[不完全世界と魔法使いたちA 〜ナツと運命の魔法使い〜]

[二つめの予言]

 無言劇に興じる五人の道化師たち
 照明は白くならず、背景は黒くならず
 火のない煙にご用心
 鵞鳥が産んだ六つの花

 雨賀秀平は貸しビルの一室で窓枠に腰かけ、ぼんやりと外を眺めていた。
 開いた窓の外には、雑然とした裏通りの景色が広がっている。壁面にべったりと汚れをつけたビルや、あまり流行っているようには見えない飲食店。まだ昼までには間のある時間だったが、太陽はそんな光景とは裏腹にひどく明るく輝いていた。
 火のついていない煙草をくわえたまま、雨賀はそんな景色を見るともなく見つめている。
これ以上、悲しみを増やしたら、世界はもう耐えられない――そうは、思いませんか?
 そう、彼は言った。
 ずいぶん昔の話だ。その頃、雨賀はとても大切なものを失って、混乱している最中だった。世界の成りたちみたいなものが理解できず、自分が何をしているのかもよくわからなかった。すべてのことの意味がばらばらに分解し、物事が今でも問題なく継続していることに、戸惑いしか覚えなかった。
――完全世界を、取り戻したくはありませんか?
 彼は、にこやかに言った。
 とても自然に、とても簡単に。その言葉が何を意味しているのかを知りながら、そんなことはまるで問題にはならない、とでもいうふうに。
 雨賀はいろいろなことに混乱はしていたが、それでもその言葉が何を意味するのか、ということくらいは十分に理解することができた。
 それがどれだけ悪魔的なものか、ということくらいは――
 童話によくある、一種の取り引きみたいなものだったのかもしれない。願いを何でも叶えてくれる代わりに、死んだあとには魂を持っていかれる。すると人は、天国での救済は得られず、地獄の炎で永遠に焼かれ続けなければならない。
 彼の提案は、要するにそういうものだった。
 けれど――
 雨賀は結局、その取り引きに署名する。おそらくは、魂を代償に捧げて。雨賀は彼によってある男のもとへ連れていかれ、正式に契約を結ばされた。
 どうやら雨賀を誘った彼もまた、その男によって契約に隷従する一人だったらしい。ある意味では、その男が悪魔の親玉なのだった。
 そうして雨賀は結社(メンバー)≠ニ呼ばれる組織に属し、完全世界を求めることを承諾した。結果として、元々探偵を生業としていた雨賀は結社≠フ一員として様々な便益を得られることになった。そしてその代わりに雨賀は、男に対してあらゆる協力を約束することになる。今回のような依頼も、その一つだった。
 実のところ、その男が何者で何を企んでいるのかは、雨賀にはまるでわかっていない。完全世界を実現しようとしている、ということ以外は。
 しかし、それで十分だった。もしも神様がこの世界を救ってくれないのだとしたら、それが悪魔だったとしても、何の問題があるだろう?
(――魔法はそのためにこそある、か)
 雨賀はぼんやりとしたまま、最初に自分を結社≠ヨと誘いこんだ彼の言葉を思い出していた。
 その時、不意に扉の開く音がしている。
 雨賀が視線を動かすと、そこには烏堂の姿があった。相変わらずしゃれた格好をしていて、雨賀とは対照的だった。
 入口のところできょろきょろと室内の様子をうかがっていた烏堂は、
「エアコンくらい、つけたらどうなんです?」
 と、呆れるように言った。
「ああ、そうだな。暑いな」
 雨賀はけれど、ひどく気のない返事をしている。そんなことはどうでもいい、という感じだった。
 貸しビルの一室であるその部屋には、ほとんど何も置かれてはいない。本来なら事務所としてでも使えるのだろうが、今はただ表情を欠いた空間が茫漠と広がるばかりだった。寝具代わりらしいソファが取り残されたように一つあるほかは、パソコン一台、植物一鉢、置かれてはいない。倉庫として使える部屋が隣に付属していたが、そこも似たようなものだった。
「よくこんなところで暮らしてますね」
 烏堂は感心しているのか、馬鹿にしているのか、よくわからない口調で言う。
「寝る場所があれば、あとはどうとでもなるんだよ」
 窓枠に腰かけたまま、雨賀はそっけなく反論した。
「しかし、人間には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利ってのがあるはずですよね?」
「それがこれだ」
 雨賀は無慈悲に断じた。
「どうせ余った物件をただで借りているだけだからな、これ以上どうこうするつもりはない……それより、無駄口はもういいだろう。そろそろ出かけるぞ、車の用意はできてるんだろうな?」
 そう言って、雨賀はくわえていた煙草を窓から放り投げた。火はついていないので、危険というほどのことはない。
「下にありますよ」
 烏堂はどこか諦めたような口調で言う。
 二人はエレベーターを使ってビルの一階まで降りると、玄関から外に出た。車は路上に停められている。雨賀が運転席に座ると、烏堂もドアを開けて助手席に乗りこんだ。
 雨賀がキーを差してエンジンをかけようとしていると、
「――僕としては、雨賀さんのやろうとしていることは大体理解しているつもりです」
 と烏堂はぽつりと、つぶやくように言った。
「……?」
 雨賀はいったん、キーをまわすのをやめる。車内はひどく暑かった。
「でも正直なところ、今一つぴんとこないんですよ。完全世界を実現するといったって、具体的にはどうするんですか? それに、それが実現したからといって本当に何もかもうまくいくんですか?」
 雨賀は少しして、再び車のエンジンをかけながら、
「……お前にはたぶん、わからんだろうな」
 と、まるでそれが絶対的な事実であるかのように言った。
「まだそれを失ったことのないお前には、わからんだろう。それを失ったとき、世界がどうなるのか」
 何度かキーを回したとき、ようやくエンジンはかかっている。
「俺たちは完全世界を欲しているんじゃない。ただ、そうせざるをえないから、そうしているだけだ。俺たちにはただ、諦めるだけの理由が欠けているんだよ」
 雨賀はシフトバーを操作し、サイドブレーキを外して車を発進させた。暑熱にも不平を言わず、車は普段と同じように走りだす。
 しばらくのあいだ黙っていたが、
「……今日も、昨日と同じですか?」
 と、烏堂は訊いた。
「ああ、そうだ」
 雨賀は雑然とした街並みを通り抜けながら言う。
「魔法の揺らぎのあるところを探す。足どりが推測できん以上、今のところほかに有効な手段はない」
「また、この前みたいなことにならなけりゃいいんですけどね」
 烏堂はつい先日に公園で会った、奇妙な少年のことを思い出していた。おそらくあの少年によってポケットに滑りこまされたのであろう、コインのことも。
(何だったんだろうな、あれは)
 窓を開けて外の風を入れながら、烏堂はふとそんなことを考えていた。
 ――もちろん二人とも、自分たちがあの少年とこれから何度も関わりあいになるのだとは思っていない。
 それは予言者でもない二人には、わかりようのないことだった。

 朝のニュースによると、今日も一日暑くなりそうだった。
 テレビ画面の向こうでは、気象予報士がにこやかな笑顔でそれを告げている。明日世界中が大洪水に見舞われるとしても、その笑顔は変わらないのかもしれなかった。
 ナツはリビングのソファに座って、ぼんやりとそれを眺めている。時刻はすでに、学校に行く時間を過ぎようとしていた。何だかそれは、奇妙な感じだった。知らないうちに、体の一部をどこかに忘れてきてしまったような気がする。
 けれど奇妙といえば、もっと奇妙なことがあった。
 ナツの座っているソファの隣には、ソラがちょこんと腰かけている。着るものがないせいで、ソラはまだナツのパジャマ姿という格好のままだった。
 確認したところによると、ソラはテレビというものを見たことがないらしく、興味津々といった様子でその映像を見つめていた。ナツにはテレビのない家というのがうまく想像できなかったが、実際にそうだというのだからそうなのだろう。
(けど……)
 ナツが奇妙だと思うのは、もちろんそんなことではない。
 奇妙なのは、そこに透村穹という少女が座っていて、しかもそれにまるで違和感というものが感じられないことだった。この少女はずっと昔からそこにいる、という自然さで存在していた。
 どこか、狐か狸に化かされているようでもある。
「何だかな……」
 ナツは首を大きく曲げて、天井を仰ぎ見た。自分でもよくわからない種類のため息が口からもれる。
「ナツ」
 その時、不意にソラが呼びかけてきた。ナツは首を戻して、ソラのほうを見る。
「何だ?」
「駅まで荷物を取りに行きたいんだが」
 それが癖なのか、ソラはどこかの大学教授みたいな口のききかたをした。
「荷物……?」
 よくわからないので聞いてみると、ソラは着替えやら細々とした日用品やらをバッグに詰めて持ってきたのだという。それは今、駅のコインロッカーに預けられているということだった。
「昨日のうちに持ってくればよかったのに」
 とナツが言うと、「まだ泊めてもらえるかどうか、わからなかった」とソラは答えた。もっとも話ではある。
「じゃあ、まずはその荷物を取りにいくか。大体の場所とかは覚えてるよな?」
「ああ、心配ない」
 二人でそんな話をしていると、台所のテーブルから桐子が声をかけてきた。
「あら、二人で駅まで行くの?」
「ソラの荷物を取りにね。服とか、そういうの」
「服くらい買ってあげるのに。というか、私がコーディネートしてあげたかったんだけど」
「はいはい」
 慣れているので、ナツは適当にあしらっておく。
「駅まで送ってあげたいところだけど、仕事があるからちょっと無理ね。バス代は置いておくから、あとはナツのほうでよろしく。荷物があると、自転車じゃ無理でしょ?」
「了解」
「ソラちゃんの服は、あんたが昔着てたので間にあわせられるかしらね……まあ、パジャマよりはましでしょ」
 言われて、ソラはぶかぶかのパジャマの袖を掲げてみる。
 桐子はいったん別の部屋に行って、プラスチック製の衣装ケースを持ってきて二人の前に置いた。中には、もう着れなくなったナツの古着が入れられている。
「じゃあ、そういうことだから、あとはよろしくねナツ」
 そう言って桐子が出かけてしまうと、家の中は急にがらんとした雰囲気になった。機械の中から、一番重要な部品が抜き取られてしまったみたいに。
 衣装ケースの蓋を開けると、二人はその中から適当な服を選びだした。どれも男の子用のものだが、とりあえず不都合ということはない。結局、ハーフパンツにTシャツという格好に決まった。ナツは少し考えて、帽子をかぶせてやる。見ためとしては、悪くない。
「――それじゃ、行くか」
 準備が済むと、ナツはちょっと面倒くさそうに言った。
 ソラはその時にはすでに、玄関にいて靴を履きかえている。
「早く行くぞ、ナツ」
 と、この少女はひどく元気そうだった。
「やれやれ」
 ナツはため息をつくようにして、そのあとに従った。

