想を一言口にしてみた。非難するとか、眉をひそめるというよりは、どちらかといえば感心して。将来は大物になるかもしれない。
「ごめんね――」
 久慈村先輩はメレンゲ的にふんわりした口調で言った。
「あの子、私の妹なの」
「……妹さん?」
 ちょっと、意外だった。
「朔(さく)ちゃんはよく、男の子に間違われるんだよ」
 と久慈村先輩は言った。
「少し、おてんばさんだから」
「――ですね」
 ものは言いようかもしれない、とあたしは思った。というか、おてんばなんて言葉を聞くのはいつぶりだろうか。
 あたしは久慈村先輩から百円を受けとって、栞を一枚適当に渡した。久慈村先輩はその栞を見て、書いてあった文章を読みあげる。
「その二番目によいことを。=v
 確かそれは、先輩が選んだ文章だった。ある有名な言葉、愛してその人を得ることは……≠ノちなんだものである。
 もちろん、これだけだと何のことか推測するのは難しいだろう。
「興味が湧いたら、引用元を調べてみてください」
 とだけ、あたしは言っておく。ネタバレというほどじゃないけど、そういう楽しみも必要だろうから。
「うん、そうしてみるね」
 久慈村先輩はあんみつに入った白玉的に柔らかな笑顔を浮かべる。
 それからふと、あたしは久慈村先輩に質問してみることにした。栞の文章に刺激されたのかもしれない。
「久慈村先輩は、先輩とは昔からの友達なんですよね?」
「そうだよ、律(りっ)ちゃんとは中学時代からつきあいがあるの」
「……先輩って、昔からあんなふうでしたか?」
 言ってから、これだと言葉が足りないな、とあたしは気づく。
「つまり、えと、クールというか、理知的というか――どことなく、必要以上に人を近づけないというか、本当の自分を隠しているというか」
 それはあたしの余計なお世話かもしれなかったけど、何となくそう感じてしまうのだった。たった半年くらいのつきあいしかなくても、それでも。
「私が知ってる律ちゃんは、ずっとあんなふうだったな」
 と、久慈村先輩はのんびりしたマイペースで言う。
「頭がよくて、格好よくて、でも親切なの。困ってる人は放っておけないし、弱い人には味方になってあげる。かといって、それで偉そうにするわけでも、得意になるわけでもない。昔から素敵な人だったよ、律ちゃんは」
 そう――
 確かに、先輩はそんな感じだった。そして、冷たいようで温かくて、しっかりしているようで、どこか危うい。バランスがとれているようで、どこか崩れている。
 だから、不思議なのだ。先輩の何かを、あたしは理解できていない気がして。
「すみません、変なこと聞いちゃって」
 と、あたしは一応お詫びをしておく。結局、余計な手間をとらせただけだったから。
「ううん、そんなことないよ」
 久慈村先輩はにこやかに言った。
「好きな人のことをもっとよく知りたいと思うのは、あたり前のことだもんね」
「…………」
 それはかなりの誤解と天然の発言だったけど、あたしは訂正しないでおく。それに案外、間違いとは言えないのかもしれない。
「文化祭、楽しんでくださいね」
 と、あたしは最後に言っておく。「まあまあ生意気な、妹さんにもよろしく」
「うん、凛ちゃんも、律ちゃんといっしょにがんばってね」
 そうして、あたしたちは別れていった。
 ――もちろん、その時はまだ気づかなかったのだ。
 久慈村朔が、まあまあ生意気なんてレベルじゃすまないんだ、ということには。

 文化祭、二日目――
 午前中も、もうお昼に近い時間。あたしは事前に用意しておいた無人販売セットを設置して、部屋を抜けだした。購入希望者は机に置かれた箱に百円を入れて、部誌と栞を自分で持っていく、という画期的なシステムだ。
 ある場所に向かって廊下を歩いていくと、校舎の中はけっこうな人ごみであふれていた。その半分くらいは学校の生徒だけど、一般客だって同じくらいには多い。子供からお年寄りまで、いろんな人の姿が見えた。
 教室や廊下、校舎のいたるところに飾りつけがしてあって、それは見慣れたはずの光景を全然別のものにしていた。世界はシールを貼ったり剥がしたりするみたいに、案外簡単に変わってしまうのかもしれない。
 いろいろな物音や、人々の話し声、ざわめき、雑踏――
 十月に入って衣替えの時期に入ったとはいえ、昼間はまだまだ暑かった。それでも、朝晩の冷え込みは肌の奥まで感じられるようになってきてるし、雨が降るとびっくりするくらい寒くなったりもする。
 太陽はまだ空の上で虚勢をはっているけど、冬の足音は遠くから、断続的に聞こえはじめていた。それは徐々にだけど、確実に近づいている。季節はいつだって、ゆっくり、静かに変わっていくものだ。
 それは少しだけ、人間と似ているのかもしれない。
「…………」
 あたしは2‐Aの教室までやって来た。基本的に二年生は教室での企画店をやることになっているから、この辺は校舎の中でも特に賑やかだ。
 喫茶店やお化け屋敷、迷路、縁日といったさまざまな企画の中で、2‐Aが何をやっているかというと――カジノだった。
 教室の前にはでっかく「CASINO」の文字が貼りだされて、そのまわりをサイコロやトランプ、スロットマシーンの絵が飾っている。どう見ても、カジノだった。
 あたしは「ENTRANCE」と書かれた側から中に入った。英語ができるあたしに隙はなかったのである。
 教室の中はカジノっぽく、いくつかのテーブルに分かれていた。赤いテーブルクロスがかけられているところなんかは、実にそれっぽい。スタッフはみんな制服の上に黒いベストと蝶ネクタイをつけていて、雰囲気をかもしだしていた。
「――一回の入場につき、百円でチップ十枚になります」
 と、すぐそばの受付にいた女子生徒に言われる。
「出口のところで、獲得したチップを景品と交換してください。景品はチップ十五枚から百枚まであります。各ゲームのルールは、それぞれの机のところで聞いてください。それでは、がんばって高得点を目指してくださいね」
 語尾には見えないハートマークがついているみたいだった。
 あたしは貴重な百円硬貨(もちろん、あたしのだ。決してどこかの箱からとったわけじゃない)を代償に、チップ十枚を受けとる。プラスチック製の、ちゃんとそれっぽいチップだった。
 壁際に並んだ景品を眺めてみると、お菓子から文房具、玩具と、十枚単位で種類が分かれていた。チップなしでも、飴玉がもらえるみたいである。
 ちなみに最高の百枚は、巨大なクモのぬいぐるみだった。クマの間違いなんじゃないかと思うけど、今のところまだなくなってはいない。誰も百枚を達成していないのか、欲しい人がいないのかは不明。というか、あんなのが夜中のリビングに転がっていたら、絶叫してしまうんじゃあるまいか。
 とりあえず、あたしはなけなしのチップ十枚を握りしめて、テーブルをまわってみた。ブラックジャック、ジェンガ、小型だけどちゃんとしたルーレットもある。さすがにスロットマシーンはないみたいだった。
 いくつかのテーブルは埋まっていて、お客さんとディーラー役の生徒で対戦が行われている。手に汗握る、ということはなくて、クレヨンで絵を描くみたいにほのぼのしたものだった。あたり前だけど、借金まみれの人間たちが怪しげな船に乗っているわけじゃない。
 あたしはそんなテーブルを尻目に、すみのほうに向かった。そこには同じようなテーブルがあって、女子生徒が一人で座っている。
「――先輩」
 と、あたしは声をかけた。そう、実のところここは、先輩の教室なのだ。
 先輩はちょっと顔を上げて、あたしのことを認識した。認識したはずなのだけど、何も言わない。
「いやだな、先輩」
 とあたしは朗らかに言った。
「あたしは夢でも幻でも、ドッペルゲンガーでもありませんよ」
「……どうやら、そうみたいね」
 何故だか先輩は、ため息をついている。
「文芸部のほうはどうしたのかしら? あなたのドッペルゲンガーが店番をしてるなら、気をつけたほうがいいわよ。あれは大抵、本体と入れ替わることになってるから」
「大丈夫です、何といっても今はセルフの時代ですから」
 あたしは力説した。
「集金箱が立派にあたしの代役をはたしてくれてるはずです。もしかしたら、あたしよりも立派に」
「……だといいのだけど」
 何故だか先輩は、肩をすくめてみせた。
 先輩はほかの人と同じく、ディーラーの格好をしていた。黒いベストに、蝶ネクタイ。ほかにお客さんはいない。どうやら、そこはポーカーのテーブルみたいだった。
「――ところで、先輩はバニーの格好はしないんですか?」
 ふと、あたしはナイスなアイデアを閃いてみせる。そうすれば、千客万来間違いなしだった。けど先輩は、ごく穏やかに一蹴している。
「聞かなかったことにしておくわ」
「……聞かなかったことにしておいてください」
 あたしは大人しく蹴とばされておいた。神様は触るから祟るのであって、放っておくかぎりは安全なのである。
 あらためてテーブルを眺めてみると、二つくっつけられた机に赤いテーブルクロスがかけられていた。VIP待遇の豪華なイスが用意されてるなんてことはなく、ごく普通に教室のイスが置かれている。もちろん、ゲームのルールや確率はそんなこと気にしたりはしないだろう。
 テーブルの上には親切に、レストランのメニューみたいにしてポーカーの役一覧が立てられていた。もっともお世話になるハイカード(ブタ)から、人生を通して一度も見かけることのなさそうなロイヤルストレートフラッシュまで。
 あたしがそれを眺めていると、
「――ではお客さま、こちらのテーブルで遊んでいかれますか?」
 と、先輩は声をかけてきた。何しろあたしはお客で、先輩はディーラーなのだ。
「ええ、お願いします」
 あたしは等閑階級っぽく優雅に言って、席に座ってみた。何だかままごとみたいだったけど、人生の本質は案外そんなところにあるのかもしれない。
「では、ゲームをはじめましょうか」
 そう言うと、先輩はカードのシャッフルにかかった。両手でカードを持って、同じ束を二つに分ける。それを八の字に置くと、親指で弾きながら端を交互に重ねていった。
 ミツバチの羽音みたいな、カードの混ざる滑らかな音が聞こえる。練習したのか、元からなのかはわからなかったけど、かなり手馴れた感じだった。
 それを見ながら、
「――せっかくだから、別のものも賭けませんか?」
 とあたしは提案してみた。
「何をかしら」
 カードをきれいに整えながら、先輩は言う。
「負けたほうは、相手の質問に何でも一つ答えるんです」
 先輩はちょっと、あたしのほうを見た。地質学者が鉱物の由来を調べるみたいな、そんな目線だった。
「――そうね、あなたはどんな質問をするつもりなのかしら?」
 訊かれて、あたしは答えた。
「先輩はどうして、あのトンネルの幽霊の話に興味を持ったりしたんですか?」
 それは、当時からあたしが疑問に思っていたことだった。先輩はあの時一人だけ、別の物語の中にいた気がするのだ。
 先輩はしばらくのあいだ、黙っていた。ピンボールの玉が、長い時間をかけてゆっくり落っこちてくるみたいに。
 やがて、先輩は言った。
「あなたがこのゲームに勝ったら、いいわよ」
 俄然、あたしはやる気を出した。
 ――けど、物事には代償がつきものだ。文芸部の部誌が欲しかったら、百円を払わなくちゃならない。十枚のチップを受けとるには、百円と交換しなくちゃならない。得ようと思えば、まず与えなくちゃならないのだ。
「ちなみに、あたしが負けたら先輩は何を聞くつもりですか?」
「そうね――」
 と、先輩は少し考えるふうだった。荒野の魔女が、怪しげな薬を調合するときみたいに。
「……何故、あなたは文芸部に入ったのか、かしら」
「なるほど」
 さすが、先輩だった。なかなか嫌なところをついてくる。
「いいのかしら、それで?」
 先輩は親切な悪魔みたいに、最後に訊いてきた。「――やめるのなら、今のうちだけど」
「もちろん、やりますよ」
 それに対して、あたしは勇敢な騎士みたいに答えた。あるいは、無謀な騎士みたいに。
「たまには先輩にも、吠え面ってものをかかせてやりますから」
 ――やっぱり、無謀なほうなのかもしれない。

