[終わる世界、と終わらない冬]

 雪が降っていた。特別な白さをもった雪だった。長い時間のすえに、すっかり色が抜け切ってしまった、というような。その小さな白い切片は、音もなく空から落ちてきた。大地は一面が同じ色で覆われていた。
 この世界はもう、何年も春を迎えていない。季節はずっと冬のままだった。太陽は消えかけのストーブのように弱々しく、風は咬みつくほどの冷たさだった。けれど、春が来ることはない。冬は続く。世界が終わる、その時までは――

 その平原は、森のすぐそばに広がっていた。立ち枯れた木が何本か、焼き殺された魔女の指のように突き出ていた。なだらかな起伏が、世界の果てまで続いている。遮るものもない中を、風は我がもの顔に吹き荒れていた。何かを諦めたような、薄い昼の光がそれらを照らしている。
 男が一人、その平原に倒れていた。まだ若い、二十歳そこらという年恰好だった。短く刈った髪に、まだ髭も生えそろわない幼さ。蛹にさえならない、柔らかな幼虫を思わせる顔立ち。彼は茶色の軍服に、肩から提げた銃を背中に負っていた。
 もっとも、今は全身にうっすらと白い雪をかぶり、そのような詳しいことまではわからない。彼は傷つき、疲れはて、やっとのことでここまでたどりつき、そして倒れたのだった。長い足跡だけが、虫の這ったあとのようにそこまで続いている。
 雪たちは言葉もなく、遠慮がちにその上へと積もっていた。このままなら、彼の体はいずれ白い土の下へと埋もれることになるだろう。そうすれば、もはや永遠にその存在が知られることはないはずだった。
 ――そこに、二人の人影が現れた。
 二人は雪の中に消えようとする彼を、無言で見下ろしていた。厚いコートを着て、風を避けるためにフードを目深にかぶっている。同じ色の手袋と長靴。小さな、子供くらいの背丈の二人だった。いや、実際に二人は子供なのだ。それも、相当な幼さの――
 雪の下の彼は目をつむったままで、意識を取りもどす様子はなかった。今のところ、その体に生命の兆しはうかがえなかった。だが、死んでいるわけではない。そこにはわずかにくすぶる燠火のような、かすかな光があった。
「…………」
 子供たちはただじっと、彼を見つめていた。一人が、もう一人を見た。もう一人も、元の一人を見た。そこに言葉はなかった。まるで、虫たちが無言の意思疎通をするかのように。
 やがて最初の一人が、彼に積もった雪を払った。全身の一部とはいえ、その体が雪の下から現れる。それでも、彼はやはり意識を失ったままだった。獣たちが、春が来るまで眠り続けるのと同じで。
 雪をどけると、その子供はうつぶせになっていた彼の体をひっくり返した。彼の体は庭の石ころのように、地面にその跡を残して仰向けになった。子供は背中から腕をまわして抱えあげ、何とか彼をひきずって行こうとした。彼の体は、子供の二倍以上もあった。もちろん、それだけの体格差でまともに担いでいけるはずなどない。
 その様子を見ていたもう一人は、小さく首を振ってため息をついた。着古した服に、あまり目立たない破れ目を見つけたかのように。最初の一人はそれを気にしたふうもなく、うんうんと唸りながら大きな彼の体をひきずっていく。
 もう一人は何か言おうとして、結局は諦めた。ずっと昔から、そのことを知っていたように。そうして何か怒ったような顔つきで、雪の上に跡をつけていた彼の足のほうを持った。


 木の扉が開くと、まず雪が入ってきた。それが、当然の権利だとでもいうように。それから、人間が入ってくる。もっとも、こちらは雪のように簡単にはいかない。まず、子供が後ろ向きに入ってきた。框に足をかけないよう、用心して。抱えられた男の体が、それに続く。戸口にぶつからないよう、これも用心する。何とか無事に通過して、最後に足を持ったもう一人の子供が家の中へと入る。
 扉のそばにいったん男を下ろすと、二人は扉を閉め、雪を払った。乾いた絵の具の欠片のようにして、木の床に白が散らばる。二人は男の上からも雪を払い落とした。男の目は、それでもやはり開かなかった。だが、死んではいない。
 一人が男の世話をする一方で、もう一人は暖炉の火に取りかかった。小さな薪を置き、おがくずを使って火を熾しにかかる。ぐずつく赤ん坊のように、薪にはなかなか火がつかなかった。が、最後には赤々と勢いよく燃えはじめる。
 その頃には、濡れた男の服は脱がされ、きれいな毛布に包まれていた。男の体は冷えきっていた。だがそれよりも、もっと重要な点がある――
 火が順調に燃えはじめたので、もう一人のほうがそちらへ戻ってきた。男のそばにいたほうの子供は、何か言いたげにもう一人を見た。もう一人はその無言を聞きとって、腰に手をあてて口を開く。
「何なの、ユニ。どうかしたっていうの?」
 フードをとったもう一人の子供、いや、少女は、じれったそうに問いただした。
