[世界の終わりに見る夢は]

(向坂 茜)

 向坂茜(さきさかあかね)は夢を見ていた。
 夢の中には赤茶けた、何もない荒野が広がっている。降るような星の下で、鉄床みたいに平らな大地が地平線まで続いていた。そこには生命の気配はなく、その兆しもなかった。そこはすべてのものが死んでしまった世界だった。
 荒野の真ん中には、彼女と少年が二人でいるだけだった。それは彼女より少し背は高いが、同じくらいの年齢、体つきの少年だった。
 その少年は何だか、とても悲しそうな顔をしていた。薄い紙が、下の紙の色を透かして浮かびあがらせるみたいに。
 だから、彼女は訊ねてみた。
「あなたはどうして、そんなに悲しそうな顔をしてるの?」
 その問いに、少年はしばらく黙っていた。ちょっと長めの髪をした、整った顔立ちの少年だった。その表情はきれいな砂浜に転がる貝殻みたいな、そんな繊細さをしている。
 やがて少年は、おもむろに答えた。とても静かな、風の囁くみたいな声で。
「世界は死んでしまったんだ」
「……世界が?」
 彼女はまわりを見渡してみた。確かに、そこには世界と呼べそうなものはどこにもなかった。家も、車も、犬小屋さえもなかった。風さえ、この世界には吹いていない。
「どうして、世界は死んでしまったの?」
 彼女は不思議そうに訊ねた。
「人はもう、夢を見なくなってしまったんだ」
「人が夢を見なくなったから、世界は死んでしまったの……?」
「そうだよ」
 少年は同じように静かな声で言った。
「夢を見ずに、世界は生きてはいけないんだ。でもそのことを忘れてしまって、世界は死んでしまった」
 少女と少年は、しばらく黙っていた。世界には何の変化もなかった。物音一つしない。彼女は足元の小石を一つ、蹴飛ばしながら訊いた。
「……それはやっぱり、悲しいことなのかな?」
「うん、悲しいことだよ」
「本当に?」
「この世界から悲しみさえなくなってしまうのは、悲しいことだよ」
「うん――」
 彼女はもう一つ、小石を蹴飛ばした。
 そうこうするうちに、地平線が滲んでいくみたいに、かすかな明かりが射しはじめていた。夢はもう終わりに近づいていた。
「わたし、そろそろ行かないと」
「うん」
 少年は簡単にうなずいた。それが彼女には、何だか残念だった。少しくらい、悲しんでくれればいいのに……
「わたし、またあなたに会えるかな?」
 彼女が訊ねると、少年は答えた。小さな笑顔を浮かべて。
「君がそう、望みさえすれば」

 ――夢だ。
 わたしはそう思いながら、ベッドから身を起こして、机の上の眼鏡をとった。眼鏡をかけると、海の底から浮かびあがるみたいに視界がクリアになる。
 部屋の中はまだ薄暗い。六時前というところだろう。薄いパジャマにはちょっと肌寒くて、空気は誰かが平らにならしたみたいにしんとしている。
 カーテンを開けると、空は淡く色づいた花びらみたいな薄紫に染まっていた。もうすぐ太陽が昇ってくる。いつもと同じように、いつもと変わりなく。
 わたしはベッドから起きあがって、小さな鏡台の前に座った。その鏡台は中学にあがったときに、母が買ってくれたものだ。「女の子なら」と母は言った。「自分の手入れくらい、自分で出来るようにならないとね」
 その頃のわたしはといえば、ろくに鏡なんてのぞいたこともなく、髪をとかすブラシさえ持っていなかった。わたしにとって、世界は単純だった。朝が来て、夜が終わる。一日がはじまるたび、わたしはいつも何か新しい発見をした。
 でもこの鏡台がやって来ると、わたしは嫌でも自分というものについて考えるようになった。神様がある日突然、「光あれ」と宣言したみたいに。以来、高校生になる今日まで、この鏡台を使い続け、わたしの世界はますます複雑になりつつある。
 のぞき込んだ鏡の中には、当然ながらわたしが映っている。平均より少し低い背丈に、短めに切った髪。何の変哲もない眼鏡の下は、全体に小ぶりな顔の作りをしている。胸は――あまり大きくはない。ちょっと痩せすぎかもしれない。
 わたしは自分の髪に触れてみる。これまでずっと短くしてきた髪だけど、少しのばしてみようかとも思う。似あわないだろうか?
 でも、もうそれも間にあわない。何しろ、世界は終わろうとしているのだ。
 窓の外では、空がオレンジ色に変わりつつあった。太陽がゆっくりと、毎時十五度という角度で昇っていく。
 いつもと同じように――
 いつもと変わりなく――
 でもその時間は、ゆっくりと停止に向かっているのだ。ゼンマイ時計のネジがきれるみたいに、ゆっくりと、でも確実に。


(世界時間停止予測)

 世界時間停止予測――
 それが、人類の終わりにやって来た事象である。世界の終わりは核戦争後の世紀末的荒廃でも、巨大隕石衝突による長い冬でも、未知のウイルス蔓延による文明の崩壊でもなかった。
 ――時間の停止。
 それは、とても静かな世界の終焉だった。大地を揺るがす爆音も、天を汚す赤い炎も、苦痛にあえぐ人々の長い呪詛も存在しない。
 正式には、「物体における基本概念であるエントロピー増大法則の崩壊」という。
 その現象の発見は、ある天文学者によってなされたものだった。彼は星の観測を行っていると、ある奇妙なことに気づいた。
 光の速度が低下している。
 アインシュタインによる相対性理論によれば、光の速度は観測者の状態にかかわらず、常に一定である。つまり、相対的に変化しない。それは真空中で、299792458m/sという数値を示す。
 ところが、ある変光星の観測を行っていると、その光度の周期が徐々に遅くなりはじめていたのである。はじめ、それは連星の軌道が何らかの原因で変化したため、と考えられた。しかしその後の調査でもその仮説を裏づける有意義な証拠は得られなかった。
 そこで彼が考えだしたのは、絶対不変であるはずの光速度が低下している、というものだった。この説は、はじめ当たり前のように無視された。時折学会に登場する、新奇な説と同じで。光の速度が変化するはずはない。
 ところが、その後の様々な分野での報告によって、同一の現象が発見されることになる。そのすべての現象が、同じ結論を導きだしていた。
 光速の絶対性が崩れ、その速度が徐々に低下しつつある。
 その結論に対して、量子重力学の分野からある詳細な予測が打ちだされた。すなわちそれが、「物体における基本概念であるエントロピー増大法則の崩壊」――世界時間停止予測である。
 基本的な物理法則として、光速度は不変である。にもかかわらず、観測結果はその低下を示唆している。とすれば、何が起こっているのか。
 速度が不変であるならば、得られる結論は一つしかない。つまり、低下しているのは速度ではなく、時間のほうなのだ。
 この仮説の教示する内容は重大だった。宇宙の時間が、停止に向かっているのだ。
 その後、様々な実験とより詳細な観測が行われたが、それによって得られたものは、時間停止予測が九十九%の確度で正しい、ということだけだった。時間はゆっくりと、眠りにつこうとしている。
 このことは、多くの人々を戸惑わせた。人間には時間の歯車を回すような技術は与えられていない。どんな偉大な英雄も、無敵のヒーローも、この問題を解決することはできなかった。
 政府高官たちはことの重大性をかんがみて、時間停止予測に関する発表を差し控えた。世界の滅亡に際して人々がどんな行動をとるのかは、完全に予測することはできなかった。政治的判断によれば、この事実を発表することには何のメリットもなかった。
 けれど予想時間停止点の一週間前、各国首脳たちはいっせいに世界時間停止に関する発表を行った。一つには、「人々には自分の死を知る権利があり、それは人の本性として正しいことである」という主張がなされたためである。そしてもう一つは、厳重な箝口令にもかかわらず時間停止に関する情報が漏れはじめ、もはや隠しとおせるものではなくなったためでもあった。
 政府は時間停止に関する予測が九十九%の確度で正しいこと、それを防ぐ手段は存在しないこと、世界の滅亡に際しては誰もそのことに気づきさえしないだろう、という発表を行った。眠りに落ちる瞬間を知覚できないように、誰も時間の停止を知覚することはできない。その時には、知覚そのものが停止しているのだから。
 この「世界滅亡宣言」のあとで政府が行った基本的な対策は、死の瞬間まで今まで通りの生活を行う、というものだった。行政、立法、司法、あらゆる社会活動は従前の機能と役割を有する、と。
 そして人々には、「世界の死までの一週間」という時間が与えられることになった。


