「剣術などはやらぬほうが良い」 と、言われた。 体が弱い。何かの拍子に咳き込むと、それが一二分も止まず、最後に少量の血を吐いてようやくとまる、という始末だった。 「それでもやりたいのです」 とこの少年、ティル・レアリスは言った。普段おとなしい少年だったが、この点だけはひどく頑固だった。むろん、理由があって、 ――妹を守るため。 というのが、それである。両親がすでになかったため、「家族を」というのがより正確な語感であったろう。 ティル・レアリスがセルフィドの王都、ウォルフォードにある剣術道場「明真館」に通うようになったのは、トリア暦二六四年の、この少年が十歳になった頃のことである。 両親が亡くなったのは、その一年前のことだった。石工をしていた父親が事故で死ぬと、もともと体の丈夫でなかった母親も過労でほどなく亡くなってしまった。ティルの三つ違いの妹のシルフィはまだ六つの時のことで、この幼い兄妹は自分たちの境涯というものに対して、当然途方にくれた。 が、この場合ギルド(同職組合)というものがある。ティルの父親は石工ギルドに属しており、その会則にしたがって二人が自立できるまではギルドで面倒を見てくれることになった。具体的には近所に住んでいた同僚の夫婦に細々とした面倒を見てもらうことになり、この夫婦に子供がなかったため、二人は実の子供のようにして育てられることになった。 両親の葬儀から一ヶ月ほどたって、ティルは石工見習いとして働き始めたが、母親似の体の弱さのためか、 (とても、無理だ) と、自分でも思った。筋は悪くないのだが、石を削るのに普通の者の倍はかかるのである。 むろん、石工もつとまらぬのに剣術などができるのか、と言えばそうなのだが、この少年の妹のシルフィは腕白でさらに正義感の強いところがあり、いじめっ子などと強くもない喧嘩をしてティルを心配させていたらしい。ティルはそれとは対照的に大人しくて優しい性格だったが、ともかくこの妹のために剣術をやってみようとした。 剣術道場というのは都市の治安維持を負担している組織でもあり、場合によっては給金がつく。だからその点でもティルが剣術をやるというのは、まったくの無駄というわけではなかった。 結局、ティルは明真館に通うようになった。が、この道場はやぶ道場というので有名だった。腕が、少しも上達しないという。 ティルは、実のところそれはどうでも良かったらしい。この少年は病気のためか、かえって透徹としているところがあり、物事に聡く、大抵のことは自己の創意と工夫でそれなりのものに仕上げてしまう。この少年にすれば、道具と相手さえいればよかった。 (確かに、教え方が下手だ) ということは、すぐに分かった。第一、道場主で師範の役もしているトアドという老人はほとんど人に教えることがなく、たまに道場に顔を見せても眺めているだけで口を出そうとしない。 他に、師範代としてアファス・ノリアという人物もいたが、腕は二流以下といってよかった。 ところが、 「お前さんは、剣術などはやらぬほうが良い」 と、ティルがここに来て一ヶ月もした頃になって、言われたのである。 言ったのは、例のトアド老人だった。が、師範代のアファスはこの言葉をいぶかしがった。ティルは筋の悪いほうではなく、むしろ天稟を感じさせるほどなのである。 「だからさ」 とトアドは謎めいたことを言って、それ以上言おうとはしない。 (?) ティルにも、この言葉の意味は分からなかった。いや、分かるのにあと九年の時を要した、というべきかもしれない。
天稟がある、ということらしい。 それも抜群に、であった。 「あれは剣術をやるために生まれてきたような奴だ」 と、周りの大人たちから言われた。数年立った頃には道場の大人の誰もが、この少年にかなわなくなっている。 ティルの剣技の特徴は、「見切り」にあるといってよい。この少年は心がよほど平静にできているのか、相手の試刀を正確に読むことができるらしい。 「ティルとやっていると、周りが急に静かになった気がする」 と、よく言われた。心にある水面のようなものが、ティルの場合さざ波一つ立てずに静まっているのである。対戦者も、自然とそれに感化される、ということであろう。 ティルはその静まりきった湖面のような心に相手の心を映し、動きを映し、羽毛が空気に流されるようにして、ごく自然に相手の試刀を避けていく。 避けて、やがて相手の姿勢が崩れたところを、 ――やっ。 と言って、瞬速に打ち込む。その瞬間だけが、唯一この少年の意志が発揮されるところで、対戦者は湖面から巨魚が現れるような驚きを覚える。 ティルのこういう戦い方は、ある意味では必然であったのかもしれない。体が弱く、打ちに力が入らない。下手に試刀数を多くしていれば、勝手にこちらの体力は削られていくのである。 だから、一撃で決めてしまう。 といって、そういう合理性だけからきているとも、この少年の場合おもえない。ティルの病状が悪化するのは十七の頃からのことだが、そういう自分に対する予感のようなものが、この少年の心に微妙な影響を与えていたようでもある。 例えば、まだ十二、三の頃にティルは養母のようになっている例の同僚のおばさんであるメルアという人に市に連れて行ってもらったことがある。 この市は王都で開かれる定期市で、普段とは違って他の国々の珍しい品や、見たことのない食物が並ぶ。その中で、ティルは生きた鳥が解体されるのを見たのだが、その手を引っ張っているメルアが妙だと思うほど、この少年は不思議な眼をしていた。 悲しんでいるか、といえばそうでもなく、どちらかと言えばただ呆然としたようにじっとそれを見つめている。 あとでメルアは、 「あの鳥がそんなに気になったの?」 と、訊いてみた。 ティルはちょっと首を振って、 「そうじゃないんだけど」 言いながら、言葉どおりでない表情をこの少年はしている。 メルアがしつこく問いただしてみると、 「あの鳥は、どうして死んだのかな?」 とティルは、子供にしてはひどく妙な質問をした。 「――」 メルアは答えられずに、困った表情をするしかない。「食べられるため」という以外、答えようがないようにも思えた。 「ティルはあの鳥をかわいそうだと思ったの?」 子供らしくそう思ったのかとおもって、逆に訊いてみた。 「そうじゃ、なくて」 ティルはメルアの手を強く握って、なにか、今にもこの少年が消えてなくなってしまいそうな、そんな儚げな表情をして見せた。 「人はどうして死ぬのかな?」 そんなことを、訊く。両親を亡くしているだけに、この少年にとってそれは誰よりも切実な実感を帯びていたといって良さそうである。 だけでなく、あるいはティル自身手をのばせば触れられるほどの実感を「死」というものに持っていたのかもしれない。 「どうして……」 メルアは、なおも困ったような表情をしている。ごく普通に暮らしてきた彼女にすれば、かけてやる言葉もないような気がした。 ティルは普段ひとに迷惑をかけるようなことはごく自然にさける性格だったが、この時は、 「あの鳥が死んだのと、人が死ぬのは、どうして違うのかな」 と、ティル自身なにか、必死にすがりつくようにして訊いた。この少年は死ということより、死の意味というものにより強い関心を持っていたらしい。 「人は、死んではいけないものなの?」 ティルは、そんなことを言った。 メルアは結局こたえられずに、無言のままティルの手を引いて帰らざるをえなかったが、ティルという少年にはどこか、「死」というものを人よりも一段深いところで考えるようなところがあったらしい。 一撃で決める、というのはいわば完結させようということだろう。試合が始まってそれが終わるまでを、ティルは明瞭な一本の線としたいのである。 だから、決める時には一撃で決めてしまいたい。何度も撃ちを外して、決まったのか決まっていないのかはっきりしないことは、避けたかったに違いない。 剣術にしてもそうだが、この少年はどこか、生きるという上で存在意義の希薄な自分を、できるだけはっきりとしたものにしたいと思っていたようでもある。
