[不完全世界と魔法使いたちD 〜物語と終焉の魔法使い〜(上)]

[三つめの始まり]

 気持ちのよい、春の宵だった。
 空気は染料を浸したみたいに、ゆっくりと暗闇に染まっていく。昼のあいだにたまった熱は誰かが手で押さえるように、まだそのあたりを漂っていた。じきに夜がその冷たい手をのばしてくるのだろうが、今はまだその時ではない。
 藍色の空には、霞がかってくすんだ色をした三日月がかかっていた。どこからか、ウグイスの空気を引き裂くような鳴き声が聞こえる。
 佐乃世来理は庭に通じるガラス戸を開け、ゆっくりと眠りにつきつつある世界を眺めていた。居間の明かりが、番犬めいた律儀さで宵闇を照らしている。時々、カーテンが揺れて、かすかな風が約束のない訪問者みたいに忍びこんできた。
 優しい死を迎えつつある世界で、来理はその家に一人だった。
 最近、日曜日ごとに賑やかな子供たちの声が響くので、部屋の中は必要以上に空っぽな感じがした。その辺の置き物をひっくり返せば、そんな物音の欠片が一つくらい転がっているかもしれない。けれど来理には、それを拾いあつめるようなつもりはなかった。
 彼女はふと、壁にかかった絵のほうを見る。ナツの描いてくれた、油彩の肖像画を。そこには慎ましやかで幸福そうな彼女の姿がある。自分の形がそういうふうに保管されているのを見るのは、悪いことではなかった。
 とはいえ、老人は多くその時間を過去と共に過ごしているものだ。美しく死んだ時間たちと。その事実にふと、かすかな侘びしさを覚えるとしても。
 光にだけあふれた世界は、彼女には少しまぶしすぎる――
 けれど、老人には老人なりの強さというものがあった。彼女には子供たちの残していった空白を、邪険に扱うつもりはなかった。無理にその穴をふさぐ必要はない。無闇に愚痴をこぼしたり、必要のない嘆息をつくのは、彼女のやりかたではなかった。
 だから佐乃世来理は一人で、ただ穏やかに世界の終わりを眺めている。それを見届けることができるのは、一種の特権でもあったのだから。
 そうして彼女が縁側に座ってくつろいでいると、暗闇の一部が動いて、きらりと光るものが見えた。小さな鈴の音が、空気を震わせる。と、甘い鳴き声が聞こえて、そこからは一匹の猫が姿を現していた。
 真っ黒な猫である。丸っこい顔つきに、ややずんぐりとした手足をしていた。首輪には、銀色の大きな鈴がつけられている。
「あら、どこの家の子かしら?」
 と、来理は不思議そうにつぶやいた。
 首輪をしているところを見るとどこかの飼い猫なのだろうが、近所では見かけたことのない猫だった。迷い猫だろうか。けれど猫は普通、頑固な科学者みたいに自分のなわばりからは出てこないものだったけれど。
 猫はまた甘い鳴き声をあげて、来理のほうへと近づいてくる。そして特有の身軽さで跳びあがると、鈴の音だけを響かせて彼女の膝の上で丸くなった。
「ずいぶん人間を飼うのが上手な子みたいね」
 来理は苦笑しながら、その猫の柔らかな重さと毛なみを感じた。顎の下をなでてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めている。
 その背中をなでてやりながら、来理は猫の瞳をのぞきこんだ。光を蓄えるための特殊な器みたいなその瞳に、けれど彼女はかすかな違和感を覚えた。その奥に、何か重大な秘密を隠しているような、そんな――
 ふと顔をあげると、今度は庭の同じあたりに少年の姿があった。どこかの美術館に飾られた天使の絵から脱けだしてきたような、そんな少年である。淡い月明かりの下で、その少年はハナニラの花を眺めていた。
「今夜はずいぶんお客さんの多い日ね」
 と、来理は慌てもせずに言った。その少年が何者なのかについては、見当がついていたけれど。
「こんな田舎の茅屋に何の用かしら。それとも、あなたもやっぱり迷子なの?」
 声をかけられて、少年は顔をあげる。そうして丁寧な足どりで来理のそばまで歩いてきた。
「きれいな庭ですね」
 と少年はまず言った。その笑顔にはどこか、人形のような作り物めいたところがある。
「秋原さんのと、どっちがいいだろう」
「あら、そのかたもお庭を作ってるの?」
 来理は首を傾げる。
「うん、お屋敷の世話をしていて。でも秋原さんのは、仕事っていうほうが近いかな……」
「素敵なお仕事ね」
「ボクもそう思います。でないと、あんなにきれいな庭にはならないと思うから」
 少年の姿を、室内の明かりが照らす。小学生くらいの年齢だが、その風貌は古代の遺跡に似て、何かの力で時間を停止させられている印象があった。その瞳の奥は、さっきの猫と同じでどこか秘密の場所につながっているようでもある。
「それで、いったい何のご用かしら? おもてなしをするには少し遅い時間だし、それにあなたとは確か初対面だと思うのだけど」
「ボクたちはあなたを迎えに来ました」
 と、少年は言った。
 来理の膝上から、猫が飛びおりる。来理はそれを目で少し追ってから、少年のほうに向きなおった。たち、といっても、もちろん少年のほかには誰もいない。
「残念だけど、そんな約束をした覚えはないわね」
「でも、もう準備はできてるんです」
「それは鴻城希槻の指図で?」
 来理が言うと、少年はその作り物めいた笑顔をますます強くする。
 もちろん、来理はこの少年がニニと呼ばれる魔法使いであることはわかっていた。執行者の二人を殺害した残酷な少年だ、と。そして、もう一つのことについても。
「――あなたは、ホムンクルスなのね」
 来理はどこか表情に困った顔で、そう言った。
 いわゆる錬金術において言及されるところのそれは、フラスコの中で育ち、小さな人型をなして世界の秘密について囁いてくれるという、人工生命体のことである。
 けれどここでいうホムンクルス≠ニは、魔術具の一種のことだった。人造魔法(エンブリオ)=\―彼らは意志を持った魔術具といってもよかった。この少年は術者、おそらくは鴻城によって造られた、まがいの人間なのである。
「さすが委員会に任された管理者ですね。よく知っている」
 少年、ニニは言った。特に感心した様子も、ショックなふうにも見えない。おそらく、そんなことはたいして気にしていないのだろう。
 ――あるいは、そんなふうにしか感じられないのか。
「だったら、わかりますよね」ニニは言う。「ボクたちはもちろん、あなたを連れていく。例え無理やりにでも」
「もしも嫌だと言ったら、どうなるのかしら?」
 来理はあくまで落ちついていた。
「あなた自身のことなら、それでいいかもしれない。でもあなたは決して、断われない」
 どうしてかしら、と訊きかえす前に、来理の横から声が聞こえている。
「――だって、ぼくがどうなってもいいなんて思うわけないでしょ?」
 声のしたほうを見ると、そこには彼女の孫息子である宮藤晴が、イスに座っていた。
 いや――
 ごくごく注意してみれば、それがハルでないことはわかる。その瞳の奥にはニニと同じで、星の光ほども遠い何かがあった。そこにハルの魂と呼べるものは存在しない。だが、その意図するところは明白だった。
「脅迫しようというのかしら、私を?」
 さすがに来理は眉をひそめる。この二人が彼女の孫をいじめるなどということですますとは思えなかった。
「可愛い孫のためだよ、来理ばあちゃん」
 ハルの姿をしたサクヤが言う。おそらく、本人なら言いそうもないセリフで。
「私に選択肢はない、ということ?」
「一方が間違いなく悲劇に終わる道を選択肢というのなら、たぶんそうだと思います」
 ニニは無表情に告げた。
 もちろん、最初からそんなものがないことはわかっていた。完全世界を求めるというのは、そういうことなのだ。そして鴻城希槻は、誰よりもそれを求めている。もうずっと、長いあいだ。
「でも一つ、聞いてもいいかしら?」
 と、来理は質問した。
「何ですか?」
「彼はいったい、私に何の用があるというの?」
 その問いかけに、ニニは少しだけ間を置いた。月の形が変わるのを、ほんのちょっとだけ待つみたいに。
「もちろん、あなたが必要なんです。佐乃世来理さん、あなたの魔法がね」
 少年は道化師めいた笑顔を浮かべつつ、そう言った。

 ハルが学校から家まで帰ってくると、玄関の鍵が開いていた。
 一瞬、ハルは躊躇して考える。家の鍵は、父親が閉めたはずだった。かけ忘れたのだろうか。それとも、何かの都合で早めに帰ってきたのか、あるいは――
 念のために、感知魔法≠フペンダントを取りだす。あの日以来、来理に言われて習慣的に所持しているものだった。手に巻きつけるようにして、ドアノブへと近づける。
 反応はない。魔法の揺らぎによる痕跡はなかった。だからといって、ほかに鍵を開ける方法がないわけではなかったけれど。
 少しためらってから、ハルは慎重にドアを開けてみた。玄関にはいつもと違った様子は見られない。子羊の血で赤い印がつけられているわけでも、死の天使がその辺をうろついているわけでも。
 そもそも、ハルたちと魔法委員会に直接のつながりはなかった。結社と委員会が争っているからといって、それに巻きこまれるような理由はない。
 けれど――
 それがこの不完全世界と魔法使いに関係したものである、というのも事実だった。
 ハルはできるだけ音を立てないように、靴を脱いで廊下に上がる。家の中の明かりはつけられていなかった。誰かが無理に押しこんだような薄暗がりの中を、ハルはゆっくりと歩いていく。
「――父さん?」
 居間に入るところで、ハルは声をかけてみた。そこに誰かがいるなら、どちらにせよ避けてとおるというわけにはいかない。
 ハルがそっとのぞいてみると、そこには確かに誰かがいた。
 ただしそれは、父親の宮藤恭介でも、会ったこともない結社の人間というわけでもない。
 それは委員会の執行者である、室寺蔵之丞だった。