 二人は近くのバス停まで歩いていくと、ベンチに座ってバスが来るのを待った。
 いつもなら会社員や学生が並んでいるそのバス停には、時刻が遅いのと夏休みのせいもあって誰もいない。あたりは変に静かで、車もほとんど通らなかった。二人の座っているベンチはちょうど日陰になっていたが、暑いことに変わりはない。
 ナツの隣で、ソラは相変わらず物珍しそうにあたりを眺めていた。この少女には、そんな当たり前の光景も、異国情緒あふれたものに見えているのかもしれない。
 ほどなくして、バスが停留所までやって来た。古時計みたいなぎこちなさで停車すると、接客態度が良いとはいえない乱雑さで後部のドアが開く。
 ナツが後ろの乗り口をあがって整理券を取ると、ソラもちょっと戸惑いながら同じことをした。入口近くの席に座ると、ソラもその隣に腰を落ちつける。
 ブザーが鳴って扉が閉まると、バスは律儀なくらいの緩慢さで発進した。冷房の効いた車内に、人の姿はほとんどない。
 窓の外で景色が流れはじめると、
「これは何だ?」
 と、ソラがさっきの整理券をナツのほうに向けている。
「整理券」
 ナツはそっけなく答える。
「わからん」
「つまり、それでどこから乗ったかわかるわけだ」ナツは説明してやった。「前の掲示板に料金が書いてあって、その整理券の番号のところの値段を払うんだよ」
 ソラは整理券と電光掲示板を交互に見比べていたが、しばらくして「なるほど」と感心したように言った。理解したらしい。
 そのあいだも、バスの外では風景が何の支障もなく通りすぎていった。まるで、水でも流れていくみたいに。
 ナツはそんな景色を眺めながら、
「――一つ、聞いてもいいか?」
 と、ふと思いついたようにして訊ねている。
 ソラはバスの中をきょろきょろと見まわしていたが、言われてナツのほうに顔を向けた。
「もしかしてお前、誰かに追われてるんじゃないのか……?」
 それは、何気ないセリフだった。言ったあとで、冗談だよ、と笑ってすませてしまえるような。
 けれど――
 ソラはそれを聞いて、黙ってしまっていた。
「……そうか」
 予想していたこととはいえ、ナツは反応に困った。ナツは別に、ソラのことを非難しているわけでも、迷惑に思っているわけでもない。それでも、そのことが意味するのは、冗談で片づけるわけにもいかないことだった。
「――どうして、そう思ったんだ?」
 ソラはしばらくして、そんなことを訊いた。嘘をつくにはこの少女は純粋で、たぶん――脆すぎるのだろう。不安のためか、ソラはかすかに身を小さく、固くしていた。
「前にそういう二人に会ったことがあるんだよ」
 ナツは何気ない口ぶりで、そのことを説明した。
「小学生くらいの女の子を探してるっていう二人組に。その二人は魔法使いらしくて、探しているのも魔法使いらしかった。おまけに、予言が関係しているって話だ。となれば、いかにも怪しげな女の子がいれば、もしかしたらとは思うだろうな。あくまで可能性の問題としては、だけど」
 ソラはじっと黙ったままそれを聞いていたが、やがて何かを決意するように口を開いた。
「たぶん、その二人が探しているのは私のことだと思う」
「……曖昧だな」
 ナツが言うと、ソラはちょっと困ったように首を振って、
「よくはわからない。でも、おそらくは間違いないはずだ」
「少なくとも、心当たりはあるわけだ?」
 訊くと、ソラはこくりとうなずいてみせる。
 その時、バスが停留所の一つでとまっている。一人だけ降りて、乗る人間はいない。バスは大儀そうに、またゆっくりと走りはじめた。
「あの予言は、時系列で並んでいるんだろう?」
 と、ナツは確認するように言った。
「そうだ」
「だとすると、あの予言に関わる魔法使いが五人いることになる」
 ソラは不思議そうな顔をした。
「――二つめの予言に、そう書いてある」
 とナツは説明した。
「無言劇に興じる五人の道化師たち=\―無言劇(パントマイム)、つまり言葉を使わない、使えない、というわけだ。それは魔法使いのことを意味しているんだろう。それが、五人。照明は白くならず、背景は黒くならず=\―光が混じると白に、色が混じると黒になる。だからそうはならない、つまりしばらくは何も起きない、ということなのかもしれない。この辺は何とも言えないけどな」
 ナツは比較的、どうでもよさそうなものの言いかたをした。どんな時も、この少年はあまり深刻な態度をとろうとはしない。
 けれどソラとしては、そんなわけにはいかなかった。かすかにうつむいたまま、この少女は固いガラスに罅が入るような口調で言っている。
「……私のこと怒っているのか?」
 たぶんそれは、とても勇気のいる問いかけだった。いたずらをした子供が、自分から罪を告白するような、そんな。けれど、それを聞かずにすますには、透村穹という少女はあまりに純粋で、自分の心に対して正直すぎるのだろう。
 二人は視線を交わすこともないまま、ただ黙っていた。バスの車内放送が次の停留所を告げる。目的地までは、まだ少しあった。
「――いや」
 と、ナツは言った。
「?」
「別に怒ってないし、なじったりするつもりもない。ただちょっと、呆れてるだけだよ。何というか、運命みたいなものに」
「…………」
「僕としては、このままで構わない。追われていようがいまいが、今さら放りだすわけにもいかないしな。それにうちの親が何て言うか、わかったもんじゃない」
 ナツは心底うんざりしたような表情を浮かべて、ソラにはそれが少しおかしかった。ナツは、言葉を続けた。
「それにこれは、どうせ予言されたことなんだろう? だったら、抵抗なんてしても無駄だよ。憐れな王様は結局、父親を殺してしまうんだ……まあ、夏休みのあいだの暇つぶしくらいにはなるかもな」
 そう言って、ナツはちょっとだけ笑ってみせる。冗談のように、ごく自然に。
「うん――」
 ソラはほんの少しだけうつむいたまま、
「――ありがとう、ナツ」
 と、うなずいている。
 ナツはその言葉を聞いているような、いないようなふりをした。