(向坂 茜)

「――おはよう」
 わたしはそう声をかけた。いつもと同じように、いつもと変わりなく。
 食卓では父親が新聞を読みながらテーブルの前に座り、台所では母親が果物を切っている。弟はまだ眠っていた。
 わたしはすっかり身支度の整った格好で、テーブルのいつもの席に座った。わたしの前にはこんがり焼かれたトーストが、父親の前には鮭とみそ汁とホウレンソウのおひたしが並んでいる。こと朝食に関しては、わたしの父親はトラディショナルな人間なのだ。
 でも父親はその伝統的な日本風朝食といっしょに、熱いコーヒーを飲む。それも、食べている最中に。食事のあとならまだわかるけど、みそ汁を飲みながらコーヒーを飲んだりもする。そのことを訊くと、父親は必ずこう言う。「和洋折衷だ」。そして、そんな父親の娘であるわたしは、トーストに緑茶という組みあわせ。
 まずお茶をゆっくりとすすってから、わたしはトーストにマーガリンを塗って齧りつく。トーストはトースト的にさくさくという音を立てながら、わたしに食べられていく。
「学校はどんな具合だ?」
 父親は新聞を脇に置きながら訊いた。わたしはトーストを咀嚼して、飲みくだしてから答える。
「来てるのは、全体の五分の一くらいかな」
 うちの高校は一学年で十クラスほどあるけど、今は二クラスで授業をしている。まあ、無理のない話だ。世界が終わるまでの貴重な時間をどう使おうと、それは個人の自由というものだったから。
「それだと先生があまるだろう?」
 父親は余計な心配をした。
「大丈夫、先生も来てるのは五分の一くらいだから」
 まあ、これも無理のない話である。
「……仕方のない話だな」
 と、父親も同意見のようだった。それから、つけ加えて言う。
「茜も、別に無理をして学校に行く必要はないんだぞ。友達と遊ぶなり、どこか出かけるなり、好きにすればいいんだ。こんな時にまで、世界に義理立てする必要はないんだぞ」
「そういうお父さんだって、仕事に行くんでしょ?」
 わたしはまたトーストを齧った。
「そりゃ、そうだが……」
 父親はワイシャツにネクタイという格好で、わたしと同じようにすっかり身支度は整っている。
「お前はまだ、高校生なんだし」
「子供も大人も関係ないって」
 すぐに言い返した。
「わたしは行きたいと思うから学校に行く、それだけだよ」
「うむ」
 父親が言葉につまっていると、母親がリンゴの乗った皿を持って、笑いながらやって来た。
「お父さんが何を言ったって無駄ですよ。この子は昔からそうなんだもの。ほら、いつだったかこの子が風邪をひいて、病院に行こうって話になったでしょ。でもこの子、そんなところには絶対行かないって、いつも通り学校に行くんですよ。それで結局、風邪のほうも治っちゃって。きっと風邪のほうで諦めたんでしょうね。こいつにくっついてても仕方ないやって――」
 母親はこういう話になると、いつもこのことを蒸し返すのだ。
「そうだな、そうだった」
 父親も笑う。そして結局のところ、わたしも仕方なく笑う。
「でも、本当なんですかね?」
 テーブルの前に座って、母親はちょっと懐疑的な様子で言った。
「世界が終わるだなんて。私にまだうまく信じられないんですけどね」
「太陽が爆発するとか、月が落ちてくるって話じゃないからな。想像しにくいのは仕方がないが」
 父親はコーヒーをすすった。胃の中でごはんやみそ汁とコーヒーが混ざっている図というのは、あまり想像したくない。
「どうしようもなかったんでしょうか? 何とかして、その、時間が止まるのを防ぐっていうのは?」
「いろいろ対策はとられたらしい」
 話を聞きながら、わたしは残り少なくなったトーストを齧る。
「時間を加速しなおす方法を考えたり、まだ時間の動いている場所へ避難することを考えたり。しかし時間というものについて人間が知っているのは、ごくごくわずかなことらしいんだ。時間の最小単位、いわゆるプランク秒というのがあるかどうかさえ、よくわかっていない」
 わたしの父親は市役所の広報課長をやっていて、そういうことには少しだけ詳しい。
「難しい話はよくわかりませんけど」
 ごく普通の専業主婦である母親は、その手の話になるとすぐに匙を投げる。
「やっぱり、どうしようもないんですかね?」
「そうだな」
 父親もどうしようもなさそうに、そう言うしかない。
 その頃には、わたしは朝食を食べ終わって、もう出かける準備はできていた。わたしはごちそうさまを言って立ちあがり、ソファの上に置いてあったカバンを手にとる。
「気をつけてね。ずいぶん物騒な話だって耳にするんだから」
 母親が、そんなわたしに向かって声をかけた。
「うん」
 わたしはちょっとだけ服のしわやらスカーフの形やらを直して、それから言う。
「――いってきます」
 いつもと同じように、いつもと変わりなく。


(矢尾 茂樹)

