[詩人にはなれない、もしくは何にもなりたくない]

【プロローグ 最初の瞬間のすごく大きな変化】


 ――例えばそれは、降ってきた桜の花びらが指先にのるようなことだったのかもしれない。

 高校に入学してまもなくの頃、あたしは北棟にある文化部の部室前まで来ていた。
 別に、たいして興味があったわけじゃない。ただのちょっとした、探検のつもりだった。文化啓蒙的な活動なんて、あたしの柄じゃないのだ。
 北棟には誰もいなくて、まっすぐな廊下だけがずっと先まで続いていた。斜め上の空からは午後の陽ざしが差し込んで、窓の形をくっきりした光る影にして地面に貼りつけている。放課後の喧騒は不思議なくらいどこにもなくて、廊下は洗いたてのシーツみたいな静けさに覆われていた。空気は必要以上に冷えびえとして、世界はまだ冬のことを忘れられずにいるみたいでもある。
 廊下にはいくつもドアが並んで、そこが何部なのかを示すプレートがつけられていた。扉はどれも閉まったままで、黙ったままじっとしている。まるで、大人しい犬たちみたいに。
 でも歩いていると、そのうちの一つだけが開いていることに気づく。
 あたしは何気なく、その部屋をのぞき込んでみた。特にどうしたいというわけでもなく、道に落ちていた、変わった形の小石を拾うくらいのつもりで。
 そこはよくある部室と同じで、小さな部屋だった。教室の半分もないくらいの空間が、やや縦長に広がっている。部屋の真ん中にはそれと平行になるようにして会議用の長机が二つ、くっつけて置かれていた。机のまわりを学校の備品らしいパイプイスが、何脚が囲んでいる。
 パイプイスの一つには、女子生徒が一人だけ座っていた。
 ――本を読んでいるみたいだ。
 扉の前に立つあたしの位置は、そこからは斜め後ろにあたっていた。ちょっと距離はあるけれど、あたしからはその人の横顔がよく見えて、たぶんその人からはあたしのことがよく見えない。
 あたしは何故だかわからないのだけど、その人のことをじっと見つめていた。何というか、よく晴れた日の夜空を見上げるみたいに。
 部屋の中にはその人しかいなくて、塵の一つ一つ、物音の一つ一つまできれいに片づけられている感じだった。窓からはどこかの有名な絵から持ってきたみたいな光が差し込んで、その人の横顔を照らしている。
 机の上に置かれた本に、その人は静かに手を触れていた。たぶん蝶の羽をつまむのよりも、もっと静かに。そうやって本のページを読んでいくその視線は、何だか親切な神様が世界を祝福しているみたいでもあった。
 それは、とても静謐で、繊細で、厳粛で、神聖な光景だった。
 それは、今にも壊れてしまいそうな、今にも消えてしまいそうな光景だった。
 ――まるで、きれいな雪の結晶が、手のひらの温度で溶けてしまうみたいに。
 どれくらいそうしていたのかはわからないけれど、あたしは案外、長いことその人を見つめていたらしかった。小さな気配が積みかさなって、その人はあたしのことに気づいたみたいである。
 本から顔を上げて、その人は視線を巡らせる。ページを繰るのと、同じくらいの速さで。
 そして――
 あたしと、目があった。
 まごつくあたしとは違って、その人は落ちてきて何年もたった隕石みたいに落ち着いていた。たぶん、あたしの無作法にも気づいていたけど、そのことをおくびに出したりもしない。
 イスから立ちあがって、きちんとした器具で固定したみたいにあたしのほうを見る。そうして、言うのだった。
「――よければ、どうぞ」
 その声は、もちろん強制なんかじゃなかったし、かといって招待というほどのものでもなかった。相手にちゃんと、断わるスペースを残しているというか。本の帯に書いてある、控えめな広告に近かったかもしれない。
 とはいえあたしとしては、少しだけ迷うところだった。そこが何なのかも、その人が誰なのかも、よくわからなかったから。
 でも――
 結局、あたしはその人の言葉に従っていた。開いたままの扉を抜けて、部屋の中に足を入れる。まさか、お菓子の家を食べさせられるわけでもないだろうし。
 部屋の中は特にこれといって目立ったところもなくて、あたしはまだそこが何の部室なのかわからずにいた。とりあえず、怪しげな宗教団体や魔女の隠れ家でないことだけは確かだ。
 そうやってきょろきょろしていると、不意にその人が口を開いていた。
「――あなた、一年生ね」
「え?」
 訊き返したのは、その人の言葉が質問でも疑問でもなくて、軽い断定だったからだ。
「どうして、わかったんですか?」
 あたしはいかにもまぬけっぽく言った。とはいえ、あたしが一年生なのは事実だったのだから仕方がない。
「別にたいしたことじゃないわ」
 と、その人は少しだけおかしそうに言った。
「制服がきれいだったから、そう思っただけ。特に、袖口とか、肘、襟のあたりなんかが――それに襟の学年章を見れば、それははっきりわかるわね」
 あたしは自分の制服を、しげしげと眺めてみる。言われてみれば、それはあたり前すぎるくらいあたり前だった。ちょっと気をつけて観察すれば(学年章は小さかったけど)、すぐにわかることだ。
 でもその人に指摘されると、何故だかそんな気がしなかった。何だか、不思議な手品でも見せられたような気がしてしまう。
「ところで……」
 と、あたしはあらためてまわりを見ながら訊いてみた。どうやらあたしの観察眼は休憩中みたいで、いまだにこの部屋が何なのかわからずにいる。
「ここって、何の部室なんですか?」
「――ああ、うっかりしてたわね」
 その人は、ため息をつくというには冷静すぎるくらいの表情で言った。
「入りやすいように扉だけ開けておいたのだけど、そうね――それだと、プレートが見えなくなってしまうわね」
「……はあ」
「ここは、文芸部よ」
 そう言われてみると、何となくわかる気がした。年季が入った本棚や、ノートや何かのファイルが入ったスチールキャビネット。壁の黒板にはいくつかの文章が書かれていて、添削か推敲をしたらしい跡が残っている。それにこの部屋は、ちょっとしたパワースポットみたいにいい文章が書けそうな雰囲気をしていた。
 もっとも、それだけでここが文芸部だと断定するのは、たった一つの水滴から海や滝を想像するのと同じくらい難しそうではあったけど。
 それがわかったところで、あたしはその人に訊いてみた。
「……文芸部って、何をするんですか?」
 もちろんあたしだって、文芸部の名前くらいは知っているし、どんな活動をするのか大まかな想像くらいはできる。でもそれはサハラ砂漠の名前だけ知っていて、実物は見たことがないのと同じ程度のものだったし、ちゃんと訊いておいたほうが無難ではある。
 ――ところで、サハラ砂漠ってどこにあるんだっけ?
「そうね、学校によってだいぶ違うはずだけど…」
 と、その人はまず前置きしてから言った。慎重というか、どうやら几帳面な性格の人らしい。
「うちの文芸部では、そんなに変わったことはしないわね。本を読んで、感想を話しあったり、意見を交換したり。それから、いわゆる創作活動ね。小説、脚本、エッセイ、短歌、俳句、何でもいいけど――あとは詩も、そうね」
「詩、ですか?」
 あたしは高度な電子機器を与えられた、原始人みたいな顔をした。詩なんて、教科書くらいでしか読んだことがない。
 でもその時、あたしは何故だか次のような言葉を口にしていた。ほとんど間を置かず、時計のアラームが時間通りに鳴りはじめるみたいに。
「――あたしでも、詩人になれますか?」
 言っておいてなんだけど、我ながらバカみたいなセリフだった。あたしは別に詩人になりたいわけでも、詩人に憧れているわけでもない。今までに詩の一篇も書いたことなんてないし、書こうと思ったことすらない。
 それなのに、何故か――
 あたしはその言葉を、太陽や月の巡りと同じくらいの強さと確かさで、口にしていた。
「…………」
 その人は、しばらく黙っていた。でもそれは呆れているとか、困っているとかじゃなくて、ふさわしい言葉を探している感じだった。たくさんの絵の具の中から、ちょうどいい色を選ぼうとするみたいに。
「昔々、とても詩人になりたがった人がいたの」
 やがてその人は、森で木の葉が落ちるくらいの静かな口調で言った。
「詩人になりたい、でなければ何にもなりたくない=\―と、その人は言ったそうよ。でも詩人になるための学校なんて、どこにもない。音楽家や、画家にさえそれはあるのに。……だとしたら、一体どうすれば詩人になれるというのだろう?」
 その人は冗談ぽくでも、生まじめにでもなく語った。何だかそれは、消えてしまった光の残像とか、音の反響に似ていたかもしれない。
「詩人になるための正しい手段や方法なんて存在しない――。でもそれは、詩人になるのに正しい手段や方法なんて必要ない、ということでもあるわね」
「…………」
「あなたがもし詩人になりたいと思うなら、まずは詩でも小説でも書いてみることね。そして、もしそうしたいなら、文芸部はあなたを歓迎するわ」
 あたしはしばらくのあいだ、ただじっとしていた。スイッチを入れたばかりの機械が、すぐには起動しないみたいに。ただじっと、身動きもしないでいた。
 その人の言葉はどうやら、あたしの心のどこかに収まったみたいだった。どこか重要な、大切なところに。もっともそれは、回っている地球儀にでたらめに指を置くのと同じくらい、どこなのかよくわからなかったけど。
 あたしは別に、詩人になりたいというわけじゃない。そのことはやっぱり、確かだった。文芸部なんて柄じゃないし、向いてもいない。あたしは基本的にがさつで、文学に必要な繊細なところなんて持ちあわせちゃいないのだ。
 それでも、たぶん――
 あたしの心のどこかは、その時はっきりと起動していた。音を立て、光を放ち、かすかな熱を帯びながら。
 だからあたしは、こう言ったのだ。
「あたしは一年の、千瀬凛(ちせりん)です」
 するとその人はちょっとだけ首を傾げて、それから笑った。まだ開かない、花の蕾みたいに。まだ届かない、星の光みたいに。
「わたしは二年の、志坂律子(しざかりつこ)といいます」
 そうして、志坂先輩は神様が世界を祝福するみたいにして、あたしを歓迎してくれた。

