[不完全世界と魔法使いたちA 〜ナツと運命の魔法使い〜]

「でもいちばんよかったことは家へ帰ってくることだったわ」

モンゴメリ『赤毛のアン』(村岡 花子・訳)

[予言]

 舞台は旧い約束を示す町
 盲目の王の前、半分の魔法使いに出会う
 巻き忘れた時計の螺子
 サンドリヨンの魔法が解けることはない

 無言劇に興じる五人の道化師たち
 照明は白くならず、背景は黒くならず
 火のない煙にご用心!
 鵞鳥が産んだ六つの花

 開かない扉、閉じない密室
 兎の穴はいつまでも続く
 角のないユニコーンとライオンの争い
 運命は影の中で眠る

 時計の螺子は再び巻かれ
 五人目がすべてを決定する
 心臓には十字の杭が打ち立てられ
 見えない血が世界を交わらせる
 
[プロローグ]

 学校の屋上からは、町の様子を遠くまで眺めることができた。
 平凡で、古びているほかに、その景色にとりたてて変わったところはない。天橋市は県庁所在地とはいえ、よくある地方都市の一つだった。古い歴史だけが埃みたいに積もって、そのまま残り続けている。
 梅雨も終わって季節はすっかり夏になっていた。学校も夏季休業に入ったばかりである。終業式は昼過ぎに終わり、今は校舎に残っている者もほとんどいない。
 無人の屋上では太陽の光だけが強く輝いていた。蝉の声が盛大にそれを祝福している。空だけが平気そうな顔で、高く、青く広がっていた。白い雲が、迷い出た氷山みたいな大きさで浮かんでいる。
 久良野奈津(くらのなつ)はそんな場所から、町の景色を眺めていた。
 ナツはこの彦坂小学校の、六年生だった。平均より少し高めの背丈に、少年らしい未完成の体躯をしている。すぐに気づくほどではないが、顔立ちには端正なところがあった。飾りけのない黒縁の眼鏡をかけて、その向こうにある瞳は複雑な色あいで世界を映している。
 ナツはその手に、白い紙ひこうきを握っていた。折り紙で作った、何の変哲もない代物である。
 ただしその両翼には、魔法でジェットエンジン≠ェ描きこまれていた。
 ナツはそっと、その紙ひこうきを空に向かって放ってみる。
 紙ひこうきはふわりと風に乗って、滑らかに進みはじめた。その姿にはためらいも迷いもなく、二点間の最短距離を結ぶ線――直線――で飛行していく。
 段々、指先よりも小さくなっていく紙ひこうきを、ナツはぼんやり見つめていた。魔法の力がこめられた紙ひこうきは、安定した姿勢をたもって飛び続けていく。空に何の痕跡も残すことなく。
 たぶん、ナツの魔法が切れるその時まで、紙ひこうきは飛び続けるだろう。どこかの勇敢な飛行士みたいに、うまくすれば海の向こうまでたどり着けるかもしれない。
 けれど――
 けれどそれは、どうでもいいことだった。
 その紙ひこうきが大洋の深い底に沈もうが、海を渡って見知らぬ国に到着しようが、ナツにとってはどうでもいいことだった。
 ――本当に、そんなことに意味なんてないのだ。
 夏休みになったからといって、特別な何かが起きるわけではない。季節は同じように巡り、時間はそれまでと同じような顔をして過ぎていくだけだ。
 通りすぎた時間を、もう呼び戻すことはできない。電車に乗り遅れてしまえば、いくら切符を持っていたとしても、それを見送るしかないのと同じで。
 そして過去を変えることができないように、すでに選ばれてしまった運命を変えることはできなかった。失われたものを、破られた約束を、取り戻すことはできない。それがどんなに大切な、どんなに強いものだったとしても。
 その事実が変わらない以上――
 ナツにとって、世界はいつまでも半分であり続けた。
「……本当に、意味なんてないよな」
 左目を手で覆って、ナツはもう見えなくなった紙ひこうきのあとを追った。半分だけになった、その世界の中で――

 世界は時々、残酷な運命をもたらす。
 場所や時間による偶然、ささやかな気まぐれ、ほんの小さな約束――
 ごく些細な決定が、その後の結果を大きく変化させてしまう。
 けれど与えられた選択肢の先行きを、すべて知ることはできない。
 だとしたらそんな時、人はどうするのだろう?
 絶望のまま、何を選ぶこともできなくなってしまうのだろうか。それとも、少しでも選択肢が残っていることに希望を見いだすのだろうか。
 あるいはそんな時――
 人は、サイコロでも投げるしかないのかもしれない。神様だって、そうする時はあるのだから。
 いずれにせよ、人は選ばなくてはならない。
 それがどんな結末をもたらすにせよ、どんな不完全さをこの世界に作りだすにせよ。

 ――何故なら、世界は完全ではないから。

 魔法があれば、そんな運命でさえごまかすことはできるのだろうか? イカサマをしたサイコロに、いつも同じ目を出させるように。
 かつての完全世界にあった魔法でなら、そんなことができたのかもしれない。死者を蘇らせ、すべての悲しみを消し去ってしまうようなことが。けれど、それはもう失われてしまっている。この不完全な世界では、誰も魔法など使うことはできない。魔法を使ってさえ、それが完全になることはない。
 ……この物語には、五人の魔法使いが登場する。
 本来、交わるはずのなかったその五人の運命は、奇妙な歪みによって導かれ、交錯する。宇宙の果てで平行線の交わる、非ユークリッド世界のように。
 彼らは道化のような役割を演じつつ、一つの運命をある場所へと行きつかせることになる。それが正しいことなのかどうかはわからない。望むべき最善だったのかも。
 けれど少なくとも、一つの運命にとりあえずの終わりをもたらしたことは確かだった。例えそれが、ある種の遊戯に似たものだったとしても――
 そして物事というのは基本的に、終わらなくては新しく始めることもできないのである。
 
[一つめの予言]

 舞台は旧い約束を示す町
 盲目の王の前で、半分の魔法使いに出会う
 巻き忘れた時計の螺子
 サンドリヨンの魔法が解けることはない

 鈴川公園は校区的にいえば、彦坂小学校ではなく、隣の星ヶ丘小学校に属していた。
 それでもナツが利用するのは、遠くにあるこの公園である。それには概ね、二つの理由があった。一つは、広いということ。ナツの目的からすると、これは好都合だった。何かあったときに危険が少ないし、実験がしやすくなる。
 もう一つは、家から遠いというちょうどそのことにあった。この公園なら近所の人間は誰もいないので、自分のことを気にかけられる心配もない。
 そう――
 ナツがこの公園でしていることは、あまり人に知られていいものではなかった。ナツ自身はあまりそのことを気にしてはいなかったが、それでもおおっぴらにされてしまうのはまずい。
 ――魔法。
 人によっては、そう呼ばれている。
 かつての完全世界にあった力――簡単に言ってしまうなら、それが魔法≠セった。けれどそれは、人が完全世界を失ってしまったときに、ほかの多くのものといっしょに失くしてしまった。この不完全世界に、魔法は存在しない。
 それでも、かつてあったその力は、残滓のようなものとして世界に残されることになった。そして、その力を使うことができる人間は、魔法使いと呼ばれている。
 ――君はあれが、人が言葉を得て忘れてしまった力≠セと、知っているの?
 かつて、ナツにそんなことを訊いてきた少年がいる。
 その少年自身も、魔法使いだった。ナツとは違って、きちんと訓練を受けた魔法使いである。
 ナツとその少年では、魔法に対する考えかたはだいぶ違っていた。その少年は、魔法は使うべきものではないと思っていた。ある種の禁則や、倫理違反のように。
 対してナツは、それを危険な力だとか、忌避すべきものだとは考えていなかった。使えるものを使って、何か悪いことがあるだろうか。ある意味では単純に、ナツはそう思っていたのだ。
 もちろんナツにも、それがまともなものでないことはわかっている。必ずしも人を幸福にするものでも、人を救うものでもないことは。
 けれど結局のところ、魔法にできることはたかが知れたものだった。その力はいずれ、人々から忘れられていくものでしかない。魔法を使ったところで、何かが大きく変わったり、損なわれたりするわけではない。
 魔法を使ったところで、この世界の悲しみを全部なくすことなんて、できはしないのだ。

