[不完全世界と魔法使いたちD 〜物語と終焉の魔法使い〜(上)]

[四つめの始まり]

 結城季早は病院の食堂で、遅めの昼食をとっていた。並んだテーブルにほとんど人の姿はなく、ひどくがらんとしている。その様子は何となく、どこかのクジラの体内を思わせた。その暗い胃の中が終着点で、もうそこからはどこにも行けない。
 季早は日替わり定食を口にしながら、休憩中のこともあってぼんやりしている。どことなく体の組織にまとまりを欠いているような感じで、手首の部分をまわすとネジ式に取り外せそうな気もした。
 そうやって機械的に食事を続けていると、前の席に誰かが座っている。見ると、宮良坂統だった。この心臓外科医は相変わらずの無造作な身なりで、使いこまれた工作機器のような風貌をしている。
「構わんかな、ごいっしょしても?」
 と、宮良坂は底響きのする声で言った。
「ええ、もちろんです」
 季早は儀礼的にトレイを少し下げて、宮良坂のスペースを作った。
 席に座った宮良坂の盆には、いつものようにサンドイッチとジュースが乗せられている。そのジュースは、宮良坂がこの食堂で唯一まともだというものだった。サンドイッチを一口で半分ほど平らげると、宮良坂は言う。
「――ここの飯は少しも変わらんな」
「そうですね」
 味噌汁を飲みながら、季早は逆らわない。
「何よりもこの病院はまず、食堂の改善にあたるべきだと思うんだがな」
 実際に、宮良坂は院内で頑固にそれを主張していた。症例の検討会で食堂の料理について一席ぶつような人間は、ほかにはいないだろう。
「宮良坂先生はそう言いますけど、僕はそれほど不満じゃありませんよ」
 季早ごく穏やかに、控えめに反論した。
「そうかね?」
 ちょっとなじるような口調で、宮良坂は言う。手元のサンドイッチはすでに三つめにかかっていたが。
「まあ、自分で作るよりはましですから」
 と、季早は言った。妻と子供を亡くしたという前歴が、季早にはある。心臓の悪かったその妻である結城鈴音(すずね)の治療にあたっていたのが、心臓外科医である宮良坂でもあった。
「そいつは一理あるかもしれんな」
 宮良坂は最後の一口を放りこむと、わざと感情を削り落とした声で言った。どれだけ問題なく癒着したところで、傷跡そのものはなかなか消えるものではない。
「……それよりも、だ」
 と、宮良坂は急に話題を変えて言った。
「外科部長がかんかんになってたぞ、例の手術のこと」
「――でしょうね」
 季早は平気な顔をしている。
「いったい何をしたんだ? 術式の途中でスタッフ全員を部屋から追いだしちまうなんぞ」
 それはつい数日前に行われた、患者の開胸検査についてのことだった。その手術を小児科医が執刀するのもおかしな話だというのに、あろうことか担当医である季早は、手術の途中で看護士も麻酔科医も退室させてしまったのである。患者本人の希望であったことや、実質的には問題のなかったことで表面化はしていなかったが、どう考えても医療過誤ですむ話ですらなかった。
 季早はけれど、料理のメニューでも確認するような、ごく当たり前の声で言っている。
「魂をつなぎあわせていた――と言ったら、信じますか?」
「魂を……?」
 宮良坂はさすがに、言葉の意味を咀嚼しかねたような顔をしている。
「ええ――」季早は淡々として話を続けた。「僕の魔法〈永遠密室〉では、内部のものを取りだすことはできても、中に入れることはできません。だからそうするためには、実際に切開して、縫合する必要があったんです。つまり、外科手術の必要が」
 そう言われて、宮良坂にはもちろん何のことかはわからない。この経験豊富な熟練医師に理解できたのは、それが魔法に関わる物事らしいということだけだった。
「魂をつなぐ、ね」
 宮良坂は狐にでもつままれたような顔をしている。
 それを見て、季早はかすかに笑った。かつて浮かべていた、白夜に似た印象の笑顔を――
「でも宮良坂さん、もしも誰かが完全世界≠くれると言ったらどうします?」
「完全世界?」
「人が言葉を覚える以前、魔法とともにあった世界のことです。そこでは一切の不幸も、虚偽も、犠牲もありはしなかった。すべては完全だった」
「それをくれる、と?」
「ええ」
 宮良坂は複雑な症例のカルテでも眺めるような、厄介そうな顔をした。
「そいつを断わるのは、ひどく難しそうだな」
「……そうですね」
 と、季早は深海の底からすくってきたような、暗く冷たい感慨を込めて言っている。
「魔法使いでそれができるとしたら、それは不完全世界を望んでいるということですらあるんですから」

 世界の行きどまりのような病院の片隅で二人の医師が会話をしている頃、運動公園では四人の子供たちがさらに二つの問題を解き終わって、六つめの地点へと向かっていた。
 移動には、同じく〈生命時間〉のかけられた室寺の車を利用している。野球場を離れたあとも、各所に白い人形が配置されていたが、朝美の言うとおり起動条件が違うのか、どれも動きだすことはなかった。当面のところ危険や問題はなかったが、二人の安否については不明なままである。
 車内ではさすがに、ぴりぴりとした緊張感が漂っていた。焦りや不安感が、ミツバチの羽音にも似た音を立ててあたりを飛びまわっている。
 やがて車は次の目的地に到着していた。総合公園のちょうど中央付近に位置する、時計台の置かれた広場である。レンガの敷きつめられた床に、ベンチや花壇が配置された休憩スペースになっていた。
 ヒントでは、ここにある時計台の文字盤を調べろということになっている。
「――あったぞ」
 ナツが最初に、それを見つけた。時計の文字盤、三の隣にある余白に六つめの問題が書かれていた。

『佐乃世来理はアルビレオの場所にいる
              ――グース』

 書かれているのは、それだけだった。
「アルビレオ?」例によって、アキが首を傾げる。
「確か、『銀河鉄道の夜』にそんなのが出てきた気がするわね」フユは少し考えながら言った。
「てことは……星の名前?」
「ここで佐乃世さんの名前が出てるってことは、次で終わりってことか?」ナツが言う。
「たぶん、そうなんだろうと思う」ハルが慎重に発言した。
「星まで行くのは、ちょっと遠いよね。母を訪ねるのも三千里までだし」アキは星の光が溶けた空を見ながら言った。
「もちろん、アルビレオは公園のどこかにあるんでしょうね」と、フユ。
「といっても、この公園に星と関係するような場所なんてないけどな」ナツは肩をすくめた。
「たぶん、何か意味があるんだ」
 と、ハルはあたりを見渡しながら言った。もちろんそこには、星の光の影さえ存在しない。
「今になって、こんな問題を出してきたってことが……」

 ――そして、時間は少し遡る。

 その日の朝のことだった。公園内に大量の人形が運びこまれ、ニニやサクヤ、鷺谷や烏堂がそこで準備をしていた頃のこと。太陽は決まりきった儀式に向かうみたいに、ゆっくりと階段をのぼりつつあった。
 牧葉清織は住宅地の一角を歩いていた。何ということのない、ごく普通の住宅地である。造成計画に従って、不自然にまっすぐな道路が敷かれ、たまたま席が空いていたという感じで公園が作られていた。まだ朝の早い時間なので、それほど人影は見られない。時折、まだ世界になじまない音を響かせて車がひっそりと通りすぎていった。
 清織は一人で、あくまで形而下的な道を歩いていく。手に持った厚手の本と、空っぽらしいバッグに少し違和感はあったが、その様子はただ近所を散歩しているだけといったふうにも見える。
 しばらくしたところで、清織は足をとめた。一軒の住宅が、その前にはある。表札には「秋原」という文字が記されていた。
 牧葉清織はチャイムもノックもせずに、その家の扉を開けた。

 今年、中学生になったばかりの秋原ことりは目覚まし時計をとめた。実にけたたましく鳴る時計で、この音で起きれなかったことはない。ちょっと目が覚めすぎるくらいで、夢の残骸がまだベッドの上に転がっているような気がするくらいである。
 その時計をくれたのは、祖父の尚典だった。小学校三年の時である。当時としてはもっといいものをくれればいいのにと思ったが、結局はずっと使い続けている。もしかしたら、今までにもらったプレゼントの中では、一番役に立っているかもしれなかった。いかにも祖父らしい贈り物ではあった。
 彼女はパジャマ姿のまま部屋を出て、階段を降りる。父親と母親の二人は、もう食卓についている頃だろう。大抵、朝食の席に着くのは彼女が一番最後になる。
「――おはよう」
 と言いながらリビングのドアを開けて、彼女は足をとめた。
 テーブルのイスに、知らない人物が座っている。
 だいぶ、年上の人だった。といっても、父親などよりはずっと若い。高校生か、大学生くらいだろう。その辺のことは彼女にはまだよくわからなかった。
 その人物に、特に怪しいところは見られない。靴を履いているわけでもなければ、変な格好をしているわけでもなかった。何となく、親戚のおじさんが遊びにきた、という感じでもある。優しげだし、それに今まで見た中ではテレビをのぞいて一番格好がよかった。
「やあ、こんにちは――」
 と、その人物は言った。落ちついた、ピアノの鍵盤を正確に鳴らすような声である。
「あ……おはようございます」
 ことりはつい反射的に、挨拶をしてしまった。そういうところは祖父などから厳しくしつけられている。
「えと、失礼ですけど、どなたでしょうか?」
 ことりはあくまで丁重に、質問した。パジャマ姿でいることも忘れ、彼女はその場で立ちつくしていた。とりあえず、状況を確認する必要がある。
 訊かれて、男は同じように丁重な声で答えた。
「僕の名前は牧葉清織。君のおじいさんの秋原尚典さんとは知りあいなんだ」
 なるほど、祖父の知人の人か、とことりは思った。道理で見たことのない人なわけだ。
「私は秋原ことりです。よろしくお願いします」
 ことりは習慣的に、お辞儀をする。誰に対しても礼儀正しくしろ、と教えられていた。
「さすが、秋原さんのお孫さんだね」清織は感心したように微笑んだ。「物腰が柔らかいし、きちんとしている。きっとみんなから好かれるだろうね」
 誉められて、ことりは悪い気はしない。素直に喜んだ。
「……ところで、父と母はどこにいるんですか?」
 と彼女はようやく、さっきから気になっていたことを訊いた。
「二人ならすぐそこで眠っているよ」
 そう言われて、ことりはあたりを見まわす。
 なるほど、確かに母親は台所の床に倒れていたし、父親は不自然な格好でリビングのソファに横たわっていた。でもどうして、二人はそんなところで眠っているのだろう――?
 彼女は急に、ぼんやりとしてきた。ベッドの中に置いてきたはずの夢が、いつのまにか追いついてきたようでもある。現実の位置が、いつもとほんの少しずれていた。つけっぱなしのテレビから音声が聞こえてくるのに、時間は停止したみたいに静かだった。
「実は、今日は君に用があって来たんだ」
 と言いながら、清織は立ちあがった。その手には、重そうな本を抱えている。いったい何が書いてあるんだろう、とことりは思った。もしかしたら、自分の運命かもしれない。
「たいしたことじゃないんだ。でも、どうしても君の協力が必要でね」
 清織は言った。その口調は今までと変わらず、霞がかった月の光みたいに優しげだった。
「どんな用ですか?」
 ことりはつい、訊きかえしてしまう。清織の様子には、乱暴なところも強引なところもなかった。この青年の存在は、そうしたものからもっとも遠いところにあるように感じられる。
「君のおじいさんに聞きたいことがあってね」
 と、清織はかすかに微笑んで言った。
「祖父ならちゃんと頼めば、きちんと教えてくれると思いますよ」
「ところが、なかなかそうは簡単にはいかないんだ。例え本人に答えるつもりがあったとしてもね」
「その本には書いてないんですか?」
 ことりは自分でも、ちょっと妙な質問をした。
 けれど清織は気にもせずに、子供から難しい問題を尋ねられた大人がするような、そんな笑顔を浮かべている。
「残念ながら、それは書いていなくてね。この魔法では自分の知らないことや、存在しないものを作りだすことはできないんだ。それに相手の魂や、自由意志を侵すこともね」
 もちろん、彼女には清織の言っていることの意味などわからない。ただそれが、両親の不自然な状態と関わりがあるらしい、ということだけは何となく理解した。それが魔法である、ということも。
「えと、それで、私にどうして欲しいんですか?」
 彼女は訊いた。どういうわけか、恐怖は感じなかった。物語に登場する怪物たちは、どんなに残酷で恐ろしかったとしても、結局は空想の産物でしかないのと同じように。
 清織は無言のまま、そっと彼女の首筋に手をあてた。そして口づけでもするように、顔を近づける。清織の瞳があまりにきれいなので、ことりは心臓の高鳴りにさえ気づかなかった。その瞳は何だか、夜の岸辺に忘れられていった月の光に似ている。
「君には、おじいさんを説得してもらいたくてね」
 そう言った次の瞬間――
 秋原ことりの胴体は、首から離れてどさりと床に転がっていた。血は一滴も流れていない。その切断面は、定規で引いたようにまっすぐだった。おそらく、どれだけ鋭利な刃物を使っても、その線分を再現することは不可能だろう。
 そうしてヨハネの首を持つサロメのように、清織は彼女の首を右手に掲げていた。