 終点の天橋駅に着くと、二人はバスを降りた。地面に足を着けると、何かの生き物みたいに暑さがまとわりついてくる。見あげると、青い空には誰かが念入りに磨きあげたらしい太陽が浮かんでいた。
 バスターミナルには人が多く、混雑していた。やって来たバスに、工場の生産ラインみたいにして人々がすいこまれていく。
 ナツとソラはターミナルをあとにすると、駅の入口に向かった。途中、駅にある大時計の前を通る。
 それは和風をコンセプトにした、黒と金を基調にデザインされた時計だった。文字盤には数字のほかに、十二支が並んでいる。干支の部分は季節によって、その間隔が変化する仕組みになっていた。不定時法に従って、昼と夜の長さを表しているのである。
 二人が時計を眺めると、その針はちょうど十二時のところで止まっていた。近くに注意書きがあって、「一部機能に問題が発生したため、只今一週間の予定で点検修理中です」と記されている。
「時計の螺子≠セ」
 と、不意にソラが言った。
「あ?」
 ナツが聞き返す。
「忘れたのか、一つめの予言だ。サンドリヨンの魔法が解けることはない=\―サンドリヨンはシンデレラのことだ。魔法が解けるのは、十二時。でもそれは今、止まっている」
「……なるほど」
 あらためて、ナツは時計を眺めてみた。よく見ると、針は十二時のぎりぎり手前で止まっているらしい。これなら舞踏会から慌てて逃げだすこともないだろう。
「確かに、予言通りらしいな」
 ナツが認めると、ソラは簡単にうなずいた。当然だ、と言いたいのかもしれない。
 駅の構内に入ると、空調のおかげで暑さはどこかへ行ってしまった。高い天井と広い空間には神殿のように柱が並んでいて、そのあいだを大勢の人が行き来している。
「荷物はどこにあるんだ?」
 ナツが訊くと、ソラは何か思い出すようにじっとしている。
「――確か、こっちだ」
 歩きだしたのは、駅とショッピングモールをつなぐ連絡通路のほうだった。その途中、通路の脇に蜂の巣みたいなコインロッカーが並んでいる。
 ソラはその前で足をとめると、ポケットから鍵を取りだした。同じ番号のロッカーに鍵を入れると、問題なく開く。少し大きめのバッグを、ソラはちょっと苦労して引っぱりだした。
「間違いないよな?」
 ナツは念のために訊いた。
「当たり前だ」
 言いながら、ソラは一応中身を確認している。
 バッグの中には主に衣類関係のものが詰めこまれていたが、中には年季の入った黄色いクマのぬいぐるみもあった。そういうところを見ると、異常に大人びたこの少女にも、ちゃんと子供らしいところがあるのだとわかって、ナツは何となくほっとしてしまう。
 その時――
 ふと視線を感じたような気がして、ナツは顔をあげた。
 あたりを見まわすと、駅のほうに向かうらしい人が、歩きながらこちらを眺めていた。スーツ姿をした、髪の短い二十代くらいの女性である。コインロッカーの前に子供が二人いるというのは、確かに注意を引く光景かもしれない。
 けれどナツは、それだけにしては妙な違和感を覚えていた。あの表情に含まれているのは、そんなことだけではないような――
 とはいえ、その違和感を確かめる前に女性は行ってしまっている。その女性はすぐ人ごみにまぎれて、ナツにはどうすることもできなかった。
(……気にしすぎかもな)
 ソラとあんなことを話したばかりだから、少し神経質になっているのかもしれない、とナツは思った。どう考えても、ただの通行人であるその女性に怪しいところなどなかったのだから。
 ――当然な話ではあるけれど、それが予言に関わる魔法使い五人の道化師たち≠フ一人なのだとは、ナツには気づきようもなかったのである。

(ん……?)
 駅のホームに向かいながら、千ヶ崎朝美(ちがさきあさみ)はふと通路脇のほうに視線を向けた。
 そこには子供が二人、コインロッカーの前で何かをしている。別に、どこがおかしいというわけではない。兄妹という感じでもないが、何となく仲が良さそうで、見ていると微笑ましいところがあった。
 けれど朝美が気になったのは、そんなことではない。かすかな違和感――それは決して言葉にはならない、世界の揺らぎに対するかすかな違和感だった。
 朝美は歩き続けながら、二人の子供をじっと見つめる。特に、そのうちの一方のほうを。
(あの子……)
 かすかな揺らぎを、そこからは感じることができた。蝶が羽ばたいたあとのような、ほんの微細なものではあったけれど。
(魔法――いや、違う)
 歩きながら、朝美は考えている。
 魔法だとしても、それはあの子が現に使用しているものではない。どちらかといえばそれは、魔法にかけられている、という感じだった。あの子を基点にした、何らかの魔法の――
 その時、子供のうちの一人、少年のほうがこちらを向いた。あまり長く見すぎたせいで、視線に気づいたのだろう。
 朝美は怪しくならないよう、急に視線を逸らしたりはせず、そのまま駅のホームへと歩いていった。少年はそのあいだ、歳のわりには油断のならない目つきでこちらの様子をうかがっている。
 二人から完全に見えなくなったあたりで、朝美は後ろを振り返ってみた。
 用事が終わったのか、子供たちはロッカーの前から離れていった。この距離では、さっき感じたような魔法の揺らぎを感知することはできない。それがどんな魔法なのかは、彼女には見当もつかなかった。
 気にはなったが、今のところはどうすることもできない。それに彼女には、ほかにやるべきことがあった。
 そう――
 結局のところ、それは彼女には関係のないことだった。何か問題があるならともかく、今のところは。
 少なくとも千ヶ崎朝美は、そう思っていた。そう思わない理由など、どこにもないはずだった。

 天橋市から東西にのびる七葉線、その東に向かった四つめの駅に夕凪町は位置していた。緑の山や田園風景の広がる、長閑な田舎町である。
 朝美はその駅で降りると、小さなロータリーでバスが来るのを待った。事前に調べるということをしていなかったので、本数の少ないそのバスに乗るには、あと一時間近く待たねばならない。
 彼女は薄く茶色に染めた髪をボブカットにした、理知的な感じの女性だった。ストライプの入ったスーツ姿という格好で、いかにも仕事ができそうな雰囲気がある。同時に、精度の高い部品で作られたクールな機械めいたところも。
 ほとんど人もいない寂れたその駅では、ぱりっとした身ごなしの朝美はひどく場違いな感じがした。けれど朝美自身は、そんなことは気にしていない。彼女の仕事では、訪れる場所は特に決まっていないのだ。
 小さな駅舎の中で、朝美は念のために持ってきた文庫本を開いた。ひどく暑かったが、彼女はそれをいちいち顔に出したりするような人間ではない。
 時計の針が一回り近くまわって、ようやくバスがやって来た。朝美はうんざりした様子も見せずに、そのバスに乗る。バスのほうは彼女よりずっとくたびれた感じで、苦労しながら走りはじめた。
 車内にはつまみが壊れたみたいに冷房が強くかかり、シートはスプリングの形がわかるくらいに古びていた。窓の外には密度の高そうな陽射しと、その下で光を反射する水田が広がっていた。蝉の声が、驚くほど近くから聞こえる。
 いくつか停留所を過ぎたところで、朝美はブザーを押した。バスを降りたのは彼女のほかに一人だけで、あとはもう誰も乗っていない。まるで世界の果てにでも向かうみたいに、そのバスは走り去っていった。
 歩きだして、やがて朝美は一軒の家の前に着いている。表札を確認すると、間違いないようだった。そこには「佐乃世」と、黒い墨で書かれている。
 すでに来るのを待っていたのだろう。朝美が声をかけると、家の主人は慌てた様子もなく、玄関先まで姿を見せていた。
 佐乃世来理――
 六十を少し越えた程度の、初老の女性である。顔にはそういう年齢の人だけができる、上品な笑みを浮かべていた。自然な色あいをした灰色の髪は、年月を経過した鉱物を思わせるような複雑な色あいをしている。夫にはすでに先立たれ、彼女はこの広い家に一人で暮らしていた。
「ようこそいらっしゃい。千ヶ崎朝美さん……よね?」
 と、来理は落ちついた声で言った。
「はい」
 そう言って、朝美は丁寧に頭を下げる。きちんと訓練された種類のお辞儀だった。
「本日は急にお伺いして申し訳ありませんでした、佐乃世さん」
「あら、そんなに堅苦しくなることはないのよ」
 と来理は心底歓迎するような口調で言う。
「どうせしがないおばあさんが一人でいるだけなのだから。それより、今日は遠いところをわざわざご苦労でしたね」
「いえ……」
 言いながら、朝美はさすがにあのバスの待ち時間を思って、それ以上うまく言葉を続けられなかった。
 来理はそんな朝美の様子をおかしそうに眺めていたが、
「――どうかしら朝美さん」
 と、急に話題を変えて言った。
「ちょっと、お茶でもいっしょにいかが?」
「いえ私は仕事でここまで来ましたから、どうかお構いなく」
 朝美は当然辞退したが、来理は笑顔を浮かべてやんわりとそれを無視している。
「こんなところにいると、遠くからお客さんが来てくれるのは嬉しいものよ。少しくらいおもてなしをさせてくれたって、罰は当たらないでしょう?」
「ですが――」
 朝美はそれでも断ろうとしたが、目の前の老女は百年もこの時を待っていたかのような笑顔を浮かべている。それを見ると、彼女はつい何も言えなくなってしまっていた。
「――はい、いただきます」
 結局、何だかよくわからないうちに朝美はうなずいてしまっている。
「それはよかったわ」
 来理はそれを聞くと、歳長けた魔女みたいに笑ってみせた。

