[王子と王女と人形使い]

 これはある小さな、古い王国のお話です。
 王国のそばにはそれよりなお古い、大きな森がありました。森には鬱蒼として樹が茂り、昼でも薄暗く、湿った空気が流れていました。森はいくつもの物語を抱え込み、子供たちを怖がらせたりもしました。
 けれど森は、人々に恵みをもたらす存在でもありました。人々はそこに牛や豚を放し、炭や薪といった燃料を得、おいしい木の実や香りのよいキノコを採り、日々の暮らしの糧としていました。
 また、木を伐り出して材木としたり、奥深くにわけいって動物の毛皮を獲ったり、珍しい薬草や植物を集めたりすることもできました。そうしたものは街できれいに加工され、他の国々へと売られていきました。森は王国にとっても、恵み多い存在だったのです。
 王国の人々はこの森のおかげで、豊かに暮らすことができました。街並みは美しく、道路は清潔で、人々は明るく笑っています。ここでは犬や猫だって、のんびりと暮らすことができました。
 そんな王国のお城ですが、これは大変慎ましやかで、簡素なものでした。といって、決してみすぼらしいわけでも、なおざりなわけでもありません。それは腕のよい職人が時間をかけ、丹精をこめて作った玩具のような、深い美しさと精緻な愛情がこめられていました。
 その品のよい玩具のようなお城には、もちろん王様が住んでいました。王様は大変立派で、頭のよい方でした。どんな問題が起こっても過不足なく、公平に解決することができました。王様は誰からも慕われて、またそれにふさわしいだけの器量も持っていました。
 さて、王様は立派なだけに、立派な奥さんをもらいました。もちろん、それは身分の高い貴族の娘さんでしたが、大変気高く、また正しい心の持ち主でした。彼女は王様を心から愛し、王様もまた彼女を心から愛しました。それはまったく、見るものがうらやむ気もなくすくらい幸せな光景でした。
 王様と王妃はそうして幸せに暮らしていましたが、それは長くは続きませんでした。ある時、王妃が亡くなってしまったのです。彼女は病気にかかり、眠るように死の床につきました。
 彼女が亡くなってしまうと、国中が悲しみに包まれましたが、とりわけ王様の嘆きは深く激しいものでした。王様はできることなら自分も一緒に死んでしまいたい、と思ったことでしょう。でももちろん、そんなことはできません。
 王妃が冷たい棺に納められ、土の下へと埋葬された時、王様の傍らには二人の子供がいました。男の子は王様の手を握ったまま、固い表情で埋葬の様子をじっと見つめていました。女の子は乳母の手に抱かれたまま、何事も解さぬ瞳で無邪気にその様子を眺めていました。
 それが王様と王妃の、二人の子供です。
 二人の子供は自分でもまだその大きさを知らないうちから、大切なもの失っていました。それは本当に、大切なものです。この広大無辺の世界という場所にあって、一つの拠りどころともなるべきものでした。
 エリトとサナリ――
 これは、二人のお話です。
 二人の、小さな子供たちのお話。

 母親がこの世界からいなくなった時、兄のエリトはようやく三歳、妹のサナリはまだ一歳になったばかりでした。その時、エリトはただ漠然と、普段とは違う何かを感じ、サナリは、抱きしめられるたびに良いにおいがして、安心することのできたその人がいなくなったことさえ、分からずにいました。二人はそれを悲しむことさえ、まだ知らずにいたのです。
 葬儀が終わり、喪も明ける頃になると、さまざまな人たちが王様に再婚をすすめました。王国で王様の次に偉い大臣から、下町の小さな靴屋の主人まで、実にさまざまな人たちです。王様はまだ若く、そうすることでまだ十分に幸せになれるように思えました。
 ここで王様が誰か他所の国の貴族の令嬢とでも結婚すれば、意地悪な継母と二人のお話、というふうになったかもしれません。あるいは、何とか二人と仲良くなろうと葛藤する一人の女性と、それに徐々に心を開いていく二人の子供のお話とも……。
 けれど結局のところ、お話はそのどちらにもなりませんでした。王様は誰とも結婚しなかったからです。王様は世界中の誰よりも、王妃のことを愛していました。もうその他に、誰をも好きになったりはしないだろう、というくらいに。
 そんなわけで、エリトとサナリの二人は母親のいないまま、父親である王様と暮らしていました。もちろん、お付の家庭教師や、世話役の侍女たちや、素敵なお話をしてくれる乳母なども、二人の周りにはいます。でも血のつながりというのは、何にも増して大きなものでした。
 王様は自分たちの子供である二人を育てるにあたって、できうる限りの事をしようとしていました。公平に、寛大に、そして深い愛情を持って――とはいえ、王様は時々二人にどう接してよいのか、分からなくなる時がありました。父親の難しさというものかもしれません。それに王様は、二人を見るたびに風のような悲しみを感じないわけにはいきませんでした。王様は王妃のことを、思い出さずにはいられなかったのです。
 二人――エリトとサナリは、そんな王様の心を知ってから知らずか、すくすくと素直な子供に育っていきました。二人は正しい心を持った、優しく、賢い子供たちでした。先生の言うことはよく聞き、困っている人がいると自然に手を貸し、悲しんでいる人がいれば一緒に泣いたりもしました。誰もが二人を愛しました。二人もみんなを愛しました。それは本当に素敵なお話です。誰も傷つかず、誰も傷つけません。それが二人の世界でした。

 ――というのは嘘です。

 そう、残念ながら、事実としてはまったくそうはなりませんでした。周りの人たちの苦労にもかかわらず、二人は正しい心を持つわけでも、優しいわけでも、賢いわけでもありませんでした。
 簡単にいって、二人は身勝手で、わがままで、思いやりのない子供たちでした。兄のエリトは自分が失敗してもすぐに人のせいにし、妹のサナリは都合の悪いことがあるとすぐに泣き出しました。二人とも、素直に謝るということがなかったのです。二人には、子供らしい可愛げというものがありませんでした。
 王様はもちろん、お付きの家庭教師も、世話役の侍女たちも、素敵なお話をしてくれる乳母も、そのことには頭を痛めていました。どんなに厳しく叱っても、どんなに優しく接しても、二人の性格が変わることはありません。それはまるで、何かの呪いのようでさえありました。誰かが、二人の心を機械仕掛けの偽物と取り替えてしまったのです。
 王様は時々、思います。もし本当にそうだったら、どんなにか楽だろう、と。少なくともそこには、解決すべき、揺るぎようのない問題がありました。そしてそれは、ある種の物語に従って解決されるはずの問題です。
 けれどそう、簡単にはいきません。
 今ここにある問題は、そうやって解決される種類のものではありませんでした。魔法の杖も、神秘の薬も、ここにはありません。そもそも、それが問題なのかどうかさえ、はっきりとはしませんでした。だからこそ、王様は悩んでいたのです。
 けれども時間だけは過ぎ、子供たちは順調に大きくなっていきました。
 何年かが過ぎた頃のことです。
 二人は大きくなりましたが、その性格は相変わらずでした。エリトは面倒があるとすぐに逃げ出し、サナリはちょっとしたことですぐに泣き出しました。とはいえ、時の流れは二人の姿を王子と王女らしく変化させていました。
 エリトは黒髪の、一見涼やかな表情をした少年になっています。顔立ちはまだあどけないものの、その輪郭は次第に細くなりはじめており、大人びた知性を感じさせました。二つの瞳は深い闇をそのまま切りとってきたかのように、神秘的な黒をたたえています。エリトはどちらかといえば、王様に似ていました。
 一方、サナリは金髪碧眼の、人形のように可愛らしい風貌をした少女でした。その髪は陽光を集めたように柔らかな温もりを帯び、逆に瞳は澄んだ湖の水をすくいとったような冷たい青色をしていました。サナリはどちらかといえば、王妃に似ています。
 二人の美しい王子と王女は、街でも評判でした。絹の服にビロードのマント、輝く宝石を身に着けて二人が姿を見せると、誰もがうっとりと見とれずにはいられませんでした。そして人々は二人が行ってしまうと、さすがは王様と王妃様の子供だ、と噂しあいました。
 もちろん、その噂の中に二人の本当の姿は含まれていません。だって、お城の人々は誰も、そんなことを話したりはしなかったからです。話す必要など、どこにもありませんでした。
 そんなわけで、二人の美しい子供たちの美しい秘密は守られ、二人は美しい姿のまま、人々の噂の中で美しく生きつづけていました。もちろん、誰にとっても、そのほうがいくらか幸せなことではあったでしょう。
 とはいえ、そんな噂話は二人にとってチーズ一欠片ほどの意味も持ってはいませんでした。それは食べることも飲むことも、焼くことも煮ることもできません。ただの噂です。それに二人は噂話のことを知りませんでした。
 二人はお城の中で、それとは気づかずにいろんな人々に守られていました。二人がそのことに感謝することはありません。知らないことには、感謝のしようがないからです。二人はある意味では、底抜けに素直な子供たちでした。

 さて、お城では一年に一度、必ず開かれるお祝い事があります。毎年に一度は、必ずその日がやってきました。それは、王様の誕生日です。これは一年に一度は必ずあって、おまけに二度はありません。
 子供の誕生日、仕立て屋の主人の誕生日、猫の誕生日、数ある誕生日のうちでも、王様の誕生日は一等、特別なものでした。それは三日の間をかけてお祝いされます。王国の各地からはお祝いの品が届けられ、街中をパレードが行進し、たくさんの催し物が開かれ、数え切れないほどの花火が空に上がりました。
 そして王様のお祝いの席には、珍しい見世物を披露する芸人たちが何人も呼ばれていました。彼らは王様の御前に進み、その芸を披露するのです。
 ――人形使いは、そうした芸人たちの一人でした。

 王様の誕生日は、街の人々にとっても特別なお祝い事です。
 三日間続くお祝いを、街では誰もが陽気に浮かれて過ごします。飲み物や食べ物はお城の倉庫からいっぱいに運び出され、この日のために用意された山車が街中を練り歩き、街の辻々には楽師たちが立って、とびきり愉快な音楽を演奏します。街中が華やかに彩られて、子供たちはきゃっきゃと歓声を上げながらそこら中を駆け回り、普段そんな子供たちを叱りつける大人たちでさえ、それは同じでした。
 その三日間は、誰にとっても特別な時間だったのです。
 人々は誰もが一日のはじまりを待ちわび、にぎやかで盛大な一日を満足して過ごし、次の一日を待ち遠しく思いながら、落ち着かない幸せな眠りにつきます。そうしてまた、同じように幸せでわくわくするような一日がはじまるのを待つのです。中にはできる限り一日を長く過ごそうと思って、とうとう次の日の朝を迎えるまで起きている人たちもいます。もちろん、そうした人たちの傍らにはいつも、ビールのジョッキやワインのグラスが置かれているのはいうまでもありません。そしてその大半は、明るい光の中で道路の片隅に寝転がることになるのでした。
 一方、お城ではそれよりいささか上品にお祝いがなされていました。昼の間、中庭では勇壮な騎馬試合が行われ、夜になると大広間では舞踏会が開かれます。来客者には上等な飲み物や食べ物が豪勢に振る舞われ、立派な身なりの貴族や、優雅に着飾った貴婦人が姿を見せます。
 王様は招待客の挨拶を受けたり、王子と王女を連れて試合を見物に出たり、芸人たちの芸をご覧になったりしました。芸人たちはお城の一室に連れてこられ、正面に王様、左右に王子と王女を前にしながら、自慢の技を披露しました。恐ろしく高い竹馬に乗る者、華麗で流麗な踊りを披露する者、数え切れないほどのボールを一度も地面につけずに操る者、恐ろしい猛獣を鞭一本で自由自在に操る者。
 芸人たちは一人ずつ、三日間かけてその芸を披露しました。どの芸人たちも立派に、また大変誇らしく思いながらその技を披露しました。王様は上品に微笑みながら、楽しそうにそうした芸を眺めていました。身分の高い人間は、人前でげらげら笑ったりはしないからです。とはいえ、げらげら笑うほど面白かったかどうかは分かりませんが。
 三日間続いたお祝いの最後の日に、人形使いはやって来ました。
 その日、お祝いはことに盛大に行われました。お城の倉庫からは、それまでのお祭りの分を合わせて二倍にしたほどの食べ物や飲み物が運び出され、人々は深い深い夢の中にでもいるように浮かれ騒ぎました。
 人形使いは、その深い深い夢の底から現れるように、街にやって来ました。
 旅芸人だったのでしょうか、その男は街の通りに立って、芸を見せはじめました。それは不思議な光景でした。糸もつけずに人形がくるくると動き回るのです。人形は丁寧にお辞儀をし、上手にダンスを踊りました。男はそれを楽しそうに眺めているだけです。
 この珍しい人形の元にはたちまち大勢の人たちが集まって、評判になりました。誰かが、これは王様にもお見せすべきだ、と言いました。
 人形使いは王様のことも誕生祝いのことも知らない、と言いました。ただ賑やかそうだからこの街にやってきたのだ、と。
 それはともかく、人形使いはしかるべき手続きを踏んだのち、お城へとやって来ました。急な話だったので時間がとれず、人形使いの前に芸をやるはずだった手品師の時間が、半分ほど削られました。手品師はぶつくさ文句を言いました。もちろんそれは誰にも聞こえないように、心の中でです。
 手品師の鳩を出す芸が終わると、人形使いが広間へとやって来ました。人形使いは特に緊張するでも、怯えるでもなく、にこにことした表情をしています。
 人形使いの男はまだ若い、人の好さそうな青年でした。その髪も瞳も灰色で、おまけにそれと同じ灰色の服を着ていました。全身灰色で、まるで体全体が世界からくすんで見えるようにさえ思えます。背中には人形を入れておくためらしい、赤い箱をかついでいました。
「大変珍しい芸をするとか」
 王様が、イスの上から声をかけます。
「それほどのものでは」
 人形使いは畏まって答えました。
 それから人形使いは背中の箱を下ろし、中から一体の人形を取り出しました。その人形は猫の顔をして、全体が白く輝く銀で作られていました。瞳は真珠、鼻には黒水晶がつけられ、羽飾りのついた帽子をかぶり、ラピスラズリで染められた鮮やかな青い服を身にまとっています。それは、実に美しい人形でした。
「それでは、この猫めにダンスをさせてみましょう」
 人形使いはそう言って、人形の耳元に何かを囁きました。
 すると猫はぴょこんと立ち上がり、王様や王子や王女に向かって丁寧なお辞儀をしました。それから帽子をかぶりなおすと、猫の人形は華麗な足どりでステップを踏みはじめます。猫の人形はつむじ風のように、春のそよ風のように踊りました。それはまったく、見事なものでした。
「実に見事なものだ」
 王様も言いました。王様は相変わらず、にこにこと上品に微笑んでいました。王様は決して取り乱したり、大げさに手を叩いたりはしません。
 けれど王様の隣で、エリトとサナリは興奮していました。二人は手を叩いて、すごい、すごい、と喜びました。何しろ美しい人形が美しく踊っているのです。無理のないことでした。二人は今すぐにでも飛んでいって、人形と一緒に踊りたいと思っていましたが、さすがにそんなことはしませんでした。二人は一応、王子と王女だったからです。
 やがてひとしきり踊りが終わると、猫の人形はくるりと宙返りを打って、また丁寧にお辞儀をしました。お辞儀をすると、猫の人形は途端に糸の切れたように動きを止めました。人形使いは猫をつかんで、また元のように箱の中へと戻します。
「大変喜んでいただけたようで、光栄です」
 人形使いの青年は微笑んで、王子と王女のほうを見て言いました。
「つきましては、ここでとっておきの技を披露したいと思います。私は滅多にこんなことはしないんですが、今日は特別です。特別な日には、特別なことをするものですからね」
 エリトとサナリはすぐさま、「見たい見たい」と言いました。二人は人形使いの技に、すっかり夢中になっていました。おかげで、王様が何か言いたげな様子をしていることにも気づきません。こうなってはもう、断るわけにもいきませんでした。
 王様はやれやれといった感じで、
「では、見せてもらおう」
 と、うながしました。
 人形使いは深々と頭を下げると、にっこりしました。それから辺りを見回して、
「失礼ですがどなたか、お身つけの品を貸してはもらえないでしょうか。それもできるだけ、本人ご愛用の、愛着の深いものほど結構です。自分の分身であるような……というのは、この技をするには、どうしてもそうした品が必要だからです」
 人形使いがそう言うと、その場にいた人々はざわめいて互いを見つめあいました。壁際には王様の親衛隊や、国で二番目に偉い大臣や、王宮の書記官などが控えていました。誰もがこの突然の申し出に戸惑っています。
 結局、人形使いには大臣の眼鏡が渡されました。何しろ王様にお見せするものですから、あまり身分の低い者のものは渡せません。かといって王様本人のものを渡すのも考えものでした。というわけで、結局大臣の眼鏡が渡されることになったのです。
 人形使いはうやうやしく大臣の眼鏡を受けとると、さっそく例の箱から人形を一つ取り出しました。
 今度の人形は猫の顔をしていません。どころか、そこにはどんな顔も描かれてはいませんでした。黒い、つるりとしたのっぺらぼうです。人形には手や足もついていましたが、それは細い、骨のような形をしていました。どことなく不気味な感じのする人形です。
 人形使いはその人形を床に座らせると、顔に大臣から借りた眼鏡をかけさせました。人形使いは猫の人形と同じように、その耳に何かを囁きかけると、一枚の大きな布を取り出して人形を覆ってしまいます。
 広間にいた人間は全員、これから何がはじまるのかと、固唾をのんで見守っていました。エリトとサナリも、もちろんです。王様だけが、いつもと同じように落ち着いていました。
「では、とっておきの技をご覧に入れましょう」
 人形使いは周囲が静まりかえったのを見計らって、そう告げました。そして一息に、人形にかけた布を取り払ってしまいます。
 するとそこには、大臣とそっくり同じ姿をした人形が、座っていました。
 人々の間で声にならない驚きが、油を引いたようにゆっくりと広がっていきます。何人かはちらりと本物の大臣のほうを見、何人かはその光景を疑うように目をこすりました。けれどどう見ても、そこには大臣が二人いるようにしか見えません。
 そんな人々の驚きと戸惑いをよそに、大臣の姿をした人形――眼鏡をかけているだけに、今や本物より本物らしい人形――はゆっくりと立ち上がり、辺りを見回しました。まるで自分のほうこそが、人々を見物しているのだ、というように。
 やがて人形は本物の大臣の姿を見つけると、にやりとして言いました。
「やあやあ、そこにいるのは、うむ、まさしく私自身ではありませんか」
 人形の大臣は大げさに手を振って見せて、本物の大臣のほうへと近づいていきました。
「どうしたんですか? そんなに驚いた顔をして。や、顔が真っ青じゃありませんか。私は、うむ、昔から胃が丈夫ではないのです。そんなふうに気を弱らせていると、また体を壊してしまいますよ。私はもう少し、私の健康に気をつけたほうがよいと思うのですがね、うむ」
 人形の大臣はつかつかと本物の大臣のほうに歩みよりながら、言います。本物の大臣はぶるぶる震えながら、言葉もありませんでした。それはまったく、奇妙な光景です。ある日鏡を見ていたら、ひょっこり向こうから話しかけてきた、というような――
 人形の大臣がなおもそばにやってくると、本物の大臣は卒倒して、とうとう倒れてしまいました。近衛兵たちが、慌てて大臣を介抱に向かいます。今やそこには、模倣者が存在しているきりでした。
「――」
 王様は言葉を閉ざして立ち上がり、後ろの扉から無言のまま退出してしまいました。
 その隣でエリトとサナリは、この奇妙な芸にすっかり感心して、夢中になっていました。
 そして人形使いは一連の動きの中、広間の真ん中でただ一人、にこにこと笑っていました。