ティル・レアリスがフィルディスという、生きる上でティルとは逆に苛烈なほどの自己規定を行っている少年に出会ったのは、二六九年の七月ごろのことだった。 剣術道場というのは一面、町の治安維持も請け負っていて一定区域内の夜回りをすることになっている。 これに給金が出るために、ティルは少年の身ながら早くから参加していたが、この頃、 「ノース地区の裏通りに悪霊が出る」 という、奇怪な噂が流れはじめた。その地区がまたたく間に拡大して、明真館が警備を担当するアザ地区まで広まってきた。 明真館でも、実際に遭ったという者が出はじめている。 「どうしました?」 とティルは、その悪霊に遭ったという先輩に訊いてみたが、 「それが」 と、どうも不得要領で、 「試合を挑まれたんだが、わけの分からぬうちに負けてしまった。打たれた証拠に……」 と頭のこぶを示して見せて、 「この通りなんだが、俺にはよく分からん。本当に悪霊だったような気もする」 まるで夢でも見ていたような面持ちで言った。 ティルは人間が生きているということ自体に不思議を感じているためか、こういう奇談怪談の類をごく自然な感情として信じていない。 が、このときは別の興味から、 「しばらく夜警のほうに回してください」 と非番の日であっても夜回りについて行きたい、とトアドに告げた。 トアドとしては別に断るほどの理由はなく、「構わない」といって許可しておいた。 その日からティルは試刀を持ってほかの二人の門生と町中の夜回りにつとめたが、例の悪霊にはあえない。 数日むなしく過ごしていたが、七月二十日の夜、ようやく遭った。 巡回が終わった帰り道のことである。この日、月が出ていた。 「あんたは明真館の人だな」 と、一人で帰っている時に、声をかけられたのである。 ティルはそちらのほうを向くと、なにかの面のようなものをかぶった人間が、三ディル(三メートル)ほど向こうに立っていた。背格好は、十五、六の少年といったところだろう。 その人影は、 「勝負してもらいたい」 と言って、木刀を構えた。なるほど、道場の先輩が言ったとおりである。 ティルは黙ったまま、試刀を正眼に構えた。道は、ニディル(二メートル)ほどの幅で高低差はない。 人影のほうは木刀を上段にとって、すさまじいほどの攻撃の構えを見せた。 (これは……) と、ティルもさすがに驚いた。目の前の人影が構えをとった途端、周りの空気が重くなったような感じがしたのである。身動きが、とりずらい。 相手の持つ巨大な気魄が、そうさせているのであろう。 が、そうと分かるとティルは、軽々とこれを受け流し始めた。相手の気に対して逆らおうとはせず、むしろ素通りさせてしまうのである。 人影も、それに気づいたらしい。正眼に構えを変えた。渾身の力を込めた一撃も、かわされてしまえば重大な隙を生じてしまう。気も、同じであろう。かわされてしまえば意味がない。 対してティルは、じっとしている。静まりきったような正眼に構えていた。 人影が、動く。 鋭い気合をかけて、真っ向から面に振り下ろしてきた。 ティルは、それをかわす。が、すぐに二撃目がとんできて反撃をゆるさない。それも尋常な太刀行きの速さではなかった。 (強い) まるで暴風になぶられているようなものであった。しかも一撃一撃の狙いは恐ろしく正確なのである。 そのくせ、ティルはいつものごとく紙一重でもってするするとかわしていく。手品でも見ているような不思議さだった。 相手も、業を煮やしたのだろう。適当なところですばやく間合いをとって、 「なんだ、お前は」 馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな口調で、言った。声の調子は、少年のものである。 「逃げてばかりじゃないか」 「君のほうが」 と、ティルは何かおかしくなってきたらしく、くすくす笑いながら、 「隙を作らないからさ。僕からは手の出しようがない」 言って、なんとも妙な会話をしているな、とますますおかしくなってきた。 人影のほうももはや苦笑するしかなくなったらしく、 「もうやめだ」 と木刀を下ろした。 「お前の、名前は?」 訊いた。 「ティル」 「いずれこっちから会いに行く。そのときはきっちりと決着をつけさせてもらうからな」 言い残して、去って行った。 その姿が闇にまぎれてしまうと、ティルは急にそれまでのことが夢であったかのような不確かな感じになった。結局、あの人影が何者だったのかも、知れないのである。 が、夢でない証拠が、翌日になって現れた。 ティルが昼頃になって道場に行ってみると、見慣れない男が試刀を振るっていたのである。背格好は、昨日の人影に酷似していた。 (まさか) と思ったが、ティルはつい苦笑している。男の試刀の鋭さは、まぎれもなく昨晩の男のものだった。 ティルは面、胴、籠手、脛当てといった防具を着こんで道場に出ると、男の前に立った。 「ずいぶん早い、いずれだったね」 笑いながら、声をかけた。なにか、夢の続きでも見ているような奇妙さである。 「俺にとっては十分、いずれさ」 この少年は笑いもせずに言っている。その声は、間違いなく現実のようだった。 (変な奴だな) 突拍子もないことをやっているわりには、可愛げのないくらいに現実主義者らしい。ものごとに対する意志が、強すぎるくらいにあるのだろう。 「ところで、どうしてあんなことを?」 試刀を軽くふれあわせて礼をしながら、ティルは訊いた。 「修行さ」 試刀を振るいながら、答える。それをティルはかわして、 「修行?」 と訊く。 相手の少年が言うには、真剣勝負をしたかったのだという。それには道場で顔見知りを相手にするのでは足りない。といって、本気で命のやり取りをするのも面白くないので、負ければただではすまない、という状況を自分で作ったのである。 「酔狂だね」 とティルは笑ったが、フィルディスは試刀を振りつつ、 「こちらは大真面目だ」 と、笑いもせずに言った。この少年は自己に対して苛烈すぎるところがあるらしい。普通の者ならしり込みするか、馬鹿らしいといって一笑にふすところのものを、強烈な意志によって貫徹させてやろうとしているのである。 ティルは相手の試刀を防ぎつつ、 「君の、名前は?」 と、いまさらながらそのことを訊いてないことを思い出した。 「フィルディス」 フィルディス・フォルト、というのが少年の名だった。ティルより一つ年上の十六で、黒髪、黒眼、涼やかな容貌の少年である。 この少年がのちのクレネス国王になるとは、むろんティルには思いもよらないことだった。