 居間のガラス戸からは、家庭菜園風の小さな庭をのぞむことができた。今はその扉は開けられていて、気持ちのよい風が吹きこんでいる。部屋の空気は涼しくて、エアコンや扇風機をつける必要さえなかった。
「――どう、お口にはあうかしら?」
 お茶とお菓子を用意したテーブルを前に、来理は訊いた。
 朝美は口をつけていたカップを離し、ソーサーに置いた。鈴の鳴るような、澄んだ音が響く。そのせいでもないだろうが、お茶はひどく上品な味がした。
「ええ、美味しいです」
 本心から、朝美はそう言った。彼女には珍しく、口元に柔らかな表情を浮かべている。
「お菓子も召しあがって。どれも手製の拙いものだけど」
「いただきます」
 朝美は言って、クッキーに手をのばした。ちょっと不思議な味のするものだったが、おいしいことには変わりない。
 その様子を、来理はにっこりと微笑んで見つめていた。この人なら、こんなふうにおいしいものを作れても不思議ではない、という笑顔だった。
「何だか、魔法みたいですね」
 と、朝美はつい口がすべってしまったみたいに感想をもらした。
「ある意味では、そうかもしれないわね」
 来理はカップを両手で持って、つぶやくように言う。
「魔法とよく似た、人の知恵≠ニでも言えばいいのかしら。言葉を使わないという意味では、それだって魔法のようなものなのだから」
「そうかもしれませんね」
 と朝美はうなずく。
「私には小学生の孫がいるのだけど、この子もなかなか知恵のある、頭のよい子なのよ」
 来理はにこにことしたまま、少し自慢するように言った。
「……そのお孫さんも、確か魔法使いだそうですね」
 朝美はちょっと間を置いてから訊いた。
「ええ――」
 来理は心持ち慎重にうなずく。それを見ながら、朝美は言った。
「例の噂については知っています。彼に禁忌の魔法が使われたということは。ですが、今回佐乃世さんをお訪ねしたのは、そのことに関してではありません」
「だとしたら」
 と、来理は少しとぼけるようにして言った。
「委員会の魔法執行者(エグゼクター)≠ナあるあなたが、こんなところにまでやって来た理由というのは何なのかしら?」
 魔法委員会と執行者――
 かつての完全世界が失われ、魔法がその力のほとんどを失くしたとしても、それが世界の存在そのものを作り変えてしまう危険な力であることに変わりはなかった。魔法が作る揺らぎというのは、結局はそういうものなのである。蝶がその羽で起こす、かすかな風の揺らぎと同じで――
 だからそうした力を統御するために、何らかの組織が必要とされるのは当然なことだった。この世界を不完全ではあるにせよ、安定させておくためには。
 そうして作られたのが、魔法委員会≠セった。
 委員会の役割は、魔法使いの統制、魔法についての研究、魔術具の管理などである。歴とした国家組織だったが、もちろん一般にはその存在は知られていない。普通の人間には、魔法そのものを認識することができないからだ。
 そして魔法執行者≠ニは、その委員会の手足となって働く人間たちのことだった。彼らは委員会の指示に従って、魔法に関する調査を行ったり、監視業務にあたったりすることになる。あるいは、何らかの事件や事故に対して処理を実行することも――
「私が今日ここに来たのは、魔法管理者(コンダクター)≠ナある佐乃世さんにいくつかお聞きしたいことがあったからです」
 朝美は淡々とした口調で言った。
「それに、魔術具をいくつかお借りしたいとも思っています。おわかりただけるとは思いますが、これは委員会からの協力要請です」
「もう少しおしゃべりをしたいところだけど、そんなわけにもいかないでしょうね。委員会からのお達しとなると……」
 事務的な朝美の言葉に、来理は諦めたように首を振った。
 魔法管理者≠ニは、委員会から魔術具の管理を委託された、第三者的な立場にある協力者のことだった。地域ごとに魔法使いの中から適当なものが選ばれ、その任務に就くことになる。彼らは執行者とは違って、委員会の直接傘下にあるわけではない。
 それから、少し時間が流れている。何かの準備が整うのを待つような、そんな時間だった。
「――委員会の存在は万能というわけではありません」
 少し間をとってから、朝美はひどくあらたまった調子で言った。
「人員的にも、資金的にも、潤沢なものとはいえません。正直に言えば、すべての魔法に関する事例に委員会が関与できるわけではありません。事件にならないものや、そうだとは認知されないものもあります。何しろそれは、魔法に関することですから」
「ええ……」
 来理は軽くうなずいた。その辺のことは、彼女もよく知っている。
「ですが、委員会ではこの地域で起こったことについて調査することにしました。今年の春先までに、天橋市で起こったいくつかの不審な動きについてです。私が命じられたのは、そのことに関する予備調査でした」
 朝美はそこで、少し言葉を切った。カードゲームで、札が配られるのを待つみたいに。
「ここで何が起こったのかは、私にもまだよくわかっていません。それはもう、終わってしまったことのようにも思えます。ですが私には、ここで起きたことは委員会として看過できることではないような気がしているのです」
 彼女はそう言うと、じっとうかがうように来理のことを見つめた。カードの裏に書かれた数字を読みとろうとするような、そんな視線だった。
「――怖いわね」
 と、来理はちょっと笑うようにしてその視線をいなした。
「何だか、心を見透かされる魔法でも使われているみたいで」
「魔法の使用はしていません。魔法使い同士では、それはあまり意味のあることではありませんから」
 朝美はにこりともしないまま、面白くもなさそうに言った。
 もちろん来理にも、それはわかっていた。魔法の揺らぎを感じれば、それに対処することは難しくない。だが執行者とは、魔法に関する訓練を受けたエキスパートでもあった。もしもそうした分野に関する勝負を挑まれれば、どうなるかはわかったものではない。
 そして執行者とは、それが許された存在でもあった。
「――残念だけど」
 来理は緊張を解くように、ちょっと首を振りながら言った。
「私は何も知らないわね。この場所を離れることはあまりないし、そうした動きについては特に何も感じていないわ」
 そんな来理に対して、
――佐乃世さんのお孫さんはどうですか?
 と、朝美はそんなことを訊こうとして、けれど何故だか口を噤んでしまっていた。
 それを目の前の老婦人に訊ねるのは、ひどく酷なことのような気がした。そこで何が行われ、何が失われたのかを考えれば。あるいはさっき口にしたお茶やお菓子、その笑顔のことを思い出してしまったせいかもしれない。
「……そうですか」
 朝美は内心のことはどうあれ、外面的には事務的な態度のままうなずいてみせた。心の片隅では、これは執行者失格かもしれない、と思いながら。
「ごめんなさいね、力になれなくて」
 と来理はあくまで穏やかに、そう言った。
「いえ、仕方ありません。そう簡単に手がかりが見つかるとは、私も思ってはいませんから」
「…………」
 その言葉に、来理は曖昧な笑顔を浮かべている。
 ――もちろん来理は、朝美の言う「いくつかの不審な動き」について知っていた。ある人物を中心に起こった出来事だということを。
 彼は完全世界を取り戻すために魔法を利用し、彼女の孫である少年と対決さえしていた。少年の、その魂を狙って。
 けれど来理にはどうしても、その彼を憎むことはできなかった。彼を非難し、糾弾するような真似をする気には。
 何故ならかつて彼女もまた、同じことを願ったのだから。
 彼女の娘、宮藤未名が死んだとき……正確には、彼女が自分の命を犠牲にすることを決めたとき。
 この不完全世界を呪い――
 完全世界を求めたことが――
 だから来理には、この場で彼のことを話すことはできなかった。例えそれが、この世界に対する重大な背信行為に当たるとしても。
 二人はしばらくのあいだ、ただ黙っていた。時計の針が、無関心そうにかすかな音を立てている。
「――実のところ、今回のような件は天橋市だけで起こっているわけではありません」
 と、朝美は不意に言った。
「いくつかの地域で、同じような事例が報告されています。魔術具のやりとりや、組織的な背景を感じさせる魔法の使用についてです。それに従って、執行者も各地に派遣されています。これらのことは、私には同じ根を持ったことのように思えます。同一の集団による、共通の目的を持った一連の行為です。それがいつ頃から行われているのかはわかりません。かなり、古くからのことなのかも。ですが問題は、彼らが何を目指しているか、です」
 朝美はそこで、言葉を切った。雲で太陽が隠れたのか、さっと切り裂くように部屋の暗闇が濃くなっている。
「完全な魔法=\―」
 ぽつりと、つぶやくように朝美は言った。
「……え?」
 来理は一瞬、怪訝な顔をしている。
「特殊型の魔法は、ある時期を境に不完全な魔法≠ヨと変化します。かつて世界を変えるだけの可能性を持っていたものが、その可能性を失ってしまう」
「…………」
「完全な魔法が使えるのは、子供たちだけです。十五歳を境界とした、子供たちだけ。その時期を過ぎれば、魔法はもう不完全なものでしかなくなってしまいます。どんな魔法使いにも、その例外はありません」
 朝美はそこで、いったん口を閉ざした。太陽が現れたのか、またさっと光が入れかわっている。
「完全な魔法を失ったからといって、どうなるというわけではありません。この世界の不完全さを考えてみれば、どうとういうことは。それは悲しむことでも、嘆くようなことでもない」
 ただ、と朝美は言った。
「ただ人は、そうなってさえ完全世界を求めずにはいられません。それが魔法使いであるなら、なおのこと。かつての完全世界を知り、そこにあった力を今でも持つ人たちなら……私には最近、そのことが気になってしかたがないんです」
 千ヶ崎朝美はやや深刻な口調で、そう言った。
 まるでそれが、不吉な予言か何かであるかのように。