 ナツはペダルをこぐのをやめて、ゆっくりとブレーキをかけた。公園に到着したのである。自宅のマンションからは、およそ二十分ほど。夏場になると、さすがに陽射しがきつかった。太陽は何かの理由で地球を恨んでいるのかもしれない。
 入口にある車止めを器用によけて、ナツは自転車に乗ったまま敷地内に入った。公園にはすでに何人かの子供たちがいて、夏の陽射しのもとで遊んでいる。蝉たちは飽きもせずに同じ声で鳴き続けていた。時間はいつもより、いくらか余裕をもって回っている。夏休みなのだ。
「――あ、ナツのお兄ちゃんです」
 子供たちの一人が気づいて、すぐさま近づいてきた。ほかの子たちも遊ぶのをやめて、ナツのところに集まってくる。何となく、池の鯉に餌撒きをするのに似ていた。子供たちの中には、最初の女の子とそっくりな子も混じっている。
 ナツと子供たちは当然、知りあいである。年齢はばらばらだったが、全員が星ヶ丘の生徒だった。ナツが魔法使いだということも、みな知っている。
 けれどそれは、手品師とか、奇術師とかいう認識に近い。子供たちは魔法を、不思議なものとしては理解していなかった。たぶんそれは、子供たちが魔法を必要としてはいないからだろう。彼らがこの世界の不完全さに気づくのは、もっとずっと先の話だった。
 いずれにせよ、ナツはただ子供たちを使って魔法の実験に協力してもらっているだけだった。自分の魔法にできることや、その可能性を――
「ナツのお兄ちゃん、今日はどうしたんですか?」
 と、最初の女の子が訊いてきた。
「ちょっと新しい魔法を試そうかと思ってな」
 そう、ナツが言うと、子供たちは興味津々といったふうに目を輝かせた。
 ナツの魔法――
 それは、描きこんだ記号の効果を現実化する≠ニいうものだった。「形而上の象徴を、形而下の現実に置き換える」と表現されたこともある。
 この魔法ではナツが何らかのシンボルを描きこむと、その効果が発動した。例えば、紙ひこうきの翼にジェットエンジン≠描きこめば、魔法による推力を付与することができる。
 ナツ自身には知るよしもなかったが、それは特殊型(ユニーク・タイプ)と呼ばれる種類の魔法だった。
 魔法とは、世界に対して揺らぎ≠作りだし、それに形≠与えて世界を作り変えてしまう力のことである。
 通常、魔法使いは作りだした揺らぎ≠ノ魔術具という鋳型を通して形≠与える。発光魔法(ライティング)≠竍開錠魔法(アンロック)≠ニいったこの手の魔法は、一般型(アンティーク・タイプ)と呼ばれ、魔法使いなら訓練次第で誰でも使いこなすことができるようになった。
 それに対して特殊型は、いわば自分自身を魔術具として扱う種類の魔法だった。当然ながらそれは個人によって異なるし、必ずしもすべての魔法使いが使用可能になるというわけでもない。
 ナツは魔法についての知識も、魔法使いとしての訓練も受けたことはなかったが、その特殊型の魔法を使いこなすことができた。それは一種の才能といっていいのかもしれないが、この少年自身にとってはどうでもいいことだった。使えるから、使う。それだけの話で、それ以上でも以下でもない。もしもある朝目覚めて、魔法が使えなくなっていたとしても、たいして気にはしないだろう。
 久良野奈津というのは、そういう少年だった。
「とりあえず、今日はこいつをやってみよう」
 と言ってナツがウエストバッグから取りだしたのは、電車のおもちゃだった。電池を動力にした、プラスチック製の安価なものである。
「どうすんの、それ?」
 子供の一人が、疑り深そうに言った。
「こうするんだよ」
 ナツは木の枝を拾いあげると、それを使って地面に線を引きはじめた。競技場のトラックのような、潰れた楕円型をした二本の線である。その線のあいだに、いくつも横棒を足していく。電車の線路だった。
 それから電車のおもちゃに目≠書きこんで、線路の上に乗せてスイッチを入れる。モーター以外には何もついていないはずのそのおもちゃは、即席のレールに従ってぐるぐると回りはじめた。
「すげえ」
 子供たちは感心して、自分たちでもレールを描きはじめた。電車は線路の続くかぎり、その上をどこまでも走り続けていく。魔法の効果か、電池が切れるまでは。
 ナツは木陰のベンチに座って、それを眺めていた。魔法を使ったあとの、軽い疲労感のようなものがある。それに太陽の陽射しがきつい中を、元気よく線路工事にとりかかる気にもなれなかった。
 そうやってナツが休憩していると、
「――ずいぶんと珍しいことをしているんだな」
 と、不意に声をかけられていた。
 ナツが振りむくと、そこには二人の男が立っていた。いつからそこにいたのかは、わからない。ずいぶん、ちぐはぐした印象の二人だった。
 声をかけてきたのは、三十代後半くらいの無精髭を生やした男だった。あまり身なりに気を使っている様子はなく、髪にはろくに櫛を入れられた形跡がない。もう一人のほうは大学生くらいの年齢で、雑誌で見かけそうなくらいのしゃれた格好をしていた。
「誰なんです、あんたたちは?」
 ナツは物怖じしない口調で言った。知らない大人に話しかけられたにしては、ひどく落ちついている。
「いや、ただの通りすがりだよ」
 男はナツの質問をはぐらかすように、小さく笑った。
 もう一人の若い男のほうは、広場で遊びまわる子供たちを興味深そうに眺めている。
 いや――
 正確には、子供たちが遊んでいる勝手に走る電車を、だった。
「あれをやったのは、君なんだろうな?」
 男は愛想よく笑ったまま、ナツに訊いた。その手には、何かペンダントのようなものが握られている。
「ちょっとしたおもちゃです。別に、珍しいものじゃない」
 ナツはごく平静な調子で言った。
「ほう、最近のおもちゃはよくできているらしいな。地面に描いたレールの上を走るだなんて」
 男はナツの言葉を信じているような、いないような、どこかとぼけた態度で言った。
「…………」
 ナツは返事をせずに、黙っている。何となく、嫌な感じがした。どうも、ナツの魔法のことについて気づいているようである。
 けれど男たちは、それ以上のことについて質問するつもりはないようだった。
「ところで、この辺で女の子を見かけなかったかな――?」
 と、男はことのついでといった感じで訊ねてきた。
「小学校四年生くらいの、可愛い女の子なんだけどね。俺たちはその子にちょっと用事があって探してるんだ。詳しい事情は教えられないけど、とても大事な用事でね」
「探偵、ってやつですか?」
 もう一人のほうを見ながら、ナツは訊いてみた。
「まあ、そのようなものだ。家出人の捜索をやっていると思ってもらってもいい」
 男は冗談めかした感じに笑ってみせる。
 ナツはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……そういえば、見ましたよ」
「ほう、そいつは助かるな」
「それも、二人」
「……ん?」
「ほら、あそこにいるでしょ。小学校四年生くらいの、可愛い女の子。それもそっくり同じ子が二人も」
 ナツは笑いもせず、まっすぐ広場のほうを指さした。そこには子供たちに混じって、双子の女の子が仲よく遊んでいる。
「……なるほど、確かにそうだな」
 男はちょっと苦笑してみせただけだった。子供に怒るような大人げない性格はしていないらしい。それから、
「――烏堂(うどう)、行くぞ。ここにお姫様≠ヘいないらしい」
 と、広場のほうを眺めていた男に呼びかけた。烏堂と呼ばれた男は振りむいて、「了解です、雨賀(あまが)さん」と答えている。
 ナツのほうはそれでもう話はすんだというふうに、手許で何か作業をしていた。
「邪魔をして悪かったな。もしも今度この辺で見かけない女の子を見つけたら、俺に教えてくれ……あと、あの妙なおもちゃはどこで売ってるんだ?」
「たぶん玩具屋に行けば置いてありますよ、きっと」
 ナツは下を向いたまま、ごくまじめに答えた。
「なるほど、今度探してみるとするよ」
 男はそう言うと、後ろ手に手を振って行ってしまった。そのあとを、烏堂という男がついていく。
「あ、ちょっと待ってください」
 ナツはその烏堂という男に向かって、声をかけた。
「背中に何かくっついてますよ」
 ごく自然な動作で近づいて、ナツはその背中に右手をのばした。「――ほら、糸くずです」と、ナツはその証拠品を烏堂に示した。
「本当だ。わざわざ教えてくれて、ありがとな」
 烏堂は丁寧に礼を言って、感謝した。見ためより礼儀正しい青年だった。
「いえ、どういたしまして」
 ナツは糸くずをふっと吹き払って、にこりとした。青年は、「――遅いぞ、何をしてる」と雨賀に言われて、慌てたようにそちらに向かって走っていく。
 二人を見送るようにして、ナツはしばらくその行方を眺めていた。やがて二人は公園の外にあった車に乗ると、そのままどこかへ走り去っている。
 広場では、何事もなかったかのように子供たちが遊び続けていた。

