[最後の図書館司書]

 気がつくと、わたしは手術台みたいな場所の上に裸で座っていた。
 まわりには何かの機械やモニターが、引っ越したばかりみたいな乱雑さで置かれている。それらはいかにも不満そうで、仕方なく脇にどいてやっている、という感じだった。本当なら、もっとふさわしい場所があるのに、と。
 わたしの前には、毛むくじゃらの犬みたいな髪をした、ちょっと変わった感じの女の人が立っていた。大きめの眼鏡をして、白衣を着ている。若くもないけど、歳をとっているわけでもない。その顔には、口の中で溶けた飴玉みたいな、にこやかな笑顔が浮かんでいた。
「気分は、どうだい?」
 とその人は、わたしのことを見つめながら訊いてきた。
「――特に問題はありません」
 わたしはそう答える。実際、どこにも問題がないことはわかっていた。頭も、体も、正常に働いている。するとその人は、何故だかひどく嬉しそうに、
「よろしい、非常によろしい」
 と言った。まるで歌うみたいに、「ひじょーに」と言葉をのばしている。もしかしたら、見ためよりずっと変わった人なのかもしれない。
 それから一通りの検査らしきものをすませてしまうと、その人はゆっくりしたメトロノームみたいに、狭い場所を往復しはじめた。そうして突然、
「君の名前は、これからフミにしよう」
 と、手を叩くようにして言う。
「わかりました。わたしの名前は、フミですね」
 理解したことを示すため、わたしは復唱した。ほかに、どうしようもない。
 でもその人は満足そうに、じっとわたしのことを見つめた。たぶん、うまく閃いたパズルが、思ったところにはまったみたいに。
 ただ、わたしはちょっと疑問に思ったことを訊いてみた。
「――フミ≠ニは、何ですか?」
 するとその人は、顎に指をあてた。そうして、考えながらしゃべるみたいにして言う。
「私の出身地域の言葉でね。本、手紙、文章――はっきり定義するのは少し難しいけど、要するに誰かに伝えようとして記された文字記録のことだね」
「それが、わたしの名前の意味ですか?」
「うん、そう、そうなんだ。君にぴったりだと思わないかな」
 同意を求められているようだけど、わたしにはよくわからなかった。何しろ、これでもさっき目覚めたばかりなのだ。だから、
「……わたしはこれからどうなるんですか、博士?」
 と、わたしは訊いてみた。そのことに関する情報は、まだ与えられていない。
「フミにはこれからある場所に行って、そこで仕事をしてもらうことになる」
「それが、わたしの役目なんですね」
「とりあえずは、そういうことになるね」
 博士は何故だか、浮かない様子で笑ってみせた。さっきまでの笑顔を真昼の太陽とすると、こっちは夕暮れのそれに近い。
「でも今のところ、それはあとの話だ。今はまだ、ほかにやるべきことがたくさんあるからね――それから、君にはこれをあげよう」
 博士は自分の眼鏡をはずすと、それをわたしに渡した。
「どうしてですか?」
 空から降ってきた羽みたいにその眼鏡を両手で受けとりながら、わたしは訊いてみた。
「フミに似あうと思ったからだよ」
 博士の言葉は冗談なのか本気なのか、やっぱりわからない。
「眼鏡がなくて、博士は困ったりしないんですか?」
「困ったりはしないんだ」
 博士は笑って言う。それは何かの冗談なのかもしれなかったけど、やっぱりわたしにはまだよくわからなかった。
 それから、博士は白衣のポケットに手をつっこんで、真剣そうに、でも冗談みたいに言う。
「Welcome to this world, Fumi――ようこそ、世界へ。ここは狂っても、世紀末でもないけれど、ね」

 ――図書館は、死んだみたいに静かだった。
 それは、そうだ。この建物が出来てから百年近く、利用者は一人も来ていなかった。体育館みたいに広い閲覧室には、机とイスが行儀よく並んでいるだけで、人の姿なんてどこにもない。
 わたしは受付カウンターの向こうに座って、一人でそれを眺めていた。
 壁面の大きな窓からは、眠るみたいに静かな午後の光がさしこんでいる。二列に並んだ大きくて頑丈な机は、どちらかというと作られたばかりの棺桶を連想させた。部屋の壁面いっぱいに詰めこまれた本たちは、満腹してお昼寝中の新生児よりも穏やかな様子をしている。
 大きな水筒に似た形のお掃除ロボットや、設備点検用の小型浮遊ロボットが、そんな中を行き来していた。彼らは自分たちの役目に文句も疑問も抱かず、昆虫みたいに働き続けている。おかげで館内には塵一つなく、空気は清潔で、本は所蔵されたときと同じ状態で保たれていた。
 わたしは手元のパソコンを操作して、館内の状態チェックを済ませてしまった。本にも建物にも、どこにも異常はない。当面のところ、すぐに片づける必要のある仕事はなかった。
「よし、と――」
 それだけのことを確認すると、わたしは立ちあがって、すぐ後ろの机に向かった。そこには昔懐かしいレコードプレイヤーが置かれている。棚に収められたジャケットをいくつか傾けてから、そのうちの一枚を取りだした。
 レコードプレイヤーは装置が全部一体になったもので、電源を入れさえすればすぐに音楽を聞くことができる。小型で、何だか調理用のホットプレートみたいな外見をしているけど、これで立派な完成品なのだ。つけ加えるべきものも、取りはずすべきものも存在しない。
 プレイヤーのダストカバーを上げて、わたしは紙製のジャケットから慎重にレコードを取りだした。それを美術品でも扱うみたいに、そっとターンテーブルの上に乗せる。王様の御前に食事を供するみたいに、あくまで礼儀正しく、優雅に。
 そうしてスイッチを入れて、テーブルを33と1/3回転でまわす。リフターを使って針を上げ、手でアームを移動させる。
 わたしは少し黙考してから、針の位置を一番外側から黒い線一つぶんだけ内側に入れた。レコードでは、曲の頭出しをそうやって行うのだ。
 服の襟や裾を点検するみたいに針の位置をもう一度確認してから、わたしはリフターで針を下ろした。咳払いに似たかすかなノイズを立ててから、針はレコードの溝にそって正確に動きはじめる。
 やがて、弦楽器の作りだす繊細な空気の震えが伝わってきた。
 ショパンのピアノ協奏曲第一番、第二楽章。
 オーケストラによる導入から、やがてホルンの音にうながされるようにしてピアノの独奏がはじまる。その音は澄んだ星空をそのまま地上に持ってきたみたいで、世界を優しく、静かに、憂愁をもって包んでしまう。目に映るものすべてがきれいになって、そして少しだけ悲しくなる。
 わたしはぼんやりと、イスに座ったまま穏やかな音楽の流れに身を任せていた。

