月がそいでみがいたような明るさで空にかかっていました。まるで銀できれいにこしらえた飾り物のような美しさです。地上は白く明るく照らし出され、平和な暗闇が物陰でひっそりと眠っていました。 その街も、もちろん穏やかな月の光の下で静かな眠りの中にありました。普段はにぎやかな町の中心を通る大通りも、今ではどの店も明かりを落とし、人っ子ひとり歩いている者はありません。 でもそこに、一人の男がやって来ました。酔って、足取りは少しふらふらしています。頭にシルクハットを被り、上等のフロックコートを身にまとっています。靴は本物の皮製でぴかぴかに磨いてあって、歩くたびにコツコツと小気味よい音を立てました。 彼は一体、誰なのでしょう? それはこの街の市長、ルフレット・ラ・フォルセスその人でした。ずいぶん若い市長で、政治を大いに変えてくれるだろうと期待されて市長になりました。そして実際、彼はその期待にこたえていました。もちろん、若いなりに、ということではありますが、いつも人の期待というのは本人の都合などは考えてくれないものです。 この日、ルフレットは一日の仕事を終えて仲間と酒を飲み、それから家へと帰るところでした。いつもは馬車を使うのでしたが、その日は気持ちの良い月夜でしたし、ふとゆっくり歩いて帰ることにしたのです。 市長といっても街のみんながその顔を知っているわけではありませんし、どんな人間だって自分たちの生活と関わりのないことはそれほど覚えているものではありません。 だから、ルフレットが一人で歩いていても、それを気にする人はいませんでしたし、それは別段不思議なことではありませんでした。 街の大通りの中央付近には円い噴水が置かれていて、ルフレットはその近くまでやって来ました。それから縁に座って、一休みしました。何しろ少し酔っていたものですから、足が疲れてきてしまったのです。 「ああ、なんていい夜なんだろうな」 ルフレットは両手を後ろについて、空を見上げながら気持ち良さそうに言いました。噴水はとめどなく水を噴きだして銀の飛沫をとばし、涼しげな音を響かせています。 そうしていると少し水が飲みたくなって、ルフレットは泉に口をつけようとしました。 ところが、多少酔っていたせいもあるのか、水面に身を乗り出した時に手がすべり、ルフレットは誤って体ごと水の中へと落ちてしまったのです。 ルフレットは驚きましたが、もう間に合うはずもありません。彼の体は水の中に沈んで全身が水浸しに――。 けれど、どうしたことでしょう。気がついてみるとルフレットは噴水の近くの石畳に転がっていて、体はどこも濡れていません。それになにやら、辺りが騒がしいようです。 どうしたことだろう、と思いながら立ち上がってみると、なんと、先ほどまで誰もいなかったはずの通りには大勢の人たちが行きかい、わいわいがやがや、お祭りのようなにぎやかさです。 「これは一体?」 訳も分からずに呟いていると、人通りの中から一人の人物がひょいと現れて、こちらに向かって来ました。 それは真っ白い顔に赤や黄色の模様を描いて、ナイトキャップにぶかぶかの服を着た、サーカスのピエロのような人物です。 「こんばんは、初めまして」 とピエロは礼儀正しい、けれどいささか芝居がかったお辞儀をしてきました。 「いや、こちらこそ」 ルフレットもとりあえず帽子を脱いで、お辞儀を返しておきます。 「どうです、お祭りの方は? 楽しんでいますか」 (お祭り?) ルフレットは訳が分かりません。今日は決してお祭りの日などではないはずでしたし、今日どころかここ一週間のことを考えても、そんなものはないはずでした。 それに、ついさっきまでこの通りには人ひとりだっていなかったはずです。 「どうやら、やって来たばかりのようですね」 ピエロはルフレットの戸惑いなどはお構いなしで、笑顔で言いました。 「どうです。よろしければ私がお祭りの案内をしてあげますが。見所を教えてあげますよ」 ルフレットは迷いました。何しろこれが一体何の祭りなのかも分かりませんし、目の前の人物が何者なのかも分からないのです。 けれど周りのにぎやかな様子や、楽しそうな声を聞いていると、ルフレットは何だか気になって仕方ありませんでした。 「じゃあ、お願いしようかな」 とルフレットはさして興味もなさそうな、せっかくの申し出だから断るのも悪いだろう、という感じで答えました。でも本心ではお祭りの様子が気になって仕方なかったのです。 ピエロはにこっと笑って、 「じゃあ、ちょっと歩きましょう」 と言いました。 大通りはルフレットが今まで見たことがないほど大勢の人でにぎわっていて、たくさんの夜店が並んでいました。 歩きながら、ルフレットがふと上のほうを見上げてみると、屋根の上でなにやら虫取り網のようなものを振るっている人がいました。 「あれは何をしているんだい?」 