[不完全世界と魔法使いたちA 〜ナツと運命の魔法使い〜]

[三つめの予言]

 開かない扉、閉じない密室
 兎の穴はいつまでも続く
 角のないユニコーンとライオンの争い
 運命は影の中で眠る

 晴れた空からは、大粒の雨が音を立てて降りそそいでいた。陽光に照らされて、雨滴は銀の糸のように輝いている。雲の断片がそのまま落下してきたような、にわか雨だった。
「……ひどい降りかたですね」
 烏堂はフロントガラスのほうに身を乗りだして、空を見あげながら言った。ワイパーはボールを投げられた犬みたいに、喜び勇んで仕事に励んでいる。
「夏の通り雨だ。すぐにやむさ」
 その横で車の運転をしながら、雨賀は面白くもなさそうに言った。
 信号が赤になって、車が停止した。幹線道路を走る車は、どれもタイヤから派手に水飛沫をあげている。
 車の後部座席には、ナツとソラの二人が座っていた。
 遊園地で捕まって以来、ソラはほとんど身動きもせずにじっとしていた。膝の上でじっと握り拳を固めたその格好は、バランス悪く積みあげられた石みたいにも見える。ちょっと触れただけで、簡単に崩れてしまいそうだった。
 その隣でナツは、窓の外や車内の様子をさりげなく観察していた。この少年は表面的には大人しくしていたが、それほど素直に従うつもりはない。
 とはいえ、さしあたって有効な逃走手段は見つかりそうになかった。自分だけならともかく、ソラをいっしょに逃がさなくてはならない。そのソラは、いつもと違ってひどく従順な態度を示していた。今のところは、このまま状況の推移を待つしかない。
 窓の外に見える標識や街の景色からいって、どうやら車は市の中心部のほうに戻っているようだった。
 信号が変わって再び走りはじめた車の中で、雨賀は言った。
「しかし、意外だったな」
 それが自分に向けられた言葉だと気づくのに、ナツは少しだけ時間がかかっている。
「――何が?」
 礼儀正しいとはいえない口調で、ナツは訊きかえした。
「お姫様≠フことだよ」
 雨賀はバックミラー越しに後部座席のほうをうかがいながら、言った。ソラは同じ姿勢のまま、身動き一つしていない。
「小学生の女の子が、いったいどうやって知らない町で生活しているのかと思っていたが、まさか赤の他人の家で寝泊りしてたとはな。おまけに仲よく遊園地にお出かけとは」
「…………」
「〈運命遊戯〉のこともあるんだろうが、しかし奇特なやつもいたもんだ。しかもそいつと俺たちは顔見知りっていうんだから、これはもうできすぎている」
「僕たちをどうする気なんです?」
 と、ナツはできるだけ慎重に言葉を挟んだ。が、
「お前のほうはどうでもいい」
 雨賀はぴしゃりとはねつける。
「俺たちに用があるのは、透村穹だけだ。勘違いしてもらっちゃ困るが、お前はただのおまけだ。そもそも、お前はここにいるほうがおかしいんだよ。この件に関して、お前はまったくの無関係なんだからな。つまりお前の運命は、ここで正しく途切れるわけだ」
「…………」
「まあ心配しなくても手荒なことはしない。取って食うわけでも、身代金を要求しようってわけでもない。むしろ俺たちには、その子を保護する目的もあるんだからな」
「あんたたちは――」
「ん?」
「あんたたちは、いったい何なんだ?」
 ナツはかすかに苛立つようにして言った。確かに、ナツがここにいるのはただの偶然みたいなものにすぎない。このことに関して、ナツはどんな関係性も持たなかった。けれど今は――
「ソラをどうする気なんだ。何の目的があって、あんたたちはこんなことをする」
 自分でも気づかないうちに、ナツはわずかに語気を強めていた。
 そんな様子をバックミラーで一瞥してから、
「――俺たちが知りたいのは、その子の祖父、透村操(みさお)のことだ」
 と、雨賀は言った。
「祖父……?」
「ああ、だがその透村操は最近死んじまってな」
 言いながら、雨賀は軽く肩をすくめるような動作をしてみせた。
「透村操はあることを調べていた。そいつは九分九厘てとこまでは調べ終わってたんだが、肝心の最後の部分がわかっていない。だが俺たちは、どうしてもその最後の部分を知らなくちゃならなくてな」
「…………」
「老人は死んじまったが、その唯一の係累である孫娘は残っている。もしかしたら、そいつが何か知っているかもしれない――というわけで、俺が派遣されたわけだ。ところが、家を訪ねてみると誰もいない。もぬけの殻だ。どうも、俺みたいのが来るのを見越して逃げだしちまったらしい。それは同時に、そいつは何かを知っている、ということだ。そしてそれを、俺たちに教える気はないらしい、ということでもある」
 バックミラー越しに、雨賀はちらりとソラの様子をうかがった。今の話を聞いていたのか、いないのか、この少女は何の反応もしない。
「……まあ、そういうわけだ」
 と雨賀は車の運転に意識を戻しながら言った。
「これでわかっただろう。お前は無関係なんだ。用が済んだら、いつでも家に帰してやるよ。元の日常に戻る、お前にとってはそれだけのことさ」
 ナツはそれに対しては何も答えず、ただ視線を窓の外に向けていた。
 夏の夕立は世界を雨音で壊そうとでもするかのように、激しく降り続いている。

 にわか雨が終わると、何事もなかったように青空が姿を見せた。雨の気配は急速に薄れ、あたりはいつもと同じ景色に戻りつつある。出番を失ったワイパーは、しょんぼりとした様子で大人しく定位置へと引きさがった。
 車はナツの思ったとおり、市街地へと向かっていた。次第に交通量が増えはじめ、町の喧騒が濃くなっていく。
「事故みたいですね」
 と、幹線道路から外れる直前、烏堂は言った。
 スリップしたらしく、対向車線でトラックが一台横転している。荷台のロックが外れたのか、そこから積荷が飛びだしていた。布団か何かに使う、羽毛のようである。それは季節外れの雪そっくりの格好で、あたりを覆っていた。
 市街地の道路に入ると、車はしばらくして細い道へと入った。何度か角を曲がると、やがてうらぶれた路地にあるビルの前で停車する。
「降りろ」
 と、雨賀は二人に向かって言った。
 言われて、ナツはドアを開けて大人しく外に出る。反対から、ソラも同じように降車した。雨賀がナツの、烏堂がソラの腕をとると、四人は正面にあったビルの玄関に向かった。ビルの谷間で影になっていたが、あたりにはむっとするような雨のにおいが漂っていた。
 玄関の自動ドアのところまで来ると、
「――烏堂」
 と言って、雨賀が何故か立ちどまっている。烏堂はうなずいて、携帯を取りだした。何か操作するが、特に変化はない。それだけで、携帯もさっさと戻してしまっている。
 けれどそのそばで、ナツはかすかな魔法の揺らぎを感じていた。遠くでドアが閉じる音のような、注意してようやく気づく程度の気配である。
(魔法――でも、何でだ?)
 ナツは考えてみるが、わかるはずもなかった。烏堂有也にどんな魔法が使えるのか、ナツには見当もつかないのだから。
 四人は雨賀を先頭にして、ビルの中へと入った。階段の脇にあるエレベーターに乗って、五階のフロアに向かう。そのあいだ、ほかの人間に出くわすようなことはなかった。
 品のいい音を立ててエレベーターの扉が開くと、四人は廊下に移った。そして一番奥にあった部屋に向かうと、鍵を使ってそのドアを開ける。
 室内には何の設備も装飾もなく、ただがらんとした景色が広がるだけだった。ソファらしきものと毛布が置いてあるほかには、剥きだしの空白が露出している。その光景は現実感を欠いていて、窓から射す光もどことなく作り物めいて見えた。
「とりあえず、お前たちにはここでしばらく待っていてもらおう」
 と雨賀は言って、二人を部屋の奥にある扉のところへ連れていった。開くと、中は小さな倉庫のような造りになっている。
「それほど時間はかからないと思うから心配はするな。二、三時間もすれば迎えの連中がやって来るだろう。そうすれば、すべてが終わる」
 その隣では、烏堂がビルの入口でやったのと同じことをしていた。似たようなかすかな揺らぎを、ナツは感じる。
「――一つ聞いてもいいですか?」
 扉が閉められる前に、ナツは雨賀に向かって質問した。
「何だ?」
「どうやって僕たちを見つけたのか、教えて欲しいんですけど」
 雨賀はふっと、少しだけ愉快そうに笑った。
「教えると思うか?」
 ナツは無言のまま、肩をすくめてみせる。
 そのまま扉は閉められて、鍵をかける音がこれみよがしに響いた。二人の足音が遠ざかると、地下深くの牢獄にでも閉じこめられたような、そんな沈黙があたりを覆っている。