 彼女は癇の強そうな、金属的な光を持った目をしている。あまり手入れのされていない、植物めいたぼさぼさの黒髪をしていた。その黒色は、強い炎のあとに残った木炭を連想する。粗野で、乱暴で、強情なたたずまい。だがよく見ると、整ったその顔立ちには、一種の野性的な美しさがあった。
「……この人、怪我をしてるんだよ、アセリ」
 男のそばにいた子供が、不安そうな声で返事をする。
 少女と比べると、こちらは対照的な顔立ちをしていた。柔和で、繊細、明朗な、小鳥のような優しさ感じさせる。霞がかった太陽の光に似た、くすんだ色あいのブロンドの髪。その下には、小鹿のように澄んだ瞳があった。頼りない体つきや、あどけないその顔つきからは、しかとはわかりにくかったが、少年である。
 アセリと呼ばれたほうの少女は、不審そうな顔で近づいてきた。男の体は全身が毛布に覆われていて、その顔くらいしかうかがうことはできない。その顔は、どこか険のある、暗いものだった。浅黒く、年齢のわりには精悍そうに見える。眠っているときでさえ、意識の一部には緊張が残っているかのようだった。
 それはともかくとして、傷のようなものには気づかなかった。雪の中を運んでいるときも、そうである。血の跡も、手足のねじれもなかった。毛布の下に、少年の言うどんな怪我があるのか、少女には想像もつかない。
「どこが悪いっていうの? 病気とか熱があるとかならわかるけど」
 と彼女はまるで、それが不服でもあるかのように言った。
「――ここだよ、左腕のところ」
 少年はそう言って、毛布を軽くめくってみせた。そんな些細な動作でさえ、この少年の手つきは丁寧だった。
「…………」
 現れた左腕を見て、少女の顔は歪んだ。いや、それは歪んだというにはあたらない。かすかに眉をよせ、唇の形を変えただけのことだった。蜜蜂の羽音が、ほんの少し変化するように。とはいえ、それが歪んだことには変わりがない。
 剥きだしになった男の左腕には、奇妙な黒い痣が刻まれていた。痣というには、それはいかにも奇妙だった。紋様、といったほうが近い。蛇がのたうつような、うねうねとした線が、皮膚の上をいくつも這いずっている。もし、そういうことがあるのなら、何かの幾何学的な図形が腐ったかのようだった。そこには、非常な禍々しさがあった。
「裁き(ニエバ)≠受けたのね、きっと」
 少女は必要以上の無関心を装うかのように言った。「――無事に生きているだけでも、驚きだわ」
 うつむいたまま、少年はそっと毛布を戻した。そこには、遠慮がちな慈しみがあった。ちょうど、心の優しい人が、苦しむ病人を前にしてどうしていいかわからずにいるのと同じような。
「……その人、どうするつもりなの?」
 と、少女は訊いた。その口調は、詰問といっていいくらいのものだった。
 少年は、心配そうな顔で男をのぞきこんでいた。少女のほうを振り向こうともしない。その瞳はまっすぐに、男のほうへと向けられている。
「できれば、助けてあげたい」
 その返答は、少女には十分に予測できたものだったらしい。彼女は軽く肩をすくめるだけで、首を振ったり、ため息をついたりはしなかった。それだけの動作を、惜しんだかのようでもある。
「よくなるまで、ここに置いておいてあげようよ。ねえ、アセリ、そうしよう?」
 少年は哀願でもするかのように、必死だった。
 それでも少女は、軽く肩をすくめるだけだった。「たぶん、面倒なことになるわよ」
「でも、このまま放ってはおけないよ――」
 少し、時間があった。何かの重さを秤で慎重に量っているよな、そんな間だった。やがて、それは終わった。皿がどちらに傾いたかはわからない。
「まあ、いいわ」と、少女はそっとため息をついた。「どうせこのまま、死ぬかもしれないし」
 二人は火が音をたてる暖炉の前にベッドをこしらえると、そこに男を寝かせた。


 ……それが歌だったかどうかは、はっきりとはしない。男の混濁した意識では、すべての境界が融解し、曖昧だった。もっとも基礎的な概念さえ形を失い、あらゆる事物の意味性は瓦解した。朝と夜が混じり、空と大地が溶けあった。そこに男の存在する余地はなかった。その意識は中心を欠いていた。
 だから、それが――手のひらで太陽の光を受けるような、木の葉がそっと地面に触れるような、水面に音のないさざ波が立つような――それが、歌だったかどうかは、さだかではない。布の切れ端から、元の服を想像できないのと同じで。
 けれど男は、それを確かに聞いた≠ニ思った。少なくともそれは、歌に似た何か≠セった。鳥の羽の重さや、夜明けに消えていく星の光や、そんなものに似た。それを聞くと、男の心は安らいだ。体の内側にある濁りや痛みが、静かに取りのぞかれていくようだった。
 男の意識はなおもしばらくのあいだ、夢の中にあり続けた。


「――!」
 男が目覚めたとき、とっさにとった行動は傍らの銃に手をのばすことだった。それは生き残るために身についた、長年の習慣だった。誰かに撃たれないためには、こちらが先に撃つしかない。
 だがそこに、銃はなかった。手は空を切った。それで男は、軽いパニックに陥りそうになった。急に足元の地面が崩れるような、眠っているときにどこか奈落へ転がり落ちてしまいそうな、あの感覚である。