 ――ドアが乱暴な音を立てて開き、騒がしい足音が遠慮もなく響いてきたのは、そんな時のことだった。

 閲覧室に入ってきたのは、二人の若い男の人だった。たぶん、大学生くらいの年齢だろう。顔にはまだ幼さがあって、地表に出たばかりの鉱物みたいなところがあった。これから、長い風化作用を受けていくのだ。
 二人とも、まるで何かに追われているみたいな慌てぶりだった。転がりこんでくる、という表現が近い。部屋に入ってくるなり、入口すぐ横の壁に身を隠し、緊張した面持ちで外の様子をうかがっている。
 その手には、銃が握られていた。
 わたしはイスから立ちあがって、レコードの針を上げ、スイッチを切った。音楽が消えてしまうと、絵が一瞬でモノクロになってしまうみたいに世界の形が変わる。本当の姿がどっちなのかは、よくわからなかったけれど。
「――ようこそ、いらっしゃいました」
 わたしは気合十分の、にこやかな笑顔を浮かべてそう言った。本来ならわざわざ声をかける必要なんてないのだけど、何しろ百年ぶりの、初めての来館者である。それくらいのことはしてもいいだろう。
 二人はわたしの声を聞いて、ぎょっとしたようにこっちのほうを見た。少し、傷つくくらいの驚きかただった。幽霊を見たとしても、こんなにはならないかもしれない。
 とはいえ、わたしはそんなこと気にしなかった。何しろ、ようやく本来の役目をはたせるときがやって来たのだから。
「心配しなくても大丈夫です」
 と、わたしは同じ笑顔のまま言った。
「当館では昔と違って、来館者の身ぐるみを剥いで、無理やり本を奪いとるなんてことはしませんから」
「……?」
 二人の顔には、戸惑いの表情が浮かぶだけだった。
 どうやら、わたしの冗談は通じなかったらしい。古代アレクサンドリアから続く、由緒正しい冗談のはずだったのだけど。わたしは思わず赤面してしまう。やはり、慣れないことはするものじゃない。
 二人のうち一人が、わたしに銃口を向けた。特殊金属で作られているらしいその銃は、たぶん本物みたいに思える。玩具と言われても、信じてしまいそうではあったけれど。
「誰だ、お前は?」
 と彼は言った。少しも冗談の混じっていない、純度の高い誰何だった。
 もう一人のほうも、外を警戒しながらわたしのほうをうかがっている。どうも、初めての来館者としては、あまり記念碑的にはなりそうもなかった。
「わたしは当館の司書です」
 ちょっとだけため息の混じったような声で、わたしは答える。
「シショ=H」
 と彼は怪訝そうに言った。「何だ、それは」
「司書というのは、図書館で本の管理や貸し出し業務を行う者のことです」
 二人は顔を見あわせた。短いアイコンタクトと、それが伝える短い言葉。
「あんたが何を言っているのかわからない」
 彼は無慈悲にもそう言った。
「トショカン≠ニいうのは、何のことだ?」
 残念ながら、記念碑を立てるどころか、この二人が来館者と言っていいのかどうかさえ怪しいみたいだった。
「図書館というのは――」
 わたしはあくまで根気強く、めげることなく説明した。
「書籍や文書を収集、保管、整理し、それを誰でも利用できるような形にしておく施設のことです」
 わたしの説明を聞いても、彼はやはり怪訝な表情を浮かべるだけだった。
「本というのは、情報端末で見るもののことだ。それなのに、何故こんな建物や場所が必要なんだ?」
 彼の疑問はもっともだった。
 本と呼ばれるものがすべて電子化され、情報データとしてしか存在しなくなって、すでに何世紀も過ぎ去っていた。それもみんな、この図書館ができるずっと前のことだ。人は情報センターにさえアクセスすれば、どんな本でもその場で読むことができる。
 まったくのところ、物理的に本を収める図書館という施設は、無用の長物以外の何ものでもないのだ。
「ここでは、本は紙媒体に印刷されています」
 と、わたしは辛抱強く説明した。
「そのため、広いスペースが必要になるのです。紙には厚さがあるし、インクの文字には判読可能な大きさが必要です」
「紙ってのは、あれか。おケツを拭くときなんかに使うやつのことか?」
 向こうから、もう一人が言った。声の感じからして、こちらのほうは冗談の濃度が高い。もっとも、あまり気持ちのいい冗談ではなかったけれど。
「原料も材質もまったく違いますが、基本的にはその通りです」
 わたしはため息混じりにうなずいた。
「……何故、紙なんかで本を作る?」
 最初の一人が言う。銃はきちんと、わたしに向けられたままだった。
「そんなことをしても、不合理なだけだろう。コストも高くつく。扱いも面倒だし、バックアップもとりにくい」
「今時のかたはご存知ないでしょうが、昔はそれが普通だったんです。……何百年も前のことですが」
 彼は鋭い視線で、すばやく周囲を観察した。空間に切れ目ができそうな鋭さだった。
「あの棚に並んでるのが、そうなのか?」
 彼に訊かれて、わたしはうなずく。彼はなおも納得のいかない顔つきで、広い閲覧室や、並んだ机、壁際の本棚を見つめていた。疑り深い肉食獣が、平原の草むらに目を凝らすみたいに。
 とはいえ、ある程度の警戒は解いたみたいだった。彼は銃口を下ろし、あらためてわたしのほうに向きなおった。
「誰でも利用できる、と言ったな」
 彼の声はあくまで硬質で、純度が高そうだった。
「ここにはよく、人が来るのか?」
「開館以来、一般の来館者はあなたたちが初めてです」
 わたしは正直に言った。「――もっとも、あなたたちが来館者なら、ですけど」
「何故、こんな施設があるんだ?」
 ほとんどわたしの発言なんてなかったみたいに、彼は言った。
 わたしは少しむっとしながらも、礼儀正しく答える。
「一種の歴史遺産です。今でこそ存在はしなくなりましたが、紙を媒体とした本は、過去何千年も人類の貴重な資産でした。ここはそれを記念するための場所なんです」
「あんたは司書だと言ったな?」
「はい」
「記念するだけなら、何故そんなものがいる? 現にここを利用する人間などいないんだろう」
「図書館というシステムそのものが、遺産だからです」
 と、わたしは言った。
「図書館というのは、ただ本を集めておくだけの物置じゃありません。そこは誰もがアクセスできる、知の集積場なのです。わたしはそのアクセスを助けるために、ここにいます」
「利用者が一人もいないのに、か?」
 なかなか痛いところだった。
「例え十分に活用されないとしても、残しておくべきものはあります」
 わたしは一応、節度をもって、控えめに抗弁した。
「マキナ≠燒ュなことをするものだな」
 彼はやはり、わたしの言葉なんて聞いていないかのように、少し呆れた顔で周囲を見渡している。
「完全な合理性実現のためのシステムが、こんな無意味な場所を残しておくとは」
「けど、人が来ないっていうなら俺たちには好都合だぜ」
 もう一人が言った。外はもう大丈夫と判断したのか、壁際から離れてこちらに近づいてくる。
「まあ、そうだな」
 最初の一人もそれに同意した。
「ここには単純な作業ロボットしかいないみたいだし、マキナ≠ニはつながっていない。とりあえず、身を隠しておいても問題はないだろう」
 二人は相談して、何やら勝手に決めてしまっているみたいだった。
 けど、どうやらこの二人は勘違いしているところがあるらしい。
「――あの、単純な作業ロボットしかいない≠ニおっしゃいましたが、それは間違ってますよ」
 わたしがそう言うと、二人は怪訝そうな顔でわたしのことを見た。
 それからわたしが次のことを発言すると、彼らは最初に負けず劣らずのぎょっとした表情を浮かべる。
「だって、わたしもロボットですから」