「何をしてるんですか、室寺さん?」
 と、ハルは呆れるように言った。というより、実際に呆れている。
 居間にも明かりはつけられておらず、加工処理を施されたような不自然な薄闇が全体を覆っていた。ハルは電灯のスイッチを入れ、カバンを壁際に置く。室寺はキッチンのほうのイスに腰かけていた。
「もちろん、お前を待ってたんだよ」
 室寺は慌てもせずに、にやりと笑った。粗放だが、不思議と魅力的な笑顔である。三秒もあれば、相手を信頼させてしまいそうだった。
「こういうのを待ってるとは言いませんよ」
 とハルはできるだけ、腹を立てているように言った。元々、そんな口調は得意ではなかったけれど。
「俺の場合は、言うのさ」
 室寺の様子に、反省の色は見られない。顕微鏡で探しても、そんなものは見つかりそうもなかった。
「そりゃ、室寺さんにはそうかもしれませんけど……」
 ハルはすでに、抗議行動を諦めていた。それほどの面識はなかったが、室寺蔵之丞というのがどういう人間なのかは何となく理解している。
「にしても、人の家に勝手に入ることはないと思いますけど」
「声ならかけたんだがな」
 うそぶく室寺に向かって、ハルはため息をついた。「もし返事が聞こえたっていうなら、耳鼻科のほうにでも行ってください」
 それからハルは、いったん台所のほうに向かう。礼儀を欠いていようが、聴覚に問題があろうが、お客さんには違いない。
「第一、どうやって家の中に入ったんですか? 鍵はかかっていたはずですよ」
 戸棚からお茶の葉や湯飲みを用意しながら、ハルは訊いた。
「聞きたいか?」
 なぞなぞの答えを求めるには、室寺の口調はやや不穏すぎた。
「あまり気は進みませんけど」
 急須にお湯を注ぎながら、ハルは言う。
「まあ何かを壊したわけじゃないから、心配はするな」室寺はにやりとした。「俺はそれほど乱雑な男じゃないからな」
 どちらにせよ、あまり心楽しくなるような話ではないらしかった。
「――とにかく、今度からは中に人がいるかどうか、確認してからにしてください。幽霊とかじゃなくて、ちゃんとした人間がいるのを」
 ハルはお茶をついだ湯飲みを室寺の前に置きながら言う。
「心得た――」
 室寺はさっそく一口飲みながら、素直にうなずいた。
「だがまあ、俺みたいのが玄関前につっ立ってるのもどうかと思ったんでな」
 カーテンを開けてから、ハルは室寺と同じテーブル席に着いた。そうすると、ようやく自分の家にいるという気がしてくる。目の前の室寺を見ていると、コップもイスも、いつもよりひとまわり小さく感じられはしたけれど。
「ハル、お前は今いくつだ?」
 と室寺はもう半分くらいお茶を飲んでしまったところで、不意に言った。どうやら、猫舌とは無縁の男らしい。
「……もうすぐ十五ですけど、今はまだ十四歳です」
 何のための質問かはわからなかったが、ハルは正直に答えておいた。
「ということは、だ」室寺はじっとハルのことを見ながら言う。静止衛星が地上の一点を凝視するみたいに。「お前はまだ完全な魔法≠失っていないわけだ」
 魔法と呼ばれるもののうち、魔術具に頼らない特殊型のものにはある特徴があった。それはこのタイプの魔法が、ある年齢を境として不完全化するということである。その時、その魔法はかつてあったはずの、世界を変えうるだけの可能性を失ってしまう。それはもはや、完全ではなくなるのだ。
 その変化の境界となるのが、十五歳という年齢だった。すべての魔法使いは例外なく、世界に対して十五年という歳月をもって完全魔法を失う。
「一応、そういうことにはなっていますけど――」
 ハルはあまり、気のりしないふうに言った。完全でも不完全でも、この世界は必ずしも魔法を必要としていない、というのがハルの基本的な意見だった。
「――だが、そうもいかなくなるかもしれん」
 と、室寺は少し難しい顔をして言った。
「どういうことですか?」
「お前たちの完全魔法が、あるいは必要になるかもしれん、ということだ」
 たち、というのはもちろんアキやナツ、フユのことを指しているのだろう。けれど、
「……委員会や結社のやろうとしていることと、ぼくたちには何の関係もないはずですよ」
 ハルはそっと、つぶやくように言う。夜の物音に怯えた子供が、頭から布団をかぶるみたいに。
 相手がお化けなら、もちろんそれで十分だったろう。
「お前たちはまだ気づいていないだろうが、この町は今、壁≠ノ囲まれてる」
 と室寺はごく冷静な口調で告げた。
「半径十キロほどもある、巨大な円形の壁だ。魔法使いはこの不可視の境界線を越えることができない。つまり俺たちは現在、その中に閉じこめられているってことだ」
「鳥籠みたいに、ですか?」
「まあそんなところだ」室寺は少し笑った。「これだけ大規模な魔法にかかわらず、発生した揺らぎはごく小さなものだった。何故かは不明だがな。壁のそばまで行かないかぎり、その存在に気づくことはないだろう」
「その壁は、何のためにできたんですか?」
 とハルが訊くと、室寺は一瞬黙った。天秤の揺れ具合を見るような、小さな間が空く。
「……いや、まだ詳しいことはわかっていない」室寺はお茶の残りを飲みほした。「ただ、委員会の連中が壁の外側に集まっていろいろ調査している。それによると、壁は少しずつ拡大しているらしい」
「拡大している?」
「そういう話だ。一日に二十センチ程度らしいがな。遅々としたものだ。しかし、もしかしたら――」
 言って、室寺は言葉を切った。が、ハルにはその続きがわかった。
「――いつか、世界全体をすっぽり覆ってしまう?」
 ハルの指摘に、室寺は苦笑めいたものを浮かべる。
「佐乃世さんの言うように、お前は確かに頭がいいよ。その通りだ。委員会の連中もそれを気にしている。はたしてそうなった時、壁の外側にいる魔法使いたちがどうなるかはわからんがな」
「壁を壊す方法はないんですか?」
「今のところ、めぼしい手段は見つかっていない。俺も思いきりぶん殴ってみたが、まるで効果なしだ。どうも、魔法そのものを受けつけない仕組みのようだ」
 つまり、それは――
「魔法ではどうしようもない、ということですか?」
 ハルは言った。魔法の壁に魔法が通用しないというのなら、もう魔法使いにできることはない。
「おそらく、発生源をどうにかするしかないだろうな。そんなものがあれば、の話だが」
「…………」
「千ヶ崎と俺でいろいろと調べているが、手がまわらない状況だ。外からの支援も期待できん。もはや将棋でいうところの詰めろか、必至をかけられてる状態かもしれん」
「そうなんですか――」
 ハルはつぶやく。事態は思っていたより、ずっと深刻なようだった。
「それから、もう一つ伝えておくことがある」
 と、室寺は言った。「残念ながら、悪い知らせだがな」
「何ですか?」
 ハルが訊くと、室寺は裸の皇帝に従うとんまな大臣みたいな顔で言った。
「――佐乃世さんが、敵に捕まった」

