[不完全世界と魔法使いたちA 〜ナツと運命の魔法使い〜]

[四つめの予言]

 時計の螺子は再び巻かれ
 五人目がすべてを決定する
 心臓には十字の杭が打ち立てられ
 見えない血が世界を交わらせる

 少女の両親は、彼女がちょうど小学校にあがるくらいの頃に亡くなった。よくある交通事故だった。
 もしも、時間が少し違っていたら――
 もしも、場所が少し別のところだったら――
 運命がほんの少しずれていたら死なずにすんだかもしれない、そんな事故である。
 両親のことを、少女は今ではもうあまり覚えていない。色調のはっきりしない絵や、うろ覚えの音楽と同じように、それは記憶の底で曖昧に混濁している。まるで、出口も入口もない迷路みたいに。
 少女が思い出せるもっとも古い記憶の一つは、火葬場でのことだった。その変に四角く白い建物と、静かに雨が降るような深い沈黙――
 そこに少女は黄色いクマのぬいぐるみを抱えて、一人で立っていた。まわりには、地面から立ちあがった濃い影みたいな大人たちが、無言のまま群れ集まっていた。彼女自身も着慣れない喪服をまとい、そんな光景を見つめている。その瞳は、すべてを理解するにはまだ幼すぎることをはっきりと示していた。
 彼女にあるべきだったはずの時間が焼かれていくのを、少女はぼんやりと眺めていた。世界で一番、彼女を愛してくれるはずだったその二人は、そんなものの一切を抱えこんだまま、底のない闇の中へと消えてしまっている。
 しばらくして不意に、その手が誰かにつかまれていた。温かくて、強くて、しっかりした手だった。
「――行こうか」
 と、その老人は音も立てずに吹く風みたいな、静かな声で言った。
「うん――」
 少女はうなずいている。そうして小さな手を引かれて、歩きだした。
 両親を亡くしたその少女は、祖父といっしょに暮らしはじめた。元の住居は引き払って、田舎にある古くて大きな家に移った。遠くに大きな山が見えて、その裾野に濃い緑の森が広がっている。
 少女の祖父は、気さくで明るい、面倒見のいい老人だった。どちからかといえば思索的、哲学的な性格だったが、かといって小難しい理屈をこねたり、愛情の出し惜しみをするような人物ではなかった。
 そして老人は、魔法使いだった。
「まほうつかい?」
 まだ幼かった少女は、不思議そうに訊ねた。
「ああ、そうだ。とてもとても古い力だ。人が言葉を覚える以前に持っていた、完全世界の力――」
「じゃあ、そのまほうを使っておとうさんやおかあさんを生きかえらせることはできる?」
 少女は無邪気に訊ねた。
 二人は部屋で、絵本を読んでいた。窓からは明るい光が射していて、木の床に四角く閉じこめられている。少女はその光の中に寝転んで、老人の読んでくれる絵本を前にしていた。
 少女の問いかけに、老人はしばらく黙っていたが、
「……ああ、できるかもしれないね」
 と、短く答えている。とても、悲しそうな笑顔を浮かべて――
 老人は時々、そんな顔をした。少女はそんな祖父の姿を見るたびに、不思議な気持ちになった。まるで、重さのない鳥の羽が、そっと手のひらに置かれたみたいに。
 長いあいだ、少女はその笑顔の意味がわからなかった。
 少女は両親がいないことを寂しいと感じることはあったが、そのことで自分が不幸だとは思わなかった。彼女には優しくて頼りになる祖父がいたし、世界には理不尽で残酷なところも、奇跡的で美しいところもあった。
 それで、少女には十分だった。
 少女は世界で生きていくのに必要なことを老人から学び、ついでにその学究的なしゃべりかたの癖を、いつのまにか身につけてしまった。
 そんな歳月を重ねていくうちに、老人は段々と例の笑顔を浮かべることが少なくなっていった。永遠のように見える山嶺も、いつかは朽ちてその姿を変えるように、老人の心から大きくて重い何かが消え去ろうとしていた。
 まるで、運命を優しく諦めようとするように――
 二人はたぶん、幸せだった。
 失われたものの大切さを守るように。
 あるいは――
 そのことに、守られるように。

 二人は穏やかな日々をすごしていった。手で量れるだけの重さを持った時間が、ゆっくりと優しく降り積もっていくような、そんな日々を。
 そしてある晴れた日の朝――
 老人は死んでいた。

 テーブルには三人が座っていた。千ヶ崎朝美と、その向かいにナツと桐子――
 朝美がドアの前に立っていたとき、ナツにはそれがソラに関することだとすぐにわかった。そして、魔法に関わることだとも。だからナツは、千ヶ崎朝美と外で話そうと思った。母親には魔法も魔法使いのことも、知らせる必要はない。
 けれど玄関先で朝美が訪問の目的を告げたとき、それを桐子も聞いてしまっている。そしてそこに「透村穹」の名前を聞いた以上、桐子もこの件に関して無関係でいられなくなるのは当然だった。
 三人はテーブルに座って、しばらく無言のままでいた。来客者には飲み物も用意していなかったが、事態はそんな雰囲気ではない。
「――とりあえず、お聞きしたいんですが」
 と、重い鉄の扉でも開くようにして、桐子は訊いた。
「あなたはいったい、どういうかたなんですか?」
 正直なところ、彼女にはまるで状況の見極めがついていなかった。目の前で背筋をまっすぐにして座る女性が怪しい人物には見えなかったが、かといってナツやソラとこの女性に、いったいどんな関係があるというのか。
 朝美は一瞬、目だけでナツのほうをうかがった。ナツは小さく、首を振る。桐子は何も知らないのだ。それを見て、「そうですか……」と朝美はつぶやいてから、
「今からお話しすることは、少し突拍子もないものに思えるかも知れません」
 と、まずは前置きした。
「ですが、私は冗談を言っているわけでも、話をごまかそうとしているわけでもありません。その点については、ご理解いただけますか?」
 理解も何も、千ヶ崎朝美がいったい何を言おうとしているのか、桐子には見当もつかなかった。だから彼女にできることといえば、うなずくことくらいしかない。
「――これは、魔法に関することです」
 と、朝美はにこりともせずに言った。
 それから彼女は、魔法のことや、魔法使いのこと、魔法委員会について説明した。自分がその組織の執行者と呼ばれる存在であることや、この町で調査に当たっていること。
 桐子はちょっと混乱するように首を振っていたが、
「それは、本当のことなんですか?」
 と、ようやくそれだけを確認した。
「ええ――」
 朝美はうなずいてから、少しためらうようにして告げる。
「実を言えばあなたの息子さん、久良野奈津くんも魔法使いです」
「……ナツが?」
 戸惑うような、けれどどこか思いあたるような顔で、桐子はナツのことを見る。
「それって本当なの、ナツ?」
「――ああ」
 ナツは簡潔に、ただうなずいてみせた。
「わざと黙っているようなつもりじゃなかったんだ。けど、説明しなくちゃならないようなことじゃなかったし、今までのところはその必要もなかった」
 桐子は一度ため息をついて、けれどそれだけで、まずはこの現実らしくない現実を受けいれることにしたようだった。
「魔法のことは、とりあえず信じます。でもそれとソラちゃんに、どんな関係があるっていうんです。それにあの子は今、どこにいるんですか?」
 朝美は一瞬、反射的に浮かびあがった言葉を飲みくだすような、そんな沈黙を唇の上に乗せた。けれど――
「取り引きです」
 と、結局は可能なかぎり直截的に、そのことを告げた。どんな言葉も言い訳にしか聞こえないことは、理解していた。
「詳しいことはお話できませんが、委員会ではここ最近、不穏な動きを見せるグループを追っています。魔法を不正に利用する集団ですが、その内実は我々にはわかっていませんでした。今回、その彼らから取り引きの申し出がありました。透村穹を渡すかわりに、組織に関するいくつかの情報を教える、というものです。もちろん、彼女に手荒なことはしないと約束させてあります。必要なことが終われば、すぐに解放することも……」
 そう言ってから、朝美は自分でも気づかないうちにほんの少し目をそらしていた。子供が、下手な言い訳でもするかのように。
「……魔法には世界を変えるだけの力と可能性があります。その力は、決して野放しにされていいものではありません。それは世界を、まったく別のものに変えてしまう可能性さえあるのです。我々はそのような事態を招くことを、未然に防がなければならない」
 その言葉が終わると、すっと空気が抜けて真空が広がるような、そんな沈黙があたりを覆っている。どんな言葉でも飲みこんでしまいそうな、そんな沈黙が。
「――手荒なことをしなくたって、人を傷つけることはできます」
 と、桐子は首を振りながら、幾分混乱した口調で言った。とりあえず手近なところにあったものを放り投げてみた、というふうに。
「そうかもしれません」
 朝美は逆らわない。
「それは――」
 と言ってから、桐子はその言葉を口にするのをためらった。蜘蛛の糸に似たその危うさに、一瞬躊躇する。けれど結局は、そのことを訊いた。
「一人の女の子より、大切なことなんですか?」
 朝美は努めて無慈悲に、告げた。
「――そうです」
 それを聞いて、桐子は何も言えなくなってしまっている。それは、彼女が朝美の言うことを理解してしまっているせいでもあった。百人を助けるために一人を犠牲にする、そんな単純で明確な理由――
 テーブルのまわりを、再び沈黙が覆っていた。言葉はどこにも行きつけないまま、その場に留まり続けている。
「――ソラは、自分からここを出て行ったんだ」
 と、不意にナツは言った。まるで独り言でもつぶやくみたいに。
「ソラが自分でそう望んだのなら――僕たちにできることは何もないよ」
 時計の針だけが、あたりの沈黙にも気づかずかすかな音を立てていた。

 玄関先で朝美を見送った桐子が戻ってくると、ナツはテーブルのイスに座ったままじっとしていた。彼女の息子は時間の流れる音に虚しく耳を澄ますような、そんな表情をしている。
「…………」
 桐子はその前の、さっきまで執行者と名乗る女性のいた場所に座った。
 魔法、委員会、言葉を得て失ったものの一つ、世界を変えてしまう可能性――そんな言葉が、桐子の中にまだ残っていた。けれど結局のところ、そんなものは彼女にとってどうでもいいことだった。
 久良野桐子にとって大切なものは、ただ一つ――
「ナツ、ちょっと外に行こうか……」
 と、桐子はにっこりと笑って声をかけた。時間の流れを、そっと戻すように。