「ロボット、だと……?」
 再びわたしに銃口を向けて、一人が言った。
「そうです」
 わたしは落ち着いて言った。
「正確には、自律型図書検索支援ヒューマノイドといいます」
「まじかよ」
 今にも口笛でも吹きそうな調子で、もう一人が言う。
 もっとも、人型のロボット自体は珍しいものじゃない。自動販売機ほどありふれているわけでもないにしろ、社会の様々な分野で利用されていた。産業、輸送、農業、研究、各種サービス。ただ、それらの多くははっきり機械とわかる形にデザインされているのが普通だ。
 わたしみたいに、外見そのものが完全に人間に似せられているものは珍しい。
 骨格はもちろんだけど、体表面も生体ゴムによって作られた人造皮膚に覆われている。髪の毛だって、ちゃんとある。少し丸みを帯びた、ショートカット。二十代の女性をモデルに成型されていて、親しみやすさを優先したデザインをしていた。眼鏡までかけている。もちろんただの伊達で、これはわたしを作った人の趣味だった。
「あんたが本当にロボットだと、証明できるのか?」
 銃口をきちんとわたしの頭部にあわせつつ、最初の彼は言った。
「定期メンテナンスの場面でも見てもらえば早いですけど、つい先日に完了しています」
 銃のことは特に気にせず、わたしは言った。
「証明といわれると、少し困りますね。服を脱いで裸になっても、生身の女性と区別はつきませんし。自分の腕をナイフで切るのはちょっと……。力も強度も、一般人とそれほど違うわけじゃありません」
 二人は戸惑うように顔を見あわせる。
「けど、証明できないこともないです。わたしには音声出力装置はありますが、発声機構はありません」
「……つまり、スピーカーから音声を流して、口は動かしてるだけってことか」
 もう一人が言った。わたしはうなずいて、続ける。
「わたしの口元に手を近づけてください。それで、わかるはずです」
 銃を向けていた一人が、ためらい気味にもう一人を見た。もう一人は肩をすくめて、冗談ぽく言うだけである。
「どっかの狼みたいに噛まれないよう気をつけろよ、ソワ」
 ソワと呼ばれた彼は、諦めた様子で銃を下ろした。そうして左手を掲げて、わたしの口元まで近づける。
「――どうですか? 空気の流れを感じないでしょう」
 わたしは彼がそれを納得できるように言った。
「腹話術をやってるわけじゃないですよ。わたしには呼吸の必要も、その機関もありません。だから発声しているように見えても、実際に息を吐いているわけではないんです」
 彼は手をどけると、力なく首を振った。
「どうやら本当らしいぞ、ベテル」
 それから二人は、あらためてわたしの正面に立った。動物園で何か珍しい生き物にでも会ったみたいに、わたしのことを見つめてくる。少々、礼儀を欠いた視線ではあった。これでもわたしは、うら若き乙女なのだ。
「ロボット、ロボットねえ……」
 ベテルという人が、何か考え込むように言う。どちらかというとそれは、考えているというより、何も考えていないようではあったけど。
「もう一度言いますが、正確には自律型図書検索支援ヒューマノイドです」
 わたしが訂正すると、
「名称なんてどうでもいい」
 と、ソワは厳しい声で言った。相変わらず、この人には冗談めいたところが一滴も混じっていない。
「それより、あんたがロボットだというなら問題がある」
「どうしてですか?」
「俺たちは反世界戦線≠フメンバーだからだ」
 わたしは銃を持った二人の若者を見つめる。そのことは、何となくわかっていた。
 反世界戦線というのは一種の革命勢力のことだった。彼らは人類に自由をもたらすために戦っているのだ。マキナ・システム≠ノ挑戦することによって。
 マキナ・システム――たんに、マキナとも呼ばれる。
 それは減りすぎた人口に対処するために、人類が作ったシステムだった。人類の絶対数の低下は、必然的に社会レベルの維持を困難なものにした。人的資源の枯渇、知的・肉体的・技術的労働力の減少。
 そのうえで文明を存続させていくためには、資源の徹底的な有効活用を行うしかない。
 ――マキナは、それを可能にするための計算機だった。
 地球のすべてを原子レベルで再現できる処理能力を使って、膨大な量のデータがコントロールされた。その中から導き出された解にしたがって、マキナは人類に指示を送る。労働力の配分、リソースを集中させるべき問題の決定、都市管理、工場のシステム、生産・消費のスタイル、日常生活におけるちょっとした物事、およそすべての事柄に対して――
 マキナはいわば、人間の運命を管理するためのシステムだった。
 ――人類を、守るための。
 けれど、それに反対する人々がいるのも事実だった。すべてをマキナの言いなりなることを、よしとしない人々のことだ。彼らはお節介なこの機械神が、人類にはふさわしくないものだと主張する。
 反世界戦線というのは、その中でも最大の組織の一つだった。組織の中には若者も多く含まれていて、ソワとベテルもその仲間みたいである。
 ソワは、これまでのやりとりでもはっきりしているように、ごくまじめで、真剣な顔つきをしている。ちょっと、深刻と言っていいくらいの。それから、腕のいい大工が切りだしたみたいな、まっすぐな目をしていた。
 一方でベテルのほうは、何となく遊びが大きいというか、とらえどころのない雰囲気をしている。ちょっと目を離した隙に、どこかに行ってしまいそうな感じだ。乱暴な狼を捕まえておける丈夫な縄で縛っても、それは変わりそうにない。
 ずいぶん様子の違う二人だったけれど、まだ若いということだけは共通している。
 ある意味では、幼いといっていいくらいに。
「……つまり、俺たちにとってあんたは敵だ」
 と、ソワは言った。再び、わたしに銃口を向けて。
「何故ですか?」
 わたしは訊き返す。
「あんたがロボットだというなら、それはマキナの側の存在だということだろう」
 わたしは彼の言葉をしばし、吟味してみた。マキナもわたしも、生命体でないという点なら共通している。計算機によって行動が処理されている、ということも。
 けれど、彼は間違っている。わたしとマキナは、同じ存在というわけじゃない。
「わたしはあなたたちを管理局に通報するつもりはありません」
 そう言うと、二人は鳩が豆鉄砲をくらう一秒前みたいな、とても微妙な表情をした。
「通報しない、だって?」
 ベテルが理解しにくいジョークを聞いたみたいな、変な笑いを浮かべながら言った。
「そうです」
 けれどわたしは、ごくまじめである。
「マキナに逆らうっていうのか、ロボットなのに?」
 ソワが疑り深そうに言った。
「ロボットだからって、マキナに従わなければいけないわけじゃありません」
 わたしとしてはその前に、うら若き乙女だということを忘れて欲しくなかったけれど。
「――――」
 二人はわたしの言葉を信じたものかどうか、まだ悩んでいるみたいだった。とはいえそれは、あっちの草がおいしいか、こっちの草がおいしいかで迷っているロバみたいなものだった。実際には最初から、選択肢というほどのものは存在していない。
「心配しなくても大丈夫です。わたしは変わった人に作られたせいで、少し変わってるんです」
 そう言ってから、わたしはつけ加えた。
「あなたたちだって、最初にここに来たとき、わたしを撃ちませんでした。だからこれは、おあいこってやつです」