 それでも、意識は次第にはっきりしてきた。《ここは、どこだ?》と男は思った。少なくとも、牢屋や拷問室ではなさそうだった。自分がベッドに寝かされていることもわかった。白い、清潔そうなシーツが敷かれている。
 それから、男はあたりを見た。どこかの家の、居間らしいところだった。《とすると》と、男は思った。《俺は民間人に助けられたのか?》。だが、詳しいことは何もわからなかった。部屋には誰もいない。男の記憶にあるのは歌だけで、二人の子供たちのことはなかった。
 立ちあがろうとして、左腕の痛みに気づく。焼けつくような、重い鉄球を埋め込まれたような、そんな感じだった。もちろん、まともに動かすことなどできはしない。見ると、黒々とした紋様が、奇妙な生き物のようにしてそこにあった。紋様は、今にも蠢きだしそうである。
《だが、妙だな》と男はかすかな違和感を覚えた。《前より痛みが和らいだ気がする……》
 男は床に立った。それで、自分が服を脱がされて裸なのだと知った。暖炉の熱を感じたが、そこに火はなかった。部屋の中は急速に温度を失いつつある。冬の寒々とした空気が、ついさっきまでそこにあったものをあっけなく奪い去ろうとしていた。
 ベッドのそばにある机には、男の服が――洗濯して、乾かされた服が――きちんと畳んで置かれていた。それから、食事も。パンに、チーズに、牛乳。あるのは、それだけだった。
 男は訝しみながらも服を着、食事をとった。まだ空腹を覚えるほどの力もなかったが、小さな鞄に無理をして荷物を詰めこむようにして、食事をかきこんだ。そうした行動と習慣に、男は馴れていた。
 牛乳はまだ、その新鮮さを失っていなかった。今朝とったもの、という感じである。チーズの酸味は胃に心地がよかった。パンの甘く芳ばしい香り。男は自分でも驚くほどすんなりと、食事を平らげてしまう。そうするとようやく、人心地ついた気分になった。
 するとあらためて、部屋の様子をうかがう余裕ができる。そこはごく当たり前の、農家ふうの家屋だった。年季を感じさせる、重厚な梁。荒々しくはあるが、野太い柱。木の床はきれいに掃除がされ、窓ガラスには罅も曇りも入っていない。そこには、そういう空間にありがちな、ある気配がある。誰もいなくとも、誰かがそこにいるような――
「…………」
 立ちあがって歩くと、少し立ちくらみがした。男は軽く頭を振って、深呼吸する。それで、いくらか楽になった。まだ覚束ない足どりで、玄関のほうへと向かう。
 外に出ると、一面の雪だった。降ってはいない。空には、毛羽立った絨毯に似た、灰色の雲が広がっている。珍しくもない光景だった。というより、もう十年近く、それ以外の景色を見たことがない。そのあいだ、ずっと戦争は続いていた。
 寒さに一度身を震わせてから、男はざくざくと音を立てて歩きはじめた。家の前には広い庭があり、家畜小屋らしいものもあった。前の道に出ると、やはりここが農村らしいことがわかる。木造の、比較的大きな家がぽつぽつと散在し、そのあいだに耕作地が広がっていた。
 男は歩きだして、だが奇妙なことに気づく。どこにも、人の気配がない。当然聞こえてくるはずの物音や、人声、動物の鳴き声がしない。そこには、生活の痕跡がない。いや、痕跡はいたるところにあった。ただ、それらは不自然な時間の経過を受け、ほとんどがもう死んでしまっているにすぎない。
 例えば、壁に立てかけられたままのハシゴ。畑の真ん中につき刺さった鍬。路傍には子供の玩具が放りだされていたりする。荷車が途中で行き先を失い、完成間近の小屋がそのまま放擲されていた。そこには人々の痕跡が残されていたが、どれもが不自然な死を迎えていた。
 男は思い切って、いくつかの家の扉を開けてみた。だがやはり、そこに人はいなかった。無人の家屋では、痕跡はますますひどくなった。火の消えた暖炉の上では、鍋が焦げついている。皿の上のパンには、カビが繁茂している。イスのすぐそばの地面に、毛糸の玉が転がっている。何か口をきこうとして固まってしまったような、開かれたままの本があったりもした。いずれも、相当な時間の経過をうかがわせる光景だった。
《この村は――》
 と、男は何かが崩れてしまうとでもいうように、そっと扉を閉めながら思った。
《一体、どうなっているんだ?》
 道に立って耳を澄ますと、どこか遠くから何かが聞こえるようだった。だが、それがどこからやって来るのか、どんな形をしているのかはわからなかった。沈黙が大きな音を立てていた。


「――動くな」
 二人の子供が家に入ってきたとき、男は制止した。二人は立ちどまった。男の手には、ライフル銃があった。イスに座って、それを構えている。ひどく疲れた様子で、銃を持つ手がいかにも重たげだった。