 朝食に用意されたのは、やけに豪勢な食事だった。
 ベーコンやソーセージ、ベイクドビーンズ、ロールパンにスコーンといった組みあわせである。財宝を奪ってきたばかりの山賊みたいに山盛りにされてはいたが、朝はあまり食べないので、来理は半分以上は残している。
 庭に面したテラスには、摘みとってきたばかりの新鮮さで春があふれていた。広い自然風の庭園を見ると、太陽と草花が人にはわからない言語で話しあっているようでもあった。その中に埋もれるような格好で、白い洋風の東屋が建てられている。
 来理はイスに座って、食後のコーヒーを口にしているところだった。風味は豊かだが、とげとげしいところはない。食事も飲み物も、用意してくれたのは秋原という執事然とした老人だった。おそらく、歳は同じくらいだろう。
 ちょうどコーヒーを飲み終わったあたりで、その秋原老人が現れた。おかわりを注ごうというのだろう。もしかしたら、どこかで様子をうかがっていたのかもしれない。
「いえ、もう十分です」
 来理はそれを押さえて、微笑んだ。賓客として扱われるのはけっこうだが、これでは誘拐されたという気がしない。
「そうですか――何かご要望のことがあれば、すぐにご用意いたしますが?」
「家にいるときより寛がせてもらっています。ありがとう」
 と、来理は微苦笑しながら慰撫するように言った。実際、その点での不満のようなものはない。
 それから来理は、この老人に向かって庭のことについていくつか質問した。植えつけの時期や方法、土の世話、虫対策といったことについてである。秋原は庭仕事の権威として、的確に応答した。その口ぶりからして、どうやら本心からこの仕事を愛しているらしい。
 話が一段落してしばらくした頃、また秋原がやって来た。主人が会いたがっている、という旨を伝えにきたのである。丁寧至極ではあるが、もちろん来理に断る自由などない。
 来理はそのまま老人に案内されて、客間のほうへと向かった。そこに、屋敷の主人が待っているという。
 扉を開けて部屋に入ると、その人物はテーブル近くにあるイスのところに座っていた。
 その姿を見て、来理はひどく複雑な表情を浮かべる。夜の暗闇と、太陽の光を無理に混ぜあわせたような、そんな。
「お久しぶりですね、鴻城希槻――」
 と、来理はその男の名前を呼んだ。
「ああ、そうだな。あんたも息災そうでなによりだ」
 鴻城は、言った。にやりと、どこか悪魔的な表情を浮かべて。
「……あなたとは、もう二度と会うことはないだろうと思っていました」
 けれど来理は、どこか表情を決めかねたような様子で言っている。
「俺のほうはそうは思わなかったがな」鴻城は鋳型を使って成型したような声で言った。「もう一度会うくらいのことはあるだろうと思っていた。何しろ、俺には人より余計に長い時間があるんでな」
 来理は嘆息するような目で、この男のことを見つめる。確かに、その言葉通りのようだった。
「あなたは少しもお変わりないようですね」と来理は言う。
「それだけが取り柄でね」
「いったい、どんな魔法を使っているんですか? それとも、石長媛でもお招きになったんですか?」
「それは秘密でね。例えあんたにでも、簡単には教えられない」
「でしょうね――」
 来理は少しだけ笑う。その秘密は、決して幸福なものではないのだろうと思いながら。
 そこまでの会話を交わしてから、来理はあらためてイスの一つに座った。部屋の中には、二人しかいない。何となく、檻のない牢獄にでも入れられたような緊張感があった。
「――それで」と来理は一応、表面だけは冷静に訊いた。「いったい、私に何の用があるのですか?」
「ちょっとした失敗をしてな」
 鴻城は相手のことなどまるで斟酌しない口調で言った。
「あんたの魔法が必要になった。たいした問題でもないとは思うが、大事の前の小事と言うんでな」
「私が素直に協力すると?」
「するさ」
 鴻城は面白くもなさそうに言う。
 けれどそれは脅しでも、ましてやはったりなどでもなかった。この男がその気になれば、ほとんどの人間は逆らうことなどできないのだ。例え獅子の皮をまとった英雄ほどの力や意志があったとしても。
 〈悪魔試験〉は、そういう魔法だったのである。
 この魔法はその願望を言いあてられた相手は、術者に対して絶対服従する≠ニいうものだった。試験に失敗した人間は、どんな命令も拒否することはできない。ただし、その強制効果には欠点もあった。相手の望みが変化した場合には魔法効果が解除されてしまうし、願望の言いあてに失敗した場合には、主従関係が逆転する。
 だが完全世界を求める人間は、その願いを決して捨てることはできない。魔法が解けることはありえなかった。
「あなたの魔法を使うつもりですか?」
 来理はほんの少し、ため息をつくように言った。完全にではないが、鴻城の魔法についてはその仕組みを理解している。
「あんたを試験するのは心苦しいが、確実を期すためにはいたしかたがないんでな」
 鴻城の態度は、そのセリフほどにはしおらしくはなかった。
「でも、私にどんな願いがあると? すべての魔法使いが、完全世界を求めるわけではありませんよ」
 その言葉に、鴻城は何故かふっと笑った。今まででは、一番自然な笑みである。けれどそれは、記憶の中の何かを笑ったようでもあった。
「あんたの言うとおりだが、しかし実際には簡単な話だ。あの二人も言ったと思うが、あんたにはどうにもならない願いがある」
 そう言って、鴻城は魔法を使った。揺らぎが広がって〈悪魔試験〉の形を作り、準備は完了する。
「それでは、試験を開始しよう。あんたの願いは、孫の無事≠セ――」
 瞬間、確かに魔法は発動する。鴻城の作った揺らぎは来理を捕らえ、縛りあげた。凶暴な狼をも戒める鎖で。右手を代償に差しだすこともなく。
 来理は諦めたように肩を落とし、目をつむった。
「やはり、あなたには誰も逆らえないようですね」
 鴻城は影のように重さのない動作で、イスから立ちあがった。部屋の中にあった牢獄に似た緊張感は、すでになくなっている。それはもう、来理の魂の中へと移ってしまっていた。
「さて、それではさっそく仕事にかかってもらうとするかな」
 言ってから、鴻城はさらに続ける。
「それが終われば、孫のところに帰してやろう。俺はサディストじゃないんでな。ただし、その時にはまたもう一仕事してもらうが――」
 そう言う鴻城希槻の表情は、確かにサディストですらなかった。

「来理さんが誘拐されたって、どういうことですか?」
 と、アキは憤慨したように言った。
 佐乃世来理の自宅には、六人の人間が集まっていた。四人の子供たちと、委員会の執行者である室寺と千ヶ崎朝美である。本来の家の主人だけがそこにはいない。それだけで、家の中は何百年も放置されたお城みたいにがらんとしていた。
 居間にあるテーブルには、上座に室寺が座り、その反対に朝美。あとはハルとアキ、ナツとフユが並んで席についていた。
「今、説明したとおりだ」
 アキに対して、室寺は鷹揚に返事をした。
「佐乃世さんは結社の連中に拉致された。この家にはいないし、所在も不明だ」
「無事なんですか?」
 ナツは努めて冷静な口調で訊いた。
「おそらくは、な。家の中に争った形跡は見られない」
「そもそもどうして、佐乃世さんを?」
 フユが当然の疑問を口にした。
「わからん、見当もつかん」室寺は世界記録を狙えそうな勢いで匙を投げた。「目下のところ、調査中だ」
「例の壁と何か関係が?」ナツはあまり期待しない声で訊く。
「そいつも不明、同じく調査中だ」
 室寺の返答は予想通りだった。
「……仕事、してるんですよね?」
 と、アキは思わずじと目を作ってしまう。
「残念ながら、な」室寺はさすがに苦笑した。「情報がないんで、俺たちとしてもどうしようもない状況だ。無能の謗りはまぬがれんが」
「魔術具を使って、跡を追うことはできないのかしら?」と、フユ。
「管理者の許可がなければ、魔術具の使用は不可能だ」室寺は返答した。「当然だが、管理者は佐乃世さんなわけだ。問題を解くヒントをもらうには、先に問題を解いてしまう必要がある。それに追跡魔法≠フようなものでは、うまくいかない公算が大きい」
「例の隠れ家ってやつですか?」ナツが訊く。
「そうだ、佐乃世さんが連れていかれたのは、おそらくそこだろう。となると、通常、魔法を問わず、あらゆる探索手段は簡単には通用しなくなると思っていい」
 部屋の中に、短い沈黙が降りた。八方塞、というやつだろうか。
「壁は概ね円形って話でしたよね」ナツがふと思いついたように言う。「なら、その中心に何かあるんじゃないんですか?」
「文殊の知恵はけっこうだが」室寺はハルのほうを見て肩をすくめた。実のところ、その意見はすでにハルのほうで出されている。「一応、それはもう調べてある。が、めぼしいものは発見できなかった。円の中心にある場所は民家の裏山にある、ただの空き地だ。例の隠れ家の周辺からも離れている」
 もう一度、話が途切れた。ウグイスの鳴き声が、場違いな長閑さで響いた。時間はひどくゆっくりと流れている。
「――じゃあ、わたしたちにできることはないってことですか?」
 アキは難破船の上から、諦めて空を眺めるような調子で訊いた。
「いや、そうでもない」
 室寺の返事は意外だった。
「実は連中から、こんなメールが届いた」
 その言葉と同時に、朝美が一枚の紙をテーブルの上に置いている。
 用紙には、冒頭に日付けらしい数字が記されていた。ただし、今日のものではない。それから二つの数字「36572759・136705703」、おしましに「N・E」。
 ――ほかには何も書かれていない。
「届いたのは、ちょうど今朝のことだ。ついでに本人からの電話もあった。変身した偽物のほうからかもしれんが、まあおそらくは間違いないだろう。様子はわからんが、元気そうではあった」
「来理ばあちゃんは、何て?」ハルが訊いた。
「メールの場所で待っているそうだ。ほかのことについては話せない、と。おそらく鴻城の魔法をかけられているんだろうな」
「それって、どんな魔法なんですか?」アキが訊く。
「相手の弱みを握ったら、言いなりにさせる魔法だ」
「……王様の床屋さんには朗報ですね」
 アキがうなっているあいだに、ハルは数字の意味に見当をつけていた。
「――たぶんこれは、地図座標だ」
 と、ハルは数字を指さしながら言った。
「Nは北緯、Eは東経だと思う。桁数から見て36と136は、この付近にあたるから。数字に区切りがないから、十進数表記だと思う」
「千ヶ崎、調べられるか?」
 言われて、朝美は端末機を取りだす。ただの端末機ではなく〈転移情報〉でハイスペック化されたものだった。いくつか操作してから、朝美は手をとめる。
「どうやら、その通りみたいですね」
 彼女は端末機の画面を全員に見える位置に置いた。
「座標は天橋市立総合運動公園の入口を指しています。指定した日時にここまで来い、という意味でしょう」
「露骨だな。何の用意をしてるのかは知らんが、罠ですって言ってるようなものだ」
 室寺は顔をしかめた。
「でも、ほかに方法はない?」と、ナツ。
「それも事実だ」
 室寺の渋面はますます深くなった。
「委員会は壁の外側で手出しできない。内側にいる執行者は俺たち二人だけ。ほかに頼れるほどの組織もない……通常の社会組織はあてにならんだろう。これは魔法使いの戦争だ」
「でも、行くんですよね?」と、アキ。
「――ああ、もちろんだ」
 室寺は一転して、にやりと笑ってみせた。
「これは連中を一掃するチャンスでもあるんだからな。罠だろうがなんだろうが、知ったことじゃない。俺の力をみくびったことは後悔させてやるさ」
 威勢のいい啖呵が切られたその時、
「――ぼくも、行かせてください」
 と、ハルは静かに告げた。
 これが委員会と結社のいざこざであることはわかっていた。けれどそこに関わっているのは、自分の祖母なのだ。もう、放っておくわけにもいかない。
「うむ」
 室寺は難しい顔をした。戦力としては、いくらでも魔法使いの手は必要だった。が、何といってもまだ子供である。けれど――
「俺たち、だよな?」
 と、ナツは当然のことのように言った。
「だよね」
 アキもすぐさま同意する。
 最後に残ったフユも、同じ意見のようだった。
「今度の日曜日に集まるところがなくなるのは、やっぱり困るでしょうしね」
 四人の様子からして、その意志を翻させるのは難しそうだった。
「――わかった、お前たちも連れていこう」
 室寺がそう言うと、朝美が慌てるように制止した。
「いいんですか、室寺さん……?」
「構わんさ」室寺は覚悟を決めたように言葉を続けた。「どっちにせよ、これは世界の未来を賭けた戦いだ。俺たちのすべてに、そのことに関わる資格がある」