 結局のところ、二人はわたしの言葉を信じることにしたみたいだった。現実問題として、ほかにはどうしようもないのだ。下手に銃なんて撃とうものなら、それこそ警備ロボットが反応してマキナに知られてしまう。
 二人のうち、ソワは閲覧室に留まり、ベテルはどこかに行ってしまった。ソワのほうはわたしの見張り、ベテルは周囲の警戒と図書館の構造を確認しに向かったのだろう――たぶん。
 奇妙な話かもしれないけれど、わたしのしていることがマキナへの反逆なのか、違反行為なのかについては、自分ではよくわからなかった。そんなふうには、わたしは作られていないのだ。わたしは司書であって、統制管理局や司法関係の業務に携わっているわけじゃない。
 それに、この二人が百年来の、初の来館者であるという望みを、わたしはまだ捨てていなかった。
 ソワは近くにあったイスに座って、じっとわたしのほうをうかがっていた。
 カウンターの向こうで、わたしはいつも通りの仕事をしている。といってもそれは、館内に問題がないかどうかを、パソコンでチェックするくらいのものだった。この図書館には新着図書も、修繕すべき本も、整理しなおすべき本棚も存在しない(どれも大昔にはあった仕事だ)。
 パソコンを見るかぎり、館内には何の問題も存在しなかった。でもできるなら、暇そうにしているところは見られたくなかった。それがいつも通りのことだとしても。やっぱりプライドとか、沽券に関わる問題として。
 ――とはいえ、館内は今日も平和だった。
 ソワはまだ、じっとこっちを見ている。それが恋する男の子の熱い視線ならまだよかったのだけど、当然そんな感じじゃない。わたしに不審なところがないかどうか、疑っているのだ。
 わたしは何とか仕事をするふりをしていたけど、それも限界だった。そんなふりをしていること自体に、耐えられなくなってしまう。
 結局、わたしはカウンターに置いてあるテレビのスイッチを入れた。いつも通りに。本来なら新しいお知らせなんかを表示するためのものだったけど、テレビのチャンネルも映るようになっていた。それにここ百年、新しいお知らせなんて一つもない。
 透明なシート状のディスプレイには、臨時のニュース番組が流れていた。市内の各所で暴動が発生し、管理局が対応にあたっているという。現地からの報告、監視カメラの映像、その他の情報はすべて、マキナに集められているはずだった。そのマキナの指示によって、暴動は小規模のまま鎮圧されている。被害もほとんど出ていない。
「何故、テレビなんかを見る?」
 わたしが顔を向けると、ソワはすぐそばに立ってテレビをのぞきこんでいた。幽霊でもわたしの空耳でもなければ、もちろん彼が声を出したのだろう。
「ヒトに似すぎたためです」
 と、わたしは答えた。
「わたしの中枢回路である擬似ニューラルネットワークは、通信や放送電波を直接処理することはできません。そういったものは、人間と同じで視覚や聴覚を介する必要があるんです」
「変わったやつだな、あんたは」
 ソワは呆れたようだった。
 けどわたしは、少し笑う。「わたしも時々、そう思います。こんなのは不合理だ、って。けど前にも言ったように、わたしを作った人は少し変わってたんです」
 わたしがそう言うと、ソワは軽く首を振った。解けないパズルを前にしたみたいな、そんな感じだった。
 テレビの報道は、そのあいだも続いていた。市内では、今でも散発的に暴動が起きているという。多くは監視カメラや、情報収集用の機械に対する破壊活動だった。怪我人が出たという情報はない。たぶん、事前にそう計画されていたのだろう。
 とはいえ、マキナの情報管理はネットワーク上のすべての機械に及ぶ。個人の情報端末でもそれは同じだから、いくら監視カメラその他を壊しても、ほとんど意味はなかった。誰かがカメラを向ければ、それはマキナまで筒抜けになってしまう。
 ソワは画面を見ながら、特に何の発言もしなかった。表情も変わらない。ただその目だけが、これ以上ないくらいの真剣さを見せている。
 しばらくは暴動の様子が生中継されたりしていたけど、いったん小休止に入ったようだった。テレビには、アナウンサーと専門家がスタジオに並び、今回の事件について議論を交わしている。昔ながらの光景ではあった。
 そうするうち、ベテルが閲覧室に戻ってきた。
「問題はなかったか?」
 と、ソワが訊いた。
「けっこう広いってこと以外には、特に何もないな」
 ベテルが言う。
「紙の本が、呆れるくらい大量に置かれてる。キャンプファイアーには便利そうだ。あとは、猫がいたくらいだな」
「猫?」
 ベテルが出入り口のほうに顎を振ると、そこから一匹の猫が忍びいってきた。
 白と黒の二色で、琥珀色の瞳をしている。しっぽを王様の錫杖みたいに堂々と示して、ゆったりと左右に揺らしていた。
 わたしはもちろん、その猫のことを知っていた。
「ニボシです」
 そう言うと、ソワが横で怪訝な顔をする。「ニボシ?」
「その猫の名前です」
「何だ、それがこいつの好物なのか?」
 ベテルはしゃがんで、ニボシをなでながら言った。ニボシは他愛もなく、甘えた声でそれに応じている。
「違います」
 わたしは首を振った。
「その子が図書館に来るようになって、いろいろ食べものを用意してあげたんですけど、ニボシにだけは見むきもしなかったんです。手に入れるのに、一番苦労したのに」
「はは、ずいぶん迷惑な名前をつけられたもんだな」
 ベテルは言って、猫を抱きあげる。ニボシはひどく嬉しそうだった。
 二人は閲覧室の机の一つに陣取って、何やら相談をはじめた。現状や、善後策について話しあっているのだろう。当然ながら声の音量は小さくて、わたしの耳で聞きとることはできなかった。どういうわけか、わたしには人間なみの能力しか備わっていないのだ。十万馬力どころの話ではなく。
 ニボシのほうを見ると、ベテルの膝の上で気持ちよさそうに丸くなっていた。早くもわたしのことは裏切ったらしい。餌だけはちゃんと頂いて、愛想の一つも見せないくせに。
 わたしは何だか急に、自分が損な役回りを演じているような気がしてきた。今のところ、二人は来館者といえるような行動はしていないし、する気配もない。これじゃあ、何のために二人を匿っているのかわからなかった。もしかしたら、さっさと追いだしてしまったほうがよかったのかもしれない――
 そんな時だった。「ぐぅ」という、何とも間の抜けたお腹の鳴る音が聞こえてきたのは。

