[桜色の髪をした彼女]

 ういちゃんは桜色の髪をしていた。ういちゃんのことでわたしが一番はじめに思い出すのは、あの電車でのやりとりだ。

……*

「――あいつらには想像力ってものがないのよ。中身のつまってないカボチャと同じ。そんなもの、誰が欲しがると思う? それはね、同じように想像力のない、からっぽな連中だけなのよ、これが見事にね」
 と、ういちゃんは一気にまくしたてた。
 それは帰りの電車の中で、その言葉はういちゃんの目の前で座って本を読んでいる人の、その本についてのことだったので、わたしは本当に困ってしまった。ういちゃんがわたしに話しかけているのは一目瞭然で、だから知らないふりをすることもできない。
 本のタイトルは、確か『幸せになりたい人のためのレッスン11』というものだった。話題のベストセラーで、作者はテレビによく出るタレントとか、そういう人だったと思う。
 幸いなことに、その人はういちゃんの言葉が聞こえなかったのか、聞こえないふりをしてくれて、特にもめごとになったりはしなかった。まわりの人も一瞬さっと冷たい風が吹くみたいに緊張したけれど、すぐまた元に戻っていた。
 次の駅でその人が降りてから、わたしはういちゃんに小声で話しかけた。そうしないと、ういちゃんはまた厄介なことを口に出してしまうと思ったから。
「まずいよ、ういちゃん、あんなこと言っちゃ」
 案の定、ういちゃんは不思議そうにわたしのことを見た。
「何が?」
「だから、その、目の前で人を悪く言うようなこと」
 ういちゃんはああ、そのことか、とようやく気づいたような顔をした。例え明日世界が終わると言われたって無関心そうな、いつもの顔で。
「確かに人のことを悪く言うのはよくない。でも、本当のことでしょ? ――いい、ユズノ」
 ユズノというのはわたしの名前のことだ。
「わたしはあんな本を読もうっていう人間のことが全然分からない。ものの見事に、ね。そういう人間がいるんだっていうことすら理解できない。だって、あんな本読んでどうするっていうの? いったい何を手に入れて、何が変わるっていうの? 何もなりゃしない。そんなことにさえ気づかないなんて、どうかしてる。そんな人間は何も考えちゃいないのよ。わたしは何が理解できないって、何も考えていない人間ほど理解できないものはないのよ」
「…………」
 ういちゃんは常々、想像力の欠如というものを嫌悪していた。世界中のすべてのものを許すとしたって、それだけは絶対に許せない、というように。
 わたしはそのことを知っていたし、それにういちゃんの言うことも分からないではなったので、反論ぽいものはしなかった。
 窓の向こうにはちょうど川が流れていて、わたしとういちゃんの姿が半透明になって宙に浮かんでいた。それがただの光の反射にすぎないとは分かっていても、わたしは自分の足元から何も失くなってしまったような、ぼんやりした不安を覚えた。
 ――それが、わたしがういちゃんについて思い出す一番最初のことだ。
 大抵の場合、ういちゃんはそんなふうだった。いつも何かが気に食わないみたいに、敵意に満ちたまなざしを周囲に向けていた。ういちゃんに言わせるとそれは、まわりの人間のほうがおかしいせいなのだけど。
「世界は嘘ばかりなのに、みんなそのことに気づこうともしない」
 と、ういちゃんは言ったことがある。
 わたしも、そんなふうに思うことはある。ういちゃんほどじゃないけれど、この世界は嘘ばかりだって。みんな何もかもごまかしているみたいだって。
 それが本当のことかどうかは知らない。
 少なくともういちゃんは、そう信じているみたいだった。シンプルに、力強く。わたしはそんなういちゃんに憧れてもいたし、尊敬もしていた。それから少し嫉妬もしていて、あるいは苛立ちを感じてもいた。

 ういちゃんは、久良守茴(くらもりうい)という。
 久良守というのは、あの久良守のことだ。地元の人間では、知らない人はいない。
 そのことがういちゃん自身にどう影響しているのか、ということはわたしにはよく分からない。つまり、ういちゃんの性格とか、人格みたいなものに対して。でもあの一家を見るかぎりでは、そのことはやっぱり大きな部分をしめているような気がする。
 わたし自身の印象としては、ういちゃんは久良守家の一員というか、たぶんその血筋みたいのを受け継いでいるような気がする。ういちゃんはそのことを否定するし、わたしも特に重要視するわけじゃないけど、それでもやっぱり、ういちゃんは久良守茴でもある。
 強情さとか、我の強さとか、そういうものについて。それは久良守の伝統というか、血脈みたいなものなのかもしれない。
 ういちゃんは、でもういちゃんはそんなことには関係なく、やっぱりういちゃんだった。少なくともわたしにとって、ういちゃんは久良守茴である前に、ただのういちゃんだ。
 ういちゃんがどんなふうだったか、わたしは今でもはっきり思い出すことができる。
 よく晴れた夜空みたいに澄んだ瞳は、照準器みたいにまっすぐ対象に向けられている。口元はいつも不機嫌そうに固く結ばれていて、眉はしかめっ面寸前みたいにまっすぐだ。すごく美人なんだけど、大抵の人はライオンにでも遭ったみたいに彼女のことを避ける。進行方向に立っていると、蹴っ飛ばされてしまいそうだから。
 一言でいって、ういちゃんはみんなに親しみを与えたり、野に咲く花みたいに人を和やかにする、というタイプではなかった。
 でも、ういちゃんが笑うと、わたしは何だか体がむずむずする。いつもまっすぐな眉がちょっとした奇跡みたいにゆるんで、口元がにっこりすると、わたしは何故だか体が熱くなってしまう。
 ういちゃんがにっこり笑うと、春先の陽射しに冬の眠りから目覚めるみたいに、わたしは何だかむずむずしてしまう。

 ――いったん、物語の順序を元に戻して、わたしとういちゃんがはじめて会ったときのことについて話してみようと思う。
 梅雨が明けた頃、七月の初め。
 まだ夏の気配は遠くて、意外なくらい涼しい日が続いていた。肌寒いと、長袖が必要なくらいに。でも暑さの予感みたいなものは感じていた。
 言い忘れていたけれど、わたしとういちゃんは高校に通っている。県立の、地元ではそれなりに有名な進学校だ。この時、わたしは入学したばかりだった。
 一学期も終わりにさしかかった、つまり、みんなそれなりに安定した学校生活を送っている、そんな時のことだった。わたしとういちゃんが出会ったのは。
 その日、わたしはお昼休みに学校の中庭に向かっていた。
 中庭といっても、実のところそれはちょっとした森といっていいくらいのものだった。うちの高校は県の森林公園と境を接していて、その一部を敷地内に取り込んだような形になっている。だから中庭というか、外庭というか、よく分からないけれど、校庭に鬱蒼とした森の広がる空間がある。
 公園兼学校の中庭であるこの場所に、ほとんど人はやってこない。学校の生徒もいないし、一般人の姿を見かけたこともなかった。たぶん学校の中なのか外なのかよく分からなくて、それで誰もよりつかないのだろう。
 いつもの道を通って、森の少し奥まったところに向かった。木の下に入ると陽射しが遮られて、空気がひんやりとした。陽だまりから、土のにおいがする。
 森の中にはベンチが一つ、忘れられたみたいに置かれている。手すりの部分が植物様に作られた、古めかしいけれど立派なベンチだ。ナルニア国物語に出てくる、例の街灯に少し雰囲気が似ている。
 ベンチの上を軽く払ってから、そこに座った。木々の間から、光がまだら模様に注いでいる。時々風の音がして、あたりは温かな海の底みたいに静かだった。
 お弁当を開いて、それを食べはじめる。食事が終わると、本を開いた。ごく普通の文庫本。ページの上に光が穴ぼこみたいに映った。少し読みにくい。でもちょっと楽しい。
「――その本、面白い?」
 声をかけられたのは、その時だった。
 誰もいないはずの森の中で、降ってわいたみたいに声がしたっていうのに、わたしは不思議と驚かなかった。流れ星が直撃したくらい驚いていいはずだったのに、まるで平気だった。
 顔を上げてみて、声の主を確認する。セーラー服の襟に入った赤いラインで、その人が二年生なのだと分かる。寒がりなのか、長袖を着ていた。
 とはいえ、わたしがその時に見ていたのは、本当は一つのことだった。わたしはその人の髪を見ていた。
 白金とか、銀髪とか、白に近い髪というのはある。でもその髪の色は、そんなふうじゃなくて、軽く薄紅を融かしたような、そんな色だった。桜色、というしかない。それがその人の髪の色だった。
 わたしはけれど、驚く機会を逸してしまっていたのだと思う。怪しんだり戸惑ったりする前に、こくんとうなずいてしまっていた。
「面白い、です」
 その人は立ったまま、わたしの手元をのぞきこんだ。路傍に咲いている花をのぞきこむとか、そんな仕草に似ていた。
「『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』か。へえ、好きなの?」
「たぶん……」
「悪くないわね。うん、悪くない」
 その人はしきりにうなずいてみせた。何が悪くないのかは分からない。
「あなたは、あれかな。いわゆる文学少女ってやつ?」
 わたしは本を閉じて、何となくその表紙を眺めてから言った。
「たぶん、違うと思います」
 よく分からないけれど、わたしは本が好きなのではなくて、たまたま好きな本が存在していた、というだけにすぎないような気がする。それは結局、同じことなのかもしれないけれど。
「ああ、何となく分かる気がするな、あなたの言いたいこと。つまりあなたは本じゃなくて、純粋にその中の情報が重要だと思っているんでしょ。何もかもそぎ落としていって、それでも最後にそれが残る。情報だけが劣化しない」
「……?」
 よく分からないまま、とにかくうなずいてしまっていた。
 それから次の瞬間、「ちょっと失礼」と言って、その人はすぐそばに顔を近づけてきた。わたしはどきっとして、自分では分からないけれど顔が真っ赤になってしまっていたような気がする。息をすればかかりそうなくらい、ちょっと顔を動かせば、唇が触れてしまいそうなくらい、近いのだ。
 その人はまっすぐ、わたしの目をのぞきこんでいた。耳鳴りがするくらいに心臓が鼓動していたけど、何故だか目をそらせずにいた。まるで磁石にでも吸いよせられたみたいに。その瞳は手にはっきり触れられそうなくらい透明で、星空を写し撮ろうとするみたいに瞬き一つしなかった。
 どれくらいたったのか分からない。実際には、十秒もしなかったはずなのだけど。
「……大体、分かったかな」
「え?」
「ところで、ここってとてもいい場所ね」
 その人ははぐらかすというわけではないのだけど、体を離しながら言った。
「う、うん……」
「また来てもいいかな、同じくらいの時間に」
「いいと、思う」
 わたしが言うと、その人はにっこり笑った。世界の片隅で確かに何かが変わってしまったような、そんな笑顔で。
 手を振って、校舎のほうに戻ろうとする途中、その人は振り返って言った。「――わたしの名前は、久良守茴」
 それが、わたしとういちゃんのはじめての出会いだった。