 倉庫の中は外の部屋と同じく空っぽで、面積的にはそれなりの広さがあった。ただし窓も何もないせいでひどく圧迫感があり、見ためよりも窮屈である。気の利かなそうな光が、壁や天井で乱雑に反射していた。空調が機能しているらしく、幸いなことに暑さはそれほどでもない。
(――開かない、か)
 ナツはドアノブをがちゃがちゃ回してみるが、当然開くことはなかった。それにこのドアを開けたところで、向こうにいる二人に見つかるのだから意味はない。けれどそのドア以外に、この部屋から出入りできる場所はなかった。要するに、密室というやつである。
 そうやってナツが部屋の状態を調べていると、
「すまない――」
 と、ソラはつぶやくように言った。
 その言葉を聞きながら、ナツは部屋を調べるふりを続ける。ソラはドアの横にある壁にもたれながら、少しうつむいたままで言った。
「ナツを巻きこむようなつもりはなかったんだ。自分が追われていることも、私といるとお前が厄介な目に遭うこともわかっていた。それでもナツに迷惑をかけるつもりはなかったんだ」
 この少女はひどく無機質に、何の感情もこめずにそんな言葉を口にしている。まるでそうしなければ、もう一言もしゃべれなくなってしまうかのように。
「予言のこともあるから、大丈夫かもしれないと思っていた。きっと、みんなうまくいくだろう、と。でも、それはだめだったみたいだ。運命はそれほど私たちに優しくない」
 ソラはそれから、彼女が言うべき言葉を口にした。
 それは自分で自分をまた、一人ぼっちにしてしまうということでもあったけれど――
「だから、もういいんだ。もうこれでおしまいだ。私とお前は元々、何の関係もない。これ以上、お前が面倒に巻きこまれることはないんだ。これ以上は、もうどうしようもない――」
 そう言うと、ソラは暗い海の底にでも沈んでいくように口を閉ざした。
 ナツはもう動きをとめていたが、
「あいつらの言ってた、知っている≠アとって何なんだ? そんなに大事なことなのか?」
 と、訊いてみた。
「――悪いが、それは誰にも言えない。祖父との約束なんだ。誰にも教えちゃいけない、秘密だって」
「それをあいつらに言って、解放してもらうってわけにはいかないのか?」
 ソラは無言で、首を振った。
「なるほど、ね」
 ナツは部屋の右手にある壁を叩いたり、触ったりしながらうなずいている。そこには冷やりとした、固いコンクリートの壁があるだけだった。
「……八方塞だな。あいつらに秘密を教えるわけにはいかないし、誰かに助けを求めるわけにもいかない。魔法のことなんて説明できないし、そもそも僕たちはここから出られない」
「ナツ、私はもう……」
 そんなナツに向かって、ソラは首を振ろうとした。が、
「この世界に意味なんてない、そう思ってたんだ」
 と、ナツは急に、そんなことをしゃべりはじめた。
「……?」
「そんなふうに思う必要がないのはわかってた。でも、僕にはどうしようもないことだった。僕は半分だった。比喩とか、レトリックとか、そういうんじゃない。実際に、僕は今も半分なんだよ」
 ナツは壁のほうに顔を向けたまま、淡々と続けた。ソラはただ黙って、それを聞いている。
「生まれるときの話だ。本当は、僕はもう一人いたんだ。双子だったんだよ。でも妊娠の仕方にちょっと問題があって、もう一人は生まれてこなかった」
「…………」
「ずっと、思ってたんだ。どうして僕だけが、生まれてきたんだろう、って。どうしてもう一人の僕は、生まれてこなかったんだろう。誰がそれを、選んだんだろう。僕の運命の半分は、もう死んでいた。僕にとって、世界は最初から損なわれていたんだ。それはどうしたって変えられないし、回復のしようもない」
 ナツは少しだけうんざりしたように言って、そうしてソラのほうを見た。この少女は透明な、真実だけを映す鏡みたいな瞳でナツのことを見ている。ナツは、言った。
「けど、それは違うんだ。ソラを見てて、そう思ったんだよ。意味はある。たぶん、意味はあるんだって。例え、この世界が不完全だったとしても……それが、もう少しでわかる気がするんだ」
「でも、私は――」
 ソラは何かを強く噛みしめるような顔をした。
「これ以上、お前に迷惑をかけるわけにはいかない。私は――」
 言おうとしたところで、ナツは軽く人さし指でソラの額を弾いている。ぺしっ、と間の抜けた音がした。
「何をする」
 ソラは額を押さえて、嫌な顔をした。
「いいんだよ、そんなの。迷惑とか、そんなふうに思ったことなんてないんだから。第一、予言はまだ続いているんだ。僕は無関係じゃない」
 そう言って、ナツは解説をはじめた。
「火のない煙≠チてのは、あの男の煙草か、潜行魔法≠フことだろう。もしくは両方。次の鵞鳥が産んだ六つの花≠ヘ、あの事故のことだ。ここに来る途中、あっただろう? 羽毛が飛び散ってたやつ。六つの花≠ヘ、六花、雪のことだ。羽毛といえば、鵞鳥≠フものだろうし」
「でも――」
 ソラが、それでも何かを言おうとすると、
「お前が答えるべきことは、二つしかないんだよ」
 と、ナツはちょっと笑って言った。
「僕といっしょにここから逃げだすか、そうでないか」
「…………」
「ソラは、どうしたい? 僕といっしょに運命を続ける気はあるのか」
 しばらく黙っていたが、
「――うん」
 と、やがてソラは精一杯にうなずいている。手の甲で、ほんの少し目を拭って。
「でも、どうするんだ? 出ていくといったって、ここからは脱けだせない。その扉を開けたって、あの二人がいるだけだぞ」
 いつもの調子に戻って、ソラは訊いた。
「大丈夫だよ」
 言いながら、ナツはウエストバッグから一本の白いチョークを取りだしている。
「試したことはないけど、できると思うんだ。開かない扉と、閉じない密室=\―その予言に従えば、な」

「……ええ、捕まえました。大丈夫です、手荒なことはしていません……今は例のビルです。烏堂のやつもいっしょにいます……二時間後に引きとりに来る? ……ええ、わかりました……了解です。では、失礼します――」
 雨賀は携帯端末の通話を切ると、それをポケットにしまった。傍目にはわかりにくいが、それは一般には出まわっていない種類の機械だった。
「どう言ってるんですか、雇い主のほうは?」
 少ししてから、烏堂は訊いた。
「予定通りだ」
 雨賀は面白くもなさそうな顔をしている。
「別の、神坂(かみさか)っていうやつが迎えにくる。そいつがくれば、俺たちの仕事はおしまいだ。お前もご苦労だったな」
「いえいえ」
 烏堂はちょっと笑っている。
「僕はただの手伝いですからね。雨賀さんとは違います。それに十分な報酬は受けとってますし、アルバイトとしては割りのいい部類ですよ」
「まあ、そうだな。俺としてはお前の魔法が使いやすくて助かってるよ。お前の師匠にも礼を言っといてくれ」
「鷺谷(さぎたに)さんは、言葉だけだと喜ばないと思いますけど――」
 烏堂はそれから、ふと気になった、というふうに言った。
「しかし、妙な話ですね。クラノナツ、でしたっけ? あの子供は結局、何だったんですか。あれも〈運命遊戯〉の魔法が関係してるんですか?」
「ああ、あの魔法はな――」
 と雨賀が口を開こうとしたとき、いきなり烏堂の携帯が鳴りだしている。
 コールは何故か、一回だけだった。
「……まさか!」
 烏堂は信じられない、という顔で自分の携帯を確認した。同時に、二人はフロアの奥、ナツとソラを閉じこめた部屋のほうに向かっている。
「鍵はかかっているな」
 ドアノブを回しながら、雨賀は言った。鍵を取りだして、扉を開ける。
 そこには、どこにもつながっていない空間があるだけだった。今開けた扉のほかには、窓も、隠し扉などというものもない。
 けれど――
 その部屋には、誰もいなかった。
「どうなってるんだ、これは?」
 雨賀はやや呆然としたように言った。一つしかない扉には鍵がかかっていて、おまけにその向こうには自分たち二人がいたのだ。
「……密室、ってやつですかね」
 その後ろからのぞきこみながら、烏堂は途方に暮れたような顔をする。
 雨賀は信じられないという気持ちで部屋の中を探索した。狭い室内に余計なスペースなど存在しない。魔法で隠れた、というわけでもないだろう。
「ん、いや――待てよ」
 不意に何かに気づいたように、雨賀は壁のほうに視線を向けた。
「……何だ、これは?」
 その壁面には、白いチョークで扉≠フ絵とおぼしきものが描かれていた。

 そこはナツの予想したとおり、隣のフロアだった。廊下で確認したのと、入口にあった看板に表示されていたかぎりでは、利用はされていないはずである。実際、そこには元の部屋と同じように、がらんとした空間が広がるばかりだった。
 後ろで、今くぐってきた扉が勝手に閉まっている。それは完全に閉じると、すっかり元の壁に戻っていた。
 壁に扉≠フ絵を描いたのは、もちろんナツである。ナツの魔法は、記号とそれを付与する対象との相性によっては発動しないこともあるが、今回は成功例になったようだった。もしも壁がもう少しぶ厚かったら、どうなっていたかはわからない。
(うまくいったけど、少し疲れるな……)
 ナツはちょっと息をつきながら思った。
「大丈夫か?」
 とソラがそんなナツを心配そうに見つめる。
「……ああ、大丈夫だ。それよりここから早く出よう。たぶんあの烏堂ってほうが、何か魔法を使ってるはずだ。嫌な予感がする」
 二人は廊下に出ると、周囲を確認した。隣の部屋からは、まだ雨賀と烏堂の二人が出てくる気配はない。
「どうするんだ?」
 ソラが訊くと、ナツは少し考えて、
「屋上に行こう」
 と、言った。ソラはそれを聞いて、怪訝な顔をする。
「でもそんなところに行ったって、このビルからは出られないぞ?」
「玄関では魔法を使われたみたいだから、そっちに向かうと危険な可能性がある」
 ナツはしごく冷静な声で言った。
「大丈夫、屋上から逃げだせるはずだ。僕に考えがある」
「だといいがな」
 あまり期待はしないように、ソラは言った。どちらにせよ、こんなところでぐずぐずしている暇はない。
 階段を昇って、二人は屋上に向かった。幸い、最上階にあった扉に鍵はかかっておらず、簡単に外へ出ることができた。
 屋上にはプールみたいに光がいっぱいで、二人は一瞬目をしばたいた。すぐに目が慣れると、あたりの様子をうかがう。床はコンクリートが剥きだしで、特におかしなところはなかった。周囲には同じようなビルがいくつも並んで、少しだけ空に近い風が吹いていた。
 ソラがふと振り返ってみると、ナツは屋上の扉のところで何かをしている。
「何をしてるんだ?」
 不思議そうに訊ねると、
「錠≠描いてる」
 と、ナツは言った。言葉通り、ドアノブのすぐ下にマジックで鍵穴の絵が描かれていた。
「これで、この扉は開けられなくなった。効果そのものはあまりもたないだろうけど、少しは時間稼ぎになるはずだ」
「けど、これからどうするんだ?」
 ソラはちょっと困った顔をして言った。結局のところ、これではさっきの密室とあまり変わりがない。空を飛んでいけるというなら話は別だが――
「考えがあるって、言ったろ。さっきの扉≠ニ違って、こっちは試したことがあるから大丈夫なはずだ」
 言いながら、ナツはウエストバッグから何かを取りだしている。
 それは、手のひらくらいの大きさになったドーナツ状のものだった。透明な粘着材が幾層にも巻かれた、いわゆるセロハンテープというやつである。どこにでもありそうな、市販のごく一般的なものだった。
 そのセロハンテープの内側に、ナツは何かを描きこんでいる――

