[詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない]

「あたしの、携帯」


あたしの手の中で
携帯の画面がかってに
くるくると回る
まるであたし自身の
心みたいに

指を使って
光る画面を弾くと
それは思わぬところまで
飛んでしまって
まごつく

挟んだり 開いたり
小さくしたり 大きくしたり
人の心もこんなふうに簡単に
遠のいたり 近づいたり
できればいいのだけど

手軽なようでもあり ままならないようでもあり
案外とあたし自身に似ている
あたしの、携帯


                    千瀬 凛


【A 失われたスマートフォンを求めて】


「先輩に事件の依頼が来てますよ」
 と、あたしは言った。
 夏休み明け、先輩とあたしはいつも通り部室にいた。学校はまだ始まったばかりで、時間は別のレールの上を走っているみたいにぎこちない。暑さもピークを過ぎたとはいえ、太陽はそれでも十分に元気だった。
 教室にはエアコンがついているからまだいいとしても、部室までそうはいかない。窓を全開にしたところで、そう簡単に冷却効果なんて得られなかった。律儀に首を振る扇風機も、どこか投げやりである。人間には太陽よりも北風が必要なときだってあるのだ。
 あたしの言葉に、先輩は読んでいた文庫本から顔を上げた。夏用の白いセーラー服からのぞく腕は、日に焼けた様子はない。
「……いつから、わたしは探偵になったのかしら?」
 いつのまにか駅長にされていた猫みたいな感じで、先輩は言った。
「春のこと、クラスの友達に話したんです」
 あたしは実に爽やかにしゃべった。低い音で唸る扇風機も、それをあと押ししてくれる。
「壁のこととか、暗号のこと。そしたら、先輩のことにすごく感心して。そんなに頭がいいなら、ぜひ頼みたいことがあるって――」
「それは、光栄ね」
 地球の反対側で起きた出来事についてでも言及するみたいにして、先輩は言った。どうやら先輩の心は、その程度の評価で動かされるほど軽くはないらしい。
「……ミステリって、小説の重要なジャンルじゃないですか」
 分が悪いことを機敏に察したあたしは、すばやく戦略を切り替えることにした。
「すごくいい経験になると思うんです。ほら、事実は小説より奇なり、って言いますし」
「確かに、エドガー・アラン・ポーは詩人で小説家で怪奇ミステリ作家でもあった」
 先輩はそう言ってから、ため息をつく代わりみたいにして本を閉じた。
「でも――探偵だったわけじゃない。コナン・ドイルにしても、それが本業なんかじゃなかった」
 反論の余地は、猫の額くらいにしかなさそうだった。あたしはまたまた戦略を転換して、今度は先輩の情に訴えることにする。
「その友達、すごく困ってるみたいなんです。二階から目薬をさしたり、馬の耳に念仏を唱えたり。もう藁でもいいからすがりたいらしくって」
「……いつから、わたしは藁になったのかしら?」
 先輩は探偵も藁も好きじゃないらしかった。
「とにかく、話だけでも聞いてくれませんか。減るもんじゃないんですから」
「わたしの時間は無限じゃないし、わたしの気前も無限じゃないわ」
 たび重なる先輩の拒絶に対して、あたしは最後の手段に打ってでた。
「そんな、あたしと先輩の仲じゃないですか」
「どんな仲なのか、心あたりがないのだけど」
 先輩は闘技場のマタドールみたいに、いともあっさりとあたしの懇願をかわしてしまう。
 万策尽きたあたしは、すっかりしょげ返ってしまった。塩をかけられた青菜がいれば、仲間だと思ってもらえるかもしれない。
 そんなあたしを見て、先輩はとうとう諦めたみたいだった。巨匠が駆けだしの作曲家の作品でも聞くみたいにして、先輩は言った。
「……いいわ、話だけでも聞きましょう」
 顔を交換したわけじゃないけど、あたしは途端に元気百倍だった。虚仮の一念は山をも動かすのである。
「実はですね、こんな話なんですけど――」
 あたしはそう言って、話をはじめた。

 事の起こりは、夏休みの終わり頃に遡る。
 そのクラスメート(女子)は、夏の最後のイベントとして肝試しを行うことを思いついた。何といってもそれは、海水浴や花火大会と並んで、日本の夏を代表する伝統行事でもあるのだから。
 さっそく、その子は友達を呼び集めた。肝試しに集められたのは、中学時代の友人たちである。みんな同じ高校に進んでいて、せっかくだから旧交を温めよう、というわけだった。消えかけたロウソクの火を、別の新しいロウソクに移すみたいに。
 その子も含めて五人(女三人、男二人)は、市内にある山に向かった。深夜に、自転車を走らせて。なかなか無謀な気もするけど、青春てそんなものかもしれない。
 肝試しの現場は、山奥にあるもう使われていないトンネルだった。山奥といっても、ヒマラヤの奥地にあるわけじゃないし、ちょっと長めのハイキングくらいの距離だ。道路もあるし、自転車ならそんなに時間がかかるわけでもない。五人とも、経済力には問題があっても、体力に問題があるわけじゃなかった。
 補導もされず、事故にも遭わず、五人は目的地まで移動した。全員が携帯を持っていたので、迷う心配がなかったのは幸いかもしれない。
 それなりの山奥だけあって、あたりは濃いめの水溶液みたいな暗闇に覆われていた。それでも空が晴れていて月明かりがあったので、意外と不便というほどのことはない。
 五人は山道の途中で自転車をとめると、脇道へと入っていった。その部分だけガードレールが途切れていて、一応は道みたいなものがついている。管理か点検用に残されているのかもしれなかった。まだ人間のことを用心しているのか、草木もそれほど茂ってはいない。
 某考古学者的な苦労もなく歩いていくと、道の先に古いレールが敷かれていた。もちろん、とっくに廃線になったもので、列車なんて走っていない。撤去する理由がなかったのか、費用がなかったのか、そのままの形で放置されていた。
 レールにそって歩いていくと、少しカーブした先にトンネルが口を開けている。当然、これも廃トンネルで、肝試しの目的地はここだった。
 夜の森でぽっかり口を開けたトンネルは、かなり不気味だった。何日か、何年分かの暗闇がそこにたまっているみたいで、禍々しくすらある。これだと、幽霊も怖がって近づかないかもしれない。
 とにかく肝試しなので、一人ずつトンネルに入って引き返してくることになった。赤信号だってみんなで渡れば恐くないのだから、五人全員でトンネルに入ったって意味はない。
 言いだしっぺの特権、あるいは責務によって、そのクラスメートの子が一番に行くことになった。無謀なイベントを企てるわりに細かいところは用意周到で、ロウソクを二本持ってきている。一本はトンネル内に立てて、もう一本はそこで火をつけて帰ってくるためのものだった。つまりは、ずる防止対策である。もしくは、恐怖体験強制システム。
 その子が(かなりびびりながら)トンネルから無事戻ってくると、残りの四人もそれに続いた。さすが平安時代から続く伝統行事だけあって、テンションもあがるし、それなりに盛りあがりもしている。夏の思い出作りとしては、まあまあ成功だったかもしれない。
 幸い、幽霊に呪われたり、熊や猪に襲われたりすることもなく、イベントは無事に終了した。参加者が一人減ったり、一人増えたりもしない。霧の中から怪物が現れたり、雪のホテルに閉じ込められたり、変てこな中年おばさんに小説を書かされたりといった種々の危険も生じたりしていない。
 でも帰り際になって、その子はあることに気づいた。どんな心霊体験も絶叫マシンも目じゃないくらいの、それはリアルな恐怖だった。
 持っていたはずの携帯が、どこにもないのだ。
 ポケットも小さなポーチも全部ひっくり返してみたけれど、やっぱり見つからない。そもそも、諦めて誰かと踊りだすくらい見つかりにくいものじゃない。途中で地図を見ているから、持ってきたのは確実だった。
 とすると、可能性は一つしかない。どこかで落っことしたのだ。
 相手は携帯だから、探すための一番の手段は決まっている。電話をかけてやるのだ。さっそく、一人がその子の番号をコールした。
 音はどこからも聞こえないし、カラフルな光が見えたりもしない。
 五人はそのまま、付近の探索にかかった。とりあえず近くにはなさそうなので、トンネルに向かう。もう、肝試しどころじゃない。
 電話のコールは続いていたけど、その子の携帯らしきものはどこにも見あたらなかった。砂利の敷かれた古びたレール、葉っぱや虫の死骸、時々同じような人間が来るのか、よくわからないごみなんかがあたりには散乱している。
 でも、携帯らしきものは影も形もなかったし、トンネルの精が現れて、「あなたが落としたのはこの金の携帯ですか、それとも――」なんて訊いてきたりすることもなかった。トンネルはあくまでも無関心で、むしろちょっとだけ迷惑そうにも見える。
 五人で十分くらい探してみたけれど、どこにも見つからないし、見つかる気配もなかった。年末に買った、宝くじの当選番号と同じくらいに。トンネルはまっすぐの一本道だし、探すところなんてたかが知れている。
 結局、五人は携帯を探すのを諦めて、家に帰ることにした。ないものはないのだから、仕方ない。舟に刻んだ印で、川に落とした剣を見つけることなんてできはしないのだ。
 以来、その子の携帯は行方不明のままなのだった。

「――というわけなんです」
 と、あたしはその話を終わった。
「つまり、山に肝試しに行って、そこで携帯をなくしたってことね」
 先輩は大根も茄子も人参も野菜でしょ、と十把一からげにするみたいに省略した。
 まあ、その通りではあるのだけど。
 部室には闇夜の月も、山の清涼もなくて、しっかり夏の暑さが続いている。扇風機は相変わらずやる気がなさそうで、とりあえず肝試し的な雰囲気はどこにもない。
 先輩は話を聞いたうえでの一応の礼儀として、みたいな感じで訊いてきた。もちろん、礼儀は大事である。
「――何でまた、その子たちはそんなトンネルにまでわざわざ行ったわけ?」
 確かに、別の場所だったら携帯なんて落とさずにすんだかもしれない。
「なんか、幽霊が出るとかいう噂があるらしいですよ」
 あたしは噂話についての噂を口にした。心霊スポットのことなんて、金星の大気組成と同じくらい疎いのだから、仕方がない。
「ちなみに、どこの山なの?」
 先輩はやっぱり、猫が小判を見るくらい興味がなさそうに言う。
「奥城山(おくしろやま)って知ってますか? 市の外れとも中心ともいえないところにある山ですけど」
 あたしはGPSほど精度のよくない地図を思い浮かべながら言った。確か、そのはずだ。
「…………」
 すると先輩は、何故だかちょっと黙っている。電話番号は入力したけど、発信するかどうか考えているみたいな、そんな沈黙だった。
「先輩?」
 ごく軽めのノックをするくらいに言うと、先輩はこう答えていた。
「その話、少し詳しく聞いてみようかしら」