 あたりは薄暗く、空気はねっとりと澱んでいた。空調もろくに効いていないせいだ。そこは大雨のあとの小さな池みたいに、いつまでたっても泥の濁りが沈殿せず、不透明な混濁の中にあった。
「ん、う……」
 矢尾茂樹(やおしげき)は長い冬眠からようやく醒めたみたいな、はっきりしない意識で目が覚めた。筋肉の芯が抜かれたみたいに、体の隅々に力が入らない。
 そのまましばらくのあいだ、ぼんやりしていた。黒い革張りのソファに横になっているので、体勢としては楽だった。畳の上にじかに寝ていたときに比べて、体の節々が痛むということはない。
 その建物は小さな体育館くらいの広さがあって、蒼ざめた色の照明が天井からあたりを照らしていた。矢尾が今いるような、仕切りで区切られたブースがいくつかあって、ほかにダンスフロアやいくつかのテーブル席、バーカウンターといったものが設置されている。要するに、ナイトクラブというわけだった。サウンドスピーカーからは、脳髄を撹乱するようなサイケデリックな音楽が流れている。
「ふう」
 矢尾は起きあがると、体内のもやを吹き払うようにため息をついた。トリップしたときの、ぼんやりした残滓のようなものが体の中に残っている。多幸感や幻想、幻覚は、氷の溶けきったコーヒーみたいに薄まっていて、代わりに軽い疲労感や倦怠のようなものが居座っていた。
 目の前のテーブルには、ガラス製の灰皿と、パラフィン紙の上の白い粉、それに巻紙と、つい数時間前に使用されたものの残骸が置かれていた。ほかのテーブルの上にも、やはり同じものが置かれているだろう。
 ――早い話、ここはそういう場所なのだった。
 「世界滅亡宣言」のあと、その短い余生を薬の力に頼ろうと決めた人間たちの集まる場所。世界の最後を、圧倒的な幸福感の中で乗りきろうとする者たちの集まる場所。
 ありとあらゆる種類の薬物は、すべて無償で提供された。その提供者が一体どういう人物なのか、矢尾は知らない。伝え聞いたところによればその人物は、自分と同じような望みを持つ人間たちの願いを叶えたいのだ、という話だった。もちろん、世界が終わるのだから、金なんかとっても仕方がないだろう。
 とはいえ、世界が終わるのだから何をしてもいい、というわけではない。一部の地域では破壊的な活動、非人間的な犯罪行為、快楽主義的、即物的な行動などが見られたが、すべての人間が自暴自棄になっているというわけではない。警察や消防の活動は行われていて、治安維持の機能は残されていた。だからここも、見つかれば全員が逮捕されるということにもなりかねない。
 もっとも、そういった機能は病人の免疫力みたいに働きが低下していて、よほど目にあまるものでないかぎりは放置されている状態だった。警察官たちにしてもその職務を放棄する者は多く、残された者たちにしてもそこまで防犯活動に熱心なわけではない。
 そんなわけで、こうした地下組織コミュニティは存在しているのだった。世界の終わりの瀬戸際でまで、価値観の相違で争いたくはない、というわけである。
(……のどが渇いたな)
 矢尾はちょっと頭を振ってから、緩慢な動作で立ちあがった。ブースを抜けて、バーカウンターのほうに向かう。
 歩いていると、床の上に寝そべったままぴくりとも動かない男がいた。眠っているのかもしれないが、もしかしたら死んでいるのかもしれない。薬によっては、分量を間違えると危険なものもあったからだ。
 矢尾はそいつを踏んづけないように注意して歩いた。ほかのブースから、何人かの人間がけたけた笑っているのが聞こえた。そのほかにも、バッドトリップに入ったらしいのが、何かぶつぶつ言いながらのたうっているのが見える。
 バーカウンターまで来ると、矢尾は冷蔵庫を開いて中のミネラルウォーターを手にとった。ここにあるものはすべて(もちろん、棚に並んだ大量の酒類も)勝手に持っていっていいことになっている。すべて、好きにしろということだ。
「ん、ん――」
 ボトルに口をつけて、半分ほどの水を一気に流し込んだ。胃が変に冷たくなるのがわかる。薬の効果がまだ残っているのかもしれない。
 ここにいる者の大半は、元々そうした経験のある人間たちだったが、矢尾は違っていた。たまたまこの場所のことを聞きつけて、やって来たのだ。
 矢尾茂樹は歌手を目指す、二十八歳の青年だった。高校の頃からギターをやりはじめ、大学卒業後も就職はせずに音楽活動を続けた。路上で演奏をしたり、ライブハウスへの出演をしたり、そんなところだ。
 けれどレコード会社に送る自作曲は、どれもすげなく返却され、オーディションでもさしたる成果はあげられなかった。時間だけがいたずらに浪費されていくなかで、矢尾はじわじわと自分の人生の失敗を自覚しつつあったが、それでもギターの弦をつま弾くたびに、歌を作りたいという気持ちの強さと、その確かさを感じずにはいられなかった。
 決して希望にあふれているとは言いがたいそんな日々を送るうち、矢尾の努力の必然か、運命のきまぐれか、彼の夢は叶えられることになる。ある音楽会社に送ったデモテープが採用され、CD化されることが決定したのである。
 単純にそのことを喜ぶには、矢尾はいささか時期を逸していたが、それでも胸の熱くなる思いや、体が宙に浮かぶような興奮があった。矢尾はその日の夜から日記をつけることを決意し、その第一ページ目には今の自分の興奮をあますところなく書きつけた。ぎっしりと行を埋めつくしたその文章は、結局ノート五ページぶんほども続くことになる。
 話はすべて順調なように思えた。契約の細かい内容も、販売戦略やスケジュール、売り上げ目標も、それほど重要なものには思えなかった。自分の歌がCDになるというそのことが、矢尾にとってのすべてだった。
 けれど結局のところ、ようやくまわってきたそのサイコロの目は、コマを進めることなく終わる。
 矢尾が毎日を眠れぬ興奮ですごすある日、例の「世界滅亡宣言」が出されたのである。
 その事実とタイミングに矢尾はショックを受けたが、それでも悲観はしていなかった。例え世界が終わるにしても、自分の歌がCDとして存在しさえすればそれで満足だ、そんな気持ちだった。ある意味では、その後のより厄介で現実的な問題を回避できるだけ、幸運といってもよい出来事かもしれなかった。
 ところがその翌日、すでに契約を結び、CDも完成まで進められていたにもかかわらず、プロデューサーとの連絡がつかなくなった。世界の終わりについてはあれほどすんなりと受け入れられたというのに、矢尾はその事実を理解するのにひどく時間がかかった。
 そして理解したあと、どうしようもないくらいの絶望がやって来た。景色は歪んで、足元の地面はがらがらと音を立てて崩れた。あと少しで地獄から抜けだせるところで、蜘蛛の糸が切れたような気分だった。子供の頃、矢尾は?陀多(かんだた)の愚かさを笑ったが、今はとても笑える気分ではなかった。
 それからの世界の混乱や変化さえ、矢尾にとってはどうでもいいものだった。バンドも自然消滅の形で解散したが、それらはすべて自分とは関係のない世界の出来事だった。
 矢尾は世界の終わりをこんなふうに迎えなくてはならない、自分のみじめさを呪った。呪って呪って呪いつくし、ついには世界のすべてを憎み、自分自身をさえ憎んだ。すべてが間違っているように思えた。自分のささやかな願いさえ叶えないこの世界が、ひどく歪んだ場所に思えた。そんな世界が終わることに対して、自分のこの苦しみを捧げることさえ許せなかった。
 そうして気づいたときには、矢尾はここにいた。どこで知りあったのかよくわからない女に勧められて、言われるままに白い粉を巻紙に包み、火をつけて肺に吸い込んだ。
 途端に、菌糸類のように全身に根をはっていた絶望は溶解し、皮膚を切り裂くようだった怒りや憎しみも、真空中に拡散するようにしてどこかへ消えてしまった。
 その代わりにやって来たのは、絵本の挿し絵に出てきそうなお花畑的幸福感と、意味不明な幻覚の連続だった。まるで夢が現実にあふれてきたみたいに、それらは矢尾の周囲の世界を彩った。束の間、夢と現実がその役目を交代したかのようだった。
 以来、矢尾はここで薬漬けの毎日を送っている。世界なんてクソ喰らえだ、と矢尾は思った。自分が世界に対して、ささやかな復讐を行っている気分だった。世界なんて、勝手になくなっちまえばいいんだ。
 水を飲んだあと、矢尾は急に気持ちが悪くなってトイレに向かった。慣れないせいか、時々そういうことがある。大抵は、二三時間吐き気が続いた。
 トイレに向かう途中、ふと見かけたポスターの文句に刺激されて、曲のフレーズを思いついた。そういう思いつきを、矢尾は普段ならどこかに書きつけて、採集した昆虫みたいにきちんと保存した。それは矢尾にとって、何より大切な行為だった。
 一瞬だけ矢尾はどうするか迷ってから、結局そのフレーズを無視することにした。そのフレーズはかつてと同じように、矢尾の中で確かな強さと光を帯びていたが、もうそれをどうすることもできなかった。どうせすべては、終わってしまったことだ。
 狭い通路を通ってトイレにまでやって来ると、そこだけは黄色い光で明るく照らされている。矢尾は奇妙に現実的な芳香剤のにおいを感じながら、トイレの便器に向かった。
 さて、胃の中のものでも拝んでやろうかと便器の前にしゃがみこんだとき、隣の個室から激しい振動と喘ぎ声が聞こえてきた。
 ちくしょう、と矢尾は思った。隣で誰かが、本番をはじめやがったというわけだ。
 同時にこらえきれない吐き気がやって来て、矢尾は便器に向かって吐瀉物をぶちまけた。その一部は便器の縁を越えて床にまで広がり、醜悪な模様をそこに描いている。
 そのあいだも隣の個室は盛大に振動し、物音を立て続け、矢尾はまるでそれにあわせるようにして吐き続けた。