「――ようこそ、鵬馬(ほうま)高校文芸部へ」

 それはやっぱり、桜の花びらが指先にのるような――重さのない奇跡みたいなことだったのかもしれない。


「嘆きの壁」


彼らは壁に言葉を書いた
囚えられた 国を持たない流浪の民が
死を待つための家で
それでも何とか生きのびようとしたように

誰にも読めないその文字は
彼らだけの秘密
知られてはいけない秘密
サムソンの髪やアキレウスの踵と同じで

そしてそれは今でも残り続けている
国が破れ 山河が消えても
星が瞬き 風が歌い 大地が装い
永遠がいつまでも 終わることがないように


                    志坂 律子


【@ シャーロック・ホームズによろしく】


「――春もたけなわですね」
 と、あたしは地面に横たわったまま、かたつむりが這うくらいの、のんびりした気分で言った。
 放課後の屋上に人の気配はなくて、からっぽの空だけがどこまでも続いている。青空は元気のいいつくしみたいに上のほうまでのびていた。手に触れるとまだ冷たい四月の風が、自由気ままな感じに通りすぎていく。
 あたしは空の底みたいなその場所で、ぼんやり右手をのばしていた。燃料補給中の太陽の力を感じるには、なかなか都合のよい格好である。とはいえ、白い雲はずいぶん遠くにあって、あたしの短い手が触れることはできそうになかった。
「……何してるの、そんなところで?」
 頭の上のほうから、そんな声が聞こえてくる。どちらかというと、気のすすまない料理でも前にしたときみたいに。
「いやだな、先輩」
 と、あたしはひっくり返った亀みたいに首だけ向けて、抗議した。
「大地と交流して、自然のエネルギーを受けとってるところですよ。そうやって、心を正しい場所に戻してるんです」
「……学校の屋上に、そんなご利益があるとは思えないけど」
「鰯の頭にだって、五分の魂がありますから」
 それに対しては、先輩は何も言わなかった。たぶん暖簾を腕押ししたり、糠に釘を打ったりする趣味がないからだろう。先輩はあくまで、リアリストなのだ。
 代わりに言うことには、
「そんなところに寝転がってると、地面の砂で服が汚れるわよ」
 とのことだった。あたしは使い捨てカイロのごとく温かな先輩の気づかいに感謝しつつも、こううそぶいてみせる。
「それが人生ってものですよ、先輩」
「――屋上の地面に寝ころがって、服を汚すことが?」
 まともに指摘されると、それは百理くらいありそうだった。
 あたしは汚れた大地から身を離して、起きあがることにする。服をぱたぱた払うと、意外なほど砂埃が落ちてきた。数日前に降ってきた黄砂の影響だろう。どうやら、あたしは人生設計を間違えたらしい。
 地球の重力に抵抗してそうやって立ちあがると、空の広さはあっというまに半分以下になってしまった。その代わりに殺風景な屋上の床や、飾りけも愛想もない鉄の柵なんかが目に入ってくる。
 現実というのはあくまで現実で、そこに詩的なところなんてない。七色の虹はただの分解した光で、大地の下に大きな象や亀なんかがいたりもしない。
 あたしは春の空気に簡単に溶けてしまいそうなくらいの、小さなため息をついた。
 そんなあたしとは関係もなく、先輩はいつもと同じように真剣な、まじめな顔つきでどこか遠くを見つめている。その様子はどことなく、衛星軌道上で星の光を見つめる、宇宙望遠鏡みたいでもあった。
 ――肩にかかるくらいの、短い髪。髪質は固めで、自然な強さと柔らかさを持っていた。何だかそれは、きれいな音楽を響かせるヴァイオリンの弦みたいでもある。体つきも含めて基本的にシャープなラインをしていて、その瞳は硬度の高い鉱石によく似たところがあった。
 先輩には全体的な雰囲気としては、近よりがたい、どちらかといえば冷たいところがあった。それは純度の高いガラスみたいな感じで、頑丈そうで壊れやすそうな、ちょっと不思議な雰囲気でもある。
「…………」
 ちなみにあたしはといえば、先輩とは対照的な自他ともに認めるお気楽タイプだった。融通無碍、といえば聞こえはいいけど、実体はただ脳天気なだけでしかない。
 容姿や格好だってそれに準じたもので、花も恥らうなんて薬にしたくもない。おしゃれというよりは、実用性を重視しただけのポニーテール。紐の長さを測り間違えたみたいな、締まりのない口元。百合や薔薇なんてお呼びじゃなくて、せいぜい愛嬌のある野の花といったところだ。
 制服が多少汚れたくらいで動じないのも、当然というものである。
 そんな庶民派であるあたしは、庶民的な気安さでもって先輩に話しかけてみた。
「何かいい詩が出来そうですか、先輩?」
 あたしと先輩がここに来たのは、何もレクリエーションや暇つぶしのためというわけじゃない。いわんや、猫みたいに砂場で転げまわるためでも。これは歴とした、文芸部の活動なのだ。
 文芸部の活動は、週二回火・木に行われる。課題や議題が決まっていることもあるけど、内容はその都度変わるのが普通だった。ただ本を読んだり、簡単な勉強会みたいなのをすることもあるし、自作の小説や詩を読んでもらうこともある。
 今回もその一環で、ちょっとした野外活動というところだった。辛気くさい部屋の中じゃなくて、燦々とした太陽の下で詩想を練ってみよう、というわけだ。つまりは、書を捨てて町に出たわけである――実際には、学校の屋上ではあったけど。
 ちなみに、この場所にあたしと先輩しかいないのは、文芸部員があたしと先輩の二人しかいないからだった。去年の段階で二年生が一人もいなかったせいで、三年生が卒業すると先輩一人しか残らなかったのだ。何だか、椅子取りゲームに一人だけ残されたみたいではあったけど、先輩はいたって平気そうだった。
 ――というより、そのほうが好都合だと思っていた節もある。
 文芸部そのものは意外なほど伝統があるらしく、人数が少し減ったくらいで廃部になる怖れはない、ということだった。貴重な絶滅危惧種は、自然界じゃなくても保護される傾向にあるらしい。
 ともかくそんな訳で、先輩とあたし二人だけの文芸部は存続し、こうして日々の創作活動に勤しんでいる、というわけだった。
「――あなたのほうは、どうなの?」
 さっきのあたしの質問に対して、先輩はそう訊き返してきた。もしかしたら、自分よりあたしのほうが心配なのかもしれない。失敬な、とは言えないところではあったけど。
 ところで、余談ではあるけど先輩は大抵の人のことを、「あなた」という呼びかたをする。あたしとしては、そのことはわりと気に入っていた。先輩に「あなた」と呼ばれると、何だか上流階級の社交界にでもいるみたいだからだ。
 まあ、それはどうでもよいことではある。
「あたしは、ばっちりですよ」
 と、自信満々、勇気凛々であたしは答えた。
「……本当かしら」
 先輩はけれど、どこか胡乱気だった。亀と競争する前の兎でも見るみたいに。
「ちゃんと考えてますって」
 あたしは失地回復を期すべく、胸を叩いてみせた。
「出来上がったら、あとで先輩が読んでくださいね」
「まあ、だったらいいのだけど」
 一抹か二抹くらいの不安をのぞかせつつ、とりあえず先輩は納得したみたいだった。
 不意に強い風が吹いてきて、あたしたちの髪やスカートを揺らした。数日前に吹き荒れた、いわゆる春の嵐の名残かもしれない。風や雨にしても、うっかり落し物をしていくみたいだった。
「――ところで、先輩は聞きましたか?」
 それに触発されてというわけでもないにしろ、あたしは先輩に向かって訊いてみた。
 でも、その反応は、
「何を?」
 という、ごく短いものだった。モールス信号でも、もうちょっと愛想のありそうなものである。
「例の事件のことです――壁に書かれた、詩≠フことですよ」
 あたしは不屈不撓(不撓不屈?)の心でもって、めげずに訊いてみた。でもやっぱり、苔むしたさざれ石のごとく、先輩は動じなかった。
「特に興味はないわね」
「気にならないんですか?」
「わたしの心は、一般的な意味あいではまあまあ死んでいるのよ」
 聞いて、あたしは首を傾げた。
「……それってつまり、ゾンビってことですか?」
 その発言に対しては、先輩は軽く肩をすくめただけで特に答えようとはしない。
 まあ、先輩がゾンビでないことは確かそうだったので、あたしも問題にはしなかった。顔色がおかしいわけでも、口から涎をたらしているわけでも、変に足をひきずっているわけでもない。
 けど、壁のことは別である。
「――だって、文芸部が疑われてるんですよ」
 あたしもまだ詳しいことは知らないのだけど、聞いた話ではそういうことだった。何しろ壁に詩を書くなんてパフォーマンスは、ほかの部活ではやりそうもないことではある。
 もちろんそれは言いがかりで、先輩もあたしもそんなことに身の覚えはないのだった。でもこんな誤解でも放っておけば、いつかは桶屋が儲かるかもしれない。
 あたしが憤懣やるかたなくそう言っても、先輩はまだ無反応だった。ネジの切れた時計をいくらいじくっても、うんともすんとも言わないみたいに。
「…………」
 とはいえあたしとしても、このことを一人で勝手に調べようという気にはなれなかった。それに先輩のほうが、一般的な意味あいでは正しいのかもしれない。
 仕方ないかと諦めようとしたとき、先輩は古時計のネジを巻くみたいにして言った。
「……そうね、ちょっとくらいは確認しておいたほうがいいかもしれないわね」
 あたしは、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をする。
「じゃあ?」
「どんな詩が書かれてるか、とりあえず見ておこうかしら」
「――ですね」
 あたしはそつなく、従順な一文芸部員としての顔を保っていた。これは謎の迷惑行為に対する致しかたない調査であって、ちょっと面白そうな探偵ごっこだとかいうわけじゃない。あまり調子にのっていると、木から落ちかねないのだ。
 いそいそと移動の準備をしながら、あたしはふと訊いてみた。
「ところで、たけなわ≠チて何ですか?」
「辞書でも引きなさい」
 と、先輩はもっともなアドバイスをした。

 ――事件の概要については、大体こんな感じである。
 きっかり、一昨日のこと。野球部の練習中の出来事だった。
 フリーバッティングを行っていると、一人の新人選手が特大のホームランを放った。外野スタンドから花火が打ちあがらないのが惜しいくらいの当たりだったけど、そもそも高校の運動場に外野スタンドなんて存在しない。
 将来有望な強打者の誕生は、野球部としては慶賀すべきだったかもしれないけれど、球拾いにまわされていた一年生にとっては不幸だった。ボールは運動場の圏内を越えて、学校敷地のはしっこのほうまで転がってしまっている。
 こういう時、いいように顎で使われるのが一兵卒の悲しさだった。新入生のうち一人が、ボールを捜してくるよう仰せつかった。ユニフォームを着て、バッターボックスで快音を響かせている同級生とは雲泥の差である。
 犬なら大喜びするところだろうけど、その一年生はぶつくさ文句を言いつつボールの行方を追った。とかくに人の世は住みにくい、知に働けば角が立つ、情に棹させば流される――と言ったかどうかは知らない。
 ともかくもその一年生は、運動場を離れ、少し離れた弓道場のあたりまでやって来た。校内のその辺には、木立が植えられ、ちょっと森閑としている。昼間から出る物好きな幽霊がいるかどうかはわからないけど、一人でいてあまり気分のいい場所じゃないのは確かだった。
 念入りに探してみたけれど、ボールはなかなか見つからない。もしかしたら、どこかの迂闊などんぐりと同じで、変な池にでも落っこちたのかもしれなかった。
 根がまじめな(あるいは小心者だった)彼は、もう少し探してみることにした。大切な思い出の写真でも、その辺でもらったボールペンでも、なくしたものはいつも不思議な場所でひょっこり見つかるのが常というものだ。
 弓道場の横を通って、安土の裏までやって来た。壁の向こうからは時折、弓を射る弦の音や、鋭めの鹿おどしみたいな音が聞こえてきたりしている。
 その一年生が明るい灰色になった地面を探していると、ようやくのことでボールは見つかった。ボールは人騒がせな迷子みたいに、何食わぬ顔で転がっている。
 やれやれと一安心してボールを拾ったところで、一年生は運動場に戻ることにした。球拾いもたいして魅力的な役目とはいえないにしろ、こんな世界の果てっぽいところに一人でいるよりはましに違いない。
 それで顔を上げたとき、ふと弓道場の壁のところが何だかおかしなことに気づいた。
 ぱっと見ではわからなかったので、ゆっくり近づいてみる。そうすると、視力検査で使うCの切れめがわかるみたいに、それが何なのかわかった。
 ――壁には、文字が書かれているのだった。
 それも、けっこう量があって、文章になっているらしい。日本語だから、ちゃんと読むことだってできる。その一年生に文学的素養があったかどうかは知らないけど、とにかく次のことだけはわかったようだった。
「これ、詩≠ゥ――?」