 いつのまにか夜もすっかり遅くなって、夏の闇が世界を覆っていた。不思議に軽く、薄い感じのする暗闇だった。ちょっと強く息を吹きかければ、そのまま吹き飛ばせてしまえそうな、そんな感じの。
 桐子とナツの二人は、そんな暗闇の中を歩いていく。道路には街灯が並んで、銀色の光であたりを照らしていた。時折、自動車のライトが周辺を無造作に切り裂いて通りすぎていく。
 その夜には、まだほんの少しだけ昼の気配が含まれていた。太陽の熱や、ざわめき、伝えきれなかった言葉の名残――そんな気配を消し去ろうとするみたいに、風が流れていく。
 しばらくして、桐子は公園の前で足をとめた。もちろん桐子は、そこがまさしくソラがあの二人に出会った場所だなどということは知らない。彼女は人気がないことを確認すると、その中に入っていった。
 公園には手持ち無沙汰な暗闇が広がるだけで、どこにも人影はなかった。鉄棒やすべり台といった遊具が忘れられたように置かれていて、街灯が空っぽのプールでも照らすように、乱雑な光を放っていた。
 桐子はブランコのところまで行くと、その上に腰かけた。ナツもその横に、同じように座る。ブランコは昼間とは違って、まるで眠っているみたいに軋んだ音を立てた。
「――お父さんのこと、話したっけ?」
 と、不意に桐子は言った。
 ナツはよくわからないまま、首を振る。
「お父さんが言語学者だってことは知ってるわよね?」
 桐子は小さくブランコを揺らしながら、話を続けた。
「私たちがどうやって出会ったかというと――というのは、いいとして――出会ってしばらくした頃、言うわけよ、あの人が。言葉っていうのはとても不完全なものだ≠チて」
 どこか遠くで、窓の開く音がした。あるいは、閉まる音が。
「詳しいことはわからないんだけど、あの人の研究は要するに、言語の構築過程を調べる、みたいなことなわけ。つまり、どうすれば新しい言語ができるか、ということを調べてるの。そのくせ、言語なんていうものは不便で不合理で不適切で、大切なことは正確に伝えられないし、一方で誤解や悪意ばかり広めたりもする。ろくなものじゃない≠チて、そう言うの。じゃあ何でそんなものの研究をするんだって聞いたら、こう答えるわけよ。それはたぶん、間違えることができるからだ≠チて」
 街灯の光に蛾が引きよせられて、小さな羽音が聞こえた。
「あの人は言うわけよ、間違うっていうのは、新しい可能性なんだ≠チて。人は間違いによって新しい発想を得てきた。人の願望の多くは、間違いによって成りたっている。空を飛ぶこと、海に潜ること、見たこともないものを作ること、存在しないものに名前を与えること。言葉は不完全かもしれない。でもその代わりに、私たちには可能性がある。もしかしたらそれを、自由意志と呼ぶのかもしれないような。ある意味では、運命さえ間違えて――」
「……何だかよくわからないな、それ」
 ナツはちょっと顔をしかめるようにして言った。いかにも父親の言いそうなことだとは思いながら。
「確かにほとんどこじつけだし、屁理屈みたいなものなんだけど、あの人は大まじめにそう言うわけよ。少なくとも、そんなふうに考えることはできるって」
 桐子はくすくす笑って、ナツの言葉を肯定した。それから、月の光みたいな柔らかな微笑を浮かべて言う。
「けどその時思ったのよ、ああ、この人には私がいないとだめなんだ。私にもこの人がいないとだめなんだ、って。そういうことを思うのは、わりとはじめてだったから最初は戸惑ったんだけど、そのうちそれがどういうことなのかわかってきたの。それはすごく単純なことだった。言葉にしても、間違わないくらい――で、私たちは結婚したというわけだ」
 言ってから、桐子は肩をすくめるようにしてナツのほうを見た。
「……ところで、こういう話って聞いてて恥ずかしい?」
「そうでもない」
「私はわりと恥ずかしいけどね」
 桐子は冗談めかして、そんなことを言った。風が吹いて、彼女はちょっと髪を押さえた。
「あんたが生まれたときのこと、覚えてる――?」
「……そりゃあね」
 とナツはできるだけ平気そうな声で言った。
「あの時は、本当に大変だった……」
 桐子はきこきこと、小さくブランコを揺らした。
「普通なら二つあるはずの胎盤と羊膜が一つしかなくてね。血液のこととかで問題があるし、とにかく不安定で私もよく体調を崩してた。本当に苦しくて、辛くて、何でこんなことになったんだろう、ってそんなことばかり思ってた」
「…………」
「でもとにかく、私たちはがんばった。私も、お腹の赤ちゃんも。ちょっと自分でも信じられないくらいに。あの時は、たぶんお父さんがいなかったら耐えられなかった。いろいろなことに神経を使って、いろいろな人に相談して――でも結局、二人ともを助けることはできなかった」
 桐子のブランコは、ゆらゆらと揺れていた。まるで小さなため息をつくみたいに。
「そのことはずっと覚悟してたけど、やっぱりショックだった。あの時ああしてれば、もしもあそこでああしなかったら……そんなことばかり考えてた」
 そう言ってから、桐子はぴたりとブランコをとめた。「でもね――」
「でも、思ったの、ナツが生まれて、もう一人のナツが死んだとき、それでも生まれてきてくれてありがとう≠チて。この子は生まれてすぐ大切なものの半分を失くしたかもしれないけど、ここはそういう不完全な世界かもしれないけど、でもありがとう≠チて」
 桐子はそして、ナツのほうに顔を向けた。
「私には魔法のこととか、この世界のこととか、そんなことはわからない。どう信じていいのかも。でもね、一つだけ確かなことがあるの。それはね――」
 そう言って、桐子はじっとナツのことを見つめた。
「――それはね、ナツが私たちの自慢の息子だっていうこと」
 にこりと、まるでそれが重大な秘密か何かみたいにして、桐子は言った。
「ねえ、そのことは知ってた……?」

 それは昔、ナツが遊園地に連れていかれたときのことだった。
 ナツはほとんど無表情といっていいくらいの顔で、休憩所のベンチに座っている。隣には父親の樹がいた。母親の桐子はいない。たぶん、トイレかどこかに行っていたのだろう。
 遠くのほうを、賑やかな気配とともに人々が歩いていた。友達や、家族連れ、恋人たち、誰もが和やかで親しげな雰囲気を漂わせていた。それ以外のものなんて、どこにも存在しないかのように。
 ベンチのまわりには人がおらず、そこだけが音のスイッチを切られたみたいに静かだった。幼いナツは、視力検査でもするような格好で左目を手で覆い、ただぼんやりとそんな光景を眺めていた。
「――楽しくないのかい、ナツ?」
 不意に、声が聞こえた。見ると、樹がこちらをのぞきこんでいる。よく晴れた真昼の空に、白い月でも発見したような顔つきで。
「別に……」
 ナツは手を下ろして、答えた。本当にそう思っていたから。ナツにとって、ここは意味のある場所ではない。けれど、
「しかし、僕は非常に楽しいんだな」
 と樹は言葉通りの笑顔を浮かべて言った。
 そんな樹を、ナツは不思議そうな顔で見つめる。この父親にはそんなところがあった。秘密の合い鍵でも持っているみたいに、相手の心の重要な部分に入りこんでしまう。
「――僕はナツやお母さんとこうしているだけで、非常に楽しい。楽しくないことをつい忘れてしまうくらい、楽しい。それはとても幸せなことだし、そんなふうにしていられるのはナツのおかげなんだ。例えナツがそうでないとしてもね」
 ひどく自然な態度で、樹はそんなことを言った。鳥が風を受けて空を飛ぶみたいに、とても当たり前に、とても簡単そうに――
「ナツがこの世界にいるだけで、僕は幸せになれるんだ。ナツに意味がないとしても、僕にはそれがある。世界はそんなふうに、バランスをとることもできる。どこかの蝶のはばたきが、思いもよらない運命のきっかけになるみたいにね」
 樹はちょっといたずらっぽい表情を浮かべ、手をひらひらと動かしてみせた。それがどこか遠くの運命を今しも左右している、というふうに。
「でも、お父さんによくったって、僕にとってもそうだってわけじゃないよ」
 ナツは無感動な口調で、そう反論した。それに対して、樹は重々しい動作でうなずいてみせる。
「そう、それはとても大事なことだ。相手を思いやる心。和を尊(たっと)ぶ信念……だが本当は、そんなことはたいしたことじゃないんだ。そこが温かくて居心地のいい場所であるなら、相手がどんなに嫌がっていても、強がっていても、たいしたことじゃない。相手の事情や、理念にも関係ない。理由だっていらない。何故なら、世界にはそういう場所が必要なんだから」
 そう、樹は言った。
 久良野樹は単なる偽善や、ごまかしや、言い訳としてそれを言ったわけではない。そのことは、ナツにもわかっていた。それはたぶん、何の見映えも、華やかさもないけれど、日常についての大切さ語った言葉だった。
 けれど――
 結局のところそれは、何の意味もない言葉だった。片目で世界を眺めているような今のナツにとっては、理解ができない言葉。底の抜けた器に水を注ぎこむのに似て、その時のナツにはまるで届かなかった言葉。
 でも零れ落ちたその言葉はたぶん、ナツの心のどこかに深く沈みこんで、それを内側から守っていた。長い時間をかけて、ゆっくりと。
 魂の半分を失くして、それでもナツが今のようでいられたのは、たぶんこの両親がいたからなのだろう。

 その日の夜、公園から帰ってナツがまずはじめにしたことは、電話をかけることだった。
 電話の相手はちょうど一年前に知りあった、ある少年である。
 夜もかなり遅くなっていたが、その少年はちゃんと起きていた。以前に聞いたのと同じ、ひどく落ちついた声が電話の向こうから聞こえる。
「頼みがあるんだ」
 と、ナツは単刀直入に言った。相手の少年はそれを咎めもせずに、黙って先をうながしている。
「人を探すのに力を貸して欲しい」
 ナツは真剣に、簡潔に用件を伝えた。
 そう――
 魔法に関することは、魔法使いに聞くのが一番だった。

 翌朝早くに、ナツは家を出発した。
 駅まで行って電車に乗り、目的地に向かう。早朝に近い時間帯の電車は、部活か何かがあるらしい学生や、勤め人とおぼしき人影でまばらに埋まっていた。時間の動きはひどくぎこちなく、まだ半分眠っているようでもある。
 三つほど駅を過ぎたところで、ナツは電車を降りた。その頃には電車の中はがらがらで、降りたのはナツのほかには誰もいない。
 改札を抜けると、バスターミナルに向かった。ほぼ同時にバスが到着して、ナツはそれに乗る。教えられたとおりの時刻だったので、誰かのように待ち時間を無駄にすることはない。
 バスは一昔前の、ちょっと古ぼけた感じのするものだった。ナツは前のほうの席に座ると、ぼんやりと窓の外を眺めている。
 家を出てからだいぶ時間がたったとはいえ、時刻的にはまだ朝方に近かった。けれど夏の朝はもうすっかり目覚めてしまっているらしく、世界は明るい太陽の光に満たされている。時間の動く音は、いつのまにか滑らかになっているようだった。
 しばらくするとナツはバスを降りて、教えられたとおりの道順をたどってその場所へ向かった。蝉の声が、もうかなり賑やかになりはじめている。
 その家の前にやって来ると、ナツは表札を確認した。間違いない。声をかけて、中での反応をうかがった。
 すると待つほどもなく、一人の老婦人が姿を見せている。
「ようこそ、いらっしゃい。あなたと実際に会うのははじめてよね、久良野奈津くん?」
 ――佐乃世来理はそう言って、にっこりと笑った。