 勝負は、5ドローポーカー≠ノよって行われる。
 たぶん誰でも、一度はやったことのあるゲームだ。ルールとしては、プレイヤーに五枚のカードが配られる。最初のベットのあと、交換は一度だけ。その時に枚数の制限はなくて、全部からゼロまで自由だ。交換後にもう一度ベットがあって、どちらかが降りなければ勝負が行われる。当然、役の強いほうが勝ちで、賭けられたチップを総取りすることになる。
「ルールと役については、大丈夫かしら? 役の強弱については、そこに書かれているとおりよ」
 と先輩は言った。あたしは念のために確認してみたけど、一般的なものと変わりはない。数字についてはAが最強で、2が最弱。ジョーカーは入っていない。
「問題ありません」
 あたしは落ち着いて答えた。こう見えて、ポーカーには自信があるのだ。遊び人(というほどじゃないけど)の姉にしっかり仕込まれているから。
 つきつめてしまえばポーカーは役の勝負じゃなくて、賭け金のやりとりである。そのために必要なのは、相手との心理戦だった。弱い役でも相手を降ろす(フォールドする)ことができるし、強い役が来たら賭け金を吊り上げるよう工夫しなくちゃならない。
 それに必要なのは、経験≠ニ勘≠セった。
「――所持するチップは、お互いに十枚。ゼロになったほうが負けよ。ラウンドの回数、賭け金に制限はなし」
 と先輩が説明する。
「それで、構わないかしら?」
「ええ」
「ではアンティ(参加費)を一枚――」
 言われて、あたしは十枚のうち一枚を場に払う。先輩も同じように、一枚を置いた。
 それから、カードが配られる。便宜上、先輩がディーラーの位置についた。交互に一枚ずつ、お互いに五枚のカードが配られる。
 手札を伏せたまま、「このままでいい」と言おうかと思ったけど、やめておいた。どう考えてもいい役なんてそろってるはずがないのだ。それにあたしは、弾丸を指でつまめるような便利なスタンドとかを持ってるわけじゃない。
 ――あたしは、手札を開いてみた。

(ク)11・(ダ)3・(ス)9・(ク)5・(ダ)9

 現時点では、9のワンペアだった。初手はハイカードかワンペアが九割以上を占めるから、こんなものだった。問題はここからと、相手の出方。
 ちらりと先輩のほうをうかがってみると、表情も変えずにカードを確認していた。深みにいる魚みたいに、何を考えているかなんてわからない。
「では、一回目のベットを――」
 と、先輩は自動ドアくらいの愛想のよさで言った。
 あたしは少し迷った。はっきり言って、9のワンペアなんて微妙だ。ここから強い手を引く確率も、同じくらい微妙。でも問題はこっちの手じゃなくて、相手の手だった。
「――三枚、賭けます」
 場に三枚、あたしはチップを置いた。これで、相手の出方をうかがうことができる。どれくらいのつもりでいるのかが。
 先輩は特にカードの確認もしなければ、迷いもしなかった。
「コールするわ」
 同じく三枚、場にチップを置く。レイズしなかったにしろ、少なくとも何らかの役くらいは出来ているのかもしれない。
 ――それから、一回目の交換だった。
 あたしは定石通り、強めの(ク)11だけ残して(ダ)3と(ク)5をチェンジする。この場合狙えるのは、ツーペア、スリーカード、フルハウスの三つ。
「…………」
 先輩は一枚のみのチェンジだった。ということは、ツーペアからフルハウスを狙っているのか、あるいはストレートかフラッシュ狙いかもしれない。後者なら、ハイハンドの確率も高いのだけど。
 二枚交換したところで、あたしの手札は次の通りである。

(ス)9・(ダ)9・(ク)11・(ハ)9・(ダ)A

 少なくともこれで、スリーカードにはなったわけだった。仮に先輩の手がさっきのどれかなら、あたしに勝ち目はない。でもツーペアのままかハイハンドなら、あたしの勝ちだ。
 正直、難しいところだった。スリーカードは悪い手とは言えないけど、役としてはそこまで強くない。でも、これをチャンスととらえることも可能だった。一気に勝負を決められるかもしれない。
 先輩を見るかぎり、そこからはどんな情報も読みとることはできなかった。靴を飛ばして明日の天気を占ったほうがましかもしれない。
 あたしは長い数秒間を迷ったすえ、決断した。
「オールイン(全賭け)します」
 残りのチップ六枚を、机の上に置く。
 これは、賭けだった。もし先輩が弱い手なら、あっさり降りるだろう。でも強い手か、あたしのことをブラフだと思うなら、乗ってくるはずだ。その場合は、はっきり言って運任せだ。
 一瞬だけ、先輩は間をとった。ピアノの鍵盤が押されてから音が出るまでの、そんな間だった。
「――受けるわ」
 先輩は、言った。
 それから、全部で二十枚のチップが机の上に置かれる。当然、勝ったほうが全部を取るわけだった。勝負はこれで、決着する。でもも、しかしも、あるいはも――ない。
「それじゃ、お互いの手札をオープンしましょうか」
 と先輩は言った。あたしはうなずいて、自分のカードを最終確認する。大丈夫、これで勝てるはずだ。
 それから――
 それから――けれど。
「ああ志坂、こんなところにいたのか」
 いきなり降ってわいた声が、先輩とあたしの勝負を中断した。走っている自動車に、ピンポイントで隕石が直撃したみたいに。
 先輩もあたしも、声のしたほうを見る。そこには背の高い男子生徒が一人いて、ひどく慌てたうえに混乱した顔で立っていた。
「悪いけど急用なんだ、今すぐ来てくれないか」
 よっぽどのことなのか、一方的に告げる。王様が暗殺されたか、革命が起きたか、世界が滅びでもしたのか。
「一体、何の用かしら?」
 先輩は落ち着いて訊き返した。もちろん、ピサの斜塔がとうとう倒れてきたとしても、あたしたちにできることなんて何一つない。
「とにかく、急用なんだよ」
「何が?」
「いやだから、行方不明なんだよ」
「誰が?」
 男子生徒の言うことは相変わらず要領を得なかったけど、次の一言だけははっきりしていた。
「――久慈村望が、だよ」

