[真珠の涙]

 レリスフのアルリマは小さな漁村で、人々はみな魚を獲って日々の暮らしを立てていました。キューレという少年もそのうちの一人で、この少年は去年に両親を亡くし、今では一人で生きていかなくてはなりませんでした。
 それでもキューレは明るい少年でしたし、周りの人たちも何かとキューレを助けてくれました。漁の仕方も父親からすっかり教わっていたので、キューレは一人で魚を獲ることだって出来たのです。
 ある日のこと、キューレはお父さんの残してくれた小舟に乗って、海へと出かけました。小舟は小さいながらも丈夫に作られていて、舳には二つの丸い目玉が描かれています。これは、海で迷わないようにするためのお呪いでした。
 キューレは静かに凪いだ海へと漕ぎ出します。空には羊のように真っ白な雲がいくつか浮かんでいるだけで、波の音を聞いていると知らないうちに眠ってしまいそうでした。海はどこまでも青々として、本当に穏やかさそのものといった様子です。
 適当な沖合までやってくると、キューレは網を打ちました。網はキューレの手を離れるたびに、きれいに丸く広がって波の間へと落ちていきました。まるで網のそのものが生きているかのようです。それは確かに、見事なものでした。
 けれどその日は、網にはいっこうに魚がかかりませんでした。まるで魚たちが水になって、網の目の間をすり抜けていってしまっているようでした。
「こんな日もあるさ」
 キューレは気にしませんでした。彼は人生の何から何までうまくいくなんていうことは、少しも考えていなかったのです。
 それでもキューレは、昼近くになるまで仕事をやめませんでした。すると、しばらくして一匹の魚が網にかかったことに気づきました。キューレは急いで網を引き上げてみます。
 網にかかっていたのは、見たこともない魚でした。どこまでも真っ白な鱗をしていて、鰭はまるで人間の衣のように美しいものです。体つきはいくぶんほっそりとして、片手に乗る程度の大きさしかありませんでした。魚にしては不思議と澄んだ瞳をしています。
「なんてきれいな魚なんだろう」
 と、キューレは思いました。そしてこんな魚を捕まえることが出来たことを、神に感謝しました。市場に持っていけば、きっと高く買ってもらえることでしょう。
 けれどその白い魚を見ていると、なんだかひどく悲しそうな顔をしているような気がしました。本当に、人間のように悲しそうな顔をしているのです。そして魚が涙を流すと、それは一粒の真珠へと変わりました。
 キューレはそんな様子を見ていると、魚のことが大変憐れに思えてきました。それにこんなにも美しい魚なら、神様の使いか何かかもしれません。
「こんなちっぽけな魚一匹くらい、見逃してやろう」
 と、キューレは思いました。そして白い魚を海へと返してやります。
 結局、その日のキューレは一匹の魚も獲れませんでした。けれどキューレは決してそのことでくさったり、悔しがったりはしませんでした。また明日、がんばればよいのです。「幸運の芽はいつも小さい」というわけです。
 次の日、キューレは教会へと出かけました。その日は日曜日で、ミサがあったからです。教会は村のはずれにあって、王様の犬小屋のように小さなものでした。
 キューレは席の後ろのほうに座って、牧師さんの話を聞きました。教会にやってきた人々は、みな静かにその話を聞いています。
 話は、神様から三つの卵をもらったイザレの話でした。イザレは赤と青と黒の卵をもらい、赤は洪水の時に、青は日照りの時に使うように、と言われました。けれど黒い卵は決して使ってはならない、と。やがて洪水がやって来て、イザレは赤い卵を使いました。すると、雨はまたたく間にやみ、川は大人しく一本の流れとなって収まりました。またしばらくすると、日照りがやって来て、イザレは青い卵を使いました。すると、空を黒い雲が覆い、雨が地に降りそそぎました。けれどもイザレは、黒い卵の中に何が入っているのか、どうしても確かめたくなったのです。黒い卵の中に入っていたのは、死≠ナした。イザレはあっという間に倒れて死んでしまいました。