 子供たちのうち、少女のほう――アセリは、無造作といってもいい態度で、持っていた編み籠を床におろした。それには野菜がいっぱいにしてあった。ホウレンソウ、キャベツ、カブ、ネギ、いつまでも続く冬の季節にもとれる野菜。後ろにいた少年――ユニのほうも少女に従った。乾燥豆か何かの入った袋、ジャガイモ、ニワトリの卵、そんなものを慎重に床の上に置いていく。
 あらためて二人を観察した男の目には、隠しきれない戸惑いがあった。二人はいかにも幼かった。幼すぎるくらいだった。二人はどちらかといえば、痩せて粗末な身なりをしている。飾りけのない麻の服に、毛羽だったコートを着ている。
 男は戸惑いながらも、銃口は油断なく二人に向けていた。いくつかのことを思考し、推測し、逡巡した。だが、答えは出そうにない。そうして、訊いた。
「……お前たちは誰だ? 俺はどうして、ここにいる?」
 子供たちはじっと、男を見つめた。そこには銃口を向けられた人間が示す、当然な慎重さがあった。だが、恐怖はなかった。少なくとも、そうした感情に伴う動揺は。
「あなたは、雪の中に倒れてたのよ」
 実際にはそれほどの間は置かず、アセリが言った。
「それは、わかっている」
 男は苛立たしげに肯定した。疲労のせいで、感情がうまくコントロールできていない。
「俺は、つまり……俺はどうなっているんだ? ここは抵抗勢力のアジトなのか? 俺を拷問するつもりなのか?」
 男の言葉に、アセリとユニは顔を見あわせた。その目配せは、非常に誤差の小さな信号のやりとりを思わせた。ややあって、再びアセリが口を開いた。落ち着いた、はっきりとよく通る声である。
「いいえ、違うわね。ここはただの農村よ。わたしたちは、ここに住んでいるだけ」
 そこには、迷いやごまかしのような響きはなかった。だが、男は納得しなかった――
「ここは普通の村じゃない。何しろ、誰もいないんだからな。俺は見てきたんだ、この目で。もぬけの殻だ。それも、不自然な格好で。それでもお前は、ここがただの村だと言うつもりか」
「ええ、そのつもりね」
 アセリは静かに、不遜とさえいえる態度で答えた。
「――――」
 男は川が堰きとめられでもするように、口を噤んだ。
「……お前たちは、俺が怖くないのか?」
 ややあってそう言う男の態度は、自らの敗北を認めるかのようでもあった。
「怖くなんてないわね」
 少女の声には、かすかな憤りすら含まれていた。
「銃を持っているんだぞ」
「だから、どうしたっていうのよ?」
 まったく怯むこともなく、少女は言う。
「撃ちたければ、撃てばいい。わたしは少しも文句なんて言ったりしないわ」
 男は困惑すべきか、憤慨すべきか、迷う顔をした。曲芸師が綱の上で体重をどちらに移すべきか見失うような、そんな具合である。男には、はっきりしたことはわからなかった。子供の言うことを本当とも思えなかったし、また嘘とも思えなかった。
「……ここには、お前たちしかいないのか?」
 男は、やや調子を変えて訊いた。いくぶんか、譲歩した感じである。
「そうよ、今のところはね」
 少女は短い剣幕で答える。
「ほかの人間は――大人たちはどうしたんだ?」
 男の問いかけに、子供たちのあいだで何かが一瞬動いた。夜空を星が横切るほどのかすかさだったが、とにかく何かが。
 すぐに、アセリが口を開いた。そこには秘密から目を逸らそうとする、不自然な性急があった。少年のほう、ユニが余計なことを口走らないよう、掣肘したようでもある。しかし、余計なこととは――
「それについては、答える必要はないわね。あなたには関係のないことよ」
「…………」
 男はあえて詰問するようなことはしなかった。どんな質問をしても、この子供たちが何もしゃべらないであろうとことは想像がついた。固く口の閉じた二枚貝。薄くて、脆くて、何の役にも立たないが、とにかくそれは中身を守っている。
 それに、男は疲れてもいた。実際、座っているだけでたいした仕事なのである。銃を、震えないように持つのが精一杯だった。起きたばかりで、無理に歩きすぎたのである。ここはこのまま、互いに譲らない形のままにしておきたかった。
 だがそれでも、表面上は威圧の態度を維持しなければならない。まだ、わからないことが多すぎた。簡単に弱みは見せられない。
 そんな心境を察した、というのではないのだろうが、少年――ユニのほうが口を開いた。声の調子としては、まったく問題にならないほどの無邪気さだった。
「まだ、休んでたほうがいいよ」
 ユニは何の屈託もない笑顔を見せながら言う。
「さっき起きたばかりなんでしょう? ずっと寝てたんだよ。苦しくて、うなされてた。傷だってひどいし。ぼくたち、様子を見るためもあって戻ってきたんだ」
 それにお腹だってすいているはず、とユニはつけ加えた。心の底から心配している、というふうだった。男が何者で、何を考えているかなど、問題にもなりはしないというように。
 アセリはそんなユニの性格にはすっかり慣れているとでもいうふうに、軽く肩をすくめるだけだった。そしてそれですべての未解決は無効になった、とでもいうのか、彼女はその調子を一変させた。そこにはもう、対決はなかった。ただ、普段と同じ程度らしいきつさで言った。