 祖父江周作は魔法委員会の会長である。あるいは、会長ということになっている。
 実質的なところとしては、彼はまったくそんなことは気にしていなかった。会長といってもろくな権限はなかったし、重要な決定については委員による合議制によって決定される。そもそも、祖父江は自分が何故ここにいるのかを正確には理解していなかった。
 痩せ型で、体はひょろ長く、どことなく案山子に似ている。性格も、ほとんどそれと一致していた。体格と性格のどちらが先だったのかは、永遠の謎である。
 彼は一応、魔法使いだった。一応というのは、本人もよくはわかっていなかったからだ。魔法の揺らぎのようなものを感じることはできるが、それだけだった。自分で揺らぎを作ることもできなかったし、魔術具の使用など論外である。
 それでもこの男が委員会の会長などという役職に選ばれたのは、たんに彼以外には条件に当てはまる適任者がいなかったからだった。条件というのは、魔法使いであると同時に国家の奉仕者であること。つまり、国家公務員試験に合格した官僚、ということである。
 祖父江周作が会長に選ばれたのは、ただそれだけの理由だった。魔法使いとして優秀だったわけでも、自他からの強い推薦があったわけでもない。路傍に転がっていた石が、たまたまつっかえにちょうどよかった、というだけの話だった。
 だから現在起こっている騒ぎについても、祖父江はまるで関知していない。そもそも、理解ができないのだ。完全世界、魔法の壁、結社――とても現実のこととは思えなかった。
 元来、祖父江は事態を静観する立場を取り続けてきた。それは、渋河という男に釘を刺されたためでもある。大学時代から一貫して、この男には頭が上がらなかった。そういう星の巡りあわせだったのだろう。
 祖父江はあらゆる権限を利用して、のらりくらりとやってきた。名目だけとはいえ、会長である。それに、その程度の腹芸なら十分に心得ていた。
 だがここにいたって、事態は完全に祖父江の手を離れていた。緊急招集による参事会が結成され、今後の方針は彼らによって決定される。祖父江はただ、事後承諾を加えるにすぎない。とはいえこの男にとって問題なのは、あくまで渋河弘章のことだった。この事態は、あの男と何か関わりがあるのではないか。だとしたら、いったいどんな責任をとらされることになるのか。あるいは、あの男はこの件で逆に脅迫してくるつもりなのではないか――
 祖父江周作は執務室で一人、戦々兢々として頭を抱えていた。委員会の人間はほとんどが出払っていて、邸内には彼と事務の数名しかいない。緊急事態であるはずらしいのに、トップである彼が一番何も知らない、という状況だった。
 そもそも、この場所からしておかしな話なのだ。どこから予算が出ているのかは知らないが、由緒ありげな古い洋館に、アンティーク調の家具がそろっていた。彼のいるこの部屋には、年代物の柱時計や、絨毯、地球儀、いわくありげな古書の詰まった本棚といった調度品が設えられている。
 そんな豪勢な部屋の主として、彼ほど不似あいな人間もいなかった。いずれは部屋のほうで、この貧相な主人を追いだしてしまうかもしれない。
「…………」
 その時ふと、人の気配を感じて祖父江は顔をあげた。
 もちろん、そんなはずはない。館の人間は現地に飛んでほとんど残ってはいないし、そもそもノックもせず、ましてや何の物音もなく、その場所に人のいるはずがなかった。
 けれど――
 そこには、少女が一人いた。
 少女、だろう。少なくとも見ためには。
 シンプルだが、ひどく古風なデザインのドレスを身にまとっている。十二、三歳くらいの年齢だろうが、その風貌には古典派絵画で見かける種類の、現実離れした神々しさがあった。蚕の繭糸にも似た白い髪は豊かに波打ち、額には小さな朱印が施されている。その一対の瞳は、もっとも純粋な鉱物の結晶を連想させた。
 祖父江は何故か、驚く気にもなれずにいた。それは少女の出現があまりに自然だったから、というのではない。それとは逆に、図抜けて不自然すぎたせいだった。おかげで、頭が通常にとられるような反応を拒否してしまっていた。
 少女はきょろきょろと、あたりを見まわしている。その様子にはどこか、好奇心の強い獣に似た傍若無人さがあった。
「――お主が、この館の主人か?」
 やがて、少女は言った。
 祖父江はその時代がかったもの言いにも驚かなかった。大体、予想はできていたのだ。きっと予想のつかないことを口にするだろう、とは。
「一応、そういうことになっていますが、あなたは?」
 少女に対して、祖父江は比較的丁重な物腰で対応した。彼女がただの人間でないことくらいは、さすがの祖父江にもわかっている。
「我か、我はウティマじゃ」
 少女は短く答えた。ウティマ、というのが彼女の名前らしい。
 そこからの続きはなかった。
「……えー、それでその、いったい何のご用でしょうか?」
 祖父江は我ながら自分の間抜けさ加減をばかばかしく思いながら、仕方なく訊いた。
「我が何なのか、お主は知らぬのか」
 ウティマは不服そうな、呆れたような、それでいて何の感想も持ってはいないような、そんな口調で言った。
「残念ながら、私には何のことか……」
 と祖父江は恐縮してみせるしかない。
 ウティマは気にした様子もなく、次のように説明した。
「我は世界じゃ。世界の揺らぎが発生した以上、我が顕現することは必定じゃろう」
「…………」
 はいそうですか、と納得できる話ではない。だが祖父江には、詳しい説明を聞いても理解できるような自信はなかった。
「あー、それで、結局あなたは何をしにここに来られたんですか?」
 祖父江は何とか、話を自分に理解できるレベルに変更しようとした。それが上なのか下なのかはわからなかったが。
「なに、ただの挨拶じゃ」
 と、ウティマは意外なほどあっけないことを言った。
「この国の最高責任者に聞いたところ、お主がこの地での魔法に関する統括者だという話だったのでな。これから起こるであろうことを考えれば、一言あってしかるべきじゃろう」
 最高責任者というのが誰のことなのか、祖父江はあえて思考しないことにした。やはりこれは、自分の手に負えるような話ではないらしい。
「……いったい、何が起こっているというんですか?」
 祖父江はひどく疲れたような声で言った。実際、もはやため息しか出てきそうにない。
「お主は知らぬのか、今この世界で何が起こっているのか?」
「ええ、何も」祖父江は正直に答えた。
 ウティマはふと、あらぬ方向を見つめる。それが天橋市のある地点を正確に指しているのだとは、祖父江にはわかるはずもなかった。
「完全世界が誕生したのじゃ。あるいは、復活したと言ったほうが正しいのかもしれんが……指輪の持ち主によって、かつて楽園にあった三本目の樹へと扉がつながったのじゃ。ただし、扉そのものはまだ開いてはおらん。どうやらそやつは、最後の鍵を開けられずにおるようじゃの。あるいはそれも、何か考えがあってのことかもしれぬが――」
 ウティマはそう言ってから、おかしそうに祖父江のことを見つめた。その瞳は彼一人を、というよりは、人間一般とでもいうべきものに向けられているようでもある。
「げに、魔法使いどもの幼(いとけな)く、愚かしきことよ。相も変わらず完全世界を求め、迷い続けておる。どれほどの時が経過しようとも、この性向は捨てられぬものらしい。苦難と歓楽、悲哀と喜悦を繰り返す、憐れで頑是ない、矛盾した族よ。永遠を夢見ては現在を否定し、運命に挑んではかえって破れ、幸福を求めてはあえなく裏切られ、孤独の淵にあって平然を嘯く――我が言うのも何じゃが、不可思議の存在よ。もっとも、ヘルンの持ちだした種がこのような僻遠の地で芽吹くことになるとは思わなんだがの」
 少女はかすかに笑ってみせたが、もちろんその意味については祖父江にわかるはずもなかった。
「……あなたは、あなたはいったい、誰なんです?」
 祖父江は小さく首を振って、無理に混乱を抑えるようにして言った。けれどそれは、少女の言葉が理解できなかったからではない。結局のところ、祖父江周作も魔法使いの一人だったのである。
「先にも言ったとおり、我は世界じゃ」
 と、ウティマは再言した。
「完全世界と不完全世界のあいだに生じた揺らぎが、いわば世界≠ニいう魔術具によって形象せしめたのが、我という存在よ。その魔術具の原型が誕生したのは、はるか昔に、〈ヒト〉という魔法が出現した頃に遡るがの」
 祖父江は何の返事もせずに、ただ首を振るばかりだった。まるで子供が否やをするみたいに。
「――どうやら、これ以上お主と話をしていても埒が明かぬようじゃの」
 ウティマは別段気にしたふうもなく、軽く肩をすくめて言った。
「それにお主には、完全世界を希求する精神も、それに挑戦する動機も持ちあわせてはおらぬようじゃ。となればなおさら、ウロボロスの輪≠くぐる資格を与えるわけにはいかぬ」
 それだけのことを告げると、ウティマはくるりと背中を向けた。祖父江は慌てたように声をかける。
「どちらに行かれるんですか?」
「もちろん、彼の地じゃ」ウティマは顔だけを振りむかせて言った。「この世界の行く末は、できるだけ公平に決められなければならんからの」
 そして、少女は部屋の扉を開けて出ていってしまう。
「…………」
 祖父江は少ししてから、恐る恐る同じ扉を開けてみた。横にのびた廊下のどこにも、少女の姿は見えなかった。当たり前だ。彼女は世界なのだ。この場所から影も残さずに一瞬で移動することなど、本のページをめくるのと同じくらい容易なことのはずだった。
 それでも念のために、祖父江は内線で受付けの職員を呼びだしてみた。そして誰か一人でも、あるいは半人でも玄関の前を通らなかったか聞いてみる。
いいえ、今日はまだお一人の訪問者もおられませんが
「そうか、わかった」と、祖父江は言う。
ご気分がよろしくないようですが、大丈夫ですか――?
「少し疲れただけだ」祖父江はそっとため息をついた。「心配はいらない、何も問題はない」
 内線を切って、祖父江は深々とイスに腰をおろす。今となっては、この館の奇妙さなど、どうでもいいことになってしまっていた。祖父江は目を閉じて、その暗闇ができるだけ濃くなるように目を覆った。
 いつかこのことを夢だったと思えるのが、現在の祖父江周作が持つ唯一の望みだった。