「……あれ、魔法ですよね」
 と、走りだした車の中で烏堂は言った。助手席に座って、窓の外を眺めている。別に顔をあわせたくないといった理由ではなく、それは単に人を探しているからだった。
「おそらくは、な。感知魔法≠ノひっかかったことを考えれば、そうだろう」
 運転席で、雨賀は前を向いたまま答える。
 雨賀秀平(しゅうへい)と烏堂有也(ゆうや)――
 それが、二人の名前だった。
 烏堂有也は、二十歳過ぎの大学生である。念入りに染められた髪は短く切られていて、どこか幼さの抜けきらない顔立ちをしていた。けれど軽薄そうな外見に似あわず、その視線にはぶれがなく、頭の回転の速さをうかがわせた。丸いつばの帽子をかぶっていて、音楽でもやっていそうな雰囲気がある。
 一方の雨賀は、三十代半ばくらいの年齢で、身だしなみには特に注意を払っているようには見えなかった。かといって不潔という印象はなく、それはある種の野性味として存在している。どこか茫洋とした雰囲気のわりには、目の奥にだけ硬質な光を宿していた。
 雨賀は片手で運転しながら、胸のポケットから煙草を取りだして一本口にくわえた。
「……危ないですよ、運転中に」
 窓の外を見ながら、烏堂は忠告する。
「まさか〈暗号関数(リミット・コード)〉じゃないだろうな? 見えてるのか」
 火はつけようとせずに、雨賀は言った。
「それくらいわかりますよ。第一、魔法を使ったら雨賀さんにはわかるでしょ?」
「……お前の魔法がもう少し便利だったら、こんな苦労はしなくてすんだんだがな」
 言いながら、雨賀の口調は別に叱責しているふうでもない。ただの世間話のような感じだった。
「無茶言わないで下さいよ。こっちは大学の貴重な休みを棒に振ってまで手伝いに来てるっていうのに」
「まあ、そうだな」
 どうでもよさそうに言いながら、雨賀は運転を続ける。人を探しているので、可能なかぎり徐行運転だった。
「……さっきの子供、魔法委員会(ギルド)≠フ関係者ってことはないですよね?」
 相変わらず外を見ながら、烏堂は訊いた。
「それはないだろう。ただの生意気なガキだよ、あれは」
 雨賀は面白くもなさそうに言う。
「けど魔法使いである以上、まったくの無関係ってことはないでしょう」
「いや、あれは正式な訓練を受けたやつじゃないな」
「……じゃない?」
「俺の感じでは、な。珍しいが、ありえないわけじゃない。自然に力の使いかたを覚える魔法使いだっているだろう」
「そんなもんですか」
 烏堂は言って、けれどそれ以上は関心なさそうに口を噤んだ。
「――しかし、お姫様≠ヘどこにいるんですかね?」
 しばらくして、烏堂はつぶやくように言った。
「俺の調べでは、この町までやって来たことに間違いはない」
 雨賀は事務的に答える。
「でもそれだって、もう町から出ていった可能性もあるわけでしょ?」
「そうだな」
「じゃあ、こんなのまるで無意味じゃないですか。いるかどうかもわからない人間を探すなんて」
 雨賀はいったん車を停めて、火のついていない煙草を指に挟んだ。
「お姫様≠ェこの町に来たのは、何か理由があってのことだろう。おそらく、例の魔法による予言に関することだ。とすれば、まだこの町にいる可能性は十分に高い。そう簡単に目的を果たせるとは思えないからな。だからごちゃごちゃ言ってないで、お前はお姫様≠探してりゃいいんだ。何しろ、あれは厄介な魔法だからな」
「はいはい、わかりましたよ」
 烏堂はふてくされたような態度でため息をついた。上下関係のよくわからない二人ではある。
「それから、これを使え」
 雨賀は言って、胸のポケットからペンダントのようなものを取りだしている。
 傍目から見れば、それは奇妙なことだった。
 いや、必ずしもおかしなことではない。ポケットからペンダントのようなものを取りだした、それだけのことだ。
 けれど――
 その同じポケットに、煙草の箱が入っていたとなると話は別だった。それはたいして大きくもない普通の胸ポケットで、明らかにペンダントが入るような余裕はない。そもそも、煙草が入っているにしてはまるで膨らんでいなかった。
 だが雨賀はまるで当然のことのように、そこからペンダントを取りだしている。烏堂にしても不審そうな様子などなく、それを受けとっていた。
「しかしさっきのことを考えると、これで見つかりますかね?」
 烏堂はそのペンダント、感知魔法≠フ魔術具を掲げながら、疑り深そうに言った。
「犬が歩いて棒に当たるならまだしも、生意気なガキに当たったって何にもなりませんよ」
「今のところ、それ以外に手はない」
 雨賀は車を発進させながら言った。
「魔法使いがそうごろごろいるわけじゃないんだ。魔法の揺らぎ≠探していけば、そこにお姫様≠ェいる可能性は高い。こいつは普通の家出人を探すのとはわけが違う。何しろ魔法がからんでいるんだからな」
「まあ、そうなんでしょうけどね」
 ぶつくさ言いながらも、烏堂は魔術具に意識を集中させはじめている。
「――ガラスの靴でおびきよせるわけにもいかんからな。まったく、面倒なことになったもんだ」
 雨賀はうんざりしたように言って、また煙草を口にくわえた。

(やっぱり、魔法使いか……)
 と、ナツは二人の会話を聞きながら思った。
 ナツが今いるのは、さっきと同じ公園のベンチのところである。子供たちは相変わらず線路を増やしながら遊んでいて、蝉の声が喧しかった。
 ベンチの上には、一台のラジオが置かれていた。小型の、目覚まし時計のような形のものである。そこからイヤホンをのばして、ナツは耳に当てていた。
 スピーカーの向こうからは、二人の男――車に乗っている雨賀と烏堂――の声が聞こえている。
 盗聴器――
 簡単に言うなら、そういうことだった。ナツは魔法で、ラジオを盗聴用の受信器に変えたのである。
 もちろん、そのためには発信器も必要だった。ラジオだけ盗聴器に変えても、何も聞こえてくるはずがない。
 ナツが発信器にしたのは、コインだった。カジノでチップに使うような類のものである。ナツはそこに耳≠フ記号を描きこんでおいた。そして烏堂に話しかけたあの時、そっとポケットにすべりこませたのである。手品師がよくやる手管だった。ラジオのほうには口≠ェ描きこまれている。
 しばらくして、ナツはイヤホンを外した。遠くになりすぎたのと、魔法が切れてしまったからである。ラジオからはもう、雑音しか聞こえていなかった。
 会話の感じからして、二人がナツの盗聴に気づいている気配はない。けれど問題は、そんなことではなかった。
(――探しているお姫様≠チてのは、魔法使いのことだったのか)
 どうやら、そのようだった。それがどういう魔法使いなのかはわからない。魔法による予言というのが何のことなのかも。
 とはいえそれは、結局のところナツには関係のない話だった。テレビの向こう側で起こる、いくつかの出来事や事件と同じで。それは一瞬、ナツのそばまでやって来たが、チャンネルを変えるようにしてどこかへ行ってしまっていた。
 ――行ってしまった、はずだった。
 そう、本来なら話はここまでのはずだった。ひねくれ者の魔女を招き忘れることもないし、迂闊な娘が禁じられた小部屋をのぞくこともない。話ははじまりもしないうちに、終わってしまっている。
 けれど、そこに魔法が関わったとき――
 運命は奇妙なねじれを生じさせていたのである。