 人間は食べられるけど、猫には食べられないものがある。例えば、たまねぎとか、ぶどう、イカ、塩分の多い食品。
 けど猫に食べられて、人間に食べられないものはないはずだ――たぶん。
 そんなわけで、二人は猫用の缶詰を開けて、中身をたいらげていた。お皿に移されたそれは、見ためとしてはシーチキンに似ている。
「まあ、まずくはないよな」
 ベテルがスプーンを手に、祝うべきか呪うべきか迷うみたいな、複雑な表情で言った。
 その横ではニボシが、同じ食事の相伴にあずかっている。というより、この場合は逆なんだろうか? 二人のほうが、ニボシの食事をお裾わけしてもらっているわけだから。何にしろ、ちょっとシュールな光景ではあった。
「……ストックを多めに用意しておいたのが幸いでしたね」
 わたしは誰にというわけでもなく、つぶやく。
 ベテルの隣では、ソワが同じように猫缶を口にしていた。こちらは、表情はあまり変わっていない。基本的にクールな性格をしているのだろう。新品の冷蔵庫みたいに。
「あんたは食わないのか?」
 不意に、ソワが言った。
「ヒトに似ているといっても、そこまでじゃありません」と、わたしは首を振る。「わたしには食事の必要はないんです」
「なら、コンセントで充電でもするのか?」
 ベテルはからかうように言った。
「わたしの体内には、半永久動力炉があります」
 と、わたしは答えた。
「定期的なメンテナンスは受けますが、基本的にはそれだけで活動エネルギーを百パーセントまかなっています。神経系、駆動系、精神系のユニットすべてについてです」
「そりゃよかった」
 ベテルは優雅な手つきで猫缶を口にしながら言った。
「おかげであんたは、こうして猫の餌を賞味する貴重な機会を失ったわけだ」
 わたしは彼ほど気の利いたユーモアのセンスは持ちあわせていなかったので、ただ肩をすくめておく。それでも、一言だけ注意はしておいた。
「わたしはあんた≠カゃなくて、フミ≠ニいうちゃんとした名前があります。わたしのことは、名前か、司書さんと呼んでください」
「……フミ?」
 ソワが怪訝そうに訊く。わたしは胸をはって答えた。
「わたしの製作者がつけてくれた愛称です。その人の出身地域では、書物や手紙、文字のつらなりをそのように呼称するそうです」
「なるほど」
 意外にあっさりと、ソワは納得した。
 食事(と呼んでいいのかどうかは、ためらわれるところだけど)が一応すんでしまうと、二人はカウンターのところにあるテレビの前にイスを運んで、その視聴をはじめた。通信端末はすべて、マキナの管理下にある。だから、仲間との連絡手段がないのだろう。どんな暗号化も、マキナの前では無意味だった。情報を手に入れるためには、公共放送に頼るしかない。
 二人は熱心な顔で、テレビ画面を見つめていた。ベテルでさえ、その表情には一欠片の冗談も混じっていない。ついでにニボシも、カウンターの上に座って同じようにテレビを眺めていた。猫には猫なりの関心があるのかもしれない。
 特に仕事があるわけでもないので、わたしも同じように放送に目をやった。
 予想に反して、暴動はますます大きくなりつつあるようだった。初期のそれは、小手しらべみたいなものだったのかもしれない。蜂起者は各地に散在して、管理局にも処理しきれなくなりはじめている。もぐら叩きと同じだった。
 画面の中で突然、爆発が起こった。大胆にも、警備ロボットの倉庫を狙ったものらしい。びっくりするくらい大量の黒煙があがり、赤い炎がそれを喜ぶみたいに踊っている。
 爆発はそこだけじゃなく、市内のあちこちで起こっているみたいだった。狙いはどれもマキナに関わるものに限定されているようではあったけど、これだと無関係の人間にも被害は及んでいるだろう。わたしが思っていた以上に、暴動は本格的だった。
 おそらく、この日のために綿密な計画が立てられていたのだろう。ほとんど、クーデターといってもよさそうなくらいだった。
 わたしはあらためて、世界をマキナの支配から解放しようという二人の若者に目を向けてみる。
 ソワとベテルは世界の明日を見るような真剣さで、テレビ画面をじっと見つめていた。
 ――ニボシだけがその横で、平和そうに大きなあくびをしている。

 日没頃になると、クーデターはいったん収束を迎えたみたいだった。市内ではあちこちから、煙が上がっている。この辺はまだ静かだったけど、場所によっては蜂の巣をつついたような騒ぎになっているようだった。
 二人とも今夜は、ここで様子見をすることにしたらしい。一晩か、もしかしたら明日の晩も、この場所に置いて欲しいということだった。
 現実的には、そのことに問題はない。ここにはそういう判断をするためのシステムは用意されていなかったし、人が二人増えたところで特に支障はない。猫が増えたのと、たいした違いはないのだ。猫の餌を食べたのだから、二人とも半分くらいは猫だといってよかったかもしれない。
 ただし、館内の規則に抵触する部分は別だった。
「この閲覧室には鍵がかけられるので、二人には外に出てもらわないといけません」
 と、わたしは告げた。
「外ってのは、図書館の外か?」
 ベテルがぞっとしないように訊く。まあ、それも無理はなかった。この辺はまだ安全だったけど、管理局の警備は厳重になっているだろう。野外に不審者がいれば、たちまち捕まってしまってもおかしくない。
「いえ、あくまで閲覧室より内側には、ということです。それより外なら、どこにいてもかまいません」
「つまり、ロビーで寝ろということか」
 ソワの言葉に、わたしはうなずいた。
「それから一つ、注意しておくことがあります」
「何だ?」
「夜のあいだ、わたしは眠っています」
「……何だと?」
 ソワはきょとんとした表情をした。そうすると、年齢相応の幼さが前面に出てくる。
「わたしは眠る、と言ったんです」
 念のために、わたしは繰り返した。耳の悪いおばあさんを前にしたときみたいに。
「こいつは傑作だな。ロボットにも睡眠をとる権利くらいはあるってわけだ」
 すぐさま、ベテルが耐えかねたような笑い声をあげる。この人の場合、年齢幅に変動は認められなかった。
「それも、ヒトに似すぎたため≠チてやつなのか?」
 ソワに訊かれて、わたしはうなずく。
 二人とも、ひとくさり機械の睡眠ということについて考えているみたいだったけど、特に目ぼしい結論は出ないようだった。
 二人――と、それからニボシ――を閲覧室から追いだすと、わたしは扉に鍵をかけた。電気錠でも何でもなく、古式ゆかしい鉄製の鍵だ。実直な門番が敬礼するみたいな、かちゃんという音が響いた。
 それからわたしはカウンターの向こうに座って、一日を終えるための業務を行った。館内に異常がないかをチェックし、一日の報告書を作成する。
 わたしは少し考えてから、特段の変化はなし≠ニだけ、そこに記しておいた。いつもと同じように。
 そうして非常灯を残して、館内の電気をすべて切ってしまう。
 音もなく明かりが消えると、薄闇と月影の混じった閲覧室の光景が浮かびあがってきた。まるで白鳥がほんの少しのあいだだけ、本当の姿に戻るみたいに――
 わたしはこの瞬間が、一日でも一番好きだった。何かの生き物みたいに、図書館そのものが眠りにつく瞬間が。例え同じことを百年も、繰り返し見続けてきたとしても。
 カウンターのイスに座ったまま、わたしは自分の活動電位を下げていった。
 次第に濃くなっていく暗闇の中で、作業ロボットたちの立てるかすかな音だけが、最後までわたしの意識に反響していた。

 翌朝、わたしは決められた時間に目を覚ました。人間風に表現すると、再起動したということになる。
 体調は――あるいは、システムに異常はない。わたしの脳はきっちりと機能していた。人間風に表現するなら、ばっちり目覚めているということになる。目をこすったり、あくびをしたり、体をのばしたりするまでもなく。
 閲覧室では、作業ロボットたちがいつも通りのまじめさで仕事をしていた。窓からは朝の光が斜めにさしこんで、部屋を白く照らしている。一日のはじまりとしては、申し分のない出来ばえだった。
「――さて、今日もがんばりますか」
 と、わたしは立ちあがって言う。
 もちろん、誰も聞いている相手なんていない。がんばるようなこともない。でもそれが、癖になっていた。わたしを作った人がそういうふうにプログラムしたのか、自然とわたしが身につけてしまったのかは、わからないのだけれど。
 わたしはまず館内チェックを済ますと(異常はない)、閲覧室の鍵を開けに向かった。
 開錠して、少し考えてからロビーに足をのばす。二人がどうしているか確認するためだ。図書館の玄関自体に鍵はなく、いつでも誰でも自由に出入りすることができる。もしかしたら二人は気が変わって、ここから出ていってしまったかもしれない。
 わたしはそんな可能性を考えてみたけど、詳しく吟味する必要はなかった。
 何しろ、二人はそこにいたからだ。ベンチに横になって、あまり快適とはいえそうにない眠りの中で。ついでに、ニボシもいっしょに。
 わたしは何故か少し笑ってから、声をかけた。
「――二人とも、朝ですよ。図書館の開く時間です」