 正確には、行方不明じゃなくて、誘拐≠セった。ちょっと古風な言いかたをすると、拐かす、になる。
 先輩とあたしは視聴覚室(前にもお世話になった場所)に来て、その証拠を眺めていた。机の上に置かれた何の変哲もないコピー用紙には、久慈村望は預かった。≠ニ記されている。疑問の余地はないし、ほかに解釈のしようもない。この不確実な世界にあっては、珍しく。
 視聴覚室は(前にも言ったとおり)主に演劇部や英語部が使っていて、今は演劇部の面々が集まっているところだった。文化祭といえば、格好の舞台発表の場である。そのために演劇部では長いあいだ、稽古を重ねてきたのだ。
 久慈村先輩は、そんな演劇部の部員なのだった。
 午後からの発表に向けて、演劇部では最終リハーサルが行われているところだった。段取りの確認や衣装のチェック、機材の点検。三十八万キロ彼方の月に人間を送るほどじゃないにしろ、念入りなうえにも念入りに準備が進められる。
 そんな時に降ってわいたのが、今度の久慈村先輩誘拐事件なのだった。
 当然、演劇部では大騒ぎだった。久慈村先輩は準主役級の役所で、代わりはいない。高校生の演劇部に、そんな冗長性なんてあるわけがない。
 舞台を無事に終わらせる(始める)ためには、何としてでも久慈村先輩を見つけだす必要があった。
「――ああ、何ということだ」
 と、演劇部部長である阿賀野清志(あがのきよし)は言った。さすが演劇部というべきか、そのセリフはちょっと芝居がかっている。慨嘆した、と難しい言葉を使いたくなるくらいに。
 阿賀野部長は黒縁の角ばった眼鏡をかけた、中背中肉の男子生徒だった。がりがりでも、むきむきでもない。体つきには特徴がなかったけど、三枚目というか、わりと愛嬌のある顔つきをしている。人を化かそうとしてもうまくいかない狸、みたいな。
――そして彼の頭は、アフロだった。
「久慈村がいないなんて、僕たちはどうすればいいんだ。半年もかけて、この日のために準備してきたっていうのに。これじゃあ、完成したばかりの船が、進水式で沈没するようなものじゃないか」
 アフロがしゃべっていた。
 たぶん、クラスのイベントか何かでかつらでもかぶっているのだと思う。地毛である可能性は否定しきれなかったけど、それを確認する勇気や気概を、あたしは持ちあわせていない。
 そして正直なところ、どんな悲愴な顔で悲痛な言葉をしゃべられたって、そのアフロが九割くらいは吸収してしまっている気がした。アフロというのはことほどさように、アフロなのである。
「どうか、どうか、ぜひとも久慈村を見つけだしてほしい」
 と、アフロ――もとい、阿賀野部長は言った。
 もちろん、先輩に向かって。
 あの時先輩を呼びにきたのは、同じクラスの演劇部員だった。といってもそれは、先輩の探偵力を頼りにして、というわけじゃない。
 指名があったのだ。先輩を名指しで。例のコピー用紙の全文には、こう書かれていた。

久慈村望は預かった。
 返して欲しくば、四つの問題を解け。
 問題が解ければ私の居場所がわかるだろう。
     ――志坂律子へ

 文字は一つ一つ切り貼りされていて、誰が書いたかわからないようになっている。あたしも実物を見るのは初めてだったけど、これはいわゆる「挑戦状」というやつではなかろうか。
「……最後に久慈村さんを見かけたのは、どこですか?」
 と、先輩は質問した。ちなみに、ディーラー用のベストは脱いでしまっている。もちろん蝶ネクタイも。
「みんなが体育館に荷物を運んでいるときのことだ」
 と阿賀野部長は答えた。それによると、本番直前に搬入しなくてはならない荷物がいくつかあって、それをみんなで手わけして運んでいたのだという。場所はこの視聴覚室から、体育館まで。
「その時はいたはずなんだが、終わってまた部員全員でここに集まったときには、姿が見えなくなっていた」
「久慈村さんが一人きりになる機会はありましたか?」
「たぶん、あっただろうな。小さな荷物なら一人で運べるから、全員がいつもいっしょにいたわけじゃない」
「……これは念のために聞くんですが、この誘拐が自作自演という可能性は? あるいは、実は演劇部で仕掛けたことだとかは」
「そんなこと、あるはずがない」
 と、阿賀野部長は憤慨した。頭の上でぴょこぴょこ揺れるアフロも、同じく憤慨した。
「部員は全員、舞台の成功を願ってるんだ。それは、久慈村も同じだ。こんな時に、こんな状況で、こんないたずらなんてするはずがない」
 阿賀野部長は真剣だった。髪形がアフロじゃなければ、もっと真剣に見えたかもしれない。
「――そうですね、わたしもそう思います」
 先輩は言って、コピー用紙のある机のところに向かった。そこにはもう一つ、何故かテントウムシの折り紙が置かれている。
「犯人の目的はわからないけれど、ゲームに従うしかなさそうですね。……あるいは、子供の駄々につきあってあげるのが、大人の役目というものかもしれないし」
 先輩による後半の発言は、独り言みたいでほとんど聞きとることはできなかった。実際、阿賀野部長もほかの演劇部員も、気にはしなかったみたいである。
 今のところはあたしも、順調に倒れるドミノみたいに右にならっておくことにする。何しろ、それどころじゃないのだから。
「…………」
 先輩はテントウムシの折り紙を手にとると、ゆっくり丁寧に開いていった。ほかに何もない以上、それが誘拐犯の言う問題≠ナある可能性は高い。
 横からあたしがのぞき込んでみると、そこにはこんなことが書かれていた。

(筆者註:本文中、「|」「 ̄」「_」で表現されている部分は、文字間の隙間はないものとして、(濁点)は濁点があるものとして読んでください)

| ̄ ̄|=    ̄ ̄ =@ |  ̄ =A |    = B
 |__|   |__    |      |   
 @A〇(濁点)のあるお店

 今度はさすがに、ワープロで印刷されているだけだった。チラシや新聞から文字を切り抜くのは、けっこうな手間なのだ。
 一応の礼儀という感じで、先輩はそれを阿賀野部長に見せた。部長以下、ほかの部員も何名か、それをのぞき込む。
「……僕にはさっぱりだな」
 というのが、阿賀野部長の意見だった。もちろん髪型をアフロにしたところで、脳みその容量が増えるわけじゃない。
「演劇部の人たちは、とりあえず久慈村さんがどこかにいないか探してみてください」
 と、先輩は指示した。
「学校といったって、隠れられる場所は限られていますから。もしも見つかったら、わたしに連絡をお願いします」
「わかった、そうしよう」
「わたしたちは、犯人の問題のほうを追ってみます。演劇部の公演まで、どのくらいの時間がありますか?」
 阿賀野部長は少し考えてから言った。
「昼の部の最初だから、開演は十三時だ。けどその前の準備があるから、遅くとも今から一時間以内には久慈村を見つけて欲しい」
 先輩がその一時間をどう判断したのかはわからなかった。短すぎるのか、それだけあれば十分なのか。たぶんそれは、犯人の問題が帯なのか襷なのか次第だった。
「わかりました。とにかく、やってみます」
 とだけ、先輩は答える。
「――頼む」
 阿賀野部長はそう言って、深々と頭を下げた。アフロの頭頂部が見えるくらいに。こうやって見ると何だかマイクの頭の部分みたいだな、とあたしはあらぬことを考えていた。
 それから演劇部員たちは全員いなくなって、先輩とあたしだけがその場に残された。あと、四つあるという問題の、最初の一問目も。
 問題の答えはまだわかっていなかったけど、その前にあたしは訊いてみた。
「――部長、アフロでしたね」
「ええ」
「――ちょっと、おかしかったですね」
「そうね、ちょっとおかしかったわ」
 でも先輩の口調は、全然おかしそうでもなければ、ふざけてもいなかった。
 どうやらあたしはまだまだ、修行が足りないみたいである。

 校舎と運動場のあいだにある前庭には、屋台用のテントがいっぱいになって並んでいた。たぶん、学校の中ではここが一番混雑度が高くて、人ごみであふれている。花より団子、なんて言葉を人間が考えだすのも当然だった。
 屋台はそれぞれが人目をひくように、工夫を凝らして飾りつけられている。とにかく派手な色を使ったり、巨大な看板を用意したり、インパクトのあるイラストをつけてみたり。
 とはいえ今のところは、アフロもバニーガールの姿も見あたらなかった。悪くないアイデアだとは思うのだけど。
 食べものを調理する音や匂い、売り子の呼び声、通行人のおしゃべりで、あたりはお祭りらしい雑然とした雰囲気に包まれていた。
「…………」
 そんな屋台のあいだを、先輩とあたしは歩いていく。甘いものから香ばしいものまで、いろんな匂いがあったけど、そんな誘惑に屈することもなく目的の店にたどりついた。
 屋台に掲げられた看板には、「あのスティーブ・ジョブスも絶賛したりんご飴」と大書されている。隣には、何故だか目線の入った本人の肖像画までおまけされていた。裁判沙汰にならなければいいのだけど。
「本当に、ここであってるんですかね?」
 と、あたしは念のためにつぶやいてみた。
 先輩とあたしがここに来たのはもちろん、りんご飴を食べるためや、誇大広告について調査するためなんかじゃない。
 あの問題の答えが、ここを示しているからだった。
「――ポイントは、一番最初の部分ね」
 と先輩は解説した。
 
| ̄ ̄|=  
 |__|   
 は、□が空白になることを意味している。そして残りのへんてこな記号めいた線。これは、実線が空白になって、空白が実線になることを表しているのだった。
 つまり、線の部分を反転させるとこうなる。