「どうかしら、お味のほうは?」
 と、来理は訊いた。一階の庭に面した居間である。二人はテーブルに載ったお茶を囲んでいた。
「――おいしいです」
 ナツは礼儀正しく返答した。ただ正直なところ、ほとんど感想らしいものは持っていない。確かにおいしいとは思うが、それだけである。大抵の場合、そうであるのと同じで。それに今は、それどころでもなかった。
「…………」
 そんなナツの様子を、来理はちょっと珍しそうに眺めている。
 彼女の言ったように、二人が顔をあわせるのははじめてだった。ただし、お互いのことはすでに知っている。昨夜、ナツが電話で話したのは彼女の孫にあたる少年で、それが二人の接点になっていた。双方ともに魔法使いである、ということも。
 居間に面したガラス戸の向こうには、夏の庭が広がっていた。草花は太陽に励まされるように、賑々しく咲き誇っていた。隅のほうには、鮮やかな向日葵の姿もある。床に射しこんだ光は、ものさしで引いたような直線を刻みつけていた。
「それで――」
 と、来理は静かな声で訊ねた。
「今日はいったい、どんな御用なのかしら?」
 ナツはカップを戻してから、慎重に言葉を選んだ。
「実は、魔術具を貸して欲しいんです」
「魔術具を……?」
 来理は言葉の重さを量るようにして首を傾げる。
「理由を聞いてもいいかしら?」
「それが必要だからです」
 決意というほどのものでもなく、かといって冗談というわけではない口調で、ナツは言った。
「…………」
 澄んでいるわりには不思議に見透しのきかないその瞳をのぞきこんで、来理は言う。
「あなたのことは簡単に聞いているけど、会うのははじめてね。だから私はまだあなたのことを何も知らないわ。あなたがどんな人間で、どんな考えかたをするのか、ということを」
「――はい」
「魔術具というのは、信用のできない相手には簡単には貸せないものよ。それは世界を不正に操作できるようなものなのだから。それに私のしていることは、いわば又貸しみないなものよ。だからそれをするには、それなりの理由≠ェなければいけないの」
 言われて、ナツはしばらく黙っている。記号を描きこんで魔法を具象化させるときと同じで、ゆっくりと言葉を形にするみたいに。
 そして――
「まだ、運命を取り戻せるからです」
 とナツは言った。
「…………」
 その言葉を聞いて、来理はあらためて目の前の少年を眺めてみる。
 ナツの瞳はどこまでも真剣で、底意などというものを考える必要がないほどまっすぐだった。何もない青空の中を、飛行機がくっきりとした航跡を残して進んでいくみたいに。
 それは種類は違うとはいえ、彼女の孫が時々見せるそれとよく似ていた。この世界を、この不完全な世界を、それでもためらうことなく見つめている、そんな瞳である。
「詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
 と、来理は静かに訊ねた。
 うなずいて、ナツは今までにあったことをかいつまんで説明する。ソラと出会ったこと、〈運命遊戯〉の魔法、彼女を狙う二人の男のこと、彼女の祖父が知っていたという秘密、二人の男に一度は捕まって、執行者を名乗る女性に助けられたこと、そして彼女の属する委員会が敵対組織と取り引きをして、ソラが連れていかれてしまったこと――
「僕はソラを探すつもりです」
 とナツは言った。
「ソラはこの世界でどうしようもなく一人ぼっちで、何の力もなくて――だから誰かが、あいつを守ってやるべきなんです。誰かが、あいつのために何かをしてやらないと。でないと、世界はあまりにひどい場所になってしまうから」
「…………」
 来理はその話を最後まで黙って聞いていたが、ちょっと困ったような表情を浮かべている。
「あなたが会った執行者というのは、千ヶ崎朝美さんという人じゃないかしら?」
 と、来理は訊いた。
「知ってるんですか?」
「ええ――」
 どう話せばいいのか少し迷っている、という様子で来理は言った。
「これは言っておかなければならないのだけど、私は委員会の協力者とでもいうべき立場よ。朝美さんとも顔をあわせたことがある……つまり、委員会がこの件から手を引いたのなら、私としてはあなたに力を貸してあげるのは難しくなる、ということね。形はどうあれ、私は委員会に逆らうことになるのだから」
「――なら、僕に脅されたことにすればいいんです」
 ナツはほとんど考えも、ためらいもせずに言った。
「あなたに?」
 来理はちょっと驚いた、というふうに何度か瞬きしている。
「小学生の男の子に、私はいったい何を脅されたっていうのかしら?」
「例えば、孫をいじめられたくなかったら協力しろ≠ニか」
「それは――」
 つぶやいてから、来理は軽く絶句してしまった。それは確かに、そうだった。もしもそんなことをされれば、彼女はなかなかに傷ついてしまうだろう。
 来理はそう思って、けれど実際にはくすくす笑ってしまっていた。何だかおかしかったのだ。ナツは真顔で、そんなセリフを口にしている。この少年はどこまで本気で、どこまで冗談なのだろう。
「――わかりました、あなたに魔術具を用意しましょう。脅されたのだから、仕方ないわよね?」
 ナツは平然とした様子で、うなずいている。それも何だか、来理にはおかしかった。
「……でも、困ったことが一つあるの」
 と、来理は急に表情を曇らせて言った。
「困ったこと?」
「あなたはその、ソラという子の居場所を知りたいのだろうけど、特定の個人を見つけるような魔術具は存在しないのよ。似たようなものなら確かにあるのだけど、おそらく今は役に立たないでしょうね。時間がかかりすぎるし、確実性にも欠ける」
「でも何か――」
「ええ、一応はあるわ」
 と来理はナツの言葉を遮って言った。
「見つかる可能性は低いけれど、試してみる価値くらいあるものはね。それは宝くじを当てるみたいに本当に低い確率だけど――」
「やります」
 来理の言葉が終わるのも待たずに、ナツは即答した。たぶんもう、迷っているような時間は残されていない。
「……いいでしょう」
 こくりと、来理はうなずいた。
「少し準備をしてくるから、あなたはここで待っていて。それほど時間はかからないと思うから」
 そう言うと、来理は立ちあがって居間から出ていってしまった。
 あとにはナツと、まだほんの少しお茶の入ったカップが残されている。外からは蝉の声が聞こえて、まるで雨足が激しくなるみたいに、太陽の光はその強さを増しつつあった。
 そしてしばらくすると、来理が戻ってきている。
「準備ができたわ」
 と告げられて彼女に案内されたのは、家の奥のほうにある一室だった。その扉が開けられると、中には白い空間が広がっている。壁面は漆喰で固められ、床と天井にはモザイク画のようにして奇妙な模様が刻みこまれていた。厚めの石壁によって囲まれているらしく、空気は思いのほか冷やりとしている。窓はなく、やや広めの牢獄といった感じがしないでもない。
「ここは魔法室(チェンバー)≠諱v
 と、来理はナツを招きいれながら言った。
「といっても、正確にはこれも魔術具の一種というべきなのだけど。この部屋では、魔法の揺らぎを制御しやすくなるの。強さや、方向性、位置、そんなことをね」
 説明しながら、来理はナツを部屋の中央に移動させた。そこには特に変わりのない机とイスが置かれている。
 そしてその上には、一見すると機械式の天球儀か何かみたいなものが乗せられていた。
「これは観測魔法(ロケーション)≠フ魔術具よ。この魔法は人の存在を検知できるの。検知といっても、それほどはっきりとではなく、抽象的な光か影みたいなものでしかないけれど。そこにいる人数くらいはわかる、というところね。かなり広い範囲を調べられることには違いないのだけど」
「…………」
「可能性が低い、といったように、これで見つけられるかどうかは微妙ね。個人の識別は難しいでしょうし、そもそも距離が離れるほど焦点をあわせるのが大変になっていくの。遠くの星ほど、ぼんやりとした光にしか見えないのと同じでね。感じとしては、衛星写真で見た地球に似ているかもしれないわ。たくさんの光があるけど、そのどれが自分の家のものかはわからない」
 来理はその無骨そうな球体の骨組みに、そっと手を触れた。
「この部屋なら多少の補助が得られるとはいえ、あなたがやろうとしていることは、まさしく藁山の中から一本の針を見つけだすような行為よ。そのソラという子の存在を、あなたはほかの何千、何万の光の中から選びださなくてはならない――それでも、やるつもりかしら?」
「はい」
 何の迷いもないその答えに、来理は少しだけ笑ってから、ナツを机の前に座らせた。
「魔法の揺らぎを作ったら、うまく魔術具にあわせて。そうしたら、魔術具のほうがそれを魔法の形に変えてくれるわ。細かい操作は、何とか自分で工夫をして」
 黙ったまま、ナツはうなずいた。
「……それから、これは消耗の激しい魔法よ。距離が遠いほど、精度が高いほど、魔法を維持するのが難しくなっていく。決して、無理はしないように」
「気をつけます」
 ナツは短く、そう答えた。
 来理は何かに手をのばそうとして、けれどやっぱりそれをやめたような、そんな表情を浮かべた。彼女が言うべきことは、もう何もない。
「――それじゃあ、がんばって」
 部屋を出ていくときに、来理は照明を暗くした。そのほうが集中しやすいから、ということだろう。
 扉の閉まる音がすると、あとにはナツだけが残されている。ロウソクをふっと吹き消しでもしたみたいに物音が消え、冷やりとした静寂があたりを覆った。まるで世界が、どこかに消えてしまったようでもあった。
「…………」
 ナツは一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと目をつむった。
 そして慎重に、魔法の揺らぎを作っていく。
 観測魔法≠ノその揺らぎをあわせると、それはちょうどスタンプでも押すように形が整えられていた。多少のこつは必要だったが、どちらかというとそれは、ナツが普段やっている魔法に似ていた。その場に応じて適宜、揺らぎの形状を調節してやるといったような――
 魔法が発動すると、ナツはさっそくその操作にとりかかった。来理が説明したように、それは望遠鏡で星をのぞくのと同じような仕組みだった。全体を見ると細かいところが曖昧になり、倍率を上げれば見える範囲は狭まってしまう。そして検知される人の存在には、最大限に拡大しても有意な違いがあるとはいえない。
 ある意味でそれは、真昼の空に星の光の一粒を探しだすのに似ていた。
(ソラ――)
 意識を集中しながら、ナツはその少女のことを思った。青空みたいに、いつも自然に笑っていられる少女のことを。
 ナツは諦めるわけにはいかなかった。
 この不完全な世界を、ナツは守らなくてはならなかった。