 二人はまず、テレビの確認をした。たぶん、一晩中気になっていたのだろう。何となく寝不足気味で、顔色も冴えない感じがした。人間も不便なものである。
 テレビの報道によると、暴動は下火になっているということだった。昨日の爆発騒ぎで管理局の警戒レベルも上がっただろうし、逮捕者だってたくさん出ているはずだ。彼らにはもう、クーデターを遂行する能力は残っていないかもしれない。
 その辺のことを、二人がどう思っているのかはわからなかった。二人は昨日と同じ真剣な顔で、テレビ画面を見つめている。もしかしたら、その向こう側にいる仲間たちのことを。
 わたしは言ってみた。
「今ならまだ、何事もなく家に帰れるんじゃないですか?」
 二人が具体的に何をしたのかは知らないけど、暴動そのものは終息に向かっている感じだった。とすると、もはや無関係の人間としてふるまっても問題ないのではないだろうか。
「そいつはちょっと難しいだろうな」
 ベテルはイスの背もたれからずるずるとすべり落ちながら言った。まだ眠いんだろうか。
「俺たちだって、もう当局にマークされてるだろうからな」
「そうなんですか?」
 もちろん、具体的なところはわたしにはわからない話だった。
「ああ、それにどうせ俺たちには、もう帰るところなんてないんだ」
 と、ソワが言う。
 その口調はカレンダーの日付を告げるくらいにあっさりしていて、わたしには何だかそれ以上のことは訊けなかった。
 結局、二人はまだしばらくここにいるみたいだった。ここにいて、どうするつもりなのかはわからない。マキナはやがて、二人を見つけてしまうだろうか。それとも二人には、何か考えがあるのか――
 もちろん、それはわたしにはわからないことだし、管轄外のことでもある。
 ここに留まることにしたものの、さしあたって二人にやることはないみたいだった。テレビの報道も、目ぼしいものはなくなりつつある。暴動に関する新しい動きも伝えられてこなかった。もしかしたらそれは、完全に終わってしまったのかもしれない。
「どうも、やることがないな」
 銃の手入れをしてしまってから、ベテルは言った。
「まあ、そうだな」
 ソワもさすがに、気のない返事をする。
 二人とも、要するに暇なのだった。紐につながれたままふわふわしてる、風船みたいに。もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない、とわたしはふと思った。何といっても、ここは図書館なのだ。
「どうですか、お二人とも」
 わたしは極力、わざとらしくないように自然な口調で言った。釣りの極意は何といっても、焦らないことだ。
「せっかくだから、本でも読んでみては?」
「本てのは、その辺の紙に書いてあるやつのことか」
 ベテルは閲覧室の壁際にある、本棚に目を走らす。何となく、警戒心の強い魚みたいな疑いに満ちた目で。
「ええ、そうですよ」
 わたしは、自然な口調。
「……まあいいんじゃないか。とりあえず、時間を潰す以外にできることはない」
 ソワはあっさりと言った。
「では、どんな本をお探しですか? きっと、お望み通りのものを見つけてみせますよ」
 わたしは内心で喝采を上げつつも、やっぱり自然な口調。
「そうだな――」
 ベテルは深く省察するように、額に眉をよせる。「裸のねーちゃんが載ってる本なんてあるか?」
 わたしはプロフェッショナルに表情を崩さず、探してみます、と答えた。
「俺は――」
 ソワはベテルと違って、ある本の題名を告げた。
「もちろん、ありますよ」
 わたしは言って、さっそく二人の要望通りの本を探しに向かった。たぶん、棒を投げられた犬と、同じような気持ちで。

 二人は机の上で本を広げ、それに目を落としていた。わたしはカウンターに座って、邪魔にならないようにそれを眺めている。
 たった二人だけど、それは確かに図書館利用者だった。開館以来の百年で、ようやくやって来たお客さんなのだ。わたしとしては、なかなか感慨無量なものがあった。
 ベテルはページをめくりつつ、どこか気のない表情をしている。「……確かにそうなんだけど、なんか違う気もするなぁ」と時々、空中に文字を書くみたいにしてむなしくつぶやいている。ちなみに、わたしが彼に渡したのは美術全集の一巻だった。そこには裸婦の絵と、その詳細な解説が載せられている。
 一方で、その向かいに座るソワは、ただ静かに本を読みすすめていた。わたしからは背中しか見えないので、その表情ははっきりとはわからない。
 でも彼が真剣に、集中して本を読んでいることはわかった。そこには、書かれている文章に対する慈しみがあった。春の陽ざしが、草花に新しい命を吹きこむみたいに。
 わたしはカウンターに座るニボシを、そっとなでてやった。ニボシは嬉しそうでもなく、迷惑そうでもなく、ただ丸くなったままでいる。ニボシが二人のことをどう観察しているのかはわからなかった。何しろ、猫は本を読まないのだから。それでも猫には猫なりの礼儀やマナーがあるのかもしれない。ニボシは二人の邪魔をしようとはしなかった。
 やがて時間がたって、時刻は午後を迎える。
 二人は昨日と同じように、猫缶の食事をとった。朝食も、同じ。ただし今回は、パンがついている。
「猫用のパンですけどね」
 わたしはちょっと恐縮しながら、それを勧める。
 そのパンはメンテナンスに来てくれる知りあいの人に、無理を言って頼んだものだった。ニボシに食べさせてみたいから、と。もちろん、本当のことは一言も口にせず。
 猫用に塩分とバターを抜いてあるので、かなり味気ないパンのはずだった。もっとも、味覚のないわたしには、わかりようのないことではあったけれど。
「まあ、パンには違いないな」
 ベテルがパンをほとんど一口にしながら言う。
「ますます人間性を失いつつある気はするが」
 ソワも同じようにパンと猫缶を口にしながら、肩をすくめてみせた。
 食事がすむと、図書館の時間はいつも通りの密度に戻っていった。光は静かになり、音はすみっこのほうに引っこんでいく。誰もいない机とイスが並び、本は化石になってしまったような大人しさでじっとしていた。
 わたしは午後の館内チェックをしてから、昨日と同じようにレコードプレイヤーに向かった。ジャケットから少し迷って一枚を取りだし、ターンテーブルに乗せる。コーヒーをそっとかき混ぜるみたいにしてアームを動かし、針を落とす。
 モーツァルトのピアノ協奏曲第二十一番、第二楽章。
 管弦楽器による演奏と、同じ主題によるピアノでの演奏。まるで幸福な夢でも見ているみたいな、軽やかな調べ。そこに時々、かすかな記憶の名残りみたいな悲しみが加わる。
 わたしはしばらく、レコードプレイヤーの前に立ったまま、目を閉じて音楽に耳を澄ませていた。
 声をかけられたのは、そんな時のことである。
「――平気なのか?」
 わたしが目を開けると、カウンターの向こうにはソワの姿があった。突然ではあったけど、わたしは驚かなかった。彼の声は、音楽を遮るような響きをしていなかったから。
「何がですか?」
 わたしはレコードのボリュームを少し下げてから、訊き返した。
「あんたは――フミさんは、ずっとここにいるんだろう。図書館の司書として」
 ソワは何故か、少し言いにくそうにいった。細い針が見えない磁力線の影響でも受けるみたいに、かすかに視線をそらしている。
「そうですけど……」
 わたしはまだ、ソワが何を言いたいのかわからなかった。
「ここには、利用者なんて誰も来ることはない」
 ソワは何かを無理に吐きだすみたいにして言った。
「たぶん誰も、この場所のことを知りもしない――そんな場所に、何の意味がある? そんなのは、存在しないのと同じだろう。フミさんは、それで平気なのか? そんな場所にただいつづけることに、耐えられるのか?」
 わたしは少しだけ、間をとった。彼の言葉が十分、わたしの中に沁みこむのを待つために。
 それからわたしは、レコードのスイッチを切った。音楽は鋭利な刃物で切断されたみたいに、一瞬もかからずに消えてしまう。館内は無音のボリュームが上がって、前よりずっと静かな感じがした。ベテルは猫といっしょにどこかへ行ってしまっている。ここには、わたしとソワしかいない。世界には――
「……ソワは、わたしのことを憐れだと思いますか?」
 わたしは訊いてみた。ちょっと、からかうようなつもりで。
「そういうわけじゃない」
 ソワは首を振って否定した。
「ただ、フミさんはそれでいいのか? これがあんたの望んだことなのか? 毎日を、無意味さの中で過ごすことが。どこにも向かわず、どこにも行きつかない日々が。あんたは自分のことをヒトに似すぎた≠ニ言った。なら、どうしてこんなところで平気でいられる?」
 わたしは黙っていた。ソワの言葉には続きがあった。指に巻いた糸がずっと向こうでひっぱられるみたいな、そんな感じがした。
「俺はそんなの、ごめんだ」
 ソワは言った。吐き捨てるというよりは、何かを拾いあげるみたいに。
「マキナは俺たちすべてを管理している。俺たちの運命が最良なものとなるように。それに従っていれば、すべてはうまくいく。人類は存続し、個人は幸福に、社会は平和でいられる。俺たちは機械神に従うべきだ。けど――」
「けど?」
「そんなのは、動物園で飼われているのと同じだ」
 と、ソワは言った。
 わたしとソワは、カウンター越しに向かいあっていた。ソワの声はかすかに震えている。自分が正しいわけではないと、知っているからだろう。
「人類は滅びるべきだったんだ。こんな延命治療を受けて生かされるくらいなら、いっそ。死を許されないことは、生きることを許されないのと同じだ。俺たちには自分の生死を決める権利がある。生きることを強制するのは、死ぬことを強制するのと変わらない。そんなことは、例え神様でもするべきじゃないんだ」
「――そうかもしれませんね」
 わたしは逆らわなかった。ソワの言っていることは、何となくわかったから。
「フミさんは、満足なのか?」
 どちらかというと本当は答えなんて聞きたくないみたいに、ソワは言った。希望か絶望か、どっちが入っているのかよくわからない箱を前にしたときと同じで。
 けれど――
 わたしの答えは、ずっと前から決まっているのだ。
「もちろん、わたしはわたしに満足しています」
「……それはあんたが、そういうふうに作られたからだ」
 ソワの言葉に、わたしは答えた。
「それでも、わたしはやっぱり満足なんです」