それからしばらくしてのことだった。明真館で他流試合が行われたのは。 王都ウォルフォードには、全部で二十数軒の剣術道場があって、それぞれが警備地区を持っている。各道場が町の治安維持に任じているのだが、地区の住民としては当然その強弱が気になるところだった。 そこで、住民のほうから道場に対して交流試合を申し込むことがある。道場のほうとしては、 「分かりました」 と答えるしかない。断れば、それだけでも評判は落ちるからだ。 「困ったものだな」 と呟いたのは、この頃トアドの跡をついで師範となっていたレアス・クレアードである。トアドの孫にあたり、今年で二十になるが、腕の立つわりに気の弱い青年だった。 「困った」 とレアスが言うのも、当然だろう。弱小の明真館では、十中八九負ける。負ければ、地区住民に対して肩身の狭い思いをしなければならないのである。 「どうしようかね、ティル」 と、この弱気な師範は、すがるようにティルに相談している。 ティルはここ数日体調が思わしくなく、試合には出られそうになかったから、 「さあ」 と、微笑するしかなかった。ティルのような少年にとっては、世間の名利などは関心の薄いことだったに違いない。 「フィルディスが何とかしてくれますよ」 とあの恐ろしいほどに腕の立つ少年の名前を出してみたが、レアスはひどく気弱な苦笑を浮かべて、 「あいつは来ないよ」 「?」 「興味がないんだそうだ」 ため息をつくようにして、言った。フィルディスは決して無責任な性格ではなく、むしろそれがありすぎるくらいある少年だったが、あるいは自分の名前が広がることをさけたかったのかもしれない。といってこの少年の場合、わざと負けるというのも馬鹿らしいことだったに違いない。 「とにかく、フィルディスは試合に出られないそうだ」 レアスは、困りはてたように言った。明真館で最も腕達者というべきティル、フィルディスが試合に出られないのである。道場責任者としては、途方に暮れる思いだったろう。 「レアスさんがいれば大丈夫ですよ」 ティルはごく自然に、そう言った。試合は五対五の勝ち抜き戦で行われるから、レアスさえ勝ってしまえばいいのである。 (レアスさんの腕なら十分それができる) とも、ティルは思っていた。が、この五つ上の人のいい先輩が、ときにそのために気弱になりすぎることも、ティルは知っている。 試合の日が、やってきた。 場所は明真館の道場で、相手の晃新館は十名ほどの人数を引き連れてやってきている。 主審はトアド老人がつとめ、線審と副審をかねた二人を晃新館の人間がつとめた。 選手である五人が試合場をはさんでそれぞれ道場隅に並び、入り口付近には見物人の群れがじっと試合が始まるのを待っている。 やがてトアドが、 「これより明真館と晃新館の試合を行う」 と、宣した。 「試合は五対五の勝ち抜き戦。双方、遺恨なきよう正々堂々戦ってもらいたい」 先鋒の者が前に出て、試合が始まった。 苦もなく、負けた。明真館のものが、である。そのまま晃新館のものが先鋒から変わらないうちに、ばたばたと倒されていった。 ティルが後ろからアドバイスをしてやるのだが、効かないらしい。だけでなく、相手の先鋒もかなりの腕達者のようだった。 「大将、前へ」 いつの間にか、レアスまで順番が回ってきている。 レアスは足が震えるほどに緊張しているようだったが、ティルは呼び止めて、 「相手は面を襲ってからの胴打ちを得意にしています。面打ちがきたら、構わず相手の左胴を狙ってください。それで二本ともいけます」 と、相変わらずの落ち着いた様子で言った。 レアスはそれで多少安心したのか、うなずいて面をかぶり直し、再び道場中央に向かった。足は、震えていない。 相手の先鋒はそれまで四人を相手にして相当疲れているはずだったが、連勝して気をよくしているのか、悠々と試刀を構えている。 「勝負三本」 と、トアドが宣して、レアスと晃新館の先鋒は軽く試刀を合わせた。 それから間合いを取りつつ打ち合いはじめたが、しばらくして晃新館の男は一歩踏み込んで、面をうちに来た。 (防がれたところで、すばやく胴打ちに切りかえる) というのが、ティルの読んだとおりその男の考えである。 レアスはその面打ちをほとんど無視するような格好で、すばやく相手の左胴を叩いた。 男は驚いたが、むろん間に合わない。高々と胴を打たれ、一本をとられた。 が、よほど倣岸な男なのか、次の試合が始まっても自分の手を変えようとしない。頭が固い、というよりは明真館のような弱小道場の人間に、鮮やか過ぎるほどに打たれたということが素直に認められぬほどに腹立たしいのであろう。 結果、ティルの言ったとおりにレアスは男の左胴を再び打って、一本。判で押したように同じ一本のとり方だった。 「勝者、レアス」 とトアドが言うと、明真館の側はわっと湧いた。さすがに悔しかったのだろう。 逆に晃新館の側は戻ってきた男に声をかけてやるものもなく、ほとんど無視していた。 (恥さらしが) というところだったのかもしれない。明真館の評判というのは、そんなものである。 その後、レアスは調子づいたのか次々と相手を破って、ついに大将のトルフ・ニライズという男に当たった。 この二人は後年、王国主催の剣術大会で戦うことになるのだが、それは、いい。 この時は、レアスが負けている。しかしレアスも疲れていたことを考えると、腕は互角程度といってよかったかもしれない。 試合が終わった後、道場全体を使って乱取り稽古が始まったが、そのときレアスは、 「あそこにいるティル・レアリスという男のほうが、私よりも数段上ですよ」 と吹聴して回った。人の好い男で、ティルのことを宣伝しておいてやりたかったのだろう。 が、これがもとで後日ティルにとっては重大な事件が起こされることになった。