「…………」
 来理は部屋の外に出てそっと扉を閉めると、しばらくその前でたたずんでいた。
(あの子、似ているかしら)
 と来理はふと、そんなことを思っている。久良野奈津という少年と、彼女の孫――
 それはまるで種類の違う少年同士ではあったけれど、それでもどこか似ていた。
 来理は静かに、扉の向こう側の揺らぎに感覚を澄ませてみる。部屋の中でナツはがんばっているようだったが、必ずしもうまくいっているとはいえない。そもそも、あの魔法では目的をはたすのは難しいだろう。
 顔をあげて、来理は少し逡巡するようにしてからその場を離れた。そして廊下の途中にある、電話機のところに向かう。
「私にしてあげられるのは、こんなことくらいね――」
 来理は小さくつぶやいて、ある人物のところに電話をかけはじめた。

 暗闇に、光の粒が浮かんでいる――
 イメージとしては、そんな感じだった。中心から離れると、光の粒は小さく多くなり、近づくと大きく少なくなる。
 ナツは魔法を微調整しながら、光の粒を調べていく。時々、ピントの調節に失敗したように、暗闇にさざ波が広がった。そうすると光がぼやけて、それを鎮めるためにはしばらく集中しなくてはならない。
 それでも、ナツはこの魔法の扱いに習熟しはじめていた。かなりの繊細さと集中力が必要だったが、できないことはない。
 けれどそれでも、ソラを見つけられるかどうかは不明だった。光の粒は膨大で、どれも形が似ている。その中から、たった一人の少女を見つけだす必要があった。来理の言ったように、可能性は本当に低い。
 魔法を操作して、ナツは暗闇をそっと動かしていく。コップの水に波が立たないように、慎重に。そしてどこかに見覚えのある少女の気配はないかと、神経を凝らしておく。
 例の魔法のことが、ふとナツの頭をよぎった。あの魔法が、運命について何か教えてくれれば。あの戯言みたいな言葉の中に、何かヒントのようなものがありさえすれば――
(くそっ――)
 一瞬、揺らぎがぶれて暗闇に波紋が生じた。ナツは心を落ちつかせて、もう一度魔法を安定させる。
 その時だった。
 ふと、かすかに覚えのある、そんな感覚に気づいた。はじめてみる景色を、いつか見たものと同じに思うような、そんな感覚――
 暗闇を乱さないようにそっと、ナツはその部分へと移動した。コンマ単位で望遠鏡の角度と距離を調節するように、位置と倍率をあわせていく。神経をぎりぎりまで絞りあげながら、意識を集中させた。細い糸をさらに細く裂くようにして、魔法の揺らぎをコントロールする。
(あと、少し――)
 手をのばすことを、ナツは少しもためらわなかった。
 けれど――
「その辺にしておいたほうがいいでしょう」
 という声が、不意に聞こえている。
 途端に、ナツの意識は集中が切れて、魔法が解けてしまっている。
 その最後の瞬間、ナツにわかったのはその誰かが天橋市のどこかにいるらしい、ということだけだった。場所の感じからすれば、ホテルのようなところかも知れない。だが、それ以上のことは現像に失敗した写真みたいに、はっきりとはしなかった。
 極度に集中していたせいで、ナツはなかなか現実に意識をあわせられなかった。声のほうを見ても、それが誰なのかがすぐには認識できない。
「……魔法の使いすぎです」
 と、その人物はどこか聞き覚えのある冷静な声で言った。
「それ以上の無理は、精神的に何らかの故障を引き起こしかねません」
「――千ヶ崎さん?」
 ナツはようやく、その人物が誰なのかを理解した。
「ええ、そうです」
 と朝美はうなずいた。その頃には部屋の電気がつけられ、来理が入口のところに姿を見せている。
「何で――?」
 ナツは立ちくらみに似た状態のまま、言った。
「佐乃世さんに呼ばれたのです。もっとも、あなたがいるとは聞かされていませんでしたが」
 そう言って、朝美はかすかに視線をそらせている。
「……あなたには本当に悪いことをしたと思っています。ですが委員会の判断は、仕方のないことだとも言えるのです。私にはどうすることもできません」
「大人の事情ってやつですか――」
 ナツはかすかによろめきながら、それでも立ちあがって言った。
「でも僕は、ソラを諦めるつもりなんてないんですよ。例え運命でそう決まっていたとしても。誰かが、あいつのためにそれくらいのことはしてやるべきなんです」
「けれど、あなたに何ができるというんですか?」
 朝美は言った。非難するでも、嘲笑するわけでもなく、ただ事務的に。
「――できるさ」
 けれどナツは、即座に答えている。
「魔法は、そのためにこそあるんだから」
 そう――
 ナツにとって、魔法というのはそういうものだった。
 それはかつての完全世界などとは、何の関係もないものだった。それはただの道具であり、方法の一つにすぎなかった。それをどう生かすかは、魔法≠ナはなく魔法使い≠フ問題なのだ。そしてこの不完全な世界で、それでも守るべきもののために、ナツはそれを必要としていた。
「…………」
 朝美は黙ったまま、この少年のことを見つめている。年端もいかず、ふらふらで、この世界に対してあまりにちっぽけな存在でしかない少年のことを。
 やがて、朝美は言った。
「あなたは委員会の人間ではありません」
「……?」
「だからあなたがどう行動しようと、委員会とはまったく関係のないことです。例えば、あなたが偶然、透村穹の居場所を見つけたとしても」
「――――」
「これが、私にできる最大限の譲歩です」
 最後に少しだけ笑って、朝美は言った。
「あとはあなた次第です。もしもあなたが完全な魔法≠フ使い手なら、この世界そのものさえ、どうにかできるのかもしれません」

 それから半日以上がたって、時刻は深夜になろうとしていた。
 天橋市内を、一台の車が移動している。時間が時間だけに、あたりはすっかり暗闇に閉ざされていた。道沿いの街灯やコンビニの明かりが、昼の落し物みたいに輝いている。人通りはなく、車もほとんど走ってはいなかった。
 車には、雨賀と烏堂、それにソラの三人が乗っている。
 ソラは後部座席で、ぼんやりと手元を見つめていた。その手には、何かが乗せられている。ただ車内は暗すぎて、それをはっきり見ることはできなかった。
「何を見てるんだ?」
 助手席で、烏堂がふと気づいたように訊ねた。雨賀は前方を向いたまま視線は動かさない。
 ソラはしばらく黙っていたが、
「……私の大切なものだ」
 とだけ、簡単に答えた。
 そうしてソラは、その蓋の裏側をそっと指でなぞる。
 暗くてろくに見えはしないが、そこには天使≠フ絵が描かれているはずだった。自分の居場所を示すコンパスに、魂を守ってくれる天使の絵が。例え実際に見ることができなくとも、ソラにはそれがわかっていた。
 そこには、優しい魔法があるのだと――
(私は、大丈夫だ)
 ソラはだから、そう思っていた。
 この魔法があるから、大丈夫。例え運命がどれだけ残酷な選択を迫ろうと、例えこの世界がどれだけ不完全な場所であろうと、大丈夫――
 ソラはもう、泣かなかった。
 泣く必要など、なかったのだ。
 ――透村穹は確かに、幸せだったのだから。

 深夜の駅には、まるで人気というものがなかった。
 もはや最終電車の出発を待つだけの構内は静かで、一日の仕事もすべて終わり、眠りにつくまでの時間をただ待っているように見える。駅のあちこちを照らす光も、半ば以上は夢の中に沈んでいた。
 その駅の三番線と四番線のホームに、四人の人影が立っていた。
 雨賀、烏堂、朝美、ソラの四人である。予言された一連の出来事のうち、それに関わる四人がここにそろっていた。
「もう一度、最終確認といこうか」
 と、雨賀は言った。ホームに人影はなく、電車はすでに停まっている。車両の緊急点検のため、発車時間の遅延が生じていた。何かの道具が用意され、数名の工員が線路上で作業にあたっている。
「――ええ」
 朝美は相変わらずの、事務的な態度でうなずいた。
「透村穹が所定の場所まで無事に移動したことを確認したら、取り引きは成立だ。俺たちは組織についていくつかのことをあんたたちに教える。その代わりに、俺がお姫様≠目的地まで連れていくあいだ、烏堂があんたといっしょにいる。取り引きが済んだら、あんたは烏堂を解放する」
 無言のまま、朝美はうなずいた。
「……この取り引きは、お互いの上≠ェ決めたことだ」
 雨賀はちょっと黙ってから、特にどういう感情を込めることもなく訊いた。
「だがあんたはそのことを、どう思ってるんだ? 自分が助けた子供を、その相手にまた渡すっていうのは」
「私は委員会の命令に従うだけです」
 朝美はまるで、表情を変えていない。
「それが執行者の役目ですから」
 ふっ、と雨賀は笑った。別にどうだっていいのだが、というように。
「烏堂――」
 と雨賀は傍らの、相棒のほうを振り返っている。
「一応、気をつけておけよ。お前のことだから大丈夫だとは思うが……それと、悪かったな。こんなことにまで巻きこんで」
「僕は別に気にしてませんよ」
 烏堂は幾分のん気そうな感じで、そう言った。
「人質といったって、ただの間にあわせみたいなものですからね。雨賀さんのほうこそ、気をつけてください」
 言われて、雨賀は烏堂のそばに立つソラのほうに視線を向ける。
「…………」
 ソラはただ黙ったまま、何かを考える様子もなくじっとしていた。その表情はもはやすべてのことを諦めて、ただ運命に身を任せているだけのようにも見える。
「……電車が発車するまで、あと三分てとこか」
 腕時計を確認して、雨賀は言った。
「どうやら、このまま何も起こらないみたいだな。久良野奈津とかいったか……あの生意気なガキもどうしようもなかったらしい。あの小僧にはずいぶん手こずらされたが、それも終わりだ。さすがにここまで追ってくることはないだろう」
 雨賀の口調はどこか冷笑的であり、そのくせ感慨めいたものも含まれていた。
 そのあいだも、電車は別の世界からやって来た感情のない獣みたいに、じっとしていた。その巨大な鉄の塊は、ほかのものの運命など知らぬげな様子で、倨傲な無関心の中にある。
 朝美は最後に、雨賀に対して一つだけ質問をした。
「あなたたちはいったい、何をするつもりなんです?」
「――簡単なことだ」
 雨賀はその言葉通り、ひどくそっけなく答える。
「完全世界≠、取り戻すのさ」
 そうして発車を告げるアナウンスが、奇妙な響きかたをしながらホームに伝えられた。点検作業は無事に終了したらしい。雨賀とソラは、乗車口のところへ向かった。
「……?」
 その時、ソラはふと地面の奇妙な模様に気づいた。
 電車の光や照明の加減で、たまたまそうなったのだろう。そこにはちょうど車輪に似た形の影が浮かびあがっていた。運命が、何かをそっと告げでもするかのように。
「気をつけたほうがいいですよ」
 不意に後ろから、朝美がつぶやくように声をかけている。
「誰もが、それを求めるわけではないのですから」
「…………」
 雨賀は何の返事もしないまま、ソラを連れて電車に乗った。車内に人影らしきものは見られない。やがて小さな音を立てて、扉は閉じられた。
 そうして、まるで世界から遠く離れていくように電車は動きはじめている。窓の外にはただ、深い海にも似た暗闇が広がるばかりだった。