 というわけで、文芸部が疑われているのだった。
 その一年生からはじまって、噂はすぐ学校中に広まった。またたく間に、というほどじゃないにしろ、ちょっと遅めの蒸気機関車くらいの速さで。
 暇人から噂好きも含めた何人かは、実際にその場まで足を運んで事実を確認したりもしている。かく言うあたしも、その何人かに話を聞かされた一人というわけだった。
 今のところ、誰が何のためにそんなものを書いたのかはわかっていない。一休さんみたいに知恵を働かせて、この詩はすばらしい、ぜひとも表彰したいのだが――とでも言えば誰かが名のり出るかもしれなかったけど、今のところ誰もそんなことはしていない。
 かくのごとくして、文芸部への濡れ衣が晴れることはなく、全校生徒から犯人の第一有力候補として――たぶん――目されているのだった。
「これは、由々しき事態ですよ」
 あたしは下敷きでこすったくらいに、怒髪天を衝きながら言った。
「どうかしら?」
 でも先輩は、あくまで重要文化財級の工芸品みたいに落ち着いている。
「特に実害があるとは思えないし、そう目くじらを立てる必要はないんじゃないかしら」
「あたしたちが卑劣な落書き犯といっしょに見られてるんですよ。これは名誉に関わる問題です――!」
「卑劣、ね」
 先輩は、卑劣という言葉は好きじゃないみたいだった。
 それはともかくとして、先輩とあたしは壁に落書きのある現場へと向かっていた。麗らかな春の陽気の中でいささか緊張感には欠けていたけど、これが一つの事件であるのは確かである。
 玄関で靴を履きかえて(うちの高校は内履きなのだ)、運動場のほうに向かう。ぐるっと校舎を迂回し、駐輪場の横を抜けると、青空に押しつぶされるみたいにしてグラウンドが広がっていた。
 土っぽいグラウンドでは、サッカー部と野球部と陸上部が活動中だった。なかなかの賑やかさで、その様子はアフリカのサバンナにいる、野生動物たちに似ていなくもない――気がする。
 青春の汗を流す同級生たちを尻目にして、先輩とあたしは運動場の脇を通りぬけていった。途中、水飲み場があって地面が派手に濡れている。やっぱり、サバンナっぽいのかもしれない。
 濡れた地面を歩くと、先輩の足跡が残った。ローファーを履いた先輩の足跡は、何かの見本に使えそうなくらいくっきりした形をしていた。それに、本人ほどは気難しくなさそうでもある。
 運動場の縁にそって移動し、テニスコートの横を抜けると、そこが弓道場だった。今日は練習がないのか、物音は一つもなく、静かなものである。
「確か、安土の裏側だったわね」
 と、先輩は弓道場の向こうを見ながら言った。壁に書かれた詩があるのは、そっちのはずだった。
 歩いていくと、湿った土と木立のあいだに入る。何もいないはずなのに、何かいるみたいで、わりと不気味だった。落書き犯は何だってこんな場所を選んだんだろう、とあたしはふと思ったりしている。
 安土の裏側まで来ると、現場には誰もいなくて、調査には好都合だった。先輩とあたしはさっそく、件の壁について調べてみる。
 漆喰らしい素材で出来たその壁は、いかにも弓道場っぽく和風だった。何メートルおきかに細い木の仕切りがあって、全体としては十メートルくらいの長さがあるだろうか。
 連なった白い壁のうち、左端だけが黄色っぽく汚れていて、よく見るとそこに白く文字が浮かびあがっていた。
 ちょっと小さめの、カフェのメニューボードなんかに使われそうなくらいの文字サイズである。線そのものは、わりと細めだった。選挙の宣伝みたいな大声じゃないし、テレビのCMみたいな広告感もない。どちらかというとそれは、墓石に記された碑文みたいな感じだった。
 ――書かれていたのは、こんな詩だった。

粗末な卓子の上を、まるで太陽の燠き火のような、
 蝋燭の穂明かりが照らしている。
 私の前にあるのは、
 何も書かれていない白い紙と
 頑ななまでに大人しく指示を待つ、一本の筆。

 風さえ囁かず、暗闇も騒がず、
 月明かりさえ眠っているようなこんな夜には、
 私は思い出すのだ――

 かつて世界は清く豊かで、
 穢れや苦悩というものを知らなかった、
 祝福された嬰児がそうであるように。
 だが黄金が腐り、白銀は錆び、青銅が灼かれ、
 血と野蛮と奸智が支配する
 鉄の時代が到来した。
 人々は互いに諍い、傷つけあい、だまし、奪い、
 もう何も赦そうとはしない。
 我々はその末裔であって、
 それは十分に得心できることだ。

 我々は手ずから美しいものを毀(こぼ)ち、
 清いものを穢し、尊いものを辱めている、
 それを悦びとさえしながら。
 世界はもう幼児(おさなご)の夢の中でしか、
 生命を保つことができずにいる
 その真の姿を、光と闇の純粋を。

 しかし時代は
 葡萄酒の澱のように積み重なり、
 それらはもう夢に見られることさえやめてしまって、
 水底に沈んだ財宝のように、
 静かに眠りに就いている。

「……格調高いというか、古風というか、ずいぶん古い感じのする詩ですね」
 と、あたしは言った。詩の大家でも評論家でもない身としては、とりあえずの感想はそんなものだった。
 それから、あたしは先輩に水を向けてみる。
「先輩は、どう思います?」
「…………」
 でも先輩は、黙ったままだった。どちらかというと、真剣に。何となくそれは、工場で機械が細かな作業を繰り返しているみたいでもある。
「先輩?」
 念のために、あたしはもう一度声をかけてみた。
「これは、ドイツのある詩人が書いた作品よ」
 瓶の蓋が急に開くみたいにして、先輩は言った。
「二十世紀中ごろまで生きた、叙情詩人ね。小説もたくさん書いてるわ」
「有名な人なんですか?」
 少なくとも、あたしは知らなかったわけだけど。
「そうね、まあ大抵の人は名前くらいは知ってるでしょうね。教科書に小説作品が載ったりもしてるから。けど――」
「けど?」
「詩を知ってる人は、あまりいないんじゃないかしら。わたしも、この詩を読んだのはたまたまだし、それを思い出すまでにはけっこう時間が必要だったわね」
「ということは、犯人は相当な文学レベルの人間、てことですか?」
 それがどういう「レベル」なのかはよくわからないけど、あたしは言ってみた。
「どうかしら――」
 先輩はちょっと難しい顔をしている。水面に、小さな波紋が広がるくらいの。
「何にしろ、酔狂な人物には違いないでしょうね。学校の壁にこんな詩を書くくらいだから。あるいは、もっと切実な理由があったのかもしれないけれど」
「切実な理由、ですか?」
 壁に詩を書きつけるような、どんな理由があるだろう。
「古代から人は壁に何かを書いてきたのよ。でなきゃ、アルタミラ洞窟なんて存在しなかったでしょうね」
「ふうむ」
 あたしはあらためて、詩の書かれた壁を観察してみた。さっきも言ったように、壁の一部が黄色っぽく汚れて、そこに文字が書かれている。
「これ、砂ですかね?」
 すぐそばまで近よって、あたしはためつすがめつ眺めてみた。とりあえずの見ためとしては、そう思うしかない。サンプルを採って、然るべき研究機関にでも送れば分析してもらえるのかもしれないけど、そんなコネもお金もない。
「おそらく、そうでしょうね」
 幸いなことに、先輩は同意してくれた。
「ここ数日、黄砂がひどかったし。風の強い日もあったから、それで壁に吹きつけられたんでしょうね。この辺は木がまばらに生えてるから、壁の一部だけが汚れることになった……」
「犯人は、そうやって砂で汚れた壁の上をなぞって、詩を書いたってことですよね」
 あたしは顎を指で挟みながら言った。冬の日なんかに、曇った窓ガラスに絵や文字を書くのといっしょだった。最低でも引き分けにしかならないのに、友達とよく三目並べをやったものである。
「――どうかしらね」
「?」
 けど先輩は、どうやらあたしとは違う意見を持っているみたいだった。
「……先輩、何かわかったんですか?」
「まだ何とも言えないけど、一つ確かめたいことがあるわ」
 先輩はそう言うと、さっさとその場から去っていこうとしてしまう。あたしは置いてけぼりにされないように、慌ててあとを追った。
「どこに行くんですか、先輩?」
 新米のカウボーイがひょろひょろの縄を投げるくらいの勢いで、あたしは言った。
「知りあいのところよ」
 先輩はそんな投げ縄はあっさり無視して、あとは何も言わずに歩いていってしまう。

 化学実験室があるのは、校舎北棟の三階東側だった。北棟には基本的に、特別教室が配置されている。普通の生徒は授業以外ではあまり来ることのない、ひっそりとした一画だった。
 ちなみに位置的なことをいうと、化学実験室は文芸部の真下にあたっている。つまり、もし仮に実験室で大爆発なんかが起きたとしたら、部室にいる先輩とあたしは無事死亡できる、というわけだった。
 そんなわけで先輩とあたしは我が身の安全を図るためにも、実験室の視察にやって来たのだった――なんてわけじゃない。考えてみると、その危険はありえないでもなかったけど。
 校舎に戻ってきた先輩は、何も言わずにその化学実験室までやって来ていた。あたしは師の影を踏まない弟子のごとく、そのあとについて来ている。何も説明されてないのは、あたしが先輩に信頼されているからだ、ろう。
 軽くノックしてから、先輩は実験室のドアを開けた。特に緊張もしていないし、遠慮もしていない、という感じである。自分の部屋ほどじゃないにしろ、何度も来たことがあるみたいだった。
 部屋の中をのぞくと、そこには七、八人くらいの人数がいた。みんな白衣を着て、机のそばで立ったり座ったりしている。何人かがこっちを見たけど、特に警戒もしていないし、関心もない、という感じだった。
 うちの高校には化学部があって、当然だけど化学実験室を主な活動場所にしている。つまりこの人たちはみんな、化学部の部員というわけだ――たぶん。あたしがここに来るのは初めてなので、確言はできなかったけど。
 とりあえず、フラスコから怪しい色の煙がたちのぼったり、死体をつなぎあわせて電気を流したり、水素爆弾について熱く語ったりする人はいないみたいなので、あたしはひとまず安心する。
 先輩が部屋に入るのとほとんど同時くらいに、中の一人がこっちに向かってやって来ていた。
 その人は白衣のポケットに手をつっ込んだままで言った。
「何だ、リッコ。化学部に何か用なのか?」
 まるで男の子みたいなしゃべりかただったけど、実際には女の子だ。
 長い髪を額の真ん中できれいに分けていて、なかなかかわいらしいおでこをしていた。身長はかなり低くて、あたしより文庫本の横幅一冊ぶんくらいは小さい。動物で例えると、ぱっと見ではペンギンチックなキュートさがある。
 でもよくよく見てみると、その眼光は動物園の人気者というには、いささか鋭かった。鋏なんてなくても、ちょっとした紙くらいは切れそうである。それに、何かの計測に使えそうなくらいの、正確で頑固そうな口元をしていた。
「モモカ――」
 と、先輩は言った。あとで聞いたところによると、百奈桃花(ももなももか)というのがその人の名前らしい。何でも、先輩とは小学校時代からの知りあいということだった。
「実は、ちょっと貸して欲しいものがあるのだけど」
「貸して欲しいもの?」
 百奈先輩はどちらかというと、科学的な感じのする問いかたをした。
「たぶん、ここにあると思って」
「化学部にそんなサービスは標準装備されていないぞ」
「だったら、オプションてことでいいわ」
 二人のやりとりを聞くかぎり、その人は先輩と同級生みたいだった。小柄なせいで一年生かと思ったけど(中学生といってもいいくらいだ)、そういうわけじゃないらしい。
 二人が話しているあいだ、あたしは近くの机で行われていることに気をとられていた。そこでは三人の生徒が集まって、何やら実験中らしいのだ。
 机の上にはまず、ペットボトルが置かれていた。それから線香とマッチに、何かの液体の入ったスプレーが用意されている。あと、何かよくわからないキャップみたいなものも。
「何ですか、それ?」
 あたしはきれいな花に近づく迂闊なミツバチよろしく、そばによって訊いてみた。
 すると、中の一人が親切に答えてくれる。
「これから、雲を作るんだよ」
 眼鏡をかけていて、南米までは行かないくらいに陽気そうな人だった。人の好さそうな笑顔を浮かべているけど、底抜けというほどじゃない。襟の学年章を見るかぎりでは、三年生みたいだった。注意深く観察すれば、それくらいのことはわかるのだ。先輩のようにはいかないとはいえ、あたしにだって学習能力というものはあるのだった。
 ちなみに、百奈先輩のそれは白衣に隠れて見えなかっただけである。別に、見るのを忘れていたとか、そんなことはない。
「雲を作るって、どういうことですか?」
 あたしはいかにも素人っぽく訊いてみた。こんなところで見栄をはったって仕方がない。
「君は、雲が何で出来ているか知っているかい?」
 と眼鏡先輩は教育番組の司会者っぽく訊いてきた。
「……水蒸気、ですよね?」
 あたしはまあまあ、常識的に答える。「あれは、みんなの夢が空に集まったものです」なんて詩的に表現したって仕方がない。
「そう、あれは要するに、小さな水の粒が集まったものなんだ」
 眼鏡先輩は嬉しそうに説明する。
「空気中に漂う小さな塵を核にして、水蒸気が凝結すると、水滴や氷の粒になる。それが大量に集まったのが、つまりは雲なわけだ」
 そのあいだに、あたしたちの前で実験の手順は進められている。男子生徒が線香を一本持って、女子生徒がマッチでそれに火をつけた。
「通常のプロセスでは、低気圧などによる上昇気流の発生によって、水蒸気が高々度に移動させられ、気圧が下がり、空気が膨張する。すると断熱冷却によって、水蒸気の温度が下がるわけだ。温度が下がると、飽和度を越えた水は液体化する――ここではまず、線香の煙を雲粒の核として利用するために、ペットボトルの中に入れる」
 言葉通り、男子生徒がペットボトルを逆さに持って、その中に線香を入れた。大人しいミミズみたいなゆらゆらした煙が、ペットボトルの中に消えていく。
「次に、水蒸気を充填してやる――と言っても、ここではエタノールを使うんだけどね。実際の雲とは異なるけど、このほうが見ためがよくなる」
 男子生徒の持ったペットボトルの口から、女子生徒がスプレーを吹きかけた。三回くらいやったところで、何だかよくわからなかったキャップみたいなものをはめる。普通のボトルキャップとは違って、ちょっとごつめで、頭のところに何かのふくらみがくっついていた。
「あれは、炭酸キーパーだ」
 と、あたしの戸惑いを見透かしたみたいに眼鏡先輩が説明してくれる。
「サイダーやコーラなんかを加圧して、炭酸を抜けにくくするものだよ。ここではあれを使ってペットボトル内の気圧を上げて、それを一気に抜くことで減圧させてやるのが目的なんだ。四百円くらいで売ってる、まあまあ便利な一品だね」
 お手頃価格のその炭酸キーパーを使って、男子生徒がペットボトルの加圧をはじめた。キャップについたポンプを何度も押して、どんどん空気を送り込んでいく。
 しばらくして、男子生徒の手がとまった。もう十分、ということなのだろう。眼鏡先輩とアイコンタクトをとって、女子生徒にも確認して、キャップの留め口のところに手をやる。
 ――ポン!
 というわりと威勢のいい音が響いて、中の空気が抜ける。すると同時に、ペットボトルの中にはけっこう濃いめの白い煙が発生した。
「これが、雲だよ」
 眼鏡先輩が、スイッチをつけたら電気がつくくらいの、そんな当然のことみたいに言った。
「へぇー」
 あたしはやっぱり、いかにも素人っぽく感心してしまう。出来あがった雲は意外と頑丈で、ペットボトルの口からゆっくり流れていった。
 せっかくだからと勧められて、あたしはその雲を手のひらに受けさせてもらう。手品の演出なんかに使えそうなその白い雲は、少しひんやりして、すぐに消えていった――それこそ、夢か何かだったみたいに。
「上空で雲が出来るプロセスは、今みたいな減圧による断熱膨張だけど、例えば地上で発生する霧なんかは――これは雲と同じものなんだけど――生成過程が少し違う。霧の場合は、湖面の暖かい空気が夜の冷気で直接冷やされたり、といったことで形成される。お風呂なんかで湯気が立つのと同じ現象だね」
 眼鏡先輩が解説してくれるあいだにも、ペットボトルの雲は段々と薄くなっていった。雲たちにとって、ここは安住の地とはいえないらしい。
 やがてペットボトルが完全に元の無色透明に戻ってしまうと、実験の締めくくりみたいにして眼鏡先輩は言った。
「注意としては、実験に使うペットボトルはお茶とかじゃなくて、炭酸用の底がいくつも出っぱってるやつを使うことだね。耐圧性能に五倍くらい差があるから。けっこう圧力をかけるから、安全にも十分気をつける必要がある」
「なるほど」
 と、あたしは感心した。何がなるほどなのかはよくわからなかったけど、また一つ賢くなったわけである。人類はかくのごとくして進歩していくのである。
 あたしが知識の研鑽を積んでいると、先輩がどこからかやって来た。どうやら、準備室のほうに行っていたらしい。
「用は済んだから、もう行くわよ」
 と、先輩は声をかけてくる。
「――実験と解説、ありがとうございます。興味深かったです」
 あたしは一言お礼を言ってから、先輩のあとについてその場を離れた。眼鏡先輩は最後まで愛想よく、手を振ってくれる。あの人がいるかぎり、人類は正しい方向へと進歩していくことだろう。
 教室の外に出たところで、あたしは訊いてみた。
「先輩の持ってるそれ、何ですか?」
 何だか懐中電灯によく似たものを、先輩は手に持っていた。百奈先輩に借りにきたのは、どうやらそれだったらしい。
 それはどう見てもただの懐中電灯なのだけど、にしてはライトの部分が特殊な感じだし、第一そんなものを使う必要があるとも思えない。先輩は昼に行灯をつけるようなタイプでもない。
 廊下を歩きながら、先輩はあたしに向かって短く返事をした。
「これは、ブラックライトよ」
 ――ブラックライト?
「何ですか、それ?」
 確か、紫外線を発生させる装置だったはずだけど、くらいはわかるにしても、うろ覚えでしかない。それに、そんなものを何に使うのかが不明だった。
 でも先輩は、それ以上の説明はしてくれない。どうやら先輩は、人類の進歩には特に興味がないみたいだった。