 数日が経過すると、ソラは久良野家での生活にすっかり慣れはじめていた。
 この少女は基本的な適応能力が高いうえに、いろいろなことを自分一人でこなす習慣を持っていた。過度の世話を人に要求することもないし、細々した家事の手伝いをてきぱきとこなすこともできる。
 それはこの少女の生い立ちに、関係があることのようだった。
 ナツは結局、詳しくは聞いていなかったが、ソラの今まで過ごしてきた生活というのは、主にそういうものだったらしい。両親も家族もいない、というのは決して誇張ではないようだった。
 そのわりには、この少女には日常生活の点ではどこにもおかしなところはなかった。むしろ好奇心が旺盛で、健康そうなやる気にあふれている。いつも目の奥を輝かせて、世界を不思議そうに眺めていた。
 まるで――
 この世界に、それだけの価値があるみたいに。
 ソラはそんなふうに、生まれたての小犬みたいな瞳で世界を眺めていたが、かといって何でもかんでも節操なく、というふうではなかった。どこかにきちんとした線引きのようなものがあって、その向こう側に行くことはない。
 それは好奇心の使いかたをよく知っている、という感じだった。
 どんなものにしろ、それはソラにとって世界の一部でしかない。だからソラという少女はその一部がどんなに面白くても、つまらなくても、できるだけ多くのものを見ようとしている。
 つまりそれは――
 世界のすべてをきちんと受けいれようとしている、ということだった。
 だからソラは、よく見て、よく聞いて、よく遊んで、よく考えて、よく眠って、よく目覚めて――日々を、よく生きようとしていた。まるで世界の手触りを、確かめるみたいに。
 例えそれが、どんな場所だったとしても――
 おそらくこの少女にとって、それはかけがえのないものだったのである。

「かつて、世界は完全だったんだ」
 と、ソラは見えない何かに囁くようにして言った。
「完全?」
 ナツはちょっとうさんくさげな顔で、ソラのことを見ている。
 二人がいるのは、マンションの屋上だった。そこには屋根のついた休憩スペースのようなものがあって、ベンチがいくつか置かれていた。川向こうで行われる花火大会なんかを、そこから見物することもできる。
 ナツとソラは何かの傷跡みたいに影のできたその屋根の下にいて、遠くの空や街並みを眺めていた。市街地のほうからは、車の音やかすかな喧騒の気配のようなものが伝わっている。
 空には白い入道雲が広がって、空気が粉々に砕け散るようなジェット機の音が聞こえていた。青空はあくまで晴れわたって、濃く青く、世界の上に浮かんでいた。
「完全てのは、どういうことなんだ?」
 ナツはベンチに座って、シャツの襟をぱたぱたやりながら訊いた。
「言葉通りだ」
 と、ソラは日陰の端に立って、遠くを見たまま答えた。この少女は、何故かあまり暑そうにしている様子はない。何か、こつのようなものがあるのだろうか。
「わからん」
 ナツは理解を放棄したような、投げやりな口調で言った。
「言葉通りの、完全な世界だ」
 ソラはようやく振り返って、もう一度言った。
「そこではすべてのものが完全だった。喜びも、悲しみも。そこでは何の間違いもなく、何の争いもなく、何一つ欠けたものはない――それが、完全世界だ」
「そんな世界、想像できない。想像できない世界なんてのは、ないのと同じだ」
「ナツは魔法が使えるんだろう?」
 と、ソラはまっすぐにナツのことを見ながら言った。
「だったら、わかるはずだ。それが完全世界にあった力なんだと。そしてそれを、お前も求めたことがあるはずだ」
 まるで鏡の中の自分を見るように深く、ソラはナツの瞳をのぞきこんだ。
 ナツは一瞬その目を見て、けれどどうしてだか目をあわせていられなくなる。真実の鏡をのぞきこんだ、醜い女王のように。
 完全世界について最初に質問したのは、ナツのほうだった。魔法使いとはいえ魔法には詳しくないナツは、そのことをソラに訊いてみたのである。
「――そういう魔法に関することは、誰に教わったんだ?」
 ナツは苦しまぎれのように、話題を変えた。
「祖父だ」
「いくつか聞いてもいいか?」
 とナツはちょっと難しそうな顔をして訊いた。
「何だ?」
「お前の両親のこと」
「……父親と母親は、まだ私が小さかった頃に亡くなった」
 ソラはそれが、何でもないことのように言った。
 いや――
 そんなふうに言ってしまうことができなければ、たぶん耐えられなかったのだろう。
「それからは、祖父といっしょに暮らしている。祖父は魔法使いだったんだ。ただ、両親はそうじゃなかったらしい」
「ふむ」
 ナツは曖昧にうなずいている。その祖父も、今はもういないというわけだった。この少女にはいったい、世界がどんなふうに見えているのだろう。
 そのままナツが何となく黙っていると、
「――お前の両親は、いい人だな」
 と、不意にソラはそんなことを言った。
 ナツはその言葉を聞いて、顔をしかめるような、戸惑うよな、呆れるような、それでいてそのどれでもないような表情を浮かべる。自分の身内を真顔で誉められるというのは、どうにも対処に困ることだった。
「どうかな」
 とナツは肩をすくめるように言う。
「――いい人だよ」
 ソラは夜が明けたばかりの窓に射す最初の光みたいな、そんな笑顔を浮かべている。そんなふうにしてこの少女に言われると、それが神様にでも保証された事実のように思えてくるから不思議だった。
 ちょっと黙ってからナツは、けれどやはり訊いてみた。
「もしも……」
 と、ナツはめったにないひどく真剣な表情をしている。
「もしも家族を、完全世界を取り戻せるとしたら――ソラはそれを、望むのか?」
 影の中で、ソラは黙っていた。
 そこにあるのは真昼の、ごく薄いヴェールのような日陰にすぎなかった。それなのに、ソラの表情は何故だかよくわからないでいる。
 世界がそっと、静まりかえったようだった。
 やがて、ソラは言った。
「私は愛されていたんだ」
「…………」
「それだけで、十分なくらい」
 ソラは透明に、その底にある感情が透けて見えるほど透明に、笑ってみせた。
 それは、とてもとても強く――
 とてもとても悲しく――
 まるで手の届かない青空を見あげるような、そんな笑顔だった。
 この少女はどうしようもなく、そんな笑顔を浮かべている。
「――どうして自分だけが残されてしまったんだろう、ってお前は思わないのか?」
 しばらくして、ナツは訊いていた。
 ソラは目をつむって、迷うことなく答えている。自分の胸の中にある、大切なものを見つめるみたいに――
「みんなが望んだから、私は生かされている。私が生きていれば、みんなの望みを叶えることができる。だから、大丈夫だ。私は一人で生きているわけじゃない」
「…………」
 ナツは黙ったまま、首を曲げて空を見あげた。
 そうしてちょっと背をのばすふりをして、空に向かって手をのばしてみる。
 けれど――
 やはりそこは空っぽなだけで、のばした手が何かに触れるようなことはなかった。

 久良野桐子がナツに向かって、
「あんたたち、どこか遊びに行ってきたら?」
 と言ったのは、ある朝のことだった。
 ナツはエアコンの効いたリビングで、ソラといっしょに夏休みの宿題を片づけていた。現状を考慮するとそれどころではない気もするのだが、その理由を担任に説明するよりは、大人しく宿題をすませてしまったほうが簡単には違いない。
「どこか?」
 ナツが面倒そうに訊きかえすと、
「これ、あげるから」
 と言って、桐子は五千円を提示した。小学生には、かなりの大金に違いない。
「お父さんが昨日、あんたたちにって」
 ナツの父親の久良野樹は、前日の夜に家を出ていた。学会だか研究発表だかで、用事があったからである。二日もすればまた帰ってくるが、樹にすれば家族サービスみたいなつもりだったのかもしれない。
「ふうん」
 と、ナツは少し考えていたが、
「じゃあ、あそこは。あの遊園地……確か、前に一度行ったことがあった」
「うん、まあいいんじゃない、あそこで。行きかたとかは、大丈夫よね?」
「たぶんわかるんじゃないかな。駅でバスを乗り換えるだけだし」
 二人の横で、ソラは今のやりとりを興味深そうに見守っていたが、
「――遊園地に行くのか?」
 と、露骨に興奮してみせた。
「ええ、そうよ」
 桐子が言うと、ソラは今時の子供にしては無邪気すぎるくらいの様子で目を輝かせている。
「よし今すぐ行くぞ、ナツ」
「その前にちょっと準備しないとね――」
 はしゃぐソラを抑えて、桐子は穏やかに指図した。
「服も着替えなくちゃならないし、ほかにも用意しなくちゃ。ナツは勝手にお願い。ソラちゃんは、私とこっちに来てね」
 二人が別の部屋に行ってしまうと、ナツのほうは自分の部屋に向かった。
 服を着替えて、少し考えてからいつものようにウエストバッグを着ける。念のために中身を確認し、いくつかの物を足した。
(まさかとは思うけどな……)
 と、ナツはあくまで用心のつもりでいる。
 それからリビングに戻ってしばらくすると、桐子に連れられたソラが姿を見せた。
「じゃーん」
 と、桐子はそんな効果音をつけている。ひどく嬉しそうだった。
 その横で、ソラはちょっと戸惑うような、困ったような表情をしている。体に大量の風船でもくっつけられたみたいに、落ちつかない様子だった。
 おそらくは桐子のコーディネートなのだろう。ソラはいつもより幾分、上等そうな格好をしていた。髪も、数日前に桐子に切られていて、全体に軽くまとまってすっきりしている。
 そのままの格好で世間に出しても、それなりに評価されそうではあった。
「――どう、可愛いでしょ?」
 と、桐子は息子にそっと耳打ちして意見を求めた。
「知らないよ、僕は」
 ナツはちょっと迷惑そうに、コメントを控えている。
「どうかしたのか?」
 そんな二人の様子を見て、ソラはかすかに首を傾げている。その姿は、何故かいつもより上品な感じがした。
「……何でもないよ」
 ナツはため息をつきながら、明言を避けた。それがどういう種類のため息なのか、自分でもわからないまま。