 早朝、まだ太陽もうまく目覚めきっていないような時刻のことである。
 天橋市立総合運動公園には、何台もの大型トレーラーがやって来ていた。それぞれコンテナを引いたトレーラーは、騒々しいエンジン音で静寂を追いはらった。朝の空気はまだ眠りたりないかのように、どこか別の場所へと散っていく。
 大型トレーラーは白い排気を吐きだしながら、公園の各所へと移動していった。そのうちの何台かは、中央競技場へと集まってくる。どうやらそこが一番、搬入物の多い場所のようだった。
 この総合運動公園はかなりの敷地面積があって、各種施設も充実していた。数年前の国際大会を機に建設されたもので、各種体育館、多目的競技場、テニスコートや野球場、武道館などが整備されていた。
 各施設のあいだは自動車での移動も想定されているので、トレーラーでの進入も可能だった。
 中央競技場に集まったトレーラーの一台から、男が二人降りてくる。運送会社のものらしい制服を着ていた。二人は空気の冷たさに驚いたように、小さく体を震わせる。何しろ太陽もまだ起きたばかりで、本調子とはいえない。
「寒いな」と、年配のほうが言った。
「ええ、かなり冷えますね」もう一人の比較的若いほうが答える。
 年配のほうはほかのトレーラーに向かって合図を送った。彼が今回の仕事の責任者だったのである。「早めに体を動かして温まるとしよう――」
 二人はコンテナの後ろにまわると、ストッパーを外した。かすかに不服そうな軋みを立てて、扉は開いていく。
 コンテナには暗闇といっしょに、大量の人形が積載されていた。ほとんど詰めこめるだけ詰めこんだ、という状態である。人形といってもマネキンのようなそれではなく、もっとデフォルメされた形のものだった。その人形がいくつもの箱に小分けにされる格好で、コンテナの床を埋めていた。
「いったい何なんですかね、これ?」
 若いほうが確認のために箱の中をのぞきながら言った。
 人形はどれも同じ形で、白い流線型のパーツでできあがっている。まるで漂白された鯨の骨でも詰めこんだような有様だった。
「さあな」
 スケジュール表を確認しながら、年配のほうは興味もなさそうに言う。
「こいつを公園内の各所に配置しろっていうんですよね?」
「ああ、そういう依頼だ」
「こんなでかい公園を貸しきって、何のためにそんなことするんですか? 何かのアートパフォーマンスってやつですかね」
「詳しい説明は聞いていない。おじさんには芸術のことなんてわからんしな」
「発注元はスパロー企画、でしたよね。スパローってどういう意味でしたっけ?」
「雀≠フことだ。志の低い社名だな」
 年配のほうはスケジュール表をたたんで、周囲の状況を確認した。いっしょに運んできたフォークリフトが地上に降ろされている。もう作業にかかるべきときだった。
「そろそろ搬入に移るぞ。あとで運搬の人員も来て、まだ仕事があるんだからな。ちんたらやってると、時間に遅れる」
「了解です」
 若いほうは言って、箱の持ちだしにかかった。

 ――そんな様子を、少し離れた場所から眺めている二人組がいた。
 一人は髪を念入りに染めた、いかにも今風の若者である。音楽活動でもやっていそうなしゃれた格好をして、野性味には乏しい見ためをしている。もしも久良野奈津がこの場にいれば、それが烏堂有也という名前の人物だと気づいただろう。
 その烏堂の隣にいる人物は、前髪を横になでつけた、ちょっときざったらしい感じのする男だった。オリーブ色の眼鏡をかけて、やや吊り目になった目元をしている。いかにも怜悧そうな雰囲気だが、何となく頭のよさが徒になるタイプにも見えた。歳は烏堂よりも五つか六つ上といったところ。
 二人とも、結社の協力者という立場にいる魔法使いだった。彼らは必ずしも、完全世界を求めているわけではない。協力者は主に、金銭的か個人的な理由によって結社と関係していた。
「鷺谷さん」
 と、烏堂は声をかけた。鷺谷聡(さぎたにさとし)、というのが彼の名前である。
「どうも、眠くないですかね」
 今にもあくびをしそうな顔で、烏堂は言った。
「ええ、そうですね」
 鷺谷はしかし、澄ました顔で答えた。烏堂と同じくこの男とて寝不足のはずなのだが、決してそれを表に出そうとはしない。自分の弱みは絶対に人に見られたくない、という種類の人間なのだ。
 烏堂は鷺谷のそういうところを、わりと好意的に解釈していた。石に漱ぎ流れに枕する人間なのだろう、と。それに鷺谷聡は烏堂にとって師匠のような立場にある人物でもあった。魔法に関するイロハは、この男から学んでいる。
「結局、徹夜の作業だったから、僕はもうしんどくて死にそうですよ」
「私は慣れてますからね」鷺谷は言いながら、さりげなく目をしょぼつかせている。「仕事ではよくあることです。それに私たちの業務はこれでほとんど終わりですから」
「まあそうですけどね」
 言いながら、烏堂は大きくあくびをした。
「……それより、雨賀さんはどうしたんですか? あの人も来ると思っていたんですが」
 鷺谷は変に難しい顔をして言った。あくびがうつりそうだったのかもしれない。
「雨賀さんは出張中です。何でも、委員会への陽動で別の場所で仕事をしていたとか。壁が出現したときには、間にあわなかったそうです。同じ場所をぐるぐるまわってたわけじゃないとは思いますが」
 言って、烏堂は少し笑った。雨賀秀平の魔法なら、そういうこともありえないことではない。
「――まったく、わりにあわない仕事です」
 鷺谷はふと、ロウソクの火も消えないくらいのため息をついた。気どっていて愚痴っぽいというのが、この男の愛嬌である。
「会社の実質的な持ち主だからといって、こんなのは横暴というものでしょう。いくら特別報酬が支給されるからといっても、本来の仕事とはかけ離れすぎています」
 だがいくら不満を口にしたところで、この人は結局はそれに従うのだろうな、と烏堂は思う。
「まあいいんじゃないですか? どっちにしろここから先、僕たちが手だしするようなこともないわけですし」
「ええ、あとはあの子供たちの領分ですからね」
 何だかんだ言いつつも、鷺谷には屈託というほどのものはない。
 二人が無駄口をきいているうちにも、搬入作業は継続中だった。フォークリフトが、何段にも積みかさねた箱を競技場内へと運んでいく。その後に到着したライトバンからは、作業を手伝う人員がぞろぞろと現場へ向かっていた。
 作業主任である年配の男は、鷺谷の姿を見かけて報告に来た。発注元であるスパロー企画の責任者は、その社員である鷺谷ということになっている。
「公園の各所に依頼物を運んで適当に放置する、とのことでしたね。中央競技場が特に数も多くなっていますが、配置指示のようなものはなしということで構わないので?」
「ええ、その通りです」
 鷺谷は簡潔に返答する。
「しかし、片づけのことも考えるとなかなか大変ですよ。本当によろしいので?」
 男は親切心から言っているようだった。が、鷺谷はこともなげに返事をする。
「心配はいりません。あとは人形のほうで勝手にやりますから」
 その言葉に、年配の男は小首を傾げるような仕草をした。何かの比喩なのか、それともそういうパフォーマンス的な何かなのか。だが結局、男はそれ以上の質問はしなかった。何といっても、彼には芸術のことなどよくわからないのだから。

 同時刻――
 総合運動公園からかなり離れたビルの屋上に、千ヶ崎朝美はいた。彼女はその場所で、双眼鏡をのぞきこんでいた。レンズの先にあるのは、もちろん運動公園である。
 それは何の変哲もない市販の双眼鏡だったが、例によって朝美の魔法で性能を上書きされていた。距離はあったが、公園内の様子は手にとるようにわかる。それでも、木や建物といった遮蔽物まではどうすることもできなかったが。
 公園内では大型トレーラーを使って、何かの搬入作業が行われているところだった。とはいえ、その正体までは判別できない。朝美にわかったのは、箱に詰めこまれた何か白い塊と、それが恐ろしく大量にあるらしい、ということだけだった。
(サンタさんのプレゼントとしては、あまり気が利いているとはいえないみたいだけど……)
 と、朝美はそんなことを考えてみる。
 双眼鏡の先を移動させる途中、朝美はふと手をとめた。競技場のあいだをつなぐ道のところに、見覚えのある人影を発見したのである。
 朝美は慎重に双眼鏡を操作して、その二つの人影を確認した。やはり、間違いない。思ったとおりの二人組だった。
(とすれば――)
 携帯端末を取りだして、朝美は室寺に連絡を入れる。行動を起こすには、こちらとしても絶好の機会だった。
 ――罠を張るのは、何も猟師だけと決まったわけではない。