 先輩とあたしは玄関で靴を履きかえると、再び壁のところに向かった。何だか、あっちこっちではね返ってるピンボールみたいでもある。
 途中、あたしは一つだけ質問してみた。
「先輩、先輩は百奈先輩にリッコ≠チて呼ばれてるんですか?」
「まあそうね」
「――あたしも先輩のこと、リッコ先輩≠チて呼んでもいいですか?」
 新大陸を目指す船乗りのごとく、あたしは果敢に言ってみた。
「……却下しておくわ」
 でも先輩は、喜望峰の嵐みたいに、ごくあっさりその挑戦を退けている。
 かくして、あたしの大航海時代は終わった。
 弓道場の裏まで戻ってくると、相変わらず人影はなくて薄暗かった。午後の空気も陽ざしもひっそりしていて、お祭り気分というわけじゃないらしい。どうやらこの場所は、女子高生の人気スポットとはいえないみたいだった。
 人類の進歩にもトレンドにも興味のなさそうな先輩は、さっそく壁の前に立っている。壁面にも変化はなくて、黄色い砂と白い文字が同じように残っていた。雨でも降れば全部すっかり洗い流されてしまうのかもしれないけど、今のところは貴重な古代遺跡みたいにそのままの形を保っている。
 先輩はあらためて、壁面を観察しているみたいだった。でもあたしの目には、それは以前とまったく同じで、特に気づくことはないし、気づきそうなこともない。
 ――なので、あたしは訊いてみることにした。
「どうかしたんですか、先輩?」
 先輩は熱心な考古学者みたいに壁を見つめながら、返事をした。
「気づかなかった?」
「何にですか」
 気づくもなにも、あたしには石ころと打製石器の区別もつきそうにない。
「この汚れ、きれいすぎると思わなかった」
「……汚れがきれい、ですか?」
 ある意味、深遠な言葉だった。どこかの荒れ地に住んでる魔女が聞いたら、喜ぶかもしれない。
「人は目の前のものを見ているようで、見ていないものよ」
 先輩は喜ぶわけでも、得意気にでもなく、静かに言った。
「例えば、毎日使うような階段でもそうね。人はそこを何度も行き来しているのに、それが何段あるのか、なんてことは知りもしない――どこかの探偵には、そう言って助手をたしなめてる場面があるわ」
 あたしは首を傾げた。
「つまり、その人は階段を数えるのが得意だった、ってことですか?」
 自動ドアがちょっと遅れて反応するくらいの間があってから、先輩は答える。
「……まあ、そういうことね」
「ところで、先輩は学校の階段が何段あるか知ってますか?」
「そこまで暇じゃないわ」
 件の探偵はやっぱり変人で、暇人でもあるみたいだった。
「ちなみに、あたしも先輩の足跡なら覚えましたよ」
 あたしは念のために、報告しておく。
「そんなの覚えなくていいわ」
 階段がよくて足跡がよくない理由はなんだろう?
 それはともかくとして、あたしは話を本題に戻すことにした。
「ところで、汚れがきれいすぎるって、どういうことなんですか?」
 哲学的な意味あいじゃないことだけは確かそうだったけど。
「――この文字、わりと小さめだし、きちんと書かれてもいるわね」
 先輩は、書類のはしをそろえるくらいに気を取りなおしてから言った。
「あなただったら、これくらいの文字を壁に書くとしたら、どうするかしら?」
「……手をつけます、かね」
 想像の中で字を書いてみてから、あたしは言った。
「そう、もしも汚れがついたあとで、その上をなぞって文字を書いたとしたら、汚れがここまできれいに残っているのは不自然よ。注意して書いたとしても、少しくらいは痕跡があってしかるべきね」
 言われてみれば、確かにそうかもしれない。けど、だからどうだというんだろう。
「つまりね――」
 と、先輩は怠け者のあたしの脳みそに代わって答えてくれた。
「文字が書かれたのは、その前である可能性が高い、ということ。逆なのよ、順序が。誰かが壁に文字を書いて、それから汚れがついた」
「なるほど」
 と合点してから、あたしは首を傾げる。ちょっと忙しかった。
「でもそれじゃ、逆に文字が残るなんておかしくないですか? 汚れが隠しちゃうのに」
「昔、こんな遊びをしなかった?」
 そのことにも答えは出ているらしく、先輩は落ち着いて言った。
「メモ帳に文字を書いて一枚破って、その下の紙を鉛筆で軽くこすってみる。そうすると、へこんだ筆跡部分だけが残って、白く浮かびあがってくる」
「……てことは」
「たぶん、これも同じよ。誰かがボールペンみたいな硬いもので、漆喰の壁に文字を書く。すると、その跡がくぼみになって残る。そこに細かな砂が吹きつけて、文字を白く浮かびあがらせた」
 話としては、問題なさそうだった。というか、それ以外の可能性は考えにくい。
「よくそんなことわかりましたね、先輩」
 あたしが感心して言うと、先輩は首を振った。
「実のところ、わたしがそう思ったのには理由があるのよ」
「理由、ですか?」
 あたしには理由があっても思いつきそうにないけれど。
「この詩は、これで全部じゃない」
 そう言って、先輩は壁の詩を見つめた。何だかその視線は、今でもここでもない、別のどこかに向けられているみたいでもある。
「ここには、詩の最後の一文が欠けているの。もし誰かがこれを書いたとしたら、そんなことをするはずがない。きちんと全部、書いていたはずよ」
「つまり、犯人が詩を書いたのは、汚れがつく前だった……」
 あたしが言うと、先輩はうなずいてみせた。
「まず、誰かがここに詩を書いて、それが消されてしまった――落書きに対しては、まっとうな手段ね。その後、残った筆跡の上に砂粒が吹きつけて、文字を浮かびあがらせた」
「そういうことになりますね」
 あたしは同意した。ところが、
「いえ、必ずしもそうとはかぎらないのよ」
 と、先輩はそれをあっさりと否定してしまっている。
「ここに詩を書いた誰かは、はじめから消されることがわかっていて、そんなことをしたのかしら? わざわざこんな場所を選んで、ずいぶんな手間をかけているのに」
「でも実際問題として、残ってるのは文字の跡だけなんですよ?」
 あたしには先輩が何を言いたいのか、よくわからなかった。
 犯人がこの場所に詩を書いたのは、汚れがつく前だった――それは、確かだろう。でも文字そのものは残っていないんだから、それは消されてしまったと考えるのが妥当というものだった。
「いいえ、ほかにも可能性はあるわ」
 あたしは出来の悪いメトロノームみたいに、首を左右に傾けてみた。でもそんなことしたって、先輩の言う可能性なんて思いつきそうもない。
「何なんですか、ほかの可能性≠チて?」
 と、あたしは早々に降参することにした。時間を無駄にするのはよくないことなのだ。
 先輩はあたしの怠慢を咎めるでもなく、呆れるでもなく、こう言った。
「それは、その誰かが見えない文字を書いたかもしれない――ということよ」
「見えない文字……?」
 あたしにはまだ、何だかよくわからなかった。見えない文字って、何のことだろう。
「昔、流行らなかったかしら」
 と、先輩は手に持っていた懐中電灯――じゃなくて、ブラックライトを持ちあげながら言った。
「特殊なインクを使った、目に見えない文字や絵を書けるペンが。わたしたちが小学生くらいの頃、テレビで取りあげられて話題になったはずよ。ちょっとした遊びとか、手品には便利だったわね」
 言われて、あたしの記憶はようやく働きはじめている。おじいさんの古時計が、もう一度息を吹き返したみたいに。
 そう、先輩の言うように、確かにそんなペンは流行っていた。あたし自身は使ったことがないけれど、それは――
「紫外線を当てると光って見えるようになるペン、でしたよね」
「ええ、そうよ。そこで、このライトの出番というわけね」
 先輩はそう言うと、ライトのスイッチを入れて、壁のほうに向けた。何だか青っぽい光が、壁面を照らしている。
「紫外線自体は人間の目には見えないけど、有害だから直接は目視しないよう気をつけて――」
 簡単な注意喚起をしてから、先輩はそのライトを壁の下のほう、汚れのついていない部分に当てた。
 そこには光る文字で、こう記されている。