 スタジアムでは、室寺の戦闘が続いていた。破壊した人形の総数は何百体かに迫ろうかというところだったが、あまりその数が減った様子は見られない。まるで地面についた影でも相手にしているようだった。地面を破壊することはできても、影には傷一つつけられない。
 攻撃対象を限定するため、室寺はスタンドにある通用口の一つに陣どっていた。そこからなら、前方の敵にだけ集中することができる。
(ちっ――)
 飛びかかってきた一体をカウンターで撃砕しつつ、室寺は内心で舌打ちをした。汗が滴り落ち、手足の動きが粘つきはじめている。疲労が攻撃の精度を鈍らせていた。
 だがそれ以上に、魔法の揺らぎが作りにくくなっている――
 もう一体を派手に吹き飛ばしたところで、室寺はわずかに息をついた。こう間断なく襲撃が続けられると、ゆっくり呼吸をする暇もない。
 けれど、その時のことだった。
 突然、後ろからの襲撃があって、室寺は右の肩口を強打されていた。とっさのことで、〈英雄礼讃〉による防御も間にあわない。
 すぐさま反撃してその人形は片づけたが、すでに背後からも敵影は忍びよりつつあった。室寺はコートによる防御魔法を展開すると、人形の群れを突破してスタンドのほうへと戻った。いくらか殴られはしたが、魔法のおかげでダメージというほどのものはない。室寺はそこからスタンド上段に移動して構えをとるが、さすがに息は荒かった。
 人形たちは獲物が力尽きるのを待つ肉食獣のように、そんな室寺をじっと取り囲んでいる。

「――確か、白鳥座の嘴のことだったわね」
 と、フユはようやく思い出したように言った。
 場所は、時計台の設置された中央広場のことである。四人は例の六つめの問題について考えているところだった。
「小説中では例の鳥捕りに会ったあと、二人はその横を通る。観測所、ということになっていたはずだけど」
「観測所、ねえ」ナツは連想を巡らしてみるが、あまりぴんと来ない。
 問題の書かれたその文字盤の上では、時計の針が厳しい顔つきで進んでいく。上官の命令に従う兵隊みたいな様子で。
「白鳥座って、どこあるの?」アキが訊いた。
「天の川のほとり。七夕の彦星と織姫のあいだにあって、二人をつなぐカササギの橋にも例えられるわね」
「――そうか、星座だ」ハルは不意に言った。
「ハル君、わかったの?」
 アキが訊くのも構わず、ハルは広場にある園内地図の置かれた場所へ向かう。その地図の各地点を指さしながら、ハルは言った。
「今までに出された問題は六つ。その問題があった場所を線で結ぶと、白鳥座に似た形になるんだ。ちょうど尾から首のあたりまでに四つと、両翼に二つ。それでアルビレオの位置は嘴になるから――」
「子供の広場?」
 アキがハルの指先にある場所の名前を読みあげた。公園内にあるレクリエーション用の施設で、ここは競技とは関係なく一般向けの遊具が置かれている。
「たぶん、そうだと思う」
 ハルはうなずいた。
「なるほど。基本的に全部の問題を解かないと、最後の正確な位置はわからないってわけだ」
 とナツは感心した。
「何にせよ、行ってみればわかることね。本当に佐乃世さんがいるかどうかは――」
 フユはあくまで慎重な態度を崩さずに言った。
 四人は車に乗りこみ、目的の場所へと向かった。そこに佐乃世来理がいるなら、もうゲームを続ける必要はない。室寺は戦闘から解放され、おそらくはこちら側の勝ちということになるのだろう。
 心なしか今までより短い時間で、車は目的地に到着する。舗装路の向こうには、緑の芝生とカラフルな遊具の置かれた空間が広がっていた。たぶんここでなら、いくら遊んでもロバになったりサーカスに売られたりする心配はないだろう。
「来理さんは?」
 と、アキはあたりを見渡して言う。
 子供の広場に、もちろん人影はない。本来あるべきはずの子供の姿も声もなく、いくつもの遊具だけが忘れられた古代の遺物めいた空虚さでたたずんでいた。緑の芝生は春の陽射しを浴びて、洗濯したばかりのような輝きを放っている。
 広場を歩くうち、四人は足をとめた。ちょうど鉄棒や雲梯の並ぶあたりである。そこには確かに、佐乃世来理の姿があった――ただし、彼女は二人いた。

 県庁の十九階は、一般に対して展望台として開放されていた。清織はそこにある四角いソファの一つに座って、町を眺めている。脇に本を抱え、足元にはバッグが置かれていた。
 郊外の外れに近い場所だけあって、窓からの眺望はあまり現代的とはいえない。のっぺりとした住宅地と、特徴のない店舗が並び、山の裾野までそんな景色が続いている。道路を走るミニカー大の車は、餌を探す蟻の群れに似ていた。ちょっと大きめの巨人が一跨ぎすれば、何もかもぺしゃんこに潰れてしまいそうに見える。
 全面を窓ガラスに覆われた展望ラウンジには、人はほとんどいない。友達連れらしい老人たちや、休憩中らしいビジネスマン、ベビーカーを押す若い夫婦、そんなところだった。小さなオープンカフェの席も今はがらんとして、店員が所在なげに掃除をしているだけだった。
 フロアの片隅では、「子供の世界」と題された展覧会が開かれていた。学校関係者が主催したものらしく、題名の通りに子供の描いた絵が飾られている。清織はこの場所にやって来た当初、その展覧会の絵を眺めていた。
 それらは子供の絵だけあって、ひどくまとまりを欠いていた。ちょっと驚くほど写実的なものから、絵の具から直接色を塗りつけたような派手なものまで、千差万別である。テーマも、モチーフも、驚くほど統一感を持っていない。
 清織はそんな絵を眺めながら、けれど何も感じてはいなかった。それは無感情や無感動とは違う、ただの色のない空白だった。知らない外国語の文字を読むのと同じで、そこに意味があることはわかっても、読解することはできない。
 それらの絵に描かれた世界は、清織とは無関係のものだった。月の上では光や、温度や、重力がこの世界とは異なっているのと同じで。
 ――彼らの求める完全世界は、僕とはまるで違ったものだ。
 清織にわかるのは、ただそれだけだった。虫食いだらけで題名もろくに読めない本を前にしたみたいに。
 それから清織はソファに座って、町の様子を眺めていた。人を待っている。連絡した時間を考えれば、その人物はもうすぐやって来るはずだった。
 しばらくして、その人物は予定通りに姿を現した。フロアにあるエレベーターから降りて、あたりを見まわす。すぐに清織の居場所に気づいて、そちらのほうに向かった。やや、慌てたような足どりをしている。
 その人物はいつものようにセーターとスラックスという、好々爺然とした格好をしていた。それでもこの人物の姿には、控えめな気品のようなものがあった。使いこまれた職人の道具に、一種の歴史的厚みが存在するのと同じで。
「急に呼びだしなどされて、いったい何のご用ですか?」
 と、秋原老人はいささか落ちつかない様子で言った。普段と比較してみれば、法外なほど狼狽しているといっていい表情である。
「ちょっとあなたにお聞きしたいことがあったんです、秋原さん」
 清織は立ちあがると、他意のないことを示すように懇ろな笑顔を浮かべた。どちらかというとそれは、写実的な仮面のように見えたけれど。
「しかし、わたくしなぞにわかることなど、きっとありはしませんよ」
 と秋原は困惑したように言う。彼自身は、魔法使いではなかった。秋原尚典はただ縁あって鴻城に仕え、長年のつきあいから彼に私淑している忠実な従僕にすぎなかった。魔法のことについては知ってはいたが、心のどこかでは信じきっているわけではない。だが現実的には何度もその力を目にしていたし、何より鴻城自身が歳をとらなかった。
「いえ、あなたでないと困るんですよ、秋原さん」
 清織は笑顔を変えないまま言った。
「はて、わたくしなぞにいったい何をお聞きしたいというのですか?」
 秋原は自分の声がかすかに震えるのを感じた。軽業師の足元で揺れる、頼りないロープのように。
「たいしたことじゃありません」と、清織は本当に簡単そうに言った。「ただ、鴻城希槻の居場所を教えて欲しいだけです」
「…………」
 秋原はにわかには口をきけなかった。その質問の答えには、並外れて重量のある重石を乗せてあった。例え梃子が与えられたところで動かせないくらいの。
「お言葉ですが清織さま。あなたのおっしゃることがよく理解できないのですが……?」
「ごく簡単なことです。鴻城希槻の秘密の居場所を知りたい、と言っているんです。いつも使っているのとは違う、特別な場所です。あなたはそれがどこにあるか、知っているんでしょう?」
「それは――」
 確かに、秋原はそれを知っていた。しかし、
「清織さま、それは造反というものです。何人たりとも、そのようなことを知ろうとしてはいけません。これがご冗談でないというのなら、わたくしは鴻城さまにご報告しなければなりません。いずれにせよ、わたくしのようなものからは、口が裂けても教えられないことです」
「あなたがそれを言わないだろうということは、もちろんわかっていました」清織の口調はまるで変わっていなかった。「そしてまさしくその鴻城希槻に仕える≠ニいう願望によって〈悪魔試験〉がかけられているのだということも――」
 清織はそれから、小学生が算数の九九でも読みあげるようにゆっくりと、丁寧に言った。
「けれどあなたはこれから、自分から望んでそれを話すようになります」
「いったい、それは――?」
 怪訝な顔をする秋原の前に、清織は足元にあったバッグを置いた。
 どさり、と何か重量のある物音がする。
 秋原はいつのまにか、冷や汗の流れるのを感じた。もう何年も水を飲んでいないかのように口の中が渇く。電話を受けたときからあった不吉な予感が、急速に形をとりつつあるような気がした。娘夫婦に連絡がつかないのも妙である。今すぐ孫の声でも聞ければ、こんな悪夢めいた不安は霧散してしまうはずだった。
 目の前に置かれたバッグに、おかしなところはない。ごく普通のスポーツバッグというところだった。たいしたものなど入りはしないだろう。けれどすべての災いが詰まっていてもなお、こうまで禍々しい気配を感じることはなさそうだった。
 秋原は憑かれたように、バッグのファスナーを開ける。
 その中には、何か黒い物があった。暗くて、よくは見えない。バスケットボールくらいの大きさだろう……何だか、妙だ。黒いものは、毛のように見える。まるでかつらだった。バッグに手をかけたときの感触から、かなりの重量だとわかる。植木鉢くらいだろうか。いったい何が、入れられているのだろう? これは――
 そして秋原の心臓は、停まった。
 悲鳴さえ出ない。彼はそれが何なのかを知った。
 その顔を、見間違えるはずはない。誰よりも、そう――おそらくは主人である鴻城希槻よりも大切に思っているであろう、その存在のことを。
「――――」
 秋原は長くのびきったゴムから手を離すみたいにして、短く息を吸った。
 心臓が、再び鼓動を開始する。
 牧葉清織は、見くびっていたのだ。この老人は、切断された孫の首を見せられたくらいで、恐怖から秘密を暴露するような精神の持ち主ではない。そのような行為はただ、硬度の高い悲しみと、絶望的な憤怒を呼び覚ますだけだった。
 彼は決して、牧葉清織を許すことはないだろう。例え刺し違えてでも、この男を――
 そう思っていた彼は、甘かったのだろう。
 何故、清織が「自分から望んでそれを話すようになります」などと言ったのか。
 ――それはすぐ、明らかになる。
 秋原の足元にあるバッグの中で、何かが動く気配がした。蛹になった昆虫が、繭の中でかすかに身じろぎするような具合に。