 それから何度も、わたしとういちゃんは同じ場所で会うことになる。同じ場所というのは、つまり森の中のベンチで。大抵は昼休みの時間だった。お昼をいっしょにとることもある。
 わたしがいつ頃から、ういちゃんのことを「ういちゃん」と呼びはじめたのかは、よく覚えていない。気づいたときにはそんなふうに呼びはじめていて、そしてそれは、すごく自然なことのように思えた。
 ういちゃん、といっても、もちろんういちゃんはわたしより年上だ。だから「ちゃん」なんて呼びかたは本当は変なのかもしれないけど、わたしは気にしたことがない。親戚のお姉さんに話しかけるような気持ちだった。少なくともういちゃんは、そういう呼びかたはやめてほしいと言ったことはない。
 どうしてわたしとういちゃんがそんなふうに親しくなったのかは、考えてみるとちょっと不思議なことだった。ういちゃんとわたしには共通点と呼べるほどのものはなかったし、学年だって違う。性格や容姿、雰囲気だって全然似ていない。
 わたしとういちゃんが友達になるような理由はどこにもなかった。
 にもかかわらず、わたしは今でも、ういちゃんと友達になれなかったことのほうが想像できずにいる。ハレー彗星が何年も何十年もかかって、それでもやっぱり地球とランデブーするみたいに。
 だからこそ、それは短い間のことにしかすぎなかったのかもしれないけれど――

 久良守、についてわたしがあの「久良守」なんだと知ったのは、だいぶあとのことだった。それはういちゃんから直接聞いたんじゃなくて、たまたま耳に挟んだものだった。そうでなかったら、わたしはきっとういちゃんの家を訪ねるときまで、そのことを知らずにいただろうと思う。
 それは何でもない、ある休み時間のことだった。
「ねえ、あれ、あの人知ってる?」
 と廊下のほうから、一人の声が聞こえた。
「……うわ、何あれ、髪まっしろじゃん。どうなってるの?」
 もう一人が訊き返す。
「あの人さ、有名人らしいんだよ。久良守誠治(せいじ)の娘だって」
「それってあのテレビとかによく出てる、政治家の?」
「そうそう、あの久良守」
「うそー、それって超セレブってこと? いいなあ、何かあの人、すごいお金持ってるんでしょ。資産家ってやつ?」
「らしいけど、でもいろいろあるらしいよ」
「何が」
「特別待遇ってやつ? 学校での扱いが優遇されるんだって。先生とか遠慮して媚売ってるって話だし」
「何それ、依怙贔屓じゃん。何か卑怯くさくない?」
 それから、二人は別の話(どこかのアイドルの恋愛話)に移ってしまって、その話はそこまでだった。
 久良守誠治の名前は、もちろん聞いたことがあった。地元出身の衆議院議員で、党の代表役を務めたこともある有名な人だ。政治だけじゃなくて、芸能人顔負けの甘いマスクとか、鋭い弁舌とかで、よくテレビにも顔を出している。
 でもわたしはそのこととういちゃんを、うまく結びつけられなかった。月の裏側に兎が住んでいることよりも、それは想像しにくいことだった。権力とか地位とか、そういうものほどういちゃんにそぐわないものはない。実際にういちゃんが依怙贔屓されているのかどうかも、わたしは知らない。
 少なくともその時、わたしはそのことをたいして重要だと思ったりはしなかった。そんなことを気にする理由なんて、やっぱり少しもありはしなかったから。

 ここで、わたしのことについて少し話しておこうと思う。
 とりあえず、ちびだ。中学の頃から身長が変わっていなくて、クラスでは一番低い。たぶん、学年でもそうなんじゃないかと思う。少なくとも今までのところ、わたしより身長の低い人にはお目にかかったことがない。
 顔立ちも、取り立てて言うほどのことはない。地味で目立たない。木星の輪と同じくらいに。鏡を見るたびに、わたしは頬をつまんでそれが自分の顔かどうか確かめる。
 中学までは眼鏡をしていたけど、高校に入るときにコンタクトにした。髪型も変えて、雑誌で見たようなさっぱりしておしゃれなものにしてもらった。ふんわりしたショートボブに仕上げてもらったのだけど、母親にはロップイヤーに似ていると言われた。ロップイヤーというのは耳のたれたウサギのことなのだけど。
 先に白状しておくと、わたしはいわゆる高校デビューというものを狙っていた。人並みに可愛い女の子に憧れていたわたしは、中学時代のぱっとしない自分に訣別すべく、気合を入れてイメージチェンジをした。
 髪を切って、目立たない程度に眉を整え、鏡の前で表情を作る練習をした。それはなかなかうんざりする過程ではあったけど、わたしは我慢して乗りきった。そしておしまいには、自分でもなかなか見られたものになったんじゃないかと思った。鏡の中にはいかにも女子高生といった風情の女の子が映っている。
 それで、運命の初登校日。
 クラスではお決まりの自己紹介があった。お決まりとはいえ、それはわたしにとっては地球のはじまりよりも重大な儀式だった。
 わたしは一週間も前から考えていた自己紹介文を口にした。どこに出しても恥ずかしくないような、達意の文章だ。わたしの番が終わると、何事もなかったように次の生徒の順番に回った。わたしはその間、ずっとにこにこしていた。
 ……ここまでの話でもう分かっているとは思うけれど、手短に言ってわたしの高校デビューは失敗に終わった。最初の休み時間、わたしに話しかけてくる人は誰もいなかった。
 そして気づいたときには、もうクラスの中にはいくつかのグループができあがっていて、わたしはそのどれにも入ることができなかった。何だかまごまごしているうちに、そこにあったはずの可能性は跡形もなく消えてなくなってしまっていた。
 わたしはいつの間にか、一人になった。

 いつだったか、ういちゃんがこんなことを言ったことがある。
「わたしはね、鏡を見るのが大嫌いなんだよね」
「鏡?」
「そう、鏡」
 いつもの、森のベンチだった気もするけど、帰りの駅まで歩いている途中だったかもしれない。わたしが覚えているのは、その時ういちゃんが計算のうまくいかない数学者みたいに、苦りきった表情をしていた、ということだけ。
「どうして鏡を見るのが嫌なの?」
 と、わたしは訊いてみた。ういちゃんは美人さんだったし、わたしはういちゃんがどんな格好をしても絵になると思っていたから。
 そう言ってみると、ういちゃんは珍しい機械でも眺めるみたいにわたしのことを見た。
「ユズノは鏡を見るのが好きなの?」
「そうじゃないけど……」
 どっちかというと、あまり好きじゃない。それを見るたびに、ちっちゃな自分が映っているから。
「わたしは鏡を見るっていう行為そのものに耐えられない」
「行為そのもの?」
「つまりさ、そこに自分が映っているわけだよね」
「うん……」
 別人の顔が映っていたらびっくりするだろうな。
「でもね、それは見覚えのない顔でしょ」
 わたしはよく分からなくて、首を傾げた。ういちゃんはそのまま続けた。
「つまり自分の顔は、自分の目で直接見ることはできない。鏡に映しでもしないかぎりは、絶対にね。わたしたちはそんな自分を世界にさらしている。自分をもっともよく見ることができるのはわたし自身じゃなくて、他人なの。他人だけが、自分を見ることができる。鏡を見るたびに、わたしはそのことを思い出すんだ。鏡を見るとき、わたしはわたしにとって他人になる」
「…………」
 わたしは必ずしもういちゃんの言ったことが分かったわけじゃなかったけど、でも何となく黙ったままでいた。ういちゃん自身が、必ずしもそれを人に分かってもらおうとしているわけじゃなかったみたいだから。
 ひび割れた世界を眺めるようなその時のういちゃんの目を、わたしは今でもよく覚えている。