 話が終わると、人々は銘々の家路へとつきました。キューレも席を立ち上がって、ステンドグラスを通して人工の光に満たされた教会から出て行きます。
 キューレはまっすぐ自分の家には帰らずに、教会の裏にある墓地へとやって来ました。そこには生きている人間は一人もおらず、音が死に絶えてしまったように静かで、まるで自分が死者の国へと足を踏み入れたような奇妙な感覚になります。
 共同墓地にはあちこちに雑草が生え、石ころが転がっていました。キューレは永遠の沈黙を守る墓石の間を歩いて、両親の墓の前へとやってきます。二人の墓はまだ新しく、黙っていれば何か話しかけてくれるのではないかと思えるほどでした。
 キューレはその前にかがんで、じっと黙っています。キューレは一体、何を考えているのでしょう? それは過ぎた時間が決して戻らない、という残酷な事実でした。
 と、その時、不意に声がしました。
「こんにちは」
 キューレはびっくりしてそちらを向いて、それから慌てて眼をこすりました。相手の女の子も、ちょっと慌てたようで、うまく次の言葉が出てこないようです。
「僕に、何か用?」
 キューレは、そう訊ねてやりました。女の子はキューレと同じくらいの年恰好で、この辺りでは見ない服装をしています。表情の豊かそうな顔をしていて、不思議なことにその髪は白銀の色をしていました。
「ごめんね、驚かすつもりはなかったんだけど」
 と少女は、ごまかすように笑いながら言います。とても明るく、澄んだ声でした。
「別にいいよ。気にするほどじゃないから」
 言って、キューレは立ち上がります。
「私、キトル。町のほうから来たの」
(ああ、それでか)
 キューレは少女の見慣れない格好に納得がいきました。
「僕はキューレ。村で……」
「知っている。魚を獲っているんでしょう?」
「どうして……?」
「だって、大抵の人はそうなんでしょう。ここでは」
 確かにキトルの言うとおりでした。
「君はこんなところに何をしに来たんだい?」
 と、キューレは訊いてみました。
「仕事を探しに来たの。誰かに雇ってもらおうと思って」
 キューレは少し不思議に思いました。だって、少女の様子はとてもお金に困っているようには見えませんでしたし、わざわざこんな村にまで仕事を探しに来ることもないような気がしました。
(家出でもしたんじゃないのかな)
 と、キューレには思えました。でもそのことは言いませんでした。少女には、たぶん少女なりの深い理由があってのことだと思ったのです。
「それなら、村長のコレシスさんのところに行くといいよ。あの人のところなら、何かの用に使ってくれると思うから」
「あなたのところでは、駄目なの?」
 そう言われて、キューレはびっくりしてしまいました。
「僕の家には、そんな余裕なんてないよ。両親がいなくなってしまったから。だから、君を家で雇うなんて無理だ」
 けれどキトルはキューレの家で働くといってききませんでした。結局、キューレは断りきれずに、食事くらいしか出せないよ、と言うしかありませんでした。キトルは、それで構わない、と言います。
 そうしてキトルはキューレの家で働くことになりました。
 最初、キューレは少女がすぐに家の仕事になんて飽きて、嫌になるだろうと思っていました。けれどキトルは一生懸命に働いて、家の中をきれにし、いつも美味しい食事を作ってくれました。
 それがどうしてなのか、キューレには分かりません。
 分からないといえば、キトルはまた奇妙な願い事を二つ、してきました。それは、毎日桶一杯分の海水を汲んできてくれること。そして月の最も高く上がる時刻に自分の部屋をのぞいてはいけない、と言うことでした。
 キューレは何のためにそんなことをするのかは分かりませんでしたが、キトルの言うとおりにしてやりました。それほど、キトルは真剣にそれを頼んだのです。もっとも、キトルの部屋をのぞこうなんて、キューレは決して考えはしませんでしたが。