 その家は、ごく普通の住宅地の一画にあった。雨賀秀平はその前に車を停めると、烏堂を残して自分は外に降りている。時刻はまだ、蝉が本格的に鳴きはじめる前というところ。
 チャイムを鳴らすが、反応はない。雨賀はしばらく様子をうかがっていたが、玄関の横にまわって奥へと入っていった。不法侵入だが、家主とは知りあいだから見つかっても言い訳はできるだろう。
 塀と家のあいだの比較的広い道を通っていくと、敷地の裏手に出た。
 そこには、離れみたいな格好で独立した建物があった。ただその建物は、明らかに異質だった。何かの間違いみたいに、装飾性など一切無視して白い直方体の塊が配置されている。鉄と木材を無理やり熔かしあわせたような感じだった。
 雨賀はその建物に近づくと、正面にあったガラス戸から中をのぞきこんだ。予想したとおり、そこには家の主人がいて、何かの作業に没頭している。
 できるだけ邪魔にならないように、雨賀はガラス戸を叩いた。が、相手に気づく気配はない。しかたなく、やや強めにもう一度叩いた。
 今度は、中で気づいている。相手は手をとめて、ガラス戸の向こうをうかがった。いきなり訪問者がそこにいた、というわりには、まるで驚きも怯えもしていない。人間性に欠けた無反応さだった。
「――失礼するよ」
 雨賀は断ってから、ガラス戸を開けた。空調がかけられているわりに、中には不自然な熱気があった。おそらく、バーナーから噴きでる炎のせいだろう。コンクリートが露出しただけの室内は、外観と同じく装飾性というものに欠けていた。
「邪魔したか?」
 と雨賀が訊くと、その女性はサングラスを取って首を振った。バーナーの根元にあったバルブを操作すると、限定的な轟音を立てていた炎が消える。
 彼女の名前は、志条夕葵といった。
 三十代前半といったところの、ちょっと線の細い女性だった。整った顔立ちのわりには、無造作に切られた髪を含めて、どこか表情に乏しい感じがしている。全体に冷たい印象があったが、それは乾いた雪のように手からさらさらと滑り落ちてしまう種類の冷たさだった。そんな印象でさえ、持たれることを拒否しているかのように。
 室内には、何に使うのかよくわからない機械や工具類が置かれていた。作りかけのものらしい、妙な形の輪に似た物体も。部屋の隅には二本のボンベがあって、彼女の手元にあるバーナーと接続されている。理科の実験などで使うちゃちなものとは違って、いかにも強力で頑丈そうな代物だった。いわゆる、酸素バーナーというやつである。
 彼女がサングラスをしていたのは、炎の中で融けるガラスの容態を見極めるためだった。ガラスの造成方法のうち、バーナーワークと呼ばれるものである。彼女は、ガラス工芸作家だった。この建物は、彼女の工房なのである。
「仕事中だったのか。だとしたら、悪かったな」
 と、気を使う雨賀に対して、夕葵は首を振った。
「これは仕事というほどのものじゃないわね。あたしはキルン(電気炉)ワークが中心だから、一種の余暇のようなものよ」
 そう言う彼女の手元には、ガラスの花らしきものが一輪置かれていた。まだ未完成のようだが、余暇で作るというにはいささか精巧すぎる感じでもある。
「確か、展覧会をやってるんだったな」
 それを見ながら、世間話のような調子で雨賀は訊いた。
「ええ――」
「順調なのか?」
「興行者によれば、そうらしいわね」
「ずいぶん余裕なんだな」
「――あたしは物を作るだけよ。それがどう評価されようと、どんな値段をつけられようと、あたしの本質とは関係がない」
 夕葵はまるで表情も変えずに言った。
「クールにしてドライだな」
 と、誉めているのか茶化しているのか、雨賀は笑って言った。
 それからふと思い出したようにして、
「そういえば、あんたの娘はどこにいるんだ? フユとかいう。呼び鈴には答えなかったみたいだが」
 と雨賀は訊いた。
「夏休みの宿題とかで出かけてるわ」
「なるほどね」
 子供は子供で、大変なようだった。
「――それより、何の用なのかしら?」
 と夕葵は無表情に訊いた。
「実は、借りたいものがあってな」
「……例の魔術具とかいうやつのこと?」
「ああ、このままじゃにっちもさっちもいかなくてな」
 ――魔術具。
 それはもちろん、委員会の認めた魔法管理者≠ノしか保管を許されないものだった。しかし、志条夕葵自身は魔法使いでもなければ、もちろん管理者でもない。
 彼女が魔術具の保管をしているのは、結社≠ゥらの依頼によるものだった。そうした秘密の隠し場所を、彼らは組織していた。委員会に知られれば、もちろんただではすまないだろう。
 夕葵は立ちあがって、魔術具のある場所に雨賀を案内しようとした。が、
「……あなたたち、あの子のことは使わないのかしら。あの子の魔法は、今回のことには役立ちそうだけど?」
 ふと思いついた、という感じで夕葵は言った。
 雨賀はちょっと黙っていたが、
「子供を使うのは主義に反するんでな」
 と苦笑するように答えている。
「それに、俺みたいなむさ苦しいのにつきあわせるのも酷ってものだろう。俺には烏堂のやつで十分だよ。あいつの魔法もなかなか役に立つからな」
「――そう」
 会話は、そこで終わった。元々、二人は同じ結社≠フ一員であるということ以外に、共通点は持っていない。
 そうして目的の魔術具を借りだすと、雨賀は彼女の家をあとにした。最後に見たガラス戸の向こうでは、夕葵は何事もなかったように作業を続けている。
 実のところ雨賀は、志条夕葵が何故結社≠ノ協力するのかは知らない。
 ただ――
 それはまた、彼女も完全世界を求めたということでもあった。

 バスの中にはわりあいと人出があって、席はほとんど埋まっていた。
 ナツとソラは後ろのほうのシートに、二人で座っている。ソラは窓の外を熱心に眺めていた。そうすれば少しでも早く目的地に着ける、というように。車内には似たような子供とその親たちが、何人か乗車していた。
 その隣でナツは、特に何をするでもなくぼんやりとシートに座っていた。
「ナツは――」
 と、不意にソラは口を開いている。
「遊園地に行ったことがあるのか?」
「あるよ、けっこう前だけどな」
「楽しかったか?」
「いや――」
 何故か渋面でも浮かべそうな様子で、ナツは言った。ソラは訊く。
「どうしてだ?」
「……意味がないから、かな」
 少しだけ考えて、ナツは答えた。
「どうせ同じところをぐるぐる回っているだけで、どこにも行かないし、何も変わらないんだ。そんなことに何の意味がある?」
「嫌いなのか、そういうのが?」
「好きでも嫌いでもない……んだろうな」
 言いながら、ナツは自分でも少し馬鹿らしかった。
「別に何を感じるわけでもないんだ。ただ、どう楽しんでいいのかわからないだけなんだよ。ルールのわからないゲームみたいに。どうしてこんなものがあるんだろう、としか思わない」
「変なやつだ」
 ソラはもっともなことを言った。
「――お前は、行ったことあるのか?」
 面倒くさそうにナツが訊くと、
「ある」
 と、ソラはひどく短く答えた。遠くで聞こえる、かすかな物音に耳を澄ますみたいに。
「へえ、どうだった?」
 ナツは儀礼的に質問した。
「あまり覚えてないが、両親といっしょだった。ずっと小さいときのことだ。私は二人に手を引かれて、歩いてたんだ。はじめは何だか、怖かった。いつもとは全然違う場所だったし、遊園地というのがどういう場所なのかもわかってなかった」
「…………」
「でもしばらくしたら、私はそこが好きになっていた。夢の一部を取りだしたみたいなものだと思ったんだ。それだったら、どう楽しめばいいのかわかっていた。世界にはそんな場所もあるんだ、と思った。いくつも違うものが、世界には含まれてる。良いことも悪いことも、世界はたくさんのものでできている」
 そっと表情を和ませて、
「――そう、思ったんだ」
 ソラはそう言って、何か大切なものでもあるかのように窓の外に視線をやった。そんな何でもない風景も、遊園地の一部であるのかのように。
「…………」
 同じように、ナツもそんな風景を眺めてみる。
 それは少しだけ、さっきまでとは違っているように見えた。