 意外なことに、先輩は乗り気みたいだった。頭にハチマキをしたり、袖を腕まくりするほどじゃないにしろ、それは確かだ。
 何がそんなに先輩を刺激したのかは、正直あたしにはよくわからなかった。燕雀には、鴻鵠の志なんて計りしれないのである。
 ともかく、さっそく翌日には本人を部室に招いて、話を聞くことになった。本当は部活の日でも何でもないのだけど、これは部活じゃないのだから問題はない――何だか、禅問答みたいな話だ。
 あたしはクラスメートのその子を連れて、放課後に部室までやって来た。先輩はもうそこにいて、奥のイスに座っている。
 先輩の向かいにクラスメートの子を座らせて、あたしは助手っぽくお茶の用意をした。お茶はペットボトルだけど、湯呑みはわざわざ調理実習室から拝借してきたものだ。何事にも雰囲気は大事である。
 今日も昨日と同じように、部室の窓は全開で、扇風機の効果は限定的で、季節は夏だった。部屋の中では先輩だけが、いつも通りの涼しい顔をしている。きっと心頭を滅却しているのだ。
「まずは、名前をうかがわせてもらおうかしら」
 と、先輩は言った。もちろんそれくらいは伝えてあったけど、まずは依頼人(といっていいはずだ)が答えやすい質問をしてやったほうがいい。
「――――」
 その子はちょっとだけ、緊張しているみたいでもあった。宇宙人に攫われたほどじゃないにせよ、しばらくは慎重にあたりの様子をうかがっている。
 それでも、やがてその子は言った。
「――美沢(みさわ)ともかです」
 何度も言っているけど、彼女はあたしのクラスメートだ。同じ1‐Cの女子生徒。
 ちょっとゆるめでふわふわ系の髪を、首のところで短く二つにくくっている。すっきりしたプロポーションで、背丈はあたしと同じくらい。表情には裏表がなくて、天然素材的に健康な雰囲気をしている。
 わりとギャルっぽい見ためをしているけど、実際には現役ばりばりのバスケ部だった。ポジションは、PG(ポイントガード)。
 何を隠そう、あたしも元バスケ部で、ともかちゃんとはそれがきっかけで仲よくなったのだった。
「すみません、こんなこと頼んじゃって」
 と、ともかちゃんはまず一礼した。ギャルっぽいし、あたしと同じ直感で動くタイプだけど、礼儀はきちんとわきまえているのだ。
「けど、ほかに相談できる人もいなくって。そしたら、うちの先輩は神様みたいにすごく頼りになるって、凛が言うんです。話を聞いてみたら、確かにそうだなって思って」
 ともかちゃんの言葉に、先輩はちらりとあたしのほうをうかがった。弓の達人なみに精度のいい視線だったので、わざわざ口に出さなくても何を言いたいかはよくわかる。
 ちなみに、凛というのはあたしのことだ。念のために。
「――少し誤解しているみたいね」
 と、先輩はまず訂正した。
「わたしはそんなにすごい人間じゃないわ。その辺にいる人間と、別に変わらない。少なくとも、神様ほど頼りにならないのは確かね」
「…………」
「でも――」
 先輩は鳥の羽なら軽く揺れるくらいの、そんなため息をついた。
「とりあえず、話だけでも聞かせてもらえるかしら。もしかしたら、それで何かわかることがあるかもしれないから」
 言われて、ともかちゃんはほっと一安心したような顔をする。脇に座ってそれを見ていたあたしも、ほっとした顔をする。
「大体のところは聞いているけど、まずは一通りの話を聞かせてもらおうかしら――」
 先輩がそう言うと、ともかちゃんはうなずいて、事の経緯を説明しはじめた。夏休みの終わり、肝試しの企画、中学時代の四人の友達、山奥のトンネル、一人ずつ順番に行って戻ってきたこと、帰り際に携帯を落としたことに気づく、どこにも見つからない。
 それはあたしが先輩に話したのとほとんど同じだったけど、もちろん追加すべきことはあった。
「けっこう肌寒くて、それで余計に怖さが増した、ってことはありますね」
 と、ともかちゃんは急な階段でものぼるみたいに、考え考えしながら言った。
「トンネルでロウソクを用意しているときに、正直私も怖くって。わりと焦ってたっていうか、もう急いですませちゃおう、みたいのはありました」
「その時に、携帯を落とした可能性が高い?」
「今から思うと、そうかもなって」
 当然だけど、ともかちゃんの記憶ははっきりしなかった。人間は熊に襲われたときに、白い貝殻のイヤリングを落としたかどうか気にしたりはしない。
「あなたが最初で、それから残りの四人がそれぞれトンネルに入っていった――それでいいのよね?」
 念のためという感じで先輩が確認すると、ともかちゃんはちょっと考えてから言った。
「そうなんだけど、一個だけ違うところがあります」
「違うところ?」
「四人のうち、男子二人はいっしょに行ったんで」
「…………」
 もちろん、幽霊に強い女子もいれば、幽霊に弱い男子もいるはずだった。
「――携帯をなくしたのに気づいたのは、帰るときね?」
 わりと重要なことなので、先輩はもう一度そのことを確認した。最善の結果を得るためには、労を惜しんではならない。
「そうです」
「いつ頃までは持ってたか、はっきり覚えている?」
 訊かれて、ともかちゃんは真剣な顔をした。畑に出来た大きなカブを、みんなでがんばって引っこ抜こうとするみたいに。
「トンネルに到着したときは持ってたはずなんだけど……あんまり、はっきりしなくて」
「持っていた可能性は高い?」
「とは、思います」
「そう――」
 先輩は、その質問に対する答えは保留にしたみたいだった。可能性は高いけど、絶対じゃない。つまり、低いけれど他所で落とした可能性もある、ということだ。
「その時、電話をかけて探したけど見つからなかった、ということだけど」
 話を次に進めて、先輩は訊いた。
「携帯はみんな持ってきてたんで、一人にかけてもらいました。念のため、もう一人にも」
「付近のどこからも音は聞こえなかった?」
「ですね」
「ミュート状態だった、とういうことはないのかしら?」
「覚えてるかぎり、それはないですね」
「……これは仮に、ということで訊くのだけど、四人のうちの誰かが拾って、ミュート状態にしたということはないのかしら?」
「実のところ、それは無理なんです」
 言われて、先輩は首を傾げた。
「携帯の音量調節は、例えロック中でもできるはずだけど?」
 そういえば、確かそんな機能がついているはずだった。コンサートや大事な席なんかで、みんなの顰蹙を買わないようにするためのものだ。あたしは忘れちゃったけど、簡単なボタン操作でいつでも切り替えられるはずだった。
「それが、私の携帯はロックがかかってるときは――まあ、その時もかかってたんですけど――ボタン操作は受けつけないようになってるんです」
「操作を受けつけない?」
「うーん、私もよくわかんないんですけど、マクロっていうんですか? 何か携帯の動作を細かくいじれるみたいで」
 ともかちゃんは餅屋じゃない人が餅について語るみたいにしてから、続けた。
「うち、大学生の兄貴がいるんです。で、その手のことに詳しくて、私の携帯もいろいろいじってもらったんですよ。本当は別のことだけでよかったんですけど、何か勝手にそういうふうにされちゃって。とりあえず、ロック画面だとミュートとかにはできないんです。本人は誤作動防止だって言うし、私も別に困らないからそのままにしてたんですけど――」
「つまり、携帯が鳴らないようにするのは不可能だった、ということね?」
「そのはずです」
「これは大事なことだから聞くのだけど」
 と先輩はそれから、果物の皮でも剥くみたいにして言った。
「音は鳴らなくても電話そのものはかかった、ということでいいのかしら?」
 念を押されたぶんだけ、ともかちゃんは考えた。へこんだクッションが、少し時間をかけて元に戻るみたいに。
「それは間違いないです、ちゃんとコールはしたんで」
「――そう」
 先輩は、その質問に対する答えは確定したみたいだった。
「さっきも言ったように携帯自体にはロックもかけてるし、困ったこととかは起きてないんですけど」
 ともかちゃんはマリアナ海溝ほどとは言わないにしろ、日本海溝くらいには深そうなため息をついた。
「高額請求とか、よくわかんない犯罪とか……一応、もう新しい携帯にも替えてるし。でも大切な写真とかデータとかは入ってるし、できれば見つけたいんです。音楽とかも、あっちの携帯に残ってるし」
「携帯の位置情報なんかはわからないのかしら?」
 ともかちゃんは首を振った。あたり前だけど、それくらいのことはもう調べてるのだろう。
「その場所ではわからなかったんで、家に帰ってから調べました。でもその時にはもう電源が切られてたみたいで、さっぱり。念のために昼間にも探しにいったんですけど、やっぱり影も形も見あたらなくて」
「なるほど――」
 うなずいてから、先輩は水道の蛇口を締めるくらいの時間のあとに訊いた。
「ところで、美沢さんは音楽をよく聞くのかしら?」
「……えっと、まあ聞くほうですかね。主にJ‐POPとか、そういうのですけど」
「ちょっと携帯を見せてもらってもいいかしら?」
 ともかちゃんは言われるまま、自分の携帯を机の上に置いた。イラスト調の絵柄が入った、わりと女の子っぽいキュート系のカバーがつけられている。
 先輩は手にとって一通り眺めてから、こう訊いた。
「これは、その時に持っていたのと同じもの?」
「保証サービスが受けられたんで、機種はいっしょですね」
「カバーも?」
「前のは月っぽいやつで、今は太陽っぽいやつですけど」
「なるほど――」
 先輩はもう一度、うなずいてみせた。
 何となく、質問が風船みたいに宙を漂っている感じだったけど、それが割れたり萎んだりして地面に落る前に、先輩は言っている。
「大体のところは、聞かせてもらったわね。見つかるかどうかはわからないけど、わたしたちのほうでも調べてみることにするわ」
「……本当にいいんですか?」
 ともかちゃんは半分は喜んで、半分は驚くみたいな声で言った。あとほんの少しだけ、意外そうな気持ちも混じっている。
「ええ、でも期待はしないでね」
 と、先輩はいつもと同じ落ち着いた口調で言った。
「さっきも言ったけど、わたしは神様というわけじゃないから」

 ――ともかちゃんが帰っていくと、あたしはさっそく訊いてみた。
「先輩、今ので何かわかりましたか?」
 他力本願なあたしの質問に対して、先輩はすぐには返事をしなかった。何か、考えているらしい。神社でお賽銭をもらった神様も、これくらい真剣だといいのだけど。
 窓の外からは蝉の声が、お母さんのかける掃除機みたいにずっと聞こえている。遠くの山の緑は、子供がべったり塗りつぶしたくらいの濃さだった。窓のそばに立っていると、余計に熱気が感じられる。
 やがて、先輩は口を開いていた。
「まだ何とも言えないわね」
 もちろん、神様にだって考える時間は必要だ。
「状況的には、やっぱり四人のうちの誰かが犯人なんでしょうか?」
 と、あたしは訊いてみた。携帯は現場でなくなった。現場にいたのは持ち主も含めた五人。故に、状況的にはそのうちの四人が容疑者である、Q.E.D。
「そう考えるのが自然でしょうね」
 と先輩は言った。でも、という含みを残して。
「でも状況的には、四人が犯人だということはありえない」
「……何でですか?」
「電話がコールされてるからよ」
 先輩は労を惜しまずに説明した。
「もしも電源が落とされたりなんかすれば、そうはいかない。でも電話がかかっている以上、もしも現場に携帯があれば着信音が聞こえたはず。美沢さんの話によれば、ボタン操作でミュートにするのは不可能だということだから」
 亀みたいに遅いあたしの思考力は、ようやくウサギに追いついたみたいだった。
「……つまり、状況的には現場にいた四人の誰かが携帯を持っていたはずはない、ってことですか」
「そういうことね」
 先輩がうなずくと、あたしは考えてしまった。確かに、その通りだった。つまりは、四人全員にアリバイが成立していることになる。
「じゃあ、携帯はただともかちゃんが、どこかに落っことしただけってことですか?」
 あたしがそう言うと、先輩はこれまた否定してしまった。
「それはどうかしらね。美沢さんが家に帰る頃には、携帯の電源は切られていた。電池が急になくなったのでなければ、誰かが切ったと考えるのが自然よ」
「……?」
 その場の誰も携帯を拾っていないけれど、携帯の電源は誰かが切った。
 まるで、どこかのいいかげんな商人が売っている矛と盾みたいな話だった。
「先輩は、これからどうするつもりなんですか?」
 答えは出ないとしても、もう約束はしてしまっていた。ナポレオンじゃないので、約束は守る努力をしなくてはならない。
「そうね、とりあえず四人それぞれに話を聞いてみるしかないわね」
 と、先輩はメモに書かれたリストを見ながら言った。さっきともかちゃんに書いてもらった、いっしょに肝試しに行ったメンバーの一覧だ。捜査の基本は、地道な聞き込みにこそある。
「――ところで、ともかちゃんに聞いた最後の質問て重要なんですか?」
 あたしはふと、そのことを思い出して訊いてみた。
「場合によっては、ね」
 リストとにらめっこをしながら、先輩は答える。その様子は何だかもう、ある程度対象の範囲を絞り込んでいるみたいでもあった。

 夏の朝は早起きで、HR前のこの時間でも、昼の暑さと騒がしさの気配がすぐそこにあった。まだうだるほどの温度じゃないけれど、しっかりと火にはかけられている。
 ――先輩とあたしは、特別棟の一階のところいた。
 あれから、ともかちゃんに頼んで一人ずつに話を聞くことを伝えてもらっている。それで、これからそのうちの一人に会う予定なわけだった。同じバスケ部ということで、その人には朝練の時に直接、話を伝えることにしたみたいである。
 階段の近くには、自動販売機も置かれた小さな休憩コーナーがあった。壁にベンチがくっついていて、五、六人くらいなら集まって話をすることもできる。フランスのおしゃれなカフェテラスなんて望むべくもないけど、まあまあ便利な場所ではあった。
 この時間、南の教室棟はそれなりに賑やかだったけど、こっちのほうは特にそんなことはない。放棄された鳥の巣みたいに人気がなくて、静かだった。もちろん、だからここを待ちあわせ場所に選んだのだけど。
 そうしてしばらくすると、向こうから人影が現れている。約束の時間には、ちょうどくらい。短距離選手みたいにまっすぐこっちに向かってくるところを見ると、その人が四人のうちの最初の一人で間違いなさそうだった。ともかちゃんに見せてもらった写真とも一致する。
「――あんたらが、ともかの携帯を探してるって?」
 開口一番、その人は言った。
 女子にしてはということだけど、大きめの身長。だぶん、あたしより十センチは高い。ボーイッシュな癖のかかった短い髪で、顔には少し雀斑のあとがあった。ぽってりした唇で、晴天というよりは曇天に近い表情をしている。野生の猫みたいな、どことなく人間を警戒している雰囲気があった。
 バスケ部でのポジションは、PF(パワーフォワード)。激しいぶつかりあいを制したり、ゴール下で競りあったり、確実な得点能力が求められる、ハードな職業だった。でも芯がつまった感じのその人の体格を見るかぎりでは、なかなか頼りがいのありそうなPFではある。
「ええ、そうよ――あなたが、藤野葵(ふじのあおい)さんね?」
 先輩は藤野さんに向かって、礼儀正しく問い返した。
「…………」
 藤野さんは言われて、黙ってうなずいている。どうやら、彼女にとって言語活動というのは、あまり重要な役割は持っていないみたいだった。
「わたしたちは、志坂律子と千瀬凛です。美沢さんから話は聞いていると思うけど、彼女の携帯を探すのを手伝っているわ」
「ああ、それで私の話を聞きたいっていうんでしょ」
「その通りよ」
 藤野さんはどっかりとベンチのところに座った。ロッテンマイヤーさんなら眉をひそめるかもしれないけど、なかなかの威勢のよさである。
「――いいよ、何を聞きたい?」
 と、藤野さんはわりと面倒くさそうに言った。
 先輩とあたしは、L字になったベンチの長いほうに座る。主な質問は先輩がするので、あたしは遠いところに陣どった。
 とりあえず何を聞けばいいかな、とあたしが考えていると、先輩は即座に言った。
「……単刀直入に訊くけれど、美沢さんの携帯がどこにあるか知らないかしら?」
 確かに、単刀直入だった。まどろっこしい駆け引きもないし、取り引きもしない。
 それに対して、藤野さんは即答した。
「知らないね」
 まあ、それはそうかもしれない。どっちにしろ、知ってるなんて答えるはずはないのだし。
 先輩がその答えをどう解釈したかは不明だったけど、質問は続けられた。
「藤野さんは、美沢さんと同じバスケ部だったわね」
「そうだよ」
「中学時代も、バスケを?」
「ああ――」
「ということは、美沢さんとはかなり親しいのかしら?」
 最後の質問に対しては、藤野さんはすぐには答えなかった。たくさんの星の中から、正しい星座の組みあわせを選ぶときみたいに。
「ともかは、一番の友達だね」
 言葉の強さを聞くかぎり、嘘じゃなさそうだった。
「――じゃあ、当日のことを少し聞かせてもらおうかしら」
 先輩はそう言って、別の質問に移っていった。
 肝試しとその経過については、特にめぼしい情報は得られなかった。ともかちゃんが話したのと大体同じ内容で、違いがあったとしてもそれは、マゼランペンギンとフンボルトペンギンくらいのものでしかない。
「二番目にトンネルに入ったのは、藤野さんだったわね」
 と、先輩はその点を確認した。
「どう、怖くなかったかしら?」
「そりゃ、まあまあやばい雰囲気だったけど、そこまでじゃないよ」
「幽霊は信じないほう?」
 古代から連綿と続く難問の一つに、藤野さんは少し考えてから答えた。
「……どっちとも言えないね。ただ」
「ただ?」
「幽霊なんかより人間のほうが怖いのは、確かだよ」
 これもまた、古代から連綿と続く難問の一つかもしれなかった。
 とりあえず一通りの質問をしたあとで、先輩は藤野さんに言った。
「悪いけど、あなたの携帯を見せてもらってもいいかしら?」
 これは、ともかちゃんにもお願いしたことである。
「…………」
 藤野さんは一瞬、ためらうようなそぶりを見せた。猫が物音に足をとめるくらいの、そんな。まあ、携帯なんてそう人に見せるものじゃないのだから、無理もないかもしれない。
 ごそごそとポケットをさぐって、藤野さんはそれを取りだした。ちょっと警戒しながらも、先輩のほうに渡す。
 その携帯にはソリッド感のある、格好いい系のカバーがつけられていた。回転盤みたいなのがくっついていて、音楽でいうとメタル系のデザインをしている。名は体を表す、というところだろうか。
 携帯マニアじゃないので、機種についてはよくわからなかった。先輩がわかっているのかどうかもわからない。案外、わかっているのかもしれない。
「これは、肝試しの日に持っていたのと同じもの?」
 と言いながら、先輩はそれを藤野さんに返した。
「そうだけど――」
 藤野さんは人魚姫が魔女から怪しげな薬をもらうみたいにして、それを受けとった。
「だから、どうかした?」
「今のところは、特にないわね」
 と、先輩はどこか含みのある言いかたをしている。
「とりあえず、今日はこれで十分だと思うわ。わざわざ時間を割いてくれて、ありがとう」
 そう言って先輩が話を切りあげようとすると、でも藤野さんは動こうとしなかった。魔女に自分の声を捧げるほどかどうかはわからないけど、何となく覚悟のある表情をしている。
「――ともかの携帯、見つける自信はあるわけ?」
 と藤野さんは訊いた。
「自信はないけど、努力はしてみるつもりよ」
 先輩は特に挑戦的でも、特に悲観的でもない声で答えている。
「もしも――」
 と、藤野さんは少し躊躇するようにしてから言った。シュートモーションに入ってから、一瞬だけ間があくみたいに。
「もしも、ともかの携帯が見つかったら、どうするつもり?」
「本人に返すのが筋、でしょうね」
 当然だけど、先輩はそう答えた。それから、こうつけ加える。
「でも、ほかにもっとよい方法があるなら、そうするつもりよ。わたしたちには結局のところ、すべてを解決することなんてできはしないのだから」