 乗客は絵の具でも塗り重ねられたように、一人もいなかった。聞こえてくるのはレールの上を走る車輪と冷房の音だけで、あとは物音一つしない。車内を照らす光は、水と油が分離するみたいに夏の闇を押しのけていた。
 無人のシートがただ並ぶだけの光景は、どこか教会の聖堂のような、そんな雰囲気を漂わせていた。静かに、ただ祈りだけを要求するような、そんな雰囲気が――
 雨賀とソラは電車の、対面シートに座っていた。ソラは窓際でぼんやりと、自分の姿が映った暗い外の世界を見つめている。雨賀は通路側で、何かの紙片を取りだして眺めていた。
「……なるほどな」
 と、雨賀はつぶやいている。その頬は、皮肉めいた感じに微笑していた。
 そのつぶやきをソラは聞いているのか、いないのか、何の反応もしない。が、雨賀は気にせずに続けた。
「〈運命遊戯〉か、まったく厄介な魔法だよ。それにこれを見るかぎりじゃ、ほとんどの予言はもう終わってしまっているらしい」
 雨賀が手に持っていたのは、例の予言≠ェ書かれた紙だった。
 それは昨日、ソラが家を出るときに持ってきたものだった。雨賀にそう、指示されていたのである。
「こいつを知っていれば、ここまで苦労せずにすんだんだがな。応援を一人か二人呼べば、それで予言を成立させずにすむ。しかしまあ、そんなことを言ってもはじまらんのも事実だ。過去は変えられん――運命も、な。それに肝心の予言のほうも、まだ終わったかどうかわからん」
 電車の粗い光の下で、雨賀は文章をそっとなぞるように指を滑らせた。
「道化師=\―つまり、魔法使いか。それが五人=Bそして最後の文章、五人目がすべてを決定する=Bつまり五人の魔法使いがいて、五人目が運命を決めるわけだ。とすれば、この五人目≠ヘやはり魔法使いの一人ということだろう」
「…………」
「俺、烏堂、執行者、〈運命遊戯〉の術者、それにあの久良野奈津とかいう小僧――これで五人≠ネわけだ。とすると、これから現れるであろう五人目≠ェ誰なのかは、考えるまでもないだろう。まあ予言が成立しない場合や、解釈が異なる可能性もあるが、それでもかなりの確率で、な」
 そう言って、雨賀は紙片をたたんでポケットにしまっている。
「――ナツは」
 と不意に窓から視線を外して、ソラはかすかにうつむきながら言った。
「ナツは、ここには来ない」
 雨賀はけれど、断定するように告げた。
「それはお前の願望だ」
 ソラはきっ、と雨賀をにらみつけるようにして言った。
「だがこれはさっき、お前が自分で言ったことだ。ナツがここまで来ることはないだろう、どうにもならなかったらしい……そう、お前が言ったんだ」
「普通なら、な」
 雨賀はまるで、ソラのことなど意に介さずに言った。
「だが世界が〈運命遊戯〉の影響下にある今、そんなことには何の意味もない。運命は術者の意図や意識などとは関係なく、それこそサイコロでも振るみたいに決められていくのさ。例えそれがどんなにでたらめな確率だろうと」
「…………」
「何にせよ、予言はもうすぐ終わる。この、いい加減で下らない遊戯みたいな運命も、もうすぐ決着する。お前が望むべく未来≠手にするかどうかはな――」
 ソラは黙ったまま、また少しうつむいている。座席からは液体の密度が変化するような、電車がカーブするかすかな力動が伝わっていた。
「……そんなはずはない」
 まるで宙空からそっと大切なものを手放すように、ソラは言った。
「私はさよならをしたんだ、あの時、ちゃんと。私はもう、ナツを自分の運命に巻き込むつもりはない。これ以上、迷惑をかけるつもりは。あの時、私たちの運命は別々に分かれたんだ。それが交わることは、もうない……」
 それは――
 運命の糸を自らの手で断ち切るような、そんな口調だった。処刑用の拳銃に自ら弾丸を込めるような、絞首用の踏み台を自ら蹴り飛ばすような、そんな。
 雨賀はそんなソラを見ていたが、不意に煙草を一本取りだして指に挟んでいる。
「六年ほど前のことだ」
 と、この男はいきなりそんなことを言った。
「……?」
 ソラは不思議そうに、雨賀のほうを見る。雨賀は特にどういう表情もないまま、まるで独り言のように続けた。
「俺は街を歩いていた。よく晴れた日だった。場所はごく普通の、どこにでもある繁華街だ。夏のはじめだったが風があって涼しくて、気持ちのいい一日だった。その時の俺には連れがいた。特に用事はなかったんだが、そいつが出かけるように言いだしたんだ。結婚はしていなかったが、俺とそいつはいっしょに暮らしていた」
 言いながら、雨賀は指に挟んだ煙草の先を見つめている。航海士が、夜の空に北極星を探すみたいに。
「それで、ある交差点にさしかかったときのことだ。俺はその前で立ちどまって、煙草に火をつけようとしていた。何故だか、ライターが見つからなくてな。そのあいだに、そいつは横断歩道のところまで行っていた。何人かが、同じように信号待ちをしていた。信号が変わって、みなが歩きはじめた。そいつは俺のほうを見てから、仕方なさそうに歩きはじめた。俺はまだライターを探してた。車が突っこんできたのは、その時だ――」
 とんとん、と雨賀は煙草で肘掛けを無意味に叩いている。
「――車は横断歩道を突っ切って、電柱にぶつかってとまった。フロントが柱の形になって見事にひしゃげていた。運転手は即死だった。あとから聞いた話だと、そいつの血液から薬物反応が出たらしいが、まあそんなことはどうでもいい」
「…………」
「問題なのは、車が憐れな電柱に体当たりするまでに、もっと憐れな人間を三人ほどはねていた、ということだ。その三人には、俺といっしょにいたそいつも含まれていた。その三人のうち二人は軽症で助かったが、そこにそいつは含まれていなかった。そいつと運転手だけが死んだ。俺は煙草の火を探していたおかげで、かすり傷一つ負わなかった。そいつは俺が煙草の火を探していたおかげで、引かなくてもいい貧乏くじを引いた――」
 そう言って、雨賀は煙草をいじる手をぴたりと止めた。
「俺はそれから、煙草を吸わなくなった。少なくとも、火をつける気にはならなかった。俺が煙草を取りだすのは、大抵は魔法を使うときだけだ。たいした意味はない。結局のところ、俺の魔法なんぞ何の役にも立たなかったんだからな」
 不意に雨賀は、ソラのほうを見て言った。
「運命ってやつは、奇妙なものだと思わないか? ほんの些細なことが、意外な結果を生んだりする。ただ天気がよかったというだけのことが、一人の人間を世界から消してしまうこともある――もしも、あの日雨が降っていたら。もしも、あの場所に行かなかったら。もしも、あの時煙草なんか吸おうとしなかったら」
 雨賀はそう言って、皮肉っぽく笑った。
「そんなもしも≠前もってコントロールすることができたら? サイコロの目を、自分の好きなようにしてしまうように。そうすれば、すべての人間に運命の保障が与えられるかもしれない。そういう意味では、〈運命遊戯〉は実に便利な魔法だよ」
 それだけのことを言い終えると、雨賀は口を閉ざした。夜の闇が、不意に世界を満たそうとするように。
「どうして……」
 ソラはそんな夜の底で、ふと口を開いた。
「どうして、そんなことを私に話すんだ?」
「――さあ、どうしてだろうな」
 雨賀はたいして興味もなさそうに肩を揺らした。
「ただ、予言てわけじゃないが、俺には予感みたいなものがある」
「……?」
 雨賀は、どこか悪魔じみた様子で言った。
「お前もいつかは結局、完全世界を望むことになるだろう」

「……わかりました、予定通りですね」
 と、ナツは落ちついた声で言った。
「ええ、大丈夫です。わかってます……いろいろすいません、ありがとうございました」
 そう言って、ナツは携帯電話の通話を切った。といってもそれは、電卓にアンテナ記号≠描きこんだものである。もう用のないそれを、ナツはいつものようにウエストバッグにしまう。
 電話の相手はもちろん、千ヶ崎朝美だった。今のやりとりは、最終確認のためのものである。来理の家で朝美と話したあと、ナツはソラがどうなるかを詳しく聞いた。そしてソラが電車で移動することを知ると、次の駅で同じ電車に乗りこむことにしたのである。
「さてと――」
 ナツはつぶやいて、ホームのほうをうかがう。今いるのは、連絡階段の陰のところだった。やって来た電車から見つからないようにするためである。終電を待つだけのホームに人影はなく、ただ夏の夜だけが静かに眠っていた。
 二人の乗る電車に乗りこんでどうするかということは、ナツは考えていない。力ずくでどうにかできるとは思えなかったが、うまい方法も思いつかなかった。けれど、だからといって諦めるつもりもない。そのことだけは、はっきりしている。
 何故なら――
 この世界はまだ、ソラを失ってはいないのだから。
 遠くの暗闇に、電車の光が現れていた。電車はまるで、その光を運ぶこと自体が目的であるかのように、まっすぐこちらに向かっている。やがてホームをにわかに目覚めさせるようにして、それは到着した。甲高い金属音を立てて、巨大な鉄の塊は停止する。
 ドアが開くと、ナツはすばやく先頭車両に乗った。二人がいるのが、最後尾の車両だということは聞いていた。電車からは一人降りたほかは、それ以上降りる人間も乗る人間もいない。
 再び音を立ててドアが閉まると、電車は時間そのものでも動かすみたいに、ゆっくりと進みはじめた。
「よし――」
 つぶやいて、ナツは後方の車両に向かう。車内は無人で、ただ吊り革だけが所在なげに揺れていた。二つめの車両にも人影はなく、同じ光景が広がっていた。ナツは最後に、最後尾の車両へ移動する。
 連結部のドアに手をかけて、ナツはそれを開けた。
 その瞬間――
 ナツは何だか、嫌な予感がした。それはいつかどこかで感じたことがあるのと、同じもののような気がした。奈落すら存在しない穴の中に、飛び降りてしまったかのような。
 けれどナツは、もうドアの向こう側に足をいれてしまっている。
 そこには――