 わたしとういちゃんは、時々いっしょに帰るようなこともあった。帰りの電車は同じ路線で、わたしのほうが二駅くらい前で降りる。
 帰りが同じになるのは、いつも偶然だった。たまたま帰り際に出会ったときにだけ、いっしょになって下校する。偶然といえば、森のベンチで会うのだって、偶然だとはいえた。わたしたちは結局、一度も会うことを約束したりはしなかったから。
 そんなわけで、駅の改札口のところだった。
 その日、わたしは駅まで向かう途中で、ういちゃんを見つけた。確か、雨が降っていたんじゃないかと思う。ういちゃんの桜色の髪は目立つとはいえ、傘をさしていたのだろうから、自分でもよく気づいたものだと思う。
 雨のせいか、駅の構内は湿っぽかった。たたんだ傘からはぽたぽたと滴が落ちている。
 改札口の前に、そろいの服を着た三人が立っていた。一人が大きな箱を持って、一人がのぼりを手にし、一人が通行人に呼びかけている。白いのぼりには海外の難民救済にご協力を≠ニゴシック体で書かれている。
 わたしは何となく、ポケットに入っていた百円を募金箱に入れた。募金の集まりはあまりよくないみたいで、百円硬貨は不必要なくらい大きな音を立てた。
 ホームに出て、時刻表の付近に立っていると、ずっと黙ったままでいたういちゃんが口を開いた。
「わたし、ああいうのは嫌いだな」
 開口一番が、まずそれだった。とはいえ、ういちゃんの表情は降りしきる雨を眺めたまま、特に変化はない。
「ああいうのって?」わたしはどれのことだか分からなくて訊いた。「わたしだけお金を入れたこと?」
「まさか」
 ういちゃんは笑ったけれど、何だかそれは少し自嘲気味な感じがした。それから、見えないものの手触りと確かめるような、そんな口調でういちゃんは言った。
「……チャリティーって、何なのかな?」
「無償の善意、かな?」
 わたしは思いついたことを適当に言ってみる。
「それは正しいもの?」
「えっと……」
 正しいって、どういうことだろう。
「もしもそれが本当なら、そうかもしれない」
 電車が風を運びながら構内に入ってきた。音がしてドアが閉まると、電車は行ってしまう。わたしとういちゃんは同じ場所に立ったままだった。
「でも本当の善意なんて、存在するのかな?」
 ういちゃんは疑わしげな訪問販売を眺めるような目をしていた。
「それは難しいとは思うけど……」
 わたしはどう答えていいかよく分からなかった。
「もしもそんなものがあるとしたら、それは何も持っていない人による行為でないとおかしい。聖書にもあるとおりにね。本当の善意は余りものや、何かのついでに行われるようなものじゃないから。でも実際には、そんな人はいない。だけど、慈善活動そのものは存在する。天国に徳を積むため、情けは人のためならず、そんな言い訳までして。それがどうしてだと、ユズノは思う?」
 わたしは首を振った。分かるわけがない。
「みんな、生きているのが辛いからよ。それを罪みたいに考えているから。少しでもそのことを忘れたくて、少しでも気が楽になりたくて、形だけでもいいから善意というのを確認したがっている。そうすれば、少しでも罪が軽くなるような気がして。まるで、預金通帳の残高でも調べるみたいに。だからわたしは、賽銭箱にだって絶対お金は入れない」
 ういちゃんは不機嫌そうにはっきりと言った。
「わたしは自分の存在を、自分以外のものに頼りたくないんだよね」

 ――いつのことだったかはっきり覚えていないけど、わたしとういちゃんはいつもみたいに森の中にいた。
 お昼の食事も終わって、でもわたしもういちゃんも特に何もしない。口もきかないし、本を読んだりもしない。ただぼんやりしていただけ。
 天気が良くて、気持ちのいい風が吹いていた。森の中は静かで、時間の一滴一滴が目に見えるみたいだった。神様が手を加えるのを忘れたみたいな、きれいなガラス玉みたいな一日。
 そのうち学校の予鈴が遠くから聞こえてきたけれど、わたしもういちゃんも座ったままじっとしていた。まだ眠たい、朝の布団の中にいるみたいに。
 結局、その日は午後の授業に出ることはなかった。さぼってしまったということ。わたしは一人だったらたぶんそんなことはしなかったと思うけど、でもういちゃんといるとそれはすごく自然なことに思えた。
 太陽の光や、森の緑を眺めていると、チャイムの音は遠くの列車みたいにぼんやりと通りすぎて行った。時間は普段とは違う、不思議な速さで流れていく。
 不意に、ういちゃんが立ちあがった。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言ったのは、もう夕方になりかけているからだった。
「暗くなったらさすがに困るからね」
「でも何だかずっとこうしていたいな」
 わたしは布団の中で学校に行くのをぐずる子供みたいに言った。
「そしてわたしたちはこの森で暮らすわけだ」とういちゃんは笑った。「ハックルベリー・フィンみたいに」
 結局それから十分くらいして、わたしたちは校舎のほうへ戻った。静かで、他に人の姿はなくて、知らないうちに世界が終わってしまったみたいだった。
 その時、ういちゃんが壊れた時間の一欠片みたいにぽつりと言った。
「どうしてみんな、平気でいられるんだろう」
「え?」
 うまく聞きとれなかった気がして、訊き返した。でもういちゃんは気にしたふうもなく、そのまま歩いていく。
 よく分からないままそのあとを追いかけると、小さく口笛の音が聞こえた。それはボビー・マクファーリンの『Don't Worry, Be Happy』だった。口笛は世界を柔らかく切り裂いていく。
 教室まで荷物を取りに戻ろうとすると、ういちゃんは玄関のところで立ちどまって、何かの気配に耳を澄ますみたいにあらぬ方向に顔を向けていた。
 ちょっと気になったけれど、わたしはそのまま教室に向かった。誰もいない教室で、机からカバンを取り、玄関に戻る。
 でもそこにはもう、ういちゃんの姿はなかった。
 どうしてだかういちゃんがもうそこにはいないんだということが、わたしには分かっていた。世界の終わりにまぎれこんでしまったみたいに、もうその姿を消してしまったんだということが。
 でも――
 それでもわたしは、ういちゃんの姿を求めずにはいられなかった。遠くの自動車の音の気配や、校舎の長い影の中に。
 今にも口笛の音が聞こえるんじゃないかと、わたしは泣き出しそうな心細い気持ちで、ただ立ちつくしていた。

 ある日、わたしはベンチのところにういちゃんの忘れ物があることに気づいた。
 ハードカバーの本で、ぱらぱらページをめくってみるとローマ字がぎっしりつまっている。でも英語じゃない。時々、文字の上に「‥」の記号が振ってあった。もちろん、読めるはずはない。化学式みたいなものもたくさん書かれていた。
 それがういちゃんの忘れ物であることだけは確かだったけれど、わたしはとりあえず拾っておくだけでういちゃんの教室まで届けるようなことはしなかった。明日になれば、たぶんういちゃんとは会えるだろうから。
 でもどういうわけか次の日、森のベンチにういちゃんは現れなかった。
 図書館の学生名簿でういちゃんの家の住所を調べるのは難しくなかった。それをメモして、大きめの住宅地図でその場所を確認する。
 放課後、わたしはいつもの電車に乗って、自宅近くの駅から二つ先で降車した。そこから地図と標識を頼りにういちゃんの家を目指す。

 結論から言うと、ういちゃんの家はすぐに見つけることができた。あんな家、簡単に見落とせるはずがない。
 にもかかわらず、わたしは何度もそれがういちゃんの家であることを確認した。メモした住所と見比べ、地図をひっくり返してみたりした。でも間違いない。
 それは、家屋という言葉ではとても間に合わないような、大きなお屋敷だった。邸宅というか、豪邸というか、とにかく巨大だ。敷地は鉄柵で囲まれて、ゴルフ場みたいに広い中庭がついていた。
 門柱〈移動柵で閉じられた門は、学校よりも明らかに大きかった〉に掲げられた表札には、きちんと「久良守」と書かれていた。その下にはインターフォンがつけられている。
 わたしは緊張するよりもむしろ無力感に打たれながら、そのスイッチを押した。天国の門の前で待たされるような、所在ない感じがした。どこからか機械の駆動音みたいなものが聞こえる。
――どちらさま?
 不意に、スピーカーから声が聞こえた。雑音のない、クリアな音質だった。きっと高級品なのだろう。
 わたしは聞こえないように小さく咳払いすると、インターフォンに向かって言った。
「えと、こちらに久良守茴さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 何だか自分でも怪しげな敬語だった。
……おたくはどちらさん?
 やけにぞんざいな口調だったけど、その時のわたしに気にするような余裕はない。
「あの、わたしうい――久良守さんの友達で、ユズノっていいます」
で、そのユズノさんが何の用なわけ?
「久良守さんの、忘れ物を届けに来て」
忘れ物?
「あの、本です。たぶん外国で書かれた」
……ちょっとそれ見せてみて
 また機械の駆動音が聞こえた。音のしたほうを見ると、ポールの上にカメラらしいものが設置されている。二台も。
 カバンから本を取り出して、カメラの一つに向かってそれを示した。注意深く観察すると、ファインダーが人の瞳孔みたいに小さくなるのが分かる。
オーケー、どうやら本当みたいね
 声がすると同時に、カシャンと音がして移動柵が開きはじめた。
道をまっすぐたどれば家まで着けるから。オズの魔法使いみたいに、ね。ただしそこを外れたら迷子にならない保証はないから、せいぜい気をつけて。ここには北の善き魔女はいないから、そこのところを良く注意して
 柵が完全に開ききると、わたしは本をカバンに戻して歩きはじめた。門のところを踏みこえるとき、本当にここから帰ってこれるのか心もとなくはあったけれど。