 HRがはじまるまではまだ少し時間があって、先輩とあたしは二人で休憩コーナーに残っていた。
「――ずばり、彼女が犯人ですね」
 と、あたしは意気揚々と宣言した。
「どうして、そう思うのかしら?」
 先輩は冷静沈着に訊き返している。
「……何となく、言ってみただけです」
 あたしが正直にそう言うと、先輩は驚きもしなければ、呆れもしなかった。これはいい傾向なのだろうか、それとも悪い傾向なのだろうか。
「あなたから見て、藤野さんの印象はどうだった?」
 と、先輩はあたしの意見を求めてきた。たぶん、珍しく。
「んー、PFとしては頼もしそうでしたね」
「……バスケじゃなくて、人として、よ」
 まあ、それはそうだ。
「ちょっと陰のある感じでしたけど、根はまじめというか、努力家タイプっぽかったですね。階段は一段ずつのぼっていく、というか。それに、何だか堂々としてましたし」
「そうね――」
 先輩はちょっとうつむいて考えた。あたしの意見がどの程度参考になったかは不明である。
 それから、先輩は言った。
「――彼女は、美沢さんのことを恨んだりするかしら?」
「ともかちゃんを?」
 あたしは思わず、首を傾げてしまった。さっきの話を聞くかぎり、藤野さんにとってともかちゃんは親友だし、ともかちゃんは間違っても人の恨みを買うようなタイプじゃない。
「それはないと思いますけど……」
 と、あたしは北極の太陽くらい控えめに意見した。
「まあ、そうでしょうね」
 先輩はやけにあっさり同意した。どうやら、「ただ聞いてみただけ」というやつだったみたいである。
 何にしろ、これで四人いる容疑者のうち、一人の話は聞いたわけだった。
「先輩は、もう何か目星みたいなものはついてるんですか?」
 あたしは師匠にお伺いを立てる不肖の弟子っぽく、訊いてみた。
「ある程度は、ね」
「……教えてくれませんか?」
 でも先輩は、厳しい師弟の掟に従って甘やかしたりはしない。
「まだ状況証拠のようなものだし、決定的とは言えないわ。それに、ほかの人の話も聞いてみないと、わからないこともあるでしょうしね」
 やっぱり、とりあえずは全員の話を聞いてみるしかなさそうだった。

 昼食をすませたあとの昼休みの時間、先輩とあたしは1‐Fの教室に向かった。もちろん、二人目の尋問のため――もとい、話を聞くためだ。
 休み時間中はエアコンが切られているので、微妙な暑さだった。半熟卵の気持ちがよくわかるというものである。そろそろ人類は、この手のエネルギー問題を解決すべきではないだろうか。
 少し遅めの時間なので、教室にはほとんど人影はない。生徒のいない教室というのは、空気が抜けてぺたっと萎んだ風船と、どこか似ている感じがした。
 入口のところで室内を見渡してみても、写真に映っていた目あての人物は見あたらなかった。ここ数日で髪型を変えたとか、顔を整形したとかでなければ、そのはずだ。
「どうやら、教室にはいないみたいね」
 と、先輩はごくまっとうな意見を口にした。
「誰かに聞いてみましょうか?」
 あたしが提案すると、先輩は簡単にうなずいている。
「そうね、そうするしかないでしょうね」
「――先輩、ここはあたしが」
 不肖の弟子として、あたしは自ら進みでた。うら若き乙女が見知らぬ男性の居場所を尋ねるなんて、名誉に関わることだった。あらぬ噂を立てられないともかぎらない。
 あたしは先輩を安全圏に残して、一人で教室に入っていった。近くに三人でだべっている男子生徒がいたので、そのうちの一人に訊いてみる。
「えっと、このクラスに室(むろ)くんて人はいますか?」
 運動部っぽいその男子は、運動部っぽくさっさと答えてくれた。
「コージなら食堂じゃね」
「……食堂?」
 大抵の人間は、もうとっくに食事の終わっている時間だった。
「何で、こんな時間に?」
 念のために、あたしは質問する。するとその男子は、すぐに答えてくれた。
「あいつ、ちょっと時間をずらして飯食うから」
 ――ふむ。
 あたしはお礼を言って、先輩のところに戻った。三人組は震度0の地震くらい何事もなかったみたいに、また話の続きをしている。
「室くんは食堂にいるらしいです」
 と、あたしは報告した。
「そう、ならさっそく行ってみましょうか」
「……あたしって、女子力のパラメーターが低いんですかね?」
「何を言ってるの?」
 うん、何を言ってるんだろう。

 食堂は混雑のピークをとっくに過ぎていて、だいぶすいている状態だった。ほとんどの生徒は食事を終えて、ただしゃべっているか、食後のデザートを賞味したりしている。昼寝中の猫みたいに平和な光景だった。
 たいして広くもなく、それほど狭くもない室内を見渡すと、目あての人物を発見した。ちょっと隅のほうの窓際で、食事中みたいである。
 先輩とあたしは、さっそくそっちのほうに向かう。長机にイスが並んだだけの食堂は、愛想のない迷路みたいに殺風景だった。北欧風とかレトロフューチャーとかは言わないにしろ、もうちょっと何とかならないものか。
 一人で寡黙に食事中のその人の前まで来ると、先輩は言った。
「あなたが、室くん?」
 言われて、その人は顔を上げる。どっちかというと、鷹揚に。
 わりと硬そうな感じの、短い髪をしている。鋏で適当にじょきじょきやった、くらいの無造作でシンプルな髪型だった。細身だけど、筋肉質というか、金属みたいに中身のつまった体つきをしている。静かではあるけど、愛想がいいとはいえない鋭い目つきをしていた。全体的な印象は、猛禽類系。
 その人をすぐに見つけられたのは、食堂がすいているせいもあったけど、わりと特徴的かつ存在感のある容貌をしているせいもあった。
「そうだけど――」
 と言ってからコージ君は、ピタゴラスイッチ的にいくつか余計な段階を踏んでから気づいたみたいな顔をする。
「ああ、あんたらが美沢の言ってた二人か」
「そうよ。室くんは、今一人?」
 念のために、先輩は確認する。もちろん、透明人間がお相伴をしていないかぎりは、一人のはずだった。
「飯は一人で食うタイプなんでね」
 とコージ君はきつねうどんをすすりながら、悪びれもせずに言う。どうやら、隠し事はしないタイプみたいだった。
 まあまあ余計なことだけど、気になったのであたしは訊いてみる。
「コージ君は、きつねうどんが好きなんですか?」
 学食のきつねうどんは、「量だけはある」というもっぱらの評判なのだ。
「いや――」
 もうほとんど食べ終えてしまってから、コージ君は言った。
「一番、安いから」
「なるほど」
「うちは母親だけの片親なんでな。できるだけ負担にならないようなものを選んでんだよ」
 できれば銅像を建てて、表彰してあげたいくらい立派な話だった。
「あと、一応言っとくけど俺はコージ≠カゃないぜ」
「え?」
 確か、クラスメートはそう呼んでたはずだけど。
「本当は、やすはる≠ネんだよ」
 ――室康治(むろやすはる)。
「ま、俺としてはどっちでもいいんだけどな。知っててもコージって呼んでくるやつも多いし」
 度量が広いのか、ただ面倒くさがりなだけなのかは、判断しにくいところだった。少なくとも、神経質な性格じゃないのは確かみたいだ。
 ――というわけで、あたしもコージ君と呼んでおくことにする。
 コージ君はいったん食器を返してから、また元の席に戻ってきた。先輩とあたしとは、向かいあった形になる。
「で、肝試しのことを聞きたいんだってな」
 とコージ君は自分のほうから切りだした。ただし、
「正直、美沢の携帯のことはよくわかんねえんだよ。特に思いあたるようなこともないしな」
 と、あまり自信はなさそうに言う。最初から兜を脱いだ武将みたいに。
「美沢さんとは、中学時代からの友達?」
 それでも、先輩は質問を続けた。犯人が自分は犯人じゃないと言ったからって、犯人じゃないとはかぎらない。
「ああ、そうだよ。高校にあがってからは、それほどでもないけどな」
「でも彼女はあなたを誘ったし、あなたはそれに応じた」
 コージ君は古い洗濯機みたいな感じで考えた。とりあえず、頭の回転は速いほうじゃないらしい。
「まあ面白そうだったしな、行ってもいいかと思ったんだよ。あと、美沢のやつが俺を呼んだのは、ボディガードのつもりもあったんじゃねえかな」
「ボディガード?」
「一応、こう見えても剣道部なんでね」
 言われてみると、確かにそんな感じだった。ちょっと、その辺を真剣が漂っているみたいな緊張感がないでもない。
「室くんがトンネルに入ったのは、三番目だったわね」
 と、先輩は質問を先に進めた。
「ああ、そうなんだけど――」
 言って、コージ君は渋い顔をする。食べられないこともない渋柿くらいに。
「その時は、乙森(いつもり)もいっしょだったな」
 乙森虎太郎(いつもりこたろう)――肝試しの順番は四番目のはずだった男の子だ。そういえば、ともかちゃんもそんなことを言ってたっけ。
「二人でいっしょにトンネルに入ったということね?」
 念のために、先輩は確認する。
「まあ、そういうことだな」
「それは、何故?」
「あー、それは乙森のやつが、ちょっとな」
 コージ君はマウスピースを装着中みたいに歯切れが悪かった。
「ちょっと、というのは?」
 先輩にうながされて、コージ君はようやく答える。
「――怖いから、いっしょに行かせてほしいって言うんだよ」
 歯切れも悪くなるはずだった。あたしは挙手したうえで発言する。
「その子は、えっと、臆病なほうってことですか?」
 言葉に迷ったけど、ここは名誉より正確を期することにする。
「ありていに言っちまうと、そういうことだな」
「でも、何も男子二人で行かなくても」
「女子には頼めんだろ、怖いからいっしょに行きたいなんて」
 その発想は、あってしかるべきだったかもしれない。。
「……とりあえず、室くんと乙森くん、三番目は二人で行ったということね?」
 先輩はちり紙をくしゃくしゃにするみたいに、いったん話をまとめた。
「ああ」
「その時、何か気づいたことはなかった? 美沢さんの携帯らしいものが落ちてたとか」
「いや、特にはなかったと思う。というか、正直それどころじゃなくてな」
「何かトラブル?」
 先輩が訊くと、コージ君は再び歯切れが悪かった。
「いや、実のところ乙森が幽霊を見たって――」
 肝試しに行って幽霊が見れたなら、もしかしたら喜ぶべきなのかもしれない。
「その話、ちょっと詳しく聞かせてもらえるかしら?」
 オカルティストみたいに幽霊に興味があるわけじゃないだろうけど、先輩は訊いた。
 うなずいて、コージ君がとつとつと語るところによると、こういうことらしい――
 まず、三番目にコージ君が行く時点で、乙森くんがくっついてきた。懐中電灯と火のついてないロウソクを持って、二人はトンネルに向かう。当然、乙森くんはかなりびくびくしている。
 二人はトンネルに入って、火のついたロウソクのある場所に向かった。けっこう遠いので、乙森くんの恐怖指数が急上昇する。そうでなくても、夜の廃トンネルなんて恐怖以外の何ものでもない。
 ロウソクのところまで来たので(石で囲って火が消えにくいようにしてある)、コージ君は持ってきたロウソクに火を移した。あとは、帰るだけでいい。
 ――問題が起きたのは、その時だった。
 突然、乙森くんが騒ぎだしたのだ。トンネルの向こうを指さして、何か叫んでいる。
 コージ君には最初、何のことかわからなかった。霊感があるほうじゃない。というか、ない。だからこれまで、幽霊を見たことはない。
 それでも、乙森くんが指さす方向を見たときは、ぎょっとした。
 屈んだ姿勢でこっちをうかがっている人影が、そこにいた。それも、影の周囲がぼんやり光を帯びている。
 乙森くんが、まず逃げだした。つられるようにして、コージ君も逃げた。擬態の上手な昆虫といっしょで、人影が本物の幽霊なのか本物の人間なのかはわからない。というより、どっちでも怖かった。下手をすると、人間のほうが怖かったかもしれない。
 二人はほうほうの体でみんなのところに戻ってきた。それでもコージ君がロウソクの火を消さなかったのは、立派というか、地震の時に慌てて枕をつかんで逃げるのと同じことだったのかもしれない。
 当然、五人のあいだで二人が見たものについての議論が起きたけど、結論は出なかった。何しろ、古代から連綿と続く難問の一つなのだ。会議は踊る、されど進まず。
 結局、最後の一人が確認に行くことになった。箱を開けてみるまでは、猫は死んでもいるし、生きてもいるのだ。本物の幽霊か人間である可能性を考えると、わりと無謀ではあったかもしれないけれど。
 その一人はトンネルに入って、しばらくすると戻ってきた。ちゃんとロウソクも回収している。幽霊も人間も、どっちも見ていない。もちろん、夢だって見ていない。
 二人の名誉はだいぶ傷ついたけど、事実は事実なのだから仕方がなかった。ない袖は振れない、というものだ。
 それからのことは、前の二人が話したのとほとんど同じだった。ともかちゃんが携帯をなくしたことに気づく、電話もかけてみんなで探したけれど見つからない――
 話が終わったあとで、先輩は前の二人と同じお願いをした。
「念のために、あなたの携帯を確認させてもらってもいいかしら?」
 コージ君は特に気にしたふうもなく、自分の携帯を机の上に置いた。あまりセキュリティ意識の高そうな行動とはいえない。
 前回と同じく外観だけチェックしたかぎりでは、コージ君の携帯はコージ君らしく、裸のままで何の飾りもついていなかった。野生動物みたいにわりと細かな傷がたくさんついてるけど、それは使い込まれているというより、使い古されてるせいかもしれない。
 丁重にお礼を言って返したあと、
「美沢さんの携帯について、何か心あたりはないかしら?」
 と、先輩は最後に質問した。
「いや、悪いけどやっぱりないな」
 コージ君は腕組みをして、難しい顔で言う。
「美沢のやつの勘違いじゃないのか? なくしたと思ってたら、すぐ近くにあった、なんてのはよくあることだぜ」
 何だかそれは、妙に実感のこもっている言葉ではあった。