 騒然とした広間の中で、エリトとサナリは人形使いの技にすっかり夢中になっていました。まるで鏡から取り出したように、その人そっくりの姿の人形が現れるのです。それはとても面白い遊びのように思えました。あれなら、自分にだって会うことができます。
 そしたら一体、何を尋ねるでしょう――?
 けれど王様が席を立つと同時に、人形使いも広間から外へと連れ出されていました。大臣は卒倒したまま運び出され、広間の中はしばらくの間、間の悪い沈黙でいっぱいでした。
 やがて書記官の一人が気を取り直すように全員の退出を告げ、エリトとサナリも側役に連れられて自分たちの部屋へと戻ります。二人はちょっと不満そうにしながらも、大人しくそれに従いました。他の人々も、どことなく気まずい雰囲気のまま広間をあとにします。
 エリトとサナリが廊下を歩いていると、外ではもう、陽が沈みはじめていました。窓の向こうに見える街並みは、所々に灯が点りはじめ、遠い賑わいが伝わってくるようです。
 エリトは歩きながら、訊ねてみました。
「ねえ、あの人形使いはもう来ないの?」
 前を歩いていた側役の男は振り返り、少しの間考えるように黙っていました。エリトはいつものように、「本当は興味はないんだけど」というような態度を見せるため、無関心そうに窓の外を眺めています。
 男は前に向き直り、歩き続けながら、
「私には分かりません。あの男は偶然街にやって来たと聞いてますし、王様はあまりお気に召さなかったようですから」
「ふうん」
 エリトは内心はともかく、どうでもよさそうに返事をしました。この少年はそういうポーズをとらないと落ち着けないのです。隣ではサナリが、がっかりしたように不満げな顔を見せていました。
 二人が自分たちの部屋に戻ると、実直な側役の男は一礼したあとで、去っていきました。お祝いはまだ続きますが、陽が沈むと二人はもう部屋を出してはもらえないのです。
「あーあ、あの人形もっと見てたかったな」
 サナリはベッドに腰かけて、ぬいぐるみを抱えながら言いました。その隣には、エリトのベッドが並んでいます。エリトは寝室のイスに腰かけて、暗い窓の外を眺めていました。
「そんなに見てたかったら、何で自分で頼まないんだよ」
 エリトはサナリを見ようともせずに、言います。
「だって、どうせ誰も聞いてくれないし」
「じゃあ見たいなんていうなよ」
 冷たい一言に、サナリはくしゃくしゃと表情を歪めます。エリトはいらだつように一瞥したきり、泣きそうな妹を無視しました。
 二人は不愉快そうな顔をしたまま、黙りこんでしまいます。とはいえ、二人とも同じ思いを抱えていました。二人はもっと人形使いの芸を見ていたかったのです。
 部屋が暗くなると、テーブルのランタンだけが小さな明かりを灯していました。大きな窓の外にはお菓子のような星々が輝き、街のシルエットだけが浮かんでいます。時々、花火が打ちあがり、色とりどりの光が一瞬だけ影を作り、そして消えていきました。
 サナリはぬいぐるみを抱えたまま、何気なく花火のほうを見ていました。花火は大きな音と光の粒を撒き散らしては、次々に上がっていきます。その光の中で、サナリは奇妙なことに気づきました。花火が輝くたびに、窓の外に何かの影が見えるのです。
「――?」
 それが何なのか、サナリにはなかなか分かりませんでした。でも間違いなく、そこには何かがいます。
「お兄ちゃん、窓の外――」
 サナリは少し怯えるようにぎゅっとぬいぐるみをつかみ、窓のほうを指さしました。
「……」
 エリトもいつからか、それに気づいていたようです。無言のまま立ち上がって、慎重に窓の方へと向かいます。
 また、花火が上がりました。
 光に照らし出され、そこにいたものの姿が浮かび上がります。
 窓の外にいたのは、猫の人形でした。
 猫の人形は真珠の瞳をきらきらさせながら、そこに立っています。それは人形使いが広間で見せた、あの人形でした。姿形から着ているものまで、何もかもそっくり同じです。
 エリトはそっと窓を開けて、様子をうかがいました。そこにはベランダなどは何もなく、猫の人形は狭い張り出しにじっと立っています。
 しばらくすると、猫の人形は音もなく部屋の中へと入ってきました。エリトはテーブルのところに戻って、ランタンの明かりを近づけます。猫の人形は逃げるそぶりもありません。
「あの時の猫さんだ」
 サナリは思わず嬉しそうな声を上げていました。エリトはさすがに、不審に思っています。とはいえ、どうしてこんな場所にあの時の人形がいるのか、エリトにも分かりませんでした。
 しばらくすると、猫の人形は二人の間を抜けて、外へ続く扉の方へと向かいました。猫の人形は背を伸ばすようにドアのノブを回し、扉を開けていました。サナリは慌てたようにぬいぐるみを捨て、ベッドから降りてそのあとを追います。
 エリトはそれを見ると、少し迷いました。けれどエリトは別の部屋の引き出しを開けて、古い指輪を取り出し、同じようにあとを追いました。その指輪は亡くなった王妃の形見の品で、王様が二人に渡しておいたものです。何かのお守りのつもりだったのか、はたまたそれを手元においておくのが心につらかったのか、それは分かりません。
 ともかく、エリトは母親の形見であるその指輪を持って、妹と、猫の人形のあとを追いました。猫の人形のあとについて行けば、人形使いのところに案内してもらえる、ということが、エリトにはすぐさま分かりました。そこでエリトはついていくべきかどうかを迷い、結局、母親の指輪を持ち出すことにしたのです。死んだ人間では大臣にやったようなことができない、ということもないでしょう。
 猫の人形はとことことお城の廊下に出て、きょろきょろ辺りを見回すと、右に折れて駆けはじめます。
「待って、猫さん――」
 サナリは部屋を出ると、急いであとを追いかけます。猫の人形は数メートル先を、ちょうど追いつけないくらいのスピードで走っていました。立ち止まっていては、すぐに見失ってしまいます。
 そうしてサナリがあとを追うのを、少し遅れてエリトがまた追いかけました。猫の人形、サナリ、エリト。お城の廊下にはロウソクの明かりが灯されていて、三つの影がぐるぐると追いかけっこをしています。
 不思議なことに、廊下には人影が一つもなく、ただ二人の靴音だけが夢のように響いていました。あんなに大きかった花火の音も聞こえず、まるで深い水の底にでもいるようです。すべては別の世界の出来事のようでした。
 いくつかの角を曲がり、いくつかの階段を下り、いくつかの廊下を過ぎるうち、お城の裏口へとやって来ました。裏口の門は開いていて、向こうには夜の闇が広がっています。
 猫の人形はそのまま躊躇することなく裏口を抜けていきます。サナリは一度だけ、追いついてきたエリトのほうを見て、それから二人は猫の人形のあとを追いました。それは二人のほうこそが、人形に操られている、というようでもあります。
 裏庭を抜け、街の建物の間を通り、小さな石橋の上を渡りました。ここにも不思議なことに、人影はありません。祭りで浮かれ騒いでいるはずの街は、まるで死んでしまったように静かでした。煌々と照る月明かりが、すべての時間を停止させてしまったかのようです。
 やがて猫の人形は森の中へやって来ると、小さな道へと入っていきました。森は不気味なほど静まり返って、ひっくり返った闇がひそやかに息づいているようです。けれど二人とももはや怖れることさえ忘れ、猫の人形のあとを追っていきました。月明かりのためか、道は白く浮かび上がっているようにも見えます。
 猫の人形はどんどん森の奥へと入っていきました。奥へ奥へと向かうたび、暗闇はゆっくりと両側から迫ってくるようです。
 けれど――
 不意に視界が開け、二人は森の空き地へと足を踏み入れていました。そこには下草が絨緞のように生えそろい、真ん中には大きな木が一本生えています。月明かりの白い光が、木の下に濃い闇を作っていました。
 二人が空き地の入り口で立ち止まっていると、猫の人形は木の下の影近くにまで行って、ようやく足を止めました。そこにはどうやら、誰かがいるようです。
 エリトとサナリは顔を見あわせてから、その影のそばへと進みました。猫の人形は二人を待つようにじっとしています。最後まで見届けるのが、その役割のようでした。
 二人が影から数メートルのところにまで来ると、ようやく影の中からその人物は現れました。全身が灰色で、赤い箱を担ぎ、顔にはにこにこと笑顔を浮かべています。
 人形使いでした。
「王子様と王女様には当地までご足労いただき、大変光栄なことと存じております……」
 人形使いはおどけた口調でそう言うと、おどけた仕草でおどけたお辞儀をしました。
「この猫めにご案内させましたが、途中不都合などございませんでしたか? 何しろ踊ることにしか能のない、しがない人形でございますから」
 二人はここでようやく不安になってきたのか、辺りをきょろきょろと見回しました。そこにはもちろん、人形使いと二人のほかには誰もいません。二人を守ってくれる人は、遠くお城の中にいました。
「いえいえ、心配はいりません」
 人形使いはそう言って、いっそうにこにことした笑顔を浮かべました。言葉使いも元に戻します。
「二人には私のささやかな贈り物を受けとってもらいたいと思っただけです。きっと気に入ってもらえますよ。何しろこれは、王様の前ですら見せない、とっておきの芸ですからね」
 そう言われて、二人はおっかなびっくりしながらもやはりその芸を見てみたい気になりました。何せ王様にさえ見せたりはしないというのです。
「どんなの?」と、エリト。
「見たい、見たい」と、サナリ。
 二人がはしゃぎはじめると、人形使いはにっこりとして箱を下ろし、その中から一体の人形を取り出しました。
 その人形は木の枝をいっぱい集めた、みのむしのような格好をしていました。目の部分だけに穴が空いて、そこに黄色く光る丸い目がついています。その他は手の先から足の先まで、枯れ枝のようなもので覆われていました。背中には、白い袋のようなものを担いでいます。
「なに、これ?」
 サナリがおかしそうに言います。まったく、不恰好で変てこな人形でした。
「これは私が遠い国で見つけた珍しい人形です。大変優れた力を持っているんですよ」
 人形使いがそう言っても、サナリはおかしそうに笑っています。エリトもその隣で、やはりおかしそうに笑っていました。二人とも、人形使いの言うことなんて聞いてはいません。
「やれやれ、仕方ない……」
 人形使いは一度ため息をつくと、その人形に向かって何か囁きかけました。そうすると人形はそれまでと同じように、ゆっくりと動きはじめます。
 その人形は事態がうまく飲み込めないような感じで、のろのろと辺りを見回しました。ひどく、ひょうきんな仕草です。サナリはまた笑いました。
 人形使いはちょっとうんざりした顔をしてから、
「さあ、君の特技を見せてやってくれ」
 と声をかけます。
 みのむしの人形はしばらく人形使いを眺め、ようやくことを理解した、というふうにのろのろと動きはじめました。人形は袋を下ろし、その中からきらきらと光る粉を取り出します。
 それから人形はその粉を、二人のほうへと吹き散らしました。
 二人は不思議そうにその光景を眺めていました。二人にはもちろん、それが何を意味するのかなどということは分かりません。光る粉はふわふわと二人の周りを漂い、それはまるで小さな星の欠片に包まれているようでした。
 やがて二人のまぶたはゆっくりと、閉じはじめていました。あまりにも眠すぎて、それが眠いのだということさえ分からないくらいです。それはまるで、夢の中から誰かが手を伸ばし、二人を急に引っ張り込もうとしているかのようでした。
「なんだか、急に、ねむく……」
 エリトは必死に目をこすって、何とか意識を保とうとしました。けれどそれは、沈みかけた舟から水をかい出そうとするように甲斐のない行為でした。隣ではサナリが、エリトの体によりかかってすっかり眠ってしまっています。
 やがてエリトもその場に座り込んで、ぐっすりと眠りこんでしまいました。二人は仲良く並んで、深い眠りについています。釣り糸をたらせば魚が釣れそうなくらい、深い眠りです。
 人形使いはその前で、にこにこと笑っていました。もちろん二人を眠らせたのは、人形使いのしわざです。みのむしの人形には、人の眠りを誘う力がありました。
「それでは、次に取りかかるとしようか」
 人形使いは誰に言うでもなく呟いて、箱の中を探しはじめました。目的のものはなかなか見つからないとみえて、人形使いは散々に箱の中をひっかきまわして、ようやくのことでそれを見つけます。
 箱から離れ、立ち上がった時、人形使いの手には何もありませんでした。
 いえ――違います。
 地面に焼きついた人形使いの影には、しっかりと〈鋏〉が握られていました。皮細工職人が使うような、がっしりとした、大きな鋏です。人形使い本人の手には何も握られていないのに、その影にはしっかりとその〈鋏〉が握られていました。
 人形使いは確認するように、指を動かしました。すると影に握られた〈鋏〉も、その通りに開いたり、閉じたりをしました。
 それから人形使いは二人のそばに近づいて、その影に、〈鋏〉の影を当てました。人形使いが〈鋏〉を動かすと、人形使いの影は二人の影を、ちょきちょきと切りはじめます。〈鋏〉は滑らかに、ひときれの無駄もなく影を切りとりました。
 二人の影がすっかりその体から離れてしまうと、人形使いは出来具合を確かめるように二枚の影を手にとりました。切りとられた影はぺらんとして弱々しく、まるで影らしくは見えません。
 人形使いはひとしきり検分を終えたあと、満足したように影を置き、箱のところへと戻りました。箱の中から人形使いは、二体の人形を取り出します。
 それは黒いのっぺらぼうの、骨のような体をした、例の人形でした。
 人形使いはその人形の耳元に、囁きかけます。
「さあ、食餌≠フ時間だよ――」
 二体の人形はぎこちなく動きはじめ、四つんばいのまま、地面に置かれた影のところへと向かいます。人形は飢えた山犬のような格好でのそのそと影のそばにまで近よると、くんくんと鼻を鳴らしました。
 そして影がそこにあることを確認すると――
 彼らは真っ赤な口をあけて、またたくまにそれを食べてしまいました。

 森の中に朝陽がのぼってくると、エリトとサナリは目を覚ましました。二人はまだ寝ぼけまなこで、ここがどこなのかもうまく思い出せません。森の空気は少し肌寒いくらいにひんやりとして、朝の鳥たちの声が響きはじめていました。
 エリトは目をこすり、何度か頭を振って、意識をはっきりさせようとします。何故だかひどく、嫌な夢を見たような気がしました。夢の余韻がまだ体に残っているのか、気分はひどく悪いものでした。
「ここ、どこ?」
 サナリが隣で、眠たそうに呟きます。サナリはまだ目もはっきりとは開けていませんでした。
(どこだっけ――?)
 エリトはゆっくり立ち上がって、辺りを見回しました。夢と現実の境界が曖昧で、どこからが夢でどこからが現実なのかはっきりしません。エリトの意識は古い錆びたネジを巻くように、なかなか回復しませんでした。
 けれどもしばらくして、エリトは自分がどうしてこんな場所にいるのか、段々と思い出しはじめていました。昨日、お城を抜け出し、猫の人形に連れられて、ここにやって来たのです。それから――
 それから、どうしたのでしょう?
 エリトはもう一度辺りを見回しました。二人は大きな木の影の中にいて、その木に背をもたれて眠っていたようです。隣ではサナリがまだ眠たそうに座り込んでいます。辺りには、二人以外の人影はありませんでした。
「ねえ、影ちゃんとついてるかな?」
 サナリがようやく目をこすりながら、訊ねました。
 そう言われて、エリトははっとしました。そういえば夢の中で、そんなことがあったような気もします。自分たちの影が、鋏でちょきちょきと切り離されてしまって……
 エリトは慌てて、太陽の下に出てみました。自分にちゃんと影がついているのかどうか、不安だったのです。
 けれどそこには、きちんと自分の影が写っていました。
 エリトはほっと、ため息をつきました。きっと、すべては夢の話だったのです。影が切りとられてしまうなんて、そんな馬鹿なことがあるはずはありません。自分たちはここに来て、人形使いの芸を見て、それから疲れて眠ってしまったのです。そうに違いありません。
「ねえお兄ちゃん、影は……?」
「ちゃんとついてるよ」
 エリトは振り返って、照れ隠しのように苛立った声で返事をしました。ほっと安心したのと、そんな子供じみたことで不安になったのが、エリトには我ながら恥ずかしく思えたのでした。
「そうなんだ、よかった」
 サナリは安心して、また眠りにつこうとします。エリトはそんなサナリを小突いて、言いました。
「お城に帰るぞ。早くしないと、みんなに怒られるからな。そうなったらお前のせいだぞ」
 言うなり、エリトはさっさと歩き出してしまいました。サナリは慌てて、「待ってよー」と言いながら、立ち上がります。サナリはちょっと泣きそうになりながら、エリトのあとを追いかけました。
 帰り道は、エリトが覚えていました。森の中の小さな小道を通り、その間サナリは迷わないように両手でエリトの腕をつかんでいます。朝の白い光に包まれた森は、ゆっくりと目覚めはじめているかのように静かでした。
 しばらくすると、二人は街に戻ります。街は、まるで夢から覚めたばかりのようにどことなくぎこちない空気が漂っているものの、人々はまた、日々の生活に戻ろうとしていました。畑から作物を運ぶ荷車や、水汲みの女たちが行きかい、夢の残骸のようにあちこちに転がるごみを片づけている人もいます。
 辺りに漂う漠然とした音の気配を抜けて、二人はお城を目指しました。石橋を渡り、建物の間を抜け、裏口へと向かいます。二人が歩いていても、誰も気にとめる者はありません。
 お城の裏口までやって来ると、陽はすでに昇りきり、二人の番兵が門の脇を固めていました。エリトが厄介そうに立ち止まり、サナリがぼんやりとエリトの顔を見上げます。
 もちろん、エリトにすれば誰にも見られずに自分たちの部屋まで戻りたいところでした。昨日、お城の外にいたことが分かると、いろいろ面倒だからです。でもそれはやはり、難しいところでした。どの道、今頃は二人がいなくなったことに、みんなが気づいていることでしょう。
 エリトは覚悟を決め、できるだけ堂々として門を通り抜けようとしました。サナリはエリトの手を握って、大人しくその後について行きます。サナリは兄ほどには、いろいろ考えてはいませんでした。
 二人が何も言わずに門をくぐろうとすると、右にいた兵士のほうがエリトの肩をつかみました。
「どこに行くつもりだ?」
 と、兵士は尋ねます。
 エリトはその兵士の無礼な口のきき方に、一瞬むっとしました。けれど、努めて平静な態度を崩そうとはせずに、
「中に戻るんだ」
「どこだって?」
「この手を離せ」
 エリトは兵士の手を肩から払い落とします。兵士はちょっと面食らったように手を引っ込め、エリトのほうを眺めました。
「城に用事でもあるのか、坊主」
 左の兵士が尋ねます。その言い方に、エリトはまたむっとしました。
「お前たちは自分たちの国の王子の顔も知らないのか。それでよくお城の兵士なんてやっていられるな」
 そう言うと、二人の兵士は顔を見あわせ、それからエリトのことをしげしげと眺めました。
「お前が王子様?」
 右の兵士が尋ねます。
「そうだ」
「じゃあ、そっちの女の子は王女様か?」
 左の兵士が尋ねます。
「そうだ」
 二人の兵士はもう一度顔を見あわせ、それから突然、大笑いをはじめました。エリトもサナリもびっくりして、怒ることさえできません。
「お前が王子様だって」
 右の兵士が笑いながら言いました。
「冗談じゃない。お前たちは王子様にも王女様にも、少しも似てなんかいないじゃないか。第一、影≠フない人間が誰か≠ナあるはずがないじゃないか」
 エリトもサナリも、びっくりしました。この兵士たちは、一体何を言っているのでしょう……。
「だって僕たちは」
「さあさあ、お遊びはこれくらいにしておくんだな」
 左の兵士がエリトの言葉をさえぎって、うるさそうに言います。
「俺たちだって暇じゃないんだ。これ以上からかうつもりなら、容赦なく叩き出すぞ。悪いことは言わないから、家に帰ってもっと他の遊びをやりな。それから、もう二度とここには来るんじゃないぞ」
 二人の兵士にはもう、とりつく島もなさそうでした。エリトは大人しく引き下がります。サナリはそんなエリトにくっついて、名残惜しそうにしながら、とりあえずその場を去りました。けれどエリトにすればそれは、諦めたというよりも、ひどい混乱のためでした。兵士が何を言っているのか理解するのが精一杯で、それ以上どうすることもできなかったのです。
 二人はとぼとぼとその場を離れていきました。エリトは呆然と考え事をしながら、サナリは不安そうに表情を歪めながら、ただただ機械的に足だけを動かします。そうでもしなければ、今にも深い沼に足をとられてしまいそうでした。
 何か、悪いことが起こっているのです。月の光が、夜の中で知らぬ間にその光の質を変えたような、そんな悪いことが。
 エリトは急いで首を振りました。そんなはずはありません。そんなことがあっていいはずはありませんでした。影を失くすなんて、そんなことが……。
「サナリ――」
 立ち止まって、エリトは言います。
「ん?」
「お父さんに会おう。そうすればきっと、分かってもらえる。そうだよ、こんなのおかしい、ありえない。あんな兵士の言ったことなんて嘘だ」
「お父さんに会うの?」
「そうだ」
「じゃあ、戻らないと」
 サナリが戻ろうとするのを、エリトは苛立つように押さえました。
「聞いてたろ。裏口からは戻れない」
「どうして?」
「……」
 サナリは訊ねます。
「ねえ、お兄ちゃん。さっきの兵隊さんが言ってたことって、どういうこと? 私たちが王子でも王女でもないって……。影≠ェないって……」
 サナリはすがるような視線で、エリトの事を見ました。サナリには自分の都合の悪そうなことは、できるだけ自分で考えないような癖がついていました。それでサナリは、エリトが何かうまい具合に答えてくれることを期待していました。
 でもエリトにだって、そんなこと分かるはずはありません。
「そんなの、僕が知るわけないだろ。自分で考えろよ」
 エリトは苛々するように言いました。エリトはエリトで、不安なのはサナリと同じでした。
「とにかく、お父さんに会うしかないんだ。そうすればみんな元に戻る。こんなおかしなことなんて、すぐに終わっちゃうんだ」
 エリトの言葉は、どこか自分に言い聞かせるようでもあります。
「うん……」
 サナリはとりあえず、頷きました。サナリはどうしてよいのか、今何が起こっているのか、まるで分かりませんでした。そしてそんなことを考える習慣は、サナリにはなかったのです。
 二人はそれから秘密の通路を使って、お城の中へと戻りました。それは二人が遊んでいる時に偶然見つけた、抜け道です。お城の堀につけられた排水溝の一つが、中庭につながっているのでした。
 今は水の通っていない狭い水路を通って、二人は中庭へと向かいます。所々隙間から光の射す、薄暗い通路をしばらく行って、エリトは辺りに人がいないことを確認しました。それからエリトはふたを開けて地上に出て、サナリがそのあとから少し不器用に体を持ち上げます。
 念のために辺りを見渡してみると、お城の中には特に変わった様子は見られませんでした。当然です。二人が森で眠ってしまってから、まだ一日もたっていないのでした。今日は間違いなく、昨日の続きなのです。
 エリトはお城の中に入ると、できるだけ目立たないように歩きはじめました。そして自分たちの部屋を目指します。サナリがそのあとに続きました。二人はいくつかの角を曲がり、いくつかの階段を上り、いくつかの廊下を通り抜けました。幸いなことに、誰も二人をとがめるものはありません。
 やがて二人は、自分たちの部屋の前まで戻ってきました。あと少し進めば、懐かしい、いつもの扉があります。その時には二人ともいくぶん、ほっとしていました。何もかもが、昨日と同じでした。これで王様に会えば、すべては元通りになるはずです。
 二人がそう思いながら廊下を歩いていると、ちょうど向こうから王様が姿を見せました。王様はいつものように従者を連れて、こちらのほうに向かって歩いてきています。二人はほっとして、思わず座り込んでしまいそうになりました。
 けれど――
 けれど、どこか妙でした。王様はこちらのほうを見て、二人にも気づいた様子でした。でも王様が立ち止まったり、二人に声をかけたりすることはありません。王様は二人のことなどまるで目に入らないかのように、足取りを変えませんでした。その様子はまるで――
 まるで、知らない人間を見るかのようです。
 二人はその視線にぞっとして、何も言えませんでした。見えない何かが、音も聞こえないどこか遠くで、塵にもならないくらい粉々に崩れ去ってしまったようです。時の流れが歪み、空間はその方向性を見失ってしまいます。
 指一本動かすことも、呼吸することさえも、二人は忘れていました。
 そして、王様が自分たちの部屋の扉を開けたとき、二人はどうにもならないものを目にしました。それは世界がぐるりと回り、もう一度ぐるっと回って一回転した、というような光景でした。