「……お願い、私を、殺して」

 首だけで生きているそれは、言った。
 秋原は今度こそ、悲鳴をあげた。いや、おそらくあげただろう、と自分では思う。その前に喉が裂けてしまったのかもしれない。一瞬で耳が壊れてしまったのかもしれない。ただ、秋原は奇妙な音が耳にこだまするのを聞いただけだった。あるいはそれは、世界か老人自身のどちらかに罅が入る音だったのかもしれない。
 すべてのことを、秋原はしゃべった。もはや鴻城希槻への忠誠心など、この世界のどこにも存在しようがなかった。
 彼の願いは、今やたった一つのことでしかない――
 清織は最後に、それを叶えてやった。もうこの老人は不用だった。あるいはそれは、わずかばかりの慈悲心のようなものだったのかもしれない。
「僕はこの世界に対して、どれだけでも残酷になることができるんですよ」
 もう絶望する必要もなくなった秋原尚典に向かって、清織は言った。
 月の光のような、優しい笑顔を浮かべながら。

「何で、来理さんが二人いるの?」
 アキは古典的感情表現であるところの、両手で強く頬を挟む、というポーズをとった。よほど混乱していたのだろう。
 だが、それも無理はなかった。
 四人の前には、まったく同じ姿をした佐乃世来理が二人いた。両方とも縄で後ろ手に縛りあげられ、二つ並んだ鉄棒にやや距離をとってつながれている。目隠しはされていなかったが、猿轡をかまされて声は出せない状態だった。
「どっちかが偽者なんだろうな、やっぱり」
 ナツは間違い探しでもするように、慎重に二人を見比べる。
「ええ、例のサクヤって子の魔法でしょうね」
 フユも目を凝らしながら言った。
 二人の姿はまったくの同一で、少なくともこの距離からでは違いを見わけられそうになかった。服装も同じで、動きも制限されている。声が出せないのだから、何らかの質問を加えるというわけにもいかなかった。
「とにかく、ロープをほどかないと……」
 と言ってアキが近づこうとするのを、ナツが手を出して制した。
「下手に近づくのはまずいだろう」
「何で?」
 アキは不満な顔をする。
「――そうね」
 けれどフユは、ナツに同意した。
「何をしてくるかわからないのだから、ただ接近するだけというのでは危険すぎる。それに私たちより、偽者のほうが佐乃世さんに近いわけだし……」
「でも――」
 と、アキがなおも言い募ろうとするのを、ナツは押さえた。
「これは連中の時間稼ぎだ。とりあえず、この状態なら何も起こらない。一番厄介なのは、偽者が佐乃世さんを連れてまたどこかに雲隠れすることだからな」
 アキは不服そうな顔のまま、一応は黙った。とはいえ、状況はまったく変わっていない。
(私の魔法でなら、一人だけは拘束することができるけど――)
 と、フユは考えていた。〈断絶領域〉で不可視の壁を作れば、どちらか一方を閉じこめてしまうことは可能である。けれど、この魔法で作れる壁の面積には限界があって、完全に密閉するとなると一人分がいいところだった。
「ハル君なら、わからないかな?」
 そう、アキは相変わらず無茶なことを言った。これだけの距離があると、まばたきの様子すらろくに見えないというのに。
(――絶対に、わかりっこないわね)
 四人の前で、サクヤは密かにほくそ笑んでいた。〈妖精装置〉による変身は完璧で、現在の姿でもそのまま真似ることができる。ついさっきできた傷跡や服のほつれがあったとしても、それは同じだった。
(とにかくこうしていれば、ニニのやつは目的を達成できるはず)
 サクヤはただこのまま、捕まった佐乃世来理のふりをし続ければいい。
「……うーん」
 と、ハルは考えている。この距離で、なおかつ言葉や動作に頼らず本物の来理を見極める必要があった。
 ハルは不意に、ポケットから感知魔法≠フペンダントを取りだす。
「なるほど、魔法で変身してるなら揺らぎがあるはずだもんね」
 アキはぽんと手を打った。が、
(無理ね――)
 とサクヤは冷静に思っている。変身中に比べると、変身後の揺らぎはごく小さい。これだけの距離があれば、感知魔法£度では揺らぎを発見することはできなかった。
 確かに、それはできないはずだった。
 けれど――
 サクヤはすぐ近くから、魔法の揺らぎを感じた。何の形も作らずに、ただ世界をかすかに揺らすだけの波。静かな子守唄にも似た、ゆるやかなリズムを持った――
「……!」
 まずい、と思ったときには遅かった。ハルにはもう、本物がどちらなのかがわかっている。
「左のほうが、本当の来理ばあちゃんだ」
 言うのと同時に、フユの魔法が飛んだ。
 〈断絶領域〉による壁が、偽者の四方を囲む。
 わずかの差で、サクヤは間にあわなかった。変身を解き、元々縛ってなどいなかった縄目をほどいて逃走しようとしたが、鼻の差で追いつかない。透明な壁に強かぶつけて、サクヤは頭を抱えこんだ。
「もう大丈夫よ――」
 フユは言う。だいぶ距離はあったが、十分に魔法の効果範囲だった。偽者はどこかの魔神みたいに、完全に瓶詰め状態である。
「でも、どうしてわかったの?」
 その場にいた全員の中で、アキだけが不思議そうに言った。
「魔法の揺らぎで信号を作ったんだよ」
「信号?」
 ハルはうなずいてみせる。
「昔、訓練のついでにそんな遊びを考えたことがあるんだ。モールス信号みたいに、揺らぎで合図をしあうっていう」
 ハルが感知魔法≠使ったのは、来理の作った揺らぎを感じるためだったのである。
 ともかくも、四人は来理のところへと向かった。サクヤは見えない壁を蹴ったり叩いたりして悪態をついていたが、音も遮断されているのでそれらは一切聞こえてくることはない。何となく、壊れた玩具を連想させる眺めでもあった。
 四人は苦労してロープをほどくと、猿轡を外した。来理はさすがに憔悴した様子だったが、存外元気そうに笑っている。
「まさか、あなたたちに助けられるとは思ってなかったわね」
「室寺さんはちょっと忙しかったんだ」
 ハルは来理が無事なことを確認して、さすがにほっとした顔をしている。
「そう、人形と遊ぶのでね」
 とアキが冗談めかして言うと、「人形?」と来理は怪訝な顔をした。が、ナツがそれを押しとどめている。
「その話はあとでいいから、今は用事を先にすませちまおう」
「用事って?」
 アキの表情にとぼけたところはなかった。
「……室寺さんに、佐乃世さんの救出を伝えなくちゃならないでしょ」
 フユは珍しく、少し疲れたような声で言った。
「ああ、そっか」
 特に懲りた様子もなく、アキはうなずく。
 それからの準備は、ナツの仕事だった。ウエストバッグからいくつかの物を取りだす。紙の筒、ゴムボール、小さく丸く切りとったダンボール。ボールには、短い糸がセロハンテープで貼りつけられていた。それらに、ナツは〈幽霊模型〉で必要な記号を描きこんでいく。
 魔法によって記号が現実化されると、ナツはまず紙筒を地面に埋めこんだ。レンガ≠フ模様で強化してあるので、足で踏むとすぐに半分ほど土に埋まる。次に火薬としてドクロマーク≠フ描かれたダンボール紙を筒の底に敷き、花火≠フ絵がついたゴムボールをそこに投入する。
「みんな、ちょっと離れてくれ」
 と、ナツは手で距離をとるよう指示した。
 周囲の安全を確認すると、ナツはマッチを擦って火をつけた。これは、本物である。スープに塩でも入れるみたいに、ナツはその火を紙筒の中に放りこんだ。
 途端に、鋭い炸裂音がしてボール玉が打ちあがる。
 それと同時に火のついた導火線が、ゴムボールに描かれた記号にしたがって空中で爆発を起こした。空の低いところで火花があがり、色とりどりの原色が着いた煙が広がる。音だけは夜と変わらない響きようで、あたりの空気を乱暴に打ち鳴らした。
「……何だか、できそこないのクラゲみたいだね」
 耳をふさいでいたアキは、空中に広がった煙を見て感想をもらす。煙は風で段々と形を崩しつつあったが、しばらくのあいだは空に浮かんでいることだろう。
「とりあえず、これで室寺さんも気づくだろう」
 ナツはその批評には反論せずに、色の着いた小さな雲を眺めながら言った。
 その隣では、古い映画みたいな格好でサクヤが無音のまま騒ぎ続けている。