 コージ君がいなくなってからも、先輩とあたしは食堂に残っていた。まわりには崩したばかりのパズルみたいに、三々五々生徒たちが固まっている。お茶を飲みながら話したり、ボードゲームをやったり、デザートを食べたり、みんないろいろだった。
 あたしはちょっと、カウンターのメニューを眺めてみる。女子力のパラメーターを上げるために、おしゃれなスイーツでも頼むべきだろうか。もちろん、学食におしゃれなスイーツがあれば、の話なのだけど。
「――どうですか、コージ君が犯人てことはありますか?」
 あたしはやる気のない釣り人が竿を振るうみたいにして、訊いてみた。
「…………」
 先輩はいつも通り慎重だった。この世界には、絶対なんてものは絶対に存在しない。
「可能性としては低い、としか言いようがないでしょうね」
「もしもコージ君が盗んだとしたら、もう一人と共犯てことになりますかね?」
「どうかしら……ロウソクに火をつけるとき、慌てて逃げだすとき、一人で事を行う機会がなかったとは言えないわね」
「ふむむ」
 一応、結論は保留ということだった。
 昼休みも終わりに近づいて、時間の流れはちょっとずつ変わりはじめている。
「――ところで、幽霊は容疑者に含まれますか?」
 と、あたしは訊いてみた。
「あらゆる可能性を排除して最後に残ったものが、どんなに奇妙でも真実である――と、どこかの探偵は言ってるわね」
 なるほど。

 放課後、先輩とあたしは1‐Eの教室に向かった。三人目に会うためだけど、考えてみるとなかなかせわしない一日である。
 教室では授業がちょっと遅れたのか、意外と人が残っていた。帰り支度をしたり、友達とこれからの計画を練ったり、教科書を見直したり、いろいろである。ビリヤード台の上に、球をいっぱい転がした光景に似ていなくもない。
 これだけ人がいると、さすがに目あての人物を見つけるのは難しかった。数キロ先の針の頭を撃ち抜くほどじゃないにせよ、ダーツで真ん中に命中させるくらいには。
 仕方ないので、教室から出てきた女子生徒の一人に訊いてみることにする。一応、同じ一年ということで、あたしが。
「すみませんけど、このクラスに乙森くんていますか?」
 するとその女子生徒(髪の長い子だった)は、
「トラ君?」
 と訊き返してきた。たぶん、虎太郎から来てるんだろうけど……
「えっと、トラ君なら向こうの、窓際の一番前の席だよ。ここからだとちょっと見にくいけど、まだいるはずだから」
 あたしと先輩はお礼を言って、そっちのほうに向かってみることにした。違うクラスの教室に入ると、何だか着なれない服でも身にまとってる気がするのは何でだろう。
 何人かの生徒はこっちのほうを見たけど、特には気にしていないようだった。先輩とあたしは魚の群れの中でも泳ぐみたいにして、教室を横切っていく。
 言われたとおりの場所までやって来ると、そこには男子生徒が一人いて、カバンに荷物を詰めているところだった。
「…………」
 さっき見つけられなかったのも無理はないな、とあたしは思った。
 とりあえず、小さい。小さいというより、ちんまりしているという感じだった。蕗の下に隠れられるかどうかはわからないけど。
 鳥が巣を作るのに便利そうな、もじゃもじゃした天然パーマをしている。顔立ちは幼くて、さすがに小学生には見えないけど、高校生にも見えない。小柄なうえに華奢で、百奈先輩より少し背が高い程度かもしれない。女の子がお人形遊びに使いたがりそうな、そんな感じがした。
 彼、乙森虎太郎は、どう見ても「虎」という感じじゃなかった。山月記の主人公が見たら、複雑な気分になるかもしれない。
「ごめんなさい、あなたが乙森くんかしら?」
 と、先輩はまず声をかけた。われもの注意の貼り紙がしてあるダンボールみたいに、どことなく遠慮がちに。
 するとトラ君は、こっちのほうを見た。ちょっと、きょとんとしている。それから相手が知らない人間だと気づいたみたいに、緊張するそぶりを見せている。人の足音がすると、小動物がすぐ逃げてしまうみたいに。
「そうですけど――あなたたちは?」
 トラ君は、穴があったらきちんと全身を隠してしまいそうな感じで言った。
 先輩とあたしは、何となく顔を見あわせる。厄介な荷物を運ぶとき、一度アイコンタクトを交わすみたいに。
「わたしたちは、二年の志坂と一年の千瀬。美沢さんに頼まれて、彼女の携帯を探してる者よ」
 そう、先輩は丁寧に言った。
 トラ君はそれでようやくわかったみたいに、「ああ、あなたたちが……」と口の中でもごもごつぶやいている。何となく居心地が悪そうなのは、やましいところでもあるのか、ただ緊張してるだけなのか。
「よければ、少し話を聞かせてもらえるかしら?」
 先輩はいつも通りに、許可を求めた。
「これから部活があるから、あんまり長くなければ……」
 トラ君は、拳をあわせて人さし指をつんつんさせるみたいな感じで言う。女の子がからかいたくなるタイプかもしれない。
「ちなみに、部活は?」
 と先輩が訊くと、
「合唱部です」
 という答えだった。人は見かけによらない、とはよく言ったものである。
 トラ君と合唱部のためにも、先輩とあたしはその場で手早く話を聞いてしまうことにした。近くにあった席からイスを借りて、トラ君の机を囲む。教室の人影は栓を抜いたバスタブの水みたいに、どんどんなくなりつつあった。
「肝試しがあった日のこと、覚えているかしら?」
 と、先輩はまず訊いた。
「うん、美沢さんから急にメールが来て、集まれないかって」
「断わらなかった?」
「本当は気が進まなかったんだけど、美沢さんは強引だから」
 それは、よくわかる話だった。
「怖いから、できるだけ明るいライトを持っていきました――あと、お守りも」
 自転車の移動や山道やトンネルのことはざっくりと省略して、問題のトンネルに入ったときのことを訊く。
「あなたは、室くんといっしょになって行ったのよね?」
 先輩は確認した。
「うん――」
 とトラ君はうなずく。子供が遊んでいたときのことを思い出すみたいに、ためらいもなく。その表情は意外と素直で、明るい。
「すごく怖くて、一人じゃとても無理だったから。コージ君といっしょなら、安心だし」
「その時、人影を見たそうね?」
 先輩が言うと、トラ君は怯えた鳩みたいな顔をした。実にわかりやすく。
「急に冷たい風が吹いてきたんだ」
 と、トラ君は今でもその風が自分にくっついているみたいに言う。
「それでライトを向けたら、トンネルの向こうに人影が見えたんです。うずくまって、こっちをうかがってて……おまけにそのまわりが虹みたいに光ってて」
 これは、コージ君も言っていたことだった。だからたぶん、嘘でも見間違いでもないのだろう、一応。
「僕、思わず叫んじゃって。怖くて怖くて、一目散で逃げちゃいました」
 逃げちゃった本人を見るかぎり、あまり屈託はなさそうだった。何だか、鬼ごっこでもしていたみたいに。これは良いことなのか、それとも悪いことなのか。
「確認なのだけど、あなたは室くんの後ろにいたのよね?」
 先輩が訊ねる。
「そうです」
「室くんがロウソクの火を移しているときに、冷たい風が吹いてきて、トンネルの向こうをライトで照らすと、人影を見た」
「はい」
「――そう」
 質問はそれだけみたいだった。
 そこからのことは、コージ君と同じだった。最後の四人目がトンネルに入っても、何もなかった。帰るときになって、ともかちゃんの携帯がないことに気づく。みんなで探したけど、見つからない。
「――少し、あなたの携帯を見せてもらってもいいかしら?」
 ほかの三人と同じく、先輩はそのことを訊いた。
 トラ君は子供がおもちゃを返すときみたいに、あまり気が進まない様子だった。でも結局、カバンからそれを取りだす。もしかしたら、強くものを頼まれると嫌とは言えない性格なのかもしれない。
 見せられた携帯は、何というか実に女子力高めだった。ラインストーンだとかシールだとかいろんなパーツだとかが、かわいくデコられている。あたしも見習うべきだろうか?
「ありがとう、もう十分よ」
 先輩はそう言うと、携帯を返した。トラ君はボールを投げられた犬みたいに、嬉しそうにそれを受けとる。
 それからトラ君は、ちょっと表情を曇らせてこう言った。
「……もしかして、僕のことを疑ってるんですか?」
 正直なところ、あまりそうは見えなかった。