 そこには、自分たちの姿があったのです。

 気づいた時、二人は森の中へと戻っていました。森の中に戻って、別にどうするわけでもありません。でもそこにいると、また何かが起こってすべてが元通りになるような気もしました。少なくともそこにいると、目覚めた時から事態は何一つ変わっていないのだと思うことができます。
 とはいえもちろん、時計の針が二人のために都合よく逆戻りする、ということはありません。太陽は手の届かないくらいに空の上へと昇り、時刻は昼を過ぎようとしていました。
「お兄ちゃん」
 サナリはエリトと同じように大きな木に背をもたれて座りながら、訊ねます。
「お兄ちゃん、お腹すいたね」
「……」
「今日の朝ごはんは何だったのかな? 私はホットケーキがいいな」
 サナリは無理に現実から逃れるかのように、努めて明るく言いました。
「バターを溶かして甘いシロップをたっぷりかけて、それとあったかい牛乳を、ふうふう冷ましながら飲むの」
「……」
「お兄ちゃんは何がいい? お兄ちゃんだったら、パイとかタルトのほうがいいかな。チョコレートを溶かしたミルクがついてて、それからフルーツに――」
「黙ってろよ」
 短めにエリトは言いました。
「……」
 サナリは口を閉ざします。
 辺りは急に静かになり、どこからか暗い鳥の声が聞こえてきました。風が下草や木の枝を揺らし、何かの囁き声のような音を立てます。森は不気味な息づかいをもって、そこにありました。
 そうして黙っていると、サナリは段々その沈黙が自分の中にしみ込んでくるような気がしました。森に関するいくつもの物語を、サナリはもちろん聞いたことがあります。その多くは眠る前に乳母がベッドの横で話してくれたもので、中にはあまりありがたくないものも混じっていました。大きな獣や、人さらいや、魔女の話です。
 サナリはその話のいくつかを思い出し、急に怖くなってきました。ここでは自分たちは、小さくて、憐れで、無力な二人の子供たちに過ぎません。周りには二人を守ってくれる何ものも存在してはいませんでした。
 サナリは怯えるようにエリトの近くに移動し、注意深く森を観察しました。サナリはちょうど、乳母のしてくれたある話を思い出していました。深い森の奥からは、今にも何かが現れてきそうな気がします。
「ねえ、お兄ちゃん、あの話覚えてる?」
「何の話だって?」
 うるさそうに、エリトは言います。
「魔法使いのお婆さんの話。えとね、ヤクートおばさんの話」
 ――それは、こんな話でした。
 ある村があって、そこの子供たちはひどくわがままでした。いつも遊びまわっていて家の手伝いもせず、そのくせいたずらばかりして村人たちを困らせていたのです。彼らは子供たちの親でさえうんざりするくらいにわがままでした。
 そんな村に、ある時杖をついたお婆さんがやってきます。お婆さんは困り果てた村人たちに向かって、自分が何とかしてあげようか、と持ちかけました。村人たちはよほどうんざりしていたと見えて、この怪しげな老婆にすべて任せてみる気になりました。
 約束を交わすと、老婆はさっそく子供たちを集め、森へと向かいました。老婆が何と言って子供たちを手なずけたのかは分かりません。何か面白いものでもあるよと誘いかけたのでしょう。何しろ子供たちは毎日退屈していましたから、喜んでその誘いに飛びつきました。
 老婆が森の奥へ、奥へと向かうのを、子供たちはわいわい言いながらついていきました。ちょっとしたピクニックのつもりだったのです。
 途中、子供たちの一人が「ねえ、まだなの?」と聞くと、老婆は「まだもう少しだよ」と答えます。しばらくして別の子供がもう一度訊くと、「もう少しだよ」と老婆は答えます。いい加減に歩き疲れてきた頃、もう一度訊くと、「もう着いたよ」と老婆は答えました。
 その言葉の通り、老婆と子供たちは一軒の家にたどり着いていました。家は大きな木の上に建てられていて、そこから地面にまで階段がのびています。子供たちは大騒ぎでその不思議な家の中へと入っていきました。
 そして最後の子供が家の中に入った瞬間、扉は固く閉ざされ、ヤクートおばさんは本当の姿を現わしました。彼女は恐ろしい人喰い魔女だったのです。子供たちは残らずヤクートおばさんに食べられて、村には一人も帰ってきませんでした。
 以来、森の奥には誰ひとり近づくこともなく、村人は二度と見知らぬ人間に子供たちを預けることはなかったということです。そしてヤクートおばさんは今でも、森の奥に一人で、ひっそりと暮らしているということでした。
「あの話……」
 と、サナリは不安そうに言います。
「本当かな?」
「……」
 エリトは何も言わずに、黙っていました。もちろんエリトにすれば、「一人も戻ってこなかったなら、誰が食べられたことを知っているんだ?」と訊き返すこともできます。けれどそんなことに対して意味があるとも思えませんでした。
 それにエリトも、実のところその話を鼻で笑うことができないほど、不安でした。何といってもここは森≠フ中で、何が起こるか分かったものではないのです。ここは二人が馴れ親しんだ空間とは別の世界でした。
「ねえ、お兄ちゃん」
 サナリは、今にも泣きそうになりながら言いました。
「私たち、どうなっちゃうのかな?」
「……」
 エリトは答えません。
「お城に戻れるのかな? それともずっと、このままなの? 私たち、影をとられちゃったから、もう元には戻れないの? 何がいけなかったの? 私、何もしてないのに……?」
 サナリはとうとう、泣き出してしまいました。
「私、何もしてない。何も悪いことしてないのに」
 はばかることもなく、むしろ誰かに聞かせようとしてサナリは泣き声を上げます。そうしていれば、誰かが手を差しのべてくれるのでした。自分の手には負えないことも、そうしていれば誰かが何とかしてくれるのでした。
「……」
 泣き声を上げるサナリの隣で、エリトは苦虫をかみつぶしたような表情をしています。それはエリトの父親である王様なら、絶対にしない表情でした。
「私、悪くないのに……」
 サナリはしつこく泣き続けていました。エリトはとうとう我慢しきれなくなって立ち上がり、
「お前のせいだろ!」
 と、怒鳴りだします。サナリは泣いたままでした。
「お前があの猫の人形にほいほいついていくから、こんなことになったんだぞ。あの時、馬鹿みたいについていくから、こんなことになったんだ。ちょっと考えればおかしいことだなんて、すぐに分かったんだ。それなのにお前が勝手についていくから、僕まで巻き込まれて……」
 エリトはすっかり、すべてのことをサナリのせいにしようとていました。実際には、もちろんエリトにも責任の一端はあります。けれどそれを認めてしまったら、エリトはその責任を自分で背負わなくてはならないのです。エリトには、そんなつもりはありませんでした。
「お前が悪いんだぞ、みんな。お前のせいで、僕はいい迷惑なんだぞ」
「私、悪くないもん。お兄ちゃんだって悪いもん」
「うるさい、黙ってろ」
「お兄ちゃんだってついてきたじゃない」
「うるさい、うるさい!」
 エリトがそう、怒鳴った時のことです。
「――おやおや、何を騒いでいるのかと思ったら」
 どこからか突然、声がしました。
 二人ともびっくりして、ぴたりと口を閉ざしてしまいます。言い争っていたことも忘れ、二人は同時に声のしたほうを見ました。
 そこには、一人の老婆がたたずんでいます。
 顔はしわだらけで髪は白く、目の奥では小さな灰色の瞳が光っていました。着ているものは粗末な赤いケープに厚手の服、青いスカートで、手には艶のある樫のステッキを握っています。
 その姿を見て、二人ともまったく同じことを考えていました。けれどもちろん二人とも、そんなことは口に出そうとさえしませんでした。
「一体、どうしたっていうんだい、あんたたち」
「……」
「……」
 エリトもサナリも、何の返事もできずにいました。というより、どうしてよいかも分からずに、返事をするということさえ思いつかなかったのです。
「こんな森の中に子供が二人だけでいるなんて、どうにもおかしいねえ」
 老婆は本当におかしいと思っているのかどうか、よく分からない口調で言いました。少なくともエリトとサナリの二人には、そんなふうに思えました。
「あんたたち、近くの村の子かい? にしては、着ているものがえらく上等だねえ。なら街の子供かしらね。けど街からここまでは大分あるからねえ、子供二人でやってくるなんておかしな話だねえ」
 老婆は二人がしゃべらないことに構わず、一人でしゃべり続けました。二人がしゃべろうがしゃべるまいが、そんなことはどうだっていいようでもあります。
「家出でもしたのかい? 散歩や遊びで来るには、ここは少し遠すぎるからねえ。けどあんたたちは何にも持っちゃいないようだね。家出にしちゃ、ずいぶん不用心だったねえ。それじゃあすぐにお腹がすいて参っちまうよ」
「……」
「……」
 二人はやはり、返事をしません。二人は自分たちでも知らず知らずのうちに、体をよせあい、よりそっていました。この老婆が一体何者なのか、二人には見当もつきませんでした。
 老婆はなおも、一人でぶつぶつと呟いていました。二人のことについて、なにやら考えているようです。それはまるで、今晩の夕食をどうしようかと、考えているふうにも見えました。
「ぼ、僕たちは……」
 と、エリトが何とか、言葉を口にしようとします。
「どうだろうね」
 けれど老婆はそんな二人には構わず、急ににこりとして言いました。
「あんたたち、私の家に来ないかい? 少なくともここにこうしているよりは、ましだろうさ。来たくなければ来なくてもいいし、帰りたくなればいつだって帰っていい」
「……」
 エリトは慎重に老婆を見つめました。サナリはすっかり怯えきってしまったように、恐々と老婆のほうを見ました。本当は目をそらしたかったのですが、サナリはそうするのも怖かったのです。
「別に恐がることはないよ」
 老婆は、あくまで人のよさそうに言います。
「私は森の中で一人で住んでてね、他には誰もいないよ。あんたたち二人くらいなら、十分に暮らせる場所さ。どうせ行くところなんてないんだろう? だったら家にきな」
「……」
 エリトは疑りぶかそうに老婆のことを見ました。老婆が一体何者なのか、一体何を考えているのか、エリトにはさっぱり分かりません。
 とはいえ、本当にただ森の中に暮らしているというだけの老婆なら、二人にとってこんな都合のいい話はありませんでした。何しろ二人にはどこにも行く当てなんてなく、おまけに影を失くしていたのです。普通の人々が暮らす場所に、同じようにいるわけにもいきませんでした。
 第一、とエリトは思います。こんな老婆の何を怖がるというのでしょう。あんなのは、ただのお話です。それは人間の余分な想像力を埋めあわせるだけの、ただの物語でした。そんなものを恐れる必要など、どこにあるでしょう。
 ……多分。
 いずれにせよ、二人がとるべき道は限られていました。このまま何の当てもなくこの場所にいて、ずっとはじまらない物語の中にいるか、とにかくもこの怪しげな老婆についていって、どんな形であるにせよ物語の終わりを探し出すか、です。
 それが、現実的な問題のすべてでした。
「どうする、ついてくるかい?」
 だからそう言われた時、二人には――
 結局のところ頷くよりほか、仕方なかったのです。

 二人は老婆のあとについて歩きながら、ひそひそと話しあっていました。歩くにつれて森はいっそう深まり、二人は森のずっと奥にまでやってきているようでした。木は次第にその本質を現わし、奇妙な格好で根をはり、枝をのばし、不気味な生命力を示しています。
 老婆は足どりが軽く、杖をつきながら歩く速さは、二人とそう変わりがありません。それだけ見ると、見た目よりもずっと若い感じがしました。
「あのお婆さん、本当に本当にヤクートおばさんじゃないの?」
 サナリは歩きながら、もう何度目かになる質問を繰り返していました。
「……」
 エリトは地にがっしりと食い込んだ根っこの一つをよけて、念のために前の老婆に聞こえないようにしながら、
「さあな」
 と投げやりな返事をします。
「もしも本当にヤクートおばさんだったら、私たち食べられちゃうんだよ」
 サナリは自分の言葉に怯えるように言いました。
「あれはただのおとぎ話だよ」
「本当に?」
「……」
 エリトも、断言する気にはなれません。
「やっぱり逃げたほうがいいよう。私怖いんだもん。魔女に食べられちゃうなんて嫌だもん」
 サナリは今にも泣き出しそうです。
「どっちにしろ、ここまで来ちゃったんだ」
 エリトはまた、根っこをよけながら言います。
「道なんてないし、戻れないよ。そしたら森で迷って、魔女に食べられるよりもっとひどいことになるんだぞ」
「だって……」
「それに、考えたんだよ」
「……?」
「あのお婆さんはどうしてこんな森の奥で、一人で暮らしてるんだろう、って」
「森の魔女だからでしょう……」
「そうじゃない。あのお婆さんもきっと、僕たちみたいに変な目にあっちゃったんだ。……影を失くしてしまうとか」
「私たちみたいに……?」
「ああ、だからきっと、街じゃ暮らせなくて、こんな場所に一人で暮らしてるんだ」
「そんなふうには見えないけど……」
 お城の兵士たちの言葉を思い出しながら、サナリは言いました。少なくともサナリには、老婆が影を失くしているようには思えませんでした。
「きっと影を失くした者どうしだと分からないんだ」
 エリトは言います。
「だからあのお婆さんだって、僕らを見て何も言わないのさ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
 サナリはまだ、少し不安そうです。
「じゃああのお婆さんは、どうして影を失くしちゃったの?」
「知らないよ。病気とか、あんまり熱いところにいて地面に影が焼きついちゃったとか、そんなとこだろう」
「何をぶつくさ言ってるんだい」
 突然、老婆が振り返って言いました。二人はびっくりして、思わず立ち止まってしまいます。
「あんまり遅いと置いてっちまうよ。家はもうすぐなんだ。はぐれても知らないよ」
 そう言って老婆がまた歩き出すと、二人はあわててそのあとを追いました。老婆が魔女にせよ、二人と同じように影を失くした人間にせよ、この森の中で迷子になるよりはましです。
 それから黙って足を動かすうち、森が急に開けて、土がむき出しになった場所が現れました。その場所は周りを木の柵で囲まれ、建物が二棟建っています。一つは老婆の住居らしく、もう一つは家畜小屋か何かのようでした。
「さあ、着いたよ」
 と老婆は言います。老婆はすたすたと歩いて、家のほうに向かいました。二人は不思議そうに辺りを見ながら、その後に続きます。
 近づいてみると、老婆の家は意外なほどしっかりして、清潔そうでした。窓はしっかりと拭かれ、壁はきれいに磨かれ、柱は定規で測ったようにまっすぐ立てられています。一体誰がこんな立派な家を建てたんだろう、と二人は不思議でなりませんでした。
 扉を開けて中に入ると、そこは家の外と同じくらい立派で、清潔そうな家でした。大きなテーブルがあって、小さなイスがあって、壁には頑丈そうな暖炉が備えつけられていて、床には木の板がはられ、森の奥だというのに部屋の中は変に明るい様子をしています。
「わあ」
 二人はびっくりして、思わずそんなため息をもらしていました。まるで魔法か何かで作られたような家です。
「こっちがあんたたちの寝る部屋だよ」
 老婆はそう言うと、二人を別の部屋へと案内しました。そこにはごく簡単なベッドが二つあって、他に目につくようなものはありません。広さはお城にある二人の部屋の、半分の半分もないほどでした。
「私たち、ここで寝るの?」
 サナリがさりげない控えめさで不満を口にします。その途端、老婆に声もなくにらまれて、サナリはエリトの後ろに隠れてしまいました。
「さて、それじゃあこっちの部屋で少し話をしようかね」
 老婆が杖をついて元の部屋へと戻ると、二人は黙ってそれに従いました。
 最初の部屋のテーブルにつき、二人は老婆と向かいあってイスに座ります。
 老婆は言いました。
「ここで暮らす以上、あんたたちにはいろいろと仕事を手伝ってもらおうかね」
「仕事……?」
 エリトが、眉をひそめます。
「そうさ、当たり前だろう? あんたたちを養うおかげで、いろいろと仕事が増えるんだよ。世話になる身としては当然のことだろう。まさかこの老いぼれに、何でもかんでも押しつけようってわけじゃないだろうね」
「お仕事って、どんなことするの?」
 サナリが訊ねます。
「掃除、洗濯、炊事、水汲み、薪割り、家畜の世話、縫い物、糸紡ぎ、柵の修理、食糧集め、粉ひき、パン焼き、大工の真似事――」
「そんなにいっぱい?」
 サナリはびっくりしました。もちろん、エリトもサナリもそんな仕事を自分たちでやったことなんてありません。何しろ王子や王女といった高貴な身分の人間は、そんなことを自分でやったりはしないのです。二人がしてきたのはもっと、形而上的に価値のあることでした。
 けれど、老婆は何を言ってるんだといわんばかりの調子で、
「まだまだそんなもんじゃないさ」
 と言いました。
「他にも数え切れないような小さな仕事が、山のようにあるんだよ。これくらいで音をあげられてちゃ困るねえ」
 サナリは表情がこわばって、うまく言葉が出てきませんでした。一体、一日中働いたってそんな仕事が終わるのか、サナリには想像もつきませんでした。そして一つでも仕事をやり残したとしたら、どんな目にあわされることでしょう。
「――それじゃさっそく一つ、水汲みでもしてきてもらおうかね」
 話が一段落すると老婆はそう言って、それから二人の格好を眺めました。
「けどその格好はちょっと上等すぎるみたいだね。あんたたち、これから持ってくる服に着替えるんだよ。その格好じゃ、ろくに水汲みだってできやしないからね」
 老婆はさっさと立ち上がると、さっきとはまた別の部屋から、服を二着持ってきました。それは貧しくも慎ましやかな農夫が着るような、丈夫でぱっとしない服です。二人はうむを言わさずその服へと着替えさせられることになりました。
 二人はごわごわと固い肌触りのする麻の服に着替え、なんともいえない表情で立っています。
「なかなか似あってるよ。中身のほうがまだまだ頼りないけどね」
 老婆が満足したように言いました。
 エリトは、青色の上衣に膝までのズボンをはき、樵のような格好をしています。サナリは赤色のワンピースを身にまとい、前掛けで腰の辺りを縛っていました。
 二人ともしきりに袖をつまんだり、体を回したりして、どうにか体を服になじませようとしています。二人ともまるで、見知らぬ空気を身にまとっているような気分でした。
「水を汲む桶は家の外に置いてあるからね。家を出て、左のほうにまっすぐ行くと川が流れてるよ。汲んできた水は台所の水がめに入れるんだ。いっぱいになるまでやるんだよ。分かったね」
 老婆はそう指示します。
 それから老婆は二人が脱いだ服を片づけはじめましたが、その途中ふと気づいたように手を止めました。ちょうど、エリトの服を調べていた時のことです。
「おや、こいつはなんだい?」
 そう言って、老婆はエリトの服のポケットに入っていた指輪を取り出しました。
 エリトははっとします。それはエリトさえすっかり忘れていた、母親の形見の指輪でした。あの夜、人形使いに会いに行くときに持ち出して、それっきりポケットに入ったままだったのです。
 老婆はしげしげと、指輪を眺めていました。
「これはまた、ずいぶんと立派な指輪だねえ。ちょっとやそっとで手に入るものじゃないよ。こいつはあんたたちの父親か母親の持ち物かい? こんなものを持ってくるなんて、あんたたちも気が利いてるじゃないか」
 老婆はそう言って、にやりと笑います。エリトは言葉も出ませんでした。ひどく嫌な予感がして、口の中が渇き、胃がきゅっと小さくなります。そしてその予感は当たりました。老婆は言います。
「こいつは私がもらっておくよ。なに、世話賃と思えば安いもんだろう。あんたたちだって、それでちょうどいいってもんさ。どうせ子供がこんなもの持ってたって、何の役にもたちゃしないんだ。ここでこうして私にもらわれるほうが、いくらか役に立つってもんだよ」
「……」
 エリトもサナリも、すっかり言葉を失くしていました。それが父親のくれた大切な大切な品だということは、二人とも十分に知っています。ことによると、それはエリトとサナリの二人よりも、ずっと大切な品でした。
「あ、あの……」
 エリトが何とか、口を開こうとします。けれどその途端、老婆のしわだらけの顔の奥で、目だけが鋭く光りました。エリトは、口を閉ざさざるをえません。
「こいつは意外な拾いものだったよ。まあ親切はしておくもんだね。さあさあ、あんたたちはさっさと水汲みに行きな。さっきも行ったように、仕事は山ほどあるんだからね」
 しっしっ、というふうに老婆は手を振ります。
 二人は力なく顔を見あわせ、それからとぼとぼと家の外へと向かいました。一体二人に、どうすることができたでしょう。無力で途方にくれて、おまけに影まで失くした子供二人に。
 家の外に出ると、建物の横に桶が二つ置いてありました。二人は仕方なくその桶を持って、家の左のほうに歩いていきます。
 エリトがちらっと窓から家の中をのぞいてみると、そこでは老婆が指輪を眺めていました。よほど気に入ったと見えて、老婆はあきもせずに指輪を見つめています。まるで、古い恋人にでもあったような感じでした。
 暗いため息をついて、エリトは歩き出します。一度悪いことが起こると、それはいつまでも続いていくようでした。そして、ある意味では二人にとって、それはもっとずっと小さな頃から続いているのです。
 老婆の言った川までは、小さな獣道のようなものがついていました。二人は桶を持って、並んで歩きはじめます。ずっと歩きっぱなしだったので足がひどく疲れていることに、二人は今更ながら気づきました。
「ねえ、お兄ちゃん……」
 歩きながら、サナリが元気なく言います。
「私、疲れた。足が痛くって、もう歩けない」
「うるさいな」
「それにお仕事なんて、あんなにいっぱい、私できないよ。できなかったら、食べられちゃうのかな。そんなの絶対、嫌」
 サナリはまだ、あのお婆さんが魔女だという説を諦めてはいないようです。
「やっぱりこんなところにいちゃ危ないよ」
「仕方ないだろ、他に行くところなんてないんだ」
「私、きっと疲れてしんじゃうよ」
「我慢しろよ」
 エリトは気のない返事ばかりで、とりあおうとはしません。サナリはむっとして、一度黙ります。
 けれどしばらくして、
「それに指輪取られちゃったじゃない」
 と、サナリは言います。
「……」
「あれってお母さんのカタミの指輪でしょう。お父さんが言ってたもん。これはとっても大切な品だから、絶対なくしたりしちゃいけないって。大切にしなくちゃいけないって。なのに、お婆さんにとられちゃったじゃない」
「しょうがないだろ」
「第一、どうしてお兄ちゃんがあの指輪持ってたの? お父さんに大切にしまっておけって言われたのに。お兄ちゃんが悪いんだからね、お父さんに怒られるのはお兄ちゃんだからね、私じゃないからね」
 サナリが得意そうに続けていると、エリトは――
「お前のせいだって、言ったろ!」
 いきなり、怒鳴りだしました。
 サナリは黙ります。
 エリトは持っていた桶を地面に叩きつけ、それでも足りずに足で地面をけりました。
「しょうがないだろ。僕が悪いわけじゃない。僕がこんなふうにしようと思ったわけじゃない。何かがちょっとうまくいかなかっただけなんだ。僕のせいなんかじゃない。お前があの人形についていったのが悪いんだ。あの人形使いが悪いんだ。あのお婆さんががめついのが悪いんだ。世界がこんなふうに出来てるのが悪いんだ」
「……」
 サナリはエリトが突然怒鳴りだして、思わず泣き出していました。うっ、うっ、とえずきながら、「私が悪いんじゃないもん」と小声で繰り返します。
 ひとしきり怒鳴り散らしてしまうと、エリトはようやく落ち着いてきたらしく、投げ捨てた桶を拾い上げました。それからまた、歩き出します。
「……ちくしょう」
 エリトは歩きながら、小さく呟きました。

