ピアノはスポットライトの中にいました。 会場からは割れんばかりの拍手が響き、奏者が立ち上がって頭を下げ、それに答えます。鳴り止まぬ拍手の中を、彼は舞台の袖へと下がりました。 あとには、ピアノだけが残されます。 ピアノはとても古いものでした。そして今ではどこを探してもいないような、腕の良い職人に作られたものです。職人は生涯に残る傑作として、このピアノを作りました。 実際、ピアノの出す音色は素晴らしいものでした。白と黒の鍵盤が叩かれると、美しく彫琢されたような音が響きます。人々はその音を聞くと、鏡のように澄み切った湖の底にでもいるような気分になりました。 ですから、たくさんのピアニストがこのピアノを弾きたいといっても、それは無理のないことでした。ピアノはいくつものコンサートに参加し、そのどれもで喝采を浴びました。ピアノは、常に人々を魅了し続けました。 そのため、たとえピアノ自身が、その評価のすべてが自分のためであると思っても、無理のないことではあったのです。 「今日もまた素晴らしい演奏だった」 スポットライトの下の、鳴りやまぬ拍手の中で、ピアノは一人で得意になっていました。 「それもこれも、みんな僕のおかげなんだ」 ゆっくりと幕は引かれ、やがてスポットライトが消されました。 ピアノは、また次の出番を待ちます。
その日もまた、ピアノは素晴らしい音を響かせていました。まだ若い演奏家は、情熱的に、そして繊細に曲を奏でています。聴衆はうっとりして、その音に耳を傾けていました。 「どうだい、この曲は」 と、ピアノはつんと澄ましていました。 「僕だからこそ、この曲はこんなにも素晴らしくなるんだ。他の凡俗のピアノじゃまるでいけない。これもみんな、僕のおかげなんだ」 若いピアニストはそんなことも知らず、演奏を続けていました。彼はピアノとは違って、決してそれが自分ひとりの力だとは思っていませんでした。彼は丁寧に、音を一つ一つ愛するように、演奏を続けました。 曲が半ばにかかったところで、不意に、ピーンという音がして、音が外れました。 ピアニストは手を止め、会場は水を打ったように静まり返ります。深い地の底の沈黙を誤って掘り起こしたような、具合の悪い静かさでした。 やがてピアニストは気を取り直したように聴衆に向かって頭を下げ、再び曲を弾きはじめました。 今度は、途中で音の具合が悪くなるようなことはありませんでした。けれど、その演奏は最初の時ほど情熱的でも、繊細でもありません。まるで、不恰好に空を飛ぶ鳥でも思わせるような演奏でした。 「僕が悪いわけじゃない」 とピアノは思っていました。 「あのピアニストが悪いんだ。僕が音を外すはずはない。だって、僕はこの世界で最も優れたピアノで、最も素晴らしい存在なんだ。その僕が、悪いなんていうことがあるものか」
ピアノは検査を受けましたが、どこにも異常は見られませんでした。ピアノ線がゆるいわけでも、鍵盤がもろくなっているわけでもありません。 「どこも悪くありませんよ」 やって来た調律師はそう言って、首をひねりました。どの音もきちんと、前のように美しく響きます。 そのため、ピアノはその後もコンサートに出続けました。 「そうさ、僕が悪いなんていうことがあるものか」 と、ピアノは思います。 けれどコンサートのたびに、演奏は途中で中断されることになりました。それまで何の問題もなく弾かれていたピアノが、突然、ピーンといって音を外してしまうのです。まるで音そのものが壊れてしまったように。 ピアノは何度も検査を受けましたが、やはりおかしな所はどこにもありませんでした。そしてコンサートで演奏されるたびに、ピーンといって音を外します。 「悪いのは僕じゃない。悪いのは弾いている人間達なんだ。僕はもっと、偉大なピアニストにこそふさわしいんだ」 ピアノは音が外れるたびに、そう思いました。 でもそんなことが続いていると、ピアノを弾きたいという人はどんどん減っていきました。偉大なピアニストどころの話ではありません。そしてとうとう、ピアノを弾く人はいなくなってしまいました。 ピアノは暗い倉庫の奥へとしまわれてしまいます。 「世の中の人間はみんな見る目、聞く耳を持たないんだ。僕以上に素晴らしいピアノなんて、どこにもありはしないのに」 倉庫の中で、ピアノはまだそんなふうに思っていました。 弾く者のいなくなったピアノは、いつしか倉庫の中でほこりをかぶっていました。ところが、ある日突然、倉庫に光が射し、外へと連れ出されます。 ピアノは久しぶりに音が出せると思って、喜びました。 「やれやれ、ようやくみんな、僕の素晴らしさを認める気になったのか」 けれどピアノが連れて行かれたのは、聴衆の詰めかけたコンサートホールではありません。 ピアノはトラックにつめられ、長い時間をかけて移動した末、どこかの山里へとやって来ました。そしてその山里の小さな小学校の、小さな音楽室へと運びこまれました。 「一体、どうしたっていうんだろう?」 と、ピアノは思います。 「大勢の聴衆は? 明るいスポットライトは? 正装したピアニストは?」 