 遊園地『ポラリスランド』は地方によくある、玩具のような遊園地だった。
 たいして目を引くようなアトラクションもなければ、独創的なコンセプトをしているわけでもない。誰かが何かの思いつきで作って、その思いつきが今も続いている、という感じだった。時間の流れに従いも逆らいもせずに、同じ場所で昨日と今日を送っている。
 バス停で降りて、二人は敷地の塀にそって歩いていった。やがて入口にたどり着くと、入場門の前には天球儀を模したオブジェが飾られている。中心点から二十三・四度傾いた先にあるのがポラリス=\―北極星だった。
 宇宙船の形をした入場門をくぐると、中はそれなりの人出で賑わっていた。近隣の住民がやって来るのだろう。親子連れの姿が多かった。
「早く行こう、ナツ」
 と、ソラはひどくはしゃいだ様子でナツの手を引っぱっている。
 それを押しとどめながら、ナツはとりあえず園内のパンフレットを取り、乗物券を購入した。母親に追加で資金をもらっているので、交通費や食費を含めても十分にお釣りは出る。
「それじゃ、行くか」
 ナツが言うと、ソラは一目散に走っていった。どうやら、すでに乗り物の品定めは終わっていたらしい。
「まずはこれに乗るぞ」
 と指さしたのは、定番のコーヒーカップだった。柵の向こうでは、巨大なコーヒーカップが複雑な回転軌道を描きながら回っている。奇妙な乗り物だった。
 しばらくしてそれが停まると、降りる人と入れ違いになって二人はカップに座った。ほどなくして床全体が回りはじめると、その中の小さな床も回る。そしてカップ自体も、くるくる回った。
「――ははは、すごいな、ナツ」
 何がすごいのかはわからなかったが、ナツは真ん中のテーブルを持ってカップを回した。回転速度があがると、ソラはますます笑う。それがおかしくて、ナツもつい笑ってしまった。
 コーヒーカップを手はじめに、二人は遊園地のアトラクションをいくつかまわった。ボール投げや、空中ブランコや、メリーゴーランド――
 ナツにとってそれは、やはり意味のないものだった。それらは結局、同じところに戻ってくるだけのものだった。何かを得るわけでも、どこかに到達するわけでもない。何の意味も持たないもの。
 けれどソラは、一瞬の夢にしかすぎないようなそんなもののことを、心の底から楽しんでいるようだった。
 たぶん、この少女は知っているのだろう。
 それが壊れやすい、けれどしっかり守られた夢だということを――
 だからソラは、そんな一瞬の夢を楽しむことができる。彼女は戻るべき場所を、知っているから。その夢が、戻るべきその場所のために作られたものだと知っているから。
 この少女にとって、世界は不完全であっても、どれだけ悲しくて辛い場所だったとしても――愛しいものなのかもしれない。
(もしかしたら……)
 とナツはそんな少女のことを見ながら、思っていた。
 もしかしたら世界は、本当にそんな場所なのかもしれない。
 一瞬の夢みたいにすべては輝いていて――
 この少女のように、すべてのものは愛しいのかもしれない――
 例え世界が、不完全だったとしても。
「……どうかしたのか?」
 歩いている途中で、ソラはふとそんなナツに気づいたように声をかけた。
「いや、何でもない」
 もちろんナツは、ついさっきまで考えていたことなど口にせず、そう言ってごまかしている。
 昼の時間が迫ってきたので、屋台でホットドッグを買って食べた。そうして昼食を終えてしまうと、二人はしばらく休憩していた。夏の陽射しはかすかな音を立てて地上に注ぎ、時々思い出したように風が吹いては消える。
「次はどれにするんだ?」
 と、ナツはちょっと疲れた声で訊いた。歩いてばかりいたので、少し足が痛い。
 けれどソラはひどく元気そうな様子で、
「あれがいい」
 と遠くのほうを指さした。
 ナツがその方向を見ると、そこには何かを採掘するための特殊な機械みたいなものがあった。巨大なホイールに、いくつもの籠がぶらさがっている。その単純な形状には、奇妙な威容感のようなものがあった。
 観覧車はひどくゆっくりと、古びた運命みたいに回っている。

 烏堂有也の魔法〈暗号関数〉は、ある行為による効果を、指定した条件下で発動させる≠ニいうものだった。
 それは簡単に言うと、目覚まし時計のようなものだった。ベルという効果≠、時間という指定した条件下≠ナ作動させることができる。ただしこの魔法の場合は、効果も条件も任意に選択することが可能だった。
 その烏堂は今、駅前で奇妙な杖のようなものを持って歩いている。
 杖と表現するには、それはやや特殊な形状をしていた。棒状の部分には象嵌で複雑な模様が刻まれ、上部には十字に交差した丸い輪があって、その中に鐘のようなものが吊り下げられている。ぱっと見には、何かの楽器というふうに見えなくもなかった。ただし、音を鳴らすための部品は見あたらない。
 烏堂は駅前の人ごみの中で、その杖を使って地面を叩いていた。目を閉じて、意識を集中させている。近くを通りかかる人々が、一様に奇異の視線を投げかけていた。
(――間抜けた図だ)
 と、雨賀は傍らでそれを見ながら思っていた。もっとも、間抜けですめばそれでいいが、下手をすれば不審者扱いされかねない。
 そのあいだも、烏堂は真剣な面持ちで同じ作業を続けていた。
 奇妙なその杖で地面が突かれるたび、世界にはかすかな揺らぎが生じていた。普通の人間には見ることも感じることもできないが、世界をわずかに作り変えてしまうような揺らぎが。
 探索魔法(トレーサー)≠ニ、それは呼ばれるものだった。この魔法は、存在の痕跡≠調べることができる。それによって一日くらいのあいだでなら、どんな人間がその場所にいたかを特定することが可能だった。
 ただし、存在の痕跡≠ニいってもそれは非常に曖昧なもので、せいぜいがその人物の影か足跡のようなものに過ぎない。しかも不特定多数の人間が存在する場所では、当然その識別は困難を極めた。目的の足跡が残っていたとしても、その上を踏み荒らされていれば元も子もない。
 けれどそこに、烏堂有也の〈暗号関数〉が加われば話は別だった。
 烏堂の指定した条件に従って必要な痕跡だけをふるいにかければ、目的の人物の存在証明を行うことができる。そこに痕跡さえ残っていれば、どれだけ複雑に錯綜していたとしても問題はない。どんな難解な数式であっても、正しい解に導くことができるように――
「どうだ、見つかりそうか?」
 雨賀は怪しい儀式を行っているようにも見える烏堂に、そう声をかけた。
「……いえ」
 地面を叩きながら、烏堂は答える。
 二人は駅の改札付近からはじめて、バスターミナルのほうまでやって来ていた。幸い、そのあいだに駅員に通報されるような事態は起こっていない。探索魔法≠ノ〈暗号関数〉を併用しながら、烏堂は捜索を続けていく。
 ――と、停留所の近くで、烏堂は足をとめた。
 そうして何度か確認するように、杖を突いている。
 烏堂はゆっくり目を開いて、それから雨賀のほうを見た。ようやく証明のための突破口を見つけた、というふうに。
「ありましたよ、雨賀さん」
「本当か?」
 雨賀は意外そうに言った。苦肉の策だったが、意外なことに運命には見捨てられていなかったらしい。
「間違いないです。少なくとも今日中に、彼女はここにいたようです」
「よし――」
 と雨賀は一瞬で頭を切りかえた。これでようやく、お姫様≠発見できるかもしれない。
「場所からいって、バスを利用したんだろう。経路を確認したら、車で追うぞ。経由地を一つ一つ調べていかなきゃならん」
「わかりました」
 烏堂はこくりとうなずいている。
 けれど――
(どうも、一人じゃないみたいな気がするんだけどな)
 ということは、雨賀には言わなかった。ただの偶然なのかどうか、判別しきれなかったからである。
(しかしこの感じ、どこかで覚えがあるような……?)
 烏堂は駐車場に向かって歩きだした雨賀のあとを追いながら、小さく首をひねっていた。もちろん、それが以前に公園で出会ったあの奇妙な少年のものだとは、烏堂は気づいていない。
 故障中の貼り紙をされて止まったままの大時計は、ちょうど現在時刻とほぼ同じ時間を表示していた。