  ̄ ̄  |  ̄  |    = |  |   ̄ |   ̄ ̄| 
 |__  |    |         |  __|  __|

 Bには濁点がつくから、正解はリンゴのあるお店≠セった。文化祭のパンフレットを見るかぎり、それはこのお店しかない。
「まあ、聞いてみればわかることね」
 先輩は肩をすくめてみせた。あのアダムとイブも、知恵の実を食べるまではそれが何なのかわからなかったのである。スティーブ・ジョブスがどうかは知らないけど。
 ともかくもあたしはうなずいて、質問してみることにした。
「あのー、すみませんけどここに、何か伝言みたいなものを預かってる人はいませんか?」
 すると中にいた一人が、「あれ?」という顔をする。りんごみたいな赤い眼鏡をかけた、見た感じでは人の好さそうな女子生徒だった。
「もしかして、あなたたちが――?」
 りんご眼鏡のその人は、用心しながら言う。
 先輩とあたしは顔をあわせた。どうやら、本当にここで正解みたいだ。
「たぶん、そうだと思います」
 と、あたしは慎重に答えた。
「ええ、次の問題を預かってるわよ。でもその前に、折り紙が何だったか言ってみて」
「……テントウムシです」
「おっと、正解ね。わりと半信半疑だったんだけど、本当に来たんだ」
 その人はにこやかに言った。
 どうやら、犯人は問題の行き先で、関係者の人間に次の問題を託しているみたいである。つまりこれは、一種の「宝探しゲーム」なのだった。問題を解けば、また次の行き先がわかるようになっている。
 なかなか、手の込んだ仕掛けだった。
「じゃあさっそく、次の問題をもらえますか」
 あたしは勢いこんで言った。何しろ制限時間内にあと三問、同じようなことをしなくちゃならないのだ。
「いいけど――」
 と、その人はにこやかな笑顔のままで言う。
「せっかくだから、一つ買っていってくれないかな? 一応、手間賃てことで」
「…………」
 どっちかというと、あたしたちも手間をかけさせられているほうのような気はするのだけど。
 とはいえ、ギブ&テイクが世の習いだった。得ようと思えば、まず与えなくちゃならない。とかくに人の世は住みにくい。
「じゃあ、一つください」
 と、あたしは仕方なく言った。
 ちなみに、「スマホで決済はできますか?」と訊くと、「無理です」の答えだった。電子マネーが普及しないわけである。
 あたしは百円を払って、りんご飴を一つもらった。店先には逆さにくっついた風鈴みたいな格好で、赤いりんご飴がいくつも並んでいる。ちょっと夢にでも出てきそうな、特殊な光景だった。
「毎度ありがとうございます――じゃあこれ、はい」
 と言って、その人はあるものを渡してくれる。
 りんご飴といっしょにもらったそれは、またしても折り紙だった。今度はテントウムシじゃなくて、タコである。ちゃんと足も八本あった。
 あたしがその折り紙についての造形的な批評を行っているあいだに、先輩は隣でこんな質問をしていた。
「誰がこれを置いていったのか、教えてくれませんか?」
 考えてみるとそれは、犯人につながる重要な手がかりなのだった。
 けれど――
「ごめんなさい。きつく口止めされてるから、それは言えないわね」
 と、質問のかいはなかった。まあ、当然かもしれない。これだけ用意周到に準備しているのだ。それに犯人がわかったところで、その居場所がわからなければ、意味なんてないのだった。
 先輩とあたしは、お礼を言ってその場を離れた。少し先にベンチがあったので、いったんそこに腰を落ち着ける。まわりには同じようなベンチがいくつもあって、歩き疲れたらしい人たちが何人も休憩中だった。何だか、太陽の光までくたびれている感じがしないでもない。
 手に持ったりんご飴を眺めながら、あたしはそれをどう処理してやるか考えていた。この奇妙なお菓子をどう食べるかは、意外と難問なのだ。百人いれば百通りの、とまでは言わないけど、五、六通りくらいの食べかたならあるかもしれない。
 そんな難題に挑戦するあたしの横では、先輩がタコの折り紙を開いていた。はたせるかな、そこには次の問題が書かれていたみたいである。
「――何ですか、それ?」
 と、あたしは首を傾げた。

○ 春 弱  虎 豊
 × 夏 強 赤 竜 貧
 ○に関係したゲームのある場所

 折り紙には、そう書かれていた。
「いわゆる、あるなしクイズというやつね」
 先輩はじっと、その紙面に目を落としながら言う。
「○に共通する何かが、次の目的地に関するヒントになっている」
「ふむ」
 とあたしは考えてみたけど、何も思いつかなかった。下手な考えは休むのに似ているらしいので、ここはいったん休んでしまうことにする。
「……ところで、先輩はりんご飴ってどう食べますか?」
「そんなのは自分で考えなさい」
 あたしの深遠なる悩みの種を、先輩はぴしゃりとはねつけてしまった。

 先輩とあたしは校舎に戻ってくると、再び二年生の教室があるほうに向かった。別にカジノに戻って、勝負の続きをするためじゃない。
 それは、問題の答えに関係しているからだった。あのあるなしクイズの答えは、「魚」だったのである。○はすべて、魚偏のつく漢字なのだった。ちなみに、鯱はシャチだそうだ。
 魚に関係したゲームのある場所、といえば一つしかなかった。先輩とあたしは、そこに向かっているのだ。
「――――」
 にしても、あのポーカーの結果はどうだったんだろう、とあたしは思った。あたしとしては、気になるところだった。それとも、神話的にやばいものの詰まった箱みたいに、それは開けないほうが無難だったのだろうか。
 あたしには、わからなかった。
 けど今は気にしても仕方ないので、久慈村先輩救出作戦に集中することにする。昔の人も、鳥に石を投げるのはよくても、兎を追いかけるのはよくない、と言っているのだから。
 先輩とあたしは、2‐Fの教室までやって来た。そこは縁日の遊びをテーマにした企画店をやっているところで、ここに「魚」に関係したゲームがあるのだった。
 中に入ってみると、何だかお囃子っぽい雰囲気の飾りつけがされていた。提灯みたいな紙風船がたくさん吊るされているし、のぼりやお面が壁を賑やかしている。そういえば、入口には鳥居まで作られていた。凝っている。
 縁日だから子供との相性がいいのか、わりと親子連れの姿が目立っている気がした。
「どうぞ、どれでも遊べるチケット四枚で百円になります」
 と、受付にいた女子生徒が声をかけてくる。何だか、うちの文化祭の料金は百円が相場みたいだった。
 百円を払って、先輩とあたしはそれぞれチケットを四枚もらう。教室に用意されている遊びは、ちょうど全部で四種類だった。一通りまわってみてもいいし、好きなのを一つだけ四回やってもいい、ということらしい。
 四種類の遊びは、射的、輪投げ、ボーリング、それから――魚釣りだった。
 魚に関係するゲームといえば、これしかない。先輩とあたしはほかのものには目もくれず、まっすぐそっちに向かった……機会があればもう一度来てみようかな、と思いながら。
 魚釣りは昔懐かしいというか、磁石を使って魚に見立てたオブジェを釣りあげる、という仕掛けだった。ブルーシートが敷かれて、石ころやバケツや目覚まし時計や宝箱なんかが置かれている。どういうコンセプトなのだろう。
「やあやあ、ようこそ海賊の墓場へ」
 そこの担当らしい男子生徒が、話しかけてきた。
「…………」
 何というか、実に海賊だった。ドクロマークのついたキャプテンハットをかぶり、赤いロングコートを羽織り、それっぽいブーツを履き、眼帯までしている。さすがに、鉤爪のついた義手まではしていなかったけど。
「ここでは、釣りあげた魚に応じて点数がもらえるんだ。もちろん、難しいものほど点数は高い。見事高得点を稼いで、景品をゲットしてくれ」
 ずいぶん、のりのりだった。海賊が好きなのかもしれない。
 そんな眼帯くんに向かって、先輩は全盛期における大英帝国の女王的な威厳をもって訊いた。
「ここに、誰かが折り紙を預けていかなかったかしら?」
 眼帯くんは一瞬、素に戻ったみたいな顔で先輩のことを見た。けど、すぐさまディズニーランド的な演技精神を発揮したようである。
「おっと、おたくらが件の人物ってわけだ。ああ、話は聞いてるぜ。折り紙も預かってる」
「なら、それを渡してもらえるかしら」
 先輩が言うと、眼帯くんはなぜだか「ちっちっち」と言いながら指を振った。別にメトロノームのまねをしてるわけじゃないだろう。
「どうしても折り紙が欲しいっていうなら、ゲームをクリアしてもらわないとな」
「……そんな暇はないわ」
 先輩は当然のことを言う。でも眼帯くんには通じないらしい。さすが海賊、汚い。
「いやいや、残念ながらおたくらに選択肢はないんだ。折り紙はすでに、そこにいる魚の一つに仕込んである。手に入れたかったら、がんばって釣りあげるしかないのさ」
 正直なところ、ほかにいくらでも方法はあると思うのだけど。
 先輩とあたしは、ちょっと顔をあわせた。でもわざわざ、目と目で通じあう必要なんてなかった。先輩はきれいな貝殻みたいなため息をついて、言う。
「わかったわ、どうやらやるしかないみたいね」
「うん、そうこなくっちゃな」
 と、眼帯くんは無邪気に喜んだ。
「ついでだから、難易度は上げといたぜ」
 どんだけ余計なことしてくれとんねん、とあたしは心の中で、思わず関西弁になってつっこんでいた。

 ――結果的に言えば、それは困難な挑戦だった。
 二人で七枚分のチケットを消費して、先輩とあたしはとうとう問題の魚がどれなのかをつきとめた。一匹ずつ調べていって、最後に残ったのがそれだったのだ。何事も無駄にはならないのである。
 ラスト一枚のチケットを使って、先輩とあたしはその魚――というか、マンボウを釣りあげにかかった。ちょっと大きめの缶詰にそれっぽい模様をペイントして、特徴的なひれをくっつけたものだ。
 これが思いのほか難物で、簡単には釣りあがらなかった。缶詰自体には磁石がくっつくのだけど、そんなに強くはくっつかないし、バランスも悪い。おまけに、缶そのものも重くしてあるらしいのだ。本当に、余計なことをしてくれたものである。
 先輩が何度目かの竿を振るったけど、マンボウはその場から動こうとしなかった。何だか、強情に地面にはりついているみたいなのだ。とぼけた顔のくせに、困ったマンボウもいたものである。
「……どうやら、あたしの出番みたいですね」
 と、あたしは満を持して言った。
 何しろ、それまではりんご飴を食べていたから、自慢の釣技を披露する機会がなかったのだ。結局、りんご飴は表面の飴ごとかじりついて食べてしまった。それでも、けっこう時間はかかったけど。
 あたしは指をなめながら(ちょっと飴がついていたから)、おもむろにマイ竿をつかんだ。長めの菜箸にたこ糸をくっつけただけのものだったけど、竿を選んでいては弘法とはいえない。
 目標のマンボウは、ブルーシートのちょうど真ん中あたりに坐しましていた。近くにはビールジョッキみたいなものが置かれている。もしかしたら、一杯気分でご機嫌なのかもしれない。
 兎でも酔っ払い相手でも、全力を尽くすのが王の務めである。
「やっ!」
 とあたしは竿を振るった。ちょっと外れたので、地面をこするように移動してマンボウのところへ向かう。別にルールには抵触していない。
 少し苦労したすえ、何とかマンボウに釣り針(磁石)をくっつけることができた。引きは十分で、糸がぴんと張る。
「こういうのは、勢いが肝心なんです」
 と、あたしは独りごちた。
「一本釣りこそが、釣りの奥技ですから」
 足に力をいれ、呼吸を整え、竿を握りなおす。それからあたしは、「えいやっ!」と裂帛の気合いでもって竿を引きあげた。
 ――瞬間、
「ぎゃっ!」
 と悲鳴が聞こえたのは、眼帯くんだった。あたしが思いっきり竿を引いた拍子に、マンボウから外れた磁石が顔面を直撃したのである。
「ちょ、痛ってーよ」
 そう言って、眼帯くんは涙目でおでこを押さえた。
 ――もしかしたら、天罰かもしれない。あたしも気をつけないと。