 わたしは閲覧室を出て、館内の巡回にあたった。時々そんなふうにして、異常がないかを実際に確かめてみることがある。
 ロビーに出たところで、ふと人の気配を感じた。見まわしてみると、二階に向かう階段の途中にベテルが座っている。ニボシもいっしょだった。
 ベテルは「よっ」というふうに手をあげてみせる。どう見ても、反政府勢力の戦士、という感じじゃなかった。
「何をしてるんですか、こんなところで?」
 わたしは階段のすぐそばまで近づきながら、訊いてみた。
「別に何も。ただちょっと、たそがれてただけさ」
 ベテルはつかみどころのない、雲みたいな笑顔を浮かべる。
 わたしは彼のそばまで行って、同じように階段に腰かけた。ニボシは顎の下をなでられて、ご満悦そうに咽を鳴らしている。よく考えると、この一人と一匹はどことなく似ているみたいだった。
「一つ、訊いてもいいですか?」
 と、わたしは言った。
「一つと言わず、二つでも三つでも」
 ベテルはすんなりと了承する。
「俺の心は、地中海みたいに広いからな」
 ――広いんだろうか、それは?
 何だか微妙な気もするけど、もちろんそんなことはどうだっていい。
「ベテルは、どうして反世界戦線のメンバーに加わってるんですか?」
 わたしが訊くと、ベテルは一瞬口を閉ざした。ちょっと硬そうな材質で出来た沈黙だった。
「……ソワのやつと、何か話したのか?」
 ベテルは少しだけ、慎重そうな口ぶりをしている。
 うなずいて、わたしはついさっきの会話をかいつまんで説明した。生と死の両方の権利が人間にはある。どちらか一方を強制するのは、正しいこととは言えない――そんなことを。
「ま、あいつらしい意見だな」
 ベテルは言って、ニボシの顎をなでている。その言葉に同意するみたいに、ニボシは目を細めた。
「ベテルは違うんですか?」
 と、わたしは訊く。
「俺にはそんな主義主張はないんだよ」
 ベテルは乾燥した砂みたいな、手からそのまますべり落ちていきそうな口調で言った。
「戦う理由は人それぞれだ。俺の場合それは――私怨といっていいだろうな」
「私怨、ですか?」
 何だか、ベテルには一番似あいそうにない単語だった。
 けれどベテルは、はっきりうなずいている。
「マキナによる管理システムは、あくまで効率や合理性が優先だ。となれば、それにあわないものは切り捨てられるか、見捨てられるか、無理にでも改善させられるのが宿命だ。けど中には、それをすんなり受けいれられない人間だっている。変えられないもの、捨てられないもの――例え世界にとっては意味のないものでも、一人一人には大切なものだってある」
 ベテルは足の位置を変えて、少し姿勢を直した。ニボシがそれを見上げる。不思議なほど理解を示した瞳で。
「俺としては、それを踏みにじったマキナが許せない――ただ、それだけなんだ。世界が間違ってるとは言わない。それが仕方のないことだったと理解もしてる。けど、許せないものは許せないのさ。俺はそいつに復讐しておかなくちゃ、気がすまないんだよ」
 それだけ言うと、ベテルは口を閉ざした。さっきのそれとは違って、強度に余裕のある沈黙だった。
「ベテルはこの世界が憎いんですか?」
 わたしが訊くと、ベテルは小さく首を振った。
「いや、そういうわけじゃない。嫌いなものも多いけど、好きなものもたくさんあるよ。高いところから見える景色とか、信号が変わった瞬間に動きだす時間の流れとか、空に低い唸り声と一直線の雲を残して消えていく飛行機とか、な――あとは、この場所のことも」
「え?」
「いいところだぜ――図書館。静かで、きちんとしてて、正しいものが正しいところにあるって感じがする」
 ベテルはそれから、にっこり笑ってみせた。たぶん、混じりけのない、本物の笑顔で。
「そんな場所にいるのが、あんたみたいな人でよかったと思う。例え誰も来なくても、誰も知らないとしても、な。ニボシだって、確かにそう思ってるぜ」

 その日の晩も、二人は図書館に泊まることにした。昨日と同じように閲覧室を閉めようとすると、ソワが本のことを訊いてくる。もう少し、その本を読んでいたいのだという。
「閉館後の本の持ちだしは困ります」
 わたしは規則に照らしあわせて、そう告げた。
「なら、どうすればいいんだ?」
 ――どうすればいいんだろう?
 わたしはちょっと考えて、ソワにその本を借りてもらうことにした。それなら、少なくとも二週間は自由に持ちだすことができる。
 図書館専用のシステムでIDを登録し、貸し出しカードを発行した。それを使って、ソワにその本を借りてもらう。
「返却は二週間以内になります」
 わたしは得意になって告げた。何しろ、百年ではじめてのセリフなのだ。
「期限を過ぎたら、どうなるんだ?」
 と、ソワは訊く。
「電話で督促されて、怒られます」
 わたしがそう言うと、ソワは苦笑して首を振った。
「じゃあ、気をつけることにするよ」
 それから二人は部屋を出ていって、閲覧室には二人ぶんの空白が生まれた。わたしはしばらくしてから、昨日と同じように眠りにつく。作業ロボットたちだけが、夜を守るみたいにして、いつまでも働き続けていた。