 それからの二人の森での生活は、まったく大変なものでした。老婆の言ったように、森の家での生活には山ほどの仕事がありました。二人は慣れない手つきで、そうした仕事の山を片づけていかなくてはならなかったのです。
 朝、まだ日の昇りきらないうちに起こされると、二人はまず水汲みにやらされます。一日分の水汲みが終わると、食事です。これも、火を起こしたりパン生地をこねたりということは、二人がやりました。食事が終わると、掃除や洗濯といった仕事があります。あっという間に昼がやってきて、また食事の準備です。それが終わったら終わったで、畑の世話や水やりをしなくてはいけませんでした。日が暮れはじめる頃には夕食の準備や風呂焚き、薪割りがあります。空が暗くなった頃にようやく、一日の仕事が終わるのでした。
 もちろん、二人はくたくたです。
 この家にやって来て最初の頃は、いろいろ不平や文句を口にしましたが、今となってはその元気さえ残ってはいないようでした。二人はできるだけよく眠り、よく目覚めるように心がけました。そうしなければ、とても一日働き続けることなんてできなかったからです。
 二人は今までに見たこともないような疲労感や、やり場のない不満感や、しみじみとした運命の残酷さを感じながら働いていました。幸いなことに、手を動かしている間だけは、そうしたことについて忘れることができました。そしてその機会だけは、ひっきりなしにやって来ます。
 そうした時間の中で、エリトもサナリも、時々自分たちが夢を見ているんじゃないかと思うことがありました。いつか何かの拍子に目覚めたら、お城のいつもの部屋で目覚めるんじゃないだろうか、と。そしておつきの乳母に、「恐い夢を見たんだ」と、今までのことを話すのです。
 でも時々、二人はそうしたお城での生活こそ夢じゃなかったのか、と思うこともあります。自分たちはずっとこの家で暮らしていて、何かの拍子にそうした話を老婆から聞いただけなんじゃないか、と。
 それはまったく、奇妙な気分でした。どっちもが夢のような気がして、その実どっちもが本当のことなのです。物語の境界線は曖昧で、そのくせ二つはしっかりとつながっていました。境界線だけが夢のようで、それが不思議なレンズになって物事を歪めて見せるのです。
 とはいえ、現実の二人はただ老婆にこき使われるだけの小さな子供たちにすぎませんでした。それだけが事実で、しかもそれは忘れるわけにもいかない事実です。

 夜になり、一日が終わると、二人は自分たちの部屋でベッドを寄せあって眠りました。森の夜はお城の夜とは違って、暗闇の密度がまるで違うようです。家の外では絶えず何かの物音が聞こえ、時折すぐそばまで小さな足音が近づいてくることもありました。二人はそんな時、自分たちが無力な子供なのだということをはっきりと思い出します。世界はどうしようもなく広大で、自分たちはどうしようもなくちっぽけでした。
 二人は互いの手を握りあって、自分たちの見知らぬ夜の中で眠りにつきます。ここでは互いの存在だけが、自分たちを証明する唯一の手段でもありました。
 そして夢も見ない眠りが終わると、新しい一日がはじまるのです――

 そんなある日、奇妙なことが起こりました。それは二人が眠たい目をこすり、自分たちの部屋を出てきた時のことです。いつもなら、そこには老婆がいて、まるで二人を監視するかのように待ち構えているはずでした。
 ところがその日は珍しく老婆の姿はなく、部屋には誰もいませんでした。老婆のいないその部屋は、必要以上にがらんとした感じを漂わせていました。机も、イスも、暖炉も、鍋も、まるで借りもののようです。
 二人が不思議に思い、立ち尽くしていると、不意に扉の開く音がしました。二人が見ると、それは老婆の部屋の扉です。その扉は絶対に開けてはならないと、二人は言われていました。
 扉は一度開くと、バタンという音を立ててひとりでに閉じてしまいました。老婆の姿はありません。代わりにそこからは、一匹の猫がふらふらと姿を現わしました。真っ黒な、特にやせすぎも太りすぎてもいない、ごく普通の猫です。
 猫は二、三歩だけ足を進めると、ばったりと倒れてしまいました。猫はそれっきり、ぴくりとも動こうとはしません。目を閉じ、体はすっかり石になってしまったかのようでした。
 目に見えない、厚い氷のような沈黙が、辺りを覆います。時間さえもが、その沈黙に囚われているかのようでした。
「死んでるの……?」
 その奇妙な沈黙の下から、サナリが恐る恐る声を出しました。
「……分からない」
 エリトがどうしてよいか分からないように、首を振ります。一体、何が起きているのでしょう?
 二人はともかくも、倒れた黒猫に近づきました。他にどうすることもできませんし、老婆が姿を現わす気配もありません。エリトもサナリも恐々と、黒猫のそばに近よりました。
 黒猫は、やはり死んでしまったかのようにぴくりともしませんでした。エリトは慎重に手をのばし、サナリはその後ろに隠れるようにして、様子を見守っています。
 手を触れてみると、黒猫は体がこわばり、すっかり冷たくなっていました。その体はすでに、古い魂の残骸にしかすぎません。
「……」
 エリトもサナリも、何が起こったのかさっぱり分かりませんでした。
「そいつを裏の墓に埋めてくるんだよ」
 突然、扉の向こうから声がします。その声は間違いなく、老婆のものでした。
「スコップがあるから、そいつで土を掘って埋めちまいな。いつもの仕事が待ってるんだからね」
「この猫、どうしたの?」
 サナリが扉の向こうにむかって、訊ねます。
「胸が裂けちまったのさ」
 老婆は答えました。
「……」
 二人はそれ以上何も言うことができず、老婆に言われたように猫を抱えて家の裏へと向かいました。猫は特にどこから血を流しているわけでも、どこか様子がおかしいわけでもありません。まるでそれは、自分が死ぬことをあらかじめ知っていたかのような感じです。
 スコップを持ち、家の裏手にやって来ると、そこには老婆の言ったように一つの墓がありました。墓石は立派な御影石で作られ、そこにはたった一言、悲しみ≠ニだけ記されています。一体、どうしてこんな場所にこんな立派なお墓があるのか、エリトには分かりませんでした。
「ここに埋めるの?」
 サナリがそう、訊ねます。エリトは我に返ったように、「ん、ああ」と言います。
「でもこれ、お墓なんだよね」
「……」
「掘り返したりしちゃっていいのかな? 私たち、お化けに恨まれたりなんかしないよね――」
 確かに、そうでした。わざわざこんなお墓を作るくらいなのだから、よほど大事な人が埋まっているのに違いありません。そんな場所に、死んだ猫を埋めたりしても大丈夫なのでしょうか。
 けれど、結局のところは老婆がそう命じたのです。
「仕方ないさ、やらなきゃ僕らがまたどやされるだけなんだ」
 エリトはそう言って、地面にスコップを差し込みます。サナリも、「うん」と頷いて、同じように地面をスコップで掘りはじめました。
 二人とも、もしかしたら人の骨でも出てくるかもしれないと、ほんの少しびくびくしていたのですが、そんなことにはなりませんでした。猫が十分埋まるくらいの深さになっても、そこからは何も出てきません。まるでそれは、はじめから何も埋まってなどいないかのようでした。確かにそこには、悲しみ≠セけが埋まっていたのかもしれません――
 猫をすっかり土に埋めてしまうと、二人は家の中へと戻りました。そこでは老婆がいつものように座っていて、何事もなかったかのように平然としています。
 そのため、二人とも猫や墓のことについては、何も聞けないままに終わりました。そしてその日も、いつものように仕事ずくめの一日が過ぎていきます。

 ――けれど翌日になると、また奇妙なことが起こりました。
 昨日と同じように二人が目を覚まして部屋を出てくると、そこにはやはり老婆の姿はありませんでした。そしてその代わりに、テーブルの上には一輪の花が花びらを散らし、横たえられています。
 部屋の中には昨日と同じような、奇妙な質感の沈黙が流れていました。
 二人は昨日と同じように戸惑いながら、テーブルのそばへと近づきました。そこでは白いユリの花が、音もなく散っていました。それはまるで、透明なガラスが千々に砕けてしまったかのようです。
 それにしても、昨日まではそんな花はどこにもなかったはずでした。二人の知らないうちに老婆が摘んできたとも、二人の知らないうちに誰かが持ってきたとも、考えにくいことでした。
 第一、どうして花は無残にも散ってしまっているのでしょう?
「そいつを裏の墓に埋めてくるんだよ」
 昨日と同じように突然、扉の向こうから声がします。
「スコップを持って、昨日と同じようにやるんだ。ぐずぐずするんじゃないよ。他にも仕事は山ほどあるんだからね」
 昨日と同じように、サナリが訊ねます。
「この花、どうしたの?」
 老婆は答えました。
「ばらばらに砕け散ってしまったのさ」
 二人はやはり、それ以上何も言うことはできませんでした。二人には何が起こっているのか、さっぱり分かりませんでした。それでも、老婆の言うとおりにしないわけにはいきません。
 二人は昨日と同じように裏の墓に向かい、スコップで穴を掘りました。そこはもちろん、昨日、胸の裂けた猫を埋めた場所です。二人は慎重に、スコップの先を地面に当てていきました。
「……」
 けれどいい加減に穴を掘り下げたというのに、そこからは何も出てきませんでした。猫の体どころか、その体の毛一本だって出てはきません。まるでその体は、空気になってどこかへ消えてしまったかのようでした。
「どうなってるのかな?」
 サナリが気味悪そうに穴をのぞきながら言います。
「分からない」
 エリトは首を振りました。
 二人はともかく花を土の下に埋めてしまうと、家の中へ戻りました。そこでは、やはり老婆がいつものように座っていて、何事も起こらなかったかのように落ち着いています。
 二人は何も訊くことができず、その日もまたいつものように過ぎていきます。

 ――ところが最後にもう一度、同じようなことが起こりました。翌日のことです。その日も二人が朝起きてくると、老婆の姿はどこにもありませんでした。
 そしてやはり奇妙な沈黙が、辺りを覆っています。
 けれど今度は、部屋の中にはどこもおかしなところはありませんでした。窓が開いて、朝の光がうっすらと射しこんでいます。二人はちょっと警戒するように、その場に立っていました。
 しばらくすると、空気を裂くような甲高い泣き声が一つ、窓の外から聞こえてきました。それはまるで音そのものが壊れてしまったかのような、悲痛な叫び声です。
 そして声が聞こえて間もなく、開いた窓の外から一直線に、小鳥が飛び込んできました。小鳥は二人が驚くひまもなく地面へと体を打ちつけると、それきりぴくりとも動きませんでした。
 二人は不吉な足音のように後からやってきた驚きを静めると、ゆっくり小鳥のそばへ近よりました。小鳥はその小さな羽を広げ、地に倒れ伏すようにじっとしています。
 エリトがそっと手を触れてみると、その体はすでに熱を失い、生命をとどめてはいませんでした。
「そいつを裏の墓に埋めてくるんだよ」
 これまでと同じように、突然、扉の向こうから声がします。
「この鳥、どうしたの……?」
 サナリが、やはり訊ねます。
「喉が潰れちまったのさ」
 老婆は言いました。
 二人はやはり何も聞けずに、それまでと同じように小鳥を裏の墓へと運びました。小鳥は軽くて、まるで魂そのものみたいに重さがありませんでした。
 二人は墓の前に穴を掘りはじめました。胸の裂けた猫と、ばらばらに砕け散った花を埋めた場所です。けれど昨日と同じように、そこには何の痕跡も残されてはいませんでした。
「……」
 二人は無言のまま、小鳥の体を墓の下に埋めます。土を被せると、その姿はあっという間に見えなくなってしまいました。本当にその場所にかつて小鳥だったものが埋められていたのかどうかさえ、分かりません。けれど二人とも、その墓を掘り返したりしようとはしませんでした。
 たった一言、悲しみ≠ニだけ記された墓――
 そこには、本当は何が埋まっていたのでしょう?
 家に帰ってみると、老婆はやはり何事もなかったかのように、平然と座っていました。二人は何も聞くことができず、いつものように仕事に取りかかるしかありません。
 水汲みに行く途中、サナリはそっと呟きます。
「――やっぱり、あのお婆さんは魔法使いなんだよ」
 エリトはそれに対して、何も答えませんでした。

 それからしばらくの間、何も奇妙なことは起こりませんでした。老婆は相変わらず二人に厳しく、文句ばかりをぶつくさ言い、二人はたくさんの仕事の中で埋もれるように暮らしていました。
 とはいえ何週間も時がたつにつれて、二人は巣立ちの前の若鳥のような不器用さで、この生活に慣れはじめていました。手順の明確化と作業の効率化、そして意識の単純化。二人は仕事のコツをつかみはじめていました。
 仕事の能率が上がるにつれ、二人には余った時間ができるようになっていました。そうした時間に、二人は森の中を散歩してみたり、花や草を眺めてみたり、鳥の声を聞いたり、川のせせらぎに見入ったり、風の流れを感じたりしました。それは奇妙な気分です。何かがばらばらにほぐれて、また一つに形作られていくような感じでした。
 一方、二人が洗濯をしたり薪割りをしている間、老婆も遊んでいたわけではありません。老婆は老婆でさまざまな仕事がありました。家畜の世話をしたり、街まで塩や香辛料、その他必要なものを買い出しに行ったり、破れた服を繕ったりということです。老婆は老婆で忙しい日々を送っていました。
 そのせいか、一日が終わってテーブルの上にろうそくの火が灯される頃になると、三人の間には何かしら共通した空気のようなものが現れるようになっていました。自分たちの影が寄りそい、身を寄せあっているような感じです。それはほんの少しだけ、家族のようでもありました。
 そんな折、老婆は機嫌の良い時にはいくつかの昔話を物語りました。それは古い王の話だったり、勇敢な騎士の話だったり、美しい妖精の話だったりします。二人はぼんやりとほの暗い明かりの中で、そんな話に耳を澄ませました。
 老婆の話の中には、こんなものもありました。
「昔々、影がまだ何ものの影でもなかった頃の話だ」
 老婆は言います。

 昔々、影たちは何の影になることもなく、自由に暮らしていました。影たちは今のように何かの足元にはりついたり、太陽の光からこそこそと逃げ回ったりする必要もありませんでした。好きな時に好きな場所に行き、好きな時に好きな場所にとどまるのです。
 ところが、影というのはやはり何かの影でなくてはなりません。何かの影でない影というのは、ただの黒い塊にすぎませんでした。ある時、影の一人がそう言うと、他の影たちもみなそれをもっともだと思いました。
 影たちはさっそく、何かの影になるべく旅立ちました。影たちは身軽で、どんな場所にも行くことができました。何しろ影たちには、その身を縛るべき何ものも存在してはいなかったのですから。
 旅立った影のうち、あるものは大きな木の影になりました。大きな木の影になるのは素敵なことでした。生い茂った葉が風に揺られると、影は自分の体を複雑に揺らし、ダンスすることができました。夏の暑い盛りには、いろいろなものたちがやってきて、その影の中で休憩したり、柔らかな眠りについたりもしました。
 旅立った影のうち、あるものは野を駆ける獣の影になりました。野を駆ける獣の影になるのは素敵なことでした。獣が地を蹴り、宙を駆けてその筋肉が躍動するたび、影は凶暴なくらいの力が自分の中に満ちていくのを感じました。広大な草原の彼方に真っ赤な夕日が沈む頃、影は自分が世界と一体になるのを感じました。
 そうして影たちはみな、何かの影となっていきました。それは素敵なことでした。影たちはみな、ようやく影としての存在を手にしたのです。
 ところが、旅立った影たちのうち、あるものは人間の影となりました。人間の影になるのはなかなか厄介なことでした。人間たちは突然やってきたこの見知らぬ存在について、不審を覚えたからです。そして人間は、言葉も持っていました。
「一体君は、どうして僕にくっついたりしてるんだい?」
 と、人間はこの奇妙な存在に対して訊ねました。人間は明らかに、影を好ましいものとはとらえていませんでした。
「そうしなければ、僕たちは魂と呼べるものを持てないからです」
 影は答えました。
「魂って何だい?」
「自分と他人を区別するためのものです。それがないと、僕は他の大勢の影たちと見分けがつかないんです」
「ふうん、でもね、僕は影なんて欲しくないんだ。だってそんなものがあったって、何の役にも立たないからね。おまけに僕はもう、たくさんのものを身につけすぎちゃってるんだ。これ以上何かを身につけなきゃいけないなんて、ごめんだよ」
「私には重さもなければ、大きさもありません。決して邪魔にはなりませんよ」
 影はそう言いましたが、人間は影を受け入れようとはしませんでした。人間はひどくうんざりして、苛立っているように見えました。
「お願いします。絶対に邪魔にはなりませんから」
 影はもう一度懇願しました。けれど人間はうんとは言いません。
「僕には他にどうしようもないんです。お願いします」
「じゃあ聞くけど、それで一体僕は何を得るんだい? 君は魂を得る。でも、僕は? 余計なものが一つ増えるだけじゃないか」
「……」
 影は少し考えてから、答えます。
「僕はあなたの形をとどめます」
 人間は、影のことを不思議そうに見つめました。
「僕はいつまでも、あなたの影であります。どんな時でも、どんな場所でも、例え永遠という時が過ぎ去ろうとも、僕はあなたの影であり続けます。これは永遠の約束です。僕はあなたを裏切らない。僕はあなたと、いつも共にあります」