 通されたのは、たぶん客間の一つだった。見上げるような高い天井に、高級そうな調度品が置かれている。カーテンの開かれた大きな窓からは、それも装飾品の一つみたいに明るい光が差しこんでいた。壁面には落ち着いた感じの絵が飾られて、本物の暖炉がしつらえられている。
 ここに来るまでに、わたしは一キロメートルはあろうかという中庭の道をとぼとぼ歩いていた。西遊記の玄奘を偲ばせるような長い道のりだった。そうして邸宅部分にたどりつくと、今度は女中さんに案内されて、自力で帰れる気のしない迷路みたいな廊下をひたすら歩き続けた。このまま永遠に歩き続けるのかな、と思ったあたりでようやく一つの扉の前に来て、わたしは中に通された。
 だからその言語に絶したような部屋を見ても、わたしは驚いたりしなかった。ただちょっと、ため息をついただけである。ヒマラヤやギアナ高地を見るよりも、もっと世界の広さを実感したような気がした。
「いらっしゃい、ようこそ久良守家へ」
 イスに座ったその人は、そう言ってわたしをソファのほうに手招きした。声の感じから、その人がインターフォンでやりとりをした相手だと分かる。ちょっと人を馬鹿にしたような雰囲気。部屋の中には他に誰もいなかった。
 言われたとおりに、アンティーク品らしいソファの上に座る。どちらかといえばそれは小さめのベッドみたいなもので、ふかふかのクッションにもかかわらずわたしは居心地が悪かった。
「ユズノさん、だっけ」
「はい?」
 思わず、上擦った声を出してしまった。
「あたしは茴の姉で、久良守薊(あざみ)」
(お姉さん?)
 ういちゃんのお姉さんというその人を、わたしはあらためて観察してみた。
 とりあえず、ういちゃんとはあまり似ていないような気がする。銃弾でもはじきかえしそうな硬い鉄みたいな印象で、ういちゃんみたいに儚げなところはない。眼鏡をかけて、前髪をまっすぐにカットして、後ろ髪が軽くカールしていた。浅黄色のセーターにジーンズというラフな格好。たぶん、大学生くらいだろう。似ているのは、薊さんもやっぱり美人さんだということくらい。その顔にはアリスに出てくるチェシャ猫みたいな、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
「紅茶でよかったわよね?」
「あ、はい」
 慌てて返事をすると、薊さんは典雅な手つきでポットを傾けた。
「お砂糖は二個くらいでいい?」
「たぶんいいと思います」
 何だかよく分からないまま、わたしはうなずいた。
 ことりと音さえ品よく置かれた紅茶は、香りがよくて、おいしかった。あるいはそれは、いくらするのか見当もつかないようなカップとソーサーのせいかもしれなかったけれど。
「お菓子もどうぞ」
 そのクッキーだかプラリネだかよく分からないものも、やっぱりおいしかった。こんなものを毎日食べていたら、世界の見えかたが変わってしまうような気がする。
「それで、キョウに会いに来たんだったわよね」
(……キョウ?)
 わたしが訊き返す前に、薊さんは続けていた。この辺のある種一方的な話しぶりは、ういちゃんと似てなくもないような気がする。
「残念だけど、今日は会えないって。軽い風邪みたいなものを引いてね、あなたに移すのも悪いからってさ。せっかく来てもらったのにね」
「そうですか」
 ひどくがっかりしたけれど、それを言っても仕方がない。
「あの子の忘れ物だっていう本はあたしが渡しとくから。ちょっと見せてもらってもいい?」
 カバンの中をごそごそひっくり返して、わたしはういちゃんの本を取り出した。渡すと、薊さんはぱらぱらとそのページをめくっていく。
「どうやらドイツ語みたいね」
 独り言をつぶやくみたいに言った。
「ドイツ語?」
「これは大変だわ」
「何がですか?」
 わたしはびっくりした。
「この本にはね、こう書かれているのよ。これを読んだ人間は、同じものを十人の人間に配らないと呪われる。本は十冊で定価一割引の九万円ぽっきりだって」
「……冗談ですよね?」
「本気に見えるかしら?」
 わたしは面食らうよりまずうんざりしてしまった。この人はわたしのことをからかっているのだ。
「ところで、あなたはキョウの友達なんだって?」
 また、キョウだった。でも話しぶりからしてそれがういちゃんのことだというのは分かる。
「そうです」
「珍しいわね、あの子に友達なんて」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ、どうもこうもないわね。あんなおかしな子に友達ができるなんて、世界の終わりまではないと思ってたけど」
 すました顔でカップに口をつける薊さんを見て、わたしは思わずむっとしてしまった。
「おかしいのは、みんなのほうかもしれません」
「もしかしてそれ、キョウの受け売り? やっぱりあの子、まだそんなことを言ってるんだ」
「お姉さんは、そう思わないんですか?」
「思わないわね。思うわけないでしょ」
「でも、家族だし」
「家族だからって、あたしはキョウじゃない。キョウだって、あたしじゃない。……ところで最初から思ってたんだけど、あなたってびっくりするくらいちっちゃいのね」
「余計なお世話です」
 気づいたら、そんな口をきいていた。薊さんは笑った。わたしは赤くなった。
「どうして、久良守先輩のことをキョウって呼ぶんですか?」
 わたしは自分の失態をとりつくろうみたいに質問した。
「ああそれはね、茴香だからよ」
「茴香って、植物のですか?」
「そ、セリ科の多年草。小さな黄色の花だけど香りがよくてね、南欧では古くから栽培されてたらしいわ」
「その茴香からとって、茴?」
 そこまで言ってから、わたしはふと気づいた。茴香、薊……
「もしかして気づいたかしら? そう、あたしもキョウも、植物から名前をつけられてるのよ。ちなみに現在の久良守家は四人兄弟。上から男が二人で、下が女二人」
「じゃあお兄さんもやっぱり……?」
「一人はね。棗(なつめ)っていうんだけど、けちなJ-POPバンドをやってる。コネを使って売り込んだ、ろくでもないグループだけどね。シニカルケミカル≠チてバンド、知ってる?」
 わたしは首を振った。
「まあ当然よね、あれじゃあ。あの人の歌を聴くたび、あたし音楽の神様の腹の太さに感心するもの。ファンが何人かいるっていうけど、きっと聾(つんぼ)かかわいそうな人たちね。まともな人間の聞くものじゃないもの」
 ひどい言われようだった。
「でもね、植物の名前がつけられたのはそこまで。あとの一番上は脩一(しゅういち)っていうまともな名前よ。何でだか分かる?」
 首を振った。分かるわけがない。
「それが久良守家の伝統だからよ。代々政治家になるのは長男だけ。いわゆる三バンを継ぐのは一人で十分なわけ。他はついでなのよ。つまりね、観賞用というわけ。だから植物の名前がつけられてる。棗、薊、茴、まったくありがたくって涙が出ないかしら? わたしたちはただのおまけみたいなものにすぎないってわけ。それが久良守家。明治だか大正だかから続く、由緒正しき家柄ってわけ」
「…………」
 わたしはとっさに言葉も出なかった。茴香、おまけ、観賞用――
「ついでに言っておくと」
 と、薊さんはたいして興味もなさそうに続けた。
「長男の脩一は現在、父親の秘書をやってるわ。まあ当然といえば当然だけど。来期あたり、立候補するとかいう話だけど、どうだかね。少なくともあたしはあの人に票を入れる気にはなんないな」
 薊さんはわざとなのか無意識なのか、カップを持ったままイスの上に体育座りをした。行儀の悪い格好である。
「次男の棗は、さっきも言ったとおりJ-POP歌手、いや、本当はただの詐欺みたいなものなのかもね。そういう意味では政治家と大差ないといえるかもしれないわね。で、上から三番目のあたしが何をしてるかというと、インチキ広告作家」
「インチキ広告?」
 わたしはきょとんとしてしまった。
「よくあるでしょ、南米原産の幻のパワーストーン。これを身につければあなたの人生も明日からバラ色に≠ニか。折りこみチラシなんかに入ってる、いかがわしいやつ。いつも気持ちの悪い笑顔を浮かべた売れない俳優の写真が載ってる。あれの広告文やら構成を考えるのがあたしの仕事」
「……冗談ですよね?」
「冗談に見えるかしら?」
 残念ながら、冗談には見えなかった。
「つまりね、あたしたちの一家っていうのは、とことんインチキってわけ。代々、骨の髄までインチキ商売をしてきたのよ。でもまあ、あたしはそのことに文句はないわね。だってそれが人生ってもんなんだから。インチキ? おおいに結構じゃない。少なくとも救われない真実よりはずっとましよ」
「…………」
 わたしには言い返す言葉なんてなかった。紅茶は冷めて、いつの間にか水みたいになっていた。それは前みたいな魔法の味も、香りもしない。
「ところで一つ聞きたいんだけど、あなたはキョウのことをなんて呼んでるの?」
 不意にそんなことを聞かれて、わたしは戸惑った。この人にそんなことをしゃべっていいのかどうか、分からない。しゃべったら最後、メフィストフェレスみたいに魂をかっさらわれてしまいそうだった。とはいえ、ここまで来て話さないわけにもいかない。
「ういちゃん、です」
「もう一度言ってくれる」
「わたしは久良守先輩のことをういちゃんて呼んでます」
 薊さんはいったんカップをテーブルの上に戻した。それから小さく、まるで小人の足音みたいに小さく、笑いはじめた。含み笑いは次第に、ボリュームのつまみを目いっぱい回すみたいに大きくなって、薊さんは哄笑した。
 笑いが静まると、薊さんはまた例の体育座りに戻って、指先を顔の前でからめた。
「なるほどなるほどなるほど」
 薊さんは三回もなるほどと言った。
「ある意味、それはキョウにぴったりね。ういちゃん、か。なるほど、なるほど」
「何がおかしいんですか?」
 わたしはさすがに、いささかむかっとして言った。
「いや、失礼。でもね、あたしとしては本当に愉快だったのよ。ういちゃん、か。いいね、ういちゃん、ういちゃん」
 言いながら、薊さんはまだおかしそうだった。
「キョウなんて呼びかたよりはいいと思います」
「そうだね、そうには違いないな」
 薊さんはようやく落ち着いてきたみたいに、わたしのことを見た。何だか、からかうような目だった。わたしを、というより別の何かを。
「あれでしょ? キョウはまだ例のキルケゴール風の説教をやめてないんでしょ。みんな想像力が欠如してるとか、何とか」
 言いかたが気になったけど、それは確かにそうだったので、わたしはうなずいた。
「昔からそうなのよ、あの子は。いつもまじめで深刻そうな顔をしてね。それが一種の病気にすぎないんだって、いつまでたっても気づかない。でもね、あたしに言わせれば想像力が欠如してるのはキョウのほうなのよ。間違ってるのはあの子のほう」
 わたしは黙ったまま薊さんの話を聞いた。
「あの子はね、勘違いしてるのよ、きっと。この世界が本当は美しいとか何とか、そんなことを。こんな言葉を知ってるかな? 矢を放つ前に的に当てることを考えるな=Bキョウがやってるのはまさにそれなのよ。矢を放つどころか弓を構える前から、もう的に当てたつもりで考えてる。あの子にとっては、答えが先なのよ。でもね、本当に重要なのは問いのほう……そうは思わないかしら? 的に矢を当てるんじゃなくて、矢の当たったところが的なわけ。あたしの言うインチキってのは、まさにそれなのよ。でもそれで十分だと思わない? 的なんて本当はどこにも存在しないんだからさ」
「…………」
「あの子はね、あたしたちが呪われてるってことを受け入れられてないのよ。この久良守家の血筋と、それから実人生ってやつをね」
 気づいたときには、わたしは立ち上がっていた。たぶん、ちょっと怒った顔をしながら。
「だからって、ういちゃんはういちゃんです」
 自分でも何だかよく分からずに、わたしはそう言っていた。
「わたし、もう帰ります」
「そう――」
 薊さんは平気そうに言った。
「帰りは車で駅まで遅らせるから、安心して。もう一度あの長い庭を歩けなんて言わないからさ」
「…………」
 やっぱり、この人はひどい人だ。
「それから最後に」
 と、薊さんは言った。
「あたしは予言するけどさ、あの子はいつか死ぬわよ」
「人は誰だっていつか必ず死にます」
 ようやくそれだけを言い返すと、薊さんはくっくっ、とまたおかしそうに笑った。
 ――彼女の予言は、見事に的中することになるのだけれど。