数日後、ティルは多少からだの具合がよくなったのを幸いに、町を流れるセシナス川のほとりでぼんやり川の流れを見つめていた。 この少年にとって、川というものほど人の一生を象徴したものはなかったらしい。源流を発した水の流れが巨大に成長しつつ、やがて海の中へ消えていく。 それが明確すぎるほどの一筋の線をもったものとして、ティルには感じられるのである。 (自分は、違うのかもしれない) そんな予感が、ぼんやりとしている。ティルという、この透明性の高い人格を持った少年は、自分という川が途中で途切れてしまうのではないかという予感を、恨むというほどではなかったが、なにかぼんやりした不安として感じている。 (人が生きるとは、どういうことだろう) と考え、それが山間で発した弱々しいほどの湧水が、やがて悠々とした流れを作って海へと消えることだ、とすると、 (自分はどうなのだろう) と、不思議といってもいいほどの感覚を覚えた。流れ出した水は、一体どこに行くのか。 そんなことをとりとめなく考えるうちに、ふと、 「兄さん」 と声をかけられた。シルフィである。今年で十二になるこの娘は黒髪を背中で一つに束ねており、いつまでたっても少年のように元気のよい少女だった。 「体は大丈夫なの?」 とシルフィは買いもの帰りらしく、ジャガイモやら豚肉やらの入ったかごを手にしながらティルの隣に並んで、 「道場のこと、聞いたよ。兄さんがいれば、きっと勝ってたのにね」 笑顔で言った。が、シルフィにすればこの病弱な兄が剣術などという危なっかしいものをやるのは、心配で仕方がなかった。とはいえ、シルフィはティルがもともと自分――唯一の家族――のために剣術を始めたことを知っており、だからこそ「やめて欲しい」とは口が裂けてもいえなかった。 ティルもそれが分かっていて、あまり道場の話などはしない。妹に、無用の心配をかけたくなかったのであろう。 「買い物の帰りかい?」 とティルは、それまで人の一生などというしごく重大なことについて考えていたなどとは少しも感じさせない、明るい口調で言った。 シルフィはうなずいて、 「兄さんも、ちゃんと食べないと元気にならないんだから。せっかく私がおいしいもの作ってるのに」 少し不満そうに、言ってみた。 ティルは苦笑して、 「なんとか努力してみるよ」 と、言っておくしかない。 やがて二人は連れ立って帰り始めたが、途中、呼び止められた。時刻は夕暮れ時の少し前で、空が多少赤くなり始めている。 「明真館のティル・レアリスじゃないか」 と、相手は言った。 振り向いて、ティルはしばらく相手が誰だったか思い出せない様子だったが、やがて、 (この前の試合で晃新館の先鋒をつとめていた人じゃないか) と、ようやく思いあたった。意外な人物だった。 たしか、エナス・フォルケという名前で、歳は二十二ほどである。絹でつくった上等の服を着ており、あとで聞いたところでは都市貴族の次男坊だという。 倣岸そうな、男である。 「体のほうはどうだい?」 と、この男はいきなり訊いた。なにか、馬鹿にしたような笑みを浮かべている。 ティルの横でシルフィが不快そうな顔をしたが、ティルはこういうことには慣れていて、 「ええ、おかげさまで」 と相手にもならずに言った。月にいっぺんくらいは、こういう輩にあう。病身のティルが剣術をやっていて、それも抜群に強いということが、こういう倨傲な連中にはうっとうしく感じられるのであろう。 エナスという男は、しつこかった。 「今なら試合に出られるのかね」 と、少し凄むようにして言った。 「俺はあの試合、あんたのとこの道場の連中を一人で倒すことができたんだ。それを試合に出られないようなのが後ろからごちゃごちゃいうから、つい負けてしまった。それであとの連中がレアスなんぞに負けてしまったのは、俺が負けて調子が狂ったからだなんて言いやがる」 筋違いの怒りをこめながら、エナスはティルのほうをにらんだ。 が、ティルはどちらかといえば茫洋とした表情で黙っている。相手にしない。生きることへの姿勢そのものが、男とティルとでは違っていた。 がシルフィは、ティルほど冷静ではいられない。 「なんなんですか、あなたは」 と、ほとんど喧嘩腰になって言った。 エナスのほうは笑って、 「妹のほうは、元気なんだな」 と悪意をこめながら、 「逆ならば、あんたの兄貴も試合に出られただろうにな。惜しいことだ。体を病むなどとは迷惑なことだ」 シルフィがなにか言おうとしたところを、ティルがさえぎった。 「俺と勝負しますか」 と、ティルは言った。この少年が「俺」と自分のことを言うのは、はじめてである。 エナスはちょっと鼻白んだようだったが、倣岸な男である。「いいだろう」と、答えた。 「場所は、どうします?」 「うちの道場が近くだ。この時刻はもう誰もいないはずだから、ちょうどよかろう」 先にたって、歩き始めた。 ティルはごく無造作にその後に続こうとしたが、シルフィのほうが逆に慌てて、 「兄さん、危ないよ試合なんて」 手をつかんで、止めようとした。 「試合じゃないさ」 とティルは、それまでシルフィが見たことのないような真剣な眼をして、 「勝負なんだ、俺の」 口の挟む隙のないような口調で、言った。この天才的な剣の使い手が、自分の剣にプライドというものを持ったのは、あるいはこの時からだったのかもしれない。
晃新館の道場には、エナスの言ったとおり人っ子ひとりいなかった。となりには道場主の役宅があるが、気づかれるほどの物音を立てる必要はない。 「得物は、なににする?」 と、道場に入ってからエナスが言った。試刀、真剣のどちらでもいいと、この男はいうのである。 「試刀で結構です、が」 ティルは道場に足を踏み入れながら、 「防具は抜きでお願いします。それでないと勝負が分からない」 と、無造作に言った。試刀とはいえ、打ち所を誤れば頭蓋骨を砕くことも出来る。 「素面、素籠手か……」 とエナスもさすがにたじろいだようだったが、今さら引けはしない。受けた。 むしろこのことで一番心配になったのはあとからついてきたシルフィのほうで、できるならこんな勝負はすぐにでも止めたかった。が、 (兄さんは、それだけ真剣になっている) と思うと、とてもやめて欲しいとは言えなかった。 シルフィがついてきたのも、ティルが剣というものに家族を守る手段ということ以上のものを持ちはじめているらしいからなのである。ティルは、それを見とどけて欲しいと思っているであろう。 (それも、私に) と思うと、シルフィはたとえそれがどんな結果になろうと見とどける義務があると思った。 シルフィがそんな思案をしながら道場の壁際に座った頃には、二人は試刀をとって相対峙している。 夕陽がまだ沈まないらしく、道場のなか一杯が赤い光の中に沈んでいた。 ティルは、いつものように正眼。 相手のエナスは試合のときと同じく、上段に構えをとった。 静かに、時が流れ始めた。 と、エナスのほうが動いた。上段からすばやくティルの籠手めがけて打ち下ろしている。が、それより早く、エナスが試刀をわずかに動かした時点でティルが電光のように動き、エナスの面を深々と痛打している。 シルフィはその間ずっと、眼を見開いて見ていた。その眼前でエナスは泡を吹いて倒れ、動かなくなった。 (兄さん――) 声をかけようとして、なぜか急に涙があふれてきた。 ティルは夕陽の赤い光の中でたたずみながら、むしろ自分が敗れたかのような、諦めともとれるような眼をしたまま試刀を下にさげて持っている。 ティルの勝ち方は、剣術をまったく知らないシルフィにしても鮮やかすぎるほどに完璧だった。エナスは、打たれるべくして一瞬で倒されている。 明確すぎる、線≠セった。舞台の演劇のように、それは当然のように完結した。 が、ティルという少年自身の運命は、そのように明確な線≠ニしては完結しそうもないのである。この少年は自分が生きる目的も知らないうちに、死ぬのかもしれない。 その少年が、むしろ明確すぎるほどの線≠創って見せたのである。 シルフィはそのことがわけも分からずに哀しい気がして、涙が止まらなかった。 「シルフィ」 と、不意にティルは声をかけた。 「帰ろう」 この少年の声は、不思議なほど透明である。シルフィのように泣き出してもいいほどの感情が、この少年の中にもあるはずなのである。 「うん」 と、シルフィはようやくうなずいてみせて、それから涙をぬぐって兄のほうを見た。 次第に暗くなっていく道場の中でティルはどこか儚げな、油断するとふわりとどこかに行ってしまいそうな、そんな不思議な表情をしていた。 「うん」 とシルフィはもう一度うなずいた。
