[終わりの日]

 丘陵は緑に覆われているとはいえ、春はまだ遅く、冷気を含んだ風が吹きすぎていきます。みはるかす山々には雪が積もり、冷たい雪融け水がそろそろ流れ出そうとしていました。
 なだらかに続く丘の一つに、二人の少年がいました。一人は地面に横になり、もう一人はその傍らにじっと座っています。倒れている少年の髪は白く、傍らの少年は黒色の髪をしていました。二人とも粗末な麻の服を身にまとい、足には履物もしていません。もうずいぶん歩いてきたと見えて、足の裏は土で汚れ、服にもあちこちにしみがついています。
 見渡す限りにはなだらかな起伏を持った丘が続いていて、近くに村があるようにも見えません。少し遠出をするにしても、二人の格好はあまりそれにふさわしいともいえませんでした。
 何より二人は、すっかり疲れきっているように見えます。
「……」
 黒髪の少年が、心配そうに白髪の少年を見つめていました。横たわるように地面に身を置いたその少年の体は傷つき、血を流してもいます。呼吸は弱々しく、今にも息絶えてしまいそうに見えました。
 二人は、逃亡奴隷でした。
 戦争で捕まって、二人は西の国へと売りとばされたのです。大勢の仲間たちと共に送られたその先で、少年たちは過酷な労働に従事させられ、何人もの友達を失いました。
 ある夜、二人は逃亡を計画し、それを実行に移します。幸いにも、それは成功しました。が、白髪の少年はその途中で見つかって、傷を負うことになったのでした。
 それでも二人は何とかして、ここまで逃げてきました。追っ手を振り切り、もう捕まるような心配はありません。
 心配はありません――が、
「……」
 黒髪の少年はどうすることも出来ずに、白髪の少年の傍らに座っています。白髪の少年は大分前から、もう一歩も歩くことが出来なくなっていました。
 彼がいなくなったら、黒髪の少年はどうすればいいのでしょう。
 この広い世界に、彼はたった一人で残されることになってしまいます。
 それは、想像することさえ恐ろしいことでした。
 少年は膝を抱え込むように、少しだけうつむきます。風が吹いて、二人の少年の髪を揺らしました。冷たい、身を切るような風です。
 世界はまるで、二人のことになど見向きもしないようでした。
「……」
 その時、不意に、白髪の少年が何かを言いました。横になったまま、顔だけを向け、小さな、弱々しい声で。
 黒髪の少年はそれを聞いて、嫌がるように首を振って、白髪の少年に顔を近づけました。そして小さく叫ぶように、話しかけます。
 けれど白髪の少年は穏やかな笑顔を浮かべて、教え諭すように語りかけるばかりです。彼はもう、自分の運命を知っていました。
 黒髪の少年はそれでも精一杯に首を振って、何か励ますような言葉をかけました。たった一人で残されて、どうしてこの世界で生きていくことが出来るでしょう。
 けれど――
 けれどそれは、どうしようもないことだったのです。
 だから白髪の少年に出来るのは、一つしかありませんでした。彼は震える手を持ち上げ、黒髪の少年のほうへ伸ばします。黒髪の少年はそれに気づいて、その手を握りました。
 そして、白髪の少年は言います。
 ――生きろ。生きるんだ。生きて、生きて、生きなくちゃいけない。それがお前に出来ることのすべてだ。お前はまだ、生きているんだ。
 黒髪の少年は手を握りしめたまま、何も言えませんでした。彼はただ、黙ってその言葉を受け入れるしかありません。
 そしてしばらくすると、白髪の少年は息を引きとりました。
 黒髪の少年は、長いことそのまま座っていました。風が時折思い出したように吹きつけ、空を、白い雲が駆けるように過ぎていきます。世界はまるで、身動き一つしないかのようでした。
 やがて、陽が沈み、丘陵全体を赤く照らします。
 黒髪の少年はその頃になって、ようやく少年の死に気づいたとでもいうように、立ち上がりました。そしてふらふらと、おぼつかない足どりで歩きはじめます。
 丘を下りはじめてしばらくした頃、少年は急に泣きだしました。大声を上げて、大粒の涙を流して、しゃくりあげ、両手の甲で涙をぬぐって――それでも、歩き続けて。
 少年は泣きながら、どこまでもどこまでも歩き続けました。
 それが、約束でした。死んだ少年が残した、たった一つの約束。彼がいない世界でも生きていくこと、それが約束です。
 いつしか時刻は夜になり、道は山道にかかっていました。それでも少年は泣きながら、歩き続けていました。
 小さな峠を越える頃、山の麓には町の明かりがいくつも見えます。暗い海のような世界の中に、星のようにその光は輝いていました。
 それは、人が生きている明かりです。
 少年はその明かりの中に向かって、歩き続けました。

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