 その後も果敢な挑戦は続けられて、先輩とあたしは結局そのマンボウをゲットした。
 最終的には、先輩が缶の開いた口のところに磁石をひっかけて、うまいことシートの外までひきずりだしたのである。
「そりゃ、反則だぜ」
 と眼帯くんはぶつくさ言ってきたけど、無視しておくことにする。何しろ、ルールに悖るような行為は一つも行っていないのだ。
 さっそく缶の中を調べると、いくつも入った重り用のナットの上に、折り紙が一つのっかっていた。取りだしてみると、どうやらフクロウみたいである。
 先輩は前回同様、ゆっくりそれを開いていった。すると今度もやっぱり、そこには問題が書かれている。

CfとFmのあいだにある99を探せ

 そしてやっぱり、意味不明だった。
「うん、これはあれですね。CfとFmがあれして、それに99が関係してるんですね」
 と、あたしは意味不明な通りに意味不明なことを言ってみた。意味不明なんだから、意味不明なことを言うのは仕方がない、うん。
 でも先輩は、コーヒー豆をごりごり挽くみたいに、しばらく考えてから言った。
「……ちょっと、化学実験室に行ってみようかしら」
「化学実験室?」
 それとこの問題に、何の関係があるんだろう。
「あそこなら、あれがあるはずだから――」
 先輩はもうそれを見ているみたいな顔をして、つぶやいていた。

 化学実験室では当然ながら、化学部による実験パフォーマンスが行われていた。
 運動部と違って比較的陽の目をみることの少ない文化部としては、文化祭は貴重な見せ場の一つだった。ここで存在をアピールしておかないと「あれ、うちの高校にそんな部あったっけ?」なんてことになりかねない。
 というわけで、化学実験室では鋭意実験進行中だった。何しろ、先輩とあたしが部屋に入ってみると、部員の一人が口から盛大に白い煙を吐いているところだったのだから。
 その光景はちょっと古めの、怪獣映画っぽくすらある。
 お客さんの受けがよかったからか、その部員はもう一度同じことを繰り返した。紙コップに入った何かの液体を口に含んで、それを吹きだす。
 すると、蒸気機関車的に白い煙が吐きだされる。鼻の穴からも汽笛っぽく、白い煙がもれていた。
「たぶん、液体窒素ね」
 と、先輩が解説してくれる。銀色をしたそれっぽい容器があるし、「大変危険ですので、ご家庭ではマネしないでください」と書かれた看板を持っている部員もいるので、たぶん間違いないだろう。
「液体窒素って、口に入れても大丈夫なんですか?」
「……現にやっているのだから、そうなんでしょうね。すぐに気化するから、飲み込みさえしなければ空気が断熱材になる、ということだと思うけど」
「ところで、ご家庭に液体窒素なんてありますか?」
「少なくとも、うちにはないわね」
 そのあいだにも液体窒素を使った実験は続けられていて、薔薇の花を粉々にしたり、風船をしぼませてすぐまたそれを元に戻したり、といったことをしている。お客さんの受けは、やっぱり上々みたいだ。
 先輩とあたしがそんな化学部の大活躍を眺めていると、不意に声をかけられていた。
「何だ、お前たち来てたのか」
 見ると、百奈先輩だった。相変わらず小さくて、相変わらず白衣が似あっている。もしかしたら、普段着なのかもしれない。
「化学部の実験はずいぶん人気みたいね」
 と先輩はまず、正しい社交辞令としてそのことに触れた。
「まあな」
 百奈先輩は、まんざらでもなさそうに言う。
「この日のために、入念な準備を重ねてきたからな。本当は超伝導物質を使ったピン止め効果の実演もしたかったんだが――」
 そのあいだに、実験では火をつけた花火を液体窒素の中に入れる、ということをやっていた。花火は消えることなく、水――じゃなくて、液体窒素――の中で燃え続けている。何だか不思議な光景だった。
「あれは、何で消えないんですか?」
 知的好奇心のおもむくままに、あたしは訊いてみた。
「いくつか条件がある」
 と百奈先輩は、日本語さえわかれば猿だってわかりそうなくらい丁寧に説明してくれる。残念ながら、猿には日本語なんてわからなかったけど。
「まず、物が燃えるには二つの存在が必要だ。すなわち、熱と酸素。花火には酸化剤が含まれているから、火がついていれば自身で酸素を供給することができる。次に熱だが、水などとは違って液体窒素はすぐに気体に変わってしまう。すると花火の周囲には常に気体が存在して、熱が奪われにくくなる。以上の条件が満たされると、花火は液体中でも燃え続けることが可能なわけだ」
「なるほど――」
 半分くらいは、わかった気がする。何にせよ、極寒の世界で燃え続ける花火って、ちょっと象徴的だった。
「ためになる講義もけっこうだけど」
 と、先輩はほうきで床を掃除するみたいに言う。
「実は、ここにはちょっと聞きたいことがあって来たの――いえ、見たいものがあって来た、が正解ね」
「何だ、一体?」
「この部屋に、元素周期表はあるかしら?」
 ……元素周期表?
「もちろん、あるぞ」
 百奈先輩は優秀な八百屋さんみたいに返事をした。
「後ろの壁に貼ってある。これがなくては、化学ははじまらないからな」
「……ところで、CfとFmって何だかわかるかしら?」
「カリホルニウムとフェルミウムだな」
 ほぼ即答だった。あたしなんて、元素記号を覚えるための例の呪文みたいな言葉だって怪しいところなのに。
「じゃあ、そのあいだにある99番元素は?」
 先輩が続けて訊くと、
「Es――アインスタニウムだ」
 と、これもほぼ即答だった。むしろ、そんなことも知らんのか野蛮人どもめ、くらいの勢いである。
 もっとも、そんなことを知ってる人間を見つけようとしたら、けっこうな数の石ころが必要そうだった。
「で、えっと……それが、どうかしたんですか?」
 忍ぶほどの恥もなかったので、あたしは訊いてみた。CfとFmが元素記号、それから99が原子番号だということはわかった。でも、だから?
「名前からわかるとおり、アインスタニウムはアルベルト・アインシュタインにちなんでつけられたものよ」
 気前のいい神様みたいに、先輩はもったいぶらずに教えてくれた。ついでに、百奈先輩が短い解説を加える。
「人工的に作られた超ウラン元素の一つだな。水爆実験中に100番元素といっしょに発見された。ちなみにFmはフェルミ計算で有名な、エンリコ・フェルミからつけられた名前だ」
 試験に出てこなさそうな話だったので潔く忘れて、あたしは質問した。
「ということは、問題の99を探せ≠ヘアインシュタインを探せってことですよね」
 自分で言って、自分で首を傾げてしまう。
「――そんな人、学校にいましたっけ?」