 隣の部屋を雨賀がのぞきこんでみると、そこにはすでに誰もいなかった。扉≠ェ描かれたその向こう側とおぼしき壁のところにも、特に変わった様子は見られない。
 烏堂がその後ろから、雨賀の荷物であるボストンバッグを持ってついて来た。
「いませんね」
 現在の状況を、烏堂は端的に表現した。
「ああ、しかし何なんだ、こいつは……」
 雨賀はかすかに、舌打ちしている。あの扉≠ェ魔法であるのは間違いない。しかし、こんな魔法が――
「どこに行ったんですかね、あの二人」
 室内を見渡しながら、烏堂は言った。何もないその空間に、人のいるような気配はない。
「玄関に向かったわけでもなさそうですし」
 念のために携帯を確認しながら、烏堂はつぶやいた。
 もしも二人がビルの玄関付近に向かった場合は、携帯の電話が鳴るように魔法を仕掛けてあった。
 それはもちろん、烏堂の〈暗号関数〉である。
 電話をかける≠ニいう行為を、二人が一階入口に近づいたとき≠ニいう条件で魔法化してあった。部屋から二人がいなくなったのに気づいたのも、同じ理由である。あの場所から二人がいなくなったとき、という条件で魔法をかけてあった。
「とすると、ビル内のどこかに隠れてるんでしょうか?」
 と、烏堂は妥当な意見を口にした。
「いや、あの生意気なガキがかくれんぼをするつもりがあるとは思えんな」
 雨賀はあっさりと否定する。
「けど、ほかにこのビルから出られる場所なんてありませんよ。飛び降りようっていうんなら、別ですけど」
「――そうか、屋上か」
「え?」
 烏堂は思わず、きょとんとしている。が、雨賀ははっきりと言った。
「ありえない話じゃない。やつの魔法がどんなものかはよくわからんが、脱出経路に利用される可能性はある」
「本気ですか?」
 けれど雨賀は、戸惑う烏堂を残して廊下のほうに向かった。階段を使って、屋上まで駆けあがる。烏堂は荷物を持って、慌ててそのあとに続いた。
 最上階までやってくると、雨賀はその扉を開けようとした――が、開かない。
「……?」
 鍵は、かかっていないはずだった。かなり乱暴に押したり引いたりしてみるが、ドアは融通の利かない門番みたいにうんともすんとも言わない。
「まさか――」
 雨賀はポケットから感知魔法≠フペンダントを取りだして、扉の前でかざした。そこからは、かすかな魔法の揺らぎが感じられる。
「くそっ、魔法で開かないようにしてある」
 ナツが魔法で作った錠≠ナある以上、それは同じくナツが魔法で作った鍵≠ナしか開かないのである。
 とはいえ、その魔法の揺らぎは次第に弱まりつつあるようだった。あと数分もしないうちに、この扉は開けられるようになるだろう。
(ここまでやるとはな……)
 雨賀は苦々しい思いを抱きつつ、魔法の効果が消滅するのを待った。まったくの無関係だったあの少年に、こうまでされるとは思っていなかった。これもやはり、〈運命遊戯〉の――
 ほどなく、扉が開いた。そのあいだに、烏堂が後ろから追いついている。二人は急いで屋上に足を踏みだした。
 けれど、そこには誰もいない。ビルの屋上には陽光がはびこるようにあふれていたが、人の姿はどこにもない。どこかに隠れている、といった気配もない。
「いないみたいですね」
 烏堂は言った。けれど錠≠ェ外側から描かれていた以上、二人は間違いなくこの場所にやって来たはずだった。
 二人は慎重にあたりの様子をうかがう。雨賀はふと、屋上の手すりに何か巻きつけられていることに気づいた。
(何だ――?)
 近づくと、それはどうやらセロハンテープのようである。テープはそのまま、地面の近くまで続いていた。
「どうやら、逃げられたらしいな」
 と、雨賀はつぶやくように言った。
 烏堂がそばまでやって来て、同じようにテープの行方を追う。烏堂はちょっと信じられないという顔をしていた。
「こいつを伝って下まで降りたっていうんですか? いったいどんな魔法を使ったっていうんです、あの子供は」
「それを考えるのはあとでいい」
 雨賀は何故か、ひどく冷静に言った。どういうわけか、この男はもう落ちついてしまったらしい。かといって、追跡を諦めたというわけではなかった。
「〈暗号関数〉の条件はクリアされてるな?」
 と、雨賀は訊いた。
「――ええ、それは大丈夫です」
 少し戸惑いながらも、烏堂は答える。
「なら、やることは一つだ」
 雨賀は烏堂の運んできた荷物から、市街地図とペイント用のスプレーを引っぱりだした。
「あの二人を追って、捕まえる――」

「よっ――と」
 ナツはビルとビルのあいだの隙間みたいな小道に、そっと足を下ろした。セロハンテープはほとんど長さがぎりぎりで、すっかりのびきっている。
「着いたぞ」
 背中にしがみついたままのソラに向かって、ナツは声をかけた。ソラは腕をしっかりナツの首にまわし、ぴったりと体を張りつけている。
「もう、大丈夫なのか――?」
 いくらか裏返ったような声で、ソラは言う。
「――ああ」
 ぎゅっと閉じられていた瞳を、ソラは恐る恐る開いた。それからぎこちない動作で、地面に足を着ける。よほど怖かったらしく、その足元はふわふわとおぼつかないようにも見えた。
 あの時、屋上でナツがしたことは、テープの内側に鎖≠描きこむことだった。それで強度を確保して手すりに巻きつけ、ロープ代わりにしたのである。テープの芯をベルトに通して支持し、ソラは背中に負う形にした。
 とはいえ、ビルを降りる時間分だけ魔法を維持するのは、かなりの消耗だった。部屋からの脱出以来、立て続けに魔法を使っているのだから、なおさらである。おまけにソラを抱えたまま、ラペリングよろしくビルの壁面を降下していかなければならなかったので、体力も消費していた。
 魔法と肉体の疲労――
 けれど、こんなところでのんびり休憩している余裕はなかった。
 二人がその場を離れると、ちょうど誰かの影が屋上のところにのぞいている。おそらく、雨賀だろう。テープのことに気づいたように、ビルの谷間をうかがっている。二人の脱出に気づかれた、と考えてよさそうだった。
「ナツ――」
 と、ソラは相談のためにナツのほうを振りむいた。ナツはちょっと思案するようにうつむいている。
「――問題は、あの連中がどうして僕たちのことを見つけられたか、ってことなんだよな」
 とナツは独り言をつぶやくように言った。
「あの時、遊園地にあの二人がやって来たのは偶然じゃない。どうにかして、僕たちの居場所を知ったんだ。あれはやっぱり、魔法だろうな――けど、どんな魔法なのか」
 そう言って、ナツはソラのほうを見た。
「何か、そういう魔法のことについて知らないか?」
 けれどソラは、力なく首を振っている。
「すまないが、心あたりはない」
 半ば予想通りとはいえ、ナツは難しい顔をした。
「――とすると、確かめるしかないわけだ。そうじゃないと、また同じことの繰り返しになる」
「そんなことできるのか……?」
 疑義のありそうなソラに向かって、ナツはとりあえず言った。
「わからない。けど、今はここを離れるのが先決だな。できれば人通りの多いところに。そうすれば、簡単には手出しできないだろう」
 ソラはうなずいて、二人は走りだした。相手は自動車ということもあるので、できるだけ細くてこみいった道を選ぶ。わざと駐車場を横切ったり、公園を突っ切ったりもした。
(あの二人にはソラの居場所がわかる――それは確かだ。現在位置がわかるのか、足跡みたいなものを追ってきてるのか、それははっきりしないけど)
 駆けながら、ナツは周囲への警戒は怠らない。あまり楽しくないとはいえ、形だけ見れば鬼ごっこそのものと言ってよかった。
(でも、その探索機能には何か問題があるはずだ。でなけりゃ、こんなに時間がかかるはずがない。精度が低いのか、条件が難しいのか、やりかたそのものに欠陥があるのか)
 しかしいくら考えても、埒が明きそうになかった。最悪の場合、わざと追いつかせてその方法を探る、といったことをしなくてはならないかもしれない。
 走りながら、ナツはなおも思考を巡らす。心臓が不平を訴えはじめていた。親切に聞いてやりたいところだったが、そんな余裕はない。
(それにうまく姿を暗ませたとしても、ソラは狙われ続けるだろう。あいつらはたぶん、諦めない。諦めるような理由でソラを追ってるわけじゃない。だとしたら、いつまで逃げればいい? 今回は逃げきったとしても、その次は? そのまた次は? そうなったら、僕は……)
 振り返ると、ソラが少し遅れて歩いていた。疲れてしまったのだろう。
(……そうなったら僕は、ソラを守れるんだろうか?)
 ナツは立ちどまって、ソラが追いつくのを待った。
 車で連れてこられたときの曖昧な記憶によれば、大通りはもう近くのはずである。そこまで逃げれば、おそらく無理に追ってはこないだろう。だがそれでは、問題が解決しないのも事実だった。
 ナツは近くにある四辻の、見通しのいい場所で待機することにした。ここからなら、遠くのほうまで警戒することができる。少なくとも、相手の姿が見えたらすぐに逃げだせる程度には。
「少し休憩しよう」
 と、ナツは言った。ソラは荒っぽく呼吸をしながら、うなずいている。
 そうして塀と電柱の陰になるようにしてナツが身を潜めると、不意にその手を何かにつかまれていた。
「――?」
 見ると、ソラがその手をぎゅっとつかんでいる。うつむいたまま、苦しそうにしながら、それでも。
 何かにすがるように、何かをたぐりよせるように。
 その手はとても小さくて、柔らかくて、ひどく弱々しい感じがした。
 つい忘れてしまいがちだが、この少女はちっぽけで、未熟で、一人ぼっちの存在だった。誰かが――
 たぶん誰かが、守ってやらなくてはいけないくらい。
 ナツは自然とその手を握りかえしていた。余計な言葉は口にせず、ただ黙って。
 そのまま、しばらく時間が経過した。雨で空がきれいになったのか、太陽の陽射しは何割か強くなっているようだった。夏の時間はまだ長く、風は午睡でもしているように動きをとめている。