 市街地の道路は変に入り組んでいて、ごちゃごちゃとしていた。駅前の商業区は十数年前から姿を変化させておらず、その光景は写真から再現されたものと同様でしかない。
 そんな旧態依然とした駅前に並ぶ建築群の一つに、北銀百貨店はあった。いわゆる老舗のデパートで、赤いレンガ造りのモダンで瀟洒な建物は、市の名所としても案内されている。
 ナツはその日、このデパートにやって来ていた。
 目的は、店舗に入っている雑貨屋などをまわることである。輸入品などのわりと珍しい品が陳列されていて、魔法のヒントになるようなものに出会うこともあった。一種の気ばらしと実益をかねた暇つぶしである。
 正午近くという時間帯のせいか、夏休みのわりに人の姿はほとんどない。ナツはエスカレーターに乗って、上のフロアに移動した。まばらな人ごみには、高所の低気圧めいた空虚感があった。
 別に何を探すわけでもなく、ナツは雑貨屋や文房具屋といった店を巡回する。スコップの形をしたスプーンや、リンゴ型の鉛筆削りや、小さなイスを積みあげていくゲームなどが並んでいた。
 十二時もまわって一通りのものを見終わると、ナツはこれからどうするかを考えた。用事というほどのものはないし、そろそろ昼食のことも考えるべきかもしれない。
 けれどナツは建物から出るようなことはせずに、もう一階上に昇ってみることにした。七階のそのフロアでは、催事場で展覧会のようなものが開かれていたのである。
 ――それは本当に、何気ない決断だった。何が特別なわけでも、重大なわけでもない。
 けれど世界が〈運命遊戯(ドゥーム・ダイス)〉の影響下にあるその時、それは単なる思いつきの行為としては終わらなかったのである。
 久良野奈津と、もう一人の少女。
 本来ならまるで無関係だったはずの二人の運命は、その時交わろうとしていた。それはただすれ違って、通りすぎていくだけの、そんな運命のはずだった。ねじれの位置にあって、絶対に交差することのない線と線のように。
 けれど、そこに魔法がかかったとき、ねじれは奇妙な歪みを見せて、幾何学的法則を超えて二本の線を重なりあわせていた。
 俗っぽい言いかたをするなら――
 その時、運命は回りはじめたのだ。

 七階の催事場で行われていたのは、ある作家の個展兼即売会のようなものだった。入口の案内表示には『Shijo Yuuki ガラスアート展 〜物語シリーズ〜』と書かれている。
 本屋やCDショップといった店に囲まれて、その会場はあった。入場料などは取らない。受付けに案内係が一人いるだけで、あとは自由に閲覧していいようだった。
 ナツは会場に入って、適当に作品を見はじめた。ほかのフロアと同じで、この展覧会にも人はほとんどいない。主婦らしい二人連れの客がいなくなると、会場にはもう誰もいなくなっていた。
 ガラスアート展というだけあって、作品はすべてガラス製である。花瓶やコップといった日用品ではなく、どれも自由造形的な装飾品だった。展示された作品はどれも、鑑賞者がいなくてもたいして気にはしていないように見える。
 特にガラス芸術に詳しいわけでもないので、ナツはこの展覧会の作者のことも知らなかった。とはいえ、小さなキャプションにつけられた題名と値段を見るかぎりでは、ゼロの数がいささか多すぎるようでもある。
 何を期待するわけでもなく、作品の一つ一つを見ていく。その途中、ナツはあるものの前でふと足をとめた。
 その作品は、ぱっと見にはよくわからない代物だった。人のようなものが、屈んでいる。その人は泣いてでもいるのか、両手で目を押さえていた。透明なガラスで作られているはずなのに、その内部にはどこか光を拒んでいるような印象さえあった。
 奇妙な形をしたその作品には、『オイディプス』と題名が表示されている。
 それは、どこかで聞いたことのある名前だった。確かギリシャ神話か何かの登場人物のはずだ。心理学で、コンプレックスの一つを表現するのにも使われていた気がする。
 ナツはずいぶん長いこと、その作品を眺めていた。
 だからこの少年は、自分のすぐ横に一人の女の子が並んでいることになかなか気がつかなかった。
「――予言によって父を殺し、母を妻としたテーバイの王は、結局そのことを知って絶望してしまい、自らその両目をえぐり、呪われた身となって大地を流浪する」
 少女は静かな声で、そう言った。
「?」
 そこでようやく、ナツは少女のことに気づいている。声のしたほうを向くと、すぐ隣に小さな女の子が立っていた。
 どうにも、見覚えのない少女である。
 年齢は十歳かそこらで、ひどく小柄な体型をしていた。澄んだ夜の三日月みたいにきれいな眉をして、髪はポニーテールにしてくくっている。シックな、ほとんど古風とさえいっていい佇まいをしていた。どこか、高山植物のような凛とした雰囲気のある少女だった。
 少女はナツと同じように、じっと作品をのぞきこんでいる。まるでそこに、大切な何かが隠されている、とでもいうふうに。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
「誰だ、お前――?」
 ナツは詰問するような口調で、鋭く言った。
 けれど少女は、まるで無反応である。何かを考えこむようにその『オイディプス』を眺めるばかりで、返事をしようともしない。
「旧い約束を示す町∞盲目の王の前=c…」
 少女はそんなことをつぶやくばかりだった。
「おい、聞いてるのか?」
 いきなり人の隣にやってきて、聞きもしない神話の解説をするなんて、こいつはどうかしているんじゃないか――
 ナツはそんなことを思っていたが、それも次の瞬間に少女がこんな言葉を口にするまでだった。
「……お前が半分の魔法使い≠ゥ?」
 少女はそう、ナツに向かって言った。その瞳は対象をまっすぐに射抜く矢のように、相手のことを見つめている。
「――――」
 ナツはとっさに、返事ができなかった。言葉につまって、けれどそれがほとんど質問の答えになってしまっている。
 いったいどうして、自分のことを魔法使いだなんていうのか――
 それも何故、半分≠セなどと――
 ナツはわけがわからないまま、警戒を強めた。この少女はいったい、何者なのか。
 けれどその時、
「くぅ――」
 という、妙に間の抜けた音が聞こえている。
 どうやらそれは、少女の腹の虫が立てた音のようだった。

