男の子は足を骨折して、入院していました。小学校のグラウンドでサッカーをしていたとき、変なふうに足首をひねってしまったのです。男の子はすぐに病院にまで運ばれ、検査の結果ギプスをして、しばらく入院することになりました。 病院は、退屈なところです。遊び相手もいなければ、するようなこともありません。ギプスをはめられた右足は重く、杖をつかなければ動くことも出来ませんでした。今頃、友達は運動場で遊びまわっているのだと思うと、男の子はため息をつきたい気持ちになります。 まったく、退屈でした。 男の子は松葉杖をついて病室を抜け出し、廊下でサッカーボールを蹴りはじめました。といっても怪我をしていない左足のほうで、そっとです。あまり強く蹴ることは出来ませんでしたし、それに派手にすると看護師さんに見つかって怒られてしまいます。 「……」 第一、これはただの気晴らしでした。こんな狭い場所でサッカーボールを蹴っても、少しも面白くありません。男の子はただ、サッカーをしている気分になりたいだけでした。 松葉杖で移動しながら、男の子はボールをちょん、ちょん、と蹴っていきます。けれど何度目かのところで、大きく蹴りそこねてしまいました。ボールはどこかの病室の中、転がっていってしまいます。 男の子はちょっと舌打ちして、その病室に向かいました。個室らしく、それほどの広さはありません。入り口からのぞくと、ボールは病室の中央辺りに転がっていました。 そのボールが、ひょい、と拾いあげられます。 見ると、車イスに乗った女の子が、不思議そうにボールを見つめていました。年は男の子と同じ、小学校中学年くらいで、車イスに乗っていることの他には、特に病気らしい様子は見られませんでした。 女の子はすぐに男の子に気づいて、それから男の子とボールを見比べます。 「これ、君の?」 と女の子は訊ねました。なんとなく大人びた、はっきりした口のきき方です。 男の子はまごついてうまく返事を返せないまま、ただ頷くしかありませんでした。何だか自分が、ひどくばつの悪いことをしているような気になります。 「ふうん」 と言って、女の子は珍しそうにボールを回したりしました。 「ぼくのなんだから、返せよ」 ようやく、男の子はそんなことを言います。女の子は別に気を悪くしたふうもなく、 「いいよ」 と、ボールを男の子のほうに転がしました。男の子はボールを足で止めて、それから、言います。 「なあ、お前って暇なの?」 女の子は不思議そうに、ちょっとだけ車イスを動かします。 「だったらさ、一緒に遊ばない? 何でもいいから」 男の子と女の子の出会いは、大体こんなふうでした。 それから男の子は毎日、女の子の病室にまで行っては、二人で話したり、簡単な遊びをしたりしました。二人はすぐに仲良しになりました。病院には子供が少なかったのです。 けれど女の子の病気については、男の子は長い間、知りませんでした。「何でも脳の病気なんだって。何とかってとこに、腫瘍があるんだって言われた」。けれどそんな難しい話は、男の子には分かりませんでした。男の子にしてみれば、女の子はどこも悪くないみたいでした。車イスに乗ってはいるけれど歩けないわけでもなく、どこかに包帯を巻いているわけでもありません。 だから、男の子はどうして女の子がこんなところに入院しているのか、分かりませんでした。 一方で男の子の怪我は順調によくなっていました。お医者さんの話によれば、あと一週間くらいで退院できるということでした。 「よかったね」 と、その話を女の子にすると、女の子はそう言いました。男の子は何だか自分がずるでもしたような、決まりの悪い気分になってしまいます。どうして自分の怪我だけ、こんなに簡単に治ってしまうのだろう。 「私も、もうすぐ手術するの」 と、女の子はその時言いました。 「成功するかどうかは分からない、難しい手術なんだって。でもこのままだと、どっちみち助からないだろうから、やってみるしかないって」 女の子はそれから、何かを男の子に手渡します。 男の子が手を開いてみると、そこには小さな花の種がありました。 「どこかの国の、珍しい植物の種なんだって、お父さんがくれたんだけど、私には世話できそうにないから、君にあげるね」 そういって、女の子はにこっと笑います。 「大切にする」 男の子は、言いました。 それから何日かして、女の子の手術は行われました。男の子はその日、落ち着きませんでした。病院の廊下をうろうろしては、女の子の病室をのぞいたりします。もちろん、そこに女の子の姿はありません。そこには蝉の抜け殻のようなベッドがあるきりです。 長い、手術でした。一日たっても、女の子は戻ってきませんでした。 その夜、男の子はまんじまりともせずに眠りにつきます。 翌日、女の子は病室へと戻ってきました。けれど、男の子が女の子に会うことは出来ません。彼女は眠っていました。手術が終わってから、まだ意識が覚めていないのです。 そのうち、男の子の退院の日がやって来ました。 お母さんが迎えに来て、男の子はお世話になったお医者さんや看護師さんに挨拶をします。それから荷物をまとめて、病院をあとにしました。 女の子は結局、最後まで目覚めることはありませんでした。
家に帰ると男の子はさっそく、鉢植えに例の種を植えてみました。土をつめ、肥料をかぶせ、種を埋めます。陽あたりの良い場所を選んで、毎日水をやりました。 種からは、なかなか芽が出ませんでした。 男の子はしばらくして、病院を訪ねてみました。女の子の様子を知りたかったのです。けれど女の子は眠ったままで、面会も出来ないということでした。男の子はそのまま家まで帰りました。 足の怪我は、もうすっかり良くなっていました。男の子はまた走ったり、遊んだり、友達とサッカーをしたり出来るようになりました。 それは、男の子があんなにも望んだことです。 けれど何故か、男の子の気は晴れませんでした。女の子は、今も眠っているのでしょうか。そして、いつまで眠っているのでしょう。どうして彼女は、目覚めないのでしょう。 男の子は芽の出ない鉢植えをのぞいては、そんなことを考えます。彼女の意識は、深い地の底にでも沈んでしまったのでしょうか。 そうして時間は、過ぎていきました。 男の子は何度か病院を訪ねてみましたが、女の子は一向に目を覚ます気配もありませんでした。そのことについては、もう誰もがすっかり諦めてしまっているようにも見えます。可哀そうだけれど、どうすることも出来ないんだ、と。 鉢植えの種も、芽を出そうとはしませんでした。男の子は毎日のようにその世話をしましたが、芽は一向に出てくる気配を見せません。あるいは種そのものが、もうすっかり腐ってしまったのかもしれませんでした。 けれど―― 男の子は、信じていました。 種が、いつか芽吹くことを。女の子が、いつか目覚めることを。 でなければ、あの子が自分に種をくれるはずがなかったのです。あの賢い少女が、そんなことをするはずがありませんでした。 だから、男の子は信じ続けました。 種が、いつか芽吹くことを。女の子が、いつか目覚めることを。 そして、何年かが過ぎます。 男の子は中学生になっていました。 まだ着慣れない制服に身を包み、新しい学校に通います。季節さえもがまだ体に馴じまず、すべてがかすかな不安と、期待の中にありました。新しい制服、新しい学校、新しい先生、新しい友達。 過ぎていく、変わらない時間。 そしてある日、突然に種が芽を吹きます。朝目覚めてみると、鉢植えには小さな緑の芽が伸びていました。 男の子はその日、鉢植えを持って病院に向かいます。そして彼女の病室へとやって来ました。 ノックをすると、返事があります。 鉢植えを手に、男の子は少し緊張して中へ入りました。 そこには女の子がいて、ベッドの上に座っています。 「――おはよう」 女の子はたった今咲いたばかりの花みたいな笑顔を浮かべて、言いました。
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