[牢獄の歌]

 男は牢獄に投げ込まれ、その後ろで鉄の扉が閉められました。カシャンという音が、何かの運命を告げるように牢内に響きます。男を連れてきた憲兵が行ってしまうと、辺りは死んだように静かになりました。
 男は立ち上がり、ベッドに腰掛けます。牢獄の中には手の届きそうな位置にトイレがあり、その他には何もありませんでした。息をするのも窮屈なくらいのその部屋は、四方を分厚い壁に囲まれ、鉄格子の入った窓が一つあるきりです。半地下のその場所では、窓から見えるのは雑草の生えた地面だけで、周りの建物が陰になって、陽の光もろくに入ってきはしませんでした。
 男は反政府的な活動をしたという理由で、ここに連れてこられました。といっても、たいしたことをしたわけではありません。新聞の片隅に、政府の政策を疑問視するような記事を載せただけのことです。「政府の軍事改革がそれほどの効果を挙げるとは思えない」。けれど彼はここに連れてこられました。
 この牢獄に入って、再び外に出てきたものはありませんでした。だからこの牢獄はゲシュペルの門≠ニ呼ばれています。それは入っても決して開くことのない、死者の国の扉のことでした。
 男は夜になるとベッドに横たわって眠り、朝になると起きました。けれどそこには誰もやってくる様子はありませんでした。食事を運んでくる者も、見回りをする者も、他の囚人の気配も、そこにはありません。
 あるのはただ、死をはらんだ沈黙ばかりです。
 男は鉄の扉を叩きました。「俺はここにいる。ここにいるんだ。誰か、誰かいるんだろう? 頼むから、返事をしてくれ」
 でも、返事はありません。彼の言葉は分厚い壁にみんな吸い込まれてしまったように、その気配さえ残すことはありませんでした。
 しばらくすると、男はすっかり絶望して、声を出す元気さえなくなってしまいました。ここはまさに、死者の国です。この世界にあるのはただ、暗闇と、永遠の沈黙ばかりでした。
 男はベッドに座り、小さな窓を見上げます。けれどその窓からは、光が差すことさえありません。その小さな窓からでは、何も見ることはできませんでした。

 しばらくして、かすかに、ほんのかすかに何かが聞こえました。男ははっとして、その音に耳を澄ませます。それはどこからか聞こえてくる、小さな歌声でした。
 男は、自分の耳を疑いました。それも、そうです。この死の世界の、どこから歌なんかが聞こえてくるのでしょう。厚い壁に囲まれ、周りから断絶されたこの世界のどこから。
 けれどそれは、確かな歌声でした。ゆるやかな、美しいメロディーのそれは、懐かしい故郷を歌った古い民謡です。男は知らず知らずのうちに、涙を流しました。子供の頃の懐かしい感情が、彼の中にあふれていました。
 歌はやがて、回り終わったレコードのように止んでしまいます。世界はまた死に満たされ、沈黙が暗い穴から這い出してきました。男は深くため息をつきます。そして、出来ることならあの歌声をもう一度だけでいいから聴きたい、と思いました。
 男の心配は、けれど必要ありませんでした。翌日になると歌声はまた、聞こえて来たのです。同じ曲、同じ声のその歌に、男は深く耳を傾けました。世界のすべてがその歌で満たされるほど、男は深く耳を傾けました。
 以前と同じく、しばらくすると歌は止んでしまいました。男はがっかりし、世界はまた暗い沈黙に支配されます。
 しかし翌日になると、歌はまた聞こえてきました。
 男はただその歌を聴くためだけに、生きつづけていました。歌が聞こえてくると全身のすべてをその声に向け、やがて終わると、次の歌を待つためにすべての感覚を閉ざします。
 歌は、決まった時間に聞こえてくるようでした。といっても、必ずそうだというわけではありません。日によって聞こえてくることも聞こえてこないこともあり、その長さも少しずつ違っているようでした。
 そしてその歌は、どうやら牢獄のどれか一つから聞こえてくるようでした。
 男は出来ることならいつか、その人に会って、そして感謝したいと思いました。男がこの世界で生きているのは、その人のおかげなのですから。

 ある日のことです。
 その日、牢獄に歌は聞こえてきませんでした。そして外が、なにやら騒がしいようです。春に聞く遠い雷のような音が聞こえ、かすかなざわめきが伝わってきます。
 男が死んだようにベッドに横たわっていると、突然、鉄の扉が開いて、数人の男たちが入っていきました。彼らは男を見つけると驚いたように口を開き、「生存者がいました」と、外に向かって叫びました。
 男には、何が起こったのかわかりません。
「君を助けに来た」
 と、一人が言いました。男たちは、解放軍の兵士でした。彼らは政府に対して革命を起こし、囚人の救出を行っていたのです。
 男は抱き起こされ、肩を貸されて立ち上がりました。そして外に向かって歩きはじめます。
「……」
 男は兵士に向かって、何か言いました。けれど男はあまりに衰弱して、声をはっきりと出す力さえありませんでした。兵士の男が苦労して聞きとると、男はどうやら、「他の人は?」と訊いているようでした。
「ここには君の他、誰も生きてはいない」
 と、兵士は言いました。
「君の隣の牢には一人の女性がいたが、彼女ももう、死んでしまっている」
 ちょうどその牢の前を、二人は通りました。
 扉の開いた牢の中を、男はのぞくことが出来ます。時刻はちょうど、いつも歌が聞こえていた、あの時間でした。
 牢の中では一人の女性が、壁に背中を当てて、座っていました。彼女は線のようにやせ細った体を光の中に横たえ、不思議に安らかな表情を浮かべています。
「牢の中でも、陽が差すのはここだけのようだな」
 と、何気なく兵士が言います。
 男はすると、はっとしました。そうです。歌声が聞こえてきたのはいつも、昼の、わずかばかりの光がこの牢獄に差し込む、その時間だったのです。彼女はその小さな光の中で、ただその小さな光だけを生きる糧として、歌っていたのでした。
 牢獄の中で、彼女を照らしていた光はゆっくりと移動し、彼女の体は再び闇の中へと沈んでいきました。
 男は耳の奥でかすかに、彼女の歌声を聴いたような気がしました。

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