 ――それから、たいした時間は過ぎていない。
 ナツは主に、道の二方向を注視していた。もしもあの二人が追ってくるなら、こちらの方角からのはずである。足跡のようなものをつけてくるのなら、位置的にいってそうなるはずだった。
 けれど――
「いいかげん、逃げるのは諦めたほうがいいな」
 後ろから、そんな声がかかった。
 その人物――烏堂有也は、大通りのほうに向かう道から姿を現していた。明らかに、二人の行き先についての見当をつけている。
 烏堂は遊園地で見かけた、あの奇妙な杖を持っていない。そして先回りするように現れたそのことからしても、どうやら別の方法で二人の居場所を探りあてたようだった。
「〈暗号関数〉の条件は満たされている」
 と、烏堂は静かに言った。チェックメイトのかかった相手に、声をかけるみたいに。
「君たち二人がどこにいても、僕たちにはその居場所を知ることができる。もう諦めたほうがいい。たぶん、君はよくやったと思うよ、ナツ君。でも結局、それは無駄だったんだ」
 ナツがふと気づくと、ソラは両手でナツの手を握っていた。とても強く、しっかりと。
「…………」
 ナツはすばやく、背後を確認した。姿を見せたのは烏堂だけで、もう一人の雨賀のほうはいない。どこかに潜んでいるのかもしれなかった。
「――それから今度は、もう少し高めのチップにして欲しいね」
 不意にそう言うと、烏堂はポケットから耳≠フ描かれた白いコインを取りだしていた。カジノでは、主に一番安い賭け金にあてられる色である。魔法の揺らぎに気づけば、見つけるのは容易だったろう。
「君のユニークな魔法には興味があるけど、残念ながらこのまま逃がしてあげるというわけにはいかない」
「……悪いですけど」
 と、近づいてくる烏堂に向かって、ナツは言った。
「何があったって、僕も諦めるつもりはないんですよ。例えそれが、運命で決められたことだったとしてもね」
 言いながら、ナツはウエストバッグから何かを取りだしていた。
 それは、いわゆるスーパーボールというやつである。合成ゴムに加硫して弾性を持たせた、球形の塊。
(何のつもりだ?)
 烏堂にも、それは見えていた。けれど、それでどうするつもりなのか。まさかそんなものを投げたくらいで、足どめになるとでも思っているのだろうか。
 と、烏堂がそう思っていると、ナツはそのボールをいくつか握ったまま手を振りあげ、地面に叩きつけていた。
 普通なら、もちろんボールは地面にぶつかって跳ねかえるだろう。思いきりやれば、十数メートルくらいは飛ぶかもしれない。けれどその時、ナツがボールを地面に叩きつけて起こった現象は、そんなものではなかった。
 破裂音、そして――
 煙幕があたりを覆っていた。
「何だ、これは――」
 烏堂は軽く咳きこみながら、手で煙を払おうとした。が、もちろんうまくはいかない。折から風がとまっているせいで、煙はなかなか晴れることはなかった。
 そのまま烏堂がげほげほ言ってどうにもできないでいると、煙が薄れたのか、魔法の効果が切れたのか、視界が次第に開けはじめている。
 当然の話ではあるけれど――
 煙幕の晴れたその場所には、すでに誰の姿もなかった。

「はぁ、はぁ――」
 ナツは息を切らしながら、それでも走り続けていた。その手の先にはしっかりと、ソラの手が握られている。
 ちらりと振り返るが、烏堂の追ってくる気配はなかった。スーパーボールに煙≠描きこんだ、即席の煙幕弾が功を奏したらしい。
(……どういうことだ?)
 走りながら、ナツは考えている。烏堂有也はどうやってこちらの居場所を見つけたのだろう。それにあの言葉の意味は――
(もう逃げられないのか?)
 そういうことのような気もした。どういう魔法なのかは知らないが、ただの冗談やブラフであんなことを言ったわけではないだろう。だとすれば、こんなふうに逃げ続けたとしても――
 転びそうになったのか、ソラがナツの手を強くつかんだ。ナツは反射的に、その体を支えてやっている。ソラは何とか姿勢を直しながら、けれど決してその手を離そうとはしなかった。
 まるで――
 その手をつかんでいれば、すべてはうまくいくのだと信じているように。
「…………」
 ナツは黙ったままその手を握りなおして、また同じように走りはじめた。
 迷路のような細い路地を、二人は駆けていく。工事中のフェンスや、ビルの壁、住宅地の塀といったあいだを、まっすぐ通りぬけて行く。まるで見知らぬ世界に通じる、トンネルの中を走っているみたいだった。
 ナツは時々あたりの様子をうかがってみるが、追っ手の近づく兆候は見られない。振りきったとも諦めたとも思えないが、思考時間を与えてもらえるのはありがたかった。とにかく、何か手はあるはずなのだ。
 ――それにしても、妙だった。
 さっきからずっと、同じような道が続いている。曲がり角も、行きどまりもなく、まっすぐの道が延々とどこまでものび続けていた。
 それにふと気づくと、見覚えのある景色を何度も通過している。細かい部分まではっきり確認したわけではないが、それでも似すぎていた。
 まるで、同じ場所を何度も通りすぎているみたいに――
「――――」
 そう思ったとき、ナツの中で何かがぐにゃりと歪んでいた。
 鉄骨が法外な圧力を受けてねじまがるように、ナツの中の決定的な部分に、取りかえしのつかない湾曲が生じていた。疲労と焦りでずっと気づかなかったが、魔法の揺らぎが世界を変えてしまっている。
 後にも先にも、そこにはまったく同じ光景が続いていた。道はある地点でループして、どこまでも繰り返されている。壊れたカセットテープが、同じフレーズを何度も再生し続けるみたいに。
 ――それは、永遠だった。
 その永遠はどこにも行きつかず、ただ同じ場所に留まり続けていた。それは無限の広がりを持ちながら、同時に限りなくゼロに等しいものでしかなかった。
 それは何かに守られるわけでもなく――
 何かを目的とするわけでもなく――
 ただ、繰り返すために繰り返す、そんな永遠だった。それは日常と同じでありながら、あまりにグロテスクで救いのない永遠だった。
 ナツは体の一部が変に拡大したり、縮小したりするのを感じた。まるでおかしなキノコでも食べてしまったみたいに。平衡感覚が狂って、地面が柔らかく波打っていた。光の速度は変わり、空間は座標を失っていた。
 これが現実的なものなのか、それとも幻覚にすぎないのかはわからない。
 けれどそれが、ある種の救われなさを含んだゼロだということはわかる。すべてのバランスを崩す、この世界の不完全さそのもののような――
「ナツ……?」
 隣で、ソラはナツの手をつかみながら不思議そうな顔をしている。この少女はナツと手をつなぐことに集中しているせいか、魔法のことには気づいていないようだった。
 けれどそのおかげで、ナツは意識を立てなおすことができていた。少なくともここに、ナツは一人でいるわけではない。もしもこんな場所に一人でいれば、永遠の孤独の中で、魂は一瞬にして凍りついてしまうかもしれなかった。
「何でもない、大丈夫だ――」
 ナツは何とかそう返事をして、また前と同じように走りはじめた。
 この空間がどのくらい続いているのかは、予想もつかなかった。だがナツとソラの二人にできることは、走り続けることでしかない。永遠も、いつかは終わるのだと信じて。
 そして走り続けていると――
 不意に、目の前に空間が広がっている。長いトンネルを抜けるときのように、二人は光の薄いカーテンをくぐってその場所へと移った。
 そこは、道路わきに広がる空き地のような場所だった。何かの建設予定地なのか、剥きだしの地面にいくつかの資材だけが置かれている。直角に曲がった道もさっきまでと同じような路地裏で、人の気配はない。そしてそこには――
 空き地の真ん中に立つ、雨賀秀平の姿があった。