 いつものベンチでういちゃんと会ったのは、それから何日かが過ぎたときのことだった。顔色がいつもと少し違うようだったけど、風邪はすっかり治って元気だという話だった。
 わたしとういちゃんはベンチに少し離れて座っている。
「本のこと、ありがとね」
 ういちゃんは苦笑するように言った。忘れ物をした自分のうかつさ加減に呆れている、という感じで。
「ううん、わたしこそ急に押しかけたりしてごめん。あの本、大事なものだった?」
「それなりに、ね」
 ういちゃんははぐらかすような言いかたをした。
「薊さんが言うには、ドイツ語の本だってことだったけど」
 もっとも、あの人の言うことだからどこまで信じていいかは分からない。
「そう、ドイツ語の本よ。Das ist ein Buch von Deutsch=Bでもやっぱり、あの人中身を見てたのね」
 ういちゃんは爪をかむような口調で言った。
「薊さんは呪いの本で、十人に配らないと祟られるって言ってたけど」
「あの人らしいわね。でもあれは呪いの本じゃなくて、化学に関する学術書。少なくとも呪いの本じゃない」
「でもういちゃん、ドイツ語が読めるんだね」
 英語のテストにも苦労してるわたしとしては、驚嘆せざるをえない。
「読める、というほどじゃないけどね。でもドイツ語は英語よりよっぽど規則的な言語なのよ。英語がいい加減すぎるんだけど。それに昔、習わされてたから」
「家庭教師?」
「そう、分かってるとは思うけど、あれはそういう家だから」
「おっきいよね」
 わたしはでも、それ以外の形容詞を思いつけなかった。何だかあのお屋敷を訪ねたのは、百年も前の出来事みたいに思える。
「無駄なだけよ、あんなの。あれがどれだけ馬鹿みたいな場所かってことが、みんな分かってないのよ」
 ういちゃんはうんざりしたように言った。
「…………」
 薊さんもそうなんだろうか、とわたしはふと思ってみた。自分たちのことを呪われているといった、シニカリスト。
「でもユズノが会ったのがあの人くらいでよかったわよ」
「どうして?」
 わたしは我に返って、慎重に訊き返した。
「ろくな家族じゃないから。少なくともユズノに会わせたいと思うほどにはね」
「…………」
 わたしは曖昧な表情を作って、それに答えたりはしなかった。
 ――何しろわたしは、ういちゃんのお兄さんだという人に会ったことがあるのだから。

 あれは、ういちゃんの家に行った翌日くらいのことだった。
 帰りの道を駅まで歩いていると、すぐ隣に大きな黒い車が停まった。ダックスフンドみたいに胴が長くて、ついさっき出来あがったばかりみたいなぴかぴかの車体をしている。いわゆる、リムジンという車だった。
 でもわたしはたいして気にせずに、そのまま歩いていった。人通りの少ない住宅地のことだったけれど、とにかくそんな車に用のあるはずがない。
 そうしていると、不意に後ろから声をかけられた。
「君、もしかしたらユズノさんじゃないかな?」
 振り向くと、開いた窓から男の人がのぞいている。人懐っこそうな笑顔。わたしはきょとんとした。見覚えのない人だ。
「あの、わたしのことですか?」
「そう、君のこと。ユズノさん、だよね?」
 よく分からないけれど、わたしはうなずいた。その大きな車は水の上をすべるみたいに音もなく近づいてきた。
「僕の名前は久良守脩一。聞いてるかもしれないけど、茴の兄貴です」
 わたしは何度か瞬きして、その人のことを見た。政治家の秘書という話だったけれど、とてもそんなふうには見えない。ざっくばらんで、平気で人の名前を間違えるタイプに見えた。にこにこして、人を傷つけない嘘をいくつでもつける感じ。
「今、偶然君の姿を見かけたんだけど、せっかくだから声をかけておこうと思ってね。茴がいつもお世話になってるみたいだし」
「えと、こちらこそ」
 わたしはぎこちなく頭を下げた。
「いや間違ってなくてよかったよ。ちらっと見かけただけだったからね。ところでどうかな、ちょっと話でもしないかな? 駅まで送ってあげるから」
「でもそんなの悪いですし」
「気にすることはないよ。どうせついでなんだ。それに僕は君と話をしてみたいんだ」
 わたしは困ってしまった。でもうまく断る方法なんて思いつかない。
 車の中をのぞいてみると、誰もいない。誘拐にしては手が込みすぎているし、それに私のことなんて誘拐したって何の特にもならないだろう。
 その時、かちゃりと錠前を開くような音がして、ドアが開いた。わたしはため息をついて車に乗り込んだ。なるようになれ。
 後部座席は対面シートになっていて、運転席とはパーティションでしきられている。ドアが閉まると、世界そのものが消えて失くなったみたいにふっつりと音がやんだ。
 揺りかごをゆするような柔らかな加速を感じたあとは、もう車が走っているのかどうかも分からなかった。
「何か飲み物はいるかな? ピナ・コラーダなんかはどう? 僕はなかなかうまいカクテルを作るよ」
「遠慮しておきます」
 この人の言葉はどこまで本気なのかよく分からなかった。
「あの、それで話って……」
「いやたいしたことじゃないんだ」
 脩一さんは笑った。大抵の失敗は許されてしまいそうな、そんな笑顔だった。
「ただ茴がいつもお世話になってる、そのお礼がしたくてね」
「わたしはういちゃんと会いたいから会ってるだけです」
「そう、それが重要なんだ」
 信号なのか、車がかすかに停まる気配がした。まるで外宇宙の出来事みたいにはっきりとはしないけれど。
「ところでユズノさんは、茴のカバンの中身を見たことはあるかな?」
「カバンの中?」
 不意にそんなことを訊かれて、わたしは首を傾げた。そんなの、見たことがあるはずはない。
 脩一さんはわたしの表情でそれが分かったみたいだった。やっぱり政治家っていうのは、人の思考を読むのが得意なんだろうか。
「なるほど、見たことはないんだね?」
「何かあるんですか、ういちゃんのカバンの中に」
「いやいや、たいしたことじゃない。知らないならそれでいいんだ。ちょっと気になっただけだから」
 ひっかかったけれど、この人はそれを絶対に答えてくれないんだろうな、という気がした。はらわたが煮えくり返っていても、心が永久凍土みたいに冷えきっていても、この人は礼儀正しく笑顔を浮かべ続けるんだろうと思う。
「それにしても、君は茴と少し似ている気がするな」
 と、不意に脩一さんが言って、わたしは慌てて否定した。
「全然似てないです。わたしはういちゃんみたいに立派じゃないし」
「いや――」
 と、脩一さんはいたずらっぽく笑って、
「とてもキュートだよ、君は。どこかのきれいな箱の中に大切にしまっておきたくなるくらいにね。絵本のページの間とか、南の海の底とか、そういうところにあるような可愛らしさだ。それに君は絶対に人を傷つけたりしないタイプだよ。茴と同じでね」
 そんなふうに人に言われたことはなくて、わたしは赤面した。薊さんはああ言っていたけど、わたしはこの人になら投票してもいいような気がする。
「どうやら駅まで着いたみたいだ」
 そう言われて、わたしははじめてそのことに気づいた。いつの間にか、車は駅前のロータリーに停まっている。たぶん向こうからは見えないのだろう、道行く人がじろじろと車の窓を眺めていた。
「すみませんでした。わざわざ送ってもらって」
 わたしはカバンをつかむと、慌てて車を降りようとした。こんなところを学校の同級生に見られたら、すごくまずいことになってしまう。
「いや、こっちこそわがままに付きあってもらって悪かったね。君に会えて本当に良かったよ」
 また錠前の開くようなかちゃりという音がして、ドアが開いた。
 途端に、手品師が帽子から取りだしたみたいに世界はそこにあった。車を降りてみても、すぐにはそれが本物の世界だという気はしない。まるで月から帰ってきたみたいな気分だった。
「それから、こいつをどうぞ」
 と言って、脩一さんはそれを差しだした。
 見ると、CDアルバムだった。ジャケットには黄色い魚の絵が描かれている。どれもぶくぶくに太った魚だった。よく見ると、シニカルケミカル≠ニロゴが入っている。
「薊のやつがどう言ったかは知らないけれど、それほど悪くない歌だとは思うよ。もっとも、僕は普段あまりこういうのは聞かないんだけどね」
 弟のための、ささやかな宣伝活動というところだろうか。ういちゃんのことといい、ずいぶんまめな人みたいだった。
 ドアが閉まって、窓のところから脩一さんが手を振る。わたしは誰かに見られているかもしれないと思いながらも、手を振った。リムジンはロータリーをぐるりと回って、来た道を戻って行く。分かっていたけれど、本当は駅前に用事なんてなかったのだろう。