 トラ君への尋問(× 質問○)も終わって、四人のうち残るところはあと一人だけだった。ずいぶんと長い一日ではある。
 ともかちゃんにあらためて訊くと、最後の一人は美術部ということだった。ちょうど活動日らしいので、そっちのほうに向かう。三階のはしっこにある、美術室へ。
 午後も遅い時間になってきたけど、夏はまだまだ夏だった。蝉は鳴いているし、太陽は元気だし、空気は誰かがフライパンで熱したみたいに暑い。時々、制服をぱたぱたやるくらいには。
 美術室の近くは、当然だけど静かだった。物音はどれも、ガラスケースに入れられてるみたいに遠くから聞こえる。
 ドアは開けっぱなしにしてあったので、まずは中をのぞいてみた。そんなに大勢ではないにしろ、美術部員たちがそれぞれ作業をしていた。席を外しているのか、最初からいないのか、先生の姿はない。
 後ろの棚には八百屋さんのキュウリみたいに定番の、ギリシャ・ローマっぽい石膏像が並んでいた。同じ壁には生徒の描いた自画像がかけられている。大体はまじめな顔をしているけど、中には何故かアインシュタインの舌出しルックをまねしたものもあった。ユーモアがあるのか、度胸があるのか。
 教室を一通り見渡してみると、すぐに目あての人物は見つかった。真ん中あたりの席で、何かデッサン中みたいだ。いや、スケッチなのかな?
「失礼します」
 と一応、一声かけてから中に入る。そのあとの部員たちの反応は、いろいろだった。猫の群れのそばでも通るみたいに、顔だけ向けたり、全然そっぽを向いたままだったり。美術部だけあって、わりと自由なのかもしれない。
 何かの下絵を描く人、彫刻刀で木を削る人、粘土をこねる人、みんなそれぞれだった。粘土をこねている人は、泳ぐ魚を作っている。魚博士じゃないので、何の魚かまではわからなかったけど。
 目あての人物はというと、机の上に置いたリンゴを描いているところだった。スケッチブックを持って、鉛筆をすばやく走らせている。一心不乱に、という言葉を絵にしたみたいでもある。
 机の脇には鉛筆が何本か置かれていて、どれもちょっとした凶器みたいに芯の部分が削りだされていた。ほかには、消しゴム、黒っぽい粘土状のもの、ティッシュの箱が置かれている。何のためなのかよくわからないものもあるけど、もちろん全部絵を描くために必要なものなのだろう。
 集中しているところを邪魔するのは気がひけたけど、急いで迂回している暇はないので、このまま声をかけるしかない。
「失礼だけど、あなたが宇佐見奏子(うさみかなこ)さん?」
 と、先輩は音量小さめで口にした。
 その人は自動販売機にお金を入れて、ボタンを押して、缶が落ちてきた、くらいの段階を踏んでから、こっちのほうに顔を向けた。
 長くて、ちょっとぼってりした感じの髪をしていた。茶色いフレームの、どっちかというと地味な眼鏡をかけている。顔立ちに目立ったところはなくて、街で会っても素通りしてしまいそうな気がした。わりと勝手で一方的な印象としては、ゆっくりまっすぐ進んでいく亀みたいに、マイペースそうなところがある。
 宇佐見さんは、先輩とあたしのことをじっと見つめた。その視線は美術部員らしく、まず観察、という感じがしないでもない。
「――もしかして、あなたたちが美沢さんの言ってた人ですか?」
 まずは輪郭線を描くみたいにして、宇佐見さんは言った。
「ええ、そうよ」
 先輩はちょっとスケッチブックを確認してから言った。
「今、構わないかしら? デッサンの途中みたいだけど」
 宇佐見さんは持っていた鉛筆をぴょこぴょこさせ、スケッチブックと、それからリンゴのほうに視線を移動させた。何かを考えるときの、癖なのかもしれない。
「別にいいですよ。少し休憩したほうがいいかもしれないですし」
 そう言うと、宇佐見さんは鉛筆とスケッチブックを机の上に置いた。古くから続く伝統みたいな、どことなくこだわりのありそうな置きかただった。
 とりあえず、あたしたちは美術準備室に移ることにした。いくら自由だからといったって、人間には良心と節度というものがある。
 準備室には誰もいなくて、何だか埃っぽい感じの、誰もいないにおいがした。真ん中には大きめの机が置かれ、隅っこのほうには僻地に追いやられた敗軍の将みたいな格好で、イーゼルや額縁、その他細々したものが押し込められている。
 特に誰が言いだすでもなく、あたしたちは机の角付近に三人で座った。近くにはまだ未完成らしい絵が置かれていて、そこには四人の人物が夜の食堂だかバーにいる場面が描かれている。何だか世界の終わりを静かに過ごしているみたいな、不穏な感じがしないでもない絵だった。
「それ、私が描いたんです」
 あたしの視線に気づいたのか、宇佐見さんが言う。
「有名な絵を模写したものです。サイズはずいぶん違いますけど」
「ふむ」
 と、あたしはしばらくその絵を鑑賞してみた。絵心なんて薬にしたくもないような人間ではあるけど、その絵がとてもうまいことくらいはわかる。球種はわからなくても、ピッチャーの球が速いか遅いかくらいはわかるのと同じで。
「――これまで、美沢さんも含めて四人の話を聞いてきたわ」
 と、先輩はまず話しはじめた。
「だからあなたが最後の、五人目というわけね」
 宇佐見さんは給食を食べるのが遅くて最後まで残ったくらいの、少し困った表情を浮かべる。
「責任重大ですね、残りものには福がありますから」
 ――ちょっと、何を言っているのかはわからなかった。
 それから先輩は、あらためて質問をはじめる。
「肝試しについては、美沢さんから連絡があったのよね?」
「はい、けっこう急でしたけど、面白そうだったから参加しました」
 好奇心は猫を殺す、ということわざを、あたしは脈絡なく思い出していた。
 そこからの基本的な経過は、ほかの四人といっしょだった。四人のうちの誰かが、密かにアリバイ工作をしていたり、トリックの仕掛けを準備していたり、といったことはなさそうである。
「室くんと乙森くんは、トンネルで人影を見たと言ったそうだけど――」
 先輩はそのことについて質問した。
「あなたはどう思ったかしら、平気だった?」
「どうですかね……」
 宇佐見さんのその様子を見るかぎりでは、平気そうだった。
「幽霊なら見てみたかったし、怪しい人がいたら逃げればいいだけですし」
 その発言を聞くと、勇気と無謀が紙一重なわけが何となくわかる気がした。
「でも、実際には何も見なかった?」
「はい――」
 うなずいてから、宇佐見さんは正確な記憶を呼びだすためか、少し考えた。図書館の司書さんが、頼まれた本を書庫の奥まで探しに行くみたいに。
「トンネルの中に、特に変わった様子はなかったですね。ごみがいくらか落ちてましたけど、いつのものかはわかりませんでした。人がいる気配も、幽霊がいる気配もありません。ライトで隅々まで照らしてみましたけど、何も見つかりませんでした」
「……美沢さんの携帯も?」
「はい」
 もちろん、あるわけがない。宇佐見さんが犯人なら、別だけど。
「それからあなたは、みんなのところに戻った?」
 と先輩は訊いた。宇佐見さんはうなずいて続ける。
「最後だったので、火のついたロウソクも回収していきました。何度かトンネルを振り返ってみましたけど、やばそうな鬼がいっぱい追いかけてくるとかはなかったです」
 どうやらそのトンネルは、黄泉比良坂的なところじゃなかったみたいだ。
 そこからの話は、やっぱりほかの四人とたいした違いはなかった。電話はかかっても、音は聞こえない。あちこち探したけど、どこにも見つからない。
「何か、気づいたことや心あたりはないかしら?」
 先輩が訊くと、宇佐見さんは首を振った。主人の言いつけを守れなかった執事みたいに、申し訳なさそうに。
「そう――」
「あ、でも」
 急に何か思いついたらしくて、宇佐見さんは手を叩いた。
「動画ならありますよ」
「……動画?」
 美術部だけあって、宇佐見さんにはいろんなものの写真を撮る癖があるそうだ。それで肝試しの日も、せっかくだからと動画を撮影していたらしい。
「それ、見せてもらってもいいかしら?」
 と先輩が言うと、宇佐見さんは快く了承してくれた。
 宇佐見さんがカバンから持ってきた携帯は、実に美術的というか、あたしも知ってる絵がプリントされたものだった。画面いっぱいの金箔が印象的で、崖のそばで男女がよりそっている。宇佐見さん本人とは対照的なくらい、豪華な絵だった。作者の名前は忘れてしまったけれど。
「ええっと、これですね」
 宇佐見さんは携帯を操作して、その動画を再生した。先輩とあたしは、とりあえず確認する。
 その動画は、五人がトンネルの前に集まったあたりからはじまっていた。わりと性能のいいカメラなのか、思ったよりきれいに映っていた。とはいえ、夜中の山奥のことである。光が照らした範囲が辛うじて映っている感じだし、画質はやすりをかけたみたいにざらざらしている。
「これは、みんなも確認したのかしら?」
 と、先輩は訊ねた。
「はい、その場でと、帰ってからも。でも特に気づいたことはなかったですね。美沢さんが携帯を持ってたかどうかも、実はわからなくて」
 先輩は少し、考えるふうだった。あみだくじをたどっていくみたいに。それから、先輩は言った。
「この動画、もらってもいいかしら?」
「もちろんですけど……本当に何も映っていませんよ? 何度も確認しましたし。少なくとも、美沢さんの携帯らしきものは」
「かもしれないわね――」
 先輩は、そのことには期待していないみたいだった。
「でも、ほかのものなら映っているかもしれないわ」
「……?」
 宇佐見さんは首を傾げたけど、もちろん反対するようなことじゃない。花瓶を使って絵を描こうと、殺人事件を起こそうと、それはその人の自由だった――いや、自由じゃないか。
 ちょっと大きめの動画だったので、送信方法についていくつか問題があった。でもちょっとした試行錯誤の結果、一応は解決する。世の中が便利になっているのか、不便になっているのか、よくわからなくなるところではあった。
 動画の収穫が大きいか小さいかは、きちんとチェックするまでは不明だった。畑の野菜といっしょで、未来のことなんて誰にもわかりはしない。
 これでもう用事は済んだはずだったけど、先輩は最後にこんなことを訊いた。
「……宇佐見さんも含めて四人の中で、美沢さんのことを恨んでる人というのはいるかしら?」
 ともかちゃんの携帯を盗んだ人がいるとすれば、それはかなり直接的で重要な動機だった。もしもそんな人がいるなら、その人が犯人である可能性はぐっと高くなる。宝くじなんて目じゃないくらいに。
 もっとも、本人も含めてそれを訊くのはどうかと思うけど。
「そうですね――」
 宇佐見さんはけれど、そんなことはあまり気にしていないみたいだった。風でも雪でも折れない、柳の木みたいに。
「誰かが特別、美沢さんのことを恨んでたとは思えません。美沢さんはそんな人じゃないし。……でも、本当のところはわからないですよね? どんな人にだって、秘密はありますから」
 自分のことも含めるみたいにして、宇佐見さんは言った。

 先輩とあたしは、部室まで戻ってきた。
 部室は特に変わりもなく、特に疲れた様子もなかった。それはそうだ。部室は聞き込みなんてしていないし、今回のことで悩んだりもしていない。せいぜい、澄ました顔で扇風機をまわすくらいだ。
 窓の外はまだ、頑なに遊び続ける子供みたいに明るかった。ついでに暑さのほうも、まだがんばっている。
 あたしはそこまでがんばれないので、窓際のソファに座って休憩中だった。頭を働かせるには、体を休める必要だってあるのだ。その逆が真かはわからなかったけど。
「…………」
 結局、今日一日で四人全員の話を聞いたわけだけど、とりあえず犯人はわかっていなかった。そもそも、本当にこの四人の中に犯人がいるのかも。
 先輩のほうを見ると、テーブルのところで何やら作業中だった。どうやら、今までに取ってきたメモを整理しているみたいだ。意外とタフなところが、先輩にはある。
 対するあたしはといえば、そんな元気なんてどこにもなかった。元気どころか、そもそもメモさえ取っていない。名探偵への道は、詩人と同じくらい険しそうだった。
「やっぱり、あの四人のうちの誰かが犯人なんでしょうか?」
 と、あたしは訊いてみた。訊いてから、その質問が最初の時からまるで変わっていないことに気づく。太っちょのあのバスケ部顧問の先生が聞いたら、何と言うことか。
「可能性だけなら、高まったと言えるかもしれないわね」
 先輩は、メモとノートを確認しながら答えた。名探偵と爆発物処理班には、これくらいの慎重さが求められるのかもしれない。
「……もっとも、完全な証拠となると難しいかもしれないけれど。盗まれた携帯そのものは、とっくに安全な場所に隠されているでしょうし」
「だったら、動機から犯人を特定できませんか?」
 あたしはコペルニクス的転回を狙ってみた。
 でも先輩は、あっさりと天体の動きを停めてしまう。
「今までに聞いた話で、誰に美沢さんの携帯を盗む動機があったかしら?」
「……誰かには、あったんじゃないですか」
 どうやら、あたしの往生際は相当に悪いらしい。
 ところが先輩は、何故だか一瞬黙り込んでしまった。信号機の色が変わる瞬間に、少しだけ間があくみたいに。
「先輩?」
 と、あたしは猫の尾を踏むくらいには、恐るおそる声をかけてみた。
「――そう、問題なのはむしろ、動機なのかもしれない」
 先輩は恐竜が蚊に刺されたくらいにも気にした様子はなく、独り言みたいに言う。
「犯人は何故、何のために美沢さんの携帯が必要だったのか。恨みや仕返しだったとは思えない。それより、もっと別の――」
「もっと別の……何ですか?」
 あたしが訊くと、先輩は読んでいた本をぱたっと閉じるみたいにして言った。
「さあ、見当もつかないわね。もちろん、想像してみようと思えば、いくらだって想像はできる。たまたま美沢さんの携帯に何か重要な情報が入っていた、何かの拍子に美沢さんの携帯にまずい証拠が残ってしまった、第三者に何らかの理由で頼まれた、あるいは思わぬ恨みを買っていた。何だっていいなら、犯人は宇宙人に操られていて自分のしたことがわかっていない、とか――何でも仮定していいっていうのは、何も言っていないのと同じことになってしまう」
「そうですね、オッカムさんも余計な説明は加えるなって忠告してますし」
「ちなみに、正確にはオッカムは名前じゃなくて、出身地のことよ」
「え?」
 初耳だった。
「ともかく、今のところ動機を解明するのは難しいでしょうね。だから問題は、犯人がどうやってあの状況で携帯を隠せたのか、その方法ということになるわ」
 例の、電話はかかったけど音は鳴らなかった。でも誰かによって電源は切られた、というやつだった。
「着信音がすごく小さくて、聞こえなかった、とかはありませんか?」
 下手な鉄砲を数撃つつもりで、あたしは言ってみた。
「美沢さんによれば、十分な音量はあったそうよ。静かな山奥の、しかもあの状況で、音が聞きとれなかったというのは考えにくいでしょうね」
「じゃあ、犯人は土の中とか、音の漏れにくい場所にこっそり隠したとか」
「五人ともずっといっしょだったことはお互いが証言をしている。離れたのは唯一トンネルの中だけど、石ころだらけだったみたいだし、音のしないように隠すのは難しかったんじゃないかしら」
「やっぱり、携帯を拾ったときに設定を変えたんじゃ」
「携帯にはロックがかかっていたことは、美沢さんが証言している。そしてロック中はボタン操作による音量調節はできない。解除コードについては、誰も知らないはずだそうよ」
「……犯人は携帯を飲み込んだんじゃ?」
「蛇ならできるかもしれないけれど」
 先輩は、習慣的に眼鏡をかけようとしてみたものの、それが必要なかったことに気づいたみたいな顔をする。
「あのサイズのものを人間が飲み込むのは難しいでしょうね。それに飲み込んだとしても、音は聞こえるかもしれない――実際にやってみないことには、わからないけど」
「ですね」
 ちなみに、あたしはそんな実証実験に参加するつもりはなかった。
「……やっぱり、幽霊が持っていったんですかね?」
 あたしはさっそく、剃刀を放棄してみた。
「何にせよ、宇佐見さんからもらった動画を調べてみることね。もしかしたら、それに決定的な証拠が映っているかもしれないわ」
 決定的に幽霊が映ってなければいいのだけど、とあたしはいらぬ心配をしていた。