 おそらく、知らず知らずのうちにだろう。鷺谷は身を乗りだすように窓ガラスの外を眺めながら、唇を尖らせていた。スフィンクスみたいに表情そのものに変化はない。が、目の前の事態をどう思っているのかは明確だった。
(――おやおや)
 と、烏堂は内心でくすりとしている。苦虫をかみつぶしたとき、この男はそんな顔をするらしい。
 烏堂の手元にあるモニターでは、室寺と人形たちの戦闘が佳境を迎えつつあった。
 人形たちの残存数は、数十体ほどにまで減少している。スタジアムにはそこら中に白い破片が散らばり、死屍累々というところだった。
 室寺はスタンドの壁を背にして、人形たちの攻撃を迎え撃とうとしている。その場所でなら背後を気にせず目の前の敵に集中できるからだったが、同時にそこまで追いつめられているということでもあった。疲労は蓄積し、魔法の力は枯渇しかけている。
 人形が二体同時に襲ってくるのを、室寺は機械のような冷静さで時間差を見極め、まず一体を破壊した。それから相手の拳打を半ば受けつつ、もう一体の頭部を一撃する。もはや無駄な動作をするほどの余裕も残されていない。
「このままだと、スタジアムの人形は全部倒されそうですね」
 と、烏堂はつぶやいた。疲労困憊の態だったが、それだけの力はありそうだった。ようやく故郷にたどり着いてから、不埒な求婚者どもを一人残さず射殺すくらいには。
「人形はここにあるもので全部というわけではありません」
 鷺谷はすぐに反論した。少々、ヒステリックな調子でもある。
「そのために苦労した仕かけです。いずれはあの男だって力尽きることでしょう」
「でも、ほかの場所にはそれほど人形の数はありませんよ」
 別に逆なでするつもりはなかったが、烏堂は肩をすくめて穏当な意見を口にした。
「私は与えられた仕事は必ず成功させる人間です。報酬の分は働く、それがまっとうな人間としては当然というものです」
 白鳥の断末魔というほどではないにしろ、鷺谷は小さく叫んだ。
 まっとうでもまっとうでなくても、うまくいかないときはうまくいかないものですよ、と烏堂は慰藉しようとした。
 ――その時である。
「二人とも動かないでください」
 いきなり、声がした。
 二人が驚いてそちらを見ると、いつのまに入ってきたのか、部屋の入口には一人の女性が立っていた。眼鏡をかけ、手には拳銃らしきものを構えている。子供の頭に乗ったリンゴを狙うようなその目つきと雰囲気からして、的を外すような期待と心配は無用のようだった。
 ほとんど反射的に、二人は手を挙げる。樽に刺さった剣が当たりを引いたみたいに。
「私は魔法委員会の者です。あなたたち二人を魔法の不正使用の疑いで拘束します。委員会には魔法使いの捕縛、及び生殺与奪の権限が認められています。怪我をしたくなければ、下手な動きはしないよう気をつけてください」
 言いながら、彼女は二人のうちの一方に見覚えがあることに気がついた。
「――確か、烏堂有也さんでしたね?」
 烏堂は両手を高く挙げたまま、苦笑いを浮かべる。
「ええ、その通りですよ。千ヶ崎朝美さん」
 朝美は油断なく銃を構えたまま言う。
「まさかもう一度あなたと会うことになるとは思っていませんでしたね。雨賀さんはどうしたんです? 今日はパートナーがいつもとは違うみたいですが」
「……みんなそれを聞くんですね」
「は――?」
「いえ、こっちの話です」烏堂はもう一度苦笑した。「あの人は出張中で、今は物語の外側にいるんですよ」
「よくわかりませんが、ここにいるのはあなたがた二人だけのようですね」
「残念ながら――ところで、あなたのほうこそどうしたんですか? 視力でも悪くしたんですか。前はそんな眼鏡、かけてませんでしたよね」
「これはいわゆる、伊達眼鏡というやつです」
 朝美は笑いもせずに言った。
「……女性がおしゃれをするのはいいことです」
 皮肉かどうかよくわからない口調で、鷺谷が言った。そんな軽口もきくらしい。
「私がどうやってあなたたちを見つけたと思っていますか?」
 そんな鷺谷の相手はせずに、朝美は続けた。
「それと、その眼鏡に関係があると?」
 烏堂は唇を尖らせる。鷺谷の癖がうつったのかもしれない。朝美はうなずいて言った。
「この眼鏡は今、片方がサーモグラフィー≠ノなっています。もちろん、私の〈転移情報〉によるものです。それで、この場所に窓からのぞいている人間がいることに気づきました」
 なるほど、と烏堂は鷺谷のほうを見る。その視線の意味に気づいたらしく、鷺谷は憮然とした表情を浮かべた。
「この部屋にも人形を配置しておくべきでしたね。そうすれば、こんな無様なことにはならなかったでしょう」
「あの人形を動かしているのは、あなたの魔法ですか?」
 朝美は銃口の向きをわずかに変えた。
「その通りです」
 抵抗はせずに、鷺谷は答える。
「別の場所にあったものは、動かないようでしたが?」
「条件が違うからです。ここにあるもの以外は、特定の人物が接近したときにだけ反応するように仕組んであります」
 自分の仕事に欠陥があると思われるのは気に食わない、というふうに鷺谷は言った。
「つまり、室寺さんがいるときにだけ動きだす、と?」
「ええ、そうです」
「では――」
 と、朝美が口を開こうとしたとき、異変が起こった。
 公園いっぱいに大砲のような音が響きわたったのである。空気の震えで、窓ガラスが軽く揺れる。放送室からは光も煙も見えなかったが、この音に気づかないはずはない。
 もちろんそれが何なのかを、千ヶ崎朝美は知っていた。
(さすが、あの子たちね――)
 朝美は心の中で、静かに賞賛する。さすが完全魔法の持ち主だけのことはあった。
「何なんですか、今のは?」
 窓の外をうかがいながら、鷺谷は神経質そうに訊いた。
「佐乃世さんが保護されました」
 と朝美は澄ました顔で告げる。
「まさか?」烏堂は半信半疑といった様子で言った。「執行者はもうほかにいないはずですよね。誰が彼女を助けられるっていうんですか」
 朝美は、彼女を助けた四人のうちの一人はあなたもよく知っている相手です、と言おうかと思ったが、やめておいた。特に言う必要のあることでもない。
「そんなことより、あなたたちにはやってもらうことがあります」
 再び銃口を向けて、朝美は言った。二人は慌てて、手を挙げなおす。いいかげんに、この格好も疲れはじめていた。
「今すぐ、人形たちを停止してください。ここだけじゃなく、公園全体の」
「あー……」烏堂はちらりと鷺谷のほうをうかがう。
「できない、とは言わせませんよ」
 朝美はにこりと笑った。はじめての笑顔のわりに、その表情が今までで一番凄惨な感じがしている。
「……仕方ないでしょう」
 鷺谷はため息をついた。ここで、できないと言うほどの度胸と演技力はなかった。それほどの義理と報酬も。あくまで公平に取り引きをすることが、鷺谷聡の信条でもある。
 人形の停止条件は、あらかじめ組みこんであった。鷺谷は機器を操作して、公園内に放送をかける。しばらくすると、スピーカーから音楽が流れはじめた。ゆったりとした落ちついた曲だったが、朝美には何の曲なのかはわからなかった。
 効果は、すぐに現れている。
 フィールドでは室寺の前にいた人形が動きをとめ、眠りにつくように、あるいは夢から覚めるように地面へと頽れていった。まさしく、糸の切れた人形である。誰かが手を離してしまえば、もう自分では立つこともできない。
 とはいえ、その場にはすでに二体の人形を残すのみとなっていた。もしもそのままだったとしても、室寺が片づけてしまっていただろう。
 その室寺はというと、人形といっしょに地面に倒れこんでしまいかねないほど疲れきった様子をしている。背後の壁にもたれ、かろうじてまだ立っているという状態だった。しかし、まだ立ってはいる。
(あの人ならきっと、いい準備運動になったとか何とか、そんなことを言うのだろう――)
 そんなことを考えて、朝美は少しおかしかった。だがいずれにせよ、事態はこれでほぼ決定的である。
「――どうやら、私たちの勝ちみたいですね」
 千ヶ崎朝美は一人、密かに勝利宣言を行った。

 その少し前のことである――
 照明塔の上にいたニニは、誰よりも早く異変に気づいていた。ナツが合図の花火をあげる、その前にである。
 ニニの〈迷宮残響〉は、あらゆる振動をコントロールすることができる、というものだった。声とは、空気の振動にほかならない。だからこの少年は、遠く離れた人物の音声でも正確に聞くことができる。
 ただしある程度の距離があった場合、それはかなり難しくなった。振動の特徴をうまくとらえ、増幅してやることができないからである。ラジオの周波数をあわせられないみたいに。ニニがそれをできるのは、実のところサクヤ一人に限られていた。同じホムンクルスであるせいかもしれないし、ほかに何か理由があるのかもしれない。
 いずれにせよ、ニニはその魔法でサクヤの身に何かが起こったのを察知した。彼女からの振動が完全に途絶えてしまったのである。まるで、空間そのものが断絶してしまったかのように。
(サクヤ……!)
 次にどう動くべきかの選択を迫られたとき、ニニの心に迷いはなかった。迷う必要も。どこかの王女のくれた糸がなくとも、どこに向かうべきかはわかっていた。
 スタジアムでは、風船の空気が抜けるみたいに室寺の力は底をつこうとしていた。もう少しすれば、あの超人を確実に倒せるようになるかもしれない。それが、今回もっとも優先すべき目標でもあった。
 けれど――
 ニニには、やはり迷いはない。光が常に空間にそって直進するのと同じで。それは造物主である鴻城希槻に対する忠誠心とは別に働く、彼が持つ数少ない感情の一つだった。