 今、あとにした車両と、まったく同じ光景が広がっていた。

 もちろん、車内に人影はない。無人の座席が、ナツを無言のまま嘲笑っていた。それは永遠に流れ続ける水路を前にして、静かに感覚が崩壊していくような光景だった。
 窓の外には暗闇が映っていたが、それは夜の闇とは異質のものだった。それはただ、どこにもつながっていないことを示すだけのものだった。蛍光灯の明かりが窓ガラスに反射して、車内の様子を幽霊のように写していた。
 ナツは車両の反対側まで走っていって、連結部のドアを開けた。
 ……するとそこには、まったく同じ光景が広がっている。
 無人の通路を駆けぬけ、またドアを開いた。
 ……同じである。やはりまったく同じ光景が広がっている。
 〈虚数廻廊〉
 それは、あの時と同じだった。ナツとソラが細い路地裏を逃走していたときと同じ――
 空間がループし、閉じている。無限大が裏返ってしまったようなゼロ。それはどこにも行きつかない、ひどく虚ろで、ひどく歪んだ、そんな永遠だった。
 ナツはその中を、走り続ける。もう何度目になるのかわからないドアを開けて、何度目になるのかわからない通路を駆けていく。
 けれど――
 ゼロに何を掛けてもゼロなように、それは無意味な行為だった。底のないコップで、水を汲むことはできない。球体の上をいくら歩いても、その果てにたどり着くことはできない。
 ――それは何も変わることのない、永遠(ゼロ)だった。
 そんな場所からは、人は何も始めることはできないし、何も終わらせることもできない。
 ナツはいつしか、足をとめようとしていた。
 それが何を意味するのかを知りながら。それが、この救いのない永遠にからめとられてしまうことだと、知りながら。
 けれど、人は一人では永遠に耐えられない。魂は、その空虚に耐えるようにはできていない。
 ――ナツはとうとう、足をとめた。
 そしてナツの魂は、凍りつこうとしていた。温度の存在しない膨大な暗闇の中では、すべての光と熱が失われてしまうように。
 それは死よりもなお、悲劇的なことだった。
 ナツは死人のような動きで、ウエストバッグからカッターを取りだした。そのカッターの刃をきりきりと迫りだすと、ナツは――

「――終わったようだな」
 と、雨賀はふとつぶやいた。
「?」
 ソラがそれに気づいて、窓の外から視線を外し、ちょっと不思議そうに雨賀のことを見る。
 すでに、いくつかの駅を通りすぎていた。そのあいだ、電車に乗る者はいないし、当然降りる者もいない。目的の駅に着くまでは、まだだいぶ時間があった。夏の夜は相変わらず、どこか薄ぼんやりとした様子で世界を覆っている。
「あの小僧だよ、久良野奈津。やはりここまでやって来た」
 と雨賀は煙草を口から離し、無感情に告げた。
「嘘だ」
 ソラはぎゅっ、と膝の上で拳を握る。
「本当さ」
 雨賀はソラのほうを見ようともせずに言った。
「〈暗号関数〉だよ。久良野奈津がドアを開ける¥件で、魔法が発動する≠謔、にしてあった。あいつはそれにひっかかった。やつがここまでたどり着くことはない。どこまで行っても平行線が交わらないようにな。そして、人は永遠に耐えられるようにはできていない。残念だが、あの小僧の精神は今頃壊れかけているところだろう」
「ナツは――」
 とソラは何かを言おうといして、けれどどんな言葉も浮かんではこなかった。
「――そんなはずはない」
「ある意味では、予言のとおりだ」
 雨賀はかすかにため息をつくようにして言った。
「五人目がすべてを決定する∞心臓に十字の杭が打ち立てられ≠トな。可哀そうなことをしたが、これもある意味ではやつの望んだことだ」
「ナツがそんなことを望むはずがない……!」
 そう言ったソラの声は、強く叩きすぎて壊れそうなピアノの音に似ていた。
「いいや、それは違うな」
 雨賀は残酷ですらない無慈悲さで告げる。
「やつは完全世界を求めた。だからここまで来たんだ。それはまだやつにとって失われたわけじゃなかった、やつはそれを諦めるわけにはいかなかった」
「…………」
 ソラは真空中に言葉が失われるようにしながら、首を振っていた。
(違う、そんなものじゃない――)
 と、ソラは思っていた。
 久良野奈津は、完全世界なんかのためにここまでやって来たわけじゃない。あの少年はむしろ、この不完全世界のためにこそそうしたのだ。
 この壊れやすい世界を――
 この夢みたいに儚い世界を――
 それを、守るためにこそ。
「ナツは――」
 ソラが言おうとした、その時――

 それは、ほんの小さな約束だった。
 二人の少年が生まれる前に交わした、小さな約束――
 この世界で言葉が生まれる前に交わされた、小さな約束――
 それはただの思いつきのようなささやかなものではあったけれど、確かに約束と呼んでいいはずのものだった。
ねえ、交換しない?
 互いの存在が世界で一番近い距離にある場所で、一人が言った。
交換?
 それと同じもう一人が、訊きかえす。
そう、ボクたちは同じ存在だけど、魂まで同じってわけじゃない
うん
この世界がどんな場所かはわからない。そこは冷たいかもしれないし、熱すぎるかもしれない。でもボクたちは、お互いを助けあえると思うんだ
そうだね
だから、ボクたちの魂を半分ずつ交換しあおう。そうすれば、きっと何があっても大丈夫。いつだって相手の中に、自分の半分が残っているんだから
 ――それは、魂の生存戦略とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。遺伝子が二重構造をもって自己保全を図っているように、魂を二重構造化して自分たちを守ろうとしたのである。
 けれど、それは始まりもしないうちに終わってしまっていた。
 二人のうちの一人は、生まれる前に死んでしまった。そして魂の半分を失った一人だけが、この不完全な世界に残されていた。
 この世界では、どんな大切なものでも失われるし――
 どんなに小さな約束でも、破られてしまう――
 だからナツは、どこかで思っていたのだ。
 人は運命の前では、何もできないのだと。いくら抗おうと、いくら知恵をつけようと、いくら魔法を使おうと、その巨大な歯車をどうにかすることなどできないのだ、と。
 けれど――
 けれど透村穹は、あの少女は――

「みんなが望んだから、私は生かされている。私が生きていれば、みんなの望みを叶えることができる。だから、大丈夫だ。私は一人で生きているわけじゃない」

 ソラが言おうとした、その時――
 ガシャン
 という音がして、二人のいる車両との連結部が開かれている。
 そこには、ナツが立っていた。
「……馬鹿な」
 雨賀は思わず手に持った煙草を落としながら、席から立ちあがっている。
 けれど――
 世界を大きな魔法の揺らぎが覆っていることに、雨賀は気づいていた。世界のすべてを変えてしまいそうな、そんな揺らぎが。そう、これは――
 雨賀の隣で、ソラも立ちあがって後ろを振りむいている。
「ナツ……?」
 けれどソラは、どこか戸惑うようにして言った。ソラには何故か、それが自分のよく知っている少年には見えなかったのだ。
 ナツはどこかぼんやりした様子で顔をあげ、二人のほうを見た。
 その左手の指先からは、赤い雫が滴り落ちていた。二人から確認することはできなかったが、ナツの服の下、その胸の中央付近には、赤い十字の記号が描かれていた。心臓に十字の杭が打ち立てられ≠トいたのである。
「――何故だ」
 雨賀は混乱しながらも、ナツと向かいあうようにして通路に立った。
「どうしてお前は、あの〈虚数廻廊〉を抜けだした。それもまったくの無事で――!」
 ナツはあたりを確認するような、はじめて世界を認識するような、そんな顔をしていたが、
「正確には、オレはナツじゃない」
 と、いきなりそんなことを言った。
「……何だと? どういう意味だ、それは?」
「言ったとおりだよ」
 ナツは――もう一人のナツは、落ちついた様子で答えた。
「旧い約束なんだ。ボクたちはお互いを助けあえる=Bオレたち二人がまだ生まれる前に交わした約束、魂の半分を交換しあって結んだ約束――」
 雨賀は訳がわからないといった具合に顔をしかめている。その横で、ソラはナツの言葉の意味をほぼ正確に理解していた。
「ナツの魔法、その〈幽霊模型(ゴースト・クラフト)〉がぎりぎりで完全な魔法≠ノなったおかげで、オレは形になることができた。ナツが魂≠フ記号を描いたおかげで。そしてあの場所――一人では魂が凍りついてしまうあの場所だからこそ、こんなことが起こったんだ。オレたちは一人じゃないから」
 雨賀はやはり、訳がわからないといったふうに首を振った。けれど、
「お前が、久良野奈津の別人格だか、もう一つの魂だかというのは、まあいい。魔法のことだ、そんなこともあるかもしれん。あの小僧の、〈幽霊模型〉が魂さえ現実化するとしても、な」
「…………」
「だが問題は――問題は、お前がどうやってあの空間を抜けだしてきたのか、ということだ。あそこからは、誰も出てはこられないはずだ。あの、どこにもつながっていない場所からは」
 その質問に、ナツはしばらく黙っていたが、
「空間をループさせる魔法、それはある意味では、オレの魔法とよく似ていた。あの時、魂を交換するときに使った魔法と。魂を移動させるために使った、オレの魔法と」
「……?」
「〈純粋回帰(エンカウント・メソッド)〉――それがオレの魔法だ。任意の空間を折りたたむ*v@」
 同一平面上に存在する二点を結ぶ最短距離は、直線である。けれどそれが三次元でのことなら、話は違う。その平面を紙のように折りたたんでしまえば、線を引く必要もなく二点間の距離は消滅してしまう。
 それは雨賀秀平の〈虚数廻廊〉とは真逆の魔法だった。空間を展開(デコード)するのに対して、空間をいわば圧縮(エンコード)する――
 雨賀はいまやはっきりと、そのことを認識していた。雨賀がループさせた空間は、ナツの魔法によって完全に元に戻されていたのである。
「……どうやら、お前が予言された五人目≠ナ間違いないようだな」
 と、雨賀は言った。
「だが、それがどうした? まだ何も終わってはいない。それに、言ったはずだ。お前には理由がない、と。お前にはこの娘を助ける必然性も、必要性も存在していない」
「理由、か――」
 ナツは小さくつぶやいた。
「確かに、そんなものはオレにはないのかもしれない。オレとソラは何の関係もない人間だし、出会ったのもただの偶然だ。だけど、あんたにはそれがあるっていうのか? それだけの理由が」
「あるさ、完全世界≠取り戻すためだ」
 迷いもせずに、雨賀は言った。
「そんなこと、理由になんてならない」
 とても静かな声で、ナツはそう言った。
「完全世界なんてなくったって、人は生きていけるんだ。そんなものがなくても、オレたちは先に進める。永遠の繰り返しの中で、どこにも行けないと思ったのはあんたのほうだ。でも本当はそうじゃない。あんたは外への一歩を踏みだせなかった、それだけなんだ」
「…………」
「それに、オレには理由がある」
 ナツはそう言って、ソラのほうを見た。
「お前はどうして欲しいんだ、ソラ? お前はオレに、どうして欲しい?」
「――――」
 ソラは一瞬黙って、けれど叫んでいた。