 駅前のハンバーガーショップで、ナツはフロートドリンクを飲みながら少女が食事を終えるのを待っていた。
 店内は昼時だけあって、それなりに混みあっている。二人は二階にある窓際の席に座っていた。ガラスの向こう側には車や人の群れが、奇妙に現実感を欠いた陽射しのもとで行きかっている。店内にはBGMとして、一月の誕生石が曲名になった歌がかけられていた。
「透村穹(ゆきむらそら)だ」
 と、あのあとで少女は自分の名前を名乗った。
「そら?」
 ナツが訊きかえすと、
「そうきゅう≠フそら≠セ」
 と返答する。蒼穹、のことらしい。けれど、ナツにはわからなかった。小学校で習うような漢字ではない。
「…………」
 ナツはずず、と音を立ててドリンクを飲みながら、少女が食べ終わるのをぼんやりと待っていた。ナツ自身はすでに、完食している。
 ハンバーガー二つに、フライドポテトとナゲットが一つずつ。お腹が空いていたというだけあって、少女はそれらを軽く口にした。
 といって、少女が一文無しだったとか、そういうわけではない。ナツが清算をすませたあと、その分の代金を支払っている。そのくせこの少女は、丸一日近く何も食べていないということだった。理由を訊くと、思いつかなかったからだ、と言われた。何を思いつかなかったのかは、よくわからない。
(透村穹、ね……)
 今のところわかっているのは、それだけだった。ナツはいろいろ推理してみようかと思ったが、やめておく。どうせろくな見当などつきそうもなかった。
 やがてソラは、ようやく人心地ついたという感じで飲み物に手をつけている。トレイの上には汚れ一つなく、上品そうに片づけられていた。何となく、育ちのよさを感じさせるところではある。
 窓の外では横断歩道の信号が変わって、何かの実験みたいに人の流れが動きはじめていた。
「――さて、話を聞かせてもらおうかな」
 頃合いを見計らってから、ナツは言った。
「なかなか、おいしかったぞ」
「食事の感想は聞いていない」
「――そうだろうな」
 ソラは澄ました顔で、飲み物をすすっている。
「……わかってくれて、ありがたいよ」
 ナツは面白くもなさそうに言った。それから、
「どうして、僕のことが魔法使い≠セなんてわかったんだ?」
 と、一番重要なことを質問した。
 その言葉を口にするとき、ナツは特にまわりを気にしたりはしなかった。どうせ誰にもわかりはしないのだ。それが本当の話だなんていうことは――
「…………」
 ソラはその質問にすぐには答えず、
「〈運命遊戯〉だ」
 と、奇妙な単語を口にした。
「何……?」
「そういう魔法だ。未来を予言することができる。その魔法で、私はあそこでお前と――というより、魔法使いと会うことになっていたんだ」
「嘘臭いな」
 ナツは胡乱な顔で首を振った。
「ほかに、私がお前のことを魔法使いだとわかった理由があるのか?」
「いくらでもあるだろう」
 ナツは少しうんざりした調子で言った。
「例えば、あるのかどうかは知らないが、魔法使いかどうかを判別する魔法を使った、とか。あるいはそうでなくとも、はじめから僕のことを知っていた、とか」
「無意味な議論だな」
 ソラはひどく簡単に言った。
「可能性の問題だよ」
 言ってから、ナツはふと思いついたように、
「そうだ、その魔法〈運命遊戯〉か? それをここで使ってみればいい。そうすりゃ、嫌でも信じられる」
「……無理だ」
「そうだな、あそこの信号があとどのくらいで――何だって?」
「無理だ、と言ったんだ」
 ソラはごくそっけない態度で言った。
「これはそういう魔法じゃない。ハサミが接着剤にならないようなものだ。それにさっきお前と会うことと同じように、もうこの先のことも予言されている。今ここで魔法を使うことはできないが、それだったら見せてやろう」
「見せる?」
 どういうことだ、という顔をナツはした。
「〈運命遊戯〉は紙に文字として浮かびあがってくる。その文言を記してある紙が、ここにある」
「何が書いてあるんだ?」
 ナツはそう言って、ソラがポケットから取りだした紙を受けとった。四つに折りたたまれた、A4サイズのごく普通のコピー用紙である。そこにはずいぶんきっちりとした書体で、文字が書かれていた。

「 舞台は旧い約束を示す町
  盲目の王の前、半分の魔法使いに出会う
  巻き忘れた時計の螺子
  サンドリヨンの魔法が解けることはない

  無言劇に興じる五人の道化師たち
  照明は白くならず、背景は黒くならず
  火のない煙にご用心!
  鵞鳥が産んだ六つの花

  開かない扉、閉じない密室
  兎の穴はいつまでも続く
  角のないユニコーンとライオンの争い
  運命は影の中で眠る

  時計の螺子は再び巻かれ
  五人目がすべてを決定する
  心臓には十字の杭が打ち立てられ
  見えない血が世界を交わらせる     」

 その紙からは、ナツにもかすかな揺らぎ≠感じることができた。ただの気のせいかもしれなかったが、どうやらそれが魔法によるものだというのは本当らしい。
 とはいえ、ナツは文章を読みながら眉をひそめていた。これでは、どんな意味にでも解釈できそうだった。自称予言者によくある常套手段だ。
 けれど――
 半分の魔法使い
 その言葉を、ナツは無視することができなかった。訓練を受けていない半人前、半端者――解釈はいくらでもできる。
 いや、本当はナツにはその言葉の意味はわかっていた。その半分≠ェ何を意味するのかを。
「わかったか、これが予言だということが」
「いや――」
 ナツはその紙を返しながら、小さく首を振った。
「確証があるとはいえない。こんなもの、いくらでもでっちあげられるからな」
「旧い約束≠ヘ虹のことだ」
 ソラはすらすらと、淀みなく口にした。
「旧約聖書の大洪水後、神様はもう二度と同じことをしないと人間たちに告げ、その証として雨が降ったあとには虹を示すことにした。虹は天の橋、つまり天橋市のことだ。盲目の王≠ヘオイディプスを指している。最初に説明したとおりにな」
 一応、筋は通っている。
 ナツはうまい反論を思いつかなかったが、かといってソラの言葉をそのまま信じる気にはなれなかった。
「――すべてが運命だっていうなら、こんなやりとり自体に意味なんてないんじゃないのか? もう、すべては決められたことなんだろう」
 それはほとんど、言いがかりに近い発言だった。ナツ自身、あまり熱心に口にしたわけではない。
 けれど、透村穹という少女は、真剣に言った。
「――意味なら、ある」
「…………」
「意味がないなんてことは、絶対にない」
 それは強くて、そのくせ簡単に壊れてしまいそうな、そんな口調だった。透明なガラスが、ちょっとしたことで簡単に砕けてしまうみたいに。はるか空の彼方から降ってくる氷の結晶が、手のひらで音もなく融けてしまうみたいに。
 ナツは何も言えないまま、もうすっかり飲みほしてしまったドリンクのストローに口をつけた。
「ところで、お前に頼みたいことが一つある」
 と、しばらくしてソラは言った。
「何だ?」
「私は昨日から、泊まるところがない」
「……?」
 ドリンクから手を離した。
「だから、お前の家に泊めてほしい」
「……それは、何かの冗談なのか?」
「残念だが、そうじゃない」
 ナツは首を振った。どうして首を振ったのかは、自分でもわからない。
「わからん。どうして僕が、今日出会ったばかりの、友達でも何でもない見ず知らずの女の子を家に泊めなくちゃならないんだ?」
「予言がここまで私を導いた以上は、そういうことだろう」
「やっぱりわからん」
「――なら、こうしよう」
 仕方ない、というふうにソラは言った。
「今からコインを投げる。それでもし表が出たら、私をお前の家に泊めろ」
「だから、どうしてそうなるんだ?」
 ナツはちょっとうんざりしている。
「自分の家に帰ればいいだろう。この予言なら、それくらいの都合はつけられるはずだ。そもそも、何だってまた……」
「私には、もう親も家族もいない」
「――――」
「だから、それくらい構わないだろう?」
 何故だか、ナツは何も言えなかった。
 それは透村穹というこの少女が、きれいなガラス玉みたいに、あんまりにも透明に笑ったせいかもしれない。
 そのあいだにソラは財布から十円玉を取りだし、くっつけあわせた親指と人さし指の上に乗せていた。
 ――たぶんそれは、運命の分かれ道だった。
 そんなふうに、運命がやってくることもある。まるで、ちょっとした遊戯のように。
 ソラは硬貨を親指で弾いた。十円玉はぴん、という空気の割れるような音を立てて、宙をくるくると回った。少女はそれを右手でつかんでいる。
 少し間をおいてから、ソラは握った右手を開いてみせた。窓の外ではまた信号が変わって、人が動きはじめている。
 指先に乗った十円玉は、社会で習ったことのある「平等院鳳凰堂」を上にしていた。
「――表だ」
 少女はごく短く、それだけを告げた。