「……」
 老婆は暗い穂明かりの下で、眠っているようでもありました。
「それで――」
 と、エリトは訊ねました。
「人間と影はどうなったの?」
「今みたいにくっついたのさ」
 老婆の話は、すっかり終わってしまったようでした。
 エリトは恐るおそるといった感じで、訊ねました。
「もしもだよ、もしも影を失くしてしまったら……」
「――」
「その人はどうなってしまうの……?」
 老婆はしばらく、沈黙につきました。その背後では、赤い光を放つ影がゆらゆらと揺れています。
「……約束を破ってはいけない」
 静かな声が、そう告げました。
「影が交わした約束は、同時に人が交わした約束でもあるんだよ。約束というのはそういうものなんだよ。それはただの言葉遊びなんかじゃない。そこには世界を変える力が宿っている」
「……」
「影というのは、決してただの写された姿なんかじゃないんだよ。そこには魂が含まれている。そして人は、その見えない存在に守られているんだよ」
 老婆は眠るように目を閉じて言いました。
 エリトもサナリも、ただ黙ってその言葉に耳を傾けます。

 二人はその夜、同じ夢を見ました。夢の中では二人の影が、とても暗い場所に閉じこめられて、助けを求めていました。

 時は流れ、季節が移ろいはじめていました。
 森での生活に二人は慣れ、森も二人の存在に慣れはじめているようでした。はじめは着慣れなかった服も、今ではすっかり体に馴じんでいるようです。
 老婆はそんな二人に対して、森に関することや、その他のさまざまな知識を与え、二人はごく自然にそれを学びとっていきました。新しい名前や物事の成り立ちを理解するたび、世界は二人との距離をより親密なものに変えていくようでもあります。
 とはいえ、森での生活に慣れればなれるほど、二人は奇妙な焦りを感じないわけでもありませんでした。ここは二人にとって、あくまでも見知らぬ他人の家でしかないのです。自分たちの家は、別の場所にありました。けれどここでの生活に慣れるにしたがって、その場所に戻ることはより困難になりつつあるような気がするのです。
 もしかしたら、この間違った場所で永遠に暮らすことになるのかもしれない、と思うと、二人は漠然とした恐怖のようなものを感じないわけにはいきませんでした。けれども、影を失った二人にとって他に行く場所などないことも、事実でした。
 二人は危険な安らぎと、どこか見知らぬ場所の袋小路にはまってしまったような状況の中で、ただ戸惑うようにして時を過ごしていました。結局のところ、二人はまだ無力な子供たちでしかなかったのです。
 時は、二人を奇妙な迷宮の中へ運ぼうとしているようでした。けれど自分たちがもうその中へ入ってしまっているのか、それとも入り口の前で立ちすくんでいるのかは、二人にはよく分かりません。
 そんな不安を覚えるのも、あるいは季節の移り変わりのためかもしれませんでした……。時はどこか不安定に、不恰好に変化しようとしています。すべてのものは時間の大きな歯車の中で、いやおうなく移ろわされていくのでした。

 エリトとサナリがそんな落ち着かない日々を送る頃、老婆は二人に新しい仕事を申しつけようとしていました。それは家畜の世話と糸紡ぎの仕事です。エリトが羊の世話をし、サナリが糸車を回します。
 老婆は二人に基本的な仕事の内容とコツを教えると、エリトには銀の笛を与え、サナリには古い歌を教えました。
 それからエリトに向かって、
 ――その銀の笛は、羊たちに言うことを聞かせるための笛だよ。その笛を正しく吹いていられる限りは、羊たちはあんたの言うことを聞く。夜の空に正しく星が配置されるようにね。ただしその力を少しでも扱い損ねたら、羊たちはあんたの言うことに見向きもしない。わがままな風たちが、かって気ままに空を飛ぶようにね。
 サナリに対しては、
 ――その歌は紡いだ糸を美しくするための歌だよ。その歌を正しく歌っていられるうちは、糸車は機嫌よく回り続け、紡ぎ糸は金の太陽のように輝いて見える。ただしその力を少しでも扱い損ねたら、糸車は狂いだし、糸は蜘蛛の糸のように醜くなる。道に迷った旅人が、行く当てもなく彷徨い続けるようにね。
 老婆はそう、言いました。
 二人は新しい仕事の内容をすっかり覚えてしまうと、さっそくその仕事にとりかかりました。エリトは羊たちを連れて出かけ、サナリは糸車の前に座ります。
 エリトは家の隣の家畜小屋へ入ると、羊たちを導き連れて出かけ、笛を吹きはじめました。笛については、エリトは一通りのことを知っていました。お城にいる時に、ちゃんとそうしたことについても習っていたのです。老婆から受けとった笛は、エリトの習ったものとまったく同じでした。
 はじめの頃、エリトはなかなかうまい具合に笛を吹きました。音の一音一音は正確な歩調を刻み、よく訓練された軍隊のように行進を続けます。羊たちは大人しくエリトの後ろについて歩きました。
 けれどしばらくすると、羊たちは次第に統制を失い、ほどけた糸のようにばらばらになりはじめていました。きっと、退屈してしまったのでしょう。それも無理はないことでした。何しろエリトの知っている曲は、たった一つしかなかったのですから。
 羊たちが言うことを聞かなくなりはじめると、エリトは苛立ち、むきになって笛を吹きました。けれど、むきになればなるほど、状況は悪くなるばかりです。結局、エリトは笛を吹くのを諦め、木の枝を使って羊たちを追わなければなりませんでした。
 羊たちに草を食べさせ、家に帰ってくる頃には、日はもう暮れかけていました。エリトはへとへとで、すっかり疲れきっています。
 ようやくの思いで羊たちを小屋に追い、家の前に来ると、そこには老婆が杖をついて待っていました。
「何てひどい音を出すんだい」
 と、老婆は言います。
「あんたには鳥の歌や、風の囁きや、水のせせらぎが聞こえないのかい? どうしてそれらを音にしようと思わないんだい。何故周りの音楽に耳を傾けず、自分の中のものにとどまろうとするんだい」
 老婆はそう言って、家の中へ戻ってしまいます。エリトには、何も言うことはできませんでした。
 一方、その間、サナリは家の中で糸車の前に座っていました。その小さな部屋には一台の糸車と、紡ぎあわすべき羊毛が置かれています。小さな窓からは陽の光が射しこみ、空気は不思議なほどしんとしていました。
 サナリは糸車を回し、糸を縒りはじめました。最初に手で糸車を回し、糸が縒れだすと踏み板を踏み、糸車を勢いよく回転させます。サナリは力加減をしながら、羊毛を縒りあわせていきました。しばらくは太さが不揃いだったものの、サナリはすぐにコツをつかんでいきます。
 指の使い方、糸車の回し方、それらのタイミングが合ってくると、サナリは教えられたように歌を歌いはじめました。それは母親が子供に聞かせるための歌です。サナリは小さな声で、囁くように歌いはじめます。
 はじめの頃、それはなかなかうまくいっていました。指は繊細に加減され、糸車は調子よく回り続けます。縒られていく糸はきらきらと輝き、すべては順調でした。
 けれどしばらくすると、指の動きはぞんざいに、糸車は不機嫌な運命の女神が回すように、調子はずれになっていきました。縒られていく糸は不揃いで、醜く灰色に濁っているかのようです。
 サナリはこの単調な作業に、すっかり飽きていたのでした。延々と同じことを繰り返し、終わりはどこにもありません。糸車はぐるぐると回り続け、糸が切れないように絶えず注意していなくてはなりませんでした。まるで底の抜けた桶で水を汲もうとしているような、奇妙な徒労感がありました。
 結局、サナリは言いつけられていた半分も、糸を紡ぐことができませんでした。しかもその半分以上は、使い物にならない糸です。
 サナリがへとへとに疲れきっていると、老婆が杖をついて部屋の中に入ってきました。
「何てひどい歌を歌うんだい」
 と、老婆は言います。
「あんたはその歌の意味を、少しでも分かっているのかい? 何故、糸車が回り、糸が紡がれていくのか、考えたことはあるのかい。何故あんたは、自分の中にあるものを見ようとしない。そこには歌うべきものがつまっているというのに」
 老婆はそう言って、部屋を出て行ってしまいます。サナリには、何も言うことはできませんでした。

 二人はそれからも、同じ仕事を続けました。エリトは羊の世話、サナリは糸紡ぎです。
 それは今までとは違った意味で、大変な仕事でした。二人は試行錯誤し、考え、失敗と成功を繰り返さなくてはなりませんでした。正しいやり方を教えてくれるものはありません。そもそも、そんなものはなかったからです。
 それでも二人は、諦めようとはしませんでした。二人は羊を連れては笛を吹き、糸を紡いでは歌を歌いました。
 そうして、いつの頃からとははっきりしませんが、羊たちは言うことを聞き、糸車は機嫌よく回るようになりはじめていました。二人はいつの間にか、確かに何かを得ようとしていたのです。
 エリトは笛を吹きながら、周りの物音や、世界の仕組みについて思いをはせるようになっていました。世界には学ぶべきたくさんのことがあり、その多くはじっとして、人間に気づかれるのを待っているようでした。
 サナリは歌を歌いながら、その意味や、人がどうして糸を紡ぐようになったかを考えていました。人はずっと昔から歌を歌い、糸を紡いできました。そしてこれからも、やはり歌を歌い、糸を紡ぎ続けるのです。何も、変わりません。大切なことは、いつも同じでした。
 そしてサナリはその歌に、何かしら懐かしいものを感じる気がしていました。ひどく古くて懐かしい何かで、それはサナリの心をそっと温めてくれるものです。
 季節が移ろい、時が流れます。
 二人はさまざまな思いを抱えながら、日々を過ごしていました。
 ――そして、一年が過ぎます。

 長い冬が終わり、春がゆっくりと時間をかけて世界を暖めようとしていました。そして小ぎれいな掃除夫のように、春が世界の隅々から冬の跡を払い落としてしまう頃、二人が影を失ってから一年がたとうとしていました。
 二人はなんとなく落ち着かないような、そのくせすっかり諦めてしまっているような、奇妙な気分で時を過ごしていました。一年という時間の一巡りが二人に何かをもたらすような気もするし、このまま変わったことなど一切起こらないような気もします。二人は自分たちの影が今頃どうしているのかを、ぼんやりと考えたりもしました。お城の様子は今、どうなっているのでしょう?
 そんな折、老婆は二人に新しい仕事を申しつけました。それは冬の間に紡いでおいた羊毛を、街にまで売りに行くことです。
「日暮れまでには戻って来るんだよ」
 老婆はそう言って二人に荷物を持たせ、家から送り出しました。二人は毛糸のいっぱいにつまったリュックを担ぎ、街に向かいます。
 街までの道のりは、老婆が詳しく教えてくれました。ところどころに目印があり、それをたどっていくのです。古い切り株や奇妙な形の岩、森の向こうに見える景色や、地面の色の変化――そんなものが道を教えてくれます。
 森の中は丹念な芸術家が筆を振るったように、いたるところに春の装いが施されていました。何匹もの蝶が解放された魂のように宙を舞い、ようやく息をついたような格好で花々が咲いています。
 街へ向かう途中、二人は言葉少なに、ほとんど押し黙って歩いていました。
「お兄ちゃん」
 サナリがふと、呟くように言います。前を行くエリトは、「うん?」と言っただけで、足を止めることはありません。
「街に行くんだよね」
「――うん」
「そろそろだよね」
「――うん」
「もう、はじまってるかな?」
「……」
 二人とも、それっきり押し黙ってしまいます。
 一年――
 それはつまり、当然ながらまた王様の誕生日がやってくるということでした。去年と同じように街では三日かけてのお祝いがなされているでしょう。今までと、なんら変わりないお祭りが。人々は賑わい、その日を言祝ぎ、王様はお城で宴を催すのです。ただそこに、二人がいないというだけで……。
 二人は言葉少なに街へと向かいました。森の気配はゆっくりと薄れていき、二人の中から何かが溶け出していくかのようです。
 しばらくすると、二人は街へと続く道に出ました。森は途切れ、向こうには街と、懐かしいお城の姿が見えます。二人の心は一瞬、言いようのない感情で満たされました。郷愁、悔恨、諦念、悲嘆、そういった感情が胸を切り裂くようです。
 エリトは少しだけ立ち止まってから、おもむろに歩き出します。サナリは後ろでそんな様子を見ながら、黙ってついて行きました。もう、どうしようもないことでした。
 街までやってくると、二人は通りの一つに出て、老婆に教えられた店へと向かいます。街はやはりお祭りの最中らしく、通りは人や物であふれていました。行列が行きかい、露天が開かれ、大道芸人が技を競います。
 けれどそこには、何かしら奇妙な雰囲気がありました。すべてが平板で、作り物めいていました。何か大切なものが欠けている感じです。
 二人は混雑する通りを歩き、途中で路地に入って、目的の場所を探しました。路地に入ると、人影は途絶え、辺りは急にしんとしました。お祭りの喧騒はあっという間に遠ざかり、まるで森の中にいるような沈黙が辺りを覆います。
 二人が、老婆に言われたような白鳥の看板が出されたお店を探していると、それは高い建物に両側をはさまれて、押しつぶされるような格好で立っていました。ちょっと目をはなした隙にぺしゃんこになっているんじゃないかというお店です。
「ここ……?」
 と、サナリが不安そうに訊ねました。
「多分……」
 エリトも、少々疑わしげに言います。
 それでも二人が中に入ってみると、そこは不思議な明るさに満たされていて、外から見るよりもずっとしっかりしていました。店の壁や柱と言った部分はあめ色に輝き、石敷きの床はきれいに掃除をされています。壁いっぱいに並んだ棚は、蜂の巣のようにいくつもに区切られていて、そこには麻糸や絹糸、毛糸といった品が丁寧に納められていました。
 店の奥には古い木材で作られたカウンターが備えつけられていました。けれどそこには、誰の姿もありません。二人は顔を見合わせて、まずはサナリが呼びかけてみました。
「こんにちは」
 返事はありません。
「こんにちは」
 今度は、エリトが言います。やはり、返事はありません。留守でしょうか?
 でも、その時――
「聞こえとるわい」
 と突然声がして、店の奥から一人の老人が姿を現わしました。
 老人は赤い頭巾をかぶり、小さな丸眼鏡をかけています。その顔はひどく気難しそうで、口元には気難しそうな白い髭を、短く生やしていました。老人はチョッキを着て、ズボンをはき、足どりは恐ろしくしっかりとしています。
「聞こえとるぞ、もちろん。そう何度も言わんでいいわい」
 老人はもう一度言って、やれやれといった感じでイスを引っぱりだしました。
「お店の人ですよね?」
 エリトは恐るおそるといった感じで訊ねました。その途端、老人はじろりとエリトのことを見つめます。
「他に何に見える」
 確かに、それはそうです。
「あの、私たち毛糸を売りにきたんです」
 サナリが、隣から言いました。老人は同じように、じろりとサナリのことを見つめます。サナリは少しだけ、怯えてしまいました。じろりと見るのが、老人の癖のようです。
「お前たちがか?」
「僕たち、森から来たんです」
 エリトがそう言うと、老人は二人を交互に見つめ、それから、ああ、ああ、というふうに首を振ります。
「そうか、お前たちか。なら聞きいとるぞ。最初からそう言えばいいんじゃ」
 最初からそう言ったとしても、老人が納得するとは思えませんでした。
 二人はリュックの中の毛糸を渡し、代金として銀貨五枚を受けとります。二人の仕事はこれでおしまいでした。
「お爺さんは、お婆さんと知りあいなんですか?」
 手持ち無沙汰になったところで、エリトが訊ねてみました。エリトはあるいは、老婆のことについて何か分かるかもしれないと思ったのです。
「ああ、何じゃと?」
 老人は急に、耳が遠くなったような様子で聞き返しました。
「お婆さんのこと知ってるんですか?」
 エリトは大きな声で、できるだけはっきりと言いました。
「お婆さんて誰のことじゃ?」
「森の中に住んでる……」
「森?」
「だから、森で一人で暮らしてる……」
「ああ?」
「……」
 なんだか、妙な感じでした。老人はとぼけているような、まるで何も知らないような、不可解な対応をしています。でも二人のことについては、知っていたようなのです。一体、どうやって知ったのでしょう。それとも、老婆は誰か代わりの人間を使って、自分はこの老人の前に姿を現わしていない、とでもいうのでしょうか? けれどそれも、考えにくいことではあります。
「お爺さんは、お祭りを見に行かないの?」
 二人に間が空いたところで、横からサナリが尋ねました。サナリは特に今のやりとりを気にしている様子はありません。王様の誕生日のほうが気にかかっているのでしょう。
「お祭りかね」
 老人は大きく息をついて、イスに寄りかかります。
「行かないよ」
「どうして? お父……王様が嫌いなの?」
 ふむ、というふうに老人は軽く首を振ります。
「そうじゃない。わしはこれでも王室に品物を納めていたこともあるんじゃ。王妃様がまだ生きておられる頃にな。この店の看板は王様と御妃様のお許しをもらったものだ。お二人とも、それは立派で、お美しい方たちじゃった。この国でそれを誇りにしない人間はおらんじゃろうな」
 老人はそう言って、過ぎ去った時間の流れに手をひたすように遠い目をしました。
「しかしここ一年ばかり、何かが変わってしまったんじゃよ」
「何か?」
 エリトが訊ねます。
「そう、何かじゃ」
 老人は大きくため息をつきました。
「この街は確かに何かが変わりつつある。いや、この国が、というべきじゃろう。それも悪いほうにじゃ。不吉な影が、巨大な雲のようにこの国を覆いはじめておる。わしは実のところ、それが悔しくてならん。みんながそれを感じとる。しかし誰にも、どうすることもできん。何が起きているのかさえ分からないんじゃからな。分かるのはただ、何かが悪くなっていることだけじゃ。まるで夢の中で何かに追いかけられるように」
 老人は長く、ゆっくりと語ります。二人は息をつめ、じっと身動きもせずにその話を聞いていました。辺りは乾いた紙で水を吸いとってしまったように、しんとしています。
「祭りも何かが変わってしまった。表面的には、もちろん何も変わっとらん。しかし、それはもう今までの祭りとは別のものになってしまった。祭りとしてもっとも大切だった何かが失われてしまったんじゃ。みんながそれに気づいておる。だがそれでも、祭りは行われなくてはならん。わしは、そんな祭りを見たいとは思わんよ」
 言い終わると、老人はやれやれといった感じで首を振りました。
「すまんな、長々としゃべってしまって。子供にこんな愚痴っぽい話をするなんて、わしもどうかしている。しかし、何せ話し相手もおらんのだ、許してくれ」
「……」
 エリトはうつむいて、ただ小さく首を振りました。老人は王様や王妃を尊敬して、確かにこの国のことを心配していました。
「私は嬉しかったよ」
 エリトの横で、サナリが笑顔を浮かべて言います。サナリは素直に、老人の話を喜んでいました。
「お爺さんは、王様も王妃様もこの国もこの街も、みんなのことも、もちろんお祭りも、みんな大好きなんだよね。だからいっぱい、心配してるんでしょ。だから私、嬉しいの」
 そう言われると、老人は古い時計のようなぎこちない微笑を浮かべ、ありがとう、と呟きました。
「子供というのは、いつでも我々の希望だからな。ついつい要らんことを言いたくなってしまうんじゃ。だからつい、長々と話をしてしまった」
 老人がそう言うと、三人の話はもうすっかり終わってしまったようでした。それぞれの時間に、帰るべき時です。
「さよなら」
 と、老人が言いました。
「さよなら」
 エリトとサナリも言いました。
 二人はお店を後にすると、黙ったまま歩きはじめました。空っぽのリュックはすっかり軽くなっていて、なんだか落ち着かない感じです。路地を抜け、通りへと戻ると、また賑やかな喧騒が待っていました。
 二人はそんな喧騒の間をすり抜けるようにして歩き続けます。人々は相変わらず、飲んだり、食べたり、騒いだり、しゃべったりしていました。それは今までのお祭りと、何ら変わることのない光景です。けれどやはり、それはどこか作りものめいていました。人々は誰もがそのことに気づきながら、それでも同じように振る舞っていました。まるで見たくないものから目をそらすように。
 しばらくすると、エリトもサナリもこの祭りの中でどこが一番変わってしまったのかに気づきました。それは、子供たちの姿が見られないことです。いえ、もちろん子供がいないというわけではありません。幾人かの子供は、お菓子を食べたり、大道芸人を眺めたりしています。けれど子供たちは誰も、楽しそうに遊びまわったり、仲間同士でふざけて走り回ったりはしていません。みな、まるで興味もなさそうにいつもと同じ顔をしています。
 老人が言うように、確かにこの街はどこか、変わってしまったようです。
 それも、一年前に――
 二人が影を失った、その時から。
「……」
 二人はやはり、無言のまま歩き続けます。
 やがて二人は街の、噴水のある広場へとやって来ていました。広場の周辺には白いテントが張られ、市や露店が開かれて人々が大勢その間を行きかっています。
「ちょっと休んでいこうか」
 と、エリトがサナリに向かって言いました。
「うん」
 サナリは頷きます。日が暮れるまでには、まだだいぶ時間がありました。
 二人は噴水の縁に座り、しばらく休憩することにします。噴水からは勢いよく水が吹き上がり、その水は空の青さの中で散ってから、水盤の中へと落ちてきました。
 サナリがふと見上げると、その空の向こうには小さなお城の姿が見てとれます。丘の上に建つお城は、なんだか遠いような近いような、不思議な感じをサナリに与えました。
 もうあそこには戻れないのだと思うと、サナリは言いようのない悲しみに教われました。そこにあった大切な何かは、もう失われてしまったのです。もう二度と、その扉がサナリのために開くことはありませんでした。
 サナリが心の中で泣き出しそうになった時、急に笛の音が聞こえてきました。隣を見ると、エリトが銀の笛を取り出して、目を閉じて静かに音を奏でています。それはサナリをなぐさめ、優しく包み込むような曲でした。
 その笛の音色を聞いていると、サナリの心は次第に落ち着いて、温かさを取りもどしていきます。やがてサナリは調子をあわすようにゆっくりと、けれどしばらくするとよく徹る声で、歌を歌いだしました。
 ――それは二人がかつて、お城にいた時のことを音楽にしたものです。その時には気づかなかったけれど、二人はそこでたくさんのものをもらっていました。気づかい、優しさ、慈しみ、心地よさ、まなざし、柔らかな言葉、温かな空気――愛情。それは本当に大きなものでした。今になって、二人はようやくそのことが分かります。それは本当に大切なものだったのだ、と。
 二人はただ無心に、笛を吹き、歌を歌いました。音にし、言葉にすべきことはいくつもあります。そして二人は、その方法も知っていました。
 どれくらい、たったでしょう。
 いつの間にか、二人の周りには人々が集まり、その音楽に耳を傾けていました。誰もがその曲に、何かを感じとっていました。この世界にとって、とても大切な何かを。
 二人は長いこと、みんなが耳を澄ましていることに気づきませんでした。二人は目を閉じて、自分たちの心の中にあるものを見つめていたのです。だから周りのことには、まったく気づいていませんでした。
 けれど不意に、二人はなんだか周りの様子がおかしなことに気づきます。ざわめきや賑わいが聞こえてきませんでした。そうして二人は目を開けて、みんなが自分たちの笛と歌を聴いていることに気づきます。
 エリトもサナリもびっくりして、思わず演奏を途中でやめてしまいました。風船から空気が抜けてしぼんでいくように、音楽はゆっくりと止んでしまいます。
 周りでは、人々が黙って二人を見つめていました。二人はどうしてよいかも分からず、ただじっとしています。時間が奇妙な重みを持って、のしかかってくるようでした。
 しばらくすると、二人は慌てふためいて、まるで悪いことでもしたかのようにその場所から逃げ出してしまいました。誰かが二人を呼び止め、誰かが二人の音楽を誉めたようでしたが、その言葉は二人の耳には入りません。
 大急ぎで足を動かし続け、エリトとサナリは街の外れにまでやって来ました。そこまで来ると、もう誰も二人に注目しようとする人間はいません。二人はようやく息をついて、足を止めます。エリトもサナリも、今までにこんなにびっくりしたことはありませんでした。
 いくら時間がたっても、胸のドキドキがなくなりません。それは胸の奥深いところで、金槌で叩くように強く鳴っていました。
 しばらくして、
「びっくりした」
 と、エリトが言いました。
「びっくりしたね」
 と、サナリも言います。
 それから二人は顔を見あわせて、くすくす笑いあいました。二人とも、なんだか奇妙におかしな気分でした。今日は何ともおかしな一日になってしまったようです。
 二人はそれから、日が暮れる前に老婆の家へと帰りました。
 ――それは王様の誕生祝いの、一日目のことです。