「体が治るまでは、ここにいればいいわ。あなたが何者かなんて知らないし、知りたくもないけど、大人しくしていればそれくらいは許してあげる。ユニがどうしてもって、うるさいから」
 男は曖昧にうなずいた。結局のところは、ほかに仕様がなかったからである。左腕はろくに動かすこともできず、体力も衰弱している。感謝くらいは示すべきだったが、しかし相変わらず相手の正体は知れてはいない。しかも、この村は何かがおかしい。子供が二人だけしかいないなんて――
「そういえば、あなたの名前はなんて言うの?」
 アセリは事のついでというふうに、いかにも面倒そうに訊いた。ユニは興味津々といった顔で、男のことをじっとのぞきこんでいる。
「……トゥーラだ」
 男は答えた。そうして重い足枷でも置くようにして、ようやく銃を机に放る。「しばらくは、世話になる」


 トゥーラと名のったその男は、こうして二人の子供の家で暮らすようになった。世話になる、とは言ったが、ただの厄介になるつもりはなかった。数日して体力が戻りはじめると、様々なことを手伝うようになった。家屋の修理や、家畜の世話、物の運搬――小さな子供の力には余るような仕事を。
 そのあいだ、ほかの人間の姿は見えなかった。すべてのことは、子供たちだけで行われていた。畑仕事や、食事の準備、洗濯、水汲み――。誰かの指示を受けているようにも見えない。ユニとアセリは、まったくの二人だけで、誰もいないこの村に暮らしていた。そのことは、トゥーラも認めざるをえない。
 トゥーラの体は順調に回復したが、それでも左腕は使いものにならなかった。それはもはや、鉛の塊をぶらさげているようなものだった。血が通い、温度を持っている、ということだけが違っている。紋様は黒々としたまま、消えることはなかった。時には、夢の中にまで痛みがやって来て目が覚めることもあった。
 同じ家で暮らしてはいたが、三人が完全に打ち解けあうことはなかった。当然といえば、当然のことだ。アセリはまったくのつっけんどんのままだったし、トゥーラのほうでも無理におもねる気はない。ユニだけがそのあいだで右往左往していた。少年は何かと二人の親睦をはかったが、それは海の波をその場につかまえておこうとするくらい、益のない行為だった。
 それでも、日々の暮らしにはリズムが生まれる。互いの無言を読みとり、歩度があわせられる。互いの足がからまないようにして、必要な時には同じものを支えあう。三人だけの奇妙な共同体は、ともかくも沈没はせず、無事に水の上に浮かぶ舟ではあった。
 ――ある日のことである。
 トゥーラはユニといっしょに、薪割りの作業にあたっていた。珍しく、晴天の日だった。空はここぞとばかりに青く輝いた。雪の地面は銀に光った。風さえもいつもより自由に、体をのばしているかのようだった。
 冬の季節は、これからも続く。薪はいくらあっても困ることはない。備蓄はまだ十分に残っていたが、何が起こるかはわからない。子供二人では、これは非常に難儀な仕事だった。だから、トゥーラは少しでもそれを増やしておこうと思った。
 丸太はすでに輪切りにされ、あとは斧で割るだけだった。トゥーラはユニと連れだってその場所に向かった。隣家の、裏庭にあたるところである。その場所は、いかにも急な用事で空けているだけ、という感じがした。少し待っていれば、住人が戻ってくるのではないか――
 だが、ユニは何の頓着もなく薪割りの準備にかかった。それが、トゥーラには奇妙に映る。アセリにしたところで、二人とも何か、それを当然のこととしているところがあった。
 トゥーラは薪割りにかかった。ユニが切り株の上に丸太を置く。それから片手で斧を振りあげ、力を矯めて打つ。丸太は軽快な音を立てて二分された。それを、ユニがまた置く。また、打つ。
 傍らで仕事するユニの手が、驚くほど赤く擦り切れていることを、トゥーラは知っていた。ユニだけではない。アセリもそうだった。それは、簡単な仕事でつくような種類のものではなかった。そうであるには、度を越している。といって、トゥーラはそのことについて質問したこともないし、二人が自分たちから何か話すようなこともない。
 トゥーラはもう一つ、二人がたびたびどこかへ姿を消すことにも気づいていた。そんな時、二人はトゥーラの同道を拒否した。あとをつけるような真似も厳禁である。二人がどこで、何をしているかは、トゥーラは知らない。興味がないと言えば嘘になったが、約束を破ることは思わなかった。信頼とか、礼儀とかいうのではない。そこに何か、一種の神聖を感じたからだった。
「…………」
 トゥーラは筋肉を硬直させ、狙いを定め、斧を落下した。丸太は意に逆らって、宙へと跳ねた。ユニが拾って、同じ場所に置いた。
「……いくつか、訊きたいことがある」
 とトゥーラは、あたかも間違いを起こしたのが斧のほうであるかのようにして、手元のそれをじっと見ながら言った。
「お前たちと、それからこの村のことだ」