ティル・レアリスの様子が微妙な変化を持ちはじめたのは、この頃のことである。 ちなみにエナス・フォルケのことについて触れておくとすれば、この男は別に死んではいない。ただ、朝になって門下生のひとりに発見されたが、試合のことは誰にももらさず剣術もやめてしまっている。その後のことは、ティルもシルフィも噂にも聞かない。 「ティルよ」 と、道場で他の門下生に教えているティルに声をかけたのは、トアド老人だった。 もともとティルは師範代になる以前から人に教えるのを楽しんでいるようなところがあったが、この日はほとんど自分では試刀を握らずに教える側に回っている。 「どうしたのかね」 と不思議そうに訊ねた。 ティルは、どういうものかよく分からない微笑を浮かべ、 「ただ、そんな気分なだけです」 言いながら、言葉ほどの不明確さのないような口調である。 「ふむ」 とトアドはなにか思いついたらしく、 「どうだ、久しぶりにわしと立ち合ってみるかね」 と、珍しいことを言った。以前ティルが試合をしたのは半年かそこら前で、そのときはティルが負けている。 「……」 ティルは少し考えるふうだったが、 「お願いします」 と、試合を受けることにした。 門下生全員に道場隅に下がってもらい、試合場を確保した。直径八ディル(八メートル)の円形の試合場で、対戦者は軽く試刀をあわせて礼を行ったのち、ニディル(二メートル)の間合いをとって構える。 ティル、トアド老人とも間合いをとったのち正眼に構えた。構えてから、 (ふむ) と、トアドはうなるような思いだった。 澄み切っている、としか言いようがなかった。迷いがなさすぎるくらいに、ティルは構えている。 (しかし) とも、トアドは思った。 (透明すぎる) 無私、といってもよいだろう。哀しいほどの諦めが、そこには感じられた。ティルの場合はその諦念が昇華して、自己に対して純粋なくらいに正確に接しられるのであろう。 トアドは老齢とは思えぬようなすばやさと正確さで試刀を打ち込んでいったが、ティルは美しいとさえ思えるよう流麗さで、それをかわしていく。 やがて、一瞬の隙をついてトアドの籠手を打ち落とした。 二本目も似たような調子でティルがとり、三本目にはトアドの攻撃の先をとってティルが面を打っている。 「強い」 ということで、道場の誰もが唖然とするほどだった。十五の少年にしては、確かにティルは強すぎるといってよかった。 この日道場にきていたフィルディスも、そう思った。が、この少年にはなにか、納得がいかないらしい。 「ティル」 と、帰り際、ティルはフィルディスに呼び止められた。 二人ともすでに防具を脱いで平服になって、道場の門のところに立っている。 「――」 ティルは、怪訝そうな表情も見せず、黙って歩き始めた。 (ついて来い) ということか、と思ってフィルディスはそのあとを追った。 やがて例のセシナス川のほとりにやってきて、ティルは立ち止まった。すでに辺りは暗くなり始めて、星が数個またたいている。 「俺はね」 とティルは、フィルディスのほうを見るでもなく言った。 「自分というものが、どうやら途中で終わってしまうような気がする。はじまりもせずに、その前に終わってしまうような気が」 じっと、川面を見つめている。 「俺は自分が生きている理由も分からないままに生き、死んでいく。それが分かってしまってから、ああなった」 ああなった、というのは、もはやトアド老人ですらこの少年には勝てなくなった、ということであろう。 「これは不幸なんだろうか? それとも、そう思いながら平然としていられる俺が、不幸なのか」 ティルは、フィルディスのほうを見た。 「どうなんろう?」 「……」 フィルディスも、さすがに答えられない。が、 「それは死人の剣というものだ」 と、容赦のないような、それでいて一種の清涼感をおびた声で言った。 「人間というのは、己の意思を持っているからこそ生きているといえる。多かれ少なかれ人はなすべきことや何らかの願望を持って生き、それを実現させるために生きている」 この少年の生き方というのは、明確すぎるほど疑問というものを許さないらしい。 「お前はそういう、時に自己を鎖で縛り上げるものから抜け出して、浮世から遊離しようとしている。そんなものは、隠者にでも任せておけばいい。それは意思を持たない機械になるのと同じだ」 人間というのは本来、己一人で存在するにはあまりに不完全であり、無力でもある。それでいて(というより、そのために、というべきかもしれないが)世間を超越した自己というものを持ちたがり、この世にいるのかあの世にいるのか分からないような状態になる。浮世のしがらみというのはそういう、この世から遊離しようとする自己を縛りつけておくためにある、とフィルディスは言うのである。 「俺はね、ティル」 と、フィルディスはさすがにティルのほうをまともに見れず、川面のほうを向いて、 「クレネスの王位を継がなくちゃならん」 とおよそ明かすべきでない秘密を、明かした。 「――」 ティルは黙ったまま、じっとフィルディスのほうを見つめている。この少年の性格と声音を考えれば、むろん冗談ではない。 「俺は望みもしないのに王家に生まれ、望みもしないのにこの国にやってきた」 とフィルディスは言いながら、ティルのほうを見た。 「俺が生きる理由というのは、分かりやすすぎるほどにはっきりしている。そしてそのために俺は俺というものを規定し、しつけている。俺は、俺というものに対して、そうすることで挑戦している」 つまりは、立場というものから逃げずに、かえってそれに戦いを挑むことで自分の一生を満足させようというのであろう。 苛烈といえば、苛烈すぎるほど自己に対して厳格な少年だった。 ティルはじっと黙っていたが、やがて、 「フィルディスに、お願いがあるんだ」 と、ふっとそよ風がなびくような、そんな不思議な微笑を浮かべて見せた。 「俺が死んだら、フィルディスは国に帰って欲しい」 「……」 どういう、つもりなのか。 「なにを言ってるんだ?」 「そんなにたいした意味はないんだ」 と、ティルは同じ微笑を浮かべながら、 「ただ、君のために何かしてやりたいと思っただけさ。けど俺にはしてやれることなんてないしね」 だから、 ――俺の命を君にやる。 ということらしい。人間の死という、こういう劇的要素を持っていなければ、王になろうとし続けるなどは難しいのではないか。ティルにすれば、フィルディスという自己規定の呵責な少年に、呵責であるだけの理由を与えてそれを補完してやりたいと思ったのだろう。 「――」 フィルディスは、ティルの言葉を了解した。 「お前の勝手にしてくれていいよ」 このめったに笑わない男が、ひどく穏やかな笑みを浮かべて笑った。 フィルディスは、ティルという少年の不思議さを思った。 (こいつは俺とは逆だ) フィルディスが自己に対して様々な色で自己を彩色していくのとは反対に、ティルは自己を透明な状態のままにしているのである。その透明な状態のまま他人の彩色を手伝ってやろうとしている。ティル自身は透明だから、その人物の彩色を邪魔することはない。 人助け、というにはあまりに哀しげな、自己というものを風のように吹きすぎるものとした、不思議な少年であった。