 昼を少し過ぎた頃、県道を走るSUVの車内には五人の人影があった。運転席に室寺、隣の助手席にはアキ、後部座席にはハル、ナツ、フユの三人が座っている。朝美はいつものバイクに乗って、そのあとを追走中だった。
 運転席に座っている室寺は、実のところ運転はしていない。ハンドルには軽く手をそえているだけで、アクセルやブレーキには足を置いていなかった。
 それはアキの魔法〈生命時間〉によるものだった。
 物体に生命を吹きこむ#゙女の魔法によって、室寺の車には今、自らの意志が持たされていた。〈生命時間〉は対象の形態に従った自律機能や、会話能力を付与することができる魔法だった。となれば、自動車が名前の通りに自走するのは、容易いことだったのである。
「――にしても、自分の車が勝手に走ってるってのは妙な気分だよ。誰かに体を乗っとられたみたいな感じだ」
 室寺はどこか釈然としない様子でうめき声をあげた。
「それは室寺さんがクロのことを奴隷みたいに考えてるからですよ」
 隣で、アキは乱暴な子供をたしなめるような口調で言う。
「クロ……?」室寺は口を半開きにした。
「この子の名前です。黒い車だから」
 まるで犬の名前ではある。
「クロが言うには、室寺さんの運転は乱暴すぎるそうです」
「俺が?」
 室寺は目を瞬かせた。〈生命時間〉をかけられた物体との会話は、基本的にはアキとしか成立しない。
「無駄にアクセルを踏んだり、急ブレーキをしたり、無茶なコーナリングをしたりするのはやめて欲しい――だ、そうです」
「……腹蔵のない意見をありがとうよ」
 室寺はため息をついた。
「もっとまじめに聞いて欲しい、ってクロは言ってますよ」
「このままだと、そのうち水奈瀬に向かって尻尾でも振りそうだな」
 と室寺は苦笑したが、アキはまじめな顔をしている。
「自分の言うことを聞いてくれないなら、相手の言うことだって聞かなくなるのは普通ですよ」
 諫言を受けて、室寺は少し口を閉じた。心なしか、車のパネルあたりから敵意のようなものが感じられる気がする。
「その言葉、覚えておくよ。運転については一考しておこう」
「室寺さんも車に名前をつけてあげればいいんじゃないですか?」
 アキはいたって明るい口調で提言した。
「……考えとくよ」
 室寺は少し疲れたように、深々とシートに身を沈めた。
 そうこうするうち、車は目的地へと到着している。天橋市立総合運動公園、カーナビの表示は指定された座標と一致していた。
「――さて、これからどうしろっていうんだ?」
 入口付近で停車すると、室寺は誰にともなくつぶやいた。
 公園への入口には臨時のフェンスが設置され、進入禁止の看板が出されていた。普段は一般に開放されているが、今日だけは使用禁止ということだろう。横のほうにある台座には、公園名の書かれたプレートがはまっている。
「あそこ、何かあるんじゃないか?」
 と言ったのは、ナツである。
 その指先は、ちょうどプレートのあたりを示していた。ほかの四人も目を移すと、なるほどプレートの横に白い封筒のようなものが貼りついている。もちろん、こんな場所に郵便の回収があるわけはない。
「俺が行ってくる。お前たちはここで待ってろ」
 室寺は言って、車から降りていった。それだけで、車内はずいぶんと広くなった感じがした。重そうな鉄の塊が転がっていれば、それだけで十分に気になるものだ。
 バイクで待機したままの朝美に向かって手で合図すると、室寺は周囲の警戒をしつつ封筒の回収に向かった。封筒を手に取ると、そのまま中身を空けて確認する。しばらくすると、室寺は全員を手招きした。どうやら、個人宛ての恋文ではなかったらしい。
 四人と朝美は室寺のところに向かった。そこで、室寺は封筒の中身を四人のほうへと示す。そこには、こう書かれていた。

『一を抜いて、一人ぼっちの二番目の卵
 卵から生まれたのは二組の双子のヘビ
 ヘビの尻尾はどこにある?
              ――グース』

「何なんだ、これは?」
 室寺は実に的確な表現をした。
「たぶん、次の行き先を示す暗号みたいなものだと思いますけど……」
 ハルは首をひねるようにして言った。
「宝探しゲームだな、これじゃ」
 ナツはうんざりした顔をする。
「行った先で、また似たような暗号があるんだろう」
「このグースというのは何なの?」
 フユは最後の署名らしきものについて訊いた。
「グースは鵞鳥――ここではおそらく雁、つまり鴻のことだと思います。鴻城、という意味の署名でしょう。マザーグースともかかっているのかもしれませんが」
 朝美は冷静に指摘した。
「――オーケー、こいつを解かないと、俺たちは佐乃世さんのところまでたどり着けないわけだ」
 室寺は軽く手を叩いて言った。本人がこの公園内にいることは、以前と同じような電話で確認済みだった。例によって、それが本物で、本当かどうかの保証はなかったが。
 六人は公園の入口で、紙面を取り囲んだ。樹木が風に揺れる音が聞こえた。太陽はいつものように、控えめに時間の進行を告げている。
「最後のは、ヘビの尻尾を探せってこと?」とアキがまず、問題について質問した。
「たぶん、そうだろうね」ハルが答える。
「そのヘビが何なのかは、前の文章を解かないとわからないわけだ」ナツは軽く鼻を鳴らした。
「一を抜いて一人ぼっち、って?」アキは首を傾げる。
「……もしかしたら、素数じゃないかしら?」フユがふと気づいたように言った。「素数は一をのぞいて、それ自身の数でしか割れない」
「素数の二番目というと――」と、室寺。
「三ですね」朝美が答えた。
「でも、その卵は二組の双子のヘビだった?」再び、アキが訊く。
 今度は誰も、すぐにはわからなかった。
「……もしかしたら、二乗しろってことじゃないかな?」と、しばらくしてハルが発言する。
「三の二乗は、九」フユがぽつり言う。
「九つのヘビ?」何のことだ、という顔を室寺はした。
「ヘビといえば――?」ナツは唇を尖らせる。
「爬虫類、冷血動物、地を這うもの、毒、丸のみ……」フユが連想を羅列した。
「とぐろ、わっか?」アキが首をひねる。
「……九つの円」ハルは顔をあげた。「陸上のトラックのこと、じゃないかな?」
「確かに、ここのトラックレーンは九列ですね」朝美が補足する。
「その尻尾といえば」室寺が最後にまとめた。「ゴールのことだろうな。陸上のゴールは基本的に一つしかない。九つのレーンの終わりの場所――」
「そこに、来理さんが?」
 アキが訊いた。
「あるいは、次の宝探しのヒントがな」
 そう言う室寺の口調は、今にもやれやれと言わんばかりだった。
「――子供の遊びにつきあえ、ってわけだ」

 一羽の鳥が、上空を旋回していた。青空を背景にして、地上からは小さな点にしか見えない。それは今にも、膨大な空の青さに吸収されてしまいそうだった。もちろん、魔法の揺らぎを感知できるような距離ではない。
 鳥は眼下の公園を睥睨するように飛行していたが、何かを思い出したみたいに進路を変えた。弾丸のようなスピードで、ある場所へと向かう。やがて到着したのは、夜間に競技場を照らすための照明塔の一つだった。無骨な葡萄棚に似たその骨組みの上に、鳥は空気の乱れさえ起こさずにふわりと着地する。
 照明塔は、高さにして五十メートルほどはあった。普通なら点検や電球の交換といったときにしか、人の訪れることのない場所である。たまにやって来るものといえば、鳥か、空から落ちてくる雨粒くらいのものだろう。
 けれど――
 そこには今、一人の少年の姿があった。
 少年は空から間違えて落っこちてきたような、ぼんやりとした顔をしている。少なくともそこには、高さにめまいを起こしたり、地上へ降りられずに困惑したりする様子は見られない。風が吹いても、少しも動じることはなかった。まるで、天使がそこで、天国の門でも開くのを待っているみたいに。
 その少年の前で、鳥のほうには変化が起こっていた。魔法の揺らぎが生じ、水面に小石を落としたような波紋が広がる。その波紋が治まったとき、そこにはサクヤの姿があった。彼女にもやはり、少年と同じように高さや落下の危険を顧みる様子は見られなかった。
「ちょっと予定外のことになったわよ、ニニ」
 と、サクヤは言った。
 ニニは相変わらずのぼんやりした顔で、彼女のほうを見かえす。
「どうかしたの?」
「執行者の連中はともかく、例の子供たちも来てるみたいよ。裏切り者の、志条芙夕もね」
「……彼女は委員会側についたのかな?」
 ニニはちょっと考えるように言った。
「どうかしらね」サクヤは比較的どうでもよさそうに言った。「佐乃世来理を助けにきた、というところじゃないかしら。どっちにしろ、希槻さまの魔法が解けてるのは確かみたいね。どうやったのかは、よくわからないけれど」
「でも母親のほうは解けていないんだよね?」
 言われて、サクヤはちょっとむっとしたような顔をする。
「あたしだって、そんなこと知らないわよ。でも、あの子供たちが向こう側に協力してるのは確かでしょ。どうするつもり?」
 ニニは黙って、少し考える。その様子は水面にただ釣り糸をたらしているだけのようで、そこで何らかの思考が行われているようには見えなかったけれど。
「ボクらの目的は室寺蔵之丞の排除≠セ。そのことは変わらないよ」
「作戦に変更はない、ということ?」
「うん」と、ニニはうなずいた。「ここで獲物が弱るのを待つ」
「でも、もう不測の事態ってやつが起こってるみたいだけど? せっかく面倒ななぞなぞまで作ったっていうのに」
 サクヤが小馬鹿にしたように言うと、ニニは「うーん」とうなった。ちょっとのんびりしすぎているようでもある。
「……まあいいわ、そっちのほうはあたしに任せとけばいいわよ」サクヤはわざとらしくため息をついた。「あんたは室寺のほうに集中してればいい。いざとなったら、烏堂と鷺谷の二人を置いて逃げればいいんだから」
 サクヤはそう、さりげなく不人情なことを口にした。
「そうだね」
 とニニはそれを気にしたふうもなく答える。
「そっちのほうは、サクヤに任せるよ。ボクは全力で室寺のほうを片づける」
「頼もしくてけっこうね」
 サクヤはからかうように肩をすくめてみせた。
「――でも」
 と、ニニはいつものおっとりした調子で加えた。
「もしサクヤのほうが危なくなったら、すぐに飛んでいくから。だからその時は、ボクが着くまでがんばって」
「……何であたしが危ないなんてわかるわけ?」
 サクヤはちょっと眉をひそめて、言いがかりをつけるように発言した。
「わかるよ」
 けれどニニは、笑顔で言っている。
「サクヤの声なら、どこにいたって聞こえるんだから」
 言われて、サクヤは無理に怒ったような顔をして、強く口を閉ざす。そうしないと、頬が勝手に変な形を作ってしまいそうだったから。
「――じゃあ、あたしは行くから」
 サクヤは腹いせに思いきりドアを閉めるような調子で言うと、再び鳥の姿に変身して飛びたっていった。そんなサクヤの様子を、ニニは怪訝そうな顔で見送っている。
「さて、と――」
 それから、ニニは骨組みに腰かけて、天使めいた格好で地上の様子を見守った。
 天国の門は開かれないとしても、その時はいずれ確実にやってくるはずだった。