その美しい、嬰児の亡骸たちは。

「――中国では黄河を中心とした華北に、まず大きな文明が栄えた」
 世界史の授業では、男の先生が教壇に立って、古代中国の歴史について話をしていた。黄河文明、竜山文化、稲作、甲骨文字、夏・商・殷・周、エトセトラ――
 教室は古代っぽい沈黙に覆われていて、照明の明かりまで何だか古代っぽかった。先生が黒板に字を書くと、それに続いてノートをとる音が聞こえる。もちろんそれは、亀の甲羅や獣の骨じゃなくて、白い紙が使われているのだった。時代は進歩したのである。
「…………」
 あたしは気の進まない顔のまま、同じように黒板の内容をノートに写していた。細かな違いや問題はあるとはいえ、要するにそれは、もう終わってしまった昔の出来事でしかない。
 ――そうして、あたしは例の壁に書かれた詩のことについて考えていた。
 結局、先輩の推理は正しかったことが証明されたのである。壁に書かれた詩は、特殊なインクを使ったものだった。そこに砂が吹きつけられ、文字の跡が白く浮かびあがった。そして一昨日、野球部の一年生がたまたまそれを見つけた、というわけである。
 というわけでは、あるのだけど――
 実はここで、新たな問題が発生したのだった。新たな問題というか、新たな謎が。
 それは、壁に書かれていたのが例の詩だけじゃなかった、ということだ。
 あのあと、先輩は壁のほかの部分もブラックライトで照らしていた。別に確信があったわけじゃなくて、ことのついで、という感じだった。石を投げたら鳥がとれたから、念のためにもう一羽とれていないか確認してみよう、くらいの。
 そしたら、本当にもう一羽とれていたのだ。
 というか一羽なんてものじゃなく、大量に。一網したら、打尽してしまったくらいの勢いで。
 そこにあったのは、光る文字の群れだった。壁には端から端まで使って、たくさんの文章が綴られていたのである。それだけの文章を書くのは、きっと長い時間と、多くの労力と、強い根気が必要だったに違いない。
 文章といっても、全部がつながっているわけじゃなかった。比較的短めのかたまりが、いくつも連なっているのだ。ほぼ横一直線に、まるで渡り鳥がまっすぐ北に向かうみたいに。
 書かれていた文章全部を読んだわけじゃないけれど、それは日々の出来事とか、近況報告といった、ちょっとした手紙みたいなものだった。
 例えばそのうちの一つは、こんな具合である。

――昨日は流星群でした。部活で帰りが遅くなったので、僕は途中の公園によって、ベンチに座っていました。時間的には少し早かったのだけど、変わり者の流れ星が一つくらい見えるかと思って。
 公園には誰もいなくて、街灯の明かりさえなくて、ただぼんやりした暗闇が広がっています。じっとしていると、体がクラゲみたいに透明になって、暗闇との境界が曖昧になっていく気がしました。
 空には街明かりが、ぼんやりした埃みたいに漂っていて、観測に最適な条件とはいえません。星の輪郭は滲んで、まるで色あせた古い絵でも眺めているみたいです。
 でも、やがて、星が流れました。
 それは思っていたよりずっと強く、光の痕跡を空に残しました。まるで夜空を、爪でひっかいたみたいに。光の残像はいつまでもそこにあって、手で触れられるような気さえしました。
 僕はその時ふと、人の一生もこんなものなのかもしれない、と思ったのです。長い長い、永遠に等しい時間の中で、一瞬だけ光の跡を残して消えていく。誰も気づかなくても、誰も知らなくても、その傷痕みたいなものだけは、夜の記憶としてそこにあり続けている、そんなふうに。

 たぶんそれらの文字を残したのは、あの詩を書いたのと同じ人物だった。そう考えるのが、妥当だろう。こんな手の込んだ、面倒なことをする人間が、偶然にしろ何人もいるとは思えなかった。
 だから問題は、誰が、何のためにこんなことをしたのか、ということなのだけど。
「――殷の紂王は悪政を行ったため、周の武王によって滅ぼされた。徳を失った王朝が別の王朝にとって替わられることを、中国では易姓革命と呼んでいて」
 教壇では先生が、午後の雨ふりみたいな声で授業を続けている。
「…………」
 あたしはやっぱり気の進まない顔で、もう終わってしまったそれらの出来事をノートに書き写していった。

 部室に行ってみると先輩はもうそこにいて、机のところに座っていた。壁の詩と謎の文章を見つけてから、休みを挟んで最初の日にあたっている。
「何か、わかりましたか?」
 入ってすぐ左手の荷物置き場にカバンを置いて、あたしは先輩の向かい側にあたる席に座った。
 今日はかなりの陽気なので、部屋の窓は開けてあった。風光明媚とはいえないにしろ、遠くのほうには緑の山なんかが見える。瓶詰めにされていたみたいな冬とは違って、新鮮で気持ちのいい風が吹いていた。このままだと、夏なんてあっというまにやって来てしまいそうである。
「――――」
 先輩はずっと、真剣な顔つきで手元にある携帯をのぞき込んでいた。それが中国の歴史を調べているわけじゃないのは、たぶん確実だろう。
 あのあと、壁に書かれた文章はすべて、写真に収めてあった。一つ一つをブラックライトで照らしながら、撮影したのだ。もちろんかなりの手間だったけど、何事にも地道な努力は大切だった。
 先輩が見ているのは、たぶん撮影したその写真だった。何だかんだ言っても、先輩も今回のことは気になっているみたいだ。
 本のページをそっとめくるくらいのため息をついてから、先輩は携帯から目を離した。そして、問題の一部がどうしても証明できないでいる、数学者みたいな表情をする。
「たいしたことはわからないわね」
 と、先輩はまず言った。
「文章はどれも断片的だし、欠けている情報が多すぎる。物理的に考えて、おそらく左から順番に書かれていったのだと思うけど、それだってあくまで推測にすぎない。日付でも書いておいてくれればよかったのだけど」
 確かに、あそこに書かれているのは文章だけで、それに付属する情報は一切なかった。日付とか、署名とか、誰に宛てて書かれたものだとか。
「わたしが気づいたことは、あなたのそれとたいした違いはないでしょうね。ちょっと気をつければ、わかるようなことばかりよ」
 ……それは、どうだろう。
「でもせっかくだから、一度整理してみませんか?」
 あたしは忍びよるピューマのごとく、狡猾に言った。「それで何か、新しい発見があるかもしれませんし」
 先輩はさっきと同じ真剣な顔つきで、何やら考え込んでいた。別にあたしのことを疑っているわけじゃない、とは思いたい。
「――そうね、今までにわかっていることを、とりあえず書きだしてみましょうか」
 いったん机の上を整理するみたいにして、先輩は言った。もちろん、あたしには異議なんてない。
 イスから立ちあがると、先輩はすぐ後ろの黒板に向かった。それから、チョークを手に取って、これまでにわかっていることを箇条書きにしていく。かつかつというチョークが黒板を叩く音は、先輩らしい几帳面な感じがした。
 先輩が黒板にざっと書きだしたのは、大体次の通りである。

1、使われている主語は、「僕」と「私」の二種類。
2、ひとかたまりの文章には高さに違いがあり、「僕」のほうが高く、「私」のほうが低い。一人称から考えても、この事実はそれが男女の身長差に由来しているためと思われる。
3、文章の開始位置がほぼ一定で、文字の癖も似ていることから、筆記者は二人である可能性が高い。ちなみに、詩を書いたのはおそらく「僕」のほうであろう。
4、文章はほぼ横一列で、互いに重なったりはしていない。つまり、前の文書の位置は確認されている(=読まれている)と思われる。
5、内容については日常的なものであり、それ以上の含意や、犯罪を示唆するところはない。また、二人は知りあいのようではあるが、実生活での接触は避けていたようである。

「……つまり、男女の交換日記≠チてことですか?」
 先輩がチョークを置いたあとで、あたしは端的に言ってみた。
「…………」
 先輩は、すぐに答えたりはしなかった。軒先から雨だれが一つ落ちるくらいの、そんな間があく。
 しばらくして、先輩は言った。
「そうね、そう推測するのが自然でしょうね」
「ですよね」
 あたしは我が意を強くする。どこかの探偵ほどじゃないにせよ、あたしだってまんざらじゃないのだ。
「――けど、どうかしら」
 先輩は腕を組んで、ほんの少しだけ顰めっ面っぽい顔で黒板を見つめる。まるで、遠くの雨の気配でも気にするみたいに。
「何だか、それだけとは思えないわね。あんな詩を書いたり、壁に字を書くなんて、ただの交換日記にしては手が込みすぎてる。メールか、そうでなくても普通に手紙を書けばいいだけのはず」
「でも、ちょっと詩的じゃないですか? 壁に見えない文字で手紙を書くなんて」
「否定はしないわね」
 先輩は謙虚に肯定した。
「ただ、現実問題としてはそれほど詩的とも言えないでしょうね。屋外のあんな場所で、それなりに長い文章を書くのだから、雨の日や風の日や、寒い日や暑い日だってある。人目にも気をつけなきゃいけない――かなりの動機がないと、あんなことはできないでしょうね」
 白鳥には白鳥なりの苦労がある、ということだろうか。
「…………」
 言われて、あたしも黒板をにらんでみる。黒板も、あたしをにらんできた。でもあたしは笑ったりしないし、黒板も笑ったりしない。
「……わからないことなら、もう一つありますよね」
 あたしは気になっていたことを、口に出して言ってみた。
「壁の一部が空白になってることです。途中の一区画にだけは、文章が一つも書かれてない」
「――ええ」
 もちろん先輩だって、そのことは考えていたはずだ。
 あたしは、「壁には端から端まで使って、たくさんの文章が綴られていた」と言ったけど、あれは正確じゃない。実際には何故だか、その途中に空白部分が一ヶ所だけあるからだ。
 壁には一メートルおきくらいに木の仕切りがあって、いくつかの区画に分かれていた。文章は当然、その区画ごとに書かれているわけだけど、左から六番目、真ん中よりちょっと向こう側くらいのところだけは、何も書かれていない。そしてそこだけを飛ばして、文章はまた何事もなかったみたいに続いているのだった。文章の内容や連続性からは、その理由や原因を判断することはできない。
 何だかそれは、わざわざピアノの鍵盤が一つだけ外されているみたいで、どう考えてもおかしなことだった。
「何か、そこにだけ書けない事情でもあったんでしょうか?」
「…………」
「それとも、何か意図があったとか?」
 あたしが水を向けてみても、先輩は答えたりしなかった。もしかしたら、もうちょっと高級な天然水じゃないとダメなのかもしれない。
 やがて先輩は、コップに十分水がたまったみたいにして言った。
「そうね、まずはそのことから調べてみましょうか」
 先輩のその言葉に、あたし首を傾げる。
「……ということは、先輩はもう何かわかってるんですか?」
「ちょっとした仮説なら、一つあるわね」
「どんな仮説ですか?」
 あたしが訊くと、先輩は少し考えてから答えた。木の葉が枝から離れる前の、ほんの短い一瞬みたいに。
「それは、確認してみればわかることよ」
 残念だけど、これ以上は何を質問しても無駄そうだった。先輩がそうだと言えば、絶対にそうなのだ。梃子を使えば地球くらいは動かせるかもしれないけど、先輩を動かすことはできない。
「けど、本当にそれでわかるんですか?」
 念のために、あたしは訊いてみた。
「正確には、わかるかもしれない≠ニいうだけよ」
 先輩は謙虚に、肯定も否定もしなかった。
「仮説の提出とその検証――それが、物事を正しく理解するためのプロセスなのだから」
「……あんまり、詩的じゃありませんね」
 そう言ってあたしが難しい顔をすると、先輩は珍しく同意した。
「――かもしれないわね」