 ういちゃんは家族のことをいったいどう思っているんだろう、とわたしはふと考えてみる。久良守家というのはずいぶんな特殊な家で、平々凡々の家庭で育った私には想像もつかないようなところがあった。
「……あのね、薊さんに会ったとき、あたしたちは観賞用だ≠チて言ってた。だからこんな名前なんだって」
「なるほどね」
 ういちゃんは特にショックを受けた様子もなく言った。
「観賞用、か。言いえて妙かもしれない。さすがインチキ広告作ってるだけはあるわね」
 あれはやっぱり本当だったのか……
「あの人たちにとって、久良守っていうのは、政治家以外の何者でもないのよ。つまりそれが、自己同一性というわけ。それ以外のことは瑣事にすぎない。タコの足みたいなものよ。ほっといても勝手に生えてくる。大切なのは本体のほうで、あとはどうなったって構いはしない」
「そんなの普通じゃないよ」
「そうね、普通じゃない」
 ほとんど間をあけずに、ういちゃんは言った。冷えきった鉄の塊みたいな声で。
「昔、こんなことがあったわ」
 ういちゃんは部屋を掃除していたらひょっこり出てきた思い出の品を眺める、という感じで言った。風化はしているけど形そのものはきちんと残っている、という思い出の品を。それはロックハンマーでも壊すことはできない。
「あれは小学校四年生の時のことね。当時、わたしはまだ久良守っていうのが分かってなかった。それがわたしにとってどういうものなのか、ということが。問題は、図画工作の時間に起きた。その時の授業で、わたしたちは絵を描いてた。わたしは絵を描くのが好きだったから、一生懸命に描いた」
 ういちゃんは座ったままついと、指を動かしてみせた。その時の絵を描こうとするみたいに。
「自慢じゃないけど、その絵は地元の児童画コンクールで最優秀をとった。わたしはずいぶん喜んだ。何しろ自分でもよくできたと思ってたから。でもわたしはその絵を焼いてしまう」
「焼く?」
 急な話の展開で、どう反応していいのか分からなかった。
「そう、焼いた」
「どうして?」
「わたしの存在がどうにかなってしまいそうだったから。その絵は本当は賞なんてとってなかった。偽物だった。それはみんな嘘のことだった」
「最優秀が?」
 ういちゃんはうなずいた。たぶん自分に向けられた、残酷な自嘲を浮かべて。
「親の差し金だったのよ、それは。コンクールで選ばれるように事業団体に圧力をかけたわけ。いわゆる出来レース、というやつ。わたしはそれを、父親から教えられた。賞は久良守家の宣伝活動の一環で、わたしのことなんてどうでもよかったんだって。だからみっともなくはしゃぎまわるのはやめろって、そう言われた」
「…………」
「その時、わたしはようやく分かったの」
 ういちゃんは指を降ろした。たぶん、子供の時のういちゃんがそうしたのと同じように。
「この人たちは、わたしのことを平気で壊せるんだって。それがわたしにとってどんなに大切なものでも、この人たちには関係がない。わたしには大した理由や意味があるとは思えないことで、この人たちはわたしのことを自由にする。そして地球が太陽のまわりをぐるぐる回っているみたいに、わたしはそれをどうすることもできない」
 つまるところ、とういちゃんは言った。
「――あの人たちには、想像力ってものが欠けてるのよ」

 わたしはあの日脩一さんからもらった、棗さんのCDのことを思い出す。それはたくさんの双子が作ったみたいにありふれた音楽で、どの曲も見分けがつきにくかった。ふと、薊さんの言ったことが偲ばれる。ヴォーカルと作詞を棗さんが担当しているみたいで、そのうちの一つはこんなはじまりかたをしていた。

昨日 ボクは神様とケンカしたんだ
 みんながボクに いじわるをするから
 ボクは ゴミだめから拾ってきたみたいな 汚れた言葉を吐く
 でも 本当は ボクはみんなに優しくしたいんだ
 心のこもったハグを あげたいんだ
 きっと誰も そんなこと思いもしないだろうけど

 歌詞カードを片手に見ながら、わたしはヘッドフォンから聞こえてくる音楽に耳を澄ました。音の粒を一つ一つ、丁寧により分けるみたいに。

 ある日の女子トイレでのことだった。
「でもさ、あの子暗いよね」
 それは女子グループ四人の会話だった。鏡をのぞきこんだり、服の具合を直したりしながら、みんな話を続ける。
「誰のこと?」
「ほら、いっつも後ろの席に座ってる」
「あー、ユズノさんね」
「なになに誰の話?」
 他の子が興味をひかれたように参加した。
「ユズノさん。いつも一人で、昼休みになると必ずいなくなる」
「ああ、あれか。どこに行くんだろうね」
「知らない。図書室とかじゃないの?」
「うわ、インテリ」
「他に行くとこないもんね」
「てかさ、私あの子のすぐ前なんだよね。で、すぐ前だからさ、感じるんだよね。寂しそーにしてるのが」
「うっそ、あれは好きでやってるんでしょ? 私はあなたたちとは違うんですって」
「愛想笑いっていうのかな、こう、いつもヒクツな笑顔浮かべてさ。たまに用事で話しかけたりなんかすると、すごい期待する目で見てくるんだよね」
「分かるな、それ」
「冗談じゃないわよ、まったく。何待ってんだか知らないけど、それくらい自分で何とかしろっての。先生に助け求めてる小学生じゃないんだからさ」
「それは言えてるわ」
「そうそう、あの子見てると、時々なんかすごい呪われそうな気になるんだよね」
「何それ?」
「どんよりしてるのが感染るっていうの? ほら、何かウイルスみたいに」
「どんな新型だよ」
 みんなが笑った。
「でもさ、実際あれってかわいそうだよね。きっとこれからも友達できないんでしょ?」
「たぶん来世までね」
「てかさ、あの子のせいで時々すごく空気が重いんだよね。こう、宇宙空間にいるみたいな? うんざりする」
「宇宙は真空だろ」
「あーでも分かるなあ、分かる。本当、クラスの雰囲気盛り下げてるよね。なんかやろうっていってもあの子に気を使わなきゃならないし、無視するのもこっちが悪いみたいでさ」
「まじそうだよね。このクラス、あの子がいなかったらもっといいんだけどね。なまじっかそこにいるっていうのが逆に厄介なんだよね」
「お前ひどいな、それ言いすぎじゃね? あの子だって人間なんだしさあ、たぶん」
「あ、もう休み時間終わるよ。クラス戻んないと」
「次なんだっけ?」
「現国、中原中也の詩」
「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」
 みんな笑い声だけ残すみたいにしてトイレから出て行った。しばらくすると、物音一つしない、湿った空気があたりに戻ってくる。
 わたしは奥の個室に閉じこもったまま、じっとうずくまっていた。

 ベンチのところでういちゃんは眠っていた。
 座ったまま、静かに目を閉じて。七月の、まだ強くなりきらない陽射しが天使の祝福みたいにその足元を照らしていた。時々、気持ちのいい風が吹いていく。
 生まれたての赤ん坊みたいな無防備さで、ういちゃんは目をつむっている。いつもみたいな長袖で、例の桜色の髪が風に揺れた。それはまるで、優しい神様がちょっとだけ眠っているみたいに見える。
 それはとてもきれいで――
 わたしは、どうしようもない気持ちになった。
「ん――」
 ういちゃんは朝顔の蕾がゆっくり開くみたいに目を開けて、わたしのことを見た。
「ああ、ユズノ。ごめん、わたし眠ってたみたい。」
「……うん」
「いつからそこに?」
「ついさっきだよ」
「起してくれればよかったのに」
 わたしは何だか、心がちくちくした。ういちゃんの顔を見ているのが耐えられなかった。今にも心がぐにゃりと曲がってしまいそうな気がした。曲がってしまったら、それはもう元には戻せない。
「今日はいい天気ね」
「……うん」
「ユズノも眠ってみれば? いっそ午後の時間はさぼっちゃってね」
 不意に、どうしようもなくクライ衝動が沸きおこるのを感じた。暗くて冷たくて、自分でもぞっとするような感情。けど気づいたときには、口を開いていた。
「さっき、トイレでうちのクラスの女子が話してるのを聞いたんだ」
 ういちゃんは注意深く、黙ったまま小首を傾げた。
「わたしのこと、かわいそうだって。いっつも一人で、昼休みに図書室にでも行ってるんだろうって。時々、空気が重いって。いなくなったら助かるんだけどって」
「――――」
「呪われてるって。ウイルスだって。小学生だって。ヒクツだって。一応だけど人間なんだって」
 わたしは泣くことができなかった。
 泣いたら、どんなにか楽になれるのだろうけど。
「ういちゃんはいいよね」
「そういうのは気にすることないよ、ユズノ」
「強いから、ういちゃんはいいよね」
 わたしはもう自分を止められずに、嘔吐するようにまくしたてた。
「ういちゃんは平気だもんね。言いたいことははっきり言うし、美人だし、頭いいし、わたしみたいにちびじゃない。誰かから傷つけられることなんてない。傷つけられたって、そんなの気にする必要もない。だって、強いもんね。強いから、平気でいられる。わたしみたいに一人ぼっちでうじうじしたり、びくびくしたりすることなんてない。厄介者だとか、いなくなればいいのになんて言われることもない。言われたって、きっと平気なんでしょ? ういちゃんは自分の身を守れるもん。守れるだけのものを持ってるもん。ういちゃんは普通の人と違う。だから平気。でもわたしは普通なのに、普通ってところにもいられない。じゃあいったい、わたしはどこにいたらいいの? ……わたしもういちゃんみたいだったらよかったのに。わたしは自分がみんなにとってどんなに邪魔な人間かなんて、想像したくもないよ!」
 わたしは呼吸が荒くなって、肩で息をするくらいだった。わたしの言葉に、ういちゃんは決して言い返してきたりはしなかった。
「――ごめん、今日は帰ったほうがよさそうだね」
 ただ、静かにそう言っただけだった。空の青さが、真空の暗闇と混ざってしまったような声で。
 わたしは後悔することさえできなかった。

 それからしばらく、わたしは森のベンチには行かなかった。時期外れの長雨で底冷えのする日が続いて、季節が逆戻りするみたいだった。ようやく雨があがって、風邪をひいているみたいだった夏も息を吹き返してきた。でも、わたしはやっぱりベンチのところには行かなかった。教室は知らない星の上みたいに居心地が悪くて、夏休みに入るまでの間、わたしは下を向いてノートばかり見ていた。

