[男はいかにして神≠ニなったか]

 その男は小説家だった。さらにいうと、売れない小説家だった。もっというと、あまり面白くない売れない小説家だった――いや、はっきり言おう、彼の小説はまったくのところ、全然面白くなかった。
 だが神様というのは――あるいは、運命というのは――時に気の利かないもので、彼自身はとんとそうは思っていなかった。自分の書くものは最高だ、傑作だと思っていた。それを理解できないのは、世間の連中がぼんくらだからだ。おそらく彼は、主として地上に向かって唾を吐いていたのだろう。神はそれを、見咎められようとしなかったから。
 ある日、彼は一冊の小説(正確を期するなら数百枚の紙屑――彼は手書き派だった――)を脱稿した。東雲の空は白々と清々しく、彼は徹夜明けのいくらかハイになった頭で思った。これは傑作だ、と――百年一日のごとく。
 さっそく、彼は編集者に電話をした。彼のような人間にも編集者の知りあいがいた。眠りを妨げられた編集者は不機嫌そうだったが、彼はいっこう気にしなかった。傑作です、百年に一つの傑作です、と繰り返した。
「あとで見ときますから」――電話は唐突に切られた。
 彼はさっそく原稿を郵送した。彼は実に満ち足りていた。幸福だった。買ってきたパンをちぎって鳩にやるくらい、心優しく晴れやかだった。脳みそは無駄に元気だった。
 やがてその時はやって来て、編集者からの電話がかかってきた。彼は喜々として受話器に踊りかかった。求婚者たちを襲撃するユリシーズもかくや、という具合だった。
「ダメですね、これは」――電話はそれだけだった。
 彼は自作について滔々と語りだそうとしたが、通話はすでに終了していた。電話口からは虚しい機械音が響くだけだった。彼は電話をかけなおしたが、賢明にも編集者は電話線を引っこ抜いていた。
 静かに現実はやって来た。彼は受話器を握りしめたまま不満だった。またか、と思った。またなのだ。世間の奴らは誰も俺のことを理解しようとしない。
 原稿は送り返されてきた。赤ペンの修正さえなかった。彼は自分の労作を机の上に置いて、憤懣やるかたないといった表情で静座していた。が、消沈は長く続かなかった。またぞろ例の論理が首をもたげてきた。間違っているのは己ではなく、ほかの人間のほうなのだ。
 彼は、この小説の素晴らしさを理解できる人間を探さなくては、と思った。もしこの作品がこのまま歴史の闇に埋もれるようなことがあっては、それは文化的損失といってもよい。人類の進歩は何世紀分か遅れるだろう。世界を照らすはずの光輝は失われるだろう。宇宙の神秘は解き明かされぬままだろう。そのようなことは絶対に避けねばならない。
 電話のダイヤルを回し(彼の家の電話は旧式だった)、幾人かの友人を呼びだした。彼のような人間にも友人はいた。仕事中だったり用事があったりした友人たちは不機嫌そうだったが、彼はいっこう気にしなかった。読んでもらいたいものがある、傑作だ、と飽きもせずに繰り返した。
 彼は原稿のコピーをとって、一つ残らず友人たちに送った。ペリシテ人に襲いかかるサムソンもかくや、という具合だった。彼は首を長くして返事が来るのを待った。
 三日後、街で偶然に友人と邂逅した彼は、さっそく感想を聞きたがった。喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文した。やがて友人は言った。
「火にくべてしまえ」
 ほかの友人の感想も似たりよったりだった。彼はまったく、これはおかしい、と思った。だが彼はフローベールではなかったので、傷心を抱えてオリエント旅行にいったりはしなかった。そのための旅費もなかった。ここにいたって、彼は人間を相手にすることをやめた。
 奴らはダメだ、と彼は思案した。余計な知恵ばかりつけて、まことの心というものを知らない。見て見ずの口だ。俺の作品を理解するには、もっと純真でなくちゃならん。自然な心を、美しい心を持っていなくちゃならん。
 そこで彼は、前に餌をやったことのある鳩のところへ向かった。アッシジの聖フランチェスコよろしく、彼は鳥に向かって朗々と自作を語った。鳩たちは体を前後にふりふり、くるっぽー、くるっぽー、と餌をねだった。彼がパン屑をまいてやると、鳥たちは無心にそれを啄んだ。
 こいつらではダメだ、と彼は思った。都会の毒に汚れきって、食うことしか頭にない。怠惰に溺れ、自己を瞞着している。そこには何ら精神的なものがない。永遠というものへの思想がない。こんな奴らに俺の小説は理解できない。
 彼はもっと純粋な、もっと無垢な存在を探すことにした。この罪深い歓楽の都にあって、物質主義に陥穽することなく、崇高な精神を保持している存在を、である。
 古来より、森は清浄な空間とされる。神域には森があり、ドルイド僧たちは樹木を信仰した。それは木の持つ神性によるものだ。つまり、もの言わぬ植物こそ、もっとも聖なるものである。
 そう考えた彼は、さっそく語るにふさわしい霊木を探すことにした。偉大な精神は生物学上の界をも越えるであろう。もはや垣根は必要とされない。
 ところが、街中に森といえる場所はなく、当然ながら彼の望む縄文杉レベルの巨大な古木など存在しなかった。さりとてチケットを買い、航空機にて移動するというのは、彼の怠慢と懐事情が許さなかった。
 ことここにいたって、彼はある妥協案を行った。近所にある公園の、それっぽい木で手をうったのである。子供たちが楽しそうに遊びまわる傍らで、彼は嘆きの壁によりそうユダヤ人よろしく、木に向かってぶつぶつと自作を朗読した。子供たちは彼を変人とみなし、乱暴なのにいたると遠くから石を投じた。
 彼は殉教者としてあらゆる屈辱に耐え、この宇宙に真に偉大なる精神の痕跡を残そうとした。が、いくら小説を読みすすめてもその甲斐はなかった。樹木は黙然として語らなかった。木の葉をそよがせすらしなかった。子供たちは横暴にも彼にキックした。住宅街は平穏だった。
 とうとう彼は怒り心頭に発し、叫び声をあげて原稿をまきちらした。子供たちはわっと蜘蛛の子を散らした。竿竹屋のまのびした拡声器の声が聞こえた。空に月はなかったが、彼は吠えた。
 ついにして彼は開眼した。世の中は完全な虚像だと。空だと。そこに真実はなく、従って彼の作品が理解されることもない。精神的鳴動がやむことはない。だが聞く者がなければ、それは無意味だ。それでは彼の存在意義さえ失われてしまう。
 彼は思念した。この誤れる世界をいかにしようか、と。そして気づいた。自分は小説家ではないか――と。
 狭いアパートに戻るや、彼は原稿用紙に向かって怒涛の勢いで筆を動かしはじめた。得度した彼は、この間違った世界ではない、正しい世界の在りかた書きはじめた。そこでは彼の作品は神聖なるものとして礼讃され、編集者は膝を曲げて謁を乞い、老若男女は新作を渇仰し、本は飛ぶようにして売れた。
 ――そのようにして、男は神となった。

 俺:「……という話なんだけど」
 友人:「つまらん」

――Thanks for your reading.

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