 エリトもサナリも、これでもう街に行くことはないのだろうと思っていました。老人の話も、街の様子も、一体お城がどうなっているのかも、気にはなりましたが、二人にはどうすることもできないことです。
 ところが、翌日になると老婆はまたもや街に出かけるよう、二人に言いつけました。今度は街で、塩や香辛料、その他必要な雑貨品をそろえてくるのです。
「日暮れまでには戻って来るんだよ」
 老婆はそう言うと、二人に空のリュックを持たせて家から送り出しました。二人は何も入っていない空のリュックを担いで、街へと向かいます。老婆が何を考えているのかはよく分かりませんでしたが、二人がそれに逆らうことはできませんでした。
 二人は前と同じ道順をたどり、街へとやって来ます。街は相変わらずお祭りの最中で、大勢の人たちで賑わっていました。けれどその様子は、昨日とまるで変わるところがありませんでした。昨日の続きというより、昨日そのものの中に戻ってきたような感じです。
 二人はそんな街の中を歩き、老婆に教えられた看板を見つけては、必要なものを買いそろえていきました。空のリュックはまたたくまに荷物でいっぱいになり、けっこうな重さへと変わります。
 買い物が終わると、二人はまたこの前と同じように噴水のある広場へとやって来ました。噴水の水は相変わらず青い空の中で散って、その向こうには小さなお城の姿が見てとれます。二人とも噴水の縁に座って、黙ったままその光景を眺めていました。
 広場の様子は相変わらずでしたが、二人のことに気づく人たちはいないようでした。この前と同じ人々がここにいるとは限りませんでしたし、あるいは影を失った二人は人々の記憶にはとどまらないのかもしれません。いずれにせよ、二人にとってはそのほうがありがたくはあります。
 二人が足の疲れをとり、ぼんやりとお城を眺めていると、不意に声がして二人は振り向きました。そこには子供たちが数人、集まっています。
 子供たちは二人よりやや幼いくらいの年齢で、いずれも身なりのよくない、汚れた格好をしていました。エリトもサナリも大してきれいな格好はしていませんでしたが、それよりもなお汚れているくらいです。きっと貧しい家の子供で、彼らもまた家の仕事に追われているのでしょう。
 子供たちのうち、一番年長らしい男の子が二人に向かって言いました。男の子の髪はぼさぼさで、顔もほこりにまみれています。
「あんたたち、昨日ここにいただろう?」
 エリトとサナリは顔を見あわせ、それからエリトが慎重に答えました。
「いたよ、それがどうかした?」
「笛を吹いて、歌を歌ってたよな」
 エリトはちょっと緊張した顔を作り、サナリを後ろにかばうようにしました。見世物にされるようなことは、ごめんです。この少年は一体、何を考えているのでしょう。
 エリトが警戒していると、少年のほうでもそれに気づいたらしく、戸惑ったような、照れ隠しをするような笑いを浮かべて、ごまかすように頭をかきました。
「いや、なに……」
 少年は口ごもりながら、子供たちのうちで一番年の小さそうな女の子の肩に、手を置きます。
「こいつがあんたたちの歌をもう一回聞きたいって言ってな。昨日は俺たちで街中探し回ったんだぜ。でもあんたたちはいなかった。俺は諦めろって言ったんだけど、こいつはまるで聞かないんだ。それでもし今日、広場に現れなかったら、諦めろよって言ったんだ。こいつは絶対に来るって言って、俺たちは絶対にこないだろうって言った」
 少年はそこでまた照れたように笑って、女の子の頭に手を置きました。女の子はそれに気づかないかのようにじっと、真剣な目でエリトとサナリのことを見つめています。
「で、あんたたちが本当にいたんで、声をかけたってわけなんだ。別に喧嘩をふっかけようってわけじゃないから、安心してくれ。あんたたちに悪さしようってつもりもないんだ」
 エリトとサナリはもう一度顔を見あわせました。それから今度はサナリが、女の子に向かって訊きます。
「私たちの笛と歌を聞きたいの?」
 女の子は表情を変えないまま、少し怯えるように、おずおずと頷きました。
「うん――聞きたい」
 サナリが続けて、優しく質問します。
「昨日も聞いてたんだって?」
「うん――聞いてた。……それでね、とっても素敵な音だったの。なんだかね、お母さんのことを思い出したの」
「お母さん?」
 サナリがよく分からない、という顔をします。
「こいつの母親は去年、死んじまったんだ。風邪を三度ほどこじらせてね。それで今は孤児院に入ってる。俺たちのほとんどがそうだけどな」
 少年がそう言うと、子供たちの何人かが屈託なく笑って見せます。たくましい子供たちでした。
「実を言うと、俺たちもあんたたちの歌を聞きたかったんだ」
 と、少年は告白するように言いました。
「何ていうか、とても懐かしい感じがするんだよ。よく分からないけれど。こいつが言ったみたいに(と、少年はまた女の子の頭に手を置きます)、親父だとかお袋のことを思い出すんだ。とても昔のことを」
 昔、という少年の言葉に二人は少しおかしくなりましたが、考えてみれば二人も、それと同じような気分でした。たった一年前のことが、今では遠い昔のことのように思えるのです。
 二人は再三、目配せをしあうと、軽く頷きました。
「いいよ」
「私たちでよければ」
 エリトとサナリは、そう言います。
 途端に、女の子は真剣だった顔をぱっと輝かせて、表情をやわらげました。そうすると女の子は、見た目通りのあどけない少女へと姿を変えました。他の子供たちも嬉しそうに、年相応の子供らしさをのぞかせます。
「じゃあ、いくよ」
 エリトがそう言って、二人は演奏の準備をはじめました。エリトは銀の笛を取り出すと手に構え、サナリのほうを見ます。サナリは少しだけ息を吸って、こくんと頷きます。周りには、何も知らない大勢の人たちが歩き回っていました。
 笛に口を当てると、エリトは調子よく音を鳴らしはじめます。それはこの前よりも、ずっと軽快な、明るい音楽でした。やがてサナリがその音にあわせるように、歌いはじめます。二人ともできるだけ明るい、楽しい曲を聞かせてあげたいと思っていました。子供たちは耳を澄まし、じっとその音に聞き入ります。
 水が踊り、魚が唄う――
 風が遊び、鳥が舞う――
 人々が集い、家族が手をとり、恋人が見つめあい、犬と猫が笑い、お祭りが続き、誰かが誰かのことを想っている、誰かが何かを大切にしている。
 二人がそうして曲を奏でていると、いつの間にか道行く人々は足を止め、子供たちと同じように耳を傾けはじめていました。広場のざわめきが少しずつ遠くなり、やがて森の奥のような静けさが辺りを覆います。
 響いているのは、ただ笛の音と、歌の声、水音と風の囁きだけです――
 やがて二人はゆっくりと、夜がゆっくりとやってくるように、静かに息を止めました。最後の一音がそっと、空気の中に溶けていくようです。そしてそのあとには、完全な沈黙がやって来ました。
 ……どれくらい、たったでしょう。
 不意に、女の子が手を叩きました。それは、小さな拍手でした。
 するとその周りの何人かも、手を叩きす。それは波音が大きくなるように、段々と大きくなっていきました。やがて、割れんばかりの拍手が、広場を包みます。誰もが――二人の演奏を聞いていた誰もが、惜しみない拍手を送っていました。まるで、小さな奇跡を目にしたかのように。
 大波のような拍手に、二人は最初戸惑うばかりでした。自分たちがその中心にいて、自分たちがその拍手を起こしたのだということが、なかなか分かりません。まるで自分たちが、自分たちでないようでした。
 けれど鳴り止まぬ拍手の中で、女の子がそばへと近よってきます。女の子はサナリのほうに、そっと手をのばしました。サナリはその手をとって、女の子を抱きしめてやります。それはまるで、母親とその子供を見るような光景でした。
 エリトは周りの人たちに軽くお辞儀をしつつ、少年のほうへと近づきました。それから、少年に一つだけ質問してみます。
「君は、僕たちの影≠ェ見えるかい?」
「影?」
「うん、約束を交わした影≠フことだよ」
 少年は不思議そうな顔をしました。
「なんだかよく分からないけど、影ならちゃんとついてるぜ。あんたたちの後ろに、立派な影がね」
 エリトは少しだけ笑います。
「ありがとう」
 それから二人は人々の間を抜け、今度は歩いて広場をあとにしました。いつの間にか陽は傾きはじめ、太陽は西の果てへと向かいはじめています。
 二人は陽の沈む前に、老婆の家へと戻りました。
 ――それは王様の誕生祝いの、二日目のことです。

 次の日になると、いつもと同じ朝がやって来ました。二人はいつものように水汲みに出かけ、朝食の準備にとりかかります。今日も、いつもと同じ一日がはじまるはずでした。
 けれどしばらくすると、老婆はまた二人を街へと使いにやりました。今度は教会へお祈りに行ってこいというのです。
「日が暮れる前には戻って来るんだよ」
 老婆はそう言うと、二人をそのまま家から送り出しました。もちろん、お祈りに行くだけですから、二人は何も持たずに街へと向かいます。老婆が何を考えているのかは、やっぱり分かりませんでした。
 それに今度は、老婆はもう一つ言葉をつけ加えています。
 ――いいかい。
 と、老婆はひどく重要なことを告げるように言いました。
「あんたたちが教会でお祈りをして、そして外に出たら、一番最初に拾ったものを大切に身につけておくんだ。そいつは空から降ってくるから、よくよく気をつけておくんだよ。もしもそいつを失くしたりしたら、大変なことになるから注意しておくんだね」
 老婆の口調ははっきりと、二人をおどすようでした。
 家から離れて森の中を歩きはじめた頃、サナリが不安そうに訊ねました。
「おばあさんの言ってたの、どういう意味かな?」
「さあな」
「大変なことって何かな……。カエルに変えられちゃうとか?」
 サナリはまだ、老婆が魔法使いだという説を捨ててはいないようです。
「まさか。教会にお祈りに行くんだ」
 エリトは笑います。魔女が教会に行けだなんて、そんなことを言うはずがありませんでした。
「じゃあ、何であんな変なこと言ったの?」
「変なのは前からだよ」
 エリトはそう言ったきり、サナリの話にとりあおうとはしませんでした。サナリは仕方なく黙って、けれど胸のうちでは老婆の言葉について、いろいろと想像を巡らしていました。
 森の中の目印をたどって、二人は街へとやって来ます。街はお祭りの最後の一日とあって、それまでよりいっそう賑やかな様子を見せていました。けれどそれは、やる気のない劇団が、もう百回は同じことをやったというふうでもあります。お祭りは表面の賑やかさに反比例して、日一日とその熱気を失っているようでもありました。
 二人はとりあえず人通りでごった返している通りを、離れ離れにならないように手をつないで歩き、教会を目指しました。教会はなだらかな坂道の上にあって、登りきると、同じ高さにお城を望むことができます。
 教会前広場にやってくると、中心地よりまばらとはいえ、そこにも人ごみはありました。いくつかの露店が立ち、大道芸人が手品を披露しています。二人はその間を抜け、教会の中へと入っていきました。
 大扉についた小さな扉をくぐると、厚い壁と鉄の扉にさえぎられて、外の世界の音はほとんど何も聞こえてきませんでした。時折、太鼓か何かを叩く音が鈍く伝わってくるほかは、教会の空気は眠るようにしんとしています。壁いっぱいを覆うステンドグラスは、外から入ってくる光を細かくろ過しているようで、教会の高い天井はそんな透明な光に満たされていました。
 荘厳な空気と、清澄な光。
 そこはまるで、明るい森の中にでもいるような場所でした。
 二人は入り口近くにたたずんだまま、しばらくそんな教会の様子を眺めていました。祭壇まで続く身廊にはいくつもの長イスが並べられていましたが、そこに座っている人の姿は一つもありません。みんなお祭りに出かけて、教会にはやって来ていないようです。この広大な空間には今、二人のほか誰もいないのでした。
 エリトとサナリは祭壇のほうに向かって、ゆっくりと歩きはじめます。この教会には、二人は何度か来たことがありました。お城で何かの儀式があると、この教会が使われるのです。なんでも教会はこの国が作られた時、古い王様がお城と一緒に建てられた、由緒あるものだという話です。そして二人は覚えていませんでしたが、王妃が亡くなったときに埋められたのも、この教会の墓地なのでした。
 二列に並んだ長イスの中央を通り、二人は祭壇の前へとやって来ます。エリトとサナリは跪き、短い礼拝の文句を唱えました。二人はそれから、それぞれにお祈りを捧げます。
 とはいえその内容は、同じものでした。
 しばらくしてエリトが立ち上がると、サナリもそれにならって立ち上がりました。二人はちょっと確認するように頷きあってから、教会の外に向かいます。
 ――いいかい。
 老婆の言葉がよみがえります。
 ――あんたたちが教会でお祈りをして、そして外に出たら、一番最初に拾ったものを大切に身につけておくんだ。
 二人は入ってきたところと同じ小さな扉をくぐると、教会の外へ出ます。
 教会の外では、二人が中に入るまでと何ら変わることのない光景が広がっていました。いくつかの人ごみ、露店、大道芸人の姿――何も変わっていません。
 二人が周りを見渡してみても、広場には特に拾うべきものも、拾わなくてならないものも、存在しないようでした。二人はどうしていいか分からず、ちょっと戸惑ったように門の前で立ち尽くしています。
 その時、
 ――バサッ、バサッ。
 という音がして、二人は空を見上げました。それは何か翼の大きなものが、羽ばたくような音でした。けれど空を見上げてみても、どこにもそれらしい姿は見えません。
 その不思議な、鳥の羽ばたくような音は、段々と遠ざかっていくようです。そうしてどこか遠くにその音が消えてしまうと、辺りは何事もなかったかのように元へと戻ったようでした。一体、本当にそんな音がしていたのかどうかさえ、分からなくなってしまいます。
 エリトは、頭の中にこびりついた夢の欠片をとり払うように何度か頭を振ると、とにかく歩き出そうとしました。けれど不意に、その服の袖を誰かにつかまれています。
「?」
 見ると、サナリでした。エリトが何か言おうとすると、サナリはその前に、
「お兄ちゃん、あれ――」
 と、空を指さしました。エリトもそのほうを見てみると、空の上から何か、小さな白いものが降ってくるようです。
 それはふわふわと、まるで何かの魂のようにゆっくりと、地上へと降りてきました。そして二人が何をするでもなく、その二つのものは二人の手の平へと収まります。それは白鳥の、二枚の羽根でした。
 二人は不思議そうに顔を見あわせ、それから自分たちの手の中の羽根にじっと見入ります。教会を出て、一番最初に拾ったもの――それはどうやら、この羽根のことのようでした。白鳥の羽根は雪の綿毛のように軽く、白く輝いています。
「これを失くさないようにすればいいの?」
 サナリが両手の上に、大切そうに羽根を乗せながら言います。
「そうらしい」
 エリトは軸の部分を指でつまみながら、疑わしそうに答えました。とりあえず、どこといって変わった羽根には見えません。それはごく普通の、よくある鳥の羽根のようでした。
 と、サナリは何か思いついたらしく、自分の羽根を持ってエリトのほうに背伸びをします。エリトがよく分からないままでじっとしていると、サナリは何かの作業を終え、ちょっといたずらっぽく笑いました。
「これで失くさないよね」
 エリトが見ると、ちょうど服の左襟の部分に、サナリの白い羽根がつけられていました。白い羽根はまるでそうあるのが当然であるかのように、ごく自然にその部分にくっついています。
 エリトは少しだけ苦笑すると、自分の羽根を持ってちょっとかがみ、サナリの右襟に同じくその羽根をさしてやりました。サナリは嬉しそうに、その場でくるりと回って見せたりします。けれど確かにその飾りは、二人が美しい白鳥の化身であるかのような印象を与えるものでした。
「さあ、帰ろうか」
 エリトがしばらくして、はしゃぐサナリに向かって言います。
「うん」
 サナリはくるくると回るコマのような動きを止めて、大きく頷きました。
 二人は坂道を下り、街の中心地へと道をたどります。石畳の坂道を歩く間、街路樹の向こうには玩具のようなお城の姿が見え隠れしていました。二人はほとんど何も言わず、お城のほうに顔を向けていました。けれど丘を下りる頃には、その姿は高い建物に遮られて見えなくなってしまいます。
 街中に戻ってくると、パレードが通りを行き、人々のざわめきが辺りを満たしていました。そんな中で、襟に白い羽根をつけた子供たちを気にするような人間はいません。二人ははぐれないようにもう一度手をつなぐと、人ごみの中を歩いていきました。
 賑やかな音楽――
 楽しげな歓声――
 街は華やかさに包まれています。でもそれは、どこか空虚でした。そして人々は、誰もがそれを承知ではしゃいでいるのです。
穴の空いた風船に、無理にでも空気を詰めこもうとするかのように。
 二人はそんな奇妙な街を、何も言わずに歩いていました。エリトが先を行き、サナリがその手を握って、あとに続きます。二人とも、お互いにどこを目指しているのか、知っていました。お互いにそれを知っていることも、知っていました。
 二人は互いに手を引きあい、噴水の広場へとやって来ます。
 そこからは、一番良くお城を眺めることができました。二人は人ごみを避け、広場の中央にある噴水へと近づきます。空に飛び散った水の向こうには、相変わらず小さなお城の姿を見ることができました。
 二人は今までと同じように、噴水の縁に腰かけます。二人は人ごみにいるときと同じように、手をつないだままでした。そしてお城の姿を見ながら、その手をぎゅっと強く握ります。このまま、何もできないのでしょうか。
 一年前――
 変わりはじめた街――
 影を失くしてしまった二人――
 二人がそんな想いを同じように抱えていると、不意に広場の一角がざわつきはじめました。何かがこちらにやって来るようです。音にならない言葉が鈍い響きのように人々の間を伝わり、一種の沈黙が人々の動きを止めます。
 やがて人々の間をかき分けるようにして、何人かの人々が姿を現わしました。その姿を見たとき、二人はびっくりして言葉も出ませんでした。何しろそれは、お城の兵士を連れた大臣だったのです。大臣は相変わらず丸い眼鏡をかけ、太ったお腹をしていました。
 けれど二人がもっと驚いたのは、大臣が二人に向かってこう言ったことです。
「そなたたちのことは、うむ、大変な評判になっておる。何でも素晴らしい音楽を奏でるとか」
 大臣は何度か咳払いをしました。けれどもちろん、風邪を引いているわけではありません。
「そこでだ、その噂を聞いて、是非とも国王の祝いの席に招きたいと、うむ、思ったわけだ」
「……」
 二人は呆然として、一言も口にすることができませんでした。大臣は、む……、と顔をしかめ、
「もちろんこれは、うむ、大変名誉なことだ。わが王国は子供といえど、うむ、優れたものならば正当に評価することを旨としておる。だから子供だからといって、遠慮することはない。うむ……」
 そう言うと、大臣は二人の反応を見るようにいったん口を閉ざします。
 けれど二人の頭は、まだ壊れた蜂の巣のように混乱していました。一体、何が起こっているのでしょう。自分たちがお城に招かれる――? それも王様をお祝いする役として――?
「あ、あの」
 と、エリトがともかく、何か口にしようとします。けれど言葉は頭の中でぐるぐる回り続けるばかりで、少しも出てきません。
「私たちが、王様の前で演奏するってことですか?」
 サナリが、エリトの代わりに口にします。混乱しすぎて、サナリはかえって落ち着いているようでした。
「その通り」
「で、でも僕らは……」
 エリトが、何とか言葉を口に出そうとします。
「大変に名誉なことだぞ」
 大臣は、にこやかに言いました。
「僕ら……」
「こんなことは二度とないだろう」
「僕……」
「十分な褒美もいただける」
「……」
 エリトは段々と、黙ってしまいました。エリトには、何がなんだかよく分かりません。だって、本当は自分たちは――
 その時、エリトの右手がぎゅっと強く握られます。見ると、サナリはうつむいたまま、けれど表情だけは強く決意したものを浮かべていました。サナリはもうどうするか、決めてしまっているようです。
「――」
 エリトも、決めました。
「分かりました」
 と、エリトは落ち着いた声で言います。
「ありがたく、お招きに預からせていただきます、大臣殿」
「それはよかった」
 大臣は、今度は本当ににっこりとして言いました。
「それでは今から、うむ、我々についてきてもらいたい。お城まで案内いたそう」
 大臣はおつきの兵士に目配せすると、先に立って歩き出しました。兵士たちは二人を囲むようにして、それに続きます。二人は周りを兵隊に囲まれて、大臣のすぐ後ろをついて行きました。それはなんだか、護衛されているというより、二人が逃げ出さないよう監視している、という感じです。
 お城に行く道の途中、大臣は一度だけ振り向いて二人に訊ねました。
「ところで君たちとは、どこかであったことはなかったかな?」