 はじめのうち、自分の生活範囲に見知らぬ人間がやってきたことに、キューレはいくらかの戸惑いを覚えました。それはまるで着慣れない服でも来ているような感じです。
 けれどそんな生活に慣れるにしたがって、キューレは奇妙な安らぎを覚えていきました。それは、自分でも気づかなかった心の空白を、ゆっくりと埋められていくような感覚でした。
(あの子がずっと家にいてくれればいいのに)
 漁の最中、キューレはよくそんなことを考えるようになりました。そしてそんな自分に、いくらか驚いたりもするのです。
 もっとも、キトルは家を出て行く気配なぞはありませんでした。彼女は最初からそのつもりだったかのように甲斐甲斐しく、そして不思議なほど幸せそうに働いていました。
 そんなキトルを見ていると、キューレは不意に奇妙な悲しみに襲われることがありました。まるで鏡の向こうの自分がどこかへ行ってしまったような、奇妙な悲しみです。
 キューレにはそれがどうしてなのか、分かりませんでした。

 二人が一緒に暮らし始めてずいぶんたった頃、近くの町で賑やかなお祭りが開かれました。それは亡くなった人を慰めるための精霊祭というお祭りです。
 キューレはそれに、キトルを誘ってみました。
「お祭りに? 私を?」
 キトルは驚くような嬉しいような困ったような、何だかよく分からない表情を浮かべました。
「僕と行くのは、嫌かい?」
 と、キューレは訊いてみます。キトルは慌てたように首を振って、少し考えてから言いました。
「月が高くなるまでには、戻ってこれるよね?」
「大丈夫だよ」
 キューレは言いました。町まで小一時間といったところですから、帰りたいと思えば、いつだって帰ることが出来ます。
「うん、それなら行くよ」
 キトルは嬉しそうに、少し顔を赤らめて言いました。
 キューレは父親が昔来た服を着、キトルには母親の昔の服を貸して、二人は出かけました。二人とも、それはよく似合っています。見ていると、自然に微笑ましくなるような初々しさでした。
 空は晴れて、町までの道は明るく輝いていました。風はどこまでも透明で、緑は美しく青々としています。散歩をするにしても、とてもよい日和でした。
 キューレは途中、思い切ってキトルの手をとって歩きはじめました。キトルは少し恥ずかしいようでしたが、次第に自分でもキューレの手を握って歩いていきました。
 町にやってくると、お祭りの賑やかさで町全体が一つの楽器になっているようでした。
「ずいぶん賑やかなんだ」
 と、キトルが感心したように言いました。
 二人が町の通りを歩いていくと、さまざまな見世物やお店が並んでいました。手品をして見せたり大道芸を披露したりする者、砂糖菓子やささやかな飾り物を売る店などです。
 キトルは町から来たと言ったわりには、そうしたものが珍しくて仕方ないようでした。キューレの手を盛んに引っぱっては、次から次へとお店を回っていきます。キューレはそんな楽しそうなキトルの様子を見ているだけで、何だか嬉しくなってくるのでした。
「これ、きれいだね」
 と、キトルはお店の前にあった髪飾りを手に取りました。それは真鍮で作られた、小さなりんごの花をかたどったものでした。
 キューレはその髪飾りが、キトルによく似合う気がしました。ですから、その髪飾りを買ってキトルに上げます。キトルは驚いたようでしたが、それでも嬉しそうにその髪飾りをつけて見せてくれました。
 二人がそんなふうに時間を過ごしているうち、次第に日が暮れてきました。それと同時に、大勢の松明を持った人々が町の大通り練り歩きはじめます。
 するとそれまで賑やかだった町は、急に静かになっていきました。人々は誰もが口をつぐみ、静かに燃えるその炎の群れを見送ります。そのうちのどれかに、懐かしい人の顔を見ながら。
 キューレも、そんな燃える炎の群れを、じっと黙って見つめていました。そうしていると、失われた過去がゆっくりと浮かび上がってくるような感じでした。
(キトル……?)
