[不完全世界と魔法使いたちD 〜物語と終焉の魔法使い〜(上)]

[二つめの始まり]

「――いい? 魔法の揺らぎを作るの。そうしてゆっくり、それを魔術具に近づけていく」
 と、佐乃世来理は指示した。
 場所は、夕凪町にある彼女の自宅の一室である。部屋の床と天井には奇妙な模様のようなものがあり、壁面は白い漆喰で固められていた。窓はなく、今は明かりも消されて、小さなロウソクの炎だけが暗闇に浮かんでいる。
「……はい」
 アキはうなずいて、手元にある物体に意識を集中させた。二人は小さな机を挟んでイスに座っている。机の上には、すり鉢のようなものに丸い球を乗せた、奇妙な物が置かれていた。
 それは発光魔法≠フ魔術具だった。魔法には揺らぎを形にするために魔術具を利用する一般型と、魔法使い自身を利用する特殊型が存在している。発光魔法≠ヘ文字通り、光を作るための魔術具だった。
 二人は現在、魔法の訓練中だった。佐乃世来理は、魔法委員会によって管理者≠ニ呼ばれる役柄を委託されている。その仕事は、主に魔術具の収集や管理についてのものだったが、希望者に対して魔法の訓練を施すことも含まれていた。魔術具の利用と、管理者自身が魔法の扱いに長けている、という点で都合がよかったからである。
 この部屋も一種の魔術具で、魔法室≠ニ呼ばれていた。魔法の揺らぎの強化や、その精度の向上、制御の補助といった効果が得られる。揺らぎをうまくコントロールできない初心者には、うってつけの場所でもあった。
 部屋を暗くしているのは、集中力を高めるのと、魔法の発現を確認しやすくするためである。
「揺らぎを近づけたら、魔術具からの反応に注意して。目をつむって手探りするみたいに、その形を理解するの。見ためではなく、その魔法の形をね――」
 言われたとおり、アキは揺らぎとその感触に注意する。
「魔術具はお手本のようなものよ。トレースすべき形を教えてはくれるけど、線は自分で引かなければならない。魔術具の形をよく見て、揺らぎをそれにあわせるの。ゆっくり、小さなコップに水を注ぐみたいに」
 アキは言われたとおり、慎重に揺らぎを魔術具の形にあわせていく。
 魔術具は切れかけの電球みたいに、不規則に何度か明滅した。どう見ても、成功しているとは言いがたい。アキはため息をついた。
 そんな様子を見ながら、来理はどうしたものかと考えている。この少女には何か、アドバイスが必要なようだった。
「いい、アキ――? 揺らぎを形作るイメージは人それぞれよ。自分にあったイメージを思い浮かべなさい。例えば、そうね、絵を描くようなイメージ、パズルを組みたてるようなイメージ……どんなものだって構わない。そのイメージが自分にあっていれば、揺らぎのコントロールはうまくいくはずよ」
 イメージか、とアキは思う。
 けれどどんなものがいいだろう。料理のレシピ、裁縫の型取り、踊りの振りつけ、書道の書きとり――学校の授業を次々と思い浮かべてみるが、どれもいまいちぴんと来なかった。
(音楽は、どうかな……?)
 アキはふと、音に耳を澄ますイメージで魔術具の形を探ってみた。そうすると、前よりも少しだけその形がはっきりとわかる気がした。それから、聞こえた音の種類にあわせるようにして魔法の揺らぎを作る。ちょうど、楽器で演奏するみたいに。
 揺らぎは今までよりずっと正確に、安定して魔術具と同じ形を作った。世界をわずかにだけ組み変えて、青白い光が夜の月みたいに部屋の中を照らす――
「そう、いいわよ。そのイメージを忘れないようにしなさい。じゃあ今度は、揺らぎを強くしてみて。形はそのままで、密度だけをあげる」
 アキは音量をあげるため、楽器を強く、フォルテで弾くイメージを浮かべた。
 けれどその途端、形の輪郭はあっというまに狂ってしまう。強くしようとしすぎて、音程を間違えてしまったのだ。魔法の光は膨らみすぎた風船みたいに、一瞬だけ強く光って消えてしまう。あとにはロウソクの明かりだけが、何事もなかったように揺れていた。
「ちょっと急ぎすぎたみたいね」来理は特に失望した様子もなく言った。「今日のところは、これで十分。格段の進歩よ。揺らぎのコントロールだって、すぐにうまくなるわ」
 アキは深く息をついて、肩を落とした。実際のところとしては、あまり誉められている気はしない。
「……ハル君やフユはともかく、ナツにだって簡単にできるのに、どうしてわたしにはこんなに難しいんだろう」
 と、アキは愚痴をこぼした。
「何事にも向き不向きというのはあるわ。空を飛ぶのだけが鳥じゃない。走るのや、泳ぐのが得意な鳥だっている。でも、それはそれぞれでしょ? 魔法だって、そう」