 二人は疲労しきっていて、立っているのもやっとだった。あの場所から脱出することがすべてで、ほかのことなど考えていられない。現に、ソラはぺたんと座りこんで、苦しそうに息をするだけだった。
 雨賀は口に煙草をくわえたまま、ややぼんやりした様子で立っている。相変わらず、煙草に火はついていない。
「――八十七周、ってとこか」
「は……?」
 ナツが怪訝な顔をすると、雨賀は珍しくすんなりと答えた。
「お前たちがループした回数だよ」
 いくぶんのんびりとしたその口調には、驕るわけでもない余裕が含まれていた。すでに勝負はついている、というのだろう。
 そして実際、それは正しかった。
 ナツにはもう、魔法を使う気力も、逃走する体力も残っていない。
「俺の魔法〈虚数廻廊(エディット・キューブ)〉は、任意の空間をループさせる≠ニいうものだ」
 雨賀はゆっくりとしゃべりはじめた。まるで受刑者に対して、最後の告解をうながすように。
「正確には空間の複写といったほうが近いんだが、それが実際にどんなものかはお前たちがさっき体験したとおりだ。合わせ鏡に、像が無限に映りこむようなものだな。こいつは使いかた次第によっては、四次元ポケットみたいな真似もできる。わかるよな、四次元ポケット? あの遊園地でバッグの中に杖が収まったのは、そういう理由だ」
 ナツはまだ呼吸が整わず、ろくに言葉を挟むこともできなかった。だけでなく、先ほどの〈虚数廻廊〉による魔法の影響が、どこかでまだ継続しているような気がする。
「――それはともかく、お前はどうして自分たちの居場所がこんなにも簡単に見つけられたのか、知りたいんじゃないのか?」
 雨賀は少しからかうように、にやりとしてみせた。ナツはむっとした顔で、雨賀のことを見ることしかできない。
「どうせだから、それも教えといてやろう。透村穹に直接会ったことで、烏堂の〈暗号関数〉による条件設定が可能になった。そうすれば存在の痕跡なんて曖昧なものに頼らなくても、透村穹自身を変数に指定することができるのさ。そして地図にスプレーをかける≠アとを透村穹が通った地点≠ニいう条件で発動すれば、お前たちの動きはリアルタイムに把握できる、というわけだ」
 ナツには、雨賀の言葉を完全に理解することはできない。それでも、その魔法から逃れるのは容易ではない、ということだけはわかった。
「お前のことは、とりあえず誉めておいてやるよ」
 と、雨賀は言った。
「……とりあえず、は余計じゃないですかね」
 ナツは息を切らせながら、何とか返事をする。とはいえ、ナツにはその程度のことを言い返すのが精一杯だった。
 それからしばらく、妙な沈黙が続いたが、
「――お前は何故、ここにいるんだ?」
 と雨賀は急に、そんなことを言った。煙草を捨て、それを意味もなく足で踏みにじりながら。
「お前は、何を求めている? 何故、その娘といっしょにいる?」
「…………」
「もう一度言うが、お前は無関係だ。〈運命遊戯〉が引きよせただけの、ただの偶然の産物だ。お前はここにいるべきでも、関わるべきでもなかった。それはくだらん運命が持ちこんだ、余計な事故みたいなものだ」
「……僕は」
 と、ナツはそれでも何とかして言った。
「ソラを守りたいと思ってる、それだけだ」
「だが、それは無理だ」
 雨賀は即座に言い捨てた。何の躊躇も、迷いもなく。
「それだけでは、俺たちをどうにかすることはできない。俺たちが求めているのは、そういうものだ。お前はそれと同等のものを求めているのか? すべてを捨て、すべてを犠牲にしても求めるべきものを。お前はその子を守ることで――」
 雨賀は、そして言った。とても静かな、恐ろしく静かな声で。
「――完全世界を、取り戻すことができるのか?」
 ナツはその言葉に、うまく返事ができずにいる。言うべきことは、あるはずだった。言わなくてはならないことが。
 けれど、ナツは一言も口をきくことができずにいる。
 そんなナツに向かって、雨賀は言った。
「結局のところ、お前には理由がないんだ――」

 その数十分前――
 千ヶ崎朝美はバイクに乗って、天橋市内を巡回していた。懸案の調査対象については、ほとんど進展していない。何しろ魔法のことなので、一般の記録をあたってもすぐに限界を迎えてしまう。成功にしろ失敗にしろ、相手はすでに目的を終えているのかもしれなかった。彼女はいまだに、怪しい動向を発見できずにいる。
 そのため今は、俗にいう足で稼ぐしかない状態だった。市内を走りまわって、魔法の痕跡なり何なり、棒に当たるのを期待するしかない、というとだ。
 それはある意味では、彼女が問題視する結社≠フ二人と同じ行動だった。奇妙な運命の巡りあわせのようなものとして――
(何かしら……?)
 幹線道路をしばらく走っていると、事故があったらしく作業車が道をふさぎ、徐行の看板が立てられていた。あたりには暑さに対する皮肉のように、雪に似た羽毛が宙を舞っている。
 朝美はギアを下げてウインカーを出すと、進路を変更して細い路地へと入っていった。どちらにせよ、明確な目的地があるわけではない。多少のまわり道やより道をしたところで、どうなるわけでもなかった。
 その程度のことで運命が変わるものでもない。そう、彼女は思っていた。
 けれど――
 迷路のような狭い裏道を走行するうち、朝美はふと魔法の揺らぎに似たものを感じとった。希薄化した煙のような、あまりはっきりとしないものではあったけれど。
 朝美はバイクを停め、感知魔法≠フペンダントを取りだす。それは相当弱まってはいるが、魔法の揺らぎには違いなかった。だが見たところ、周囲に不審な事象は確認されない。住宅地にある何の変哲もない十字路で、人の姿も見えなかった。
 ところが彼女はそれとは別の、もっと強い魔法の揺らぎに気づいた。でたらめに投げたコインがどれも同じ面を向けたような、偶然としてはありえない強さである。
(誰かが魔法を使っている?)
 いくらか距離があるし、はっきりとした位置もわからなかったが、朝美はそこへ向かうことにした。魔法の誤用や乱用を防ぐのが、委員会の役目でもある。そして執行者である彼女には、その責務があった。
 ギアをローに入れて発進すると、彼女はアクセルをまわしてその場所へと急いだ。