 個人情報に関することなので描写はしないけれど、あたしは自分の部屋にいた。
 宿題だの食事だのお風呂やらはすませてしまって、宇佐見さんが撮影したという肝試しの動画を見ているところだ。携帯では何なので、パソコンを使っている。
 先輩にもらったメモと首っぴきでいろいろやっていたら、ちゃんと再生することができた。現代文明、恐るべし。
 宇佐見さんの言うとおり、その動画は五人がトンネルの前に集まったあたりから始まっていた。画面が大きくなっても画質がよくなるわけじゃなかったけど、このほうが見やすくなるのは確かだ。
 時間は全部で一時間くらいあって、五人が一縷の望みを託すみたいにして動画を確認するところで、撮影は終わっていた。あたり前だけど、録画と再生を同時にこなすことなんてできないのだ。でないと、それこそ怪談話になってしまう。
 けっこう長いので、あたしは短く飛ばしながら要所要所を確認してみた。それぞれがトンネルを出発したときと、帰ってきたとき。および、その前後なんかを。
 大体のところはそれまでに聞いた話と同じで、特に気がつくようなことはなかった。少なくとも、映画原作とノベライズ作品が同じ程度には。案外、百聞も一見もたいした違いはないのかもしれない。
 宇佐見さんの番では、当然だけどトンネルの内部が撮られていた。念のために詳しく調べてみたけど、レールと石ころと古い空き缶なんかが映っているだけで、携帯らしきものは影も形もない。幸いなことに、幽霊らしきものも影も形もない――幽霊に影や形があれば、なのだけど。
 今のところ、携帯の行方を知るためのヒントになりそうな場面はなかった。もっと綿密に画像解析をすれば、わかることはあるのかもしれないけど、そんなスキルも根気もない。
 動画の持ち腐れではあったけど、あたしは肝心の携帯をなくした場面をチェックしてみることにした。決定的な証拠があるとすれば、やっぱりここだろうから。
 画面の中ではちょうど、ともかちゃんが落し物に気づいたところだった。あたり前だけど、ともかちゃんは半狂乱気味だった。巨大隕石が地球に迫っているほどじゃないにせよ、橋の上を歩いていたら列車がやって来た、くらいには。
 混乱した現場では、まとまらない話し声や、みんなが持っていたライトの光があちこちを飛びかった。暗闇の中で、それぞれの姿が急に現れたり消えたりする。音のない雷鳴にでも襲われたみたいに。
 やがて、コージ君が電話をかける。静まり返ったその場所で、でも聞こえるのはコール音だけだった。ほかには何も聞こえたりしない。
 五人はトンネルに向かって、同じようにあちこちを探しはじめた。光が暗闇に穴をあけて、暗闇はすぐにそれを埋めてしまう。あたしも注意してみたけど、携帯らしきものはどこにも見あたらない。
 今度はトラ君が電話をかける。一応、つながったみたいだけど、さっきと同じでコール音のほかには何も聞こえなかった。底なしの井戸に小石を放り込んだら、こんな感じかもしれない。
 その後もかなりの時間、五人はそうやって携帯を探し続けたけど、携帯も、携帯があった痕跡も、何も見つけることはできなかった。もしかしたら、誰かが間違って、底なしの井戸にでも放り込んでしまったのかもしれない。
 最後に五人が動画を確認するところで、撮影は終了。画面は停止したまま、それ以上は何も教えてはくれなかった。
「――――」
 あたしはまあまあの深さと長さの、ため息をついた。確かに宇佐見さんの言うとおりで、そこには何も映っているようには思えなかった。先輩が探しているような決定的な証拠は、何も。
 現場で音が聞こえなかった以上、携帯はその場になかった、と考えるのが自然だった。ポケットに入れたくらいで聞こえなくなるものじゃないし、夜中でもみんな薄着だから、それはますます難しい。密閉性の高い容器――なんて誰も持っていないし、そもそもそんなもの持ってくるはずがなかった。ともかちゃんが携帯を落としたのは、あくまで偶然なのだ。
 ともかちゃんの証言が正しければ、携帯をミュート状態にするのも不可能だった。技術的なことはよくわからないけれど、ロック画面中にその操作はできないようになっているらしいのだ。犯人は通常の方法では、携帯の電話が鳴らないようにすることはできなかった。
 じゃあ、携帯はどこかの気まぐれなおむすびみたいに、自分から深い穴にでも落ちてしまったのかというと、そうじゃない。ともかちゃんが帰宅した時点では、携帯の電源は切られていたからだ。電池切れの線は考えにくいから、これは誰かが電源を切ったと考えるべきだった。
 あたしはそこまで状況を整理して、ため息をついた。よくわからない哲学的命題でも前にしたみたいに。AはBであり、AはBではない。故にAが存在することは不可能である。
 そもそも、犯人は盗んだ携帯をどうするつもりだったのだろう。ロックがかかっている以上、中身を見ることも、操作することもできない。そんなものは文鎮くらいにしか用のない、ただの金属の塊だった。
「――犯人はやっぱり、幽霊なのかもしれない」
 と、あたしは誰にともなくつぶやいてみた。憐れ、携帯の運命やいかに。

 翌日の放課後、あたしはいつものごとく部室に向かった。古い時代の暴君みたいに、夏はまだまだ我がもの顔で、やっぱり暑い。早く革命が起きないものか。
 部屋のドアを開けると、先輩はまだ来ていなかった。いつもは大抵そこにいるので、何だか部屋がからっぽになってしまった感じである。
 あたしはカバンを置いて、机のところに座った。携帯を取りだして、例の動画をもう一度見直す。本当は今日も部活動の日なのだけど、それどころじゃない。
 ところ変われば品が変わって、品が変われば脳みそも変わるかと思ったけど、新しい発見みたいなものはなかった。新しい発見はない、という発見をしただけである。
 あたしがため息をついて、ない知恵をしぼるという拷問に勤しんでいると、ドアが開いて先輩が姿を見せていた。先輩の様子はいつもと同じで、拷問の跡も見られなかった。
「先輩は、動画見ましたか?」
 挨拶もそこそこに、あたしはさっそく訊いてみた。
「ええ、見たわ」
「やっぱり、変わったことはなかったですよね。変なものが映ってる、なんてこともなかったですし」
「いいえ、映ってたわよ」
 何とかといっしょで急には停まれないまま、あたしは訊いていた。
「……幽霊が、ですか?」
 猫が猫じゃらしに飛びつくみたいに、人は間違いだとわかっていても、それをしてしまう習性を持っているものだった。
「それはそれで興味深いけど、映っていたのは決定的な証拠のほうね」
 先輩は猫と遊ぶつもりはないみたいで、あっさりと訂正してしまう。
「――本当に映ってましたか?」
 あたしは何故か、意地悪な継母みたいにして訊いた。
「ええ」
「それはやっぱり、なくした携帯を探しているところに?」
「いいえ、そこじゃないわね」
 と先輩は、いつも暖炉のそばにいる継子みたいに丁寧に答えた。
「そもそも、携帯をなくしたのはそのずっと前のことよ。四人のうちの誰かがそれを拾ったのも――」
 先輩はちょっと、聞き捨てのならない発言をした。
「じゃあ、犯人はやっぱりあの四人の中にいるってことですか?」
「証拠のすべてを勘案するかぎりでは、そうとしか言えないわね」
「一体、誰なんですか?」
 あたしが訊くと、でも先輩はそれには答えなかった。ハレー彗星がいつも地球なんて無視して、すぐそばを通りすぎてしまうみたいに。
「それより、問題は動機のほうね」
 と、先輩は言った。
「……はあ」
「だから、これからいっしょに来てもらえるかしら」
「……はい?」
 あたしの疑問と戸惑いはやっぱり無視して、先輩は言った。
「――犯人と、会うために」