 なぐさめられて、アキはうーんとうなってしまう。確かにそれはそうなのだけれど。
「――今日はこのくらいにしておきましょう。最後に私がやってみせるから、よく見ておいてちょうだい」
 来理はそう言うと、机の上の魔術具に手をかざした。そして、魔法の揺らぎを作る。
 揺らぎは鍵穴にぴたりとはまるように、その形が一致していた。アキの時よりずっと明るく、くっきりとした光が部屋を照らす。星の光をいっぱいに集めれば、こんなふうになるのかもしれなかった。
「未名さん、て……ハル君のお母さんて、どんな人だったんですか?」
 不意に、アキはそんなことを訊いている。どうしてそんなことを訊いたのか、アキには自分でもわからなかった。その質問は偶然見つけた落し物みたいに、気がつくと口をついて出てしまっている。
 来理はけれど、特に気にした様子もなく答えた。
「そうね、あの子は――未名は頭のいい子だった。ハルを見ていれば、それはわかるようにね。そのくせ妙に頑固で、言いだしたら聞かないところがあった。自分が間違っているとわかっても、それを素直に認められないところが」
 何かを思い出すように、来理はかすかに笑う。そして続けた。
「……けれどあの子は、何よりも失うことを怖れていた。変な言いかたをすれば、物事を大切にしすぎたのよ。この世界で何かを失わずにいられるなんて、無理なことだったのに」
 来理が静かに語るそのあいだにも、魔術具の光に変化はない。揺らぎはまるで、鉱石か何かみたいに安定している。でもそこに、わずかな違いがあるのにアキは気づいた。本来は同じはずの音階が、厳密には一致しないのと同じくらいの。
「――部屋の明かりをつけてくれるかしら、アキ」
 やがて来理は、いつもと同じ口調で言った。
「この不完全世界の私たちにふさわしい明かりを、ね」

 スケッチブックの上を、鉛筆が走っていく。そのたびに黒い線が描きたされるが、その描線はすぐに全体と混ざってしまい、見わけがつかなくなった。まるで最初から、そうだったみたいに。
 もう長いあいだ、ナツはスケッチブックにデッサンを続けていた。そこにははっきりフユとわかる少女が、イスに座って本を読んでいる。本物はすぐ目の前にいた。モデルを頼んだわけではないが、読書中の彼女はほとんど静止しているので、描くのには便利である。
 何本かの鉛筆を動かすナツの横では、ハルが邪魔にならないようにそれを見ていた。
「――絵を描いてるときは、何を考えてるの?」
 ナツの手がちょっととまったところで、ハルは訊いてみた。
「特には考えてないな」
 そっけなく、ナツは答えた。そしてまた、淀みなく手を動かしていく。髪の線を足したり、陰影を濃くしたり。そのたびごとに絵がよくなっていくのが不思議だった。まるで帽子からウサギでも取りだされているような気分になる。
「集中している、ということ?」
 ハルは特に気にした様子もなく、さらに訊ねた。
「まあそうかもな。少なくとも、今日の夕飯とかについて考えてるわけじゃない」ナツは鉛筆を立てて、片目をつむった。「けど集中しきってるわけでもないな。できるだけいろいろなものを見て、あまり考えすぎないように、見たままを描き写してるって感じでもある。極端なことをいえば、手を抜いてるな。それくらいの余裕は必要だろう」
「手を抜くのも難しい、ってことかな?」
 ハルは一応、そんなことを言ってみた。
「まあ、そんなところだな」
 いささか適当そうに、ナツは答える。
「――じゃあ、あなたはいつもさぞ大変なんでしょうね。手を抜いてないときがないんだから」
 不意に、そんな声が聞こえた。
 もちろん、フユである。けれど本を読む姿勢は変わっていない。文章から目を離しているのかどうかも怪しかった。
「手厳しいな……」
 と、ナツはおどけたふうに苦笑する。
「けどちゃんとした絵を描いてもらいたかったら、不用意な発言はよしたほうがいいぞ」
「頼んでないわよ、そんなこと」
 冷凍庫に安置された雪だるまみたいに、まるで動じることなくフユは言った。
「絵に変な落書きをされても構わないっていうのか?」
「好きにすればいいわ。それで困るのは、あなたのほうだと思うけど」
 ナツは手をとめてハルのほうを見ると、貝殻がほんの少しだけ開くみたいなため息をついた。「これだから、お姫様はな」
 そんな二人のやりとりを、ハルはただおかしそうに眺めている。
 三人がいるのは、来理の家にある居間だった。庭に面した広い部屋で、そこかしこに古めかしさがしみついている。その辺を見慣れない生き物が走っていても、たいして気にはならなそうだった。庭から入ってくる風や光は、普段よりもどこか礼儀正しい感じがしている。