 ――その感情が何と呼ばれるものなのか、この少年が最後まで気づくことはなかったのだけれど。

 四人の子供たちと佐乃世来理は、空に残った煙を眺めていた。赤や黄色といった色つきの煙は、誰かが気まぐれにクレヨンを塗りたくったみたいな格好でそこにあった。風が吹いてその形は崩れ、徐々に薄くなりはじめている。
 花火の打ちあげ後、五人はとりあえずその場に待機していた。一刻も早く室寺たちと合流して事後策を練るべきだったが、肝心の二人とはまだ連絡がとれていない。
 そのあいだに、ハルは来理に向かってことのおおまかな経緯を説明していた。招待状やスタジアムでのこと、どうやってここまで来たのか、といったことについて。
「――ずいぶん手の込んだことをしたものね」
 と来理は感心したように言った。鴻城の屋敷に軟禁されているあいだ、あの二人とは何度も話をしている。彼らを敵≠ニ呼んでいいのかどうかは、来理にはわからないことだった。
 そうしてしばらく、五人はその場に留まっている。これからどうすべきかについて考えているためだったが、動けないのにはもう一つ理由があった。
 フユの〈断絶領域〉で作られた壁の中に、サクヤが囚われている。
 さすがにもう、暴れるようなことはしていない。はじめの頃は豹になってひっかいたり、熊になって叩いたりしていたが、まるで意味がないことがわかるとやめてしまった。空間そのものを区切るこの壁は、どうやっても破ることはできないのだ。それにこれでは、体のいい動物園だった。
 ただし内部から何もできないのと同じ理屈で、外からも処置の施しようがなかった。完璧な牢獄であるとともに、究極のシェルターでもある。ホムンクルスであるためか、今のところ酸欠といった症状に襲われることもない。この少女は仏頂面のまま、ただ退屈そうにしているだけだった。
 〈断絶領域〉の効果範囲は概ねフユの視認領域でもあるため、このまま立ち去るというわけにはいかない。檻から脱出できれば、サクヤはすぐにでも襲いかかってくるだろう。
「どうしたものかな……」
 と、ナツは試験管の中にある溶液でも確認するみたいにサクヤのことを見た。その少女がいつかデパートで見たのと同じ人物だということには、ついさっきようやく気づいたところである。
「あなたの〈幽霊模型〉と性格で何とかならないかしら?」
 フユは魔法の維持に注意しながら、訊いてみた。
「……性格は関係ない」ナツは小さくうめく。
「わたしやハル君の魔法じゃどうにもなりそうにないから、ナツが何とかできないかな?」
 アキもフユに荷担して、そう訊ねた。
「とは言いますがね」
 ナツは肩をすくめるようにしている。単純な拘束をしたところで、変身能力があるのだから簡単に逃げられてしまうだろう。とすれば、眠らせるなり何なりして意識を奪えればいいのだが――
「ところで前から気になってたんだが、どうしてお前はハルのことは君づけで、俺のことは呼び捨てなんだ?」
 ふと、ナツはそんなことを訊いた。
「ん――」アキはあめ玉の味をどれにするか迷うくらいの口調で言った。「人間としての格の違い、かな」
「格、かよ」
 さすがのナツも、二の句が継げない。
「そう、人間としての」
 アキはいたってまじめな顔で言う。
「……二人とも、余裕があるのはけっこうだけど、そろそろどうすべきか決めておくべきじゃないかしら?」
 と、来理は見かねたように言った。
 ――ちょうど、その時である。
 公園いっぱいに、音楽が響きわたった。もちろんそれは、鷺谷と烏堂の二人を捕縛し、スタジアムの放送室で朝美が流させたものである。無骨なスピーカーのせいで、音には割れた卵みたいな罅が入っていた。けれどその曲を聞いて、
(ああ、やっぱりか――)
 とナツは思っていた。あの白い人形は、やはりアニメに出てきたものだったのだ。何しろ今流れているのは、そのアニメのエンディング曲なのだから。といって、それがどうしてなのかということは、さすがのナツにもわからなかったが。
「何なのかな、これ?」
 アキは不審そうな顔で言った。
「わからないけど、スタジアムで何かあったのかもしれない」
 とハルはそちらの方角を見ながら言う。
「室寺さんが負けちゃった、とか……?」
「それはどうかな――でも、ぼくたちの花火に反応した可能性もあるけど」
「とりあえず、二人に連絡したほうがいいんじゃないか?」と、ナツは言った。「何せ、終わりの曲なんだからな」
 ――その時、それに気づいたのはフユ一人だった。
 いつだって、口数の少ない人間が最初に気づくものなのだ。鳥は周囲を警戒するときに囀ったりはしない。その嘴が鋭い警告音を発するのは、敵を発見したときだけだった。
 だからフユには、
「みんな、私の後ろに――!」
 その攻撃を防ぐことができたのである。
 ソニックブームに似た衝撃波を、フユの魔法で展開した壁が遮断した。空気を力任せに引き裂くような鋭い轟音が、あたりに逆巻く。壁の範囲外にあった周辺では、地面をひっくり返してしまいそうな勢いで風が吹きぬけていった。
 フユの作った壁は、五人全員を守るだけの広さを持っていた。同時にそれは、〈断絶領域〉の限界面積いっぱいでもある。世界を壁で区切るのは、容易なことではないのだ。
 そのため、当然ではあるがサクヤを囲んでいた壁は消滅した。例え目には見えなくとも、揺らぎがなくなったことはわかる。サクヤはすぐさま兎に変身すると、文字通り脱兎のごとく走り去った。その動きを、フユの魔法で捕捉することはできない。
 サクヤは問題の衝撃波を飛ばした人物――ニニ――のほうへと向かった。この少年はサクヤが捕まったことに気づくと、まっすぐここまでやって来たのである。最短距離を走破して。
 ニニのそばにまで来ると、サクヤは変身を解いて元の姿に戻った。救出されたわりには、この少女はクラスの席替えで嫌な相手の隣にでもなったような、不機嫌そうな顔をしている。
「何で、あんたがここにいるわけ?」
 開口一番で、サクヤは言った。助けられた人間のセリフではない。
「サクヤの声が聞こえなくなったんだ」
 ニニはいつも通りの調子で、特に反抗しようとはしない。「だから、ここに来た」
「室寺のほうはどうしたのよ?」
 サクヤはあくまで表情を変えようとしなかった。
「そんなのはどうだっていいことだよ、サクヤのほうが優先だ」
 真顔でそんなことを言われて、サクヤは言葉につまってしまう。怒っていいのか喜んでいいのかわからないことを言われると、この少女はひどく困ることしかできなかった。鍵をなくして、自分の部屋に入れなくなったみたいに。
「それはどういたしまして――」
 サクヤは精一杯、皮肉っぽく聞こえるように言った。
「でもあんた、自分のこと王子様みたいに思ってないでしょうね?」
「思ってないけど、白馬にでも乗ってきたほうがよかったかな」
 と、ニニは珍しくそんな冗談を口にした。この少年は単純に、サクヤの無事を喜んでいる。
「ふん――」
 サクヤは怒るのと笑うのを同時にするような、変てこな顔をした。
「けど、あたしは王女様なんかじゃないわよ。あいつらの相手は、あたしがするから」
 そう言って、サクヤは〈妖精装置〉による変身の準備をはじめた――