 中央競技場は陸上のほかに、サッカーやラグビーの試合が開催可能な施設だった。スタジアムは二万人ほどの観客収容人数を擁し、スタンドに囲まれたごくオーソドックスな形式をしている。
 室寺と五人は車から降りて、その建物へと向かった。当然だが、あたりに人はいない。行楽日和といってもいいくらいの陽射しのもとで、時間だけが妙に余白を感じさせる沈黙の中にあった。
 スタジアムにある出入口のいくつかは、直接フィールドにつながっている。六人はそのうちの一つを選んでスタンドの下をくぐっていった。短い暗闇の向こうには、赤茶色の陸上トラックと緑の芝生が広がっている。今のところ、特に異常は見あたらない。
 広大なフィールドに出ると、まわりをぐるりと壁が囲んでいる。スタンドがすり鉢状になっているせいか、空までの距離がだいぶ遠くなったような感じがした。手をのばしたくらいでは、どうやっても届きそうにない。風は水槽に入れられた魚みたいに、あたりを吹きすぎていった。
「何もないようですね」
 と、朝美が周囲を警戒しながら言った。
「来理さんもいないみたいだし」
 傍らで、アキもつぶやく。
「とにかくゴール地点を調べることだな」
 室寺が言って、六人は指定されたとおぼしき場所へ向かった。
 陸上トラックのレーンには、一から九までの数字が振ってある。それを一つ一つ調べていくと、ちょうど七レーンに黒いマジックらしいもので文字が書いてあるのが見つかった。
「また、暗号――?」
 と、アキが嘆息したときのことである。

 ピイイィィ――

 スタジアムいっぱいに、笛の音が響きわたった。ゲームの試合開始を告げるような、金属的な亀裂音である。
「何だ……!?」
 室寺が背後のスタンドを振りむくのと、ほぼ同時だった。
 正体不明の白い物体が、観客席でいっせいに立ちあがっている。
 さすがにスタンドを埋めつくすというほどではないが、それでも相当の数だった。雨後の筍といった表現がぴったりである。
「早朝から運びこんでいたのは、どうやらこれだったみたいですね」
 朝美が、ほとんど独り言みたいにつぶやく。
「――おい、次の行き先はどうなってる?」
 と室寺は目だけを動かして訊ねた。謎の物体に、まだ動きは見られない。が、どう考えてもこれで終わりというわけはないだろう。観客というには、あまりに不気味すぎる集団だった。
「ちょっと待ってください――」
 アキは言って、慌てて地面をのぞきこむ。

『BとNのあいだにあって、Heの場所
              ――グース』

 今度は、そう書かれていた。
「何だそりゃ?」室寺が訊く。
「いや、そう言われても――」
 アキが困惑しているあいだに、それは起こった。
 鬼ごっこで規定の秒数を数え終わったとでもいうように、白い物体がいっせいに動きはじめたのである。あるいは、起動準備が完了した、ということかもしれない。何にせよ、何百、何千あるのかもわからないそれらの物体は、人間のような動きでスタンドからの移動をはじめていた。
 ――六人のいるほうへと向かって。
「どうやら、これが本命だったらしいな」
 と、室寺はこの状況に及んでも不敵な笑みを浮かべている。
「いったいどうするつもりなんですか、室寺さん? 数が多すぎますよ――」
 朝美がちょっと、途方に暮れるように言った。
「心配するな。お前たちはとりあえずその暗号を解いて、次の行き先を教えてくれ」
 室寺の声はあくまで泰然としている。
 そして五人が何かを言う前に、室寺はその場を少し離れて、スタンドのほうへと向かっていた。首を軽くひねり、腕をまわす。肩を左右で上下させ、足の具合を確かめるように地面を強く踏んだ。拳を何度も開閉し、呼吸を整える。
 白い物体の一体目が、スタンドから地面へと飛び降りてきた。
 ほぼ等身大の人形、といっていいだろう。粘土で形成されたような質感をしていて、流線型の白い四肢が、黒い球体のようなもので接合されている。頭部と思われる場所には、目のような青い線が入れられていた。腕部の先には手のような構造も認められる。
 人形は室寺のことを認識するように、一呼吸だけ間を置いた。
 そして次の瞬間、人間離れした速度で室寺へと襲いかかる。明確な敵意と破壊目的が、そこにはあった。
 室寺は構えをとって、鋭く息を吸う。
 人形の一撃が交錯する直前、室寺はそののばされた手を左腕で払うと同時に、右拳による打突を実行した。
 ――室寺の魔法〈英雄礼讃〉
 それは装着した魔術具の効果を増大させる≠ニいうものだった。つまり、厳密にいえばこの魔法は室寺本人には何の影響も及ぼさない。この魔法だけでは、室寺蔵之丞を無敵の超人にすることはできなかった。
 だが、彼は常に三つの魔術具を身につけている。
 魔法の揺らぎを受けたグローブが人形の体をとらえると、その一撃は人形の肢体をばらばらに粉砕しながら、派手な音を立てて十数メートルほども吹き飛ばした。
 ひび割れた胴体だけになった人形は、文字通りの木偶と化して地面に転がっている。
「……すごい」
 呆然としたアキの口から、やや控えめな形容詞がもれだした。
 力を強化するグローブ、防護用のコート、特殊効果を持ったブーツ――それが室寺の装着する三つの魔術具だった。もちろん普通の魔法使いでも同じような効果は見こめるが、室寺の〈英雄礼讃〉によるほどのものではない。聖剣は誰にでも抜けるというものではなかった。
 一体目を破壊するあいだにも、別の人形が次々とスタンドから飛び降りている。室寺は気合いを入れなおして、次の襲撃に備えた。
「こっちは俺に任せろ。お前たちのほうには通さん」
 しゃべっているあいだにも、室寺はすでに二体目を粉砕している。
「――だ、そうだけど」
 と、ナツは軽く肩をすくめるように言った。
「できるだけ急いだほうがいいだろうな」
 そして、五人は二つめのなぞなぞに向かいあった。
「今度は前のより短いけど……」アキは地面を見ながら言う。
「BとNのあいだ、He。これってたぶん、元素記号のことだろうね」ハルがつぶやく。
「ホウ素と窒素のあいだといえば、炭素ですね」朝美が言う。
「炭と公園に何の関係が?」アキは首をひねった。
「……炭素といえば、ダイヤモンドかな」ハルが言う。
「ダイヤモンドといえば、野球場だな」ナツがひきついだ。
「でも、ヘリウムというのは何のことなの?」フユが訊く。
 その時、ボーリングのような派手な炸裂音が響いて全員がそちらのほうを向いた。見ると、室寺が人形の足をつかんで別の集団に投擲しているところだった。
「――野球とヘリウム?」アキはもう一度首をひねった。
「周期表では、二番目の元素ですね」と、朝美。
「二番目ってことは、キャッチャー?」アキが言う。
「何で二番がキャッチャーなの?」とフユは理解しかねるような顔をした。
「……守備番号だ」ハルは気づいた。「一番がピッチャーで、二番がキャッチャー。三番はファーストだったかな」
「そうだよ。前に野球部の取材をしたとき教えてもらったんだ」アキは朗らかに自慢する。
「キャッチャー、つまりホームベースってことか」ナツは言った。
「たぶん、そうだよ――」
 ハルは顔をあげると、室寺に声をかけた。
「室寺さん、次の行き先は野球場のホームベースです」
 人形を一体前蹴りで突き飛ばし、室寺は顔だけそちらへ向けた。
「了解した。ただし、俺はこいつらを片づけるのが先だ。次の場所にはお前たちだけで向かえ。それから、千ヶ崎――問題がなければ例の計画通りの行動に移れ」
「でも、室寺さん――」
 朝美はいかにも難しそうな顔をした。いくら室寺の〈英雄礼讃〉でも、この数を相手にして無事ですむとは思えなかった。
「俺のことなら心配いらん」
 室寺は一笑した。そういう男なのである。
「どうせ大本命は例の子供たちだろう。それまでの肩ならしにはちょうどいい」
「…………」
 朝美はかすかに逡巡したが、結局はその言葉に従うことにした。こと戦闘に関するかぎり、この男にはほとんど無敵の能力がある。
 出入口までの人形が塵でも掃くように蹴散らされると、五人はスタジアムの外に向かった。トンネルの下から、朝美は振りかえって言う。
「千條と乾さんがいなくなったうえ、あなたにまで死なれたら困りますからね」
 いまや競技場の反対側にあるスタンドからも、人形の群れは白い津波のように押しよせつつあった。
「……俺はそう簡単に死ぬわけにはいかないんでな」
 室寺は仁王立ちしたまま、顔を振りむかせもせずに言う。朝美には見えなかったが、その顔はたぶん、笑っているはずだった。
 時間の余白は急速に、隙間なく埋めつくされようとしていた。