 お城の正門は開け放たれ、二人はそこを通って中へと入ります。兵隊の訓練や騎馬試合に使われる中庭を抜け、一行は城内へと足を踏み入れました。二人はもちろんこれから行く広間の場所を知っていましたが、大人しく大臣のあとについて行きます。
 王様の誕生祝いだというのに、お城の中はどこか暗く、そして人のいないように静かでした。足音はいやに大きく響き、誰かがそっと聞き耳を立てているような感じです。廊下を歩いても人影はなく、まるでここが死者の城であるかのようでした。
 何かが、起こっているのです。それも悪い何かが。お城の様子は街のそれよりも、なお悪くなってしまっているようでした。というよりこのお城を中心に、腐蝕が進むようにして何かは広がっているのです。
 二人はいくつかの階段を上り、いくつかの廊下を渡り、やがてその部屋の前にやって来ました。大臣が目配せをし、兵隊が頷きます。それから大臣は、広間の扉を開きました。
 扉が開かれると、中で何かの口上を告げる言葉が聞こえます。「次なるは、城下でも評判の子供たち。優美なる少年の笛と、可憐なる少女の歌でございます。……」そんな感じでした。
 入り口のところからは遠すぎて、二人にはまだ奥に座っている人々の顔は見えませんでした。やがて大臣が歩を進め、少し遅れて二人は続きます。兵士たちは外の廊下に残り、一人が広間の扉を閉ざしました。
 大臣は御前近くまでやってくると、二人をその場にとどめ、自分は壁際へと退きます。二人は真紅の絨緞の上に二人きりでとり残され、周りでは近衛兵や儀仗兵、貴族たちが二人のことを見ていました。二人はひどく緊張して、頭がぼうっとしてしまいます。
 二人の前には王様が、そしてその左右には、王子と王女がイスに腰かけていました。覚悟していたこととはいえ、その姿を見ると、エリトもサナリもひどいショックを受けざるをえませんでした。自分たちのほうこそが、偽物であるかのような気分になってしまいます。王子と王女は二人とまったく同じ姿で、この一年間、二人自身としてお城の中で暮らしてきたのでした。そして今、二人は芸人としてお城に呼ばれ、偽物の二人は王様の隣の席に座っています。どう考えても、おかしな話でした。
 けれど、もっとおかしな話として、そこには何と、あの人形使いの姿もありました。二人が驚いたのと同じように、人形使いも二人の姿を見てぎょっと驚いたようでした。よくよく見ると、それは二人の服の襟のあたりを見て驚いているようでしたが、二人はそれには気づきません。人形使いは三人の、その後ろに控えていました。
「幼いながら、大変素晴らしい音楽を奏でるとか」
 しばらくして、王様がそう言葉をかけます。
「見れば、わが王子と王女と同じくらいの年頃のようだ。君たち二人は、いつもそんなふうにして暮らしているのかね?」
「そうでもありません、おと……王様」
 エリトが答えます。
「では、普段は何をしているのかな?」
「森でお婆さんと暮らしているんです」
 サナリが答えました。
「森で……、それはなかなか大変そうだ。二人は兄妹かな? 親はいないのかね? 城下の養護院に入ろうという気はないのかな?」
「お気遣いは大変ありがたいのですが、僕たちはお婆さんのそばを離れるわけにはいかないんです」
「どうしてかね?」
 エリトがちょっと答えかねていると、サナリがすぐに言いました。
「私たちは、お婆さんのことが好きなんです。笛も、歌も、お婆さんが教えてくれました。お婆さんはたくさん、大切なことを教えてくれたんです」
 王様はふむ、と頷いて、その答えに満足したようでした。王様は心持ち表情を柔らかくして、
「私も、そのように素晴らしい家族を持ちたいものだ。残念だが、私の妻であり、この子たちの母である王妃は、ずいぶん前に亡くなってしまったのだよ。私の妻も、君たちがそのお婆さんを大事に思うように、子供たちに思われたかったことだろう……」
 そう言うと、王様は王妃のことを思い出して、少しだけ悲しくなったようでした。音のない気配が王様の顔を覆い、やり場のない感情が草原の小さな影のように王様の顔に現れます。
 二人はそんな王様の姿を見て、自分たちも少しだけ悲しくなりました。今なら、王様が一体何を失ったのか、分かるような気がしたからです。
「それでは、そろそろ演奏をはじめてもらうとしよう」
 王様は表情を元に戻すと、そう言いました。その隣で、エリトとサナリの影を持った王子と王女は、さっきから黙ったまま表情を動かそうともしません。それはなんだか、壊れて動かなくなった機械を思わせました。本物の二人を前にして、影たちは戸惑っているのかもしれません。
「えと……では、はじめさせてもらいます」
 エリトは一呼吸置いて気持ちを落ち着かせると、王様に一礼しました。サナリも、隣でそれにならって、丁寧に頭を下げます。
 それからエリトは銀の笛を取り出し、サナリのほうを見ました。サナリは何かを確かめるように胸に手をあて、ゆっくりと一度息をはきます。サナリは軽く頷きました。エリトは笛を口にあて、最初の一音を奏でます。
 エリトとサナリは、王様のことを思い浮かべながら音楽を奏でていました。王様――自分たちのお父さん。おそらくこの世界でもっとも二人を愛してくれている存在。二人は王様が自分たちにしてくれたこと、二人が王様にして上げられなかったことを考えます。
 笑ったこと、泣いたこと――
 優しくされたこと、厳しくされたこと――
 はじめて誉められたこと、はじめて叱られたこと――
 与えられたもの、受けとったもの、手渡されたもの――
 つながれた手の温もり。
 二人はその一つ一つを、思い出します。二人はそれがどんな意味を持っていたのか、今なら分かります。――優しい、温もり――。誰かが自分たちを本当に愛してくれたこと。
 そのことは、二人の心に不思議な感情を呼び起こしました。二人にはそれが何なのか、すぐには分かりません。でもそれが、感謝≠ニ呼ぶべきものであることに、二人は気づきます。二人は王様に対して、心から感謝していました。
 育ててくれたこと――
 愛してくれたこと――
 自分たちが、この人の子供であることの幸福。
 二人はそのことに、気づきます。ずっと気づけずにいたこと。けれど気づくと、心がふわりと温かくなること。自分たちを包んでいる、柔らかな愛情。
 エリトとサナリは、そんなことを思いながら演奏を続けます。心からの感謝をこめて。
 でも――もうその感情を王様に伝えることはできませんでした。これはあくまでも、森に老婆と三人で住む子供たちの音楽であり、王様の子供であるエリトとサナリの音楽ではなかったのです。そのことは、二人をどうしようもなく悲しい気分にさせます。けれど、今はもう、どうすることもできませんでした。
 やがて、二人の演奏は終わります。
 伝わらない感謝の気持ちをこめた演奏は、けれど王様を大変に感激させたようでした。もしかしたらそこにこめられた二人の気持ちを、王様は十分に感じたのかもしれません。もちろん、今や本物となっている王子と王女は、その隣にいるのですが。
 二人の音楽は王様だけでなく、広間にいた全員の心をも揺り動かしたようでした。どこからか小さな拍手が起こると、たちまちその場にいた全員が手を叩きます。王様も手を叩き、謹厳な兵士たちですら手を叩いていました。二人は少し顔を赤くして、そんな拍手に囲まれています。
 とはいえ、中には手を叩いていないものもいました。それはイスに腰かけたままの王子と王女、それからその後ろに控える人形使いです。二人は無表情なままで、人形使いは苦虫をかみつぶしたような表情をしていました。人形使いは実際、この光景を苦々しく思わざるをえなかったのです。
 そう、それは王子と王女の影を見れば分かります。広間の誰も気づいてはいませんでしたが、それは小刻みにぶるぶると震え、ひどく不安定な様子をしていました。その意味を、人形使いは知っています。これ以上の事態が起こるのは、人形使いは避けなければなりませんでした。
「素晴らしい音楽だった」
 ひとしきりの拍手が鳴り止んだ頃、王様が二人に向かって言います。
「確かに君たちの音楽には、人の心を動かすものがあるようだ。その人のずっと心の奥、光さえ届かずに古い暗闇に覆われていた部分に。君たちの演奏を聞けて、私は嬉しく思うよ。ありがとう――」
 王様はそう言って、飾りのものでない、本当の笑顔を見せます。二人はそれだけで、幸せな気持ちになることができました。少なくとも、何かは届いたのです。
「……ところで、どうだろう」
 王様は少し、咳払いをしました。
「ぶしつけとは思うが、もう一度、その音楽を聞かせてもらえないだろうか? これは決して命令や強制ではなく、私個人の頼みとしてお願いするものだ。どうか、もう一度その演奏を聞かせてはもらえないだろうか」
 広間の中は穏やかな、同意の沈黙に満たされていました。誰もが同じ思いでいるのです。
 ところが、広間の一角から、急に反対の声が上がりました。それは、王様の隣からでした。
「僕は聞きたくない」「私は聞きたくない」
「もう帰ってもらってけっこう」「もう帰ってもらってけっこう」
 二人は機械のように声をそろえて言います。広間は途端に、しんとしてしまいました。
 その後ろでは、人形使いがなにやら指を動かしています。
「いや、エリト、サナリよ」
 静まった水面に小石を投げ込んだように、王様の声が響き渡ります。
「最近のお前たちは大人しく、素直な様子を見せている。言うことはよく聞くし、勉強も熱心だ。王子や王女として、恥ずかしくない態度をとっている。しかし――お前たちは何か、大切なものを忘れてしまっているような気がする。それが何なのかは分からん。けれどそれは、とても大切なものだ。だからこそ、お前たちにはこの音楽を聞いて欲しいのだ。これはお前たちを愛する父親からの、真摯な願いなのだ」
 王様がそう言うと、二人は黙ってしまいました。後ろでは、人形使いがさっきよりもなお苦々しい表情で動きを止めています。もちろん、王様にそう言われた以上、これ以上の抗言をするわけにはいきません。
 王様は再び表情をやわらげ、二人に向かいます。
「あらためて、どうだろう。君たちの演奏を聞かせてはもらえないだろうか?」
 その言葉にエリトとサナリは顔を見あわせ――
 それから、頷きました。
 二人は再び演奏をはじめます。エリトが口に笛を当て、サナリがそっと息を吸いこみます。広間はしんとして、何かの予兆に満ちた沈黙が広がっていきました。
 今度はサナリが、まずはじめに歌いだします。柔らかな、優しげな声と言葉で。エリトがしばらくして、それに調子を合わせるようなゆっくりとした、静かな音色を奏ではじめました。
 それは、穏やかな暗闇で眠りにつくような――
 それは、柔らかな朝の陽ざしで目を覚ますような――
 日々の何気ない幸せを形にしたような、音楽です。
 道端の可愛らしい花に気づいた時、涼やかな川の流れに手をひたした時、高い樹の上で木漏れ日の光に包まれた時、遊んでいてふと彼方に沈む夕日の色に気づいた時。
 幸せは、いつもそこにあります。
 そしてその幸せは、誰かに伝えられなくてはなりません。
 そうです――
 子供の話を聞くのは、母親の役目でした。母親は子供たちの話を聞いて、大げさに驚いたり、素直に感心したりします。すると子供たちは、自分たちの幸せがもっとずっと確かなものになるような気がするのです。子供たちはいわばそうやって、幸せを母親に守ってもらうのでした。
 エリトとサナリには、母親がいません。
 それがどういうことなのか、二人にはようやく分かることができていました。二人はその人がいなくなった時に感じるべきだった悲しみを、今ようやく感じていました。ずいぶんと時間はかかりましたが、それは込み入った迷路のような道を抜けて、ようやく、二人の元に届いたのです。
 二人は自然な涙を流しながら、演奏を続けます。悲しみは音の一音一音となって、宙空に消えていきました。誰もが音楽に聞き入って、二人が泣いていることには気づきません。この音楽が今、二人の子供たちに何をもたらしているのかも。
 すべては、癒されようとしていました。
 二人の物語は、ようやくはじまろうとしているのです。
 その時、広間にいる誰もが――一人を除いて――気づかないことでしたが、人形のように動こうともしない王子と王女の足元から、影が伸びはじめていました。影はまるで必死に手をのばすようにして、エリトとサナリのほうへと向かっています。魔法が、解けかけていました。
 それに気づいた一人――人形使い――は、怒り狂っていました。人形使いはほとんど我を忘れて飛び出し、二人のほうへと向かいました。その姿は半ば正体を現わし、もはや人間とは見えないものです。瞳は血のように赤く、目はつり上がり、口は耳元まで裂け、肌は鉄のように黒く、耳がナイフのように鋭く尖ります。
 人形使いは二人の演奏をやめさせようと、突進しました。とっさのことで、誰もそれを止められるものはいません。二人は演奏に集中して、それに気づいてはいませんでした。人形使いは鋭く尖った爪をかざし、二人に襲いかかります――
 その時、窓を突き破って一羽の白鳥が飛び込んできました。白鳥は一直線に人形使いのほうに向かいます。人形使いは慌てふためいて、その白鳥から逃げ出そうとしました。広間は騒然となり、誰もが呆然として動くこともできません。
 そんな中、エリトとサナリは一心に演奏を続けていました。曲はもう、終わりにさしかかっています。そしてすべての音楽が奏でられた時、王子と王女の足元からのびた影は、二人の足元で一体となっていました。
 二人はその瞬間――

 気づいた時、二人の目の前には誰かが立っていました。よく目をこらすと、それは自分たち自身でした。エリトとサナリが、そこにいます。
「やあ」
 と、その二人は笑顔で言いました。
「やあ」
 と、二人もそれに笑顔で答えました。
 挨拶が終わってから、エリトはまず、
「えと、まずは謝っておくべきなのかな」
 と言いました。
「君たちとの約束を破ってしまったんだから」
 エリトと同じエリトが、それに対して首を振ります。
「それは仕方ないよ。人形使いはうまくやったからね。あの時のエリトとサナリじゃ、他にどうしようもなかったんだ」
「許してくれるの、私たちを?」
 サナリが少しおずおずとしたように訊ねます。
「許すも何も、だってあなたたちは私たちだもの」
 サナリと同じサナリが、それに答えます。
「自分で自分を許す必要も、自分で自分を罰する必要もない――」
「でもそうは言っても、君たちはずっと閉じ込められていたんだろう? それはきっと、つらいことだったずだよ」
 二人は――二人の影はちょっと顔を見あわせて、にこりとしました。
「つらかったのは、僕たちだけじゃなかったはずだよ」
「あなたたちも、同じくらいつらかったはず」
 二人はそれに対して、何も言えません。
「それに結局、君たちは僕たちを取りもどしてくれたんだ、君たちの力で。それは僕たちの力ではどうしようもなかったことだよ。君たちは僕たちを救ってくれた」
「あなたたちが檻を開け、私たちを外に出してくれた。私たちとあなたたちが、エリトとサナリに戻るために」
 それにね、とサナリと同じサナリは続けます。
「あなたたちのおかげで、人形使いに捕えられていた他の影たちも、外に出ることができたの。彼らはみんな、元の自分たちに戻ることができる。中にはそれが失われてしまったものもいるけど、大丈夫。古い約束が私たちを結びつけてくれているから」
 そう言われ、二人が辺りに目をこらすと、霧の中から現れるようにしてそこにはたくさんの影たちがいました。男や女や子供や年寄りや、ありとあらゆる人々です。そのうちの一人、踊り子のような身なりをした少年が、二人のほうにお辞儀をします。それがあの時の、猫の人形に入れられていた影なのだと、二人には分かりました。
 影たちは姿を現わした時と同様、深い霧の中へ身を引くように消えていきます。それぞれがそれぞれのあるべき場所へ、一つの約束を果たすために帰っていくのです。
 しばらくすると、そこには二人と、二人の影だけが残されていました。
「ひとつ、聞いてもいいかな?」
 エリトは訊ねます。
「何だい?」
「人間の影になって、君たちは幸せになれたのかな?」
 風のような沈黙が、音もなく流れます。

 ――もちろんさ。

 それが、答えでした。
「そろそろ、元の時間に戻らなくちゃいけない。ここは特別な、物語とは関係のない場所なんだ。だからあんまり、長居はできない」
「戻ってきてくれるの?」
 サナリが訊ねます。
「もちろん、だって私たちは、あなたたちなんだもの」
 サナリと同じサナリが、にっこりと笑います。
 四人はそうして、自分たち自身と手をつなぎあわせ――
「ただいま、いじっぱりな僕――」
 エリトと同じエリトが言います。
「ただいま、泣き虫な私――」
 サナリと同じサナリが言います。
 そして、二人は――