 視聴覚室は、北棟一階の奥のほうにある特別教室だった。あまり使われることはないけど、映像、音響、スライド写真なんかを利用した授業を行うための場所だ――念のために言っておくと。
 それなりの広さがあってすり鉢状になっているから、ちょっとした映画館か劇場みたいにも見える。もっとも、そこから表面部分をごっそり削りとった、くらいの無骨さではあったけど。
 普段の放課後では演劇部や英語部が使ったりするけれど、今日は何の予定もないらしく、無人だった。誰もいないからっぽの教室は、広々しているというより、風景としては死んでいる、という感じでもある。
 そんな視聴覚室には先輩とあたしと、それからもう一人の人物がいた。
 ――藤野さんだ。
 彼女は床に固定された机とイスの、最前列真ん中に座っていた。その手前にある教壇のところには、先輩がいる。あたしは三列並んだ机の右側左端、藤野さんからは少し離れたところに座っていた。
 藤野さんは制服姿のままで、荷物は持っていなかった。今日の朝に先輩から呼びだされて、部活はお休みにしてここにやって来たそうだ。
 教室の使用許可は先輩がとっていて(どうやったのかは知らないけど)、贅沢にエアコンもつけられていた。このひんやりした空気を三人だけで味わうのはいささか背徳感のある行為だったけど、もちろん涼しいにこしたことはない。
 あたしたちはそれぞれの位置について、でもこれから何が起きるのかを知っているのは、先輩だけだった。その先輩は、藤野さんに向かってまず言った。
「あなたが携帯を拾った犯人ということでいいのよね、藤野さん」
「…………」
 藤野さんは黙っていた。でもそれは、相手にドライブを決められておたついているというより、冷静にその動きを見極めている、という感じだった。
「面白いね」
 と、藤野さんは笑った。たぶん、不敵に。
「もちろん説明はしてくれるんだよね、名探偵さん。犯人は勝手に自白しないものだって、決まってるんだよ」
「ええ、そのつもりよ……ところで、緊張してるかしら?」
 先輩が言うと、藤野さんは鼻で笑った。
「何で、そう思うわけ?」
「緊張してるようには見えないから、ね」
 今度は、藤野さんは黙った。先輩はその隙間を指で広げるみたいにして言う。
「最初に質問したときから、そうだったわ。あなただけが、何故か自信ありげだった。心配するでも、不安そうでもなく。ほかの人たちはみんな、戸惑いが強かったり、その時のことを何とか思い出そうとしていたのに」
「…………」
「そう、あなたはまるでなくなったはずの携帯がどこにあるのか、本当は知っているみたいだった」
 先輩の言葉に、藤野さんは再び笑った。PFはタフな役回りが求められるポジションなのだ。
「下手な揺さぶりなら無駄だよ。私はそれくらいのことで、自分がやったなんて認めるつもりはないから」
「――でしょうね」
 先輩は舞台役者というよりは、科学者が講義でもするみたいに言う。
「だからこれから、すべて説明していくわ。どうして、あなたが犯人なのかを」
 藤野さんは何も言わず、もちろんあたしも口を挟まなかった。教室のエアコンだけが、忠実な老執事みたいに静かに仕事を続けている。
「問題は、方法だった」
 と、先輩は言った。
「美沢さんの話によれば、携帯にはロックがかかっていて、ミュート状態にはできない。でも現場では、電話はかかっても音は鳴らなかった。前提条件を考えれば、携帯は現場にはなかった、と結論するのが正しい。つまり、その場にいた全員にアリバイが成立する」
 ここまでは、今までも散々議論してきたことだった。
「でも状況的に考えれば、四人のうちの誰かが携帯を拾った可能性は高い。深夜、山奥の廃トンネルで、たまたま誰かがいて、たまたまその誰かが携帯を拾った、という可能性に比べれば。なら、こう考えるのが正しい――前提条件のどれかが間違っているんだ、と」
「でも、どうやったんですか? 携帯の操作はできなかったはずですよ」
 あたしは律儀に挙手をして発言した。何となく、そういう雰囲気だったので。
「……これはあくまで、推測ということでしかないのだけど」
 と先輩は前置きして言った。
「美沢さんの話によれば、それはお兄さんが組んだマクロによるものだということだった。そしてそのマクロは、別の目的のついでにつけられたものだ、と」
「ところで、マクロって何ですか?」
 またまた挙手して、あたしは訊いた。
「正確に説明するのは難しいけど、要するにソフトウェアを直接プログラミングするのではなく、ソフトウェアそのものを操作するプログラム、というところね。簡単な動作や挙動は、これによって制御できる。あるいは、制御することそのものをマクロと呼んでいる」
「――なるほど」
 わからん。
「とにかく、これを使えば携帯の細かな管理ができるようになる。ある条件を満たした場合に、特定の動作を行うようにしたり、ね。……では、美沢さんが本来の目的に組んでもらったマクロは、どんなものだったのか? 彼女は、音楽をよく聞くという話だったわ」
 そういえば、そんなことを言っていたはずだった。先輩がわざわざ、確認していたっけ。
「携帯で音楽を聞くときは、イヤホンを使うことが多いでしょうね。その時、音楽を集中して聞きたければ、再生を中断されないように着信音や通知音は一時的に停止しておきたいところね」
「――なるほど」
 これは、わかる。
「イヤホンが有線か無線かはわからないにしろ、接続時に音量の設定を変えることは可能よ。わたしも実際に試してみたけど、それはちゃんと機能した。ロック中の状態でも、イヤホンを接続さえすれば音は鳴らなくなった。もっとも、美沢さんのとはマクロを組むアプリまでいっしょかどうかはわからないけれど」
「つまり、イヤホンさえあれば、ロックがかかっててもミュート状態にするのは可能だった、ってことですか?」
「あくまで推測でしかないけど、そういうことね。そして美沢さんと仲のよい藤野さんなら、そのことを知っていた可能性は十分に高い」
 これで万事解決、と言いたいところだけど、あたしはふとした疑問を抱いた。
「……でも、肝試しに行くのに、わざわざ音楽用のイヤホンなんて持っていきますかね?」
 あたしがそう言うと、先輩は雷に打たれるほどじゃないにしろ、弱めの静電気が走ったくらいには意外そうな顔をした。
「ええ、その通りよ。わたしもそこは疑問だった」
 あたしの脳みそもまんざらじゃないらしい、とあたしは自画自賛した。もっとも、そこから先のことなんて何もわからなかったけど。
「集まったうち、四人は手ぶらだった(美沢さんは、ロウソクやライターを入れた小さなポーチを持っていたにしろ)。携帯以外には、持ってきたものはない」
「それは、そうですよね」
「でも、藤野さんの携帯を見たときにわかったわ」
「えっと――」
 その時のことを、あたしは思い出してみた。藤野さんに話を聞いたとき、最後に見せてもらった携帯のことだ。どっちかというと男の子っぽい、尖った感じのデザインだったけど。
「調べて確認もしてみたけれど、藤野さんの携帯についていたギミック――回転盤みたいなものは、イヤホンのコードを巻きとるためのものなのよ」
 言われてみると、そうかもしれない。
「……えと、でも、イヤホンなんてついてなかったですよね?」
 もしもそうだったら、覚えているはずだ。
「それは、彼女が直前に外してしまったからよ」
 なるほど、と言いたいところだけどそうはいかない。
「外すならイヤホンだけじゃなくて、カバーごとでよかったんじゃ……」
「それは、外せなかったから、でしょうね」
 先輩はそう言って、さらに説明を加える。
「スマホカバーは、本体に密着するように出来ている――まあ、当然なのだけど。でも場合によっては、固くくっつきすぎて外しにくくなってしまうことがある。あの日、藤野さんは当日の朝にわたしたちのことを知らされた。美沢さんとは、朝練で顔をあわせるから。話をするよう頼まれて、でもわたしたちとの面会を断わるのは難しいでしょうし、かといって放っておくわけにもいかない」
 そんなことをしたら、逆に犯人だと疑われてしまうから――
「彼女は急いで、面会時間までにイヤホンを何とかする必要があった。それは念のためにではあるのだけど、イヤホン自体は物証としては有力でもある。少なくとも、犯人だと推定することは可能になってしまう。そこで、彼女はカバーを外してしまおうとした。証拠さえなければ、何とでもなるのだから。でも前述のような理由で、それができなかった。だから彼女は次善策として、イヤホンだけを外すことにした。まあ、苦肉の策というべきかしら。そうすれば気づかれないだろうし、イヤホンを持っていたことの証明にもならない」
 確かに、あのスマホカバーだけを見てイヤホンのことを考えるのは難しかった。実例がここに一人いるのだから、間違いない。
「何にせよ、これで話の筋は通るわね。イヤホンを使えば、着信音は消すことができた。あの時イヤホンを持っていたのは、おそらく藤野さん以外にはいない――」
 言われて、でも藤野さんは肩をすくめてみせる。
「全部憶測でしょ、それ?」
 たぶんそれは虚勢だったけど、空元気も元気のうち、と誰かが言ってたっけ。
「そうね、そのことに関しては確かに」
 対して先輩は、自分のペースを変えたりはしない。ゴールまでの距離と時間を完全に把握してる、マラソンランナーみたいに。
「でもこれから見せるものをみれば、そうも言っていられなくなるでしょうね」
 先輩はそう言ってから、スクリーンを降ろしたり、機器を操作したりして、準備をはじめた。もちろん、最初からそのつもりでこの教室を選んだのだろう。決して、広々した空間でひんやりした空気を味わうためなんかじゃなく。
「映像が見やすいように、電気は消しておくわ」
 言葉通りにスイッチが切られると、室内はカレーかシチューくらいのとろんとした暗闇に覆われる。カーテンの隙間から少し光が漏れているので、一寸先程度なら十分見ることができた。
 先輩は何か(たぶん、備えつけのパソコン)を操作して、プロジェクターを作動させる。前面のスクリーンに光があたって、映像がうつしだされた。室内も、その分だけ少し明るくなる。
「これは、宇佐見さんが撮影していた動画よ」
 と、先輩はまず告げる。実際、あたしも見たことのある映像が、そこには流れていた。
「これなら、みんなも見たよ」
 藤野さんは退屈した王子様みたいに言った。
「誰も、何も気づかなかったって言ってる」
 それは、あたしも含めて。
「普通なら、そうでしょうね」
 先輩は特に異論も唱えずに言った。動画の音声は小さく抑えられているので、喫茶店のBGMくらいにも邪魔にならない。
「でもある点に注意してみれば、気づくはずよ――ところで、さっきのイヤホンのことで、もう一つ指摘しておくことがあるわ」
 イヤホンを接続すると着信音が鳴らなくなる、というやつだ。
「携帯の仕様上、着信音をゼロにすると、代わりにバイブレーションが作動するようになっている。これは、マクロでは変更不可能よ。つまり、いくら着信音をなくせたからといって、完全な無音になるわけじゃない。携帯の振動音は残ってしまう」
「…………」
「山奥のトンネルで、みんなが耳を澄ませて携帯の音を探っている状態だった。着信音ほどじゃないにせよ、バイブレーションだってそれなりの音を出すわ。だから藤野さんは、それを何とかする必要があった。できるだけ、振動を抑える必要が」
「でも、どうやってですか?」
 あたしはまた、律儀に挙手をして訊ねた。親しき仲にも礼儀はある。
「――それについては、この動画の中に答えがあるわ」
 と先輩は言って、スクリーンのほうに顔を向けた。
「……?」
 とはいえ、それはどう見てもあたしが念入りに確認したのと同じ映像だった。つけ加えられたところも、差しひかれたところもない。あたり前だけれど。
「この映像を、よく覚えておいて」
 先輩は再生位置をある時点まで移動させた。それはちょうど、藤野さんがトンネルに向かうところで、全身が映っている。シャツにジーンズ、スニーカーという、けっこうラフな格好だった。
「それから、次にこの映像を――」
 今度は、藤野さんがトンネルから戻ってくるところだった。怖がるでも、顔を青くするでもなく、平気そうな顔をしている。今と、同じくらい。
「さて、わかったかしら」
 と、先輩は言う。
「――?」
 あたしはきょとんとした。映っているのはどっちも藤野さんで、何の違いもない。実は幽霊に取り憑かれて、中身だけ変わっている、というのでもないかぎりは。
「もう一度、よく見て」
 先輩は画面を一時停止して、さっきと同じことを繰り返した。藤野さんがトンネルに入る前と、入ったあと――Before/After。
 当然だけど、この中でまだわかっていないのはあたしだけのはずだった。早抜けクイズで最後まで残されたみたいな、ちょっとみじめな気分である。とはいえ、わからないものはわからないのだから仕方がない。
「……一体、何が違うっていうんですか?」
 あたしはできるだけよく見えるように白旗を上げた。
「彼女の足元に注意して――」
 同じ操作をしながら、先輩は言った。
「ほら、靴下を履いてないでしょ」
 言われて、確かにあたしも気がついた。トンネルに行く前に履いていた靴下が、戻ってくるときにはなくなっている。そこにだけ注意してみると、ジーンズの裾からは素足がのぞいているのがわかった。
「振動を抑えるのに都合がいいのは、何か柔らかいもので包むことよ」
 と、先輩は解説した。
「藤野さんはトンネルの中で、美沢さんの携帯が落ちているのを見つけた。イヤホンのことを知っていた彼女は、自分の持っているそれで着信音が消せることに気づく。あと問題なのは、バイブレーションの振動音ね。そこまで大きくないとはいえ、放っておくのは危険だった。そこで、音を抑えることを考える。タオルとか、何か柔らかいもので包んでしまうことを。でもこの場合、そんな適当なものはどこにもない。まわりにあるのは、石ころやごみだけ。でもそこで、ふと気づく。靴下なら、誰にも気づかれないかもしれない。何かの映画じゃないにしろ、人は普段、相手の足元になんて注意しないものだから――」
「…………」
「そして実際に、それは成功した。二枚の靴下に包まれた携帯は、誰にも気づかれることはなかった。もちろん、彼女がいつのまにか靴下を脱いでしまっていたことも。あとは、美沢さんが位置情報を調べる前に、携帯の電源を切ってしまえばいい。これで無事にアリバイは成立して、犯人だと疑われることもなく、携帯は行方不明のままになる」
 藤野さんは黙っていた。一寸よりずっと先にあるその横顔は、はっきりとはうかがうことができないでいる。
「もちろん、全部はわたしの憶測でしかない」
 と、先輩は言った。お医者さんが、手術の結果を家族に告げるときみたいに。
「でも、この映像にうつっていることは事実よ。今、わたしが話した以上に説得力のある理由を、あなたは説明できるかしら」
 それから先輩は、夜の暗闇に小石を投げ込んだくらいの静かな声で言う。
「――藤野さん、あなたが美沢さんの携帯を盗んだ犯人ね?」
 すると、藤野さんはこくりとうなずいた。

 スイッチが入れられると、教室に明かりが戻ってきた。蛍光灯の光はまだその場に馴じめないみたいな、ちょっとよそよそしい感じがしている。
 そんな中で、藤野さんは言った。
「――それで、どうするつもりなの? 私をともかのところに突きだす?」
 彼女は、手負いの獣に似た荒々しさだった。
「……わたしが知りたいのは、動機よ」
 先輩はいつものごとく、鳴かない鳥みたいに静々している。
「美沢さんは、まだ何も知らないでしょうね。マクロのことも、イヤホンのことも、本人には確認をとっていないから。でもあなたの動機次第では、本人に教えるかもしれないし、教えないかもしれない」
 それから、藤野さんは黙っていた。彼女が何を考えているかなんて、もちろんあたしにはわからなかった。でもそこには、音のない雷鳴や、形のない暴風雨が起こっていることくらいはわかる。
 長いながい時間のあとで、藤野さんは言った。
「――小学校時代、私はクラスに馴じめなかった」
 藤野さんの声に悲壮感や昂揚感はなくて、ただただ静かである。
「それは、あることをきっかけにしてたんだ――私が女の子を好きだって言ったことで」
 ……ふむ?
 戸惑うあたしと違って、先輩の対応はすばやくて自然だった。
「つまり、同性愛者ということね」
「まあ、そういうこと」
 藤野さんは笑ってみせる。いくらか傷の入った笑顔ではあったけど。
「当時は、私も何とも思ってなかった。だって、こんなにはっきり誰かを好きなのに、それがおかしいはずはない、って」
「…………」
「でも段々、それが普通じゃないんだってわかるようになってきた。まあ、わからされたと言ったほうがいいんだけど。結局、小学校ではもうほとんど孤立してて、友達も味方もどこにもいなかった」
 幽霊なんかより、人間のほうが怖い――
「中学にあがっても、それは似たようなものだった。私は誰かと仲よくしたり、人を信じたりなんてできなかった。本当のことって何なのか、わからなくなってた」
 そこで、ふと気づいたみたいに先輩は言う。
「……美沢さんと出会ったのは、その頃のことね?」
 藤野さんはうなずく。少しだけ、嬉しそうに。
「ともかは私の作った壁を、あっさり越えてきた。私自身、そんな壁のことなんて忘れてしまうくらいに。いっしょにバスケをやろう、って言うんだ。私たち、きっといいチームになるからって――」
「美沢さんは、あなたのことを親友だと思っている。でも、あなたは……」
 先輩の問いに、藤野さんは即答した。
「うん、好きだよ」
 言って、藤野さんはその言葉の重さと強さを確認するみたいな顔をする。
「そのことを、ともかは知らない。もしもともかに言ったとして、それでどうなるかはわからない。拒絶されるかもしれないし、ただ容認されるだけかもしれないし、あるいは――」
 藤野さんはでも、自分の言葉を打ち消すみたいに首を振った。
「私には、わからない。今の関係を壊すのは怖いし、今のままでいることも苦しい。ともかに近づけば近づくほど、遠くなっていく気がして」
 藤野さんは泣いているみたいな、笑っているみたいな、とても複雑な表情をした。雨降りとお天気が、いっしょに起きたみたいな。
「……でも、どうして美沢さんの携帯を?」
 と、先輩は訊いた。
「魔が差した、のかな。ともかの近くにいられないなら、せめて別の方法で近くにいたかった」
「代償行為、というところかしら?」
「まあ、そんな感じなのかな」
 そう言って、藤野さんは笑う。前よりちょっと、小降りになったみたいだ。
「何か、よすがが欲しかったんだ。ともかに対する気持ちを処理するための。自分の心をまとめておくための。だって、そうじゃなきゃあんまりでしょ。私はこんなにも確かに、彼女のことが好きなのに――?」