 とりあえず、あたしと先輩は校長室の前までやって来ていた。
「……て、何で校長室なんですか」
 と、あたしはセルフサービスでつっこみを入れる。
 学校で誰もよりつかない場所というのはいくつかあるけれど、校長室というのはその筆頭だろう。普通の生徒にはまず用事なんてないし、あったとしたらそれは、よっぽど誉められるか、よっぽど叱られるか、そのどちらかでしかない。
 というか、あたしもここに来るのは初めてだった。
 職員用の玄関近く、校舎一階南棟奥に、校長室は坐しましていた。人気はないし、物音もほとんどしない。何だか、別の惑星の地面にでも立っているみたいだった。
「別に校長室に用があるわけじゃないわ」
 と、先輩はあくまでクールだった。冷蔵庫の代わりに使えそうなくらいクールだった。
「用があるのは、その前にある廊下のところよ」
 言葉通り、先輩は校長室前の廊下で足をとめていた。ほかの廊下と特に違いはないけれど、短くてすぐ行きどまりになったその先には、しっかりと「校長室」のプレートがかかっている。
 もしかしたらここだけ大気の成分が違うのか、変に息苦しい感じがした。
「一体、こんなところに何の用があるんですか?」
 あたしは幽霊を怖がる子供みたいに、小声になって訊いた。そんなことをしても、意味がないのはわかっていたけど。
「わたしが確認したかったのは、これよ」
 そう言って先輩が指さしたのは、校長室の向かいにかけられた大きめのボードだった。そこには、「鵬馬高校沿革史」と書かれている。
 ボードには縦が一メートル、横が二メートルくらいの長さがあった。縦書きになっていて、年代と出来事が書かれている。下のほうには写真があって、当時の校舎や市の様子なんかがわかるようになっていた。
 つまるところそれは、学校についての年表だった。古代中国ほどじゃないにしろ、この学校にだって歴史というものはあるのだ。
 とはいえ学校の歴史と、壁の文章が空白になっていることに、何の関係があるというんだろう。
「愛校心を育むのもけっこうですけど、学校の歴史を勉強してる場合じゃないんじゃないですか?」
 あたしの疑問は、当然のごとく無視された。そんなことに答えたって、時間の無駄だからだ。時間を無駄にするのは、よくないことなのだ。
「――――」
 先輩は熱心に、明らかに何らかの目的をもってボードを見つめていた。腕利きの画家が、対象をすばやくスケッチしていくみたいに。
 もちろん、あたしには先輩が何を探しているのかはわからなかった。半人前の弟子としては、いたしかたのないことではあったのだけど。
「……あった、これね」
 やがて、先輩は言った。
「五年ほど前のことね――地震で弓道場の安土が一部剥落、同年に補修が完了」
「それって……」
 いくら日光浴中のワニみたいに頭の鈍いあたしにだって、さすがにぴんと来るものはあった。
「もちろん、文字が空白になっている理由はいくつも考えられるわ」
 先輩は順序よく、机の上を整理していくみたいに言った。
「たまたま、そこに書けない事情があった。たまたま、気まぐれか何かでそこには書かなかった――でも、現在の状況を見るかぎり、それは考えにくい。日付がないとはいえ、おそらく文章は時間軸にそって書かれているでしょうし、それを乱すような理由があったとも思えない。だとしたら――」
「誰かに消されたと考えるのが妥当……ってことですか?」
 あたしが言うと、先輩はこくりとうなずいた。
「文章は本人たちではなく、第三者によって消された可能性が高い。同時に、ほかの文章が消されていない以上、それが意図的なものであったとは考えにくい。漆喰は耐用年数の長い素材だし、問題がなければ全面を塗りなおしたりもしない。つまりそれは、何らかの事故が原因であったと推測できる。学校の施設を誰かが勝手に修理するわけもないから、そのことに関する何らかの記録が残っているはず」
 言われて、あたしは年表のその部分に目をやってみる。まさしく、これがその記録というわけだった。仮説は検証に耐えたのである。
 とはいえ――
「でも、だからどうしたっていうんですか? 空白になってる理由は確かにわかりましたけど、それであの文章について何かわかったわけじゃないですよね」
「文章を書くときの基本は知ってる?」
 先輩はあたしの質問に対して、ずいぶん迂遠なことを言ってきた。
「……基本、ですか?」
 あたしは日光浴を終えたワニみたいに首を傾げる。わかりやすい文章を書くこと、だろうか。
「文章の基本は、5W1Hよ」
 宝くじみたいな運試しに興味のなさそうな先輩は、さっさと答えを口にした。
「それは、物事を理解する基本でもある。今、わたしたちは壁の文章についてhow、what、whereについてわかっている。残りはwho、why、そしてwhenね」
「……それが、この年表でわかるんですか?」
 あたしはまだ首を傾げ中だった。
「少なくともこれで、壁に文章が書かれた上限がわかるわね。当然、文章が書かれたのは壁が補修される以前、五年より前か、その近辺。補修されたあとであることはありえない」
 ――なるほど。
「でもそれじゃあ、百年前か二百年前かもわからないですよ。まあ、この学校が出来たのはそんな昔じゃないですけど」
 あたしがすかさずけちをつけると、先輩はそんなことは百年も前から予測していたみたいに言った。
「いえ、もう一つわかっていることがあるわ。それで、下限についてもおおまかに決定することができるの」
「何か、そんなのありましたっけ?」
 あたしは自分の記憶をビニールプールの金魚みたいに網ですくってみるけど、目が粗すぎるのか、ひっかかるほどのものがないのか、何も思いついたりはしなかった。あるいは、その両方が原因かもしれない。
「もしも文章を注意深く読んでいれば、気づいたはずよ――もっとも、ちゃんとした予備知識がないと難しいでしょうけど」
 予備どころか本体のほうも危ういあたしとしては、早めに降参しておくしかなかった。大体、まだ全部の文章だって読んでないのだ。
「あたしは特に気づかなかったですけど、何かありましたっけ?」
 しれっとした顔で、あたしは質問する。
「……あの中に、市揖(いちい)湖について書かれている箇所があったわ」
 先輩は音のない雨みたいな、不思議に静かな声で言った。別にあたしのことを疑っているわけじゃない――はずだ。
「『私』が、湖のまわりを歩いて一周したことについて書いているところよ」
「それが、どうかしたんですか?」
 あたしにはそこまで言われても、まだ何のことかわからなかった。湖自体は知っているし、小学校の遠足で行ったこともある。市ではけっこう有名なところだった。
「あの湖が整備されて、周囲に遊歩道が作られたのは、十年前のことなのよ。つまりそれ以前に、湖のまわりを歩いて一周できたはずがない。だから、これが遡れる下限になるというわけ」
 ――なるほど。
「けど、先輩よくそんなこと知ってましたね。十年前なんて、あたしたち小学生ですよ」
 実際問題、遠足で現地にまで行ったわりに、あたしはそんなこと全然知らないのだった。
「まあ、わたしもたまたま知っていただけよ」
 先輩は星占いが偶然当たっただけで、何でもないことみたいに言う。
「何にしろ、これで壁の文章が書かれた時期をある程度絞ることができるわけね。壁が補修された五年前から、湖が整備された十年前。壁の文章はそのあいだに書かれた可能性が高い――」
「5W1Hのうち、whenも含めて四つまでわかったわけですね」
 あたしは指折り数えて計算してみた。
「でも、肝心のwhoとwhyがまだですよ」
「それが一番、難しいところね」
 名探偵にも不可能はあるらしく、先輩は唇に指をあてた。
「学校の敷地であることや、文章の内容から、二人はうちの高校の生徒だったと考えるのが自然ね。けど、仮に五年前に一年生だったとしても、とっくに卒業してしまっているはず。文章に個人的な情報は一切ないから、そこから糸を手繰るようなこともできない」
「じゃあ、諦めちゃうんですか?」
 犯人の足跡が途切れてしまったら、普通はもうどうにもならないはずだけど。
「いえ――」
 と、先輩は唇から指を離して言った。飛んできたミチバチを、手でそっとつかまえるみたいに。
「歴史は年表の中にだけあるわけじゃないわ」

 春先生は、本名を三春薺(みつはらなずな)という。
 でも大抵の人は(先生たちも含めて)、三春先生とはいわずに、春先生と呼んでいる。そのほうがしっくりくるからだ。それはたぶん、木偏に花と書いて、「椛(もみじ)」と読ませるようなものだった。
 犬のしっぽみたいに癖がかった髪は、雪と同じくらいの白色をしている。ちょっと大きめの、金属フレームの眼鏡をかけていて、その奥にある瞳は昔の駄菓子によく似た感じの優しさだった。福々しいというほどではないけれど、やや小太りの、丸い顔をしている。顔のしわは、大福的な柔らかさだった。
 春先生は、実に春先生なのだった。
 そして春先生のもう一つの異名(?)は、鵬馬高校の生き字引≠ニいう。
 二十代の頃からずっとこの高校に勤めていて、定年退職したあとも、非常勤講師として授業を教えていた。担当は、現代国語。それこそ春の大地みたいに温和だし、注意したりたしなめたりするときでも、感情的になったり居丈高になったりしない。授業もわかりやすくて、生徒たちからは人気だった。
 非常勤だから学校の行事や部活動に参加することはできないのだけど、文芸部にはよく顔を見せていた。壊れかけのオーブンみたいにあまり熱心とはいえない顧問の先生と比べると、あたしたちと春先生のほうが、よっぽど関係性は深い。
「三春先生に、お聞きしたいことがあります」
 と、先輩はまず言った。先輩は春先生のことを本名で呼ぶ、少数派だった。
 先輩とあたしは、放課後の職員室にやって来ていた。大半の生徒は帰宅したり、遊びに出かけたり、部活に行ったりしているので(あたしたちもそうなのだけど)、室内にはほとんど先生の姿しかない。先生たちはみんな、明日の授業の準備や、今日の残務処理なんかで忙しそうだった。当然だけど、先生たちだって毎日の予習・復習をしなくちゃならないのだ。
 喫茶店とまではいかないにしろ、わりと静かな職員室の中で、春先生は自分の机に座って作業をしているところだった。どうやら、小テストの採点をしていたらしい。
「……あら、どんなことですか?」
 ペンをとめて、春先生は先輩のほうを向いた。仕事の邪魔をされても、昼寝中のゾウアザラシくらい気にした様子はない。
「学校であった、少し昔のことについて知りたいんですが」
「昔って、どれくらいのことかしら?」
 自分の部屋の本棚と立派な図書館が違うみたいに、ただの昔も半世紀くらいあると簡単にはいかないらしかった。
「大体、五年前から十年前のあいだのことです」
 半世紀が十分の一まで縮まったわけだけど、それでも五年の長さがあった。考えてみるとそれは、あたしの人生の三分の一くらいなわけである。
「ずいぶん漠然としているけど、一体その時期のどんなことを知りたいのかしら?」
 もっともな質問に、先輩とあたしは目をあわせた。でもそれは儀礼上のアイコンタクトであって、深い意味があるわけじゃない。
「実は――」
 と先輩はちょっとためらってから、これまでのことについてかいつまんで説明をはじめた。
 壁の事件については春先生も知っていたので、話は意外と早かった。あたしたち(主に先輩)が調べたことを、順序よく伝えていく。砂粒で浮かんできた詩、ブラックライトで光る文字、文章の空白と壁の補修、湖についての記述――
「何だか、面白そうなことになってるわね」
 と、春先生は楽しそうに言った。文芸部の活動とは月とすっぽんくらい無関係だったけど、そんなことでいちいち叱ったりしない。生徒から人気があるはずだった
「壁のことは、そういえばそんなこともあったかしら。たいした地震じゃなかったけど、それなりに揺れはしましたからね」
「その頃のことで、何か思いあたることはありませんか?」
 先輩は料理人が鍋の火加減でも見る感じで訊いた。
「どうかしらね――」
 無理もないけれど、春先生は煮えきらない態度だ。
「いろんなことがあったといえばあったけど、その話に関係するようなこととなると、ちょっと思いつかないわね。大きなトカゲが迷い込んできたり、校舎に雷が直撃したり、化学実験室で火事があったり」
 なかなか聞き捨てにならない話ばかりだけど(特に最後のは)、今は関係がなさそうなのでそのままごみ箱に移動させてしまう。
「とりあえず、日記を読み返してみましょうか」
 春先生は飛んでいる風船をいくつかつかもうとするみたいに言った。
「何か変わったことがあれば、書いているはずよ。もっとも、あまり期待されても困りますけど。せいぜい、犬が棒にあたるくらいに考えておいてね」
「すみません、お願いします」
 と言って、先輩は礼儀正しく頭を下げた。あたしも慌てて、その半分くらいの礼儀正しさで頭を下げる。
「あら、いいんですよ」
 春先生はあくまで、春先生っぽく朗らかだ。
「ちょっとそそられる話ですからね。見えない文字で日記のやりとりだなんて、ロマンチックだわ。一体、どんな二人だったのかしら?」
 確かに、それはあたしも気になっているところだった。
 とりあえずの用事はすんだので、先輩とあたしはその場から立ち去ることにする。職員室では先生たちが相変わらず、大人しい鳥みたいに仕事を続けていた。
 その帰り際に、春先生はちょっと思い出したみたいに言った。
「ところで二人とも、文化祭の準備は進んでますか?」
「……かなり先のことですよね」
 あたしは一応、控えめに確認しておくことにする。文化祭までは、まだ半年くらいあるのだ。三年も先のことじゃないとはいえ、鬼がどんな顔をするかはわからない。
「あら、半年なんてあっというまよ」
 春先生は笑って言った。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也=\―光陰矢のごとし、ね」
 あたしたちの四倍以上も生きている先達が口にすると、それは実に説得力のある言葉ではあった。