とルフレットはピエロに訊いてみます。 ピエロは言われたほうに顔を向けて、それから、ああ、というふうに、 「星≠とっているんですよ」 「星?」 ルフレットは分からない、というふうに顔をしかめました。 「ええ、星です。こんな小さな塊で(とピエロは人差し指と親指の間を少しだけ開けて見せます)、食べると甘いんですよ」 「食べる?」 ルフレットはもう一度顔をしかめました。 「ええ、ちょうどそこにありますよ」 ピエロは言って、机の上にいくつもの大きな瓶を並べた店を指差しました。 二人が近よってみると、そこには金平糖のような形のきらきらしたものがガラス瓶一杯につまって並んでいます。確かにそれは、空の星を一杯につめたようで、色とりどりに輝いていました。 「食べてみますか?」 とピエロは訊きました。 「……うん? ああ」 ルフレットは不得要領にうなずいてみます。 するとピエロが、「それを少しもらえますか?」と言って、店主が瓶の蓋を開けて中のものを金のスプーンを使って二人の手に乗せてくれました。 「これがあの空に輝いていた星なのかい?」 と、ルフレットはまだ半信半疑です。 「そうですよ。ほら、今ちょうど網にかかったところです」 空の方を見てみると、あの虫取り網の中にきらきら光るものがいくつか入ったところでした。それは確かに、夜空に輝く星々のようです。 「けれど、こんなにも星を取って大丈夫なのかい? もし星をとりつくしでもしてしまったら、夜の空はあんまりにも暗くなりすぎるんじゃないかな」 ルフレットは訊きました。 「大丈夫ですよ。星というのは人間がとってとり尽くせるほど少なくはありませんし、こうしている間にだって、新しく誕生し続けているんですから」 ルフレットは金平糖のような星を一つ口に入れてみました。ピエロの言ったように、それは甘い砂糖菓子のような味がします。 こうして通りを歩いていると、そこら中に不思議なものがあふれていました。 例えば、道の角に風船をたくさん持った男が立っています。でもそれは風船をあげるためではありませんでした。 「楽しいのを頼む」 と、夫婦らしい二人組みが男に頼みます。 すると男はうなずいて、風船の中から黄色のをひっぱりだして、その口をゆるめました。風船の口からは灰色の霧のような塊が現れて、男はその霧に手を突っ込んで何やらこねくり回しているようです。 そうしているうちに霧は段々薄くなって、中から何かが現れてきました。よく見ると、それは黄色い小さな鳥です。王様のマントのような美しい羽を持ち、何だか少しけばけばしい感じでもあります。 その鳥はひょいと女の人のほうの肩に乗ると、まるでオルゴールのようなメロディーで歌いはじめました。軽快で、愉快な、つい踊りだしたくなるような曲です。 またその少し先には、様々な色の丸い宝石を売る店もありました。 「あの中には夢≠ェつまっているんです」 とピエロが説明してくれました。 「あの宝石を枕の下に入れて眠ると、望みの夢が見られるんです。美味しいものをお腹一杯食べる夢や、鳥になって空を飛ぶ夢、海をあてどもなく泳ぐ夢や、お化けに追いかけられる怖い夢。とにかく好きな夢が見られるんです」 そうしていくつもの店を見るうちに、ルフレットはふと気がつきました。 「ここでは誰もお金を取らないし、払わないのかい?」 確かに、ルフレットが星のお菓子を受けとった時にも、店の人間は代金を要求しませんでしたし、こうして見る限り、そうしたやり取りはどこにも見られません。 「お金なんて、まさか」 とピエロは笑って答えます。 「これはみんなが楽しむためのお祭りです。それにはお金なんて必要ありませんよ。お祭りというのは、楽しいからこそお祭りなんです」 ルフレットは分かったような、分からないような、不思議な感じでした。 それにしても、この賑やかさはどうでしょう。ふと空を見れば、月からつるしたブランコに乗った人がそれをゆっくりとこぎながら、花火の光の粒のようなものを夜空にまきちらしています。その光はまるで魂の消えるような儚さで、ひょいと明滅しました。 また、そこいらを見れば動物の絵を描いてはそれに火をつけ、いつの間にか本物の動物がそこにいる、というものや、不思議な絵筆を使ってあっという間に服や髪の色を変えてしまう、というものもあります。 ルフレットが歩いていると、急に身の軽くなったような気がして、辺りを見回してみると、後ろで自分の影を鋏で切っている人物がいて驚いたこともあります。 「一体君は、僕の影をどうしているんだ」 何しろそれは自分の影なのですから、そんな勝手をされて愉快というわけにもいきません。 「影が少し濃くなっていたようなので」 と理容師のような鋏を持った男は答えました。 「お切りしたまでですよ」 男が言うには、影というのは放っておけば髪が伸びるようにして黒く濃くなっていくものですから、時々こうして切ってやらなければならないというのです。 