 確かに、そんな人はいた。
 もちろん本人は立派にお隠れになっているので、世界中のどこを探したって見つかりっこない。そもそも、地方都市のたかが県立高校でそんな世界的有名人を探すなんて、無謀もいいところだ。無謀というか、そんなのは新聞紙を折りたたんで月まで届かせるくらいに不可能だった。
 でも机上の空論という言葉があるとおり、机の上でなら何だって可能だ。同じように想像力さえあれば、もう亡くなった超有名天才物理学者を文化祭に登場させることだってできてしまう。
 パンフレットを見ると、生徒会の企画としてスタンプラリーが開催されていた。特定の場所をまわるんじゃなくて、特定の人物を探してハンコをもらう、というものだ。その「世界を変えた偉人たち」のうちの一人が、アインシュタインだった。
「これで間違いないですよね?」
 と、あたしは確認してみた。
「ほかにいなければ、そうでしょうね」
 あくまで、先輩は慎重だった。というか、文化祭に二人も三人もアインシュタインがいるのもどうかとは思うけど。
 問題の答えはそれでいいとしても、困ったことが一つだけあった。
 それは――
「で、どこにいるんでしょう、アインシュタイン?」
「……確か、スイスの特許庁で働いていたはずだけど」
 もちろん、学校にスイスの特許庁なんてあるわけがない。
 仕方ないので、ここは手分けして探すことにした。演劇部の面々にも連絡を入れて、アインシュタイン捜索に加わってもらう。有名人だから、細かい説明はいらないだろう、たぶん。
 ちなみに、校内を隈なくさがしたけど、久慈村先輩はいまだに見つかっていないそうだ。
「じゃあ、あたしたちも別行動といきますか」
 と、あたしは努めてさり気なく言ってみた。
「そうね――」
 特に名残惜しそうにでもなく、先輩は言う。せいせいするわ、なんて言われないだけましなのかもしれない。何事もポジティブに考えることは大切だ。
 ともかくも、先輩とあたしはそれぞれ校内を探索してみることにした。といってもあてなんてないから、適当に歩きまわることしかできない。切り株を用意して兎がぶつかるのを待つ、というわけにもいかなかった。
「ふむ――」
 せっかくなので、あたしはなるべく人の行かなそうなところを探してみることにした。普通のところならきっと、ほかのみんなが探しているだろうからだ。水でいっぱいのコップに水を注いだって、零れるだけなのである。
 あたしは校舎を離れ、運動場を通りすぎ、学校の裏のほうまでやって来た。この辺まで来ると、さすがに人はいない――ちょっと、いなさすぎるかもしれない。
 その辺にあるのは、もう夏ほどの力はない太陽の陽ざしと、透明な、手に残ることもない風だけだった。物音や人の声はほとんど聞こえなくなって、遠くの太鼓みたいに寂しい感じがする。
 あたしはそれでも、しばらくのあいだその辺を歩いてみた。人ごみに馴れてしまったせいか、空白が何だか心地いい。体の中から余計なものが零れ落ちていくみたいだった。
 それから何となく、弓道場のほうへと向かう。今年の春に、先輩といっしょになって壁に書かれた詩の謎を解いたところだ。まあ、解いたのは先輩なのだけど。
 弓道場は無人らしく、人の気配はしなかった。プチ世界の終わりみたいな静寂の中を、あたしは歩いていく。生えている欅や小楢なんかにはもう、夏の依怙地なくらいだった生命力は感じられなかった。地面にはどんぐりもいくつか落ちていて、どの木も今年最後の仕事を終えようとしているみたいである。みんな、急いで冬支度をはじめているのだ。
 あたしは自分まで冬支度をしているみたいな気分になりながら、弓道場の角を曲がって、それから足をとめた。
 ――向こうのほうに、人影が見える。
 その人は何故か、熱心に弓道場の壁を調べているみたいだった。かなり不審である。(壁マニア?)と思って、まさかと自分で否定する。業者さんが、何かの下調べにでも来ているのかもしれない。
 あらためてよく見ると、その人はライトみたいなもので壁を照らしていた。
 そして――
 あたしは、はっとする。まさかと思って、でも今度はそれを否定しない。論理や思考や経験じゃなくて、あたしの直感がそれを告げていた。
「…………」
 できるだけ静かに、そっと、あたしはその人に近づいた。逃げやすい鳥でも、前にしたみたいに。消えやすい幻でも、前にしたみたいに。
「あの、もしかして――」
 それから、あたしはその人に話しかける。心の中では、その偶然をどう考えていいのか、新米の占い師にでもなったみたいに戸惑いながら。

 ――結局、その人を見つけるまでには二十分くらいの時間が必要だった。
 先輩から連絡があって、あたしは校舎の中庭に向かう。何でも、演劇部員の一人が見つけて、その場所で待ってもらうよう言づけたそうだ。世界を飛びまわる超多忙な有名人にもかかわらず、快く了承してくれたらしい――まあ、所詮は偽者なんだけど。
 あたしは急いで、その場所に向かった。地球が誕生してあっというまに四十六億年たったみたいに、人ごみの中に戻ってくる。相変わらず、世界は賑やかだった。
 校舎の中庭にはレンガの舗装路が敷かれ、花壇があったり、木が植えられていたりする。休憩用にテーブルやイスも用意されているので、生徒や一般のお客さんの姿も多い。
 花壇には園芸部が丹精したらしい花が、きれいに咲いていた。パンジーやシクラメン、コスモスといった定番の花から、名前のよくわからないものまで、自然な感じに植えられている。薔薇も咲いていて、もしや化学部の実験で粉々にされたのはこの子たちの仲間じゃなかろうか、とあたしは埒のないことを考えたりもしていた。
 先輩とその人がいたのは、校舎の渡り廊下があるところの近くだった。あたしは小走りになって、どこぞのハムスターみたいにそっちのほうへ向かう。
 近くまで来ると、その人の姿ははっきりした。
 遠目からでも目立っていたけど、それは実にアインシュタインだった。樹木が凍りついたみたいな白い頭。口元に、同じ色の髭もついている。それから、白衣を着ていた。でもその白衣は全然似あっていなくて、百奈先輩を見習って欲しいくらいだった。
 どうやら先輩も今着いたところらしく、話ははじまったばかりみたいである。肝心の折り紙も、まだもらっていないようだった。
「――ああ、確かに預かっておるぞよ」
 と、その人は言う。
 ……ぞよ?
「よかった。じゃあ、それを渡してもらえるかしら」
 先輩が言うと、その人はポケットから折り紙をとりだして、先輩に渡した。今回は、特に条件はつかないらしい。探すだけでも手間だったのだから、当然だったけど。
 というか、先輩につっこみは期待できなかったので、代わりにあたしが訊いておくことにする。
「アインシュタインは、ぞよ≠ネんですか?」
 その人はうるさがりもせず、丁寧に答えてくれた。お祭りなのだ。
「アインシュタインは日本語をしゃべれなかったから、本当のところはわからないんだぞよ」
「でも、そこはじゃよ≠ニかでよかったんじゃないですか?」
「オリジナリティが大切なんだぞよ。そしてオリジナリティに大切なのは、本人がそれでいいと思ってるかどうかなんだぞよ」
「はあ――」
「自分で自分を批判する必要はないんだぞよ。何故なら、他人がそれをやってくれるからだぞよ」
 何か、名言ぽい発言だった。
「宇宙についてもっとも理解不能なのは、それが理解可能であるということなんだぞよ。光速の壁が破られることはないし、神はサイコロを振らないんだぞよ。いいですかお嬢さん、人が撃たれたら血は流れるものなんです、だぞよ」
 最後は、何だか違うのが混じってるみたいだった。

 アインシュタインがどう批判するかはわからなかったけど、ともかくその人は去っていった。目的は達成したので、先輩やあたしにしても批判云々どころか、もう用はない。たぶん、二度と会うこともないだろうし。
 先輩とあたしのそばには、どこかのクラスが作った展示用のオブジェが置かれていた。クオリティやオリジナリティはともかく、とにかく大きいので目立っている。ちょっと邪魔なくらいに。
 首からかかった看板を見るかぎりでは白鳥ということになっているけど、アヒルと言われても十分信じられそうだった。どう考えても神様の宿りそうにない細部をしているし、長い首を作るのは技術的にも難しかったからだろう。
「まあ、どちらもカモの仲間ではあるわね」
 というのが、先輩の批評だった。少なくとも、その白鳥アヒルが先輩の言葉を気にしている様子はない。
 そのあいだ、例によって先輩が折り紙を開いていた。あたしがやると、あふれるパワーでびりびりにしてしまいそうだけど、先輩がやるとそんなことはない。やっぱり、修行が足りないんだろうか。
 ちなみに、今度の折り紙はペンギンだった。写実的とはいわないけど、十分ペンギンには見える。
「――開いたわよ」
 と、先輩は言った。隣に立ってのぞき込むと、そこにはこう書かれている。

acronym

 それだけだった。冠詞もピリオドも、親切な和訳もついていない。
「アクロニム、ですかね?」
 とりあえず読んでみるけど、だからどうだというわけでもないし、意味なんてわからない。そもそも、読みかたがあっているかどうかも不明だった。
「ちょっと調べてみましょうか」
 言って、先輩は携帯を操作する。周期表もこうやって調べればよかったのだけど、何事も文明の利器に頼ってばかりではいけない……のか。まあ、化学実験室まで歩くのとどっちが早かったかはわからない。
 単語を打ち込むと、さっそく回答が返ってきた。考えてみると、たいした世の中である。
「頭字語のことみたいね」
 いくつかある英単語なんかの、頭文字をつなげて読んだもののことだ。
 もう少し調べてみると、似たような言葉にinitialismがあった。acronymが単語として発音できる(NASAとか)のに対して、initialismはアルファベットのままで読む(WHOとか)のだそうだ。
「……だから、どうなんですか?」
 あたしは懲りもせずに、首を傾げた。
「つまり、今までにあった何かの頭文字をつなげて読め、ということね」
 携帯をしまいながら、先輩は言った。
 数秒に少し足りないくらいの時間経過のあとで、あたしは言う。
「――もしかして、折り紙ですか?」
 さすがのあたしにも、それくらいの閃き力はあった。何ワットくらいの豆電球がついたかはわからなかったけど。
「おそらく、そうでしょうね。わざわざ紙を折ってたのは、そのためだと考えるのが自然だわ」
「えっと、折られてたのは確か……」
 冷蔵庫の奥まで手をつっこむみたいに苦労しながら、あたしはその一つ一つを思い出していった。
「最初がテントウムシで、次がタコ、それからフクロウとペンギンでしたね」
「ええ」
「ということは――テタフペ? グーグル先生に聞いてみますか?」
「たぶん、無駄よ。そうじゃなくて、読みかたが違うんでしょうね」
「漢字とか、ローマ字ですか?」
 あたしは眉をひそめる。どっちにしろ、まともな単語なんて出来そうもない。
「頭字語≠わざわざ英語で書いてきたところに、意味があるんでしょうね」
「つまり、全部英語に直せと?」
 言ってから、あたしは最初のテントウムシでつまってしまった。そんな単語、習ったことあったっけ。
「訳語が違うものもあるけど、大体こんなところかしら――ladybug、octopus、owl、penguin」
「ええっと、l・o・o・p――loop=H」
 ループって、うん、ループじゃないかな。
「……なるほど」
 先輩は一人うなずいて、もうどこか別のところに向かおうとしていた。あたしはといえば、それこそ同じ思考を何度もループしているところだったのだけど。