 一方で、五人はこの突然の事態に対処しかねていた。少年と少女のほうまでは、だいぶ距離がある。かといって、簡単に逃げられるとは思えなかった。こちらには来理もいるのだ。
「あれって、ニニって子だよね?」
 アキが目を凝らしながら言う。状況から考えても、それ以外にはありえそうにない。
「たぶんな――これはけっこう、まずい状況だぞ」
 ナツは爪を噛むような具合に言った。
「そうね」フユも短く同意する。「私たちには、あの子をどうにかするような戦闘力はない……」
「――室寺さんはどうしたんだろう?」
 ハルは少し心配するように言った。もしかしたら、室寺蔵之丞はすでに敗れてしまったのかもしれない。
「もしそうだったら、白旗をあげたほうがいいんじゃないかな?」
 とアキはどこかのん気そうに言った。事態の深刻さをどれくらい理解しているのか、ちょっと疑問になるくらいの落ちつきようだった。
「それで許してくれるかしら?」
 元結社にいただけあって、フユの見とおしは暗い。
「それに室寺さんがまだ無事なら、俺たちは体のいい人質になる」
 ナツが指摘した。
「……あの二人、フユの魔法で何とか拘束できないかしら?」
 と、来理はいたってシンプルな提案をした。けれどフユは、首を振っている。
「それは少し、難しいでしょうね」
 フユの〈断絶領域〉には展開面積に限界がある。二人を同時に拘束することは難しかった。一人だけ捕まえても、あまり意味はない。
「じゃあ、どうすればいいの?」
 アキがもっともな疑問を口にするが、もちろん答えられる人間などいない。
 そうこうするあいだに、サクヤはこちらのほうへと足を踏みだしていた。
 ――魔法の揺らぎが、彼女から発生する。
 その揺らぎは、かなりの大きさだった。一種の津波か、竜巻みたいに。彼女を中心にして、蜃気楼にも似た空間の歪みが生じる。そこには神々の黄昏を告げる角笛を思わせるような、重くて暗く、不吉な響きが充満していた。
 〈妖精装置〉による変身が完了すると、そこには巨大な生き物の姿があった。
 全体としては、トカゲの姿に似ている。大きさは小さな小屋ほどもあって、全身が鋼のような鱗に覆われていた。首が長く、手足は短く、その体躯にはあたりの重力が変化してしまいそうなほどの、質量感と密度があった。鎧兜を連想させるごつごつした頭部には、黄玉を思わせる瞳が爛々と輝いている。
 長い尾をしならせて地面を一打ちすると、鈍い打撃音とともに軽い震動があたりを伝わった。
 たぶんそれは、古来からこんなふうに呼びならわされているものだった。
 ――竜≠ニ。
「そんなのありなの?」
 アキはぽかんとして、その姿を眺めている。いくらなんでも、空想上の生き物に変身するとは。
「問題は外見じゃなくて、中身のほうだけれど……」
 来理も不安そうにつぶやいた。だがあの少女の魔法がこけおどしですむようなものだとは、とうてい思えそうにない。
 竜=サクヤは、五人のほうへと這いよってきた。それほどのスピードはなく、象がゆっくりと歩くような印象に近かった。やや離れた場所で足をとめると、首を動かす。鎌首をもたげた、というべきだろう。
「――みんな、伏せて!」
 再び、フユが指示した。同時にこの少女は四人の前に出て、〈断絶領域〉を展開させる。
 竜は蛇腹のようにその首を蠕動させると、灼熱の炎を吐きだした。
 高熱による発光が、五人の四方を囲む。
 けれどフユの作った透明な壁に遮られて、誰も火傷一つ負うことはなかった。熱風も燃焼音さえも、その壁を越えることはできない。
「もう、あの子乱暴すぎだよ」
 屈んで頭を抱えたまま、アキは悲鳴のような声をあげた。
 強力なガスバーナーのような炎は、しばらくしてやんだ。が、相手の様子を見るかぎりでは、すぐさま次の攻撃が飛んできそうだった。
 フユの魔法で守られなかった地面は、緑の芝生が完全に黒こげになった状態だった。まるで離れ小島か何かみたいに、五人のいる場所だけが元のままの色あいを保っている。とばっちりを受ける形で炎を浴びた遊具のいくつかは、塗装が熔融して流れ落ちてしまっていた。
 そうこうするうち、二度目の火炎放射が打ちこまれている。どうやらこの少女は、さきほどまでの鬱憤を晴らしているらしい。
 〈断絶領域〉による壁は、ちょうど三方だけを囲んだかまどのような形になっている。面積的にそれが限界だった。そのうえ、五人はぴったり身をよせあわなければならない。
「手がつけられんな、こりゃ」
 さすがのナツも当惑気味だった。このまま火炎攻撃が続けば、身動きすらままならない。
「どうしようか、ハル君?」
 意外と人物が大きいのか、アキにはもう動揺した様子はなかった。
「うーん……」
 ハルは難しい顔でうなった。すぐさま名案が浮かぶような状況ではない。
「…………」
 そんなやりとりを尻目に、フユはあることを考えていた。髪留めに手をのばし、そのことを思う。融けない雪の結晶に残されたもののことを。その力を使えば、あるいは――
 けれどその思考は、ハルの言葉で中断されている。
「ちょっと思いついたことがあるんだ――」
 と、ハルは言った。そのあいだに火炎放射はやみ、小休止の息継ぎに入っている。炎が消えると、前よりいっそう黒くなった地面が見えた。煙で燻されて、空まで少し焦げついたようでもある。
 見たところ、竜は少しずつこちらに近づいているらしかった。少年のほうはまきぞえを避けるためか、最初の位置に留まっている。
 やがて、三度目の火炎放射がやって来た。あまり近くまで来られれば、頭を隠しただけの今の状態では防ぎきれないだろう。
「――で、どうするんだ?」
 と、ナツが訊いた。
 ハルは一通りの作戦を、みなに伝える。要するに、何とか車までたどり着いて逃げだすしかない、ということだった。そのために、目前のこの状況をどう処理するか――
「……なるほどな、いけるんじゃないか?」
 この作戦の鍵にもなるナツは言った。この少年はさっそくそのための準備に入っている。
「アキは、どう?」
 とハルは彼女のほうを向いた。
「たぶん大丈夫だと思う。魔法はまだ、かかってるはずだから」
「フユは?」
「心配いらないわ。ここでこうしているよりは、ましでしょうね」
 話がまとまったところで、それぞれが準備にかかった。次の息継ぎに入ったところが、作戦開始の合図になる。
「……このままじゃ、蒸し焼きだもんね」
 暑そうに服をぱたぱたとしながら、アキは言った。

 清織は丘にそった住宅地の坂を、ゆっくりと歩いていた。
 麗らかな春の陽射しが、すべてのものを作り変えようとしていた。景色や、音や、時間までもが、透明な繭の中にでも入れられたように、黄金色の夢を見ている。世界は平和で、静穏で、退屈な眠りの中にあった。例え寄生木に貫かれた神は死に続けるとしても。
 歩きながら、清織はもうバッグは持っていなかった。秋原老人の死体ともども、それはあの場所に置いてきてしまっている。この世界から持っていくべきものは、もうほとんど残ってはいなかった。せいぜいが自分自身と、腕に抱えた本、そして彼女――
 あともう一つのものは、これから手に入るはずだった。
「…………」
 無言のまま、清織は坂道をのぼっていく。その様子には、春の陽射しでもこの青年を祝福しかねている感じがした。その足跡さえ、濃い闇になってしばらくは残っているようでもある。
 道の角を曲がったあたりで、清織は塀に手を添えて歩きはじめた。学校帰りの子供たちがよくやるように、世界に見えない痕跡を残しながら歩道を進んでいく。
 それからちょうど、かつて乾重史が鴻城の乗った車を見失ったあたりにまでやって来た。魔法による妨害によって、周囲の揺らぎは錯綜している。そこからは、清織は塀の様子を注視しながら歩く速度を落としていった。
 しばらくして、清織は足をとめた。
 そこは何の変哲もない塀の一部である。白い壁が、何の愛想もなく続いている。何かの言葉や、印が書かれているわけでもない。けれど清織はそこに、ゆっくりと指を這わせた。登山家がわずかな岩の凹凸を探るみたいに。目を閉じ、指先に意識を集中する。
 そして、清織は見つけた。
 ほんのかすかな、魔法の揺らぎである。精巧な時計の針が立てる、小さな音に似た揺らぎ。正確な場所を知らければ、発見することは不可能だろう。はるか彼方にある、人の目ではとらえられない星の光を見るのと同じで。
 それは隠匿魔法(コントラディクト)≠ノよって除去された魔法の揺らぎだった。この魔法はちょうど音波の山と谷をあわせるノイズキャンセリングと同じようにして、魔法の揺らぎを打ち消すのである。
 ただしそれは、完全に痕跡を消せるというわけではなかった。わずかだが、揺らぎは残る。それは本来なら、問題にもならない程度のものだった。感知魔法≠ナも検出できないほどの。実際には、それは針の先が地面に落ちたほどの跡も残すことはなかった。特に、揺らぎの錯綜したこの場所にあってそれを発見するのは、ほとんど不可能に近い。
 それでも――
 清織はそれを、見つけていた。
 指先で確かに揺らぎを探りあてると、清織は目を開いた。白い壁にはやはり、何の痕跡もない。盗賊の宝が隠された、どこかの岩壁みたいに。
 清織はそれから、本を開いた。左手でそれを持ち、右手を壁に当てる。
 そして壁のその部分を、さっと払う。机の上のゴミを、無造作にどけてしまうみたいに。
 瞬間、隠匿魔法≠ヘ消去されていた。ノートの文字を消すのよりも、容易く。そして防音壁が取り除かれたみたいに、隠されていた魔法の揺らぎが出現する。時計の針どころではない、教会の鐘にも似た巨大な揺らぎである。そんなものが今まで何の問題もなくそこにあったのだということのほうが、驚きだった。
 次に清織は、何かを摑むように壁の前に手をかける。
 そうしてベニヤ板でも剥ぐような具合に、力を入れて勢いよく手を引いた。 
 魔法の揺らぎがぐるりと反転し、地震に似た大きな揺れを作る。その場所にかけられていた魔法は、蜘蛛の巣を破るほどの容易さでずたずたにされていた。そして、組み変えられていた世界が元に戻る。空間に歪みが生じ、塀のあいだを割って道が出現する。いや、それは塀を割ったのではなく、空間そのものを割ったのだった。
 清織は紅海を行く預言者のように、その道に足を入れた。その先に、目指すべき場所がある。
 それからふと、清織は持っていた本をのぞきこんだ。あることに気づいて、足をとめる。その本には誰の手も借りずに、次々と言葉が綴られていた。今しも、文章は自動的に書き連ねられている。
 清織はそのうちの一文に、軽く指を当てた。そしてかすかな揺らぎとともに、その上をなぞっていく。世界そのものを記述したその文章は、彼の魔法によって一部が書き換えられていた。
「…………」
 と、清織は上空のほうを振り返り、かすかに微笑む。あるいはそれは、ちょっとした誤算にもなりうるような事態だった。彼らに対して、いくつものヒントを与えてしまう。世界そのものを書き換えるという彼の目的にとって、ある種の障害になるかもしれなかった。
 けれど――
 もう、遅い。その程度のことでは 何も変わったりなどしない。すべては手遅れだった。砂時計をひっくり返したところで、時間が逆戻りするわけではない。
 すべてはあの日の夜に、もうすでに決まっていたことなのだ。