ティルの病状が悪化し始めたのは、十七の頃からである。風邪をひく日が多くなり、一日中寝たきりということも多くなった。 この年、二七一年。セルフィドでは一大事が起こっている。 隣国クレンフォルンに侵攻されたのである。八月二十一日、国境周辺の村々を荒らし、クレンフォルンの軍勢はセルフィドに踏み入った。 「大変なことになった」 と、レアスなどは大騒ぎだった。話は王都から百リール(約四百キロ)も離れた国境のことだが、いずれウォルフォードまで攻め入ってこぬとも限らない。 いざ戦争という場合には、道場に対しても動員令が出される。多くは予備軍としての扱いを受けるのだが、その場合レアスは一隊の隊長として明真館の門下生を率いていかねばならない。 「お城のほうからも、いつでも集まれるようにとのことだ」 と、レアスは門下生一同に言い渡した。 がティルに対しては、 「ティルの体じゃあ戦争なんて無理だろうから、ゆっくり養生してくれていいよ」 と言って、届出の名簿から名前を外しておいた。 ティルは、おそらくこれに対し複雑な思いも持ったであろうが、 「そうですか」 と言っていつもの微笑を浮かべていた。レアスが本心からの好意でそう言っているのは、よく分かるからである。 戦争の準備ということでウォルフォードはずいぶんと騒がしくなったが、トアド老人などは、 「おおげさなことだな」 と言って、もともとが楽観的なのか、それとも老人らしい知恵でそう考えているのか、たいして重大事とは思っていないようであった。 「そうでしょうか?」 と、レアスなどは道場同士の会議や城への届出などで目も回るほどに忙しいだけに、そういう想像をする余裕がなく信じてはいなかった。 ところが、事態はトアドの予想したとおりで、国境侵攻後の一ヵ月後には和平が成立した。もともとセルフィド、クレンフォルンは歴史的にも同じ根を持った国であり、血縁者も多い。クレンフォルン内部でも外征に反対する者が多く、当時の国王であったラクス・フィオールが失脚すると、すぐさま停戦、和平という運びになった。 「なんだか拍子抜けした気分だよ」 と、およそ好戦家とはいいがたいレアスにしても、今までの忙しさから急に日常の世界へ突き戻されると、そんな気がするものらしい。 「まあ、なんにせよ良かった」 というわけで、明真館にも日常の生活が戻っている。 そうした中で、ティルは道場に行く時間が段々と減っている。半年に一度しかいかない時もあれば、せっかく来ても自分では試刀を握らず門下生の指導に当たることが多い。 あとは、ほとんど家で床にふしていて、窓から見える道や空をぼんやり眺めているばかりだった。 もっとも、寝ながらも剣術のことを考えているらしく、時々ベッドの上で試刀を握っていることもある。もはやこの少年にとって、剣術というのは生きる上でなにか重大な位置を占めてしまっているようだった。 シルフィはそういう兄の世話をしながら、時々ティルがなにか得体の知れない、この世から遊離してしまったような沈黙の中にいることに気づいている。 (なにを考えているんだろう) と思うのだが、あるいは何事も考えてはおらず、考えてはいるが雑念というものが少なすぎるからこそ、こういう不思議に透明な沈黙が生まれるのかもしれない。 こういう時シルフィは、できるだけティルを外に連れ出すようにしている。むろん、なにか重大なことを考えているらしいティルに声をかけるのは、シルフィにしてもはばかられるのだが、放っておけばこの透明すぎるほどの兄はどこかに消えていってしまうようにも思うのである。 (兄さんは執着がなさすぎる) と思うのだが、ティルはもしかしたら執着を捨てねばついに身を滅ぼすしかないような情熱を、うちに持っているのかもしれない。 それだけに、 「そうだな」 とごく自然に微笑して自分の頼みを聞いてくれる兄を、シルフィは泣き出したいほどの複雑な思いで見ている。 (よほど兄さんが凡庸だったら良かったのに) と、シルフィは思わざるをえなかった。
ティルが道場に来なくなるにつれて、フィルディスのほうも道場に姿を見せることが少なくなってきた。 大抵は町の外にまで行って、森の中で練習用の重い剣を振るったり、心気を練ったりしているらしい。 ――道場にいってティルがいないことを怖れた。 というのが、この少年の心情としては近かったようである。だけでなく、フィルディスにすればティルの透徹しすぎたほどの自己放棄が苦痛といっていいほど哀しく、会うのも何か身を切られるような悲しみがあったのだろう。 レアスにしても似たようなもので、ティルという、およそ剣術をやるために生まれたような男が病弱で、たいした才能があるわけでもない(と、本人は信じている)自分が日々道場に出て試刀を振るっているというのが、この男の性格からすれば申し訳なくすらあった。 が、レアスがそんなことをティルに言うと、 「レアスさんは人が好すぎますよ」 と、鈴の音が鳴るような、ほとんど臭味といったもののない微笑を浮かべてティルは言った。 それから二年ほどがすぎ、ティルの病状は悪化も回復もしないうちに八月の初め頃になった。 この頃にリーディ・オルリアスという少年が明真館に入っている。ほとんど少女といってもいいほどの面差しの少年で、のちにセルフィドの王国暗殺組織であるレティングに入るのだが、ここでは関係がないので触れない。 ティルが久しぶりで道場に行ってみると、この少年がいて試刀、防具をつけて打ち合っている。見ると、動きに機敏さと鋭さがあふれていて、天稟を感じさせる少年だった。 (おもしろい子だな) と思って、さっそく立ち合ってみた。 が、まだ動きに荒いところが多く、結局ティルは試刀に触れさせることもなく三本とも勝ちをとった。 その後、面を脱いで道場隅に下がり、話を聞いてみると、 「ティルさんは強いですね」 と、この少年はまずそのことに感心した。 「僕もそれくらい強くなれるといいんですけど――」 口調に少しも嘘や皮肉めいたところがなく、リーディという少年は本気でそのことに感心しているのである。よほど素直な少年らしかった。 ティルは少し笑って、 「リーディなら、間違いなくなれるよ」 とごく気軽に保証してやった。確かに、この少年には十分な素質があるのである。 