 藤野さんにはいったん帰ってもらって、その場所には先輩とあたしだけが残っていた。教室からは一人いなくなっただけなのに、世界の目方はずいぶん減ってしまったように感じられる。
「ちょっと、意外な展開でしたね」
 と、あたしは言ってみた。手持ち無沙汰の子供が、小石を蹴るみたいに。
「……そうね。でも彼女にとっては、敬虔な信者が神の証を求めるようなことだったのかもしれない」
「神の証、ですか?」
 何だか荘厳な話だった。
「人はどうしたって、何かを強く求めずにはいられないときがある」
 でも、先輩は真剣だった。
「誰かをとても愛していて、でもそれを伝えることも、認めることもできないとしたら。自分の行為が、それを壊してしまうとしたら。そうしたら、その人は一体どうしたらいい? すべてを諦めて、なかったことにしてしまう? 何もかもに蓋をして、すべてを忘れてしまう? まるで、この世界が夢でしかなかったみたいに」
 あたしはある日目覚めてみたら、すべてが夢だったところを想像してみた。家も学校も友達も、先輩も――何もかもワープロのデリートキーを押したみたいに消えてしまう。
 それはかなり、というか、ものすごく悲しいことだった。
「だとしたら、せめてその秘密を抱え込んでしまいたい。光を両手で包んで、少しも漏らさないようにするみたいに。そのためには、好きな人のせめて一部だけでも、自分のものにしておきたい――」
 先輩はそう言って、口を閉ざした。砂時計の砂が、全部落ちてしまったみたいに。
「これから、どうしますか?」
 と、あたしは訊いてみた。どうしていいのかも、どうしたいのかも、まるでわからなかったけど。
「そうね、美沢さんに本当のことを告げて携帯を返すかどうかは……ある意味、わたしたち次第ということになる」
「ふむ」
 とあたしは腕組みをした。
「何だか、あたしたち神様みたいですね」
 その何気ない言葉がどう巡りめぐったのかはわからないけど、先輩は急に黙り込んでしまった。冷たい金属ほどじゃないにせよ、きれいなガラスくらいには。
 やがて、先輩は言った。
「……世界なんて結局のところは、気の利かない神様のお節介みたいなものなのかもしれないわね」
「え?」
 どちらかというと独り言に近いその言葉を、あたしはちゃんと聞きとれたかどうか自信がなかった。でも先輩は埃を一吹きするみたいに、そんなことはもう忘れてしまったみたいである。
「さて、それじゃあ行きましょうか」
 と先輩は言った。
「……行くって、どこにですか?」
 あたしはきょとんとしてしまった。でも先輩はバラの木にはバラの花が咲く、くらいのわかりきったことみたいに言う。
「新しい証拠を探しに、よ」

 空の上では今日も、太陽はむやみに元気な子供みたいに、やる気でいっぱいだった。朝晩の肌寒さなんて、「何それ?」というところである。季節はまだまだ夏を終わらせるつもりはないらしい。
 先輩とあたしは、自転車に乗って移動しているところだった。目的地は、例の五人が向かった、山奥の廃トンネル。
 といって、肝試しに行くわけじゃない。いくらあたしだって(先輩はともかく)、昼の日中(ひなか)に肝試しに行くほど酔狂な人間じゃない。――これには、ちゃんとした目的があるのだった。
 自転車を走らせていると、風がちょうど気持ちいいくらいだった。重さのない透明な水にでも手をひたしているみたいで、格好の自転車日和というところである。これがただのサイクリングならそれでもよかったのだけど、残念ながらそういうわけじゃない。
 平地が終わって山道に入ってからも、サイクリングは順調だった。あたしはこれでも体育会系を自認しているのだけど、先輩も意外と体力はあるみたいだった。拳闘やヴァイオリンまでできるのかどうかはわからないにしろ。
 まあ、山道といってもそこまで急な坂道というわけじゃない。木陰の涼しさとカロリー消費の割合は、一対一というところだった。何といっても、ヒマラヤの奥地に向かっているわけじゃないのだから。
 やがて聞いたとおりの場所までやって来ると、あたしたちは自転車をとめた。舗道の脇にガードレールの途切れたところがあって、確かにそこから道が続いている。薮草がけっこう生い茂ってるけど、道という概念は辛うじて保っている、という感じだった。
「ここで、間違いなさそうね」
 と先輩は言った。あたしも念のために携帯の地図で確認してみるけど、間違いない。
 盗られる心配はなさそうだけど、精神衛生のために鍵をかけてから、先輩とあたしはその脇道に向かった。持ってきた荷物は、あたしがポシェットに入れて運んでいく。先輩はバケツと、水の入ったペットボトルを手に持った。
 草ぼうぼうの道を歩いていると、地面はしっかりしているにしろ、なかなかの難儀だった。ここはぜひとも先輩みたいに長ズボンで来るべきだったな、とあたしはこっそり後悔する。
 とはいえ、道はほとんど森の中という感じで、灰色のコンクリートなんていう殺風景で人間的すぎるものはどこにもない。空気を胸いっぱいに吸うと、体の中がきれいに掃除されていくみたいだった。
「先輩は、この豊かな森から降りそそぐ、神経を鎮めてくれるありがたい物質の名前を知ってますか?」
 あたしは歩きながら訊いてみた。でも、先輩はあっさりと答えている。
「フィトンチッドでしょ」
「……人が自慢する機会を奪わないでください」
 森の癒し効果も半減である。
 道なりに進んでいくと、やがて古びたレールだけが残ったところまでやって来た。ほとんど自然の中に埋もれてしまっているけど、レールのほうでは案外満足そうにも見える。
 その道をさらに進んでいくと、件の廃トンネルが姿を現した。
 かなり本格的というか、しっかりしたトンネルで、目立った亀裂とか破損みたいなものはない。人間的にコンクリートで造られてもいた。思ったより大きくて、象くらいなら楽に通れそうである。サーカス団や動物園から逃げだした象には朗報かもしれない。
 ただ、うん、さすがに心霊スポットになるだけあって、かなり不気味である。世界に穴があいたみたいな暗闇が、ぽっかり口を開けていた。パリコレなみのオーラである。これなら、あの世につながっていたっておかしくない。
 昼の光の下でこれなのだから、夜の闇の上で見たら、怖さは百倍増しくらいかもしれなかった。トラ君のこともバカにはできそうにない。
「これは、かなりやばいですね――」
 と、あたしは妖怪アンテナを反応させてみせた。でも先輩は、
「何でもいいから、さっさと行くわよ」
 とあっさりめのラーメンなんて目じゃないくらい、あっさりしている。この合理主義者め。
 トンネルの中に入ると(あたしだけ少しびくびくしながら)、空気は実にひんやりしていた。山椒魚とか、そういう両生類が好きそうな冷たさである。空気の密度が変わったみたいに、物音が変な反響の仕方をした。
 あたしは持ってきた懐中電灯をつけた。暗闇が蒸発して、レールや砂利が浮かびあがる。それは意外と清潔そうな感じで、外から見るほど不気味というわけでもない。ずっと向こうには出口の光が見えていて、トンネルはそこまでちゃんとつながっていた。
 先輩とあたしは、そっちのほうへ歩いていく。とりあえず、幽霊のいそうな気配はない。あたしの霊感は故障中のテレビくらい受信状態が悪そうだったとはいえ。
 でもあの時、トラ君とコージ君が見た幽霊は幻というわけじゃない――幽霊が幻かどうかは、ともかくとして。
 ともかちゃんやほかの四人の話によれば、あの日は晴天で、月明かりがくっきり見えるくらい夜空は澄んでいたという。それは、放射冷却の起きやすい条件でもあった。実際に、肌寒かったという証言もある。
 そして先輩が言うには、この奥城山のトンネルの向こうには、湖があるのだそうだ。
 夜になっても水は冷えにくいので、外気より温度の高い状態になりやすい。そこに冷たい風が吹いてきたりすると、霧が発生することになる。ちょうど、お風呂から湯気が立ち昇るみたいに。
 つまり、肝試しの当日に霧が出ていた可能性は高い。
 特にトラ君とコージ君の二人がトンネルに入ったときは、冷たい風が吹いてきていたから、霧がすぐ近くまで迫っていたと考えることができる。
 それでどうしたかというと、トラ君は(やや強力な)ライトで前方を照らしたのだった。
 ブロッケン現象≠ニいうものがある。ドイツのブロッケン山に由来する名前なのだけど、この時に起きたのも似たような現象だと考えることができた。つまり、前方には霧、後方にはトラ君のライト、その中間にはコージ君が存在する。するとコージ君の(うずくまった)影が霧に映り、そのまわりでは光が乱反射して虹のような光を作る。
 二人が見た幽霊の正体は、これだった可能性が高い。枯れ尾花じゃないにしろ、現実はいつもこんなものだ。
 ――というのが、先輩の解説だった。説明責任については先輩にあるのであって、幽霊が本物だったとしても、あたしの関知するところではない。
 もっとも、先輩とあたしがこれからやろうとしているのは、その幽霊を実在する本物にすることだったのだけど。
「…………」
 トンネルを歩いていると、光の穴が段々大きくなっていった。空気の感じが変わって、静かさが奥のほうにひっこんでいく。水面に浮上するみたいに蝉の声が聞こえてくると、トンネルの外だった。残念ながら、雪国じゃなかったけど。
 トンネルの反対側も、さっきまでの風景とあまり変わりはなかった。湖が見えたりもしない。静かなせいか山のせいか、蝉たちはまだお祭り気分だった。岩にしみ入る暇もないくらい騒がしい。
 光の圧力に体を馴らしながら進んでいくと、しばらくして先輩が立ちどまった。
「この辺でいいかしら」
 そこは森の、ちょっと空き地になったところだった。キャンプファイヤーを楽しむほどの広さじゃないけど、小さな焚き火を囲むには都合がいいかもしれない。
「そうですね」
 あたしはうなずいて、ポシェットから道具一式を取りだした。ロウソク、ライター、それからコンビニで買った花火セット。
 そのあいだに、先輩は持ってきたバケツにペットボトルの水を注いでいた。くるくる回して水が出やすくしてるあたりは、先輩の几帳面さが滲みでている。
「じゃあ、はじめますか」
 と、準備を終えてからあたしは言った。
 何をはじめるかというと――もちろん、花火だ。
 もしかしたら昼の肝試しと同じくらい酔狂なのかもしれないけど、これにはちゃんとした理由がある。先輩もあたしも、酔ってるわけじゃない。そもそも品行方正な未成年は、お酒なんて飲んだりしない。
 とりあえず、あたしはスタンダードなススキ花火を選んでみた。さきっちょの紙はただの余りなので、その根元あたりを狙って火をつける。
 当然だけど、花火はしゅうしゅう音を立てて燃えはじめた。ホースから水を流すみたいに、火花が勢いよく飛び散っていく。夜の暗闇がなくても、花火は頑固な職人のごとくに黙々と仕事をこなしていた。
 そんなあたしの隣では、先輩が別の花火に火をつけていた。その花火はぱちぱち音を立てながら、丸く火花を飛ばしている。魔法使いのステッキっぽく見えないこともない。
 あたしの花火は、先輩の花火の半分くらいで燃え尽きてしまった。あるいはこれは、無計画と無思慮と無分別を遠まわしに警告されているのかもしれない。何をか言わんや、である。
「昼の花火も、なかなか風情がありますね」
 と、あたしはさっきと同じ種類の花火を選びながら言った。
「そうかもしれないわね」
 先輩は注意深く手元を見つめながら答える。
 その後もしばらくのあいだ、先輩とあたしは花火を続けた。夜中みたいに光が踊る感じはなかったけれど、そこには不思議な感覚があった。もしかしたらそれは、昼の闇と夜の光がひっくり返っているみたいな、そんな感じだったかもしれない。
「――――」
 あたしはそっと、先輩のほうをうかがってみた。
 先輩は一心不乱なようにも、どこかぼんやりしているようにも見えた。その横顔は何だか、光のか弱さを見つめているみたいな、消えた光の痕(あと)を探しているみたいな、そんな感じでもあった。

 ――これは、あたしとともかちゃんによる、後日の会話に関する抜粋だ。

「いや、偶然てあるもんだよね」
 と、ともかちゃんは感心したみたいに言う。
「二人が見た幽霊って、本物の人間だったんだよね。それがちょうど、私たちのあとに入れ違いでトンネルに入って、私の携帯を見つけた。で、その人たちはそのまま帰っちゃう。それで、今度は私たちがトンネルに入ってきて、落とした携帯を探しはじめる。でも携帯はその人たちが持っていっちゃってるから、いくら電話をかけて探したって見つからない」
 それから、ともかちゃんは間違った字を消しゴムで消すみたいな、軽いため息をつく。
「――何だか、電車の乗り換えが最高にうまくいったって感じだよね」
 まあでも、実際にそうだったんだから、偶然でも何でも仕方がない。
「うん、そうだよね。私も写真見せられて、納得するしかなかったし」
 それから、ともかちゃんは自分で自分に言いきかせるみたいにして、その証拠写真について語りはじめる。
「写真には、花火の跡だとか、ごみだとかが映ってた。ごみの中にはパンだとかおにぎりの袋も混じってて、日付的に私たちが肝試しに行った日と一致してる。まあそんな風にマナーのなってない奴らだから、人の携帯を拾って平気な顔してたって、当然といえば当然だよね」
 残念ながら、世界では憎まれっ子が世にはばかっている――ちなみに、ごみそのものはもう回収してしまったのでどこにも残っていなかった。
「携帯自体はSIMカードを換えたり初期化したりすれば使えるわけだから、たぶん売られるか、何かに使われるか、まあろくなことにはなってないんだろうね。仕方ないといえば、仕方ないけど」
 ともかちゃんはそして、秤にかけたらそれなりの数字を記録しそうなため息をつく。
「やっぱり、幽霊より人間のほうが怖いのかもね」

 ――そうかもしれない。

 結局、先輩もあたしも、藤野さんのことをともかちゃんに伝えることはしなかった。
 それはあくまでも、藤野さんが自分で決めるべきことで、決めなくちゃならないことだからだ。
 もしもそうなった時、結果がどうなるのかはわからない。それはよくある失恋の一種なのかもしれないし、世界が壊れてしまうくらいの悲劇なのかもしれない。
 でも、あるいは――
 何にせよ、それはあたしたちの与りしらぬところだ。すべての運命はもう、藤野さん自身に任されているのだから。
「わたしは神様ほど残酷じゃないわ」
 とは、先輩の言葉だった。

 ――そうそう、参考までに先輩とあたしの携帯についても言及しておくことにする。

 先輩のスマホカバーは、手帳タイプのシンプルなものだった。エレガントで、追求された機能美が光る一品、というところ。
 対するあたしのそれはというと、何かの景品でもらっただけという、無節操な代物だった。何故かシカゴブルズのユニフォームを着たスヌーピーが、バスケットをやっている。

 ……やっぱり、名は体を表すのかもしれない。

――Thanks for your reading.

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