(向坂 茜)

 ブザーが鳴って、ドアが開いた。
 わたしはバスに乗って、中ほどの席に座る。通学時間だけど、席はがらがらだった。元々そんなに人の多く乗る路線じゃなかったけど、今ではほとんど誰も乗ってこない。
 バスの本数自体も、ずいぶん減っていた。ダイヤもいいかげんで、あまりあてにはならない。でもバスが走っているだけでも、ありがたいことだった。何というか、善意の世界なのだ。世界の終わりにバスを走らせたって仕方がないけれど、きちんとそうする人だっているのだ。
 走りだしたバスから見える景色は、どこか虚ろな感じがした。あまり人の姿も見かけないし、車も走っていない。いつもなら学校に向かう小学生や、職場に向かう自動車の列があるけれど、今はそれもなかった。何だか、日曜日的な静かさだった。
 といっても、「世界滅亡宣言」が出されたあとは、世の中はけっこう騒がしかった。いろんな混乱や、誤解や、行き違いがあって、血が流れたり、怖いこともいくつか起こった。
 今は一応落ち着いているけど、それでも街の一部には危ないところや、絶対に近づいちゃいけないところもある。すべてが今まで通りというわけにはいかない。
 停留所を三つほど行きすぎてから、バスはゆっくりと停まった。後ろのドアが開いて、人がひとり乗ってくる。
 ドアが閉まってバスが走りだすと、その乗ってきた一人はわたしのところまでやって来た。そうして二人がけのその席の、わたしの隣に座る。
「席ならほかにもたくさん空いてますよ、お嬢さん。ざっと一ダースばかりはね」
 わたしがちょっとシリアスにそう言ってみると、彼女は念のためという感じでバスの中を確認してから言った。
「それは気づきませんでしたわ。でも私、困ってるんです。さっきから悪漢につけられていて。身長三メートルくらいの。私、あなたならきっとなんとかしてくださる気がして――って、何なの、これ?」
「ハードボイルド探偵ごっこ」
 わたしはにこにこして答えた。
「あー、はいはい。それはようございました。で、もう満足した?」
「九割くらいは」
「姫様のご機嫌は今日も麗しいようで、じいは恐悦至極に存じまするよ」
 スプーンで大さじ一杯はすくいとれそうな皮肉を込めて、彼女は言う。
 ――彼女の名前は、並木優子(なみきゆうこ)。わたしの親友だ。
 いかにも活動的なポニーテールの髪に、猫みたいなくりっとした目。すらっとした体型で、わたしより頭半分は背が高い。そこには背筋のしっかりした、いかにもスポーツマンらしい姿勢のよさがあった。彼女は短距離走者なのだ。中学の時には、県の代表に選ばれたこともある。
「朝っぱらからこうやって茜のボケにつきあってると、平和の尊さを実感するよ」
 と、優ちゃんはわかりやすく肩をすくめてみせる。それに対して、わたしは言う。
「お役に立てて光栄です、王女様」
「うむうむ、苦しゅうないぞえ」
 わたしたちはけたけたと、他愛なく笑った。
「ほんと、こうしてると世界が終わるだなんて信じられなくなるよ」
「うん、そうだね……」
「ていうか、私まだよくわかんないんだけどさ、時間が止まるって、どういうことなわけ?」
「つまり」
 わたしは、わたしにわかっている範囲で説明しようとする。
「例えば今この瞬間、時間が少しのあいだだけ止まったとするでしょ? 一時間か、二時間くらい」
「止まってる時間を一時間てのも変な話だけどね」
「まあそうなんだけど、とにかく便宜的に、それくらいの時間が止まっていたとする。ちょうどわたしが『つまり』の『り』と、『例えば』の『た』を言ったあいだにね」
「ふむ」
「でもその止まった時間を、わたしたちは認識できない。そのあいだに、早く時間が動かないかな、とかそんなふうに思うことはないわけ。時間が止まるってことは、わたしたちの意識がまったく働かなくなることだから。例えばそれが一時間であろうと、一万年であろうと、時間が再び動きだしたときには、わたしたちは時間が止まっていたことにさえ気づかない」
「一万年もたってるのに?」
「理屈としては」
「うーん」
「わたしもよくはわからないけど、時間が遅くなってるのは本当なんだって。元々、重力や速度によって時間の流れが変わることは観測されてて、時間というのは絶対的なものじゃないってことはわかってたの」
「飛行機に乗ってると、時間がゆっくりになるってやつでしょ。原子時計で計ると」
「うん」
「でも、こうしてるあいだにも時間が遅くなってるっていったって、何も変わらないじゃない? ゆっくりしか動けなくなるとか、物を落としてもなかなか地面につかないとか……」
「時間の流れは相対的にしか計れないから」
 わたしは慎重に言葉を選んで言った。
「本人にはその違いを自覚することはできないの。光速に近づくと、物体の時間はほとんど止まってるんだけど、例えばそういう宇宙船があっても、中にいる人はそのことの影響は受けないし、実感もできないわけ」
「変な話」
「一年前と、今だと、時間の流れは確実に変わってるんだって。同じ一秒でも、実際には今の一秒のほうがずっと長くなってる」
「でも、私たちにはそのことはわからない、と」
「うん」
「世界の時間が止まっても、私たちはそのことにさえ気づかないわけだ。何だか、嫌な感じの話だなあ」
「――うん」
 わたしたちはそれからしばらくのあいだ、黙っていた。バスの振動だけが、シートを通して感じられる。少なくとも今はまだ、時間は動いていた。おじいさんの古時計みたいに、それはやがてとまってしまうのだけれど。
「――優ちゃんは、最近夢を見る?」
 ふと気づいたとき、わたしはそんな言葉を口にしていた。
「夢?」
 優ちゃんは急にそんなことを言われて、びっくりしたような顔をする。
「うん、知らない男の子の出てくる夢」
「何それ?」
 わたしは水中に漂う海藻みたいに、力なく首を振った。
「見ないなら、別にいいの」
 優ちゃんは怪訝そうな顔でわたしのことをうかがっている。
 でも説明を求められたって、わたしも困ってしまうのだ。どうしてそんなことを訊いたりしたのか、自分にだってわからないのだから――