 〈生命時間〉をかけられた車は、指示された場所へと自動で走っていく。車には四人の子供たちが乗っていた。朝美は以前と同じくバイクで追走中である。車内には手で叩けそうなくらいの硬質な沈黙が漂っていた。
「……室寺さん、大丈夫かな?」
 アキがつぶやくように言う。
「本人がそう言ってたんだから、ぼくたちにはどうしようもないよ」
 ハルは少し複雑な表情で首を振った。
「それに、私たちがあそこにいても、足手まといになるだけでしょうね」
 フユは冷静に指摘する。
「でも――」
 と、アキがなおも言い募ろうとするのを、ナツが制した。
「俺たちにできるのは、さっさと佐乃世さんを見つけだすことだな」
 当然の正論を言われて、アキは口を閉ざすしかない。
 車はほどなく、野球場に到着した。こちらにはスタジアムといった施設はなく、外野の向こうは土手に囲まれている。さっきよりも、いくらか空が低くなったようでもあった。
 球場の前に立った四人と朝美は、けれどその場でいったん立ちどまっている。
 グラウンドには、さっきと同じような人形が石ころでもまき散らしたような格好で散在していた。さすがにさっきのような数は見られないが、それでも相当数には違いない。
「どうやら指示に従って進む先々で、この人形を破壊しなくてはならないみたいですね」
 と、朝美は眉をひそめる。
「室寺さんじゃあるまいし、そんなのわたしたちには無理なんじゃ……」
 アキが不安そうに言うのを、「ちょっと待ってください」と押しとどめて、朝美はグラウンドのほうに向かった。
 そして一番手近にあった人形に向かって、銃を構える。〈転移情報〉によって本物の性能を上書きされた、例のおもちゃの拳銃だった。
 朝美はその銃で、人形の頭部を狙い撃った。正確に一撃された人形は、けれど何の反応も示さない。朝美が横たわったままの人形に近づいても、やはり同じである。指先一つ、ぴくりともさせない。
「フェイク、ってことですか?」
 ナツは訊きながら、同じように人形に近づいてみた。見ためは、さっきのものと何の変わりもない。
「いえ、魔法の揺らぎはあります。ただ、起動条件のようなものを満たしていないのでしょう。スタジアムの時に聞こえた笛の音、あるいはああいったものが」
「ふうん」
 アキはしゃがみこんで、人形の体を何度か叩いてみる。こんこん、と硬質な音がした。かなり頑丈そうである。
「しかしこれ、どっかで見たことがある気がするんだよな……」
 それを見ながらナツはふと、釈然としないようにつぶやいていた。
「え、どこで?」
 アキが訊きかえすと、ナツは迷うように首を振っている。
「――いや、たぶん関係ないし、どうでもいい話だ」
「何にせよ、問題ないなら次の暗号を探しましょう」
 フユが言って、それから五人は動きだす。大量の人形が横たわるグラウンドを、ホームベースのほうへと向かった。白骨化したような白い人形があたりに散らばるさまは、非業の最期を遂げた兵士たちがそのまま野晒しにされているようで、あまり気持ちのいいものではなかった。もっとも、室寺がここに到着すればまさしくその通りのことにはなるのだろうけれど。
 五角形のベースが埋めこまれた本塁のところまで来ると、そこには予想通りに次の行き先を示した問題が書かれていた。当然、それを解かなければ次の場所へは進めない。
「迂遠な話だな」
 とナツは少しうんざりした顔をして言った。またぞろ例のなぞなぞに挑戦しなければならないのだろう。
 けれどその時、不意に朝美が声をかけている。
「――申し訳ありませんが、ここからのことはみなさんにお任せします」
「どういうことですか?」
 ちょっとびっくりしたように、アキは訊きかえした。
「事前の打ちあわせ通り、私は別行動に移ります」朝美はあくまで淡々とした、事務的な口調で言った。「あなたたちは何とか、佐乃世さんの救出を続けてください。室寺さんはああ言っていましたけど、このままではいずれじり貧に追いこまれてしまうでしょう。そうなる前に、何か手を打つ必要があります」
 言われて、四人とも一瞬戸惑った表情を見せる。ここからは、子供たち四人で行動しなければならない、ということだった。
 けれど――
 事態はすでに、ほかにどうしようもない状況になってしまっている。
「大丈夫、あなたたちならきっとやれる気がしますから」
 千ヶ崎朝美は彼女には珍しく、根拠のない太鼓判を押した。
「――完全魔法だけではなく、あなたたち自身の力を見ているとそんなふうに思えるんです」

 スタジアムでは〈英雄礼讃〉を駆使しつつ、室寺が孤軍奮闘を続けているところだった。フィールド上には、人形の残骸が破片になって散らばっている。緑の芝生は白いペンキの飛沫でもとばしたように、まだらになって染まっていた。
 今しも、何十体目かの人形が室寺の裏拳で破壊されたところだった。
「――さすが、たいしたもんですね」
 ポータブルモニターに表示されたそれを見ながら、烏堂は感心している。
 競技場を囲むスタンドの最上段、大きなガラス窓の並んだ部屋の中に、烏堂有也はいた。すぐ隣では、鷺谷が立ったまま窓の外を眺めている。部屋の中にはほかに誰もおらず、電気はつけられていなかった。見つけられては困るからだ。
 そこは場内にアナウンスや音楽を流す放送室で、室内には机やイス、いくつもの放送用機材が置かれていた。窓の外からは競技場をほぼ一望することができる。さすがにフィールドの人間は豆粒ほどにしか見えなかったが、全体を眺めるには好都合だった。室寺が次々と人形を殴り倒していく様子がよく見える。
「あーあ、またやられちゃいましたね……」
 烏堂は画面に映された光景を眺めながら、ひどくとぼけた口調で言った。
 スタジアムの人形を用意したのは、もちろんこの二人だった。鷺谷聡の〈即興兵隊(インスタント・マスコット)〉と烏堂の〈暗号関数〉、その二つの魔法を利用したのである。
 鷺谷の〈即興兵隊〉は人型の形状をした物体をロボット化することができる≠ニいうものだった。アキの魔法と少し似ているが、こちらは単純な命令に従うだけで、自らの意志や感情といったものを持つことはない。ロボットとしての性能は、概ねそのデザインに依存して変化した。
 一方、烏堂の魔法はある行為による効果を、指定した条件下で発動させる≠烽フだった。以前にも説明したとおり、一種の目覚まし時計のような魔法である。
 結社からの協力要請を受けて鷺谷がまず用意したのは、大量の人形だった。幸い、鷺谷にはその心あたりがあった。会社による宣伝企画のために制作された、『スターチャイルド』というアニメの等身大模型である。
 そのアニメではチャイルドと呼ばれるロボットの骨格として、「素体モジュール」という設定が使われていた。宣伝用の人形として作られたのは、その模型である。とはいえ、特注品のものが一体あるだけで、もちろん大量生産などされていない。完成品と設計図だけはそこにある、という状況だった。
 そこからどうやって生産ラインを成立させたのか、鷺谷は知らない。あまり知りたくもなかった。だがそれが必要なことだけを伝えると、すぐに人形の生産が開始されたのである。鷺谷にすれば、こちらのほうがよほど魔法だった。
 できあがった人形には、鷺谷が魔法をかけた。ただしこれには問題があって、魔法の効果は長くは続かない。もって半日程度というところだった。それに一日に魔法をかけられる人形の数も限られている。玩具のネジを巻くにしても、そう簡単にはいかないのだ。
 そこで、烏堂の〈暗号関数〉が必要になってくる。その魔法の条件づけによって、魔法の発動を任意の時間にずらすのである。あとは、作業の問題だった。二人は連日の徹夜を続けて、とうとうこれだけの人形を用意した。
 今、そうして作った人形たちが、ドミノでも倒すみたいに次々となぎ倒されていくのを見るのは、一種の虚しさと快感の混じった、奇妙な感覚だった。
「……にしても、かすりもしませんね」
 烏堂はイスに座ったまま、モニターの前であくびをもらした。その映像は別の人形にカメラを仕込んで撮影させているものだった。隣では鷺谷が、窓の外をじっと見つめている。
「ええ、そんなものでしょうね」
 と鷺谷はまるで、こんなことは当然わかりきっていたことだ、といわんばかりの口ぶりだった。内心でどう思っているのかは不明だったが。
 フィールドでは室寺が、大車輪の活躍を示しているところだった。その無駄のない動きは、一種の舞姿にも似ている。人形たちはその動きをとらえきれずに、子供が玩具を壊すほどの容易さで吹き飛ばされていった。
「見事なものです」
 鷺谷は画面を食いいるように見つめながら、つぶやいた。
「ただし、いつまで持つかは知りませんが――」

――Thanks for your reading.

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