 ユニは黙っていた。その無言の中身を、かすかに聞きとることができる。緊張、警戒、不安――それから、どこか悪夢を見るときに似た息づかい。
「この村には、本当にお前たち二人しかいないのか?」
 まるで斧に話しかけるようにして、トゥーラは言った。
 ユニはうなずいた。ユニも、トゥーラのほうを見ようとはしない。互いに、言葉だけが存在するかのように振るまっていた。まるで、それが礼儀であるかのように。
「何故、そんなことになったんだ?」
 ユニは首を振った。ひどく弱々しい仕草だった。あたかも、羽虫が地面に落ちていくかのようだった。「言うなって、いわれてる」
「アセリにか?」
「――うん」
「ほかの村人はどこかへ行ったのか? お前たち二人だけを残して」
「そういうわけじゃないよ」
「なら、いずれ帰ってくるのか?」
 ユニはまた、首を振った。さっきとは種類の違う首の振りかただった。最初のは、ただの否定を表す動作だった。だが、今度のは――今度のそれは、暗い深淵を想起するものだった。少なくとも、その存在を示唆するものでは。
「つまり、村人はもう――」
 トゥーラの言葉は、途中で遮られている。
「――その話は、そのくらいにして」
 いつからそこにいたのか、アセリが声を挟んだ。その声には、何割かのため息が含まれている。彼女は手袋を持ってきていた。二人のために、気づいて持ってきたのだろう。
「余計な詮索はしないで」
 アセリは滑らかな断面のある言葉で言った。
「前にも言ったけど、あなたには関係のないことよ」
「だが、お前たちは歌(ウルト)≠うたったんじゃないのか?」
 その言葉は、二人の意識の奥深くで緊張を起こしたようだった。表情はまったく変えないまま、ただ体の表面にある空気だけが、それとはわからない変化をした。試験紙ではかっても検出されない程度の変化だっただろう。
「もう一度、言うわ」
 とアセリは平静な声で言った。それは、ありありと制御された静かさだった。
「わたしたちのことについて、余計な詮索はしないで。ユニも絶対、何かしゃべったりしちゃだめよ」
 そう言うと、アセリは来た道を戻っていった。トゥーラとユニはそれを見送った。少女がいなくなるまで、雲さえ空中で固定していた。雪は光の反射を弱めた。トゥーラは何も言わなかった。そして、二人とも元の作業を続けることにした。


 夕食には、兎の肉が出た。昨日、トゥーラが銃でしとめたものだった。新鮮な肉は滋味があって美味だった。体の一部が作り変えられるのがわかるかのようだった。
 食事はいつも通りに行われた。暖炉のある部屋で、三人が同じテーブルにつく。アセリとユニは横に並んでいる。トゥーラはその向い側に座った。時々、火の爆ぜる音や、薪の崩れる音がした。窓の外には、巨大な瞳でのぞき込むような濃い闇があった。
 三人とも、今夜は口をきかなかった。といって、それがいつもとそれほど違っているとはいえない。話をするとしても、簡単な、いわば事務的な内容ばかりだった。そのほうが互いに気づかいがなかった。そこにある沈黙は、決して重くはなかった。むしろそれは、着慣れた服のようにして、そこにあった。
 だが、今は――今は違う。その沈黙には、普段とは異なるところがあった。透明な水に何かが溶け込んでいる種類の沈黙である。それはじっと結晶するのを待っていた。きっかけさえあれば、それはただちに形をとるであろう。
 食事と片づけが一段落した。誰も、一言も口をきかなかった。いつもなら、それは銘々が自分の好きなことをする時間である。アセリは縫い物をしたり、料理の下ごしらえをしたり、小さく歌を口ずさんだりした。ユニはそれを手伝ったり、道具の手入れをしたり、眠たそうに本を読んだりした。トゥーラは銃の手入れをしながら、時折左腕の痛みに顔をしかめた。
 それが、今日はどれも起こらなかった。三人とも席に着いたまま動かなかった。まるで、自分たちが彫刻であることに突然気づいた、とでもいうように。時間さえ止まっていた。夜の静寂が耳についた。雪の積もる音が聞こえてきた。
「――俺は、統一軍(アンバス)≠フ兵士だ」
 まるで独り言をつぶやくようにして、トゥーラは言った。暖炉の炎だけが、それに耳を傾けて揺れている。
「この左腕の傷は、戦場でつけられた。敵軍が燔祭≠行ったせいだ。その時にまき散らされた死≠ナ部隊は全滅したが、運良く俺だけが生き残った。だが、その傷跡は左腕に残った。俺は命からがらその場を逃げだし、雪の中で倒れた。そこを、お前たちに助けられたわけだ」
 そこで、トゥーラは言葉を切った。言葉の痕跡は一切残らなかった。水をいくらひっかいたところで、何の傷も残らないのと同じで。時間はとまり、静寂は賑やかで、窓の外では雪が降り続いている。
 やがて、トゥーラは言った。
「お前たちは、歌い手(エンテ)≠ネのか?」
 途端に、その場に形のある何かが生まれた。影は立ちあがって、光は輪郭を強くする。静寂は速やかに去った。有能な舞台係か何かのように。