(小林 美羽・久島 紗奈)

 その建物は人里離れた山中に存在していた。古い時代の山荘か、木造のサナトリウムといった外観をしている。舗装もされていない、車一台がようやく通れるくらいの道が、森の中から一本だけ通じていた。
 建物の一室ではちょうど、二人の少女が目を覚ましたところだった。部屋の中には鉄の骨組で作られた簡素なベッドが二つ、小さな書き物机、何かの液体が入った小さなガラス瓶が二つ、百合と薔薇の活けられた素焼きの花瓶、そんなものが置かれている。白い壁には汚点一つなく、レースのカーテンはついさっきかけられたばかりのような清潔さを保っていた。
 二人の少女は窓をいっぱいに開け、ちょうど巡ってきたばかりの新鮮な朝の空気を吸い込んだ。そうすると、昨日までの自分が細胞レベルですっかり入れ替わって、今日の自分になるのがわかる。夜の闇はもうその余韻さえ残さず、朝の瑞々しい光が全身を満たしていた。
「今日もすごくいい朝だね、紗奈ちゃん」
 少女のうちの一人が、にっこりと声をかけた。その日の朝の太陽、そのままといった感じで。
「そうね――うん、すごくそう……」
 もう一人の少女が、軽くうなずき返す。まるで、彼女の言葉を正確に、きちんと検証するかのように。
 少女たちの名前は、小林美羽(こばやしみう)に久島紗奈(くしまさな)。年齢は十六歳と十七歳で、二人とも高校二年生だった。美羽のほうは薄く染めた癖がかった髪に、子供っぽい好奇心をのぞかせた丸い瞳をしている。紗奈のほうは長いまっすぐの髪に、切れ長の澄んだ瞳。幼く無邪気な妹に、頭がよくておしとやかな姉、そんなところだった。もちろん、二人のあいだにはいかなる意味での血縁関係も存在しない。
「私はね、こんな朝にはいつも何かを祈りたくなるんだ。神様か何か、そんなみたいなものに」
 と、美羽はにこにこした笑顔のままで言う。
「美羽らしいわね」
 そう言って、紗奈は微笑んだ。けれど、
「……子供っぽいということ?」
 美羽は少しふくれたような顔をする。
「まさか、詩人ということよ。あなたにはそういう心の働きがある。私にはないものを、あなたは持っている――」
 二人がここにやって来たのは、「世界滅亡宣言」が出されたすぐあとのことだった。あるサイトの応募を見て、ここにやって来たのだ。それは二人の目的と完璧に合致するものだった。
 もちろん、危険はあった。そのサイトが本物かどうかもわからないし、犯罪に巻き込まれる可能性も十分にあった。けれどいかがわしい目的にしては、そのサイトの内容はいささか込みいっていたし、まじめすぎた。そして、それ以外に二人の目的を叶えてくれそうなものもなかったのである。
 二人は家族にも友達にも告げず(そんなことをすれば止められるのは目に見えている)、この場所にやって来た。電車を何本かと、バスを一つ乗り継ぎ、あとは山道を歩いて。
 結果的には、サイトに書かれていたことはすべて真実だった。人里離れた山の中にあって、空気は澄んで、緑は濃く、そこには美しい建物と清潔な環境、そして何より深い静寂があった。
 そこにやって来たのは、全部で二十人ほどの人間たちだった。年齢、性別、出身地、来歴も様々で、二人が一番若く、最高では七十歳のおばあさんがいた。
 二人はその時まで互いの存在さえ知らなかったが、出会って一目見た瞬間からお互いを好きになった。二人は相手の瞳の中に、同じものを見たのである。同じ魂の形を。
 各人は一人一部屋をあてがわれたが、二人は同じ部屋で暮らすことを選んだ。それは二人にとって、満ち足りた生活だった。ほとんどすべての時間を、二人はいっしょに過ごし、そのことに何の不満も持たなかった。互いのまわりを回る連星のように、二人はそのことを当然に感じた。
 二人がここにやって来た理由は、まったく同じものだった。ほかの十八人にしても、それは同じだったろう。その理由とは簡単に言えば、がん患者や不治の病に冒された人間たちと同じものだった。本当に怖いのは、痛みそのものではなく、見えない痛みを想像することにある。
「もうすぐこの時間が終わってしまうなんて、信じられないよね」
 美羽はぼんやりと窓の外を眺めながら、どこか遠くの国のことでも話すように言った。
「そうね――」
 紗奈も同じように窓の外を眺めた。緑の梢が揺れ、森の中からは鳥の声が聞こえる。
「きっと神様にだって、どうしようもないんでしょうね」
 世界滅亡宣言後、しばらくの時間を二人はここで過ごした。とはいえ、集まった二十人のあいだでその間に何か交流があったわけではない。食事はほとんどが用意された保存食で、二人はそれを自分たちの部屋で食べた。
 二人にしろほかの十八人にしろ、ここには仲間を求めて集まってきたわけではなかった。だからお互いのことについては、まったく何も知りはしないし、知る必要もない。同じ目的で集まったとはいえ、それぞれの動機がどのようなものかは不明だった。
 それだけに、二人はお互いの出会いを貴重なものに思っていた。世界の最後に起きた、それは奇跡なのだ。二人は恋人が自然とよりそうようにして、自分たちのことを話した。どこで生まれ、どんな家族がいて、学校はどうだったが、初恋はいつだったか、好きな音楽、趣味、嗜好、世界の終わりに対する自分たちの考え――
 その大半はほとんど意味のないおしゃべりだったが、二人は自分たちの魂を交換しあっているような、そんな興奮を覚えていた。二人はすべてのものを曝けだし、互いの内奥を見つめあった。
「紗奈ちゃんはさ、天国ってあると思う?」
「ん……」
 急にそんなことを訊かれて、紗奈は美羽のほうを見つめる。美羽は自分の言う天国がそこに見えてでもいるかのように、窓の外に顔を向けたままだった。そのまま、美羽は言葉を続ける。
「そこではね、すべての人は永遠に幸せでいられるの。幸せすぎて、ちょっと悲しくなってしまうくらいに。……別に私は、不幸ってわけじゃないよ。天国なんてなくったって、全然平気なくらい。でももしも天国ってものがあるんなら、そこには幸せしかないっていうんなら、そこはどんな場所なんだろう?」
「さあ」
 と、紗奈はそっけなく言った。
「私はそういうの、信じてないから」
「――紗奈ちゃんらしいよね」
 美羽は振りむいて、ちょっとだけ笑った。すると、
「夢がない、ということかしら?」
 いたずらっぽく、からかうように紗奈は言う。
「まさか……だって、私も同じだもの。天国なんて信じてない。そんなものあったって、なくったって、同じことだもの。私はただ、自分というものをまっとうしたいだけ」
「そうね。私たちには、私たちをまっとうするだけの権利がある」
 二人はしばらくのあいだ、お互いを見つめあった。鏡を見つめるその瞳が、正確に互いを見つめあうように。そうして、その時が来たのだということを了解しあう。
 机の上にあったガラス瓶を、二人はそれぞれ手に取った。手のひらに収まるくらいの、無色透明の液体が入った瓶である。中に何が入っているかを示す表示もなく、コルクの栓で蓋をしてあった。
 二人は栓を抜くと、その液体を一気にあおった。相当にがいと聞いていたので、息もせず、できるだけ何も考えずに飲みほしてしまう。確かに、ひどい味だった。覚悟していなければ飲めたものではない。
 それから二人は手を結びあって、互いのベッドの上に眠るように横になった。
「これできちんと、終われるんだね」
 すでに薄まりかけた意識の中で、美羽は言った。
「ええ、そう。これで私たちの魂は、停止した時間の中に囚われるようなことはない」
 そう答える紗奈の意識も、すでに暗くなりはじめていた。
 二人は目を閉じ、意識の深い闇へと落ちていった。やがて二人の呼吸はロウソクを吹きけすように消え、その心臓はもう二度と音を立てることはなかった。