「――お前には理由がないんだ」
 と、雨賀秀平は言った。
「わかっているんだろう、自分でも? お前は自分で何かを選んだわけでも、決めたわけでもない。サイコロの目に従って、ボードを進んだだけだ。お前は運命の端っこに引っかかっただけで、お前が運命を選択したわけじゃない」
 一歩、雨賀は二人のほうににじりよった。
 ナツは少しも、動くことができずにいる。もうできることはなかった。ここから逃げだしたとしても、またあの魂それ自体を拷問にかけるような空間に閉じこめられてしまうだけだろう。本当に、できることはない。
 雨賀は運命そのもののような足どりで、迫ってきた。決して逆らうことのできない、そんな様子で。
 けれどその時――
 不意に、一台のバイクがその場に現れていた。
 突然の闖入者は黒塗りのバイクに乗ったまま、何かを確認するように三人のことを見ている。ヘルメットに隠れてその素顔はわからなかったが、スーツ姿のプロポーションから搭乗者が女性だと判断できた。
「……?」
 雨賀は怪訝そうな顔で、闖入者のことを見つめた。
 女性はスタンドを立てて、実用性の高そうなフォルムのバイクから降りると、ヘルメットを脱いでハンドル部分に引っかけた。
 ボブカット、というのだろう。薄く染めた髪をうなじにそってカットしていて、ひどくスマートな身ごなしをしている。どことなく、高級な機械製品を思わせるような、そんな感じをしていた。
「間違っていたら悪いのですが」
 と、その女性は言った。よく徹る、滑らかに研磨された声をしている。
「あなたたちは、魔法使い≠ナすね?」
 雨賀はおもむろに、この闖入者のほうに向きなおっている。ナツもソラも、その横で呆然とそれを見ていた。
「……そう言うあんたは、いったい何者なんだ?」
「私は千ヶ崎朝美といいます。魔法委員会の、執行者です」
 と、朝美は言った。
 ちっ――
 そんな声が、雨賀の口からもれている。が、表面は平気の体で、
「その委員会が、俺たちにいったい何の用だっていうんだ?」
 と、訊いた。
「この近辺で、いくつか魔法の揺らぎを感知しました」
 朝美はごく落ちついた声で告げている。
「委員会は、不用意な魔法の使用は認めていません。よって私は、それを確認に来ました」
「――別におかしなことなんてしていない。魔法もちょっと理由があって使っただけさ」
 雨賀はそう言ってとぼけようとした。誤魔化すつもりなのだ。けれど、
「こいつは悪いやつだ。私たちを誘拐しようとしてるんだ」
 座りこんだまま、ソラが叫んでいる。
「…………」
 朝美はあまり好意的とはいえない顔で、雨賀のことを見た。
「……まあ仕方ないな」
 と雨賀は簡単に肩をすくめている。
「この状況じゃ下手な言い訳をするつもりにもならんからな。このタイミングで委員会が出てくるとは、これもやはり〈運命遊戯〉の――」
 後半は独り言のようにつぶやいている。
「――しかし、こちらとしてもこのまま引きさがるわけにはいかん。例え委員会の執行者が相手だろうと、な。何しろこっちとしても、これまでにいろいろ苦労させられている」
 そう言って、雨賀はそばに置いてあった荷物に手をのばした。例の四次元ポケット℃ョのボストンバッグである。おそらくその中に、何らかの武器なり魔術具がしまいこまれているのだろう。
 朝美はしばらく、何かを判断するように黙っていた。それから、あくまでも事務的な口調で質問する。
「つまりあなたは、私を委員会の人間であると知って、それでも私の行動を妨害しようというのですね?」
「ああ」
「そしてその子の言うとおり、あなたは悪いやつ≠セと」
「……まあな」
 雨賀はいくぶん、嫌そうな顔をした。が、事実には違いない。
「ならば――」
 そう言って、朝美は上着の内ポケットから何かを取りだしていた。
「私としても、実力で事態を処理させてもらいます」
「……!?」
 雨賀はそれを見て、さすがにうろたえた。
 ――朝美がその手に握っていたのは、どう見ても「銃」だった。要人警護でよく使用される、グロッグというやつである。
「まさか、委員会がそこまでやるはずがない」
 言いながら、雨賀は動揺を隠せない。そこまで目立った行動を、委員会が許可するとは思えなかった。だがそれが本物だとすれば、まともに立ち向かえる代物ではない。
 けれど、
「――ええ、これは本物ではありません」
 と朝美はあっさりと認めた。
「いわゆる、エアガンというやつです。これはどちらかというと銀玉鉄砲に近いものですが、作動機構にスプリングを使用した、エアコッキングガンという種類のものです。もちろん玩具ですから、たいした威力は出ません。少々痛みはありますが、人を脅すのには向かないでしょうね」
 そう言って、朝美は空き地の塀に向かって実際に弾を発射してみせた。
 パチン、パチン――という音がして、小さなBB弾がブロック塀に命中して地面に転がっている。もちろん、壁面には傷一つない。
「見てのとおり、この銃に殺傷能力と呼べるようなものはありません。けれど――」
 言いながら、朝美は手元の銃を左手でさっとなでるような仕草をした。手品師が、ハンカチをかぶせた帽子からハトか何かを取りだすみたいに。
 その瞬間、魔法の揺らぎが生じていることに、雨賀は気づいている。世界がわずかにとはいえ、書き変えられたのだ。
「――私の〈情報転移(メモリー・ノート)〉を使えば、話は別です」
 朝美はもう一度、壁面に向かって銃を構えた。銃爪(トリガー)に指をかけ、そっと力を入れる。
 途端に、バァアン、という炸裂音があたりに響いて、さっきと同じBB弾が塀に丸い穴を作ってめり込んでいた。それは本物の銃声であり、本物の銃弾が持つ威力だった。
「私の魔法〈情報転移〉は、あるものの機能を別のものに上書きする≠ニいうものです。つまり本物の拳銃の機能を、この模造銃にコピーしたわけです。ただし機能の複製先は、複製元とよく似ていなくてはなりませんが……」
 目の前の物騒な現実とは関係なく、朝美はごく冷静な声で言った。
 雨賀はその光景――特に、壁面に無残に刻まれた銃痕――をじっと見つめている。
「念のために言っておきますが、委員会には正当な理由さえあれば、魔法使いを拘束する権限が認められています。多少の暴行のうえでも、です」
 銃で撃つことが多少≠ノ入るのかどうかは人によって微妙なところではある。
「私としては、とりあえずその子たちの保護を優先するつもりです。ですから大しく引きさがるなら、あなたのことはこの場では見逃します」
 朝美はそう言って、ちらりとナツとソラのほうを見た。それからまた、雨賀のほうを向く。譲歩した提案のように見えて、半分以上は脅しているのに等しかった。
「…………」
 雨賀はしばらく黙っていたが、やがて、「ちっ――」と短く舌打ちすると、手を挙げて後ろに下がっている。提案に従う、という意思表示だった。
 それから朝美は、油断なく銃を向けながら二人のそばまで歩いていく。ある程度の距離まで近づくと、彼女は銃を小さく振って相手に立ち去るよう勧告した。雨賀はバッグをつかんで、慎重に後ろへ下がっていく。
 最後の一瞬、雨賀は二人のこと――というより、ナツのことを見た。
 ナツも同じように、雨賀のことを見る。
 二人はどこかで、知っていたのかもしれない。不完全世界を巡るこの運命が、まだ終わっていないことを――
 それが再び、どこかで交わろうとしていることを。

「――大丈夫、あなたたち?」
 と、千ヶ崎朝美はまず質問した。
 雨賀はすでに去って、その場には三人しかいない。〈虚数廻廊〉による魔法の気配も遠くに消えて、あたりにはいつもの夏の光景が戻りつつあった。
「助かりました、ありがとうございます」
 ナツは何とかして、それだけを言った。二人ともまだ完全には回復していなかったが、当面の危機は去っている。
「いえ、たいしたことをしたわけじゃありません。これが私の仕事ですから」
 そう言いながら、朝美は左手で銃をさっとひとなでした。瞬間、かすかな揺らぎが発生する。それで銃≠フ機能を戻したのだということは、ナツにも推測できた。画面上の文字を、コピー&ペーストするように。
「あなたたちには、いくつか訊きたいことがあります」
 朝美はすでに玩具の銃に戻ったそれを懐にしまいながら、言った。
「――その前に、いいですか?」
 とナツはそんな朝美を制している。
「何ですか?」
「あなたはいったい、誰なんです?」
 とりあえずナツにわかっているのは、彼女が自分たちを助けてくれた、ということだけだった。だからといって、本当に味方かどうかは断言できない。確かなのはせいぜい、この千ヶ崎朝美という人物が予言にあった五人の道化師たち≠フ一人なのだろう、ということくらいである。
 朝美は少し考えるように黙っていたが、
「先ほども言いましたが、私は魔法委員会に所属する執行者の一人です」
「魔法委員会?」
 もちろんナツは、そんなもののことは知らない。
「簡単に言うと、魔法に関する案件を処理するための公的な機関です。詳しいことは教えられませんが、魔法使いの警察と思ってもらえればそれほど間違ってはいないでしょう」
「つまり――」
 と言ったのは、ソラだった。この少女も委員会のことは知らなかったらしく、端的な表現をした。
「悪者をやっつける正義の味方≠ニいうことだな?」
 朝美はその言葉を俎上に載せて、吟味するような顔をしている。どうやら、用紙の端を揃えないと気のすまないような、律儀な性格の持ち主らしかった。
「とりあえずは、そうですね――ですが、我々はあなたたちの味方というわけでもありません。あなたたちの素性と、追われていた理由次第によっては、ですが。あなたたちは、どうしてあの男に追われていたのですか?」
 訊かれて、ナツもソラも顔を見あわせている。どこまで説明するべきなのだろうか。
「……ある秘密について、あいつらが知ろうとしていたからです」
 結局、ナツがそんなふうに答えた。虚言を弄するつもりはなかったが、そのことについては、すべてをしゃべってしまうわけにもいかない。
「ある秘密というのは?」
「――それは、教えられません」
 ナツは淡々と、けれど躊躇なく答えた。ソラが目だけでそっと、そんなナツを見ている。
「ふむ」
 と朝美は語調は変えずに、表情だけを厳しくした。
「その答えは、ややあなたたちを不利にすると理解できていますね?」
 もの言いこそ穏やかだったが、この女性がそんな言い逃れを許すつもりがないのは明らかだった。
「完全世界に関わることだ――」
 その時、ソラが必死に叫んでいる。遭難先から、救助船に向かってするように。
「――だから、誰にも教えられないことだ」
 千ヶ崎朝美はしばらく沈黙していたが、
「そうですか……」
 意外にも、それ以上は追及してこなかった。彼女はじっと、ソラの瞳をのぞきこむようにするだけである。
「では、あなたたちを追っていた男は何者ですか? それと、あの男がまたあなたたちを狙ってくるようなことはありますか?」
 と、朝美は質問を変えた。
「……たぶん、あるでしょうね」
 ナツは雨賀秀平のことを思い出しながら、言った。少なくとも本人の言葉によれば、そういうことになりそうである。
 とはいえ、あの二人についてナツとソラが知っていることはほとんどなかった。せいぜいがその名前と、二人の魔法についてである。ナツがそれを説明すると、
「そうですか――」
 朝美は何か思案するように腕を組んでいた。ジグソーパズルの一欠片を見つめるような、そんな顔をしている。
「何か、知ってるのか?」
 と、ソラが訊いた。狙われている当の本人とすれば、あの二人の正体を知るというのはとても重要なポイントだった。
「……いえ、ただの可能性について考えていただけです。何かを知っているというわけではありません」
 朝美は軽く、首を振っている。どう見てもそんな雰囲気ではなかったが、お互いのことがあるのでそれ以上は訊けない。
「――今のところ、その秘密≠ノついては不問にしておきます。状況が変われば、そうも言っていられなくなるかも知れませんが」
 朝美はそう言って、ポケットから名刺を取りだした。何となく、普通のものより折り目正しそうな名刺である。
「とりあえず、私の連絡先を渡しておきます。あの男たちについては、こちらのほうでも調べてみるつもりです。私の追っている案件と、少し関係があるかもしれないので。ですから、あなたたちは委員会の保護下に入ると思ってください。何かあれば、私を呼んでもらってかまいません。どんな人間だろうと、簡単には手出しさせないつもりです」
 朝美はそう言うと、少しだけ笑ってみせた。花の蕾がほんの少し緩んだような、そんな笑顔である。
 二人は顔を見あわせると、きょとんとした。いつのまにか、立場は逆転していたらしい。結局のところ謎の組織に属する謎の女性は、悪者をやっつける正義の味方≠ノ間違いなさそうだった。
 それから、二人を安全な場所まで誘導すると、彼女はバイクに乗って行ってしまう。その姿が見えなくなるまで、ソラは大きく手を振っていた。
 あとには、いつもと同じような夏の暑さと、町の風景だけが横たわっている。
 そうしてすべては、丸く収まったように思えた。事態が露見した以上、あの二人が不用意に手を出してくるとは考えにくかったし、千ヶ崎朝美は二人のことを保護すると約束している。ナツも、ソラも、朝美自身も、それを信じていた。