「私を助けろ、ナツ……!」

 その言葉と同時に、雨賀とナツの魔法が発動していた。
 一日の長、というやつかもしれない。それは雨賀のほうが、わずかに早かった。雨賀とナツのあいだにある空間が、みるみるうちに拡大していく。
(惜しかったな、小僧……!)
 雨賀は内心で、そんなことをつぶやいていた。
 けれど――
 完全な魔法=A千ヶ崎朝美の言う世界を変えるだけの可能性≠持った力。
 その前では、もはや不完全な魔法≠ニなった雨賀のそれでは、所詮は無理だったのである。それでは、ナツの魔法に対抗することはできない。
 拡大した空間は、ドミノを倒すようにみるみる縮小していって――
 そしてそれが音を立てて弾けたとき――
「……!」
 雨賀のすぐ後ろ、ソラの隣に、ナツの姿が出現していた。
「ま――」
 待て、と雨賀は手をのばそうとした。永遠の中に、閉じこめようとするように。けれど、
「それはごめんです」
 とナツは言って、その言葉だけを残して雨賀の目の前から消えている。
 そして次の瞬間には、さっきまでナツのいたところに、二人の姿は移動していた。世界を確かに、作り変えて。
 雨賀の手は、すでに何もつかんではいない。
「久良野奈津……!」
 今回の出来事で一番最初から出会っていた少年の名前を、雨賀秀平は口にした。
「オレたちは運命に負けたりなんてしない」
 ナツは最後に、そう言った。
「運命は過去にしかない。それは未来には存在しないんだ。そこにあるのは、まだ決定していない可能性だけ。無限の数字を持った、一つのサイコロがあるだけ」
「…………」
「そしてそのサイコロを振るのは、オレたち自身だ。もしも失敗したら、もう一度振ればいい。そのサイコロは――オレたちのものなんだから」
 電車は駅に到着して、ゆっくりと停車していた。そして音楽的とはいえない音を立てて、ドアが開く。
 まるで、運命そのものを開くように――
 その向こうには、夏の夜が無限の広がりを持ってつながっていた。

 再び走りはじめた電車の中で、雨賀はぼんやりと座っている。
 車内には、誰もいない。無人の座席だけが、祈りでも捧げるように行儀よく並んでいた。雨賀はぼんやりと、火のついていない煙草をくわえていていた。
「…………」
 そうしてちょっと天井を見あげて、ついさっきの光景を反芻する。
 だがどちらにせよ、自分たちの負けだった。もう誰にも、あの少年たちを捕まえることはできないだろう。
 雨賀はそれから携帯を取りだして、電話をかけはじめた。ほかに乗客がいればマナー違反を注意されるかもしれないが、存在しない人間に文句を言われる心配はない。
「烏堂か? ……ああ、取り引きは中止だ……いや、約束は守られている……そうじゃない、要するに――俺たちの負けだ」
 そう告げると雨賀は、烏堂が何か言いかえす前に通話を切った。
 これで烏堂だけが人質として残されることになったが、手荒なことはされないだろう。そもそも烏堂の所持する情報は限られたものだし、相手である千ヶ崎朝美のほうにも、情報を故意にもらしたという弱味がある。
「――完全世界なんていらない、か」
 雨賀はその言葉の重みを確かめるように、そっとつぶやいてみた。それからふと思いついたように、くわえた煙草に火をつけている。
 六年ぶりの煙草の味は、ひどく不味かった。
 煙草の煙を吐きだすと、それは車内のぼんやりした光の中へ消えていった。惜別の気配も、別れの言葉さえなく。
 ――運命に負けたりなんてしない。
 あの少年は、はっきりとそう言った。
 確かに、それはそうだろう。負けたのは、雨賀たちのほうだった。
「くっ、くっ……」
 そう思うと、雨賀は急におかしくなった。何のことはない、それは雨賀自身が倒されるべき運命≠セった、ということだ。
「く、ははは――」
 雨賀は煙草を口から離し、おかしそうに笑った。
 夏の夜はあくまで静かに、柔らかに世界を包んでいる。その闇はどこかに、すでにもう朝の気配を含んでいた。

 名前も知らない駅のベンチに、二人は座っていた。
 終電もなくなった駅の構内はすっかり眠りについていて、改札も受付け窓口も閉められている。ホームや駅舎の白い蛍光灯だけが、海底でも照らすようにして今も変わらずに点灯されていた。駅のまわりに広がる暗闇には、街灯や人家の明かりが所々に光っている。夜空に輝く星々のように、その光は何かを伝えようとしているようにも見えた。
 時々、風が吹いてきて、どこかへ通りすぎていった。夏はすっかり、昼の暑さを忘れてしまったようでもある。
 夜明けまでは、まだだいぶ時間があった。
「…………」
 ナツとソラは、駅前のベンチに並んで座っていた。切符の代金は、遊園地代の残りを使って払っている。駅員はさすがに不審そうな顔をしたが、とりあえずは咎められるようなこともなく改札は抜けていた。
 それから駅の公衆電話を使って、ナツは家に連絡をとった。今頃は桐子と、帰ってきたばかりの樹が、車でこちらに向かっているはずだった。
 二人は世界から忘れられたようなその場所で、それを待っている。
「……いくつか、言っておかなくてはならないことがあるんだ」
 ソラは不意に、夜の星がつぶやきでもするように言った。
「ああ――」
「まず、私は魔法使いじゃない」
 ちょっと黙ってから、ナツは言った。
「……何となく、それはわかってた」
「わかってた?」
「それがわかることはいくつかあるんだが、まずはじめにコンパスのことがある」
「コンパスって、これのことか?」
 そう言いながら、ソラはポケットから例の天使≠フ絵が描かれたコンパスを取りだした。
「持ってたのか」
 それを見て、ナツは観測魔法≠ナソラの存在に気づいたことに納得した。要するにそれは、自分の魔法による影響だったのである。自分でつけた目印を探すようなものなのだから、無意識に見つけだせたのだろう。
「――私がもらったものを、私が持っていて悪いことがあるのか?」
 ソラはちょっと不服そうに言い返している。
「それはまあ、いい。とにかく、その絵のことだ」
 ナツはとりあえず、話を元に戻した。
「絵がどうかしたのか?」
「あの時、お前がどうしたか覚えてるか?」
「うむ?」
 ソラが首を傾げると、ナツは言った。
「お前はあの時、何も気づかなかったんだ。これがすぐに魔法のかかったものだと気づいてもよかったのに、お前はまるでそのことに気づいてなかった」
「あれは、それどころじゃなくて……」
 ソラは何故か、しどろもどろになった。
「――まあ、そうかもしれない。だが、疑いを抱くには十分だった。それにおかしなことは、ほかにもいくつかあった」
 ナツはイスにもたれながら、少し疲れた様子で言う。何しろ魂≠現実化したのだから、相当なものといってよかった。
「遊園地、あの時だってそうだ。お前なら潜行魔法≠ノ気づいてもよさそうなものだったのに、まったくそんな様子はなかった。あいつらの言うとおり、訓練された魔法使い同士ならほとんど意味がないはずなのに」
「…………」
「それから、あのループ空間に閉じこめられたときもそうだ。あの時だって、お前がそれに気づいた様子はなかった。あれだけの魔法だったっていうのに――ほかにも細々したことはあるんだが、まあそれはいい。問題はそんなことじゃなくて」
 ナツはそこでちょっと、うかがうようにソラのほうを見た。
「――どうして、そんな嘘をついたのか、ということだな。正確には嘘とは呼べないんだが。何しろお前自身は、一度も自分のことを魔法使いだとは言わなかったんだから」
「ナツは……」
 と、ソラは少し不安そうにナツのことを見る。
「そのことも、もうわかっているのか?」
「――〈運命遊戯〉だろうな」
 ナツが言うと、ソラはこくりとうなずいている。
「そうだ、〈運命遊戯〉は未来を予言する魔法なんかじゃなくて、未来を最適化する方法を教える*v@だ。対象者が、術者の望むような結末を迎えるために」
 そう――
 この魔法は厳密には予言の魔法などではない。それは未来を知るための魔法ではなく、未来を決めるための魔法だった。運命の手引書。それが、〈運命遊戯〉の魔法なのである。
「だから私は、できるだけ予言の通りに行動する必要があった。この魔法は運命を変える選択肢は教えてくれても、運命そのものは変えてくれない。予言の状況を変更するようなことは、極力避けなければならなかった」
「それには、魔法使いのふりをしておくほうがよかった……」
 言われて、ソラはやはりうなずく。
「私が魔法使いでないと知れば、お前は興味を失うかもしれなかった。そうすれば、〈運命遊戯〉の魔法はそこで終わってしまう可能性があった」
 けれどソラは、その魔法が終わってしまう可能性を、最後に自分で呼びよせようとしたのである。
 運命を、壊すために――
「だが、結局はすべてうまくいった?」
「うむ」
 少しため息をついてから、ナツはふと思いついたように言った。
「そもそも、これは誰の魔法なんだ?」
「透村操、私の祖父のものだ。祖父が死ぬ直前、私に魔法をかけてくれた」
「……一つ訊くけど、この魔法は死んでからも効果があるのか?」
「どうだろう、わからないな」
 ソラは小さく首を振った。
「何しろ、私は魔法使いじゃないんだから」
 ナツは疲れたように、一度大きく息をついた。
「運命、ね。確かにそれは便利な魔法だろうな。サイコロの目を、自分の都合のいいように操作できるんだから」
 けれど――
 その魔法がありながら、透村操はその息子夫婦を失ったのである。その魔法は未来を前もって知らせてくれるような、そんなものではなかった。
「祖父はいつも悲しそうな顔をしていた。それに、どうしてだか私が悲しくなってしまうくらい、優しかった。祖父はいつも言うんだ。『ソラや、お前は強くならなければならないよ。そうしないと、お前の両親はずっと心配したままでいなくちゃならないからな』そう、まるで泣くかわりに笑うみたいにして、言うんだ」
 そっと、夜の風が吹いていった。その風の音はまるで、何かに対して別れを告げているようにも聞こえる。
「ナツの運命を勝手にして悪かったな」
 と、ソラはその風に答えるみたいにして言った。
「私の都合だけで、な。本当はそんなことすべきじゃなかったんだ」
「これは、俺の望んだことだよ」
 ナツは同じようにして言った。
「ソラの都合とは関係のないところでな」
「俺=c…?」
 きょとんとしたように、ソラはナツのほうを見た。今確かに、ナツは自分のことを「僕」ではなく「俺」と呼んでいる。
「お前、本当にナツなのか? さっきの、もう一人のナツじゃないだろうな?」
 ナツはけれど、そこだけは相変わらずのどうでもよさそうな顔で、
「どっちだっていいだろ」
 と、肩をすくめるように言った。
「どっちだって、俺はナツなんだ。魂が半分しかなくたって、な。もう半分の魂だって、それはもう一人の俺のものではあったけど、今では俺の中にしっかりくっついてる。兎と鳥の絵を、一つのものとして同時に描けるみたいに。少なくとも、そんなふうに考えることはできるんだ――」
 ソラはしばらく黙っていたが、
「そうだな」
 と、つぶやくように言った。
「そうかもしれないな――」
 二人は誰もいない駅前の、物言わぬ街灯だけが照らすベンチに座っている。
 その手を軽く、結びあわせて。
 暗い夜の下で、それでも互いの存在を見失わないように――