(向坂 茜)

「――中原中也の詩に、『月夜の浜辺』というのがあります」
 教壇で、山村千夏(やまむらちなつ)先生は言った。
 山村先生は現代国語の教師だ。三十代の半ばで、ひっつめ髪、丸い眼鏡をかけている。どちらかというと歳よりも老けて見えるけど、本人はそんなこと気にしていなかった。飾りけのない性格で、ごく自然な温かみと落ち着きのある先生である。
 学校にはもうほとんど人は来ていなくて、授業はクラスに関係なく人数を集めて行われていた。教室も適当で、決まった場所でやるというよりは、人の集まっているところにみんなも集まってくる、という感じだった。場合によっては、違う学年同士でも授業をしたりする。
 もちろん、もう授業なんて受ける必要はないし、そんなことをしたって何の意味もない。でもどういうわけか、わたしたちはこうして学校に集まって、先生たちも授業を開いたりしている。
 授業内容は、適当だ。もう受験勉強だとか、単位だとか、カリキュラムなんかに意味はないし、先生たちは自分たちのやりたいようにやっている。本当に教えたいこと、教えるべきこと、教えられること、そんなことをやっている。
 今も、わたしたちが見ているのは教科書じゃなくて、山村先生の配ったプリントだった。そこには、いくつかの詩が書かれている。教室は、二年の生徒だけが半分くらいの席を埋めていた。
「六枚目のプリントに書かれているのが、それです。中也はこの詩を、『在りし日の歌』という詩集に収めました。これは、愛児を失った頃に編まれたものです。そしてその出版を待つことなく、中也自身も亡くなってしまいます。じゃあ、誰か読んでみて――と言いたいところだけど、せっかくなので私が読ませてもらわね。詩を朗読するのはいいものよ。カラオケで好きな歌をうたうのと同じくらいにね」
 先生がそう言うと、何人かがくすくす笑い、賛成の意味で小さく拍手が起きたりする。先生はありがとう、と微笑んでから、その詩を読みはじめた。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。……

 先生の声はよく澄んで、教室中がしんとしてその声を聞いていた。教室中というより、何だか世界全部がしんと静かになったような感じだった。

 ……月夜の晩に、拾つたボタンは
 どうしてそれが、捨てられようか?