 と、キューレはふと傍らのキトルに目をやってみました。するとキトルは何だかぐったりとして、うつむいて地面に膝をついていました。キューレがびっくりして手を貸すと、死んだ魚のようにぐったりとよりかかって来ます。
「どうしたんだい?」
 とキューレは心配そうに訊きました。
「ううん」
 キトルはなんでもないというように首を振りました。でも、それ以上は何もいいません。その様子はしゃべる力さえ出てこないようでした。
「家まで帰れるかい?」
 とキューレは訊いてみました。するとキトルは弱々しく、ほんのかすかにうなずいて見せます。
 キューレはキトルを背中に乗せると、村への道を歩いていきました。キトルの体はとても軽くて、放っておけばどこかに飛んで行ってしまいそうな気がします。
「きっと歩きすぎて疲れたんだね」
 と、キューレは歩きながら声をかけました。キトルは、その背中で小さくうなずいたようでしたが、それだけでも、キトルにはずいぶんと苦しそうです。
 キューレは出来るだけ速く、けれどキトルを揺らさないように歩いていきます。星が二人を心配そうに眺め、月がその道を照らしてやりました。闇はひっそりと、その様子をうかがっているようです。
 村までやってくると、キューレは自分の家に急ぎました。そしてキトルをベッドに寝かせて、布団をかけてやります。
 キトルの様子は、傍目にも分かるほど苦しそうでした。荒い息を吐き、熱に浮かされたようにじっと眼を閉じています。かといって、その額に触れてみても、特別に熱があるというわけではないのでした。
(どうしたんだろう)
 キューレは心配で仕方ありませんでした。キューレはずっとキトルの傍らにあって、その手を握ってやっていました。
 月が、やがてその頂上に昇りはじめています。キューレはキトルとの約束を思い出しましたが、今は悠長に海の水を汲みに行ったり、キトルのそばから離れるわけにはいきませんでした。
 と、キトルがほんのわずかに眼を開けて、小さく唇を動かしました。その囁きは、小さすぎてキューレには聞こえません。キューレは自分の耳を、キトルのすぐそばにやりました。
「約束、だから」
 と、キトルは言いました。キューレはとてもそれどころじゃないと思って、そばを離れようとはしませんでした。けれどキトルがそれでも頼むので、ついに水を汲みに家を出ます。
 キューレは急いで水を汲み、家へと帰ります。月が頂上にまで来るには、まだ時間がありました。けれどキューレはあんまり急ぎすぎていたので、途中で転んで桶の水をみんなこぼしてしまいました。もう一度水を汲んで家に帰ったときには、すでに月は天頂から傾きはじめています。
 キューレが家に入ってみると、中は不思議なほどしんとしていました。まるでそこには、誰もいないようです。
(キトル?)
 ゆっくりと、キューレはその部屋に入ってみました。
 部屋の中には、誰もいませんでした。ベッドの上には、キトルがそのまま掻き消えてしまったように、布団が置かれているだけです。
 キューレは、その布団をそっとのぞいてみました。
 するとそこには、一匹の白い魚が、もがくように小さくはねています。その魚は、いつかキューレが助けた、あの白い魚でした。
「――」
 キューレは魚を、桶の水の中へ入れてやりました。すると魚は、生き返ったように元気よく、桶の中を泳ぎまわります。
 それが、キトルでした。
 彼女はそれから元の姿、いいえ、人間の姿になって部屋の中に立ちました。キトルは、悲しそうな顔をしています。それは決してもう元には戻らない時間のためのものでした。
「正体を知られてしまった以上」
 と、彼女は言いました。
「もう一緒にいることは出来ません。それが海の神様のお定めです」
 キトルは少し微笑んだかと思うと、あっという間に姿を消してしまいました。まるで最初から、そんな人間はいなかった、とでも言うように。
 キューレは、長い間、ぼんやりとしていました。キューレは今という時間にうまく馴染めないようでした。キューレはゆっくりと、自分の時間が今に追いつくのを待っていました。
 そして気づいたとき、すべては過ぎ去ってしまっていました。それはもう過ぎ去ってしまって、決して元には戻らないのです。
 キューレは哀しくて、涙も出ませんでした。
 彼はキトルの涙、真珠の涙を手に持つと、一散に海へと向かいました。そして何のためらいもなく、海の中へと飛び込みます。
 暗い、海の中を泳いでいくと、キューレの体は次第に、別のものへと変化していきました。海水と暗闇に溶かされるように体が消えていき、代わりに堅い殻が全身を覆います。
 そうしてキューレは、貝へと姿を変えました。
 ですからキューレの貝は今でも白く輝く真珠を握りしめていますし、魚のキトルは頭に髪飾りのような模様をしているのです。

――Thanks for your reading.

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