「それと『さん』づけはしなくていいよ。苦手なんだ、そういうのは」 少し苦笑して、言った。 ティルは、そう言ったものの道場に来る日は不規則で、リーディに直接教えてやる日も少なかった。 が、来るたびに、この少年は飛躍的に上達しているようでもある。 「あの子のことをどう思う?」 とある日、見舞いに来てくれたフィルディスに向かって、ティルは訊ねてみた。 「あの子?」 「リーディのことだよ」 と、ティルはベッドの上で少し苦笑した。 「どのくらい、強くなるだろうか?」 「さあな」 フィルディスは、ティルほど教育に熱心なほうではない。が、人を見る目は十分にあった。 「強くは、なるだろうさ」 と明快に言った。 「フィルディスや俺よりも?」 「……」 フィルディスは黙った。ティルのほうを見て、 「そうなって欲しいのか?」 と、別にどういう感想を込めるでもなく訊いた。 ティルは窓の外を見つめていたが、やがて、 「そうかもしれない」 とつぶやくようにして言った。 ティルが不意に起こったえずきのために大喀血を起こし、部屋で寝たきりになったのは、この年の十二月頃のことである。
病状としては結核に似ているだろう。ティルはさすがに喀血後、体に力が入らず関節が痛み、ろくに食事も取れなくなっている。 それ以前、ティルはあるとき道場の帰りで、 ――俺の剣を継いでくれないか? とリーディに向かって言ってみたことがあった。このとき、すでに余命が半年ほどであるということを、ティルは医者から告げられている。 ティルの心情としては、さすがにやりきれないものがあったのであろう。ティルは剣技に対し抜群の才能を有していたが、それが世に認められることもなく、消えていこうとしている。 (自分の存在が消えてしまう) という得体の知れない恐怖が、言葉にならないものとしてティルの中にあったであろう。普通なら鬱屈して自暴自棄になっていいほどの感情であったが、ティルは不思議なほど静かであり、平静をたもっていた。 だが、無念ではあった。誰かに伝えておきたい、とも思った。それで、 ――俺の剣を継いでくれないか? とリーディに言ってみたのである。この少年ならそれだけの素質があり、さらに重要なことはフィルディスのような対等関係ではなく、後輩であるということだった。ものを教授する立場としては、ごく自然な関係になる。 リーディはこれに対して、 「そんな必要はありません」 と、よほど依怙地なのか、しかしそれと同時によほど相手のことをいたわる眼をして言った。 「ティルは今のままで十分です。ティルはもう十分ひとのためにつくしてきたし、それは十分に伝わっています。これ以上、自分を透明にして人の手助けをする必要なんてありません」 それに、とリーディはつけ加えた。 「僕はティルを抱えて生きていけるほど、えらい人間ではないんです。僕は周りの人に支えられながら、ようやく生きているだけです」 少しだけ微笑をうかべて、言った。 「ティルは、もっとティルらしくしていればいいと思います」 リーディは、ほとんど屈託というもののない微笑を浮かべて言った。 (そうかもしれない) とは、ティルも思った。 (俺は誰か代わりに海までの線をつなげて欲しいと思っている) 自身は川の支流となって、本流が海へとたどり着くのである。ティルはそれ以外に、自分が海まで行く道はないと思っていた。 ――そんな必要はありません。 と、むろんすべてが分かったわけではないだろうが、リーディという少年は言ったのである。 (確かに、そうかもしれない) とティルは、ベッドの上で窓の外を眺めながら思った。確かに、そんな気もする。 (海なんて、自分で決めてしまえばいい。生きた分だけ川が長くなるわけでも、深くなるわけでもない) そう、思う。思うが、なにかやりきれない。やはりなにかが、足りない気がするのだ。 そういうおり、六月の四日にリーディが訪ねてきて、 「ティル、僕と試合をしてください」 と、正気とも思えぬことを言った。 シルフィなどはこれに対して悲鳴を上げて、 「無理です」 と断固としていった。事実、無理であり、死を目前にした病人に向かって頼むようなことではない。 「無理です」 もう一度、言った。が、 「やろう」 と、ティルは言ってしまっている。 「兄さん」 シルフィは絶句して、涙を目一杯にためてティルのほうを見た。 「試合は、明日の昼にしよう」 と言うと、リーディはうなずいて帰って行った。 「兄さん」 そのあとで、シルフィはほとんど力を失ったような声で言った。 「ごめん、シルフィ」 と、この他人に対して優しすぎる青年は、少し目を伏せていった。シルフィがどういう気持ちでいるかは、十分に分かっている。 「どうして――」 シルフィは泣きながら、ようやく叫びだしたい衝動を抑えて首を振った。もう、いいではないか。 (少しでも生きていてくれればいい) 剣術などは、もうどうでもいいではないか。 ティルはそういうシルフィを見つめながら、 「あの日のこと、覚えてるか? 晃新館で隠れて試合をした日のこと」 「……」 シルフィは何度も涙を拭きながら、数度うなずいた。 「俺はあの時、自分というものを諦めたんだ。とても俺は俺の満足するだけを生きることはできない、俺は俺を完結させられない、とね。けど、今」 ティルは不思議なほど穏やかな顔をして、 「俺を終わらせられそうなんだ。俺は自分に満足できそうなんだ」 静かに、シルフィのほうを見つめた。 「でも、私は――」 兄さんにもっと生きていて欲しい、と言おうとして、シルフィはつまった。これ以上、この兄を困らせてやるわけにはいかない。 「分かった、兄さんの好きにして」 ほとんど叫ぶようにしていって、シルフィは出て行った。 ティルはベッドの上でじっとそれを見ている。 ――ごめんな、シルフィ。 小さく、つぶやいた。
二七四年、六月五日が試合の日である。この日、天気がくずれて朝から大雨になっていた。 ティルはその中を道場に向かって歩いていく。シルフィが黙ってそのあとに続いていた。シルフィは、むろんこの試合を見とどけるつもりである。 (でも、できれば) と、それでもシルフィは思わざるをえない。やはり、気が進まないのである。 怒ったような、それでいて不安で胸が一杯のようなシルフィを、ちょっと微笑しながらティルは歩いていく。試合の約束は昼からで、朝から道場に向かったのはさすがにこの半年、試刀を握っていないだけに勘を取り戻しておきたかったためだった。 やがて道場に着くと、すでに数人の者が待っていて、緊張した面持ちでティルのことを迎えた。試合のことは、道場の全員が聞いているらしい。 「ティル、大丈夫かい?」 とレアスが、やはり心配げな面持ちで訊いた。ティルの顔色は必ずしもよくない。 が、ティルは微笑して、 「大丈夫です。これが、最後ですから」 と言った。 体をほぐしてから防具を着込み、試刀を持って道場に出ると一人だけが立ってティルを待っている。 フィルディスだった。 「久しぶりだな、お前とこうやって打ち合うのは」 軽く試刀をあわせて言った。 