 二人はその瞬間、エリトとサナリに戻っていました。同時に、イスの上の王子と王女は、顔のない人形へと姿を変えています。二人は自分たちの影を取りもどしたのでした。
 すると、白鳥はもと来た窓を通って飛び去り、あとには人形使いだけが残されました。人形使いは二人の姿を見て、すっかり諦めてしまったようでした。もはや自分が敗れたことを、人形使いは認めざるをえなかったのです。
「ちくしょう、ちくしょう、チクショウ――!」
 人形使いは思いっきり足を踏み鳴らし、大声で叫びました。
「モウ少シデコノ国ノ人間スベテノ影ヲ盗ミ取レタッテイウノニ。コレダケノ影ガ集メラレレバ、モット大キナ魔法ダッテ使エタッテイウノニ。ソウスレバ俺タチハマタ、何モノデモナクナレルハズダッタノニ!」
 人形使いは誰に聞かせるためでもなく、叫びます。叫ばずにはいられなかったのでした。エリトとサナリのほか、広間にいる誰もがその言葉の意味を知りません。二人は、黙ってその言葉を聞いていました。
「チクショウ、チクショウ――!」
 人形使いは最後にそう叫ぶと、一瞬だけその正体を見せました。借り物の姿を脱ぎ捨て、何ものでもない暗闇の塊がそこに現れます。すると次の瞬間にはすべては煙のように消えて、なくなっていました。
 まるでそこには最初から、何もなかったかのように。
 そして、すべてが死に絶えたような沈黙がやって来ます。
 広間にいる誰もが、目の前で起こったことの十分の一さえ理解できず、呆然としていました。一体、何がどうなっているのでしょう? 少年と少女が笛を吹き、歌を歌い、気づいた時にはそれは王子と王女に変わっています。人形使いは突然二人に襲いかかり、おまけに悪魔のような姿を曝したのち、あっという間に姿を消してしまいました。本物の――それまでの彼らにとって――王子と王女は、イスの上で人形になっていました。これでは、何かを分かれというほうが無理というものです。
「……ふむ」
 と、とらえどころのない奇妙な沈黙の下で、王様が咳払いとも頷きともとれない、不思議な声を上げました。けれどこの状況では、それだって大変なことでした。王様は確かに、立派な王様です。
 王様はしばらく、ふむ、ふむ、と続けたのち、言いました。
「それで、何がどうなったのかな?」
 王様の目の前には、エリトとサナリがいます。それはエリトとサナリに、間違いないはずでした。けれど今となっては、すべては不確かで、曖昧でした。時間は今でも、動いているのでしょうか? 世界は今でも、世界なのでしょうか?
 けれど――
「お父さん!」
 エリトとサナリはとうとう泣き出して、父親に抱きついていました。どうしようもなかったのです。泣き出さずにはいられなかったのです。歓喜、期待、安心、不安、何もかもがごたまぜになった感情が、それでも二人に泣くことを命じていました。
 王様は戸惑ったように二人を受けとめ、けれどもしかし、すぐにしっかりと抱きしめてやりました。それがエリトとサナリであることに、間違いはありませんでした。それが自分たちの小さな子供たちであることに、何の間違いもありません。
 エリトとサナリは自分たちの声も聞こえないくらいに泣きました。何を泣いているのか、何のために泣いているのかも分からなくなるくらいに、泣いていました。何かが体の中からすっかり抜け落ちるまで、泣いていました。
 父親の、腕の中で。
 それは何と――
 幸せなことだったでしょう。
 それは何と――
 幸福な光景だったことでしょう。
 すべては、救われたのです。
 二人の小さな子供たちの手によって。

 二人は泣きやむと、王様の手をはなれ、お城をあとにしました。二人には大事な約束があったのです。王様はもちろん、今までに一体何が起こっていたのかを聞きたがりましたが、二人はあとできちんと説明するからと、無理を言ってお城を出ていきました。すべてをすっかり話してしまうには時間がいくらあっても足りないように思えましたし、今はそれほどの時間はありません。
 もう、陽は暮れようとしていました。
 二人は急いで、森へと向かいました。街の中を走っていると、そこにはなんだか以前のような活気が戻ってきているようです。ゆっくりと、ネジを巻き戻すように、世界は再び動きはじめていました。
 人々は再び、夢を見る力を取りもどしはじめていたのです。
 人ごみでごった返す通りを二人が走っていると、途中で老人に出会いました。二人が毛糸を売りに行った、あの老人です。老人は楽しそうにビールを飲み、愉快そうにお祭りを眺めていました。二人は老人に気づきましたが、老人は二人に気づきません。
 橋を渡ったあたりで、二人は子供たちと出会いました。二人が広場で音楽を聞かせてあげた、あの子供たちです。子供たちは大勢で一緒になって、幸せそうに遊んでいました。二人は子供たちに気づきましたが、子供たちは二人に気づきません。
 街の外れにまでやってきて、森が見えるようになった頃、教会の鐘の音が聞こえてきました。教会の鐘は日暮れ時を伝えています。教会の鐘だけは、二人のことに気づいたかもしれません。
 二人は暗くなってしまう前に老婆の家にたどり着こうと、道を急ぎました。目印を正しくたどり、森の中のその場所を目指します。
 そしてもう薄闇がインクのように世界をひたす頃、二人はその場所へとたどり着いていました。
 けれど――
 どうしたことか、そこには何もありません。森の中の広場にはただ丈の短い草が生い茂るばかりで、そこにはどんな建物も、建物の影さえもありはしませんでした。森の広場はずっと昔からそうだったというふうに、何の変哲もない姿をそこに見せています。
 一体、どうしたことでしょう?
 二人は、間にあわなかったのでしょうか?
「……」
 エリトは空き地の中央あたりに、ぼんやりとたたずみます。そこにはやはり、何の痕跡も残されてはいませんでした。材木ひとつ、穴ひとつ、ありはしません。
「どうしたのかな?」
 サナリはきょろきょろと辺りを見回して、心配そうに言います。そこは確かに、二人が今朝まで過ごしていた場所でした。過ごしていはずの、場所です。
 けれどすべてのものは、なくなっていました。
 夢から覚めたように――
「お婆さんは、どこに行っちゃったのかな?」
 サナリが訊ねます。
「分からないよ」
 エリトは少しだけ、うなだれました。辺りは暗くなりかけ、空にはいくつか星が輝きはじめていました。
 何が起きたのでしょう? 老婆はどうしたのでしょう? 建物はどうなったのでしょう? 老婆はその役目を、終えたのでしょうか? すべては魔法によって作られた、幻のだったのでしょうか?
 二人が過ごしてきた一年は――
 どこに行ってしまったのでしょう?
「お兄ちゃん、あれ」
 急に、サナリが言います。サナリは広場の奥のほうを指さしていました。
 言われて、エリトが顔を向けると、そこには何か、小さな石の塊のようなものがあります。墓石でした。そこには小さな墓石だけが、残されています。
 二人はちょっとだけ顔を見あわせ、そのそばに近づいてみました。
 その墓石に、二人は見覚えがあります。それは二人が老婆に言われていくつかのものを埋めた、悲しみ≠ニ書かれた墓石でした。その墓石だけは、以前と同じように、まるで置き手紙か何かのようにしてそこに残されています。
「……?」
 辺りは暗く、もう墓の表面も見づらくなっていました。けれどよく目をこらしてみると、そこに書かれている文字は、以前とはどこか違っているようです。二人は指で探り、何とかその言葉を読もうとしました。
 目をつむり、二人は指先で字の跡を追っていきます。そうして一つ一つの文字を指でなぞっていくと、おしまいに二人は目を開きました。
「喜び=\―」
 二人は同時に、声を上げます。
 墓石に刻まれた文字は、いつの間にか悲しみ≠ゥら喜び≠ヨと変わっていたのでした。それは、老婆からのメッセージです。老婆は二人がやってくることを見こして、このメッセージを残していったのでしょう。
 老婆は二人のためにやって来て、そして何も言わずに去っていったのでした。
「……」
 エリトはふと気づいて、墓石の前を掘りはじめます。
「……?」
 サナリが隣で、不思議そうな顔をしました。エリトは素手で、土をかきだしていきます。
 やがてエリトは、そこからあるものを掘り出していました。たいした深さではありません。リスが冬の蓄えを大地に隠しておくような、その程度のものです。
 エリトが手にしていたのは、小さな指輪でした。指輪はわずかな明かりを反射して、まるでそれ自体がぼんやりと光っているように見えました。サナリはもちろん、その指輪に見覚えがあります。それは母親の、形見の指輪でした。
 老婆はそれを、二人のために残していってあげたのでしょうか?
 エリトは指輪をポケットに入れ、その場に座ります。サナリもその隣に、腰を下ろしました。辺りはすっかり暗くなって、空は紫色の闇に覆われています。
 二人はしばらく、そうしていました。
 そして――
 不意に空の上で、色とりどりの光が散って、大きな太鼓を叩いたような音が響いてきました。――花火です――。街では今、お祭りの最後の一日が終わろうとしていました。
 二人は何も言わずに、手をつないでその光景を眺めていました。
 そしていつしか、二人はそのまま眠りにつきます。夢の中で、二人は穏やかな時間に包まれていました。そこには父親がいて、母親がいて、二人がいて、二人の影があります。他愛のない団欒、優しい笑顔、かけがえのない一時、儚い夢の幸福――
 夜は、優しく二人の夢を包み込んでいました。
 やがて朝がやってくると、二人はまぶしい光の中で目を覚まします。森の空気は少し肌寒いくらいにひやりとして、朝の鳥たちの声が響きはじめていました。
 起き上がって、サナリは訊ねます。
「ここは、どこ?」
 立ち上がって、エリトは少しのびをしました。
「僕たちの世界さ」
 ――すべては、一巡したのです。

 これは、後日談とは呼べないものかもしれません。
 すべてのことが終わってから、数日が過ぎていました。事態は一応の落ち着きを取り戻し、お城にはいつもの生活が戻りつつあります。
 そんな頃、しばらくして老婆がお城を訪ねてきました。老婆を案内してきたのは、いつか二人のことを追い返した兵士たちです。兵士たちは謹直な態度で役目をこなしていました。エリトとサナリの話は、王様以外は誰も知らないのです。
 兵士たちは老婆を連れて、二人の部屋までやって来ました。兵士たちが帰ろうとした時、二人はいたずらっぽく、ご苦労様、と言います。兵士たちはひどく恐縮して一礼すると、そのまま去っていきました。
 さて、二人の前には老婆がいます。老婆はいつものように杖をつき、赤いケープと厚手の服をまとっていました。間違いありません。
 二人は老婆を部屋に案内すると、丸いテーブルに腰かけました。そこには三人のほか、誰もいません。開いた窓の外には気持ちのよい青空が広がっていて、時折小さな風が吹き込んできました。
 老婆がまず、口を開きます。
「どうやら、うまくいったみたいだね」
 エリトが軽く、頷きました。
「あなたのおかげで」
 老婆は笑いました。
「私、私だって? 私が何をしたっていうんだい。私は森で迷子になってた可哀そうな子供たちを拾って、世話してやっただけさ。ちょっと荒っぽくね。実際、あんたたちはよく働いてくれたよ。少々頼りなくはあったけどね。でもそれだって、魔法使いのおばあさんに食べられてしまうよりは、よほどましだったろう?」
「そうかもしれない」
「でも、おばあさんは魔法使いなんかじゃなかった」
 サナリが、なんだか嬉しそうに言います。
「そうでしょ?」
「まあそうだね。確かに私は魔法使いなんかじゃない」
「それから、影を失くした人でもない」
 エリトが落ち着いて言います。
「そう、今なら確かに分かるだろうね。私は影を失くしたわけじゃない。影を失くした人間は、どうしたってそれと分かってしまうからね。もっとも、あの時あんたたちが影を失くしていたからって、それは分かったはずだけどね」
 エリトは小さく頷き、それからポケットに手を入れ、あるものをテーブルの上に置きました。
「これは、あなたに返しておいたほうがいいかと思って」
 それは、指輪です。一度は老婆に取られ、それから墓の下に埋められていた、あの指輪でした。
「律儀なんだね。せっかく返してやったんだから、黙ってとっておけばいいのにさ。大事なものなんだろう、それは?」
「でもこれは、お婆さんのだよ」
 サナリがにこにこして言います。
「ふうん、一体そりゃ、どういうわけかね?」
 老婆はとぼけました。
「もうすっかり分かってるんです、僕たちは」
 エリトはそう言って、ゆっくりと話しはじめました。
「……考えてみれば、あなたは最初から僕たちを助けるためにやって来てた。あなたは最初、こう言ったはずです。『私は森の中に一人で住んでる』って。でも実際にあなたの家に行ってみると、そこにはベッドがちゃんと二つも準備されていて、僕らのための服まで用意されていた」
「時々、旅人を泊めたりしてるのさ」
 と、老婆はうそぶきます。
「あの森は通り道としてはどこにもつながっていないし、わざわざ旅人がやって来るような場所でもない。万一そうだとしても、子供の服がきちんと二種類も用意されてるなんて不自然です」
「むかし、子供に着せてやってたものさ」
「それにしてはずいぶん新しかったよ」
 サナリが短く口を挟みます。
「……」
「あなたは僕らを助けるために現れた。そのあとのことを考えても、それは多分、間違いない。……仕事は正直、しんどかったけど」
「うん、うん」
「あれくらいがちょうどよかったのさ」
 老婆は渋面を作ります。実際、老婆だって同じくらい働かされたことになるのです。
「それはともかく……」
 一度咳払いしてから、エリトが続けました。
「僕らを助けに来たといっても、一体誰がそんなことをするのか? おまけにそれは、魔法を使っているとしか思えないような方法だった。でも僕らに魔法使いの知りあいなんていない。そしてあなたも、魔法使いなんかじゃない」
 老婆は軽く頷きます。「そうだね」
「じゃあ一体、誰だったのか? ……もっとも、そんなことを考えはじめたのは、ずっとあとのことだったんだけれど」
「だって、その時は本当に魔女だと思ってたんだもん」
「私は一言もそんなことは言わなかったけどね」
 老婆は愉快そうに笑います。
「ともかく、魔法みたいなことができて、僕らを助けようとする人――正直言えば、そんな人は一人しかいない。でも気づいたのはつい最近です。例えば、家の裏にあった墓のこととか……」
「あれは私がただの気まぐれで作ったものだよ」
 と、老婆は言いました。
「何せあんな森に一人で寂しく暮らしてるんだからね」
「でも私たちにいろんなものを埋めさせたよ」
 サナリが言い返します。
「そう」
 と、エリトがあとをつぎました。
「あれはただの象徴だったんだ。胸の裂けた猫、砕け散った花、喉の潰れた鳥――。そして悲しみ≠ニ記された墓。あそこに何も埋まっていないのは当然だった」
「……」
「それにね、歌のこともあるんだよ」
 今度は、サナリが言います。
「あの歌、なんだか聞いたことある気がしてたんだ。ずっと前に、夢の中みたいなどこかで。とっても優しくて、懐かしい感じのする歌。私、どうしても思い出せなかった。でもね、思い出したんだ。あれは私がよく聞かされてた子守唄だった」
「やれやれ」
 老婆はそんな、諦めとも安堵ともつかないため息をもらしました。
「それで一体、あんたたちは私が誰だっていうんだい?」
 二人は顔を見あわせ、それから声をそろえて言います。

「――お母さん」

 老婆は、かすかに微笑みました。そしてその途端、その姿はあっという間に変わってしまいます。表面がくるりとめくれるようにはがれ落ち、老婆の姿が消えていました。そしてそこには、老婆の代わりに一人の女性が存在しています。
 サナリに似た金色の髪と、深く澄んだ青い瞳。柔らかな顔立ちはどこまでも優しく、その目の奥には純度の高い魂の輝きのようなものが宿されていました。
 彼女は――二人の母親であり、この国の王妃である彼女は――月の光のような淡い微笑を浮かべ、二人を見つめています。
「よく分かりましたね、二人とも」
 王妃は言います。その声は、透明な水晶がそのまま音になったような美しい響きをしていました。
「そう――。ずっと老婆を演じていたのは私です。あなたたちに仕事をさせて、笛と歌を習わせ、影を取りもどす手助けをしたのは……」
「あの教会で拾った羽根や、広間に飛び込んできた白鳥も……?」
 エリトが訊ねます。
「ええ」
 王妃は頷きました。
「あなたたちも知っての通り、白鳥はこの国のシンボルでしたから。人形使いの魔法に対するためには、その姿が必要だったの。実際、人形使いに直接対峙した時は、私も少し危ないところでした。白鳥の魔法が私たちを守ってくれたの」
「でも、どうして……?」
 サナリがぎゅっと下唇を噛んで言います。
「どうしてそう言ってくれなかったの? お母さんがずっとそばにいてくれたのに、どうして教えてくれなかったの?」
「ごめんなさい、サナリ」
 それは、本当に悲しそうな声でした。
「でもそれが、条件だったの。私がこの世界に戻って、あなたたちを助けてあげるためのただひとつの条件――私の正体を決してあなたたちに悟られてはいけないということ。ああ、あなたたちを前にして、私にはそれがどんなにつらかったことでしょう。悲しみのあまり、私は胸が裂け、心が砕け、嘆きの声に喉の潰れるような思いでいました。いっそのことすべてを打ち明け、あなたたちを抱きしめることができれば、私はどんなにか幸せだったことでしょう」
 王妃はかすかに涙を流しています。
「けれどもちろん、そんなことはできませんでした。あなたたちが影を取りもどし、すべてが元に戻るまでは、私はそのことを話すわけにはいかなかった。固く扉を閉ざし、土の下に埋めてしまうしかなかった。例えどんなにつらくても、あなたたちにすべてを任せるしかなかった――そしてあなたたちはみごとに影を取りもどし、人形使いの魔法を解いてくれました」
 三人の間に、ひとしきりの沈黙が流れます。それはさまざまな時間と思いを、正しい場所へと戻すために必要な時間でした。
「お父さんには、会わないの?」
 少ししてから、エリトが訊ねます。
「残念だけど、それはできません。私のことは、誰にも知られてはいけない――そういうルールだから。あなたたちとこうして話していることも、本当を言えばルール違反なのよ」
「お母さんは、今でもお父さんのこと好き?」
 サナリが聞くと、王妃は柔らかく微笑います。
「もちろんです――」
「私たちのことも?」
「ええ、とってもね」
 えへへ、というふうにサナリは笑いました。
 王妃は机の上の指輪に手をやり、二人のほうへ戻しました。
「この指輪は、二人に持っていて欲しいのだけど」
 エリトが、再び指輪を受けとります。
「いいの?」
「だってそれは、王様が二人に上げたものですし、それに私も、死んだことは悲しい――。せめて何か形のあるものを残しておきたいと思うのです」
 二人は強く頷きました。
「絶対に失くさない」
「大切にするから」
「ありがとう――」
 王妃は、一番柔らかい太陽の色をしたような笑顔を浮かべます。
 けれど――そろそろ時間でした。
「もう、行かないと」
 王妃は二人に向かって言います。
「どこに行くの?」
 エリトが訊ねました。
「ここではない世界。この世界の内側であり、外側である場所……」
「私たちもそこに行ける?」
 サナリが訊ねました。
「世界はみんな重なっているのよ。いくつもの人々が、いくつもの世界をね。私の世界は私という楔を失って、みんなの世界の中へ散らばっていったの。私はそこに戻るだけ。どこにだって私はいる……」
「最後にお願いしてもいい?」
「なに――?」
「抱きしめてもらってもいい?」
 王妃は無言で頷き、二人を招きよせました。二人はイスを離れ、母親の手の中へ納まります。それは温かくて、懐かしくて、優しい安心を約束するものでした。二人は柔らかな膜に包まれて、この世界にあります。
 ――それは、世界が人々と交わした約束でした。
 十何年分の時間と想いが、音もなく溶かされていきます。

 しばらくして二人が気づいた時、そこにはもう誰の姿もありませんでした――

 これはある小さな、古い王国のお話です。
 王国のそばにはそれよりなお古い森があって、人々はその恵みを受けて暮らしていました。森はまた、人々にたくさんの物語を紡がせる豊かな場所でもありました。
 森のそばにある街は小さく、美しく、人々はそれぞれの世界を抱えながら幸せに暮らしていました。もちろんみんな、自分の影を持って。
 街には小さなお城があって、そこには立派な王様が住んでいました。王様は王妃を愛していましたが、残念ながら王妃は亡くなってしまいました。王様はひとつの約束を守り、他の誰かを愛することはありませんでした。
 そして――
 王様には、二人の子供がいました。二人はまだ幼い頃に母親を亡くし、自分たちの失ったものにさえ気づかずにいました。二人は自分たちでも知らないうちに、物語の最初のページを開きそこねていたのです。
 けれど二人は自分たちの影を取りもどし、自分たち自身となることができました。賢い笛と、優しい歌を奏でて。すべてはぐるりと一巡し、元の場所へと戻ったのです。
 エリトとサナリ――
 これは、二人のお話です。
 ようやくはじまった、二人の小さな子供たちのお話。

――Thanks for your reading.

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