 アセリはその言葉を聞いて、そっとため息をついた。雪がつもるのより、なお小さな音だった。そのため息が、すべてを語っていた。だがこの少女は、自分からそのことを肯定する気はないらしい。星の光に似たその強い瞳が、その意志を示していた。
 気づかうような目で、ユニはアセリのほうを見た。二人のあいだで見えない会話のような、短いやりとりがあった。答えはすぐに出た。アセリは軽く肩をすくめてみせる。ユニはうなずいた。そして、貝の口が開いた。
「そうだよ、ぼくたちは聖別された子供(アンガレリア)≠ネんだ」
 トゥーラは驚きもしなかったし、非難もしなかった。そこにはただ、理解があった。左腕の痛み、夢で聞いた歌、二人だけ残された子供――そんな何もかもに対しての。
「だとしたら、この村で何が起こったのかは想像がつく」
 と、トゥーラは重々しく言った。
「貴重な子供を奴らがどうしようとしたかは、な。何しろ神の祝福を受けているんだ。利用価値はいくらでもある……だが、どうしてお前たちだけが残っているんだ?」
「みんなが、ぼくたちを匿ってくれたんだ」
 ユニは、それを見るものが戸惑うような微笑をした。それは光の輪郭を見ようとするように、はっきりとはしなかった。けれどじっと視線を逸らさずにいると、その形がわかった。それは悲しみが、そのまま花になったような微笑だった。
「オノルさんも、シェトさんも、ミメリアも、みんなぼくたちを隠してくれた。誰も、一言もいわなかった。お父さんも、お母さんも――」
 また、沈黙がやって来た。涙の跡を含んだ静かさだった。たくさんの涙の跡を含んだ静かさだった。そうして今となっては、それは涸れはてた井戸のように干からびていた。それがなおいっそう、いたましかった。
「……ここにいても、安全とはいえない」
 トゥーラは兵士としての厳しさでもって告げた。
「統一軍なら、歌い手≠ヘ保護してもらえる。俺たちは決して奴らのような真似はしない。お前たちは俺といっしょに軍本営に合流すべきだ」
 ところが、返事はすぐにかえってきた。言葉が終わるのとほとんど同時に。それはまるで、続けてセリフが話されたようだった。
「いいえ、わたしたちはどこにも行かないわ」
 アセリだった。星の光が前よりも強くなっている。彼女の態度は頑強だった。それは貝殻の弱々しさとは違う、もっと容赦のないものだった。その固さはむしろ、相手を圧倒した。
「何故だ? どちらにせよ、夢の見直し≠ヘ行われる。次の世界がはじまるんだ。ここに留まる必要はない」
「だから、戦争をするっていうの?」
 微笑した。冷笑、といったほうがいいかもしれない。
「この世界はもう死ぬんだ。ほかにどうしようがある?」
 トゥーラは不満そうに言った。アセリはどちらかといえば、それをなだめるように言う。
「わたしたちはただ、平和に暮らしたいだけよ」
「国中が血みどろの戦争をしている。平和なんてどこにもない」
「そんなの、わたしたちの望んだことじゃない」
「俺だって望みはしなかった!」
 トゥーラの声は苛立たしげに乱れた。
「だが、どうしようもない。選別は行われている。船の大きさは限られているんだ。誰もが死にゆくこの世界に取り残されないよう必死だ。だから奴らみたいに、神の怒りを利用してまで全体の数を減らそうとしている」
「あなたたちは、そうじゃないっていうの?」
 アセリの声はあくまで冷ややかだった。
「俺たちはそんな卑劣な行いはしない」
「じゃあ、どんな行いをするっていうの?」
 アセリの口元は皮肉に歪んだ。つまり、笑った。
「あなたたちだって、あの偽物の王≠ノ従ってる人たちとたいして変わりはしないわ。どっちも相手を殺すことばかり考えてる。恐怖と、焦りと、独善に憑かれて。自分たちが何をやっているのかもわかってない。そんなの、わたしはごめんよ。わたしは、そんな場所にはいたくない」
「…………」
 トゥーラは黙った。しかしそれは、押さえこまれた無言だった。唇のかすかな動きに、それが現れていた。籠の中で、甲虫が強く身動きするのに似ていた。彼は決して、納得はしていないのだ。それは訓練された兵士としての習性かもしれないし、この世界そのものの意志であるのかもしれない。
 それで、アセリは言葉を継いだ。相手を説得しようというのではない。そんな傲慢や打算で行うのではない。だがそれでも、伝えておくべきことはあった。
「……いいわ、明日、わたしたちが何をしているのかを見せてあげる」
 アセリはそう、ごく簡単な調子で言った。
 言葉にして返しもせずに、トゥーラはただ重々しくうなずいてみせた。


 翌朝、朝食をすませると三人はすぐに家を出た。大地は薄暗く、空は鉛色の雲に覆われていた。今にも雪を降らしたものかどうか、迷っているようにも見える。地面には昨夜のあいだに落ちてきた雪が踝のあたりまであった。吐く息は白く凍った。
 あたりは何か、予感をはらんだような雰囲気だった。身重の女が臨月を迎えた静かさである。糸はぴんと張りつめていた。爪弾けば音が鳴る。その音は、世界を壊すかもしれない。