 やがて駅前に一台の車がやって来て、それには桐子と樹が乗っていた。
 車から降りた桐子はベンチのところまで駆けてくると、何も言わずにソラのことを抱きしめている。とても強く、有無を言わさぬ調子で。
「……苦しい」
 とソラが言って、桐子はようやく手を離した。それでもまだ足りなそうに、桐子は真剣な顔でソラのことを見つめている。
 実の息子より、ソラのほうが優先らしい。ナツは別にそこまでして欲しいとは思わなかったが、それでも何だかよくわからない複雑なものはある。
 そんなナツの頭に樹が手を乗せて、軽く叩くようにしてなでている。どちらかといえばそれは、髪をくしゃくしゃにするだけだったが。
「二人とも、怪我はないね――?」
 樹はその場の状況としては、どちらかというとおっとりした口調で訊いた。
「指を切ったくらいだよ」
 そう言って、ナツは左手の人さし指を見せる。血はもう完全にとまっていて、おまけにそれは自分で切ったものだった。
「……これくらいなら、唾をつけとけば治るな」
 樹はこともなげな顔をしている。実の子供に対しては厳しい両親だった。
「ソラちゃんは大丈夫?」
 と桐子はまだソラのことをのぞきこみながら言った。
「大丈夫だ」
 ソラはこくんと、うなずいている。ソラ自身は傷一つ負っていない。
「――さて」
 と、一度手を叩いて、樹は言った。これからちょっと話をまとめようか、という具合に。
「大体の事情はお母さんから聞いたよ。魔法だとか完全世界だとか、ちょっと信じられないけど、事実なら仕方がない。あるものはあるんだから、否定してもはじまらないからね」
 その態度は、本質的には息子のそれと同じもののようだった。
「でも、二人とも無事でよかった。話を聞いたときは驚いたけど、まあナツのことだから大丈夫だとは思ったんだ。何しろ、ナツは僕よりしっかりしてるからね」
 樹はそう言って、のんびりと笑っている。確かに少々、変わった父親だった。
「それから、ソラちゃんのことも聞いたよ。ご家族を亡くしたとか。それは本当に、辛くて悲しいことだ。僕らにも、それは少しはわかるよ――そこで、一つ提案があるんだ」
「提案?」
 と、ソラが訊きかえす。
「そう――」
 樹はひどく透明に笑ってみせた。
「僕らはこうして不思議な力で関わりあいを持ったわけだし、それは何かの運命みたいなものだと思うんだ。その運命はたぶん、温かくて居心地のいい場所を用意してくれてる。きっと、神様か何かが気を利かしてくれたんだろうな」
 それから、桐子が次の言葉を引きとった。
「ねえ、ソラちゃん。あなた私たちといっしょに暮らさないかな?」
「え……」
「私たちの家に来ない、ソラちゃん? 細かいことはまだどうなるかよくわからないけど、でもそれって素敵なことだと思わないかな」
「でも、私は……」
 ソラはどう返事をしていいのかわからずに、うつむいてしまっている。「だって、私はそんな……」
「これは、僕らが望んだことなんだよ」
 樹はまたもや、自分の子供と同じようなことを言った。
「僕らが君といっしょにいたいと思ってるんだ。血のつながりがなくても、君がどう思ったとしても。いや、それも少し違うな。僕らはお願いしてるんだ。君といっしょにいさせて欲しいって――」
 ソラはうつむいたまま、唇をかみしめるようにしている。
 けれど樹の言葉を聞いた瞬間、ソラの胸の中にずっとあり続けた何かが、すっと消えてしまっていた。そしてソラの目からは、涙がぽろぽろ零れ落ちていく。
 それは、自分でもよくわからない涙だった。
 何かがとても悲しくて、悲しくて――
 何かがとても嬉しくて、嬉しくて――
 ソラはそれで、泣いていた。
 胸にずっと穿たれていた空白から何かがあふれ出すように、涙がとまらなかった。その空白は今は、何もない空間にただ白い雲と青さだけが広がるように、ソラの心を優しく満たしていた。
 ソラはたぶんその時――
 ようやく、自分の穹(あおぞら)を取り戻したのだ。
「僕らのお願いを聞いてくれるね、ソラ?」
「――うん」
 ソラは泣きながら、うなずいている。

見えない血が世界を交わらせる

 奇妙な運命のサイコロが最後に出した、それが答えだった。
 
[エピローグ]

 夏休みはまだはじまったばかりで、太陽の陽射しは相変わらずきつく、蝉は修行僧のように同じ声で鳴き続けていた。
 ナツとソラ、樹と桐子は、ソラの家に向かっていた。家の処置や引っ越し作業、その他諸々の下見のためである。家族が一人増えるというのは、何かと大変なことだった。
 車が高速道路を降りてしばらくすると、あたりには人家よりも田んぼや畑が多く広がっている。山並みの緑が鮮やかで、そこかしこに草木が茂っていた。遠くには白い雪を頂いた高峰が、月に似た姿で霞んでいた。
 ナツは車の窓から、そんな光景を眺めている。ソラが知っているのはこんな世界で、この世界がソラにとってのすべてだった。街のことをあんなに珍しがっていたのも、無理のないところではある。
 やがて、車はソラの家に到着した。それは山のそばに作られた、古風で瀟洒な建物だった。洋風の平屋建てで、木材と石壁が格子状に組み合わされている。墨色の柱と白い壁面が、品のいいコントラストになっていた。ちょっとした別荘といったところでもある。
 家の扉を開くと、中は薄暗く、霊廟を思わせる静かさだった。室内には、数日分の暗闇が埃みたいに堆積している。電気をつけて窓を開けると、部屋の中はようやく一呼吸ついた、という感じだった。
 ソラの案内で一通り家を見てまわると、
「僕らはちょっと細かいところを調べるから、二人は好きにしてていいよ」
 と、樹は言った。
 なら、その辺を散歩でもしようかということで、ナツとソラは家の外に出かけた。
 少し歩いていくと、道はゆるい上り坂になっている。片側には田んぼやため池が広がり、もう一方は雑木林になっていた。木々の影はトンネルみたいに続き、その向こうからは洪水みたいに蝉の声があふれている。
 あの電車でのことが終わったあと、ソラの周囲でおかしなことは起こっていない。例の二人組が出現することも、執行者が来訪することもなかった。おそらく、何かの取り引きが行われたのだろう。ナツにはよくわからなかったが、それも「大人の事情」というやつかもしれなかった。
「……一つ、聞いてもいいか?」
 ナツは歩きながら、ふと訊ねた。
 少し前で懐かしそうにあたりを眺めていたソラは、振り返っている。
「何だ?」
「ちょっとした疑問だよ。たいしたことじゃないけど、それでも一応、疑問には違いない」
 そしてナツは、何気ない調子で言った。
「お前、本当に魔法使いじゃないのか?」
「…………」
 二人とも歩いたまま、立ちどまろうとはしない。ナツは前を向いたまま、ソラはその少し先で後ろ向きにナツのことを見ながら。
「どうして、そう思うんだ?」
 ソラは特に、肯定も否定もせずに訊いた。
「可能性の一つとして、そういうこともあるっていうだけの話なんだ。何しろ〈運命遊戯〉の魔法は解釈の仕方がいくらでもあるからな」
「ふむ」
「まず、あの二人に捕まって逃げだすときのことだ」
 とナツは解説した。
「あの時、俺の〈幽霊模型〉は普段より力が増してるみたいだった。というより、あの頃からそれは完全な魔法≠ノなりはじめてた気がする。壁に扉を現実化するなんて、いつもなら無理だったかもしれない。セロハンテープも、あそこまでの長さははじめてだった」
 ソラは黙ったまま、何も言わなかった。
「それに観測魔法≠ナお前のことを探そうとしたときもそうだ。俺のあのコンパスがその補助的な役割をはたしたとはいえ、本当にそれだけだったのか? あれはそこまで強力な魔法でもないし、時間もずいぶんたってた」
「それで――」
 と、ソラは立ちどまって言った。
「お前はどう思うんだ?」
 ナツも坂の途中で、足をとめた。
「つまりお前は、実は魔法使いなんじゃないのか、と思うんだ。魔法の効果を強くする=Aそんな魔法が使えるんじゃないかと。そう思えば、あの〈運命遊戯〉がずっと続いていたことの説明にもなるんだよ。そして、すべてがうまくいったことの説明にも」
 ソラはちょっと、目をつむっている。まるで何かに、耳を澄ますように。
「――さあな」
 とソラは再び歩きだしながら言った。
「少なくとも、私は魔法を使えないし、魔法の揺らぎを感じることもない。そのことだけは、確かだ」
「だろうな」
 ナツは釈然としない顔をしながら、ソラのあとに続いた。
「……ただの可能性の話だからな。けど、ただの可能性の話だけど、だからといってお前が魔法使いでないということにはならない」
「無意味な議論だ」
 ソラはそう言って、少し笑ってみせた。
「まあ、十円玉の裏表でイカサマをするくらいだから、そうでもないのかもしれないが」
 肩をすくめるようにしながら、ナツは言う。
「――何だ、気づいてたのか」
 ソラはちょっと意外そうな顔をした。二人が最初に賭けをした、あの時のことだ。
「そりゃあな」
 ナツはそう言って苦笑する。
「何しろ、わざわざ指先に十円玉が乗ってるんだからおかしな話だ。普通なら、手のひらにあるべきなのに。つまりお前は、指先か何かで裏表を判断してから、手首を返して逆にしたんだ。どっちにしろ自分が勝てるように」
「人には運命を決める力があるからな」
 と、ソラはうそぶいてみせた。
 坂道はまだ続いていて、二人は休みもせずに歩いていく。振り返るとずっと下のほうまで道が見とおせて、それなりの高さまで登ってきたのがわかった。
「そうだ、ついでに一つ秘密を教えてやろう」
 不意に振り向いて、ソラはそんなことを言った。
「秘密?」
「うん――オルゴール≠セ」
「……ん?」
「それが秘密だ」
 ナツは何だか、よくわからない顔をするしかない。けれどソラは、もうそれで大切な役目は終わったというふうに、また前を向いて歩いていく。
 坂の頂上に到着したらしく、道はまっすぐになっていた。二人が振り返ると、ずっと向こうまで遮るものもなく景色が広がっている。まるで何かを告げそこねたような風が、吹きすぎていった。夏の空は、そのまま紙に写してしまえそうな青さでどこまでも広がっている。
「さてと、予言だと俺たちはこれからどうなるんだ?」
 ナツはひどくどうでもよさそうに、そう訊ねた。
「さあな――」
 ソラはそう言って、ちょっといたずらっぽく笑っている。
「未来のことは、誰にもわからないからな」

――Thanks for your reading.

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