 例によって、サクヤがいったん炎を吐き終えて小休止に入った瞬間のことである。
 五人のいるほうに、変化が起こった。
 フユの壁を解除して、二手に別れたのである。ハルとアキ、来理は公園の外に向かい、ナツとフユはその場に留まった。
 一瞬、サクヤはどちらを追うべきかの判断に迷った。〈断絶領域〉がなければ、炎に対しては丸裸同然になる。来理はさすがに年齢のこともあって全力疾走とはいかず、離れていく三人はまだ十分に熱攻撃の射程距離内にあった。一方で、残った二人が何をするつもりなのかはわかっていない。
 サクヤがそんな逡巡をしているうちに、ナツとフユの二人は動いていた。
 ナツの手には、〈幽霊模型〉で魔法のかけられたボールが握られている。かなり強力なものだったので、準備には時間がかかった。物をぎゅうぎゅうに詰めこんだ袋のファスナーを、無理やり閉めるようとするみたいに。
 そのボールを持って、ナツは投球体勢に入った。腕を大きく振りかぶり、右足を蹴りだすとと同時に左足を踏みこんで体を支える。腰の捻転と腕の回転、手首から指先のしなりを使って、ボールをリリースする。
 豪速球というほどではないにしろ、ボールはなかなかのスピードで放たれた。狙いは過たず、サクヤの顔めがけてまっすぐに飛んでいく。
(ふん――)
 と、しかしサクヤは思った。どんな魔法をかけたのかは知らないが、硬い竜の鱗を破れるはずがない。それにこんなボールなぞ、着弾する前に消し炭に変えることだって可能だった。
 だがそんなことはもちろん、二人にもわかっている。
 フユはサクヤの手前、ボールの軌道上にある場所に壁を作った。形としては、投球から彼女を守ることになる。当然ながら、ボールは壁に直撃した。
 直撃して、弾ける。
 ――大量の閃光を放って。
 世界が白く灼きつくされて、サクヤは完全に目が眩んでしまった。変身中は声帯も変化しているため、人の言葉を話すことはできない。サクヤはただ、岩が谷底を転がり落ちるような低いうめき声をあげるだけだった。どれほど頑丈な装甲であっても、光を防ぐことはできない。
 ナツとフユはそのあいだに、三人のあとを追って公園の出口に向かった。もちろん、閃光からは目をそらしている。
 頭にからまった蜘蛛の巣でも払おうとするように暴れるサクヤの後方で、ニニも同じように閃光の直撃で視界を奪われていた。ただしこの少年の場合、視覚以外でも行動が可能だった。いわゆる反響定位というやつで、自分で発した振動の響きをもとにして周囲の状況を多少は知ることができる。
 ニニは目を閉じたままサクヤの横を通りぬけると、五人のいるほうに向かった。このままみすみす逃がしてしまうわけにはいかない。
 一方、先に出口のほうへ走っていた三人は、別の行動に移っていた。歩みの遅い来理と、その手を引くハルを残して、アキが先行する。そして、大声をあげて叫んだ。
「クロ――!」
 もちろんそれは、室寺の車にアキがつけた名前だった。犬でも呼びよせるように、アキはその名前を口にしている。
 その声に、反応があった。
 馬のいななきに似たエンジン音を響かせて、その車はこちらへとやって来た。多少の段差や悪路などものともせずに、野牛のような力強さで走行している。
 そのあいだに、来理とハルがアキに追いつき、ついでナツとフユも合流した。
 けれどその後方からは、ニニが追ってきている。どこかの醜女か雷神みたいに。車が五人のところまで到着するには、まだ時間がかかった。ぎりぎり、間にあうかどうかというところである。
(車を停めてしまうのは簡単だ)
 と、ニニは思っていた。人間の心臓をとめるのと、そう変わりはしない。直接触れられれば、エンジン内部にあるピストンの振動を停止することは可能だった。
 けれどその時、意外なことが起こった。
 ハルがその魔法〈絶対調律〉を使ったのである。
 それがすべてのバランスを零に戻す≠烽フだということは、ニニは知っていた。互いに共通する事象を足しあわせ、いわばその平均値をとるものだということは。だがこの状況で、いったい何を平均化するというのか。
 疑問には、眼前で答えが出されていた。
 魔法の揺らぎが発生すると、ハルたち五人とその車は、ちょうど互いの中間地点にまで移動している。その時点での目標地点、移動すべきその距離の半分ずつをとれば、お互いが同じ場所に存在するのは当然の話だった。
 ようやく薄れはじめた白い暗闇の中で、ニニはそのことを確認する。車のドアが勝手に開いて、五人がその中へ乗りこむところも。もはや鳥の翼があったところで、間にあいはしない。
 だが――
 だが何か、妙だった。
 もう車に乗りこんで逃げるだけのはずのところで、一人だけがそれをせずにこちらを見ている。いや、こちらというよりも、そのずっと先のほうを――
 大地を揺るがすような震動が伝わってきたのは、その時だった。天空に届くほどの豆の木が伐り倒されたかのような。
 ニニが振り向くと、その理由はすぐにわかった。竜に変身したサクヤの体が、横倒しになって地面に伏せているのである。
 そのすぐそばには、今回の標的でもあるその男が立っていた。
「――俺はジークフリートじゃないんだがな」
 室寺蔵之丞は不敵な笑みを浮かべて、そううそぶいてみせた。

 ――その少し前、室寺と朝美がスタジアムをあとにした頃のことである。
 二人は朝美のバイクにまたがって、花火の上がった地点を目指していた。その場所には雲になりそこねたような、不恰好な色つきの煙が漂っていた。方角からして、公園内にある子供の広場付近だろう、と朝美は推測している。
 鷺谷と烏堂の二人は、放送室に会ったコード類を使って拘束してあった。とりあえず、あの二人がこれ以上関わってくることはないだろう。
 朝美はできるだけのスピードを出しつつ、後ろに乗った室寺の様子をうかがっている。さすがに疲労の色が濃く、いつものような調子はなかった。じっと呼吸を整えることに集中している。やはり、長時間の戦闘がかなりの負担になったことは間違いない。
 けれど朝美には、もう一つ気がかりなことがあった。それはスタジアムを赤外線で探知しているときに見つけた、もう一つの影のことである。照明塔の上にあったその影は、室寺と合流する頃には消えてなくなっていた。それがあの子供たちのどちらであったにせよ、今はどこにいるのか――
 バイクを走らすうち、池のほとりにさしかかっていた。目的地まで行くには、この場所を大きく迂回しなければならない。面倒だが、ほかにはどうしようもなかった。朝美がそうしようとしたとき、室寺が急にそれをとめている。
「ちょっと待て」
 理由を聞く暇もなく、室寺はバイクを降りて池のほとりへと向かった。朝美も仕方なく、バイクに搭乗したままでそのあとを追う。
「……あれを見ろ」
 と言って室寺が指さしたのは、池の水面だった。朝美がよく見ると、そこには透明な何かが浮かんでいた。巨大なガラスのおはじきに似ている。おそらく、氷の塊か何かだろう。
「何ですか、あれは?」
「たぶん、足場だろう」
「――足場?」
 だがそれに答える前に、室寺は再びバイクの後ろに乗っている。そこから、続きを説明した。
「あのニニってほうの魔法だろう。熱運動は、要するに粒子レベルでの振動のことだ。それを押さえて氷点下にまで温度を下げれば、水を凍らすことができる。氷に十分な大きさがあれば、足場として利用可能だろう」
「……つまり、ショートカットしたと?」
「ああ、そうだ。だから俺たちも、同じことをする必要がある」
「同じこと?」
 その方法を聞かされたとき、朝美の表情は豪雨の到来を告げる黒雲みたいに曇っていた。ヘルメットをかぶっていてよかったと思う。蛇足ながら、室寺のほうは何も着けていなかった。
「本当に大丈夫なんですか、それ?」
 バイクを回転させて方向転換しながら、朝美は訊いた。
「俺は信頼できる男だよ」
 本気なのかただの気休めなのか、室寺はひどく自信ありげである。ただ、この男の自信は意外と馬鹿にならないことを、朝美は知っていた。
「どうなっても知りませんよ――」
 むしろ自分に言いきかせるために、朝美は言った。
 助走のための距離を十分に確保すると、朝美はアクセルを目一杯に回した。すばやくギアチェンジして、最高速度に達する。
 そのスピードのまま、バイクは池に突き出た桟橋へと突入した。
 当然だが、バイクは桟橋を飛びだし、慣性に従って直進を続ける。だが、重力を振りきれるわけではない。そのあいだも、バイクは確実に水面へと落下している。弾丸でもその場で落としたコインでも、落下時間に変わりはない。射出速度に従って多少遠くまでは行けるが、池の対岸まではまだかなりの距離があった。
 だがバイクが着水するその寸前、室寺はおもむろに立ちあがっている。そして朝美の襟首を猫みたいに引っつかむと、後部シートから思いきり跳躍した。
 土台にされた憐れなバイクはそのまま水中へとダイブしたが、室寺と朝美はさらに先へと進んでいる。
 それでも、対岸に到達するには無理がある。室寺は空中で朝美を抱えなおしながら、〈英雄礼讃〉による魔法を使った。魔術具であるブーツの力で、室寺の右足は空中で一歩を刻んだ。そして三段跳びの要領で、跳躍を重ねる。二人はついに対岸へと到着した。
 背後では、バイクが完全に水面下へと沈みつつあった。残念ながらその様子からして、金のバイクも銀のバイクも手に入りそうにはない。
「……私のバイク、弁償してもらえるんですよね?」
 地面に降ろされた朝美は、ひどく恨めしそうに言った。
「さあな、そこまでの責任は持てん」
 自称、信頼できる男はそう言って肩をすくめるだけだった。