 観覧車はゆっくりと、まるで時間の流れそのものが遅くなったかのような速度で空へのぼっていく。目をつむると、重力のかすかな変化まで感じとれそうなスピードだった。
 ナツとソラは向かいあわせに座って、窓の外を眺めていた。徐々に視界が開けて、世界は小さく大きくなっていった。遠くのほうに見える水平線は、二つの違う種類の青を別々にしている。
 上空に近づくにつれ、窓からは強い風が吹きこんでいた。風にはかすかな湿り気があって、雨の匂いがしている。白い入道雲が、巨大な山城みたいにすぐ近くにあった。雨が降るのかもしれない。
 ナツはぼんやりとそんな風景を眺めながら、時々向かい側のソラを観察した。この少女は嬉しそうに、いつもとは違う世界の景色に見入っていた。
 二人の乗ったゴンドラは、空の頂上に近づきつつある。
「もしも――」
 と、ナツは不意に口を開いた。何の前触れもなく、ふと風が吹いてくるように自然に。だからナツは一瞬、自分が何を言おうとしているのかわからなかった。
「……?」
 ソラが、そんなナツを不思議そうに眺めている。
「――いや」
 ナツは再び、窓の外に顔を向けながら言った。
「何でもない――揺れると少し怖いなって、思っただけだ」
 ソラは黙ったまま、そんなナツを見ていた。が、やがてまた窓の外に視線を移している。そのあいだも観覧車は、密度の固い岩盤を掘削するみたいに、少しずつ上昇を続けていた。
 もちろんその頃には、ナツは自分が何を言おうとしたのか理解している。理解して、けれどそれを訊きなおす気にはなれないでいた。
「もしも――」
 と、ナツは訊こうとしたのだ。
「もしも自分が半分になってしまったら――それでも、世界を愛することはできるんだろうか?」
 ナツはそう、訊こうとしたのだ。
 でもそれは、意味のない質問だった。本当に何の意味もない、真空中で言葉を伝えようとするような質問だった。
 やがてゴンドラは空を一周して、元の場所に戻ろうとしている。世界は以前の姿を取り戻し、重力は同じ強さで人々をとらえていた。
 けれどそこには、観覧車の上で見たあの小さく大きな世界も含まれていた。世界は時々、そんなふうに少しだけ姿を変えた。目覚める前に見る夢のように、それは一瞬ではあったけれど――

 その少し前、『ポラリスランド』には二人の男が姿を現していた。
 三十過ぎくらいの男と、まだ若い青年である。遊園地には不似あいな二人組だったが、二人は特にそれを気にした様子もなく園内に足を踏みいれている。
 火のついていない煙草を口にくわえた男が、もう一人のほうに訊いた。
「ここで間違いないのか?」
 青年は奇妙な杖を持って目をつむっていたが、
「ええ、ここです。間違いないですね」
 と、目を開けてうなずく。
「……しかし、何でこんなところにいるんだ?」
 自分たちのほうこそよほどそうであるという事実を棚上げにして、男はつぶやいた。
「どうも一人じゃないみたいですよ。ずっと気になってはいたんですけど、ここまで同じような気配がいっしょにいますから」
「ふむ?」
 男はちょっと顔をしかめたが、
「まあ何にせよ、これでようやくお姫様≠ニご対面できるわけだ」
 肩の荷が下りたといった感じで言うと、歩きだしている。
 ――遠くのほうに見える、観覧車に向かって。

 観覧車から降りると、二人は噴水の近くにあった休憩所のようなところに座った。日除けのためのパラソルが並んで、その下にテーブルとイスが用意されている。涼しげな水音が響くほかには、人の気配はどこにもない。
 ナツはすぐそこで買ったジュースを飲みながら、向こうのほうに見える観覧車を眺めていた。何となく、そこに落し物でもしてきたような気分だった。特殊な工作機械みたいな巨大なホイールは、相変わらず空をわずかに削りとって地上に移動させ続けていた。
 その時、ナツは特に油断していたというわけではない。
 もちろん四六時中、神経を尖らせて警戒していたとはいえない。けれどナツは、ソラが追われる身だということを忘れたわけではなかったし、常に意識の一部はそのことに当てていた。あの二人組のことも、頭のどこかにはきちんと残していたのである。
 それでも――

「おやおや、こんな場所で優雅にお寛ぎとはな」

 その男――雨賀秀平が声をかけてくるまで、ナツはその二人がすぐそこまでやって来ているのに気づかなかった。
(――!)
 内心の驚きを押しつぶすように処理しつつ、ナツはすばやく周囲の状況を確認した。
 ナツのすぐ隣の席には、雨賀がにやにやと笑いながら座っていた。けれどいつからそこにいたのか、ナツにはどうしても思い出せないでいる。
 そして向かいの席に座っているソラの背後には、若い男――確か、烏堂とかいう――が立っていた。手には、奇妙な杖を持っている。ソラは身動きもとれないまま、じっとしていた。
「そう思うのなら」
 と、ナツはできるだけ冷静に見えるように言った。
「邪魔しないのが、礼儀ってものじゃないですか?」
「そりゃ悪かったな」
 雨賀はおどけたように、肩をすくめている。
 周囲に、人はいない。ここで無理に助けを呼ぶと、この二人がどういう反応を見せるかは不明だった。あまり想像したくないことだけは確かである。
(いや、それよりどうしてこんな近くに来るまで気づかなかったんだ)
 ナツは落ちついて、考えている。それがわからないと、どっちにせよ同じことの繰り返しだった。
「何で気づかなかったんだろう、って顔をしてるな」
 雨賀はそんなナツの心を読んだかのように笑っている。
「潜行魔法(インビジブル)=\―そういうものがある。要するに人に気づかれにくくする魔法だ。忍者みたいなものだよ。ただし、透明になるってわけじゃない。あくまで人の注意が向かないようにするだけだ」
 煙草を一本くわえているが、何故かそれには火がつけられていない。
「まあ、この手の魔法は魔法使い同士だとあまり意味がないことが多いんだがな。魔法の揺らぎそのものは隠しようがないんだから。しかしお前はほとんどその手の訓練を受けたことがないから、気づかなかったんだろう」
 ナツは黙ったまま、雨賀の様子をじっとうかがっている。
「さてと――」
 言いながら、雨賀は首に巻いていたわっかのようなものを外し、烏堂からも同じものを受けとった。どうやらそれが、潜行魔法≠フ魔術具らしい。
 地面に置いてあったボストンバッグにそれをしまうと、雨賀は烏堂から奇妙な杖のようなものも受けとって、同じようにバッグに放りこんだ。杖は明らかにバッグに収まりきらないだけの長さを持っていたが、何の問題もなくその中に吸いこまれている。
 雨賀はそれだけのことをすませてしまうと、火のついていない煙草を指に挟んで、あらためて言った。
「ここまで説明してやったんだから、そっちのほうもいくつか質問に答えてくれるよな」
「……嫌だと言ったら?」
「まず、お前は何者だ」
 雨賀はナツの発言を頭から無視して言った。
「この娘とお前には、何の関係がある? 何故、お前たちはいっしょにいるんだ?」
「……こちらからも質問していいですか?」
「やめておいたほうがいい、とだけ言っておこう」
 ナツの迂遠なセリフに対して、雨賀はぴしゃりと言った。
「でしょうね」
 ナツはため息をつくように、どう説明すべきか考えた。が、うまい説明など思いつきそうもない。
「――〈運命遊戯〉」
 と、ナツは言った。
「ん……?」
「予言されたことらしいですよ、これは」
「……なるほどな」
 思いあたる節があるらしく、雨賀は簡単にうなずいている。
「その予言が書かれたはずの紙は、今持ってるのか?」
 ナツは首を振った。あの紙はソラが保管しているはずだったが、どちらにせよ手元にはない。魔法の揺らぎを検知すれば、それはこの二人にもすぐにわかるはずだった。案の定、「だろうな――」と雨賀は嘆息するように肩をすくめている。
「まったく、厄介な魔法だ。だが、まあいい。透村穹の身柄は確保したからな。予言のことはあとまわしだ」
 そう言うと、雨賀は口にくわえていただけの煙草を側溝に投げ捨てた。
「悪いが、予定は変更だ。お二人にはこれから、俺たちといっしょに来てもらおう。かぼちゃの馬車は用意してないがな……まあ、もう一人はおまけみたいなものだが、万一委員会の連中に見つかりでもしたら面倒なことになる」
「…………」
「ああ、そうだ」
 雨賀はことのついでだ、というふうにナツのほうを見た。
「確かまだ、名前を聞いてなかったな」
「――久良野奈津」
「そうか、ナツくんね」
 言いながら、雨賀はもちろん自分のほうから名乗るつもりはないようだった。
 それから雨賀が席を立ちあがると、ソラも烏堂に拘束されたまま立ちあがった。この少女に、抵抗する素振りはない。観念しているというよりそれは、もう少し違うもののような感じがした。二人はそのまま、遊園地の出口に向かって歩いていく。
 ナツも仕方なく、そのあとに従った。監視しやすいように、雨賀は最後尾に連なる。どうにも、逃げられそうにない。
 いつのまにか、遠くからは雷の音が聞こえて、あたりには静かな行進みたいに雨の気配が現れはじめていた。天気予報では一日中、快晴のはずではあったけれど。
「――一雨来そうだな」
 烏堂有也が途中で空を見あげ、独り言のようにつぶやいた。

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