 ――春先生が先輩とあたしを訪ねにやって来たのは、次の部活動の日だった。
「調べてみたら、ちょっと気になることがありましたね。あの壁と関係があるかどうかはわからないけど」
 そう言って、春先生は一枚のコピー用紙を机の上に置いた。特にどうということのない普通紙には、何だかよくわからない文字列が印刷されている。

(筆者註:本文中に表記できない文字があるため、()にして代用しています。(濁点)は濁点をつけて、(小)は小文字として、(下線)は下部に線があるものとして読んでください)

を(濁点)をさ(小)はをそ はち そちに
 とを(濁点)はね(濁点)はを(濁点)き(小)は いぞれ はゆ
 おくちをそ ねお(濁点)ゆ
 ほせべちをそ はをゑ

 それから、各文字列の最後にはすべてY(下線)≠ニいう記号がつけられていた。
「何ですか、これ?」
 あたしはフランス料理のメニューを見せられたときと同じくらいの、よくわからない顔をした。
 それに対して、春先生はこともなげにこう答えている。
「暗号=Aじゃないかしら?」
 ……暗号。
 今までの人生で、クイズや小説以外の、生の暗号なんて初めてだった。どこかの少年にならって、父さんは嘘つきじゃなかった、と喜ぶべきだろうか。
「……これは、すべてこのYに似た記号がつけられていたんですね?」
 そんなあたしを差し置いて、先輩は列車の運行時間を守る機関士のごとく、いつもの冷静さで言っている。
「ええ、そうよ――何のことかはわからないのだけど」
「この暗号は、学校にあったんですね?」
「私が見かけたものは、全部そうね。ほら、生徒玄関のところに自由掲示板があるでしょ。入部の勧誘だとか、イベントのポスターが貼ってあるところ。あそこのところに、いつもいつのまにか貼ってあったの」
「期間は、いつ頃のことですか?」
「たまたま見かけたものをメモしただけだから、気づかなかったもの、メモまではしなかったものもありますね。それでも最初に見つけてから、最後に見かけてそれっきりになったものまでは、九年から六年前のあいだということになるわね」
 つまりは、先輩の言う十年前から五年前までのあいだに、ぴったり収まっているということだった。
 そして、それは三年間続けられたことになる――
「掲示板に貼られていたのは、いつも印刷されたものだったから、そこから誰なのかを特定するのは難しいでしょうね。私が知るかぎりでは、目撃者もいませんし。いつも、誰も気づかないうちに貼られていて、誰も気づかないうちに剥がされていたわね」
「…………」
 先輩は黙って、その文字列を見つめていた。あたしにはどう考えても意味不明だけど、見る人が見ればわかるものなのかもしれない。どこかの大佐も、手帳を繰りながらそんなことを言ってたっけ。
「はっきり言って、私にはこれが壁の文章と関係があるものかどうかはわかりませんね」
 と、春先生は犬のおまわりさんくらいに困った顔をして言った。
「でも、志坂さんの言う条件で、何か変わったことというと、これくらいしか思いつかなかったのよ。役に立てなくて申し訳ないのだけど」
 そう言われて、先輩は小さく首を振った。
「こちらこそ、無理を言ってすみません。今のところはっきりはしませんけど、もしかしたら何か重要なことがわかるかもしれません」
「そう? まあ何はともあれ、がんばってちょうだいね。あと、謎解きもよいけれど、勉強もしっかりしておくこと」
 先輩とあたしはお礼を言って、春先生は帰っていった。あとには机の上の紙と、ある意味では勉強より難しそうな、謎の暗号が残されている。
「どうですか?」
 あたしはハムスターが回し車をまわすみたいに、自分でもよくわからないまま言った。
「……さっき先生にも言ったけど、今のところはよくわからないわね」
 まあ、それはそうだ。神様だって、世界を創るまでには六日間かかったのだから。
「この暗号、あの交換日記と関係あるんですかね?」
 あたしはもう一度、謎の怪文書を眺めてみた。何度眺めたって、もちろん答えが浮かびあがってきたりはしない。
「条件的には、可能性はあるわね」
 先輩は足場に気をつけるみたいにして、慎重に言う。
「時期は一致してるし、ここの生徒だったっていう仮定ともあう。行動の種類として、秘密めいたところなんかは、同じ系統といってもいい――」
「類は友を呼ぶ、って感じですね」
「……当たらずとも遠からず、というところよ」
「ふうむ」
 と、あたしは腕組みして、古いゲームのパスワードなみに意味不明なその文字列に目をやった。
 ――何にしろ、謎が謎を呼んだことだけは確かみたいである。

 世界史の授業では相変わらず、古代中国についての話が続いていた。それは混迷するとともに、数々の有名なことわざが誕生した時代でもあった。
「ここに、戦国時代は終わりを告げ、秦による統一が成ったわけだ」
 先生は白墨でかつかつと黒板を叩いている。白墨って、何だか古代中国っぽかった。
「…………」
 あたしはけれど、授業のことはほとんどおざなりで、手元にある紙を見つめていた。
 ――もちろんそれは、例の謎の暗号を書いた紙(のコピー)だ。
 何度見ても、意味不明でしかない。まず最初のを≠ノ濁点がついていること。さ≠ェ小書きにされていること。今はもう五十音にないゑ≠ェ使われていること。それから、文末のYに似た記号。
 そもそもが、まともに読めるように出来ていなかった。あたしはくまのプーさんみたいに、紙を逆さにしたり、ひっくり返したりしてみたけど、ますます意味不明になるだけだ。
 何しろ、暗号の解読方法なんて学校では教えてくれないのだから仕方がない。
 あたしが一円玉の重さもないくらいのため息をついていると、先生も同じように嘆息していた。
「ようやくのことで中国を統一した始皇帝だが、その死後には早くも戦乱が戻ってくる。まさに、滄海変じて桑田となる≠セな」
 それから、ことのついでみたいにこんな言葉を続ける。
「しかし時代というのは思わぬものまで変じるもので、この桑田≠ノも変転はやって来た――これ、何だかわかるか?」
 先生がそう言って黒板に書いたのは、例のYに電気スタンドの足をくっつけたみたいな記号だった。
 とっさのことで、あたしはびっくりする暇もなく、豆腐の角に頭をぶつけたみたいにきょとんとしてしまう。
「これは、桑畑を表す地図記号だ。ところが、この記号はもう使われていない。養蚕業が衰退して、桑の木も植えられなくなってしまったからだ。滄海変じて桑田となるが、その桑田もこんな形で変じてしまう。実に、変じることさえ変じてしまうわけだな」
 先生はそれだけのことを言うと、また授業に戻っていった。項羽と劉邦、四面楚歌、捲土重来――やっぱり、四字熟語の宝庫ではある。
 そんな授業を聞きながら、あたしは意味もなくY字の記号に丸をしていた。なるほど、桑畑のことだったんだ。
 世界史の授業も、役に立たないわけじゃないみたいである。

 部室に行ってみると、先輩はもうそこにいて、机のところに座っていた――デジャヴ、だろうか。歴史は案外、同じことを繰り返しているのかもしれない。
「先輩、あの記号の意味がわかりましたよ!」
 開口一番、あたしは荷物も置かずに嬉々として告げた。うぐいすが、今年最初の鳴き声をあげるみたいに。
「――桑畑でしょ」
 あたしはポンペイで火山の噴火に巻き込まれた人々みたいに、ゆっくり動きをとめた。
 それから、電子レンジでかちこちのお肉を解凍するみたいにして、ようやく床にカバンを置く。
「……何で、知ってるんですか?」
 すると先輩は、携帯を取りだして実にあっさり告げた。
「画像検索よ」
 鋏にはいろいろな使いかたがあるけど、あたしみたいな愚か者には、やっぱり使い道なんてないのかもしれない。
 あたしはまた一つ賢くなったところで、机の前に座った。ちょっとだけため息をつきながら。
「……でも、桑畑とこの暗号に、何の関係があるんですか?」
 と、あたしはそのことを訊いてみる。当然だけど、鋏じゃないあたしには、そこまではわかっていない。
「おそらく、暗号そのものとは無関係でしょうね」
 先輩はこれまた、実にあっさりと告げた。
「二人のあいだで通用する、何らかの意味を持った記号。これは自分からのメッセージだと伝える、たぶん署名みたいなものね」
「じゃあ、暗号を解くヒントでも何でもないってことですか?」
 あたしはがっくりしてしまう。
「そうね――でも、暗号なら一応解けてるわよ」
「……え?」
 聞き間違いかと思ったけど、そんなはずはない。西から昇ったおひさまが東に沈んだとしても、先輩がこんなことで冗談を言うはずはないのだ。
「一体、どうやって解いたんですか?」
 後学のためにも、あたしはぜひとも聞いておきたかった。
「当然だけど、いくつかの仮定が必要だったわ」
 先輩はもったいぶるでもなく、自慢するでもなく、数学者が証明を解説するみたいに淡々として言った。
「解読のための『鍵』がわからない以上、それは必要になる。問題は、どれくらい妥当性のある仮定を設けられるか、なのだけど――」
 それで先輩が仮定したのは、とりあえず次のことだった。
 まず、暗号は壁の文章を書いた人物と関係している、ということ。それから、おそらくひらがなによる単一の換字式暗号(平文と暗号文の文字が一対一で対応している)であること。文中のスペースは単語の区切りを示していること。そして最後に、この暗号が場所を表している、ということ。
「――あくまで推測でしかないけど、こう考えてみたの。あの日記が書かれているのは、はたしてあの場所だけなんだろうか、って。仮に三年間、同じことを続けていたとしたら、いずれあの場所だけでは足りなくなってしまう。現に、あの壁はもういっぱいだった。ノートを一冊、使い切るみたいに」
 先輩は職人がレンガを積みあげていくみたいに、一つ一つ話を進めていく。
「だとしたら、新しいノート……壁が必要になるはず。でも、どうやってその場所を相手に知らせるのかしら? 二人は日常生活では、努めて相手を避けていた。服のわずかな色移りさえ怖れるみたいに。だとしたら、その答えがこの暗号なのかもしれない」
「つまり、暗号は次に文章を書く場所を教えるためのものだった……?」
 あたしがそう言うと、先輩はうなずいた。機械のスイッチを、手順通りに入れていくみたいに。
「それだけの仮定をしたうえで、暗号が解けるか試してみたわ。まずは、定石通りの頻度解析ね――といっても、これをそのまま使うのは無理だった。日本語はアルファベットとは違うし、文字の出現頻度もそこまで偏っていない。それに、暗号文にもそこまでの量はなかったから」
 ふむふむ、とあたしは半分くらい理解したままうなずいておく。
「だから、いくつかの推論と想像力を働かせてみた。……あの暗号文が書かれた紙は持ってるかしら?」
 あたしがカバンから紙を取りだすと、先輩はそれを机の上に置いて、ペンを手にとった。先輩はまず、暗号文のそれぞれに数字を振っていく。

@ を(濁点)をさ(小)はをそ はち そちに
 A とを(濁点)はね(濁点)はを(濁点)き(小)は いぞれ はゆ
 B おくちをそ ねお(濁点)ゆ
 C ほせべちをそ はをゑ