 三人とも、無言だった。黙ったまま歩き続けた。機械的に、必然的に、抗いがたい運命へと向かうように。だがそこに、懼れはなかった。準備された緊張があるだけだった。すべては十分に覚悟されている。時計の針は正常に動いている。
 やがて、村を少し離れて森のそばまでやって来た。二人がトゥーラに、決して近づくなと警告した場所である。彼自身が気づくことはなかったが、そこはまた、トゥーラが雪の中で倒れていた場所の近くでもあった。
 森の端をぐるっと迂回したあたりで、二人は立ちどまった。トゥーラも立ちどまった。やはり、言葉はなかった。目の前のものが、すべてを語っていた。これ以上ないほど、圧倒的に語っていた。
 ――それは、墓だった。
 一つや、二つではない。ほとんど大地全体を覆わんとするほどの、無数の十字の屹立だった。木で作られた粗末な墓標が、見渡すかぎりに広がっている。
 この二人は、墓を掘っていたのだ。誰もいないこの村で、二人は。手が擦り切れているのは当然だった。むしろ、まだ五体満足でいることのほうが驚きだった。
「死体は森の中に転がってる」
 と、アセリはまるで独り言のように言った。どこか別の場所と、別の時間にいる誰かに話しかけるようだった。「――まだまだ、まだまだ転がってる」
 ユニは何も言わずに墓のあいだへと入っていった。曲がった十字架、地面から抜けそうな十字架を直しはじめる。そうするのが当然という態度だった。はじめから、そのために生まれてきたとでもいうような。
「あいつらは、みんなを殺したわ」
 アセリは同じ調子で言葉を続けた。その言葉は淡々としていた。淡々として、激しく乱れていた。
「大勢でやって来て、探しものを渡せって言うの。銃を持ってた。一人がいきなり撃たれた。何で撃たれたのかもわからなかった。そいつらはただ、渡せ、渡せ≠チて言うだけ。大人たちはすぐにわたしたちを隠してくれた。教会の古い墓地の下に。あいつらはわたしたちを見つけられなかった。そしたら、いきなりみんなを撃ちはじめた。何も言わないまま、草でも刈るみたいに無造作に。何の抵抗もしなくても、何にもわからなくても。大人でも、老人でも、病人でも――子供でも。わたしたちは墓の下でがたがた震えてた。まるで、地震にでもあったみたいに。やがてみんなは集められて、森のほうへ連れていかれた。あたりは急に静かになった。世界がすっかり壊れてしまったみたいに。撃たれた人たちもいなくなっていた。そして静かなまま、その静かさが消えることはなかった。それは今でも、やっぱり続いている」
 墓の一つで、ユニが立ちどまった。何かじっと、語りかけるようにたたずんでいる。誰か友達の墓でもあったのかもしれない。親しい隣家の人間、いつか優しくしてもらった老人――あるいは、両親の墓が。
「たった二人の子供を爆弾≠ノ使うために、それがあいつらのやったことよ。わたしたちは、もうたくさんだわ。新しい世界がはじまっても、きっとまた同じことが起こる。仮にあなたや、あなたたちがそれをしなかったとしても。結局、ずっと同じことが繰り返されるだけ。次の世界でも、その次の世界でも。永遠に。……それなら、わたしたちは世界をここで終わらせたい。きちんと、終わらせておきたい」
 しゃべり終えると、アセリはトゥーラのほうを見た。星の光が、挑むような目線だった。例え永遠に近い距離と時間を経たとしても、それは相手に届いた。強く結ばれた口元は一直線にまつろわなかった。そこには一つの意志があった。世界そのものと同じ重さを持った意志が。
「……わかった」
 しばらくして、トゥーラは言った。
「お前たちは、お前たちの意志を貫けばいい。それは、お前たちの自由だ」
 だが――と、この兵士は言った。
「俺は戦うよ。それが、俺の選んだ道だ。新しい世界がどんな場所であれ、俺はそこへ向かう。そこがろくでもないところでも、素晴らしいところでも、結局はまた作り直されるとしても。それが、人間の宿業だ。俺たちは続けなくちゃならない。例えそれが、どんなものだったとしても――」
 アセリは無言で彼を見た。トゥーラも無言で彼女を見た。視線が交わり、反応し、すれ違った。それはもう、永遠に交差することはなかった。
「……なら、わたしたちはここでお別れね」
 とアセリは言った。
「ああ、お別れだ……」
 とトゥーラも言った。

 ――ユニは無数の墓標の中で、まるで美しい魚のように歩き続けていた。

 数日して、左腕の元に戻ったトゥーラは村を離れた。彼は軍隊に帰投した。仲間たちはみな、その生存を喜んだ。だが、彼自身はそのあいだにあったことについては貝のように黙して、一言も語ろうとはしなかった。
 二人の子供たちについては、どうなったか私は知らない。きっと終わらない冬の中で、世界が終わるのを待っているはずだった。今も墓を掘りながら、ただ静かに、雪の降る音を、じっと聞きながら。

――Thanks for your reading.

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