「――ところで、先輩はどうして最初に今度のことを子供の駄々≠ネんて言ったりしたんですか?」
 先輩とあたしは小走りで、その場所に向かっているところだった。というか、向かっているのは先輩で、あたしは森で迷子になった兄妹の妹みたいに、あとにくっついてるだけのことでしかない。
 約束の一時間まではわりと余裕がなくて、できるだけ急ぐ必要があった。光の国の警備隊員ほどじゃないけど、一時間なんてあっというまだ。あたしはもっと早く、りんご飴を食べるべきだったろうか。
 校舎の中で人ごみを縫うように移動しながら、先輩は答えた。
「たぶんこのことには、久慈村さんが協力してるからよ」
 先輩の口調は足どりと同じくらい、早口になっている。
「無理に監禁されているなら、人出が多くて狭い学校で、騒ぎにならないはずがない。そうじゃないのは、久慈村さんと犯人が知りあい――それも、親しい間柄だから」
「なるほど」
「では、その犯人は誰か? 演劇部の人間が、こんなことをするはずはないでしょうね。それは、あの部長の慌てぶりを見てもわかる。だとすると、それが当てはまりそうなのは、ほとんど一人しかいない」
「――久慈村朔、ですか」
 あたしは文化祭初日に邂逅した、まあまあ生意気な女の子のことを思い浮かべた。
「ええ、たぶん彼女なんだろうとは、話を聞いた最初に思ったわね。わざわざ、わたしを名指しにしてきたところなんかにしても」
「たいした直感ですね」
 あたしは感心した。
「――本当は、そうでもないわ。わたしにはただ、何となくわかったのよ。何しろあの子は、わたしに少し似ていたから」
「似てる?」
 そう言われると、心あたりがないでもない。少なくとも、トラとライオンが同じネコ科の動物くらいには。ネコだって、そうかもしれない。
「――それに、あの二人はわたしたちと」
 言ってから、先輩は口を噤んだ。子供がついうっかり、持っていた風船の紐を離してしまったときみたいに。
「……わたしたちと?」
 あたしは何とか、前を行く先輩を横からのぞき込んでみる。でも先輩の表情はもう、固く閉まりすぎた瓶の蓋みたいになっていて、簡単に開けることはできそうになかった。
 ――たち、というのは、先輩とあたしのことだろうか?
 いや、もちろん違う。いくら快晴なみに脳天気なあたしだって、それくらいのことはわかる。先輩の言う「たち」は、もっと親密な、大切な関係を含んだものだった。
 それはたぶん、世界が終わるまで失われることのないような――
「…………」
 そうこうするうち、目的地に到着したみたいだった。
「視聴覚室、ですか?」
 あたしは何度か、まばたきする。もちろんそんなことをしたって、目の前の部屋が消えてなくなったりはしないし、田んぼの真ん中で目が覚めたりもしない。
 でも、確かにそれは「ループ」だった。すごろくでふりだしに戻る≠フマスにとまったみたいに、あたしたちは元の場所に帰ってきたのだ。
「うまい考えね」
 と先輩は、料理評論家が目の前の一皿を評価するみたいに言った。
「誘拐された人間を探そうというとき、普通は自分たちが最初にいた部屋を調べようなんて考えたりしない。だからそこが、もっとも安全な隠れ場所になる。いくら学校中を探しまわったって、見つからないはずね」
 言われて、あたしは昨日出会ったばかりの少女、久慈村朔のことを思い出す。強情で賢そうな、その瞳。森の中からこっちを見つめてくる野生動物みたいな、そんな――
 そもそも、今回の誘拐事件を全部考えて、準備し、実行したのは彼女なのだ。一体いつからそんな計画を練っていたのかは知らないけど、普通の女の子じゃないことだけは確かだった。
「……先輩は、朔ちゃんと会ってるんですか?」
 あたしはふと、訊いてみた。文芸部の部室にやって来たとき、彼女は先輩のことを探していたのだ。
「ええ、会ってるわ」
 どうやら、あのあと彼女はわざわざ先輩のことを探しにいったらしい。
「――あの子、やっぱりまあまあ生意気でしたか?」
 念のために、あたしは訊いてみた。
「そう、まあまあ生意気だったわね」
 お釈迦様の前での孫悟空のことを考えると、うなずける話だった。
「先輩は、朔ちゃんと知りあいなんですか?」
 そんな感じじゃないけど、と思いながら、あたしは訊いてみた。
「いえ、会うのは初めてね」
 案の定、先輩はあっさりと認めた。
「ただ、久慈村さんからいろいろ話は聞いていたわ。彼女にとっては可愛い、自慢の妹さんだったみたいね。中学も、彼女とは別の有名なところに進んだらしいわ。まあ、わからない話じゃないわね」
「先輩は朔ちゃんと、どんな話をしたんですか?」
 訊くと何故だか、先輩は軽く首を振ってみせた。
「話というよりは、一方的に品定めされたって感じね、あれは。思ったほどじゃない――そうよ。わたしは野菜や果物じゃないのだけど」
 やっぱり、相当なものらしかった。
「あの子、何でこんなことしたんでしょう?」
 一番肝心なことを、あたしは訊いてみた。実際のところ、彼女のやっていることはただのいたずらにしては大がかりすぎるし、ややこしい目的があるにしては無邪気すぎる。こんなのは、スイカ割りをするのにバズーカ砲を使うみたいなものだった。
 先輩は少し考えるふうだったけど、やがて言った。
「実のところ、想像ならついてるわ」
「……まじですか」
「あくまで想像でなら、ということだけど」
 言って、でも先輩は妙に確信のありそうな様子をしている。まるで、腕のいい船乗りが雨や風や潮の流れを読むときみたいに。
 それから先輩は、説明書のちょっとした補足みたいにして言った。
「――さっきも言ったけど、あの子はわたしに少し似ているのよ」