やがて聴衆の代わりにたくさんの子供達が、ピアニストの代わりに年とった音楽教師がやって来ました。彼らはピアノにすれば聞くに堪えないような声で歌い、猿のようにひどい演奏をしました。 「何だっていうんだ、これは」 ピアノは混乱して、とても腹を立てていました。 「僕はこの世界で一番のピアノなんだぞ。間違ってもこんな扱いを受けるべきじゃないんだ。さあ、僕を元の正しい場所へ戻してくれ」 始終そんなことばかり思っていたので、ピアノはことあるごとに、ピーンと音を外しました。それを聞いていると、まるでピアノが文句を言っているようです。 子供達のほうではけれど、そんなピアノを「おんぼろ」といって、からかいました。休み時間になると子供たちは集まって、ピアノの鍵盤を滅茶苦茶に叩いたり、台の上に立ち上がったり、中のピアノ線をつまびいたりします。 「こんな屈辱ははじめてだ」 と、ピアノは言いました。 「僕はもっと大切に扱われるべき価値のあるものなんだ。なんて野蛮な人間達なんだろう。この小さな奴らには、ドの音もソの音も、たいした違いなんてないんだろうな」 そんなふうにピアノが澄ましたところで、子供達はまったく気にしませんでした。子供達ははじめて見るピアノを珍しがり、おもちゃにしていました。実際、子供達にとってそれは、おもちゃ以外の何ものでもなかったのです。 ピアノはそんな扱いを受けて、ますます不満を募らせ、ますます倣岸になっていきました。癇癪のように音を外し、まともに曲が弾けたためしはありません。 「ああ、誰か僕を元の場所に戻しておくれ」 ピアノはそう言って嘆いていました。
ある日、放課後になって一人の女の子が音楽室へとやって来ました。可愛らしいお下げを二つつけた、小学四年生くらいの女の子です。 ピアノのところに、放課後になってやってくるような者はありませんでした。ですからピアノはこの時間を一人で穏やかに過ごしていて、そこに邪魔が入るのは我慢なりませんでした。 「また僕をおもちゃにしようっていうんだな」 と、ピアノは思います。 「どうせそれ以外には使い方を知らない連中なんだ。どうして僕はこんなところに来てしまったんだろう」 ピアノがそんなことを思っているとも知らず、女の子はイスを引き、ピアノの前に座りました。それから蓋を開け、スコアを台に置きます。 それから女の子はゆっくりと、丁寧に鍵盤を叩きました。それはピアノの練習のための、ごく簡単な曲です。 その曲を女の子は一生懸命に、けれどそれ以上に嬉しそうに、弾きました。彼女は鍵盤を叩くたびにいろいろな音が出てくることが、楽しくて仕方ないようでした。 「ひどい演奏だ」 と、ピアノは呟きます。けれどピアノは、不思議と不愉快ではありませんでした。ピアノはかつて、自分が生まれた頃のことを思い出しています。 ピアノをはじめて弾いたのは、ピアノを作ってくれた職人の、小さな子供でした。彼は小さな手を一生懸命に使って、ピアノを弾きました。ピアノは自分の中から美しい音が次々にあふれてくることが嬉しくて、それを弾いてくれる男の子に、深く感謝をしました。 ピアノは音楽と、そして弾き手を、何より愛していました。 この世界にある意味を、ピアノははっきりと理解していました。 その頃のことを、ピアノは思い出します。 女の子は一生懸命に、丁寧に弾きましたが、時々音を間違えたり、手が止まったりしました。でもピアノはそんな事は気になりません。女の子のために、優しく音を響かせてやりました。 ピアノからは、あのピーンという苛立ったような音が出てくることは、なくなりました 女の子とピアノは、いつまでも楽しそうに音楽を奏で続けています。
それから何年かが過ぎました。 ある小さな音楽ホールで、コンサートが開かれようとしています。聴衆といってもごくわずかの、小さなコンサートです。 開演の時間がやってくると、ホールは暗くなり、舞台上が照らし出されました。そこには一台のピアノがあって、小さな女の子が舞台の袖から現れます。 それはあの小学校のピアノと、女の子でした。 女の子は聴衆に向かってお辞儀をすると、ピアノの前に座りました。女の子とピアノは何かを話しあうようにしばらくそうしたあと、ゆっくりと曲を弾きはじめます。 それは決して、かつてのピアノを弾いたピアニストほど美しくも、上手なものでもありませんでした。時々、音の調子が乱れ、全体のバランスも完璧ではありません。 けれどそれは優しい、温かな演奏でした。音の一つ一つを大切にし、慈しむ弾き方です。聴衆は心地よい音の響きの中にいます。まるで、明るく澄んだ海の底にでもいるような気分でした。 ピアノはもう決して、音を外すことはありません。ピアノは音を奏でられるだけで、満足でした。眩しいスポットライトも、大勢の聴衆も、もう必要はありません。そんなものには、何の意味もなかったのです。 やがて曲が終わると、温かい拍手の中でピアノは幕の向うへと消えていきました。
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