 その一ヶ月ほどの間に、わたしは二度髪を切り、熱を出して一度寝込んだ。そして夏休みに入った日に、ういちゃんが死んだ。

 その日、ういちゃんから手紙が届いた。ワープロの文字で、こんなふうに書かれていた。

ユズノへ
 突然、こんな手紙が送られてきて、あなたはさぞ迷惑していることだろうと思います。でも大切なことなので、あなただけには伝えておこうと思いました。
 これから起こることは、すべてわたし自身の意志によって行われたことです。誰かに強制されたわけでも、誰かに唆されたわけでもありません。わたしは自分の存在を他のものに頼ったりはしたくないのです。それはもう言いましたね?
 あなたのことには感謝しています。あなたのような友達がいてくれたおかげで、わたしは少し救われていた気がするからです。
久良守茴

 わたしは何度もその手紙を読み返した。手紙はごく普通の封筒に入れられ、B5のコピー用紙に印字されていた。封筒の表にはわたしの家の住所が印刷されている。
 その手紙を受けとったときから、わたしは何が起こったのかを理解していた。とり乱したり、血の気が引いたりなんてことはなかった。ただ、ある朝突然世界が雪で真っ白になっていたみたいに、悲しくないのに涙が流れただけだった。
 わたしはそれから、薊さんに電話をした。何となく、薊さんならわたしの言うことを聞いてくれる気がしたから。電話に出た女中さんらしい人に、取り次ぎを頼んだ。予想通り、薊さんは電話に出てわたしのお願いを聞いてくれた。
 そしてわたしは電車に乗り、ういちゃんの家の前まで歩き、(今度は)例のリムジンで玄関先まで送ってもらっている。薊さん本人の案内で、ういちゃんの部屋に向かった。
 ういちゃんの部屋には、ほとんど何もなかった。勉強用の机、ベッド、どうやって運んだのか見当もつかないようなずっしりした本棚、衣装箪笥、それだけだった。他には何もない。広い部屋には壁の穴を隠すポスター一枚なかった。
 まるで留置所の中みたいだけど、でも殺風景という感じじゃない。それはガラスが波に洗われて丸くなったみたいな、簡素で、いらないものが少しずつ削り取れていったという感じだった。森の中みたいに自然で、落ち着ける。見覚えのあるどこかに似ていた。
 部屋の窓は開けられていて、中庭からは風が吹きこんでいる。静かで、光の粒子のはじける音が聞こえてきそうだった。
 ういちゃんはそんな中で、ベッドの上に横たわっていた。
 体には布団がかけられている。手を胸の上で組んで、まるで眠っているみたいだった。制服を着ているみたいだったけど、顔色は普通で、生きているようにしか見えない。死顔は穏やかで、まぶたは空を閉じこめるみたいに優しく閉じられていた。
 何だか森の中の白雪姫みたいだけど、毒林檎をのどにつまらせたわけじゃないので、生き返ることはない。ういちゃんの胸が不恰好に上下することはなかった。
 ――そして、ういちゃんの髪は黒色だった。
 少年みたいに短く切られた髪は、どう見ても桜色ではなかったし、長くもなかった。その黒髪はずっとそうだったみたいに、自然なふうにそこにあった。桜色の髪じゃないういちゃんはひどく無防備な感じで、手の平でぎゅっと握ったらそのまま壊れてしまいそうだった。
「あんまり、死んでるようには見えないでしょ」
 わたしはイスに座ったまま、こくんとうなずいた。
「死因については、よく分かってないのよね。なかなか起きてこないんで、女中さんが扉を開けてみたわけ。そしたらベッドの上で死んでてね。慌てて救急車やら警察やら呼んだけど、完全に手遅れ。きっと神様は仕事が早いんでしょうね。キョウの魂はさっさと天国に召されちゃったってわけ」
「いつ頃のことなんですか、その、ういちゃんが死んだのは?」
「詳しいことは分かんないけど、死体の状態と発見時間をあわせてみて、昨日の朝方のことだったろうって話。気のきいたことに、みんなが起きる時間に永遠の眠りにつこうっていうわけね」
「…………」
「ただ、さっきも言ったけど死因がよく分からなくてね。検視官は行政解剖に回すって言ってるわ。でもそんなの、うちの親が認めるわけないでしょ。いや娘の体を切り刻むなんてできない、って話じゃなくて、醜聞になる可能性があるからね。そこでまあ、見えざる神の手によって解剖は取りやめというわけ」
「ういちゃんは殺されたわけじゃないんですよね」
「人に殺されるような性格じゃないわね」
 薊さんはおかしそうに笑ってから、
「状況から見て、それはないでしょ。侵入痕なし、争った形跡なし、検視から見て外傷なし、死因不明。薬物か自然死だろうって話だけれど、解剖しないかぎり判明しないでしょうね。つまり、永遠に分からないってこと。状況的に見れば可能性は一つしかないけど」
「薊さんは、ういちゃんがやっぱり自分の意志で死んだと思ってるんですか?」
「思ってるっていうか、知ってるのよ」
 薊さんは退屈な講義をする先生みたいに続けた。
「あなたが持ってきた本、覚えてる? キョウが忘れたとかいう。あれを見たから、あたしは知ってるのよ。内容までは分からなかったけど、ある薬物についての説明だとは分かった。その薬を使って、キョウはジュリエットよろしく眠りについたってわけ。もっとも、こっちは二度と目覚めないから、死んだロミオを見て短剣を使う必要もないけど」
 わたしはもう一度ういちゃんのことを見た。それがどんな薬だったのかは知らないけれど、ういちゃんはやっぱり死んでいるようには見えなかった。ただ世界の終わりまで夢を見ているような、それだけみたいに。
「ところで、薊さん――」
「なに?」
「こんな手紙を受けとったんですけど」
 わたしはそう言って、封筒ごと薊さんに渡した。薊さんは中の手紙を取りだすと、すばやく目を走らせた。
「キョウの書いた手紙みたいね。今度のことが自殺だってほのめかしてるみたいだけど」
「でも薊さん」と、わたしは言った。「これ書いたの、薊さんですよね?」
「……どうしてそう思うのかしら」
「何となく、そう思ったんです」
「何となくだけで?」
 わたしは慎重に言葉を選びながら説明した。
「まず、ういちゃんがこんなふうに手紙を書くことはないだろうって思いました。それに、ういちゃんはわたしのことを友達≠ネんて呼んだりはしなかった。どういうふうにも、呼んだりはしなかったんです。だからそのことでも、何となくこの手紙は変だなと思いました」
「…………」
「あとは、ワープロと消印です。普通、こういう手紙をワープロで書くっていうのも変ですよね? おまけに、この部屋にはパソコンさえありません。それにさっきの話からすると、ういちゃんがこの手紙を投函したのは死ぬ前日じゃないとおかしいです。でも消印を見るかぎりでは、この手紙はういちゃんの死んだ日に出されたものです。もちろん理由はいろいろ考えられるけど、やっぱりそれは変です」
「でも、それだったらあたしじゃなくてもいいじゃないかしら? 他にもこの手紙を書けた人はいるわよ」
「だってういちゃんが自殺したって知ってるのは、薊さんだけじゃないですか」
 薊さんは口を閉ざした。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。こういうのが、やっぱりこの家の人間なんだろうな、とわたしは思う。
「でもわたしにはよく分からないんです。どうして薊さんが、こんな手紙を出したのか」
 薊さんは軽くため息をついた。そして手紙を封筒に戻して、ポケットに突っこんでしまう。
「たぶん、うちの親はキョウの死を不慮の事故とか、そんなふうに片づけてしまうでしょうね。検視のほうがもみ消されるのは分かっていた。かといって、キョウは遺書を残していない。自殺だとしても、何か証拠が必要だった」
「それで、わたしを巻き込んで?」
「まあそういうことね。単純に遺書を偽造したんでは、信憑性に欠ける。だから一手間かけて、手紙ということにした。あなたさえそれを信じてれば、その手紙は本物として機能するはずだったんだけど」
「わたしはそこまでお人好しじゃありません」
「みたいね。これを使ってこのふざけた家を困らせてやりたかったんだけど」
「ういちゃんはたぶん、そんなこと望んでませんよ」
「知ってるわよ、そんなこと」
 薊さんは面白くもなさそうに言った。
「キョウはあたしの妹なんだから」