 冷房の効いた建物の中にいると、つい夏の暑さを忘れてしまうが、もちろん夏のほうではそれを忘れたりはしない。
 二人は高いビルのあいだを、できるだけ日陰にそって歩いていた。見あげると、空が切りとられたように小さく見える。手をのばしたくらいでは、届きそうもない高さだった。
 ナツは乗ってきた自転車を押しながら、ソラはその隣で冷たいアイスを食べながら、歩いている。アイスは抹茶のフレーバー。ソラはプラスチックのスプーンでそれをすくいながら、物珍しそうにあたりの景色を眺めていた。何がそんなに珍しいのか、ナツにはわからない。
(いや――)
 と、ちょっと憮然とした感じでナツは思っている。
(わからないことだらけだ)
 透村穹というこの少女がいったい何者なのか、どうして魔法のことを知っているのか、〈運命遊戯〉という予言のこと、それに第一、何のためにこうしていっしょにいるのか。
 もしかしたら、あの二人組の魔法使いが探していたお姫様≠ニいうのは――
「私には、もう親も家族もいない」
 ナツは少女の言葉を思い出していた。あれは、どういう意味だったのだろう。
「――意味なら、ある」
 そんな言葉が引っかかって、ナツは妙な気分を振りきれずにいた。不可解かつ理不尽でしかない状況だというのに、このまま何もかも放りだしてしまう気にもなれないでいる。
(それとも……)
 と、ナツは自転車を押しながら思っていた。
 それともこれも、魔法のせいなんだろうか――?

 ナツの家は、十階建ての分譲マンションの一画にあった。エレベーターで上まで昇って、外廊下を歩いていく。コンクリート製の胸壁の向こうには、空と雲、それに町の景色が広がっていた。マンションは市の中心部にほど近いところに建っている。
 家の前まで来ると、ナツは鍵を使って扉を開けた。両親は二人とも仕事で出かけている。
 玄関に入ると、後ろでドアが音を立てて閉まった。電気はつけていないので、目の粗い布みたいな闇があたりを覆っている。
「……妙な家だな、ここは」
 ソラは何か戸惑ったような口調で言う。
「妙って、何が?」
 ナツにはわからない。特別に変わったような家ではないのだ。
「ここには家がたくさんあるのか?」
 マンションのことを言っているらしい。今までのことから考えても、この少女は相当に浮世離れしたところに住んでいるらしかった。
「……まあ、そういうことだから、気にしなくていい」
「そうか」
 妙な問答をしながら、二人は靴を脱いで廊下にあがった。見ると、ソラは脱いだ靴をきちんと揃え直している。言葉使いのわりに、そういうところは上品な娘だった。
 リビングに着くと、ナツは電気のスイッチをつけた。そこにはソファやテレビが置かれ、こぢんまりとはしているが清潔で居心地の良さそうな空間が広がっている。向こうにはキッチンがあって、壁の時計が澄ました顔で音を立てていた。
 ソラは感心したようにあたりを見まわした。わりと好奇心の旺盛な性格らしい。まるではじめて新大陸に上陸した航海士みたいに、物珍しそうな顔をしていた。
 どうやらこの少女は、何かの都合で時間の停止した田舎みたいな場所の、古い大きな屋敷にでも住んでいたのだろう。良識のほうはともかく、ちょっと常識に欠けるところがあった。そう思うと、挙措動作もどことなく旧時代的な感じがしないでもない。
 ナツはエアコンのスイッチを入れて、ソラを居間のソファに座らせた。テレビをつけて、適当にチャンネルを変えていく。ちょうどアニメをやっていたので、それを映しておいた。
「しばらく、そこでじっとしてろ」
「――うん、わかった」
 ナツの言葉を聞いているのか、いないのか、ソラはじっとテレビ画面を見つめている。もしかしたら、テレビを見たことがないのかもしれない。
 そのあいだに、ナツは同じ居間にある電話機のところに向かった。ソラのいるほうからは、爆発音やらキャラクターのセリフやらが聞こえてくる。夏休みになってからはじまっている、『スターチャイルド』というアニメの再放送だった。
 ナツは受話器を取ると、メモを確認してからボタンを押しはじめた。しばらくコール音が続いて、相手につながる。
もしもし、桐子(とうこ)です
 そんな声が聞こえた。
「――母さん? 僕、ナツだけど」
 ナツが電話をしたのは、自分の母親だった。名前は久良野桐子という。
なに、どうかしたの?
 急に子供から電話があって、驚いているのだろう。桐子は不思議そうな声で訊いた。
「どうかしたんだよ、それが。」
 と、ナツはうんざりしたように言って、
「ところで今、大丈夫? ちょっと長い話になりそうなんだけど」
私なら大丈夫よ。ちょうど今、休憩中だから
 そのことを確認すると、ナツは一度だけ大きく息を吸ってから言った。
「実は女の子を一人、家で預かることになったんだ」
 電話の向こうに、沈黙がおりている。いろいろなものが含まれている種類の沈黙だった。
よくわからないわね。友達を家に泊めるってことなの、それは?
「いや、違う」
 面倒な嘘をつくとあとあと厄介なことになるので、その点についてはナツは正直に答えた。
じゃあ、何なの?
 何なんだろう、とナツは自問せざるをえない。
「ここではうまく説明できない」
あんたの彼女ってわけじゃないわよね?
「それはない」
 むしろ、その想像のほうがよほどおかしかった。
別に隠さなくてもいいのよ。これでも思春期の息子を持つ母親なんだから
「知らないかもしれないけど、すごくまじめな話をしてるんだよ、今は」
 会話を進めるために、ナツはとりあえずそう言っておく。
わかってるわよ、それくらい。で、どんな子なの、その子は?
「普通だよ。十歳くらいの、普通の女の子……いや、普通でもないか」
 まさか、予言に導かれてここまでやって来た魔法使い、とは言えない。
可愛い子?
「さあ、どうかな」
 母親の表情が何となく想像できたので、適当に言葉を濁しておく。
どうして家に泊まるって? 何か事情でもあるわけ?
「よくわからないけど、今日泊まるところがないんだってさ」
……ふうむ
 桐子は電話の向こうで、何かを考えているようだった。
それで、あんたはその子のことをどう思ってるわけ?
「どうって?」
 質問の意図がわからない。
信用できるかどうかってこと
「たぶん、それは問題ない」
 不本意ながら、ナツはそう言わざるをえなかった。
――なら、いいんじゃない?
 桐子はわりと、あっさりした口調で言った。
「いい?」
 何となく聞き間違いでもしたような気がして、ナツは問いかえしている。
別に構わないんじゃない、それくらい。事情はおいおい聞くとして、そんな小さな子を放っておくわけにもいかないでしょ。季節外れだけど、その辺で売れ残りのマッチに火をつけられても困るしね。それにあんたが信用してるっていうんなら、大丈夫でしょ
 信用しているとは言っていない。たぶん問題ない、と言っただけだ。
「本当に構わないわけ?」
ええ、私はね、お父さんもそう言うと思うけど。まあ、詳しい話はまたあとで
「うん――」
じゃ、そろそろ仕事に戻るから、この辺で。続きは帰ってからね
 そう言うと、桐子はナツの返事も待たずに電話を切った。
 ナツはしばらくのあいだ、無機質な信号音の響く受話器に耳を当てている。が、やがて諦めたようにそれを元に戻した。ふと気づくと、桐子はソラの名前さえ確認していない。
 ソファのところに戻ると、ソラは行儀よく腰かけたままテレビ画面をじっと見つめていた。アニメはちょうど中間のCMに入ったところである。
「面白いな、これ」
 ソラは真剣に、まるでそれがとても重要なことみたいに言った。
「やれやれ」
 ナツは何だかひどく疲れたように、ため息をついてしまっている。