男はその後も道行く人の影を切って歩き、その度に紙切れのような小さな黒い影がふわりと宙に上がり、消し炭がぼろぼろに崩れていくような感じで元の暗闇へと戻っていきました。 二人がそんな大通りを歩いていると、大きな橋にさしかかりました。それはエルンフレーゼ、美しい娘の橋、という名前のついた古い橋で、その下には町を流れるクローネ川があります。 「ほら、川舟がやってきましたよ」 とピエロが川上のほうを指さしました。 見ると、黒い塊が悠々とこちらに向かって泳いできます。それは、一匹の鯨でした。黒く丸い眼を水面に出し、大きな体でゆっくりと波をかきわけながら泳ぎ、その背中にはたくさんの人が乗っています。テーブルやイスがそこにはいくつも置かれ、人々はお酒や食事をして、楽しそうに騒いでいました。 「まったく、なんて愉快なお祭りだろう!」 とルフレットは思いました。こんな不思議で楽しいお祭りは、今まで見たことも聞いたこともありません。 するとその時、どこからか時を告げる鐘の音が聞こえてきました。一つ、二つ、三つ……。 「時間ですね」 とピエロが急に立ち止まって、呟くように言いました。 「?」 ルフレットが自分の懐中時計を見てみると、時計の針がすごい勢いでぐるぐると回り始めています。 「時の鐘が時間をすすめました。もうお祭りはおしまいです」 ピエロは最初の時のようににっこりと笑って、ルフレットに向かって言いました。 「時間をすすめた?」 「ええ、もうみんな帰らなくてはなりません」 「帰る?」 ピエロは黙って頷きます。 「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものです。だからこそ、楽しくて、少し寂しく、切ない。本当に楽しいことというのはそんなものです」 ルフレットはけれど、もう少しここにこうしていたいと思いました。 「もう少しだけ、待ってもらえないのかい?」 ピエロは首を振りました。 「時間は絶対です。あなたは、もう帰らなくてはならない」 「どこへ?」 「あなたのいるべき場所です」 そう言ううち、ルフレットの視界は霞がかったように急にくすんできて、ピエロの姿も、お祭りの明かりも、絵の具がにじんだようにおぼろげになってきました。 「さあ、もう家に帰って、ぐっすり眠らなくてはなりません。せめて今夜は、良い眠りに就かれますように……」 ピエロの声が、夢で聞くような頼りなさで響いてきました。 やがてルフレットが気づくと、誰かが自分の名前を読んでいるようです。 「ルフレットさん、ルフレット・ラ・フォルセスさん」 それは確かに自分の名前のようでした。 ルフレットはまるでまぶしいものでも見るような様子で目を開けると、そこには夜景の見回りらしい人物が自分のことを心配そうにのぞいていました。 「大丈夫ですか、市長さん? お体の具合はなんともありませんか?」 ルフレットがゆっくりと起き上がると、それはあの大通りの噴水のそぐ側でした。辺りには物音一つ、人影一つなく、暗闇がひっそりと眠っているだけです。 どうやら自分は、噴水の縁で眠ってしまっていたようでした。 「いや、大丈夫です。すこし酔っただけですから」 と、ルフレットは警官に礼を言いました。 「一人でお帰りになれますか?」 「ええ」 「それでは、お気をつけて」 そう言うと、夜警の男は歩いて向こうへ行ってしまいました。 「――」 ルフレットは座ったまま、少しぼんやりしています。 あれは、本当に夢だったのでしょうか。 空には月が相変わらずの見事さで輝いていて、通りは平和な静けさに包まれています。どこにも、何の姿も、物影の気配も、ある様子はありません。 ルフレットは懐中時計を取り出してみました。 時刻は十二時を少し過ぎています。 時計塔の鐘の音は、もう鳴り止んでしまったのでしょう。 ルフレットはまだ夢の中にいるようなぼんやりとした顔で、噴水の水をのぞいてみました。 すると、そこには白い顔に赤と黄色の模様をつけたピエロが、シルクハットを被って映っていました。ルフレットが驚く間もなく、ピエロは帽子を脱いでいささか芝居がかったお辞儀をしてきます。 慌てて目をこすり、改めて水面を見てみると、そこには帽子のない自分の顔が映っているだけでした。ピエロの姿はどこにもありません。今、ルフレットが見たのは幻だったのでしょうか。帽子も、単にどこかでなくしただけかもしれません。 「よい眠りを……」 その時、そんな声が聞こえたような気がしました。でももちろん、辺りには誰もいません。 月だけがただ、何でも知っているような落ち着きで空にかかっていました。
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