 詩が読み終えられてからも、その言葉はしばらくそのままの形であたりを漂っていた。まるで、ヴァイオリンの弦がかすかな震えを続けるみたいに。
 先生はその余韻に耳を澄ますみたいに、長いこと目をつむっていた。そして不意に、顔を上げる。
「ところで、みなさんはもし願いが一つ叶うとしたら、どんなお願いをしますか?」
 何だか唐突な質問で、みんなが戸惑った。でも一人が、「おいしいケーキを心ゆくまで食べる」と言うと、ほかにも何人かが発言した。「ディズニーランドを貸し切って遊ぶ」「太平洋の真ん中で空を見上げる」「好きな服を好きなだけ着る」エトセトラ、エトセトラ。
 大体のところを聞き終わると、山村先生は言った。
「私は、宇宙から地球を眺めてみたいと思います」
 先生はとても静かに、とても大切なことを話すように言った。
「――もしもそれができたら、もしも宇宙の暗闇の片隅にぽっかりと浮かぶ、青い星の姿をこの目で見ることができたら、私はどうしてそんなものがこの世界にあるのか、理解できるかもしれない。もしもそれができたら、私は月夜の晩に波打ち際で拾ったボタンみたいに、それを感じられるかもしれない。その光景は何の役に立つわけでもないけれど、それでもそれは、月夜の晩に拾ったボタンみたいに、私の心に沁みるのかもしれない」
 そう言ってから、先生はにっこり笑った。
「たぶん私たちは、月夜の晩に拾ったボタンを、もう胸の中に持っている。それがどんな形のボタンかはわからないけれど、必ず。それはどうするものでもないけれど、決して捨てられはしないものなのよ――」
 先生が言い終わってしばらくしてから、チャイムが鳴った。時計の針が動く、かしゃんという音が聞こえる。今日の授業はもう終わりだった。
 そこだけは不思議なほどいつも通りな感じのする放課後の中で、わたしは帰り支度をはじめる。
「――私、部活行くけど、茜はどうするの?」
 横から、優ちゃんが話しかけてきた。
「わたしは美術室にちょっと用があるから」
 少しごまかすように、わたしは言った。「ちょっと」ではなく、わたしはそこに大切な用事がある。
「そっか」
 優ちゃんは何か勘づいたように、でもわざとそっけなく言った。わたしは知らないうちに顔を赤くしていた。
「じゃあ私、運動場のほうにいるから。帰るときには声かけてね。今日はいいタイムが出そうな気がするんだ」
 そう言って笑顔を浮かべると、優ちゃんは手を振って教室を出ていった。まるで遠くに旅立つ船からそうするみたいに。わたしも小さく手を振って、それを見送る。
 ノートやら筆記用具やらを鞄にしまうと、わたしも教室をあとにした。何しろ人がいないので、校舎には放課後の慌ただしさなんてものはない。廊下はとても静かで、まるで深い森の中にでもいるみたいに透明な光が射し込んでいる。
 そうしてわたしがたった一人、階段のほうに向かって廊下を歩いていると、向こうからも一人だけ、こっちに歩いてくる人の姿があった。
 その姿を目にした瞬間から、ううん、その足音が聞こえてきたときにはもう、わたしの心臓は激しく鼓動していた。
 落ち着け、と言いきかせるのだけど、わたしの心臓はそんなこと承知しない。落っことしたリンゴが、勝手に坂道を転がっていくみたいに。自分がきちんと手足を動かしているのかどうかさえ、わたしはわからなくなってくる。
「…………」
 その男子生徒と、わたしはすれ違う。何の言葉もなく、何の約束もなく。
 わたしは少しうつむいて、たぶん真っ赤な顔をしている。変に見られてしまうのが嫌で、わたしはそのまま歩いていく。たぶんそれは、十分に変なのだけど。
 ――しばらくして、わたしは振り向いた。
 でもそこには、もう誰もいない。誰もいない廊下に、光が柔らかな水みたいに満たされているだけ。
 わたしはそして、ため息をつく。
 心臓は、まだ少しだけ強く脈打っている。


(久保 康晴・沢井 みちる)

 草原は見渡すかぎり一面の芝生に覆われ、時折思い出したように風が吹きすぎた。澄んだ青空に雲がいくつか流れ、太陽は午睡の穏やかさで空に浮かんでいる。遠くには、海原の中に取り残された無人島みたいな格好で、いくつかの木立のかたまりがあった。
 草原の真ん中には一台のピアノが置かれていた。スタインウェイの、黒いグランドピアノ。ピアノはまるで、夢から抜けだしてきたように、そこにあった。
 ピアノのそばには、二人の人間がいた。一人は若い男で、ピアノの前に座っていた。洒落た帽子に、さっぱりとはしているが趣味のよさそうな格好をしている。好青年という感じだった。よく澄んだ目をして、歳のわりには落ち着いた表情をしている。彼の名前は、久保康晴(くぼやすはる)。
 もう一人は若い女で、ピアノによりそって立っている。簡素な、白いワンピースを身にまとって、風に流れるくらいの長い髪をしていた。その表情は康晴とは対照的な、いたずらっぽい少女のようなそれだった。彼女の名前は、沢井(さわい)みちる。
 ピアノを康晴が弾いて、みちるはそばでそれを聞いている。ピアノの音は空気を優しく震わせて、溶けるようにして消えていった。
 二人は数日前に、結婚したばかりだった。結婚といっても、役所に婚姻届を提出しただけのことである。結婚式も何もなく、両親には電話で報告しただけだった。友人同士の集まりも、ハネムーンも、はめを外した贅沢もない。もうすぐ世界が終わろうとしているときに、それは難しいことだった。
 その代わりに二人がやったのは、こうして何もない草原にピアノを運んでくることだった。康晴は音大のピアノ科の生徒で、みちるは四年制大学の教育学部の学生だった。二人は隣同士の家で育った幼なじみだった。康晴は昔からピアノがうまく、みちるはよくそれを聞いていた。
 今も、二人はその頃と同じことをしている。康晴が弾いて、みちるがそれを聞く。
 草原にピアノを持ってくるのは、みちるの思いつきだった。何もない原っぱで、ピアノを聞いてみたい、とみちるは言ったのだ。康晴はいろいろと苦労して、それを実現した。ピアノを運んでくれる業者を見つけ、すぐに作業を行ってもらえるよう説得し、輸送費用を捻出し、実際にこうしてピアノを持ってきた。
 二人の関係は、いつでも大体そんなふうだった。みちるが何かを言いだして、康晴が実際にそれを段取りする。
 けれど、康晴がそれを不満に思うようなことはなかった。みちるはいつも真剣に、それがどんな思いつきであろうと実現されることを願った。そうやって真剣に何かを求めることは、康晴にはどこか欠けているものだった。
 みちるも、そのことは知っていた。賢くて、落ち着いていても、康晴にはどこか冒険心というものが足りない――だから、そんな康晴が結婚しようと言ってきたとき、みちるはすごく驚いたし、それ以上に嬉しかった。
 彼女がピアノのことを言いだしたのは、その時だった。ほかには何もいらないから、草原で康晴のピアノが聞きたい、と。
 もちろん、ピアノは草原で弾くようにはできていない。野ざらしでは調律も狂うし、第一音が反響しない。それでも、幸いにも天気はずっと晴れていたし、コンサートで演奏しているわけでもない。それにもうすぐ世界が終わろうとするときに、そんなことは気にしても仕方のないことだった。
 康晴はありったけの楽譜を集めてきて、知っている曲も、知らない曲も、手あたり次第に演奏した。みちるのリクエストに応えて、うろ覚えの曲を弾いたりもする。即興で、ただ指の動きに任せて演奏することもあった。
 二人はとても幸せだった。この、世界の果てのような誰もいない草原で、二人はたった二人だけでいて、そのことに満足だった。そこにはピアノがあって、音楽があふれていた。これ以上、望むものはない。
「リクエストは、何かあるかな?」
 一曲弾き終わったところで、康晴は言った。
「じゃあ、あれ。子供の頃によく聞いてた――」
「バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』」
 康晴は鍵盤にそっと手を乗せて、その祈るような曲を弾きはじめた。その曲を弾いていると、康晴は自然と子供の時間に帰っていくような気がした。カーテンが風に揺れて、午後の眠ったような時間が流れていて、みちるは今と同じようにそれを横で聞いている。
 最後の音がゆっくりと宙に消えてから、康晴は訊いた。
「みちるは、怖くないかい? 後悔や憤りや虚しさを感じることは?」
 その問いに、みちるはすぐに答えた。光が鏡に反射するよりも早く。
「――ないよ。本当に、少しだってそんなことはない」
 みちるは真心からの笑顔を浮かべて言った。
「だって私は今、すごく幸せなんだから」