 母親が帰ってきたのは、いつもより少し遅い時間だった。
 そのあいだにナツは、ソラについていくつかのことを確認している。年齢や、住んでいた町、生活環境といったことを。
 ソラは小学四年生で、天橋市からはかなり離れた織神(おりかみ)町に住んでいたということだった。ナツの予想通り、だいぶ田舎の町である。そこでごく普通の小学校に通い、暮らしていた。
 それらのことを確認していくと、ソラの言った「もう親も家族もいない」という言葉の意味は、やはりそのままのものだということもわかった。みなしご、というのだろうか。家族がいなくなった原因については聞いていない。
 しかしそれならそれで、施設に預けられるなり、親戚に引きとられるなり、とりあえずの処置のようなものがあるはずだった。一人で家出をして、わざわざ遠くの町にまでやって来る理由がわからない。ナツがそう訊くと、
「事情があるんだ」
 と答えるばかりで、ソラは詳しく語ろうとしなかった。
 ナツとしては不満の残るところだが、こうして家に連れてきてしまった以上、もうどうすることもできなかった。
「ただいま――」
 やがて家の扉が開いて、そんな声が聞こえている。ほどなくリビングに現れた久良野桐子は、土産ものらしきケーキの箱を抱えていた。
 久良野桐子は髪をきれいになでつけた、知的な感じの女性だった。全体の姿はあくまでも自然体なものだったが、仕事に関しては有能そうな雰囲気をしている。しゃれた感じの眼鏡をかけていて、目元のあたりがナツとよく似ていた。
 ナツの母親である彼女は、博物館で非常勤のスタッフとして働いている。いわゆる、学芸員というやつだった。
 桐子が姿を見せると、ソラは立ちあがって丁寧に挨拶した。
「はじめまして、ナツのお母さん。私は透村穹といいます」
「ソラちゃん?」
 言って、桐子はソラの前にかがみこんでいる。
「いい名前ね。はじめまして、私は久良野桐子。ナツの不肖の母親です」
 桐子はにっこりと笑った。ひまわりの花か何かのような、そんな笑顔である。
 それから彼女は、持ってきたケーキの箱をテーブルの上に置いた。
「ねえソラちゃん、よければケーキはどう? 紅茶もつけるわよ」
「いいんですか?」
「もちろん。さあ、どうぞ好きなのを選んでね」
 ソラがケーキの一つを選ぶと、桐子は台所のほうにまわって皿やフォークを用意しはじめた。ナツが手伝いのために同じ側にまわる。
「可愛い、いい子じゃない。どこで知りあったの、ナツ?」
 桐子はどこかうきうきした様子をしている。
「……子供の秘密だよ」
 ナツはそう、面倒そうに答えた。詳しい話などできるはずがない。
 準備ができると、三人はケーキと紅茶を置いたテーブルを囲んだ。ソラが選んだのは、パンプキンタルトだった。桐子はその横で、ソラがタルトを口にするのを幸せそうに眺めている。
「ソラちゃんは、しばらく家に泊まりたいんでしょ?」
「――うん」
 ちょっと不安そうな表情のソラに対して、桐子は笑顔を浮かべたままで言った。
「いいわよ、いつまででもいてね。私ね、ソラちゃんみたいな可愛い女の子がいてくれたらって、ずっと思ってたのよ」
「……本当に?」
「ええ、本当に。天地神明に誓って、嘘偽りなく」
 桐子はにこにことして、宣誓証明でもするみたいに右手を掲げている。するとソラのほうでも、それに感染したように笑顔を浮かべた。桐子が本心からそう言っているのだと、十分に信じられたからだろう。
「――母さん」
 そのやりとりが終わったところで、ナツは母親に対して呼びかけた。
「何よ?」
 ソラから視線を外して、桐子は邪険そうな顔をしている。
「ちょっと話があるんだけど、よろしいですかね?」
「よろしくないわよ、私、今人生で最大の幸福を味わってるんだから」
「大事な話なんだよ」
「仕方ないわね」
 桐子がそう言って立ちあがると、ナツは先にたって歩きはじめた。後ろではソファに座ったままのソラが、ちょっとうかがうように二人のことを見つめている。
 ナツは自分の部屋までやって来ると、桐子を中に入れてドアを閉めた。母親はベッドの上に座らせ、自分は机からイスを引きだして腰かけている。
「どういうこと?」「どういうこと?」
 二人の声が重なった。
 桐子は目で、ナツのほうに発言を譲る。ナツは一度咳払いをしてから、
「見ず知らずの女の子をあんなに簡単に預かるなんて、どういうことだよ?」
 と、たしなめるようにして言った。言いながら、これはセリフが逆なんじゃないだろうか、という気はしている。
「あら、あの子を泊めてほしいって頼んできたのは、ナツのほうでしょ?」
 桐子は不思議そうに言った。
「僕は積極的に提言したわけじゃない。預からなくちゃいけなくなった、と言っただけだ」
「同じことでしょ?」
「違う。母さんだったら、警察とか児童相談所とか、そういう機関にだって相談できるだろ」
「児童相談所って、あんたずいぶん難しいこと知ってるのね」
 桐子は変なところで感心した。
「――ともかく、子供の僕ならともかく、母さんなら何とかできるはずだろ」
 言われて、桐子はしばらく黙っていたが、唐突に話題を変えた。
「昔ね、捨てられた犬を見かけたのよ」
「……うん?」
「こんなちっちゃな小犬でね、ダンボールの中に入れて捨てられてたのよ」
 独り言でもつぶやくように、桐子は続けている。
「私はその小犬を見かけて、放っておけなくて家まで持って帰ったのね。でも親にだめだって言われて、仕方なく元の場所に戻したのよ。で、次の日に同じところを通りかかったら、その小犬はもういなくなってたの。ダンボールもなくなっててね。それで私は今でも、あの時の小犬はどうなったんだろうって、時々考えるわけよ」
 しばらく、ナツは黙っていた。が、話の続きがはじまるような気配はない。
「……それで?」
 と、先をうながす。
「それだけ」
 桐子は何事もなかったかのように言った。
「それだけ?」
「――なんだけど、でもね、ナツ」
 そう言って、桐子はまっすぐにナツのことを見つめた。電波望遠鏡が星の光を追いかけるような、正確で狂いのない視線だった。
「本当は理由なんていらなかったのよ。誰かを、何かを助けたいと思ったときに、理由なんか。少なくとも今は、そう思うのよね」
 ナツは何も言えなかった。何故か、何も言葉が出てこなかった。

 夕食時が近づいた頃、父親のほうも帰宅した。
 ナツの父親である久良野樹は、言語学者として民間の研究所で働いている。具体的にどんなことをしているのかは、ナツにはよくわかっていない。
 樹はどこか茫洋とした、とらえどころのない風貌をしていた。羊に似たくしゃくしゃの頭をしていて、目が糸みたいに細い。印象としては、風まかせにふわふわと宙を漂う、風船みたいなところがあった。誰の手にも無抵抗に収まるが、自由になると自然にどこかへ飛んでいってしまう。
 ソラのことを聞かされた樹は、
「へえ、何だか面白そうな話だね」
 と言うだけで、まるっきり反対などはしなかった。何が面白いのかは、ナツにはわからない。
 いずれにせよ母親が了承した時点でこうなることはわかっていたので、ナツとしては意外でも何でもなかった。樹はめったなことでは、桐子に逆らったりはしない。
 そのあと、イスを一つ足して四人で夕食になったが、ソラはずっと前からそうだったかのような自然さで食事をしている。
 ナツにはこの少女のことが、一番よくわからなかった。
 食卓を囲みながら、樹も桐子もソラのことをひどく気にいっているようだった。どうも、そういう人間的特質がこの少女には備わっているらしい。手足の長さとか、瞳や唇の形といった身体的特徴と同じような具合に。
 窓の外には宵闇が音もなく広がりはじめ、一日が終わろうとしていた。すべてが不確実な世界で、それでもそれだけは確かなことだった。
 ともあれ――
 こうして透村穹は、久良野家でしばらく暮らすことになったのである。