 ――時は、元に戻る。
 そうしてニニのあとを追ってきた二人は、ちょうど現在の状況に出くわしていた。室寺はまず、竜を一撃で地面へと転がしてしまう。〈英雄礼讃〉には、それだけの力があった。
 五人のことを放りだし、ニニは室寺のほうへと向かった。予定は大幅に狂ったが、結果的には問題ない。鯨に飲みこまれたどこぞの預言者のように、文句をつける気はなかった。
 ニニはある程度の距離まで接近すると、五人に向けて放ったのと同じソニックブームに似た衝撃波を発生させた。超音速の振動が室寺へと向かう。回避は不可能だった。
 雷音を鋭利にしたような響きと、派手な土埃を巻きあげつつ、衝撃波は室寺を襲った。まともに食らえば、もちろんただではすまないだろう。
 だが――
 煙幕のような土埃が晴れていくと、そこにはまったく無傷のままの室寺が立っていた。その顔には、かすかな笑みさえ浮かんでいる。魔術具であるコートのおかげだった。
(やっぱり、心臓を直接停めるしかないか――)
 ニニはそう思って、室寺へとさらに接近した。格闘戦の間合いに入る。
 二人の体格差を考えれば、徒手での勝負は無謀だった。けれどニニには、十分な訓練とホムンクルスとしての身体能力がある。加えて、室寺には疲労の蓄積があった。それに腕相撲で勝負をするわけではない。ゴリアテを倒せるのは、何もダビデだけではなかった。
 すばやく懐に潜りこんで、ニニは打撃を重ねる。常に位置を変え、無理はしない。摑まれてしまえばおしまいだからだ。
 室寺はその動きに対処しきれなかった。足運びを工夫して間合いを取ろうとするが、簡単ではない。そのくらい、ニニの動きは速かった。次第に、室寺は防戦の比重が高くなっていく。戦闘では、攻撃の最適距離を保てる側が優位に立つことができる。
「この――!」
 室寺の打突は空を切った。的が小さいうえに、よく動く。岩を砕くには、それが静止している必要があった。
 一方、ニニのほうでも実際には手詰まりになっていた。どうやら室寺は、攻撃を捨てて防御に専念しているらしい。〈迷宮残響〉で強化した攻撃も、魔術具の効果によってほとんど通用しなかった。
 決め手を欠いた戦いの中で、ニニは一瞬油断をした。
 室寺はその隙を逃さない。開いたドアから無理に体をねじこむみたいにして、わずかにできた間合いから一撃を加えた。
(まずい!)
 ニニはかろうじて、回避行動をとった。間一髪、体をひねってそれをかわす。
 目標を外れて地面を打った室寺の拳は、爆撃に似た衝撃をともなって地面を吹き飛ばした。その余波で、ニニの体は木の葉みたいに宙を舞う。空中で難なく姿勢を整えて着地したが、それでも目の前にあるのはぞっとするような光景だった。
 室寺はお化けの格好をして子供を脅かすような、そんな笑顔を浮かべる。ただしそれは、追撃に移るだけの余裕がないことをごまかしているにすぎなかったが――
(さすがに、これ以上は限界が近いな……)
 疲労のため、体はネジを外した時計みたいにばらばらになりそうだった。室寺にすれば、そんな笑顔で自分を鼓舞する必要がある。
「キシャアアァァ――!」
 その時、空気を裂くような咆哮とともに、サクヤがその首をのばしていた。すでに起きあがって、目くらましの閃光からも回復している。空気を大きく吸いこむ音が、その口元から聞こえた。
 次の瞬間、灼熱の炎がその口から吐きだされる。すべてを焼失させんばかりの威力で、室寺に向かって火炎が襲いかかった。一面は文字通り、火の海だった。空気は歪み、空間ごと燃え尽きかねないほどである。
 サクヤがいったん炎を吐き終わると、そこには黒煙と灼熱と焦土と化した地面だけが残されていた。さっきまでとは違う、本気の炎である。骨の残骸さえ消し炭へと変わっているだろう。
 ところが――
「悪いが、こいつは耐火仕様でな」
 まったくの五体満足で、室寺は立っていた。わずかにコートの襟を立てているだけで、体どころか服さえ焼けてはいない。その魔術具による防御力は、フユの魔法にすら近いものがあった。
 そして、戦闘は膠着状態に陥っている。実際には、もはや室寺にそれほどの力は残っていなかったが、ニニとサクヤの二人からしてみれば簡単には手を出しかねていた。攻撃はことごとく防がれているうえに、厄介な一撃も見せられている。しかも本人は不敵な笑いを崩していない。
 経験値の差が出た、というところだろう。いかに高い戦闘力を持っていても、そこは子供だった。室寺のブラフとしての挑発の意味を、正しく理解できていない。自分の影に怯える、まだ幼い嬰児みたいに。
 空の上では、太陽が知らぬ顔でいつもの運行を続けていた。室寺たちがこの公園に来てから、すでに数時間が経過しようとしている。
 けれど、その時――
 ニニの表情が、不意に変わった。夜空で、流れ星が暗闇を引っかくみたいに。何かの変化を、それも重大な変化を感じとった顔だった。戦闘中であることも忘れて、あらぬ方向を見つめている。わかりにくいが、サクヤのほうでも同様の現象が起きているようだった。
(何だ……?)
 室寺はしかし、とっさには手を出せない。虚勢をはるのだけが精一杯で、そもそも攻撃を仕かけるほどの余裕はなかった。
 遠くの物音にでも耳を澄ますようだったニニは、やがて室寺のほうに向きなおった。魔法の揺らぎが、そこから発生する。室寺は攻撃に備えて身を固くした。
 だが、予想したような衝撃がやって来るようなことはなかった。
 代わりに、広場のあちこちで異変が起きはじめる。突然、何もないところから爆炎が生じ、大きく吹きあがる。それも一ヶ所や二ヶ所ではなく、ほとんど広場全域でのことだった。
「どうなってる?」
 室寺が注意して炎の発生源を見ると、そこにはネズミ色の大型ボンベらしきものがあることがわかった。おそらく、プロパンガスのボンベだろう。振動をコントロールして氷が作れるのなら、バルブをひねってガスを放出し、同じようにしてそこに着火させることもできるはずだった。
 それだけのことを理解するまでに、ニニとサクヤの二人はすでに次の行動に移っている。
 いったん変身を解除したサクヤは、今度は巨大な鳥へとその姿を変えた。ロック鳥とか、サンダーバードとか呼ばれる類の鳥である。翼をはばたかせると、その体は大きく風を起こしながら、ふわりと宙に浮きあがった。
 ニニがその足を摑むと、サクヤは一声あげてから、一気に空へと舞いあがった。まるで矢を射るような勢いで、二人はその場から離脱していく。
「室寺さん――!」
 五人のところで警戒にあたっていた朝美が、室寺のほうへと駆けよった。
「……何か、問題が起こったらしいな」
 誰にともなく、室寺はつぶやいた。状況としては、命拾いしたというのが正しいところだった。あのままの状態が続けば、いずれ確実に殺されていただろう。
 だがいったい、何が起きたというのか――?

 その屋敷は、丘の中腹に建てられていた。
 春の光が祝福するように、その場所を照らしている。屋敷といっても平屋の比較的こぢんまりとした、いたって慎ましやかなものだった。人が造ったというよりは、最初からそこに建っていた、という感じである。誰に命じられるでもなく、草花が野辺を飾るみたいに。
 その屋敷を見るのは、清織も初めてだった。けれど一見して、ほかの屋敷とは趣きが違うことに気づく。場所や、建物のせいだけではない。そこには風や、音や、光があった。半分以上が死んでいるほかの屋敷とは違って、そこだけは今も生きている。
 ゆるやかな階段をのぼりきって敷地の中に立つと、建物の左手には庭園が広がっていた。そこにはわざとらしさのない自然さで草花が配置されている。たった今、色をつけたばかりのような鮮やかさで、それらはあった。けれど世話をする人間がいなくなった以上、その庭園もやがては荒れ、元の形を失うだろう。百年の眠りを約束するような、七人目の魔女もいない。
 清織は本を開くと、少しのあいだそれに目を通した。そうしてゆっくりと、歩きはじめる。屋敷の一番南にある部屋に向かって。
 部屋のドアを開けると、そこには一人の女性が横たわっていた。艶やかな着物姿をした、妙齢の婦人である。彼女はオシリスの棺≠ニ呼ばれる魔術具の上に乗せられていた。停止した時間の中に閉じこめられながら。
 清織はそのそばまで近づくと、置いたあったイスに腰かけた。もちろん、そのあいだにも彼女に変化はない。例え世界が滅んだとしても、彼女が目を覚ますことはなかった。その魔法が解けないかぎりは。
「…………」
 見えない棺の上に、清織は手を置いた。温度も質感もない、時間の壁がそこにはある。魔術具の効果が切れるまでは、誰にもその壁を壊すことはできない。
 けれど――
 清織は手を置いたまま、本を開いた。そして世界そのものを、書き換えてしまう。文字という形に記述された世界を、自由に操って。
 それはある意味では、鏡に映った世界を変化させることに似ていた。鏡像は本来、現実を写しとったものにしかすぎない。それはわずかな歪みや瑕疵を持つ、不完全なものだ。けれど等号で結ばれた完全に近い鏡像があるとすれば、その中での変化は逆に現実をも変化させずにはいられないものになる。
 牧葉清織が使ったのは、そういう魔法だった。ここに来る途中、隠匿魔法≠竍空間魔法(ストラクチャー)≠解除したのも、同じ魔法である。だからここでも同じことができるのは、しごく当然のことだった。
 世界の書き換えが完了すると、ガラスの棺は音もなく砕けている。時間の破片はコップの水を海にでも注ぐみたいに、すぐに世界と同化して消えていってしまった。
 しばらくのあいだ、何の変化もない。窓の外では緑が風にそよぎ、鳥の鳴き声が聞こえる。光は相変わらず透明で、温かかった。
 けれどやがて――
 彼女は、静かに目を開いた。
 静止した一瞬という、長い長い時間を越えて。
「はじめまして、鴻城櫻さん」
 と、清織はごく当然のことのように挨拶をした。
「…………」
 彼女はほんの少しだけ、あたりの様子をうかがうような仕草をした。今までに素通りしてきた時間の一部が、もしかしたらその辺に落ちているのではないか、というふうに。
 それからゆっくりと、水中で体が自然に浮きあがってくるように上体を起こした。たったそれだけの動作にも、どこか典雅なところがあった。彼女はそして、清織のことを見つめる。
「あの人は?」
 ほかの質問など思いつかない、というふうに彼女はまっすぐ訊ねた。いったい今がいつなのか、目の前にいるのが誰なのかも、聞こうとはしない。
 そんなことはたいした問題じゃない、とでもいうように。
「おそらく、すぐに来られます」
 清織はそんな彼女に向かって、特に驚くこともなく言った。
「――早く会いたいわ」
 鴻城櫻は朝顔の蕾が開くような、そんな笑顔を浮かべた。
 まるで、ついさっきまで幸せな夢を見ていた少女みたいに。

 一人の少女が、橋の上を歩いていた。
 ましろの髪は光で作った漣にも似て、その風貌には神話的な種類の美しさがあった。月明かりをほんの少し色づけしたような、そんな肌をしている。シンプルだが、どこか時代がかったドレスを着ていた。
 それは、魔法委員会の会長である祖父江周作に対して、自分のことをウティマと名のった少女だった。自分のことを世界≠セという少女――
 橋の上では、何台もの車が行き来していた。無粋な物音に、春の陽射しもどこか迷惑そうな様子をしている。光にはかすかな濁りが生じ、春の濃度は少しだけ下がっているようでもあった。土手沿いの桜は、すでに散りかけている。
 少女はけれど、そんなことなど気にしたふうもなく歩いていく。春の陽気に誘われて散歩に出かけた、というわけではない。彼女にはある役目があった。
 橋の半ばあたりまで来ると、彼女は足をとめる。その場所に、特に何があるというわけではない。空間に歪みが生じているわけでも、時間の流れに亀裂が現れているわけでも。
 少なくとも、魔法使いでないものにとっては――
 彼女はその場所に、そっと手をのばした。そこに何があるのかを、彼女は知っていた。完全世界と不完全世界のあいだに生じた境界線。錯視によって本来は存在しない線が知覚されるように、その境界は魔法使いにとっては壁となって存在していることになってしまう。
 その壁は、正確には筒状ではなくドーム状になって広がっていた。もっというなら、球状になって広がっている。境界は完全世界の中心にあるその樹から、すべての空間に等しく拡散していた。
 彼女は壁面を、軽くなでてみる。本棚のあいだから出てきた、古くて色あせた写真を懐かしむみたいに。
 そこは偶然ながら、以前に室寺がその魔法を使って全力で殴打した地点でもあった。どんなものでも破壊しうる、その拳で。けれどもちろん、壁には何の痕跡も残ってはいない。罅割れどころか、かすり傷一つさえ。いかなる魔法によっても、その壁を破ることは不可能だった。
 彼女はその場所に、そっと指をあてる。
 まるで、飛んできたシャボン玉に手を触れるみたいに。
 ――その途端、壁には穴が空いていた。人が一人通れるくらいの穴が。光を切断しようとするのと同じで、どんな手段、どんな魔法を使っても不可能なはずのことを、彼女はいとも簡単にこなしてしまっていた。
 自動ドアでもくぐるようなごく気軽な調子で、彼女は穴を通りぬける。するとその背後で、壁は元へと戻っていた。まるで、おかしなことなど何も起こらなかった、とでもいうように。
 再び、彼女は橋の上を歩きはじめた。もう薄れかけてはいるが、絨毯みたいにして道の上に敷かれた春の空気を踏みしめながら。
 彼女の口元から、かすかな鼻唄がもれだす。
 懐かしいというにはあまりに古代的な、遠い遠い昔の調べが。

――Thanks for your reading.

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