(向坂 茜)

 美術室には誰もいなくて、物音一つしなかった。もう、何もかもが終わってしまったあとみたいに。でも窓のところから運動場を眺めると、優ちゃんが走っているのが小さく見てとれた。わたしはしばらくそれを眺めてから、教室の中央に戻る。
 そこには、イーゼルにかけられた一枚の油彩画があった。描いたのは、わたしだ。これでも一応、美術部員なのだ。もっとも、顧問の先生もほかの部員もいないのだから、美術部自体はもう存在していないのかもしれないけれど。
 絵はもう完成していて、これ以上手を加えるつもりはなかった。だから本当は、ここに来る必要はない。わたしは優ちゃんのところに行ってもよかった。
 でも、わたしは――
 一週間かけて、わたしはその絵を完成させた。でも実のところ、どうしてそんな絵を描いたのかは自分でもよくわかっていない。ただどうしてだか、その絵を描かなくちゃ、と思ったのだ。
 絵には、一人の少年が描かれている。ちょっと長めの髪をしていて、そのせいで表情ははっきりしない。少年はどこか遠くを見つめていて、手に持った青い紙ひこうきを飛ばそうとしていた。学校の制服を着て、やっぱり学校の屋上みたいなところに立っている。
 この絵はわたしが描いたのだから、「みたいな」というのはおかしな話だった。でもわたしは、ほとんど何も考えずにこの絵を仕上げてしまったのだ。下書きだって、ろくにしていない。全体的なタッチもぼかしたもので、ちょっとピントのずれた写真みたいにも見える。すべてはあくまで曖昧で、この少年が誰なのかもはっきりしない。
 少年には、モデルがいる。でもわたしは、その人のことについて何も知らない。制服を着ているのだって、それ以外の格好をわたしが知らないせいだ。そう、わたしは記憶だけを頼りにこの絵を描いたのだ。優しいけれど儚そうな雰囲気も、かすかに孤独の滲んだたたずまいも、すべてはわたしの記憶と印象の中での話だった。
 この絵の中に、物語はない。そこには少年という登場人物がいるだけ。彼が何を考えているのか、何をしようとしているのか、何をしなくちゃならないのか、わたしは知らない。絵はわたしに、何も物語ってはくれない。
 わたしはぼんやりと、その絵を眺める。
「――――」
 そうしてわたしは、その少年が、夢の中に出てきたあの少年と同じ人物なのだということに気づく。ついさっき、廊下ですれ違ったあの少年と同じなのだと。
 そのことに気づいて、わたしはどうしてだか泣いてしまう。
 もうすぐ、世界は終わる。永遠の氷の中に閉じ込められるみたいに。存在だけはしていても、でももう動くことも考えることもできはしない。
 そうしたら、わたしのこの想いはどうなってしまうのだろう?
 わたしのこの想いもやはり、永遠に存在し続けることになるのだろうか。
 どこにも、たどり着かず――
 誰にも、伝わることなく――
 ずっとわたしの中にとどまり続けるのだろうか。ブラックホールに捕らえられてしまった光みたいに。だとしたら、わたしは――

 ――その時、世界の時間は停止した。
 瞬間、ビデオを一時停止≠ノしたみたいに、すべてのものが動きを止める。鳥は宙空にぴたりと静止し、ヴァイオリンはその音を凍らせ、水面をはねた水の一滴はもう二度と元に戻ることはない。すべては一枚の写真にうつし撮られたように、永遠の一瞬を切りとられていた。
 ある者は、絶望の縁で反吐をはきながら――
 ある者は、永遠を拒絶した眠りにつきながら――
 ある者は、幸福な時間の最後をすごしながら――
 すべての想いも、すべての悲しみも凍りつかせて。
 けれど、そのことに気づく者はだれもいない。そこには何の知覚もなく、痛みさえなかった。誰も、世界がもう終わってしまったことにさえ気づかない。
 ――気づかない、はずだった。
「…………」
 けれど向坂茜のいる美術室に、彼女が何かのための涙を流したその場所に、一人の少年が姿を見せていた。
 少年はもう二度と動かないはずのドアをがらがらと開けて、美術室の中へと足を入れた。そして絵を前に座ったままの彼女の隣に立って、その同じ絵を眺める。
 そこには、少年自身の姿が描かれていた。
「――ぼくは君に、感謝すべきだと思うんだ」
 と、少年は言った。もうその言葉を聞く者は、この世界のどこにもいないのだけれど。
「君がこの絵を残してくれたことが、ぼくに意味を与えてくれる。この世界に、宇宙に、たった一人だけの存在であることに耐える意味を」
 少年はかがんで、彼女の目をのぞき込んだ。その瞳はガラス玉のように澄んで、止まった時間を映しこんでいる。そこに少年の姿が映ることはない。止まった時間は変化したりはしない。
「ぼくは可能性のために、ここにいる。いつかこの宇宙が、新しいもう一つの宇宙を誕生させる可能性のために。そこに同じように人が存在して、怒りや、苦しみや、優しさや、喜びや、そして悲しみのある世界が存在する可能性のために。――ぼくは種なんだ。この世界が死んで残った、たった一粒の種。この世界が再び実を結ぶための、わりにあわない賭け。ほんのわずかにだけこの宇宙を生きのびさせるための、ちっぽけな視点。ぼくは語り部にはなれないんだ。ぼくはただ、新しい物語がはじまるのを待つだけ。その物語が、できるだけうまくいくことを祈ることしかできない存在」
 少年は身を起こして、笑顔を浮かべた。
「それでも、ぼくは満足なんだ。だって、君がこの絵を残してくれたから。君がぼくに、物語をくれたから。ぼくはその物語さえあれば、この宇宙の孤独に耐えることができる。暗い土の中で、たった一人陽の光を夢見て生きることができる」
 そして、少年はそっと彼女の涙をぬぐった。

「――だから、ありがとう」

 そう言って、少年は教室から姿を消した。
 ドアは閉められ、あたりはまた元のように戻っている。鳥は宙空にぴたりと静止し、ヴァイオリンはその音を凍らせ、水面をはねた水の一滴はもう二度と元に戻ることはない。
 静止した時間の中ではただ、一人の少女の涙だけが消えていた。

――Thanks for your reading.

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