 その日の夜、ナツは自室で、ソラはリビングに布団を用意して寝床にしていた。
「…………」
 ナツは何となく寝つけないまま、暗い天井を見あげている。そこには蛍光灯のかすかな輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいた。どこか遠くで、誰にも聞いてもらえなかった繰り言みたいな、弱々しいエンジン音が聞こえた。
(変な話だな……)
 寝返りをうって、ナツは体を小さくたたんだ。今日一日のことを考えると、軽い混乱のようなものを覚えてしまう。いったいどうして、こんな事態になってしまったのだろう。予言、運命、半分の魔法使い――
 笑顔というには、あんまりにも透明すぎる表情――
 強くて、そのくせひどく脆そうな瞳――
 何故だかあの少女のそんなところばかりが、ナツの頭から離れなかった。
 しばらくすると、ナツはため息をついて起きあがった。水でも飲んでこようと思ったのだ。このままだと、眠れそうにない。
 ドアを開けて、キッチンに向かう。ナツは当然、ソラの寝ているリビングを通らなくてはならなかった。
 リビングは常夜灯の小さな光に照らされて、もの言わぬ薄闇がぼんやりと広がっていた。部屋の隅やテーブルの陰には、人の気配を避けるようにして暗闇が息を潜めている。ナツは眠っているソラを起こさないように、慎重な足どりで流しに向かった。コップを取って、半分くらいの水を飲む。
 その時、妙な音が聞こえた。
 何だかよくわからない、空気の管の詰まるような音である。不規則に、何かが小さく壊れるみたいに音が響いている。けれどその正体は、すぐに判明した。
 ソラが、泣いているのだ。
 できるだけ足音を立てないように、ナツはソラの眠っている場所に近づいた。薄闇は空気に押しだされるみたいにして、速やかにその位置を変える。
 少し大きめの布団の中で、ソラは目をつむっていた。その両目からは、涙が零れて跡になっている。時々、深い井戸の底に石ころでも落とすみたいにして、その口からは小さな嗚咽がもれていた。
 この少女は、親も家族さえもなくて、何のためかはわからないが一人で家を離れて、見も知らぬ家の居間でこうして眠っている。音もない暗闇の、馴染みのない空間の中で。守ってくれる人間も、頼りになるものもないまま。
 透村穹というこの少女は――
 どうしようもなく、世界に一人ぼっちだった。
(たぶん……)
 と、ナツは思った。
 この少女には、泣く権利があるのだろう。大声をあげて、喉が裂けるくらいに喚いて、世界の理不尽さを糾弾する権利が。
 けれどこの少女は――
 こんなにも小さな泣き声を、夢の中でもらしているだけなのだ。
 ナツはそっと、その涙を拭ってやった。ソラは何も気づかないまま、おそらくは悲しい夢を見続けている。そこは誰の助けも届かない場所だった。
 部屋に戻ると、ナツは机の前に座ってスタンドライトをつけている。まぶしさに一瞬目をつぶってから、ナツは赤と黒のマジックを用意し、引きだしから目的の物を取りだした。限定された光の中で、ナツはあるものを描きはじめた。

 ソラは眠りながら、いつのまにか夢の光景が変わっていることに気づいた。
 いつもは、怖い夢を見るのだ。みんなが電車に乗って、自分だけが駅に置いていかれるような、そんな夢を。名前も場所もわからないホームに立ったまま、ソラはそこから出ていくことも、電車を追いかけることもできずにいる。そして目覚めたときには、必ず呼吸が苦しくなって頬が少し濡れている。
 けれどその日、夢は途中からいつもと違っていた。一人ぼっちで取り残された駅のホームに、新しく電車がやって来たのだ。ソラがそれに乗ると、電車はどこかの動物園に到着している。そこでは動物たちはみんな檻の外にいて、ソラに向かって「踊りませんか?」と誘ってくるのだった。ゾウもキリンもカバも、みんな二本足でくるくると踊っていた。その光景はひどく愉快で、滑稽で、思わず笑いださずにはいられない――
 ――目が覚めてからも、ソラは何だかおかしくて笑ってしまった。
 そしてそんなふうに笑うことが、ひどく久しぶりだということに気づいている。
(いつからだろう……)
 最後に笑ったのがいつだったか、ソラは記憶の中を探ってみた。あれは祖父が死ぬ、どれくらい前のことだったろう――
 そんなふうにして小さく膝を抱えていると、ソラはふと枕元に何かが置いてあるのに気づいた。白いプラスチック製で、いくつかでっぱりのある円形をしていた。見ためには、懐中時計に似ている。
「――?」
 拾いあげて、ソラは蓋らしきところを開けてみた。
 それは、コンパスだった。八つの突起は太陽を表していて、中の盤面に三日月がデザインされている。磁針の先には色違いの星が二つ配置されて、流れ星みたいに小さく揺れていた。開いた方位磁石の蓋には、何かが描かれている。のぞきこむと、それが何なのかわかった。
 ――天使の、絵だ。
 パウル・クレーに似た感じの、単純な線で構成された記号的な絵だった。天使はうつむいて、両手に抱えたハートを見つめている。おなじみの心臓型をしたマークは、そこだけが赤色で描かれていた。
 その姿はどこか、子守唄を歌う母親の姿に似ている。
 しばらくのあいだ、ソラはじっとその絵を見つめていた。まだ朝もはじまらないその時間に、小さな少女はじっとその絵を――
 カーテンの向こうからは灰色の光が射して、常夜灯の光も溶けかけたように薄れはじめていた。ソラは起きあがると、ナツに借りた大きめのパジャマを引きずるようにして、少年の部屋に向かった。
 それから音のしないように扉を開け、イスのところにそっと座る。
 ナツはベッドの上で、まだ静かな夜の眠りにあった。
「――――」
 そうしてソラがぼんやりしていると、ナツはいつのまにか目を覚ましている。ソラのことに気づいても、この少年は驚きも怒りもしなかった。
「今、何時だ?」
 とナツは訊いた。
「――五時半」
「早いよ」
 苦笑して、ナツはまだ少し眠そうにあくびをする。そのあくびを噛み殺すようにして起きあがりながら、
「どうかしたのか?」
 と、ナツは訊いた。枕元の眼鏡をかける。
「これ、お前がくれたんだろう?」
 そう言って、ソラは小さな手に乗せたコンパスを示してみせた。
「――ああ」
 とナツは簡単にうなずいている。
「おかげで、怖い夢を見ずにすんだ。礼を言う」
「それはどういたしまして……」
 ナツはちょっと笑ってから、
「そういう魔法を使ったからな」
 と、種明かしをした。
「魔法?」
「ああ、そういう魔法が使えるんだよ、僕は。記号の意味を現実化するような魔法が。それは自分の居場所を示すコンパスに、魂を守ってくれる天使≠描いた」
「そうか――」
 と、ソラは何かを考えるように手の中のコンパスを見つめていたが、
「ナツは優しい魔法が使えるんだな」
 真顔で、そんなことを言った。
 ナツはそれを聞くと、思わず吹きだしてしまっている。
「お前には似あわないな、そんなセリフ」
「何だそれは、せっかく人が誉めてやっているのに……!」
 頬を膨らませて、ソラは極めて遺憾の意を示した。
 ナツはその顔を見るとますます笑ってしまい、ソラはますます不満そうな顔をした。この少女にも、そんな子供っぽいところがあるらしい。
 ――もうすぐ、一日がはじまろうとしている。
 例えそれが、どんな運命を予定しているにしろ、新しい一日が。

――Thanks for your reading.

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