「ああ、そうだな」 ティルは少し笑って答え、間合いをとった。 やがて二人は打ち合いをはじめたが、劇場の所作かなにかのように呼吸がぴたりと一致していた。打ち、防ぎ、離れてはまた近づく。決まった型があるわけでもないのに、その動きは舞を見るように美しかった。 (ティルの腕は) と、レアスは端から見ながら、 (不思議なほど落ちていない。やはり、天才だよ) 嘆息するような、いっそ清々しいほどの剣をティルは持っているのである。 昼頃、リーディはやってきた。雷がしきりに鳴っていて、リーディは濡れた外套を棚のところに置くと防具をつけ始めている。 ティルはそのとき、すでに道場中央で端座していた。異様なほどの静けさが道場に満ちている。 リーディが、ティルの前に座った。 双方、無言である。 が、やがて面をつけて立ち上がった。 「勝負三本」 と審判役はトアド老人である。 リーディは正眼、ティルはやや上向きの中段に構えをとった。 「――」 ティルは不思議なほど穏やかである。そこには最後の試合だと言う気負いも、不安も、焦燥もなかった。ただ、落ち着いている。 といって諦念というほどのものでもなかった。満足、というほど単純なものでもない。 いわば、解放といってよかったであろう。ティルの中で、なにかが終わろうとしているのである。 リーディがそれを終わらせてくれる。 と、ティルは言葉にならないながらもはっきりと予感していた。目の前の少年は、それだけのことをやってくれるはずなのである。 が、ティルも手加減はしない。 一本目は、リーディはわざとティルに攻撃させてそこを打とうとしたが、ティルの変化のほうが早く、面をとった。 二本目は引き分け。 ――三本目。 (もういいな) とティルは微笑したいような想いで、おもった。二本目のときに、すでに自分が勝てないことは分かっている。 (強くなった) 目の前で、自分を倒そうと懸命になっている少年を見て思った。こういう少年が最期にいてくれて、よかったと思っている。 ティルは上段に構えをとった。ただ風のように無色透明な、そんな構えである。 そのまま、攻めに出た。リーディは防ぎながら、やがてティルの試刀がわずかにとまった時、試刀を急速に旋回させた。 面。 に、試刀は決まっている。 ティルは眼を閉じて、静かに試刀を下ろした。 道場の隅でシルフィは目に涙をためながら、じっとそれを見ている。あの時と同じ姿勢で、しかしあの時とはまったく違う感情を持ってそれを見ていた。今、なにかが終わったのである。 「一本」 トアドの声が、響いた。
ティルが亡くなったのは、それか一週間後の二七四年六月十二日である。 死の間際、ティルはもはや顔をそちらに向ける体力もないままシルフィに向かって、 「お前は泣くなよ」 と、微笑するような、訓戒するような声で言った。 「うん」 とシルフィは今にも泣き出しそうなのを精一杯うなずいて、 「泣かない。私、泣かないから、兄さん」 と、できるだけこの優しすぎる兄を心配させまいとした。 ティルはこの世のどういう微笑とも似ていない笑いをして見せて、 「それでいい。お前は笑った顔のほうが、似合ってるよ」 と言って、ゆっくりと目を閉じた。 (兄さん――) 呼びかけようとして、シルフィはやめた。呼びかければ途端に泣いてしまいそうだった。この天使の生まれ変わりかなにかのようだった兄は、もう返事をしてくれないのである。 シルフィはただじっと、陽光の下の死んだ兄の顔を見つめていていた。 その後、葬儀の準備をとり行ったのは今まで二人を世話してくれた両親の同僚の夫婦だったメルアとコルセトという人で、むろん主体者としては唯一の肉親であるシルフィがそれを行うのだが、なにぶん子供のために補助者としてのこの夫婦がほとんどの準備をしてくれている。 「自分の子供が死んだような気分だよ」 と、この長年ふたりの面倒をみてくれた夫婦は寂しそうに言った。 翌夜、シルフィの家で通夜が行われて、フィルディス、レアス、リーディといった明真館関係者や近所の者が集まってきて静かに死者のことを悼んだ。 その次の日の早朝、死者は棺に納められて墓地まで運ばれることになる。その際、部屋の配置は生前と同じにされる。教会以前の土着信仰では死者の霊はその後部屋に一度戻ってくると言うので、家具の移動などはできるだけさけるためだった。 二人の住んでいたアザ地区の教区協会につくと裏の共同墓地に向かい、神父の言葉などの一連の儀式が終わると、まずシルフィの手で土が三度かけられ棺は土の中に埋葬された。 墓は、両親の隣に埋められ小さな大理石で作られた、つつましやかな墓標である。 シルフィは葬儀を終えると参列者に対していちいち挨拶をして回って、それが一通り終わると最後に墓の前から離れた。 家につく頃には夕陽がさしていて、シルフィはなにか思考をするのが億劫なような、気だるいような感じでいる。 しかしティルの部屋に入った途端、 (兄さんは死んだんだ) と思って、耐えきれずに泣いた。生前のままの部屋のありようが、かえって個人の帰ってこないことを物語っていて、胸一杯に哀しさが広がった。 「兄さん――」 寝台の前でひざまずいて、シルフィはとにかく泣いた。泣きつづけて、泣き疲れて、いつの間にか眠っている。 目が醒めたときには、すでに辺りは暗くなっている。月の光がぼんやり部屋の中を照らしていた。 「兄さん」 シルフィはつぶやいて、涙がにじんだところでふと、気づいた。 部屋の入り口のところに、ティルが立っている。 「にいさ――」 立ち上がって駆けよろうとしたところでティルの姿はふっと消えた。そこには、深々とした闇が横たわっているに過ぎない。 (幻……) かもしれない。しかし幻であっても、もう一度会えたということが、シルフィにとっては泣きたくなるほどに嬉しかった。 (兄さんは、すぐそばにいる) そんな気が、した。 「兄さん、私もう泣かないよ」 目をこすって、清々しいほどの表情をしてみせた。ティルの言ったように、この娘には確かに晴れやかな表情のほうがよく似合うようである。 その後、フィルディスはティルと約束したようにクレネスへの帰途につき、のちに「奇跡の王」と呼ばれるほどの業績を残すことになる。 シルフィは、旅に出た。様々な土地を旅した末にアレグノール王国の剣術家オルスト・ファエクと結婚をし、二男一女の母となっている。 その末っ子のレファ・レアリスは子供の頃から並外れた天稟を示し、不世出の剣客と呼ばれたが、シルフィがこの少年にわざわざレアリスという名前をつけたのは、無念の想いが強かった、というよりは、おそらくティルにこの少年を守ってもらいたかったのであろう。 そのためかどうかは分からないが、レファ・レアリスは剣客としては幸福な生涯を送り、晩年、 「私が今こうしてあるのは、師匠であるルシナ先生のおかげだが、伯父のティルさんに負うところが大きい」 と語ったりした。 とまれ、ティルの不思議なほどの透徹さを考えると、一種神秘的なようでさえある。
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