「まずは、文字列そのものに注目してみる。見るかぎり、一番多いのはを≠ニそ≠ヒ。それから、をそ≠ェ三つの単語に使われている。学校にある場所で、一番多いのって何かしら?」
 訊かれて、あたしはわりと反射的に答えていた。
「……教室、ですかね」
「ええ、そうね」
 先輩は満足そうにうなずいて、文中のを≠ニそ≠ノ丸をした。
「ではこれが、し≠ニつ≠ノ対応しているとしましょう。すると@はこうなる」

@ じし○◯しつ ◯◯ つ◯◯

「ここまで来ると、何となく想像が働いてこないかしら? 特に、日本語で普通小書きにされるのは、つ・や・ゆ・よ≠フ四種しかない」
 言われて、さすがのあたしにもぴんと来るものがあった。
「自習室――!」
「正解よ」
 先輩はさ≠ニは≠ノ丸をした。これが、ゆ≠ニう≠ノ対応しているわけだ。
「じゃあ次に、Aを見てみましょう。今までで、これだけの文字は判明してるわ」

A ◯ゅう◯(濁点)うじ○う ◯づ◯ う◯

「場所に関して、わたしたちには一つだけもう答えがわかっているものがある。ここには、それがぴったり当てはまるわ。小書きは残り三種。ついでに言うと、日本語で濁点がつくのは、か・さ・た・は≠フ四行ね」
 あたしはちょっと考えてから、文字を一つずつ埋めていった。
「弓道場、安土、裏――」
 これで、と∞ね∞き∞い∞れ∞ゆ≠ワでわかったことになる。
「Bも見てみましょうか」

B ◯◯◯しつ と◯(濁点)ら

「これは、わからないんじゃないですか?」
 あたしは首をひねった。ひねったって、もちろん答えなんてわからないけれど。
「そうね、けど後ろの文字列に注目してみましょうか。さっきも言ったけど、濁点がつくのはか・さ・た・は≠フ四行よ。これを総当りにしてみると、当てはまるのはひ=\―扉、ね」
「……ということは」
 と、あたしはおんぼろ車のエンジンをかけるみたいに、最大限の注意力を発揮しながら言った。
「頭のところも同じ文字だから、ひ◯◯しつ≠ナすね……ええっと、ずばり被服室!」
「そう――ではここで、だいぶ文字がわかったから、一度すべて書きだしてみましょうか」
 先輩はそう言って、まずはあ≠ゥらん≠ワでの五十音を羅列した。お皿に入った豆を箸で移していくみたいな、けっこう手間のかかる作業である。それから、その隣に解読し終わった文字を書き込んでいく。

あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと ……
 い◯は◯◯ ◯とち◯◯ ◯を◯◯◯ ◯れそ◯ね ……

「――さて、これを見ると、何だか見覚えのある気がしてこないかしら?」
 先輩の言葉通り、あたしは何だか見覚えがある気がしていた。古き良き寺子屋はなくなってしまったけれど、日本人なら誰でも一度は聞いたことのある、例の歌だ。
「いろはにほへとちりぬるを――」
 意味は知らなくても、その語呂だけは誰もが何となく覚えている国民歌だった。
「暗号文の文字列にゑ≠フ字が含まれているのは、そのためでしょうね」
 と、先輩は補足した。
「ひらがな四十六文字に対して、いろは歌は四十七文字。これなら暗号化には十分だし、鍵であることさえ知っていれば、暗号化も復号化も容易にできる。おそらく二人には共通の知識として、それがあったんでしょうね」
 何だかここまでの話を聞いていると、あたしにでも解けそうな気がしてくるから不思議だった。実際には、ただの一文字だってわかりはしなかったのに。
 こういうのは、二度とするまいと思ったことを三度やってしまうみたいな、深い人間心理に起因しているのかもしれない。
「……それはともかく、Cが余っちゃいましたね」
 あたしは内省モードから切り替えて、先輩に訊いてみた。
「これは、確認用に利用できるわ」
 と、先輩はペンを動かしながら言った。
「仮に今までの推理が正しいとすると、Cはこうなる」

C おんがくしつ うしろ

「――というわけで、さっそく行ってみましょうか」

「……でも先輩、何だって今回のことにそこまでこだわるんですか?」
 あたしは先輩にくっついて音楽室に向かう途中で、そう訊いてみた。
 放課後の廊下に人通りはほとんどなくて、水族館を歩いているみたいに静かだった。窓から差す光は傾いていたけど、そこに冬ほどの弱さはない。あたり前だけど、地球は経過した時間の分だけ、太陽のまわりを移動しているのだ。
「…………」
 あたしのその質問に、先輩はすぐには答えなかった。正直、どの口でとは自分でも思うけど、でもそれはあたしの正直な感想でもある。先輩はらしくないくらい、今回のことに執着していた。
「……わたしは、わたしの心をごちゃごちゃさせたくないだけ」
 歩いたまま、先輩は答える。
「このまま亀に追いつけないアキレスみたいに、中途半端にはしておけない。それに、あの詩が――」
 先輩の言葉は、風船の空気が抜けるみたいに途切れてしまった。
「あの詩が、どうかしたんですか?」
「……いいえ、何でもないわ」
 もちろんそれは、「何でもない」はずはなかった。でもこうなった先輩は、牡蠣なんて目じゃないくらい何もしゃべったりしないのだ。だから、質問するだけ無駄というものだった。
 階段を降りて、廊下を歩いて、やがて先輩とあたしは音楽室の前まで来ていた。今日は合唱部も吹奏楽部も休みなので、教室はコードをひっこ抜いた掃除機みたいに静かである。
 扉を開けて中に入ると、室内には誰もいない。あたしたちにとっては、実に好都合だった。
「うしろ≠チて、どの辺ですかね?」
 机の向こう側に、あたしは視線を向ける。
「文字が書けて、できるだけ左端に近い場所でしょうね――今でも文字が残っていれば、だけど」
 先輩とあたしは机のあいだを抜けて、教室の後ろに向かった。誰もいない机だけが並んだその光景は、何故だかからっぽの棺が横たわっているみたいでもある。
 音楽室の壁は防音用の穴があいたタイプじゃないので、文字を書くには便利そうだった。白い壁面の上のほうには、おなじみの音楽家たちがずらっと並んでいる。でもその人たちは作曲のことばかり考えていて、音楽室の出来事になんて興味はなさそうだった。
「さて、どうかしら」
 先輩は(自前の)ブラックライトを取りだすと、左端の文字がありそうな場所に向けた。それから、鳩を飛ばしたりテープカットしたりといった演出もなく、あっさりとスイッチを入れる。
 そこには――
 一瞬の流れ星みたいに、文字が光っていた。
「あったんですね、やっぱり……」
 どちらかというとため息をつくみたいにして、あたしは言った。
 そのあいだに、先輩は壁全体をざっと確認している。文字は前回と同じように、端から端まで続いていた。相変わらず高さは二種類あって、それは何だか二人の人間が仲よく並んで歩いているみたいでもある。
「――――」
 文章の一つで、先輩は立ちどまった。あたしも横から、その部分をのぞき込んでみる。
 そこには、こんなことが書かれていた。

――時々、とても悲しくなります。
 私たちが月と地球で通信を送りあうみたいにして、こうやっていくら言葉を重ねても、心を通いあわせても、結局それはどこにも行きつかないものです。底のないコップに水を汲むことはできません。
 そう思うと、すごくやりきれない気持ちがします。私たちは、永遠に一つの場所を回り続ける星と同じなのです。私たちは自分にとって本当に必要なものを見つけているのに、それを手にすることはできません。

「これって――」
 とても壊れやすいガラス細工でも前にしたみたいにして、あたしは言った。
「桑畑は、おそらくピュラモスとティスベの神話を暗示しているのよ」
 先輩はいつも通りの、でも中身だけがちょっと違う感じの静かさで言った。
「ロミオとジュリエットの原型になったこの神話は、二人の男女の悲恋物語でもある。親同士の折りあいが悪くていっしょになれなかった二人は、それでもお互いに深く愛しあっていた。そしてある日の夜、二人はとうとう駆け落ちしてしまう。でもそこで些細な行き違いと不運があって、二人は死ぬことになる。その時に流れた血を浴びて、それまで白かった桑の実は赤黒く染まるようになった――」
「この二人も、同じだったってことですか?」
 あたしは眉をひそめる。
「……詳しい事情まではわからないけれど、何か似たようなことはあったんでしょうね。確かなのは、二人は恋愛感情を持っていた、ということよ――それも、丈夫なロープくらい強く、しっかりと」
 先輩がライトをどけると、文字はたちまち消えてしまった。そこにはただ白い壁があるだけで、どんな物語も語ってはいない。
 ――流れ星がどんなに強く、明るく輝いたとしても、その光の痕跡が夜空に残ることはないみたいに。
「二人は、どうしてこんなことをしたんでしょう?」
 あたしは自分でもよくわからないまま、何かを非難するような、胸が苦しくなるような、そんな気持ちがしていた。その気持ちは何だか、水の中でボールを抱えているときに似ていた。
「……そうね、もしかしたら最初は、ちょっとしたやりとりのつもりだったのかもしれない」
 先輩は少しだけ考えながら言った。
「子供が遊びでかくれんぼでもするみたいな、そんな。短くて一時的な、他愛のない約束。でもそんなことを繰り返すうちに、いつしかやめられなくなってしまった。お互いの心に書かれていた文字を、もう書き換えられなくなったから」
 先輩は大昔の哲学者みたいな、難しい顔で言った。世界には解決不能の物事があふれている。
「結局、二人はどうなったんでしょうか?」
 子供が飛んでいる風船の行方でも訊ねるみたいにして、あたしは言った。
「――さあ、どうかしら」
 当然だけど、先輩にだって答えなんてわかりはしなかった。現実は、名探偵が生きている世界みたいには出来ていない。
「少なくとも、普通に卒業はしたんでしょうね。何の噂にもなっていないみたいだから。そのあとどうしたかは、わからないわね。物語みたいに駆け落ちでもしたのか、それは悲劇に終わったのか」
「卒業したのが六年前だとすると、二人ともそれなりに大人になってますね」
 あたしはその時間経過を考えてみる。地球が太陽のまわりを、六周する時間を。
「いくら考えても、たぶんわたしたちにはこれ以上のことはわからないでしょうね」
 そう言って、先輩は軽く肩をすくめてみせた。
「流れ星はとっくに、夜空の暗闇に消えてしまっているのだから」
「…………」
 あたしはそれでも、目の前にある壁をしばらく眺めていた。白い壁は沈黙したままで、そこにいたはずの二人については何も語ったりはしない。
 答えは、どこにもないのだった。
 もちろんそれは、世界中の壁を一つ一つ探しまわったとしても。

 ――その後、壁に書かれた詩は、雨が降ったり風が吹いたりしているうちに、自然と消えてしまっていた。どうやらその詩は、誰かみたいな「デクノボー」にはなれなかったみたいである。
 詩が消えてしまうとほぼ同時に、文芸部への疑いも立ち消えになっていた。元々、火のないところから立った煙なのだから、当然ではあるのだけれど。
 そうして文芸部はいつもの週二日の活動に戻り、詩を書いたり、小説を書いたり、本の感想を交換しあったりした。もちろん、文芸部の本分は創作活動にあるのであって、探偵稼業を営んでいるわけじゃない。
 先輩の様子にも、特におかしなところは見られなかった。相変わらずクールで、頑なで、近よりがたい。研究の困難な野生動物くらいに、近よりがたい。
 時々、あたしが壁の詩について話題にしても、気のない返事をするだけだった。
「……これ以上、わたしたちにできることはないわね」
 ただ、そう言うだけで。
 日々はそうして、何事もなく消費されつつあった。誰かも詩に書いているとおり、「すべて世は事もなし」というわけである。
 それでも――
 あたしは時々、あの壁について考えることがあった。退屈な授業の合間や、帰り道のふとした瞬間、夜空の星を眺めているときなんかに。
 流れ星は消えてしまったけど、その傷痕だけは確かに残り続けているみたいでもある。
「…………」
 そしてあたしは、自分でもよくわからないどこかに向かって、そっと手をのばしたりするのだった。

 結局、あたしはその壁と二人の秘密について知ることになるのだけど、それはずっとあとの話だ。半世紀もあとじゃないにしろ、それなりにはあとの話。
 そして同時に、先輩のある秘密についても、あたしは知ることになるのだった。
 どうして先輩が、あの詩にあんなにこだわったのか――
 でも、それはやっぱりあとの話だ。今はもう、次の話をはじめることにしよう。

――Thanks for your reading.

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