 廊下に出て、薊さんの案内で玄関に向かった。相変わらずいりくんだ道筋で、迷わずに一人で帰れる気がしない。
 その途中、階段のすぐ横の角で人とぶつかりそうになった。でもその人は驚いたりはしない。例え乗り込んだ電車が反対方向に向かうものだと気づいたとしても、この人はきっと眉一つ動かさないだろう。
「ああ、薊か」
 と、その人は道ばたの雑草でも見るように言った。そうしてわたしのほうを見て、
「その小さいのは?」
 と訊く。初対面でいきなりのセリフだったけど、わたしは腹も立たなかった。ある意味では、それは予想通りでもあったから。
 その人はあからさまに仕立てのいい、アルマーニとか、グッチとか、よく分からないけれどそんなブランドスーツをきちっと着込んでいた。眼鏡の奥の目は死んだ惑星みたいに無表情で、濃い闇がたまっている。身なりが良くて、顔立ちも整っているのに、全然親しさというものがない。
「茴の友達で、ユズノさんていう人です、脩一兄さん」
 薊さんが、むしろ皮肉っぽさを一段階上げるように言った。
「ふうん」
 その人はわたしのことを物でも見るような目で眺めた。つまりスペックとか、値段とか、そういう数値を測るみたいに。
「茴のやつも勝手な死にかたをしてくれたよ」
 と、その人は肩をすくめて言った。
「もう少し家のこととか、僕のことだって考えてくれりゃ良かったんだけどな。死ぬにしたって、あんな死にかたをすることはない。あれじゃまるで嫌がらせじゃないか」
「…………」
 わたしは黙っていた。薊さんも黙っていた。その人だけがまだ気がすまないみたいに、二言、三言しゃべってから廊下の向こうに行ってしまった。確かに、この人には投票したくないな、とわたしはふと思う。
 脩一さんがいなくなってから、わたしは訊いた。
「あの、棗さんてどこにいますか?」
「棗? どうして」
「ちょっと会いたいんです。向こうは会いたくないかもしれませんけど」
 薊さんはちょっと考えてから、廊下を別の方向に歩きはじめた。廊下のつきあたりみたいな場所に来ると、その扉を開く。そこは書庫だった。分厚くて高価で、人を撲殺できそうなくらい頑丈な本が壁いっぱいに並んでいる。
「あれ?」
 と、中にいた人がイスに座ったまま意外そうに言った。いたずらっぽい表情に、リスみたいに無害な瞳。清潔そうな立ち居振る舞いと甘いマスクは、いかにもJ-POP歌手っぽかった。
「お久しぶりです、棗さん。それとも、脩一さんと呼んだほうがいいですか?」
 わたしは笑ってしまいそうになりながら訊いた。
「ばれちゃったか」
 棗さんは肩をすくめて笑ってみせた。大抵のことは許してしまえそうな、例の笑顔で。
「にしても、よくここが分かったね」
「あんたの隠れてるとこくらい、簡単に想像できるわよ」薊さんが馬鹿にするように言った。「昔っからワンパターンなんだから」
「それはお気の毒さまだったな」
 棗さんは他人事みたいに言う。
「で、いったい何の用なわけ? 王子と乞食に戻っちゃったわけだけど」
「用はないんです。ただ、訊きたいことがあっただけで」
 わたしは手短に言った。
「ほほう、いったい何を?」
「とりあえず、どうして脩一さんのふりをしたんですか?」
 棗さんはちょっと考えこんだ。
「いや、俺なりの広報活動ってやつかな。ちょっとでも親しんで、未来の有権者に票を入れてもらえるように。……というより、ただのいたずら、かな。君に会うついでに兄貴のふりをしてみたわけ。何しろあの人、絶対俺のCDを人に配ったりなんてしないからな」
「もう一つ、こっちは聞いておきたいことがあります」
 わたしは車の中で棗さんに訊かれたことを思い出す。
「あの時、ういちゃんのカバンのことについて聞きましたよね。あれってなんだったんですか?」
「…………」
 棗さんは一瞬、言葉を切った。どうやら薊さんと目配せをしているみたいだ。了解がついたのか、棗さんは軽くうなずいて話しはじめた。
「茴の左腕を見たことあるかな?」
 わたしは首を振った。
「あいつ、いつも長袖してるでしょ? あれは傷を隠すためなんだ。あいつの左腕はずたずたなんだ、リストカットでね。で、カバンの中に何が入ってるかっていうと、紙袋。パニック障害なんだよ、茴は。電車とかに乗ってると、時々呼吸ができなくなる。あるいは呼吸が早くなりすぎて過換気を起す。そういう時、紙袋がいる。学校のほうには知らせてあったから、先生たちにその辺の考慮はしてもらえてたけどね」
「…………」
「だからさ、俺はこう思うんだよ」
 棗さんはこの人のほうがよほど政治家に向いている、にこっとした笑顔で言った。
「君がいてくれてよかった。君が茴の友達でいてくれて、よかったって」

 わたしは薊さんといっしょに家の外へ出た。天気が良くて、夏の陽射しがまぶしかった。玄関のひさしの下は、濃い影が覆っている。その影は皮膚の下にまでしみ込んでしまいそうだった。
 玄関前にはすでにリムジンが停まって、わたしを駅まで送る手はずになっていた。たぶんこんな車に乗るのは、これが最後になるだろう。全然悲しいとは思わないけど。
 わたしは薊さんに向かって、訊いてみた。
「薊さんは、どうしてういちゃんが死んだんだと思いますか?」
 しばらくしてから、薊さんは答えた。
「見当もつかないな。ただ――」
「ただ?」
「人間は誰だっていつか必ず死ぬわ」
「…………」
「そうでしょ?」
 薊さんはにやっと笑った。わたしも、少し笑う。確かに、そうに違いない。
 世界には、夏の陽射しが音を立てて注いでいた。

 それから、一年近くが過ぎた。
 クラスの中で、わたしは完全に孤立していた。友達はいないし、お昼はいつも一人だ。知らない鳥の渡りに混じってしまったみたいに不安だったけど、わたしはそれに耐えた。一人でいたいと、わたしが自分で望んだから。
 わたしは髪を短く切るのをやめ、コンタクトをやめ、鏡の前で表情の確認をするのをやめた。要するに、元に戻ったのだ。あまり気がきいているとはいえない髪と、眼鏡と、地味な表情に。
 でもわたしは何故か、その格好を前みたいに気にしたりすることはなかった。何となく、それがういちゃんに似ていたからかもしれない。
 一年の間には、いくつかのことがあった。
 久良守脩一は解散総選挙の際に衆議院議員に立候補して、大方の予想通りに当選した。テレビに映っていたあの人は、ういちゃんの家で会ったときとは別人みたいに朗らかな様子をしていた。ジギル博士とハイド氏みたいだったけど、たぶんこの人はこれでうまくやっていくのだろう。
 棗さんは、週間のオリコンチャートで一度だけ十九位になり、次の週には圏外に消えていた。わたしはそのシングルCDを買ってみたけれど、どうしてチャートに入ったのかも分からなかった。相変わらず大量のペンギンの鳴き声みたいに良く似ていたから。
 薊さんのことは、実のところよく分からない。やはりインチキ広告作家を続けているんだろうか? わたしは新聞の折りこみチラシに載っている、奇跡の石だとか、安物のブレスレットだとかを見るたびに、薊さんのことを思い出す。それを書いたのは薊さんかもしれないのだ。でもそんなチラシを読んでいると、母親は大抵不安そうな目でわたしのことを見る。
 穴蔵の中で暗い冬を過ごす白熊みたいに、それは長い一年だった。わたしはじっとその時間が通りすぎるのを待っていた。力を無駄にしないように、凍え死んでしまわないように。
 時々(大抵は教室で何もすることがなく窓の外を眺めているとき)、ういちゃんが天使だったんじゃないかと思うことがある。桜色の髪をした天使。彼女は死んで、人間に戻った。たぶん、桜色の髪はどこかのごみ箱に投げ捨てて。
 そして死の間際、彼女はついでみたいにして、わたしのことを救ってしまった。わたしの中の何かを、自分といっしょに天国に持って行ってしまった。
 時々、そんなふうにわたしは思うことがある。

 二年に進級してからも、わたしはよく森のベンチに出かけた。
 春の風は、そわそわと落ち着かなげに季節の変わりを告げている。あわてんぼうのラッパ手に驚かされたように、草花も大急ぎで衣替えに取りかかっている。うきうきして、でも不安でいっぱいなはじまりの季節。小鳥のはばたきが心臓の中に入ってしまったように、何だか落ち着かない。
 森のベンチに来るたびに、わたしはういちゃんのことを思い出す。正しくは、ういちゃんの不在を。ういちゃんの不在が、わたしの胸を痛くする。空があんまりにもきれいすぎる一日みたいに。
 でも、その痛さはわたしを正常に保ってくれている。その痛さがあるから、わたしは生きていられる。
 森のベンチで、わたしはいつもそのことを思う。ういちゃんの不在、その痛み、痛みがわたしに教えるもの、想像力の欠如した世界――
 そしてやっぱり、わたしは今日も一人だ。

「――その本、面白い?」

「え……?」
 顔を上げると、そこには知らない人が立っていた。ういちゃん……ではない。ういちゃんとは似ていない。
「本、読んでるでしょ、いつも」
「うん」
「面白い?」
 わたしはそこで、その人の顔を見たことがあるのに気づく。同じクラスの女の子だった。クラスが変わったばかりで、名前はまだ覚えていない。
「たぶん、面白いと思うよ」
「ふうん」
 その人は、でも本のこと自体はどうでもいいようだった。ただの話すきっかけだったらしい。きょろきょろとあたりを見渡して、
「ここにはよく来るの?」
 と、人懐っこい様子で訊いてきた。
「うん、一年の頃から」
「そりゃすごいや。森の中で本を読んでる女の子か。何だか森の妖精みたいだね」
 誉められたのかどうか判断に迷ったので、わたしは曖昧に微笑んでおいた。
「うん、でもいいな、それ。うん、いい。何だかぴんと来たって感じだ。私の直感は昔からよく当たるからなあ」
「あの……?」
 私は訳が分からなくて困った顔をした。でもその人はまるで頓着しないままこう言った。
「あのさ、私たち友達になれないかな? ぴんと来たんだ、私。あなたとならすごくいい友達になれるって。あ、友達っていってもあと二人いるんだけどね。その辺をうろうろしてるはず。でも二人ともいい奴だから、私たち四人ともきっといい友達になれるよ」
 一方的にまくしたてるようなその言葉に、わたしは終始面食らっていた。けれど――
「わたし……」
 心はすでに、はっきり決まっていた。
「……わたしも、友達になりたい。ずっと、誰かと友達になりたいと思ってたから」
 破顔一笑という感じでにこっとすると、その人は森の向こうに手を振った。
「おおい、二人ともやったよ。友達一人ゲット」
 それからその人は、あらためてわたしのほうを見て尋ねた。
「これから、よろしくね。あなたの名前は?」
「わたしは――」
 何故だか泣きそうになりながら、わたしは答えた。
「わたしの名前は、柚野あゆみ」

 これで、この話は終わる――
 その後のことについて、わたしは語るべき言葉を持っていない。それはこれから起こることだからだ。少し不安だけど、わたしはあまり心配していない。穴蔵から外に出た白熊は、しばらくの間は寝ぼけているかもしれないけれど、また元気にアザラシを捕まえたり、海に潜ったりするだろう。はっきりとは分からないけど、わたしはそう信じている。
 わたしはこれからも生きていくし、生きている。
 ういちゃんの不在を、想像力の欠如した世界を抱えながら――
 それでもわたしは、どこかへ進んでいく。

――Thanks for your reading.

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