 先輩はいったん、視聴覚室のドアをノックした。中に人がいる(はずな)以上、一応の礼儀というものはある。
 それから、ゆっくりドアを開けた。
「…………」
 はたせるかな、そこには――
 久慈村姉妹、二人の姿があった。
「へえ、本当に来たんだ」
 二人のうち小さいほう、朔ちゃんが声をかけてくる。やっぱり、なかなか生意気だった。
 教室のちょうど真ん中あたり、先輩とあたしのいるところからは少し見上げるような位置に、二人はいた。朔ちゃんは無作法に机の上に腰かけて、久慈村先輩は近くのイスに礼儀正しく座っている。もしかしたらそれは、いざという時にすばやく久慈村先輩を隠せるようにしていたためなのかもしれない。
 先輩は一歩進んで、朔ちゃんと向きあった。あたしは邪魔が入らないように、邪魔にならないように、入口近くに控えておく。
「さあ、問題はちゃんと全部解いたわよ」
 と、先輩は言った。その様子は何だか、ちょっとだけ舞台っぽい。
「最初の約束通り、望を解放してもらおうかしら」
 その言葉に、朔ちゃんは軽く肩をすくめるだけだった。爆音を立てるヘリコプターが飛んできて、そこから吊るされた縄梯子につかまり、「さらばだ明智くん、詰めが甘かったな」なんてセリフを口にする、ということはない。
 ――まあ、室内なんだけど。
「仕方ないね、そういう約束だし」
 と朔ちゃんは、こういう場合の犯人にしてはわりと潔く言った。
「お姉ちゃん、もう行っていいよ」
 言われて、久慈村先輩はイスから立ちあがる。ずっと座っていて体が凝ったのか、大きくのびをしていた。
「それじゃあ、もうみんなに本当のこと言っても大丈夫だよね」
 と久慈村先輩は、こういう場合の被害者にしてはわりとのんびり言った。
「――うん」
「なら、私はみんなのところに行くね。朔ちゃんは、どうするの?」
「私はこの人と、少し話があるから」
「そう――」
 久慈村先輩は、朔ちゃんと先輩のことを交互に見た。ちょうど、三角点の位置を比較して、正確な距離を測ろうとするみたいに。
「あとできっと、劇は見にきてね。朔ちゃんが見てくれてるぶんだけ、舞台がうまく行く気がするから」
 そう言うと、久慈村先輩は教室の段々を下りてきた。先輩とあたしのあいだを通るとき、こんな言葉をかけてくる。
「ごめんね、二人とも。朔ちゃんのわがままにつきあわせちゃって。でも、朔ちゃんに悪気はないんだよ。あの子はただちょっと、ふざけてみせただけだから」
「――ええ、わかってるわ」
 先輩が答えると、久慈村先輩はちょっと頭を下げて、それから朔ちゃんに向かって手を振った。アドバルーンみたいなその挨拶に、朔ちゃんは辛うじてわかるくらいに小さく手を上げただけだった。
 久慈村先輩がいなくなると、難破船で急に浸水が進むみたいにして、沈黙があたりを満たしている。どうやら、世界には久慈村先輩みたいな人がたくさん必要らしい。
「さて――」
 と先輩は、あらためて朔ちゃんのほうに向きなおって言った。
「理由を聞かせてもらえるかしら?」
 数メートル先にいる朔ちゃんは、ひどく遠いような、案外近いような、不思議な距離感をしている。
「――――」
 朔ちゃんは何か言おうとして、でも直前でそれを思いとどまったみたいだった。飛ぶ前に見た、のかもしれない。
「それは、あんたに話すようなことじゃないね」
 この期に及んで、というべきなのか、朔ちゃんはあくまで強情だった。檻の中に入れられても暴れまわる、小型獣に似ていたかもしれない。ある意味、たいしたものだった。
「…………」
 先輩はそんな朔ちゃんを、じっと見つめている。その視線にあるのは、苛立ちとか蔑みとかじゃなくて、もっと何か――同情に近いもののような気がした。
「なら、その理由については、わたしが推測させてもらうわ」
 ため息というにはもっと軽い、風船が少しだけ浮かびそうな息をついてから、先輩は言った。
「何よりもまず重要なのは、久慈村さんのことね」
 朔ちゃんは何も言わず、ただ黙って聞いていた。制止も、反論も、同意もしないまま。
「あなたにとって、久慈村さんがどういう存在なのか……それが今回のことを紐解く、鍵になるのよ」
 先輩が言うと、朔ちゃんはようやく反応した。少しだけ、笑いながら。
「へえ、そこまでわかってるんだ」
 その笑顔はどことなく、傷ついた動物が見せる必死の抵抗みたいなところがあった。どうやら、彼女は少しずつ追いつめられているらしい。
「あなたとわたしは、ある意味では似ているのよ」
 と先輩は、あたしにも言った言葉を口にする。
「だから、多少のことは想像がつく。もしもわたしが、あなただったとしたら。そして、久慈村さんみたいなお姉さんがいたとしたら。きっと、こう思ったでしょうね――お姉ちゃんは誰にも渡さない、って」
「…………」
「あなたは頭のいい子よ。ちょっと、よすぎるくらい。でもそのせいで、バランスがとれていない。思考に対して感情が未熟なままでいる。だから、行動そのものは合理的な一方で、その目的はちぐはぐなくらい不合理だったりする」
 何だか、あたしとはちょうど正反対みたいだった。
「誰かに愛情を示そうとするとき、あなたは素直にそれを表現することができない。どうしても、感情より思考を優先してしまうから」
「――かもしれないね」
 と朔ちゃんは無理に逆らわなかった。たぶん自分でも、それくらいの自覚はあるのだろう。頭がいいというのは、まさしくそういうことだから。
「でもだからって、それと今回のことに何の関係があるっていうの? 私がお姉ちゃんを誘拐して、それで愛情が示せるとでも?」
 挑発的なその態度に、先輩は特に反応は見せなかった。水と鉄で、温度の上がりかたが全然違うみたいに。
「あなたは、久慈村さんからわたしの話を聞いていたはずよ」
 頑丈な防火扉なみに重そうなその一言に、朔ちゃんは黙った。
「久慈村さんがわたしをどう評価して、どんなふうにしゃべったのかは知らない。でもその時、あなたは気づいたはずよ――わたしが、あなたとわたしが似ていると思ったみたいに、あなたも、わたしとあなたが似ている――って」
「…………」
「その時、あなたは平気じゃいられなかったはず。大好きなお姉さんが、自分以外の、自分とよく似た人間のことを話しているのだものね。あなたが頭でいくら否定しても、あなたの心のほうは承知しなかった。それが子供っぽい愛着だと、頭では十分にわかっていても」
 朔ちゃんはじっと黙ったまま、先輩のほうを見ていた。それは憎い敵(かたき)をにらんでいるようでもあるし、裁判官の宣告を厳粛に受けとめているようでもある。
「そして、あなたはどうしたかしら? 素直に自分の心をお姉さんに訴える? ――いいえ、そんなことはしないわね。あなたが考えたのは、わたしがたいした人間じゃない……気にするほどの人間じゃない、と証明すること」
 その言葉に、朔ちゃんは肩をすくめてみせた。
「お姉ちゃんは、こんなことで人の評価を判断するような狭量な人間じゃないよ」
「そうね――」
 と、先輩はあっさり認めた。
「久慈村さんは、今度のことを冗談だと思ってる。でも、あなたは本気だった……そうでしょ?」
 再び、朔ちゃんは黙る。
「今度のことで、あなたの一番の目的だったのは、自分自身にわからせることだった。あなたはわたしを軽蔑し、冷笑する権利が欲しかった。そうすればあなたは、自分が正しいままでいられるから。本当は自分のほうが、お姉さんに愛される資格があるのだと、信じることができるから――」
 先輩はそれから、静かに告げた。裁判官が最後の判決を通達するみたいに。
「あなたがわたしに嫉妬するのは無意味よ。そんなことをしたって、あなたはどこにも行けはしないのだから」
 朔ちゃんはそれを聞いて、ちょっと表情を歪ませた。曇り空から最初の雨の一粒が落ちてくるみたいに、ピアノの音を一番小さく鳴らすみたいに。
 しばらくして、朔ちゃんは口を開いた。それは、とてもとても長い時間だったようにも思えるし、ほんの一瞬間のことでしかなかったような気もする。
「――どうして? 私はただ、お姉ちゃんといっしょにいたいだけ。ほかには誰も、何もいらない」
 その言葉は強情だけど弱々しくて、生意気だけど控えめだった。わがままなようでも、傲慢なようでもあって、同時に、すがるようでも、祈るようでもある。それは矛盾していて、でも筋が通っている。
 もしかしたら、それは――
 朔ちゃんの、本当の心だったからかもしれない。
「…………」
 そんな朔ちゃんに、先輩は言った。優しいようで厳しいような、突きはなしているようでそっと手をさしのべているような、そんな声で。
「あなたのお姉さんが、あなたが愛するようにはあなたを愛してくれないとしても、それを不満に思うべきじゃないわね」
「――――」
「何といっても、お姉さんはあなたのことを愛しているのだから」
 先輩の言葉に、朔ちゃんは長いこと黙っていた。星の位置が一年を巡って、また元の場所に戻ってくるみたいに。
 やがて、朔ちゃんは小さな、でもはっきりした声で言った。
「ああ、わかってるよ、そんなこと――」

 演劇部の舞台は、『銀河鉄道の夜』だった。
 体育館の入りはまあまあで、客席は半分以上が埋まっている。カーテンが引かれ、濃い暗闇に覆われた館内で、舞台だけが明るく輝いていた。まるで、暗闇の中にそこだけ穴でもあいたみたいに。
 先輩とあたしはパイプイスの並んだ客席の、ほぼ真ん中あたりに座っていた。どこなのかまではわからないけど、朔ちゃんもこの中にいるはずだ――いないはずなんてない。
 館内はしんとして、空気は特殊な液体で固められているみたいだった。光に照らされた舞台だけが、その中で自由に動き続けている。
 ――舞台はちょうど、ジョバンニが町のはずれにある野原で銀河鉄道に乗って、カムパネルラに会うところだった。暗転した舞台に光が戻ると、二人は青い天鵞絨を張ったイスに、向かいあって座っている。
 ジョバンニ役を演じるのは、アフロの部長――じゃなくて、女子生徒の一人だった。遺憾ながら、銀河鉄道の夜にアフロはふさわしくないのだ。
 そして一方のカムパネルラ役を演じるのが、久慈村先輩だった。
 普段のおっとりした雰囲気は手品みたいにどこかに消えて、久慈村先輩は久慈村先輩じゃなくて、カムパネルラだった。少し大人びて、もの静かで、でも子供らしい純粋さにあふれた少年。
 舞台には対面式の座席が二組、手前と奥に配置されていた。遠近感を出すのと、奥が見やすいようにするためか、手前の席は少し離れている。ジョバンニとカムパネルラは奥の席に座って、そこには大きめの窓枠が置かれていた。
 カムパネルラはその窓枠から顔をひっこめてジョバンニのほうを見ると、言うのだった。

みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれど追いつかなかった

 物語の結末を知っていると、思わず胸が痛んでしまうくらい寂しくなるセリフだった。
 ――それから二人は銀河鉄道に乗って、いろいろなところを旅する。
 白い十字架が永久に立つ白鳥の島、水晶で出来た砂のプリオシン海岸、鳥捕りのくれたチョコレートよりおいしい雁、青宝玉(サファイア)と黄玉(トパーズ)がくるくる回るアルビレオの観測所、幼い姉弟との出会い、渡り鳥の交差点、金剛石みたいな露のついたとうもろこし畑、狩りをするインデアン、空の工兵大隊、二つの水晶宮、ルビーよりも赤く透きとおった蠍の火、ケンタウルの村、サウザンクロスでの別れ、そして――
 二人がほんとうのさいわい≠ノついて話していると、石炭袋が見える。目が痛むくらいのその暗闇を前にして、ジョバンニは言うのだ。

僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまどもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう

 でもそれから少しして、カムパネルラはいなくなってしまう。ジョバンニが窓の外を眺めているあいだに、カムパネルラは立ちあがって、舞台の中幕の向こうに消えてしまっていたからだ。
 そのことに気づいて、ジョバンニは立ちあがると、胸を押さえて窓の向こうに身をのりだす。ジョバンニは誰にも聞こえないくらいの大声で叫び、泣いている。
 ――そして、舞台は暗転。
 物語は現実に戻ってきて、ジョバンニは野原で横になっている。空には、いっぱいに広がった天の川。それから、ジョバンニがお母さんのための牛乳をもらって町に戻ると、カムパネルラが川で溺れたことを知るのだった。
 もう終わりに近いその場面で、先輩はふとこんなことをつぶやいていた。
「――わたしも、久慈村さんみたいだったらよかったのだけど」
「え?」
 でもその言葉は、朝の光に溶ける星明りみたいに、もう消えてしまったらしい。
 舞台上では舞台下のことなんておかまいなく、劇が進行していた。カムパネルラのお父さんである博士が、右手に時計を持ったまま言う。

もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから

 あたしはけれど、そんな舞台上のことじゃなく、先輩の横顔をじっと見つめていた。
 石炭袋に似た暗闇の中で、舞台の光に照らされたその横顔は、どこか遠くに向けられているみたいでもあった。ここじゃない、もっとどこか遠く。光が永遠の時間をかけてもたどりつけないくらい、どこか遠くに。
 壁に書かれていた詩、幽霊の出るトンネル、二人の姉妹を巡るどたばた劇――
 あたしは先輩の何を知っていて、何を知らないのだろう?
「…………」
 舞台の光を見ながら、あたしはあらためてそんなことを考えていた。

 ――そして、手のひらから零れ落ちるみたいにして季節が終わって、世界には冬が訪れたのだった。

――Thanks for your reading.

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