 次の日の朝、わたしはロビーに立っていた。一人で、冷たい壁にもたれ、じっとしている。
 空は白みはじめていたけど、太陽の姿はまだなかった。主役はいつだって、ゆっくり登場するものだ。ロビーはまだ薄暗く、半分くらいは眠ったままだった。
 わたしはただ、そのまま待ち続けている。
 二人が階段の上から現れたのは、それからほどなくだった。二人は最初に出会ったときと同じ格好をしている。つまり、手には銃を持って――
「おはようございます、二人とも」
 わたしは壁から背中を離して、言った。
 二人はそれほど意外ではなかった感じで、わたしのほうに近づいてきた。第六感とか、虫の知らせとかいうやつだろうか。でもそんなのは、人間的な情報処理システムの齟齬が生んだ、あとづけの理由でしかない。
「どうして、あんたがここにいるんだ?」
 質問というよりは、一応の礼儀みたいな感じでソワは訊いた。
 わたしはしっかりと二人の正面に立って、それから言う。
「実は、わたしは嘘をつきました」
「嘘?」
 ベテルが首を傾げる。ロボットにも嘘がつけるのか、とは言わなかった。
 わたしはうなずいて、ためらわずに言った。
「通信を直接処理できない、と言ったのは嘘です。本当は、ここにいる作業ロボットたちからの情報を受けとることができます」
「ということは……」
「はい――昨夜の、二人の会話を聞かせてもらいました。朝早くに、ここを出ていくって。二日間の暴動は全部陽動で、今日がクーデター決行の本命だったんですね」
 二人は一瞬、顔を見あわせた。短いアイコンタクトと、それが伝える短い言葉。
「……フミさんは、俺たちのことを通報するつもりなのか?」
 と、ソワは言った。
 けど、わたしは首を振る。「そんなつもりはありません」
「どうしてだ?」
「わたしはただの、司書ロボットですから」
 そう言うと、ソワはおかしそうに笑った。笑うと、年齢相応の幼さが顔をのぞかせる。
「やっぱり、あんたは変わってるよ」
 それから、ソワは一冊の本をわたしの前に差しだした。
「……けど、ちょうどよかった。こいつをどうすればいいか、迷ってたところなんだ」
 わたしは本を受けとる。ずっと昔に、もう死んでしまった人間が書き残したものを。
「閉館時間の場合は、返却ポストを利用してください」
 と、わたしは教えておく。
「覚えておくよ」
 ソワはやっぱり、笑いながら言った。
 時間はいつも通り進んでいて、太陽はいつも通りに昇っていた。外から射しこんでくる光が、律儀な掃除夫みたいにロビーの薄闇を払っていく。
「最後にあの本が読めてよかったよ」
 不意に、ソワは言った。
「だとしたら、お手伝いができてよかったです」
 わたしは司書的に微笑んでみせる。
「紙の本も、悪くないと思った」
「――だったら、またここに来ればいいんですよ」
 わたしのその言葉に、けれどソワは曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
 どれだけ精巧な機械を作っても、どれだけ緻密なシステムを組みあげても、すべてを完全で幸福にできるわけじゃない。この世界は、楽園というわけじゃないのだ。
「本当に、行くつもりですか?」
 気づいたとき、わたしはそう訊ねていた。
 二人は黙ったまま、うなずきもしない。うなずく必要もないことだった。そんなのは、目を見ればわかることだ。
「死ぬかもしれませんよ?」
 わたしはどうしようもなく、訊いていた。
 いや――
 かもしれません、なんて話じゃない。きっと、死ぬだろう。相手は邪智暴虐の王というわけじゃない。親友が磔にされているわけでもない。そんなところに行ったって、誰も誉めてくれないし、都合のいい結果が待っているわけでもない。でも、
「たぶんな」
 ソワは言った。簡単に、電車の時刻でも答えるみたいに。
「だったら――」
「死ぬかもしれない」
 ソワは何だか変に素直な、きれいな声で言った。
「けど、自分を生きられないくらいなら、死んだほうがましだよ」
 それで、おしまいだった。
 わたしにはもう、かけるべき言葉なんてなかった。夜空をいくら照らしだそうとしても、何も見つけられないみたいに。そこはただ、星の光だけが静かに瞬く場所だった。
 ソワは最後に、ポケットからカードを取りだして言った。昨日、わたしが作った貸し出し用のカードだ。
「このカードは、返しておいたほうがいいのか?」
 そう言われて、わたしは首を振った。
「いえ、それはあなたが持っていてください。ここに来た――記念です」
「なるほど、な」
 ソワはカードを見てつぶやく。何の装飾も、面白みもない、ただの四角くて薄いだけの塊。
「――悪くない記念だよ」
 もう、時間がたちすぎていた。二人は行かなくてはならない。例えそれが、世界を滅ぼそうとするだけの行為だとしても、人間である以上は。
 いつのまにかニボシがそこにいて、一声だけ鳴いた。猫は猫なりに、別れを告げたのかもしれない。でもわたしは、さよならを口にするでも、手を振るでもなく、ただそのまま立っていることしかできなかった。
 二人は扉のところで一度だけ振りむいて、それから去っていった。
 ――たぶん、永遠に。
 もう二度と、図書館に来ることもなく。

 わたしは閲覧室に戻って、いつも通りに一日をはじめるための準備にかかった。パソコンをチェックして、館内に異常がないかを確かめる――すべて異常なし。
 そのあいだ、わたしは二人のことについて考えていた。気になる本の結末を、あれこれ想像するみたいに。二人は無事でいられるだろうか?
 でもたぶん、それは無理だった。世界は頑丈なのだ。ちょっとやそっとで壊れたりなんてしない。壁に卵を投げつけたって、潰れるのは卵のほうで、壁のほうはびくともしない。そこには罅も入らなければ、割れたりもしない。どうしたって、それは無理なことなのだ。
 わたしは立ちあがって、レコードプレイヤーに向かった。ジャケットから適当に一枚を取りだす。針にかけられたのは、バッハのG線上のアリアだった。
 スピーカーから、心の震えを直接写しとったみたいなヴァイオリンの音が聞こえる。プレイヤーのボリュームを、わたしはいつもより心持ち大きくした。今はそれくらいが、ちょうどいいような気がして。
 わたしはイスに座って、いつもと同じ誰もいない図書館を眺めた。
 百年近く、それはそうだったし――これからもやっぱり、それはそうなのだろう。
 カウンターの上ではニボシが丸くなり、作業ロボットたちがあちこちを行き来していた。空白を乗せた机が部屋の向こう側まで続き、本たちは誰かがページを開く、その時を待ち続けていた。
 わたしはふと、パソコンの画面に目をやってみる。
 そこにはたった一冊だけ借りられた、本の題名が記されていた。百年近く何の変化もない真っ白なリストの中に、一行だけ現れた、この図書館が存在する理由。
 それは不思議とわたしの心を温め、励ましてくれた。
 わたしはこの場所でずっとこうしてきたし、これからもやっぱり、こうしているのだろう。
 ――そのことに、きっと満足しながら。

――Thanks for your reading.

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