 ――たった一日後には、その約束が破られてしまうことなど知らずに。

 それから、二人はバスを乗り継いで自宅まで帰ってきた。
 夏の太陽が沈むにはまだ時間があったとはいえ、二人が家に帰りついたのはだいぶ遅い時刻だった。朝方に出発したことを考えても、ずいぶん長い一日である。
 鍵を開けてリビングまでやって来ると、二人は倒れるようにソファに座りこんだ。
「何だか、疲れた……」
 声を出すのも億劫そうに、ナツは言った。
「私もだ……」
 ぺたっとうつぶせになりながら、ソラも言う。
 それから二人は、いつのまにか眠ってしまっていた。太陽は気を使ったように音もなく沈んで、いつしか宵闇があたりを覆っている。部屋の中にはまだ密度の粗い、できあがったばかりの暗闇がひっそりと満ちはじめていた。
 二人が短い眠りから覚めたのは、部屋の明かりが点けられたときのことだった。桐子が仕事場から帰ってきたのである。
 白い光が容赦なく目の奥を照らすと、二人は夢の一部をくっつけたような表情で起きあがった。何度も目をこすり、現実にピントをあわせようとする。
「あら、二人とも寝てたの」
 桐子はソファのところまで来ると、ふと気づいたように言った。
「――うん」
 かろうじて、という感じでナツは返事をする。
「ずいぶんお疲れみたいね。今日はどうだった?」
「いろいろ大変だった」
 ナツは大まかなところを、簡潔に表現した。
「そう、楽しんできたみたいでよかったわね」
 と、桐子は別に気にしたふうもなくにっこりとしている。もちろん、二人が魔法使いの男たちに追いまわされ、ようやく無事帰還した、などということは彼女に想像できるはずもない。ナツにもそのことをうまく説明できる自信はなかったし、今はそれだけの元気もなかった。
「お腹空いてるでしょ、すぐに夕飯作るから」
 桐子は言って、口笛を吹きながら準備にかかっている。
 それからしばらくして、三人は夕食の席についた。テーブルでは、主に遊園地のことが話題になっている。ソラは楽しそうにその時のことを話した。隣でそれを聞いていると、ナツは今日一日まるで何事もなかったかのような気がした。
 食事と風呂をすませてしまうと、二人はナツの部屋に集まった。いくつか、話しあっておかなければならないことがある。
「とりあえず、僕たちはあの千ヶ崎朝美とかいう人に保護してもらえることになったわけだよな」
 ナツは机の上に置いた、白い名刺を眺めながら言った。肩書きのところには魔法という文字は一つもなく、代わりに国家公務員であることを示す名称が並んでいる。
「あの二人もそれは予想しているだろうし、ひとまずは安全てわけだ」
「――そうだな」
 ソラはベッドのところに座りながらうなずいている。
「でも、問題は別のところにもある」
「何だ?」
「予言だよ」
 そう言って、ナツは引きだしから例の紙を取りだした。
「兎の穴≠ヘあのループ空間のことだろうし、角のないユニコーン≠ヘ千ヶ崎さんのことだろう。あの人が持っているのは、あくまで玩具の銃だ」
「――うん」
「兎の穴≠竍ユニコーンとライオン≠ニいえば、例のアリスの話だ。だからチェスのことも暗示してるのかもしれない。チェス盤は白黒……てことは色が混じったわけだ」
「――うん」
「とすると、予言はまだ続いていることになる。これから先は、どうなるんだ? こんな文章じゃ、相変わらず予想もできないし。夏休みだって、ずっと続くわけじゃない」
「――――」
 ソラは今度は、返事をしなかった。
「?」
 ふと見ると、ソラはいつのまにかベッドに体を倒して、小さな寝息を立てていた。ちょっと触れただけで夢の中をのぞけてしまいそうな、無防備で無用心な寝顔である。
 ナツはちょっとため息をついてから、ソラをきちんと布団に寝かせてやった。そうして電気を消して、音を立てないように部屋の外へ出る。
 扉を閉める瞬間、暗闇はソラの眠りを包んで、ひどく柔らかなものになっている感じがした。大切なものを保護する、緩衝材か何かみたいに。
 リビングのほうに移ると、そこでは桐子がソファに座ってテレビを見ているところだった。時々、テレビの中から笑い声が聞こえて、桐子もくすくす笑っている。
「どうかしたの、ナツ?」
 桐子はナツの姿に気づいて、そう声をかけた。
「ちょっとソラにベッドをとられただけだよ」
 ナツは冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぎながら、答えた。
「あら、それは災難ね。生涯の契りを交わすにはいい機会かもしれないけど」
 どこまで本気なのかわからない桐子のセリフに、ナツは嫌な顔をした。
「いやね、冗談じゃない。そんな顔される筋合いはないわよ」
 ナツはため息をつくように、お茶を一口飲んでいる。
「母さんの冗談は、僕にはよくわからないらしいね。たぶん地球の裏側まで行ったら、もっとよく理解できるんだろうけど」
「あら、私はナツのことを二百パーセントくらい理解してるわよ……じゃあ、ナツはどうするの。ソラちゃんの代わりに私の部屋で寝る?」
 初日以降、ソラは桐子と樹の部屋で就寝していた。とはいえ、ナツはこの歳にもなって母親といっしょの部屋で眠りたくはない。
「遠慮しとく。僕はリビングで寝るよ」
「それは残念……でもこうして少年は大人になっていくんだから、耐えなくちゃならないわね。ああ、涙が出そう。母親の辛いところだわ」
「そうだね」
 適当に流しながら、ナツはコップを持ってソファに座った。
 しばらくして、桐子はテレビから聞こえる音声の合間に言っている。
「――でもね、子供なんて本当にあっというまに大人になっちゃうものよ。ソラちゃんだって、いつまでも今みたいじゃないんだから」
「もう十分すぎるくらい大人だよ、ソラは」
 とナツはうんざりするように言った。
「そうね、その辺にいる大人よりは、ずっとしっかりしてる。でもね――」
 桐子は言って、不意に真剣そうに言葉を足した。
「あの子が……というかナツもだけど、二人が本当は何をしてるのか私は知らない。何でソラちゃんが家出なんてしたのか、どうしてナツがあの子をうちに連れてきたのか。でもそれはそれで構わないと、私は思ってる。ナツのことだから、きっと大丈夫だろうってね」
「…………」
「それでも――あの子はあんなにも強く見えるし、ナツのことは信頼してるけど――危ないことがあったら、私たちを頼って欲しい。困ったことがあったら、言って欲しい。どんなことでも、できるだけの力になるから。ソラちゃんは強そうに見えるし、実際にそうだけど、それでもまだ小さい子供なの。誰かが守ってあげる必要があるくらいには――そのことを、忘れないでね?」
「ああ、わかってる」
 ナツがうなずくと、桐子はそれを聞いて安心したというふうにテレビのほうに視線を戻した。
――お前の両親は、いい人だな
 不意に、ナツは何故だかソラのそんな言葉を思い出していた。
 時計は順調に夜半をまわり、桐子は寝室に下がっていった。リビングには布団がしかれ、ナツはそこで眠っている。
 電気は消され、常夜灯の小さな明かりだけが部屋の暗闇を頼りなく照らしていた。
(……夏休みがずっと続くわけじゃない、か)
 自分の部屋に通じる扉を、ナツはふと眺めていた。その向こう側にある、柔らかな暗闇と眠りのことを考えながら。せめてそれが穏やかなものであるように、ナツは神様みたいなものに対して祈ってみた。

 翌日の夕方――
 ナツがちょっとコンビニに行ってくると、家の中からソラの姿がなくなっていた。
「――母さん、ソラはどこに行ったの?」
 一瞬はっとして、ナツは慌てたように訊ねる。昨日の今日だけに、さすがに平然とはしていられなかった。
 桐子は台所のテーブルでノートパソコンをいじっていたが、ちょっと顔をあげて、
「ソラちゃんなら買い物に行ったわよ」
 と言っている。
「買い物?」
「近所のスーパーまで、夕飯の材料を買いに。何か手伝うことはないかって聞くから、お使いを頼んだの。本当、偉い子だわ」
「ああ、なるほどね――」
 少し拍子抜けした感じで、ナツはほっとしている。
「……そういえば、昨日言い忘れてたんだけど」
 と、桐子は台所に座ったまま、ナツに向かって言った。
「明日の夜、お父さん帰ってくるわよ。何時になるかはわからないけど」
「用事は済んだの?」
「そりゃね。でもお土産は期待しないほうがいいわね。あの人、センスが独特だから」
「だろうね」
 ナツは簡単に同意した。父親の樹はわざとなのか素なのか、旅行に行くとどこで見つけたのか首をひねりたくなるような、おかしなものを買ってくるのだ。この前は、豪華に表装された元素周期表の銅板を持ち帰ってきた。
「ところでさ……」
 と、桐子は不意に、聞くべきかどうか迷っているような口調で言った。この母親がこんな態度を見せるのは、珍事といっていい。
「何?」
「あんたとソラちゃん、何かあったの?」
 ナツはよくわからないまま、訊きかえす。「――何かって?」
「うーん、私もうまく言えないんだけど、何だかあんたたち仲がよさそうだから。それも昨日から急に。もちろん私としてもそのほうがいいんだけど、ただちょっと、気になったのよね」
「……別に、何でもないよ」
 しばらくのあいだ黙ってから、ナツは桐子のほうは見ずに言った。
 桐子は、「そう?」と言ったきりで、深く追求はしてこない。パソコンに向きなおって、元の作業を続けた。
 そう――
 別に、何でもないのだ。
 ナツとソラが出会ったのは、ただの偶然みたいなものにしかすぎなかった。いくら親しくなろうが、約束を交わそうが、それは変わらない。それはサイコロの数字がたまたま連続して同じだったような、それだけのこと。それは配られたカードの数字がたまたま同じだったような、それだけのこと。
 そんなものはいつか、結局は終わることなのだ。
 季節がいずれ終わるみたいに、永遠には続かない。次に転がしたときには、サイコロの目は変わるし、配られたカードは何の役も作っていない。
 すべての運命は、いつか終わりを迎える――
「…………」
 ナツは一瞬、小さく胸が痛んだような気がして、そっと手をのばしてみた。
 それはたぶん、あまりに曖昧で、不確かで、何かの予感みたいにかすかなものだったせいで、ナツの指先は何にも触れられないでいた。

 ソラは買い物袋を抱えて、家までの帰り道を歩いていた。
 時刻は六時に近づこうとしていたが、夏の季節はその取り分をしっかりと主張していた。外はまだ明るく、太陽は疲れを知らない子供みたいに輝いている。それでも時折吹く風には、すでに夜の涼気が混ざっていた。
 住宅地の道路には、仕事帰りの人や、買い物に出かける主婦、何かの用事を慌てて片づけようとする人などの姿があった。昼の名残が容赦もなく追い払われ、容器は空っぽに戻されようとしている。子供たちは遊びをやめて家に帰り、一日を正しく終わらせるための準備をはじめていた。
 ソラはそんな夕暮れの、一瞬の空白みたいな時間を歩いている。
 買い物袋には、言われたとおりの材料が入れられていた。元々、家事全般をこなすことができたので、メモ通りにお使いをすますのはたいして難しいことではない。
「…………」
 歩きながら、ソラは自分の足どりが変に軽いことに気づいていた。
 足が地面より一センチくらい高いところを踏んでいる感じで、心臓がいつもとは違う鼓動の仕方をしていた。放っておくと自然と頬が弛んできそうで、そのことに少しまごついてしまう。
 買い物袋を握りなおすと、ソラはしっかりと地面を踏んで歩いていく。
 ――ソラは、嬉しかったのだ。
 帰る場所があって、そこで待っている人がいる――
 ただ、それだけのことが、この少女には嬉しかった。例えそれが子供のままごとみたいに、いつか必ず終わってしまうものだとわかっていても。いずれ返さなくてはならない、一時的な借り物みたいなものだとしても。
 それは、この不完全世界でソラが失ってしまって――
 それは、二度とは手に入らないものだと思っていて――
 ソラにはだから、たったそれだけのことが嬉しかった。この世界に、まだきちんとそれが残っているのだということがわかって。
「あれ……」
 気づいたとき、ソラは泣いていた。
 それは、ずっと上空で吹く風みたいに、何の気配もない涙だった。ただ白い雲の動きを見てそうだとわかるような、何の音も手触りもない風のような――
 ソラは涙を拭って、その跡を不思議そうに眺めた。
 自分がどうして泣いているのか、ソラには理解できなかった。まるで、空のどこかから雨粒が一つだけ落ちてきたみたいに。
 だからこの少女は、自分の本当の気持ちに気づかなかった。自分が何を望み、何を恐れているのか――
 ソラにはまったく、わかっていなかった。
「変なものだな……」
 そうつぶやいて、ソラはちょっとおかしそうに笑った。鏡をのぞきこんだら、顔に何か変なものがくっついていたみたいに。
 ソラはそして、また歩きだす。帰るべき場所を目指して。
 けれど――
 けれど、その足はすぐにとまっていた。
 どこかの公園の前である。そこにはもう誰の姿もなくて、世界が空っぽになったような景色が広がっていた。
 その公園の入口のところに、二人の男が立っている。
「あ……」
 と、ソラはそんな、言葉にもならないつぶやきをもらした。
 その男たち二人に、ソラは見覚えがあった。男たちは何をするでもなく、ただじっと立ったままソラを待っている。あの時のように苦労して探しだすことも、無理に追いかけることもない。
 ソラはほんの少しだけうつむいて、けれどそれがどういうことなのかわかっていた。
 運命はそう簡単には諦めてくれないのだと――
 ソラには、わかってしまっていた。

 食卓には料理が並んで、窓の外にはようやく夜の暗闇が広がりはじめていた。誰かが少しずつ絵の具を足しているような、ゆっくりとした広がりかただった。太陽はついに諦めてその姿を消し、別の場所に朝をもたらすために去っていった。
 夕食をとりながら、ソラはずっと笑顔を浮かべていた。桐子が何か他愛のない冗談を口にすると、ソラは手もなく笑ってしまう。本当におかしそうに、本当に楽しそうに――
 ナツは肉じゃがをつつきながら、そんな光景をぼんやりと眺めていた。
 それはたぶん、ごく普通の食事風景だった。
 家族がいて、料理が並んで、一日の報告をしたり、料理について意見したり、冗談を言ったり、笑いあったり、そんな必ず一日に一度はあるような、何ということのない光景。
 けれどソラは――
「どうかしたの?」
 と、桐子は心配そうに、ソラの顔をのぞきこんだ。
 ソラはいつのまにか、泣いていた。たぶん、自分でも気づかないうちに。
「あれ……」
 慌てたように目を拭って、ソラは小さく首を振る。自分でもおかしいな、というふうに。そしてそれだけで、この大切なものをたくさん失いすぎた少女は、もう泣こうとはしていない。
「大丈夫? 急にどうかしたの? どこか痛いとことかはない?」
 桐子は本当の母親みたいな調子で、そう訊いた。
「――何でもない。ただ、何だか嬉しかったんだ」
 そう言って、ソラは顔をあげる。
「本当の家族みたいで。私にも、家族がいるみたいで――それで、何だか涙が出たんだ」
 桐子は黙って、そんなソラを見つめている。そして、言った。
「たぶんソラちゃんは、もう私たちの家族なんだよ。本物じゃないかもしれないけど、本当の家族。ソラちゃんがそう、感じたみたいにね。それに例えソラちゃんが嫌だと言っても、私はそんなこと認めないわよ。ね、ナツもそうでしょ?」
 急に話を振られて、ナツはまごついてしまっている。
「――まあ、そうだね」
「何よそのやる気のない返事は」
 桐子は厳しかった。
「……母さんと大体同じ意見だってこと。あまり認めたくはないけど」
 それを聞くと、桐子はどこかの謎めいた猫みたいににんまりと笑っている。
「自分の感情はもっとストレートに表現したほうがいいわよ。でないと、思わぬところで後悔することになるんだから」
「たぶん母さんは、もっと奥ゆかしくなったほうがいいんだよ」
 ナツはため息をつくように、そう言った。
 そんな二人のやりとりを見て、ソラは笑っている。本当に、嬉しそうに。
「――ありがとう、二人とも」
 と、ソラは言った。
 目の端に、雨降りのあとみたいな小さな涙をにじませながら。

 夕食が終わると、ナツとソラはリビングに座ってテレビを見ていた。台所からは、桐子が洗い物をする音が小さく聞こえている。
 テレビ画面では、コップの下に置いたコインが瞬間移動するマジックが披露されていた。よくある定番の手品だったが、こうして見ると魔法よりもよほど不思議なことのような気がした。
 と――
 不意に、ソラが立ちあがっている。別におかしなところはない。ごく自然な動作だった。
「どうかしたのか?」
 と、ナツが声をかけると、
「ちょっと出かけてくる」
 とソラは言った。その言葉どおり、ソラはそのまま玄関に向かっている。
「…………」
 ナツは何となく気になって、自分もそのあとに従った。
「出かけるって、どこに?」
 玄関先に座って靴をはいているソラに向かって、ナツは訊いた。そもそも、このあたりにソラの出かけるような場所などありはしない。
「ちょっとそこまでだ」
「そこまで、って――」
 ソラは靴をはき終えて、立ちあがっている。
 そしてこの少女はちょっと不思議な目で、ナツのことを見た。
 透明で、心の底まで透けて見えてしまいそうな、そんな目で――
 それがどういう意味なのか、その時のナツにはわからなかった。わかったときには、もう手遅れだったのだ。
 ソラはそれ以上の質問と疑問を受けつけない顔で、言った。ほんの少しだけ、笑いながら。
「――いってきます」
 ナツの前で、ドアが音を立てて閉まっていた。

 時計の針が動いて、ほんの小さく空気を震わせた。
 ソラが出かけてから、もう一時間近くがたとうとしている。それはちょっと出かけてくる≠ニいうには、やはり長すぎる時間だった。窓の外では重さのない水みたいに、暗闇が徐々にその水かさを増している。どこかの王様みたいな盲目の瞳が、世界をじっと見つめていた。
 ナツはソファに座ったまま、ぼんやりと考えている。テレビもつけられていなくて、あたりは物音一つないほど静かだった。
 探しにいくべきかどうか真剣に考えはじめたあたりで、ナツはふと気づいていた。
 あの時の瞳――
 ソラのあの不思議なまなざし――
(あれは)
 と、ナツは思っている。
(あれは、何か大切なものを手放そうとする目なんじゃないかな?)
 そう思った瞬間、ナツは思わず立ちあがっていた。行動に心が追いつくまで、少し時間がかかる。息が苦しくなって、その理由が自分でもなかなかわからなかった。
「まさか――」
 と、ナツはようやく、自分でも信じられないといったようにつぶやいていた。だとしたら、ソラは……

 玄関のチャイムが鳴ったのは、そんな時である。

 ナツにはどこか、予感のようなものがあったのだろう。
 自分の部屋から顔を出す桐子に向かって、「――僕が出るからいいよ」とナツは言った。そしてそのまま玄関に向かって、扉を開ける。
 ――そこには、千ヶ崎朝美の姿があった。

――Thanks for your reading.

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