 アキはまだ来理といっしょに訓練中で、ここにはいなかった。
「――そういえば、この前本を読んだんだ」
 ふと思いついたみたいに、ハルは言った。細部の描きこみに移っていて、ナツの手はやや遅くなりはじめている。
「何の本だ?」
 うるさがりもせず、ナツは訊きかえす。
「複雑系についての本」
「何でまた、そんなの読んだんだ?」
 ボタンの輪郭を濃くしながら、ナツは少し呆れている。
「ちょっと興味があったんだ。それで図書館から借りてきた。ナツのお父さんについての話も載ってた」
「俺の父親ってことは、言語学についての話だな」
 ナツは画面から少し目を離して、実物と比べてみた。ページをめくる以外にほとんど動きがないので、非常に描きやすかった。もしかしたら、その辺のリンゴより描画するのは楽かもしれない。
 と考えてから、それが安易に伝わってしまいそうな気がして、ナツは意識を描線に戻した。まったくのところ、この少女には妙に鋭いところがある。壁があるように見えて、それが透明にできているから、人より冷静に物事が観察できるのかもしれない。
「……言語の初期発生がどうのとか、そんな話だろう?」
 勘づかれる前に、ナツはハルとの会話に集中しているふりをした。
「うん、言語の文法生成過程を複雑系のアプローチによって解析する、とかそんな話」
「何のことだかわからん」
「数式とか、そういうのはぼくもよくわからないんだけど、要するに言葉がどうやってできあがっていたったのかをシミュレートするってことだと思う」
「まあ、それならわかる」
「それで、いくつかある言語生成モデルに、アトラクタ≠フあるものとないものがあるんだって」
「アトラクタ……?」
 ナツは眠っているあいだに石ころを詰められた狼みたいな顔をした。
「ひきつける、という意味の英単語。一見、無秩序でランダムな振るまいも、見方を変えるとあるパターンに落ちつく、そういう点のことをアトラクタっていうらしいんだ」
「熱平衡みたいなもんか」
「そう、物事はどこかで一つの点に収束する。それぞれのバランスをあわせて」
「…………」
 ナツはちょっと口を閉じて、瞳のところに鉛筆を入れた。描くということは、何かを描かないということでもある。描きたしているように見えても、実際には何かを削りとっていることが多い。
「――それで、その本の中に、人はどうして言葉を使うようになったのかが書かれてるんだ」
 ハルはちょっと言いよどんでから、鳥が風の具合を確かめるみたいにして言った。
「ふむ、何て書いてあったんだ?」
「それが可能性にあふれた世界だったからだって」ハルは言った。「それがプラスであるにしろ、マイナスであるにしろ。言葉は様々なものを作った。それまでより、ずっと強度のある素材で。でもそれは、人間に必要なことだった。想像する、ということが」
「うちの父親らしいな」
 ナツは空を漂う風船みたいな感じに笑った。
「言葉はいろんなものを作った。善いものも、悪いものも。でも人は、いつしか言葉に頼るようになったと思うんだ。少し、行きすぎなくらい。自分で作ったはずのロボットに追いまわされるみたいに」
「……ふむ」
「すべての言葉には、原理的に隙間が生まれる。何かを区別すれば、そうでないものとの隔たりが生じるから。そこに何か新しいものを運びこむこともできるけど、そのせいで本当のことが見えにくくなったりもする。言葉は結局、言葉以外のものを正しくは教えてくれないから」
「――そのせいで、この世界はよりいっそう不完全になっているんじゃないか、と?」
 言われて、ハルは小さくうなずく。
 ナツはスケッチブックをテーブルに置いた。砂時計が底をつくような自然さで。
「魔法のことについては、俺も気にはなってるよ。どうしてこんな力があるんだろう、ってな。もしかしたらそれで完全世界を取り戻せるのかもしれないし、そのほうが幸せなのかもしれない。世界にはどうも、悲劇が多すぎる」
 とんとん、とナツは鉛筆の端で画帳を叩いた。思考の形を整えるみたいに。
「でも前にも言ったと思うけど、それはどうでもいいことだよ。魔法はこの世界に存在する、それは変わらない。その事実にどんな意味があるのかはわからない。ただ、俺たちがそれをどう捉えるか、問題はそこなんだろうな。そのことにだけはたぶん、意味がある」
「うん――」
 それはナツらしいといえば、ナツらしい答えだった。この少年はそれがどんなものであれ、決して怖れようとはしない。何しろ、幽霊にだって形を与えてしまうのだから。
「どうやら、難しすぎて手を抜いていられないみたいね」
 不意にからかうような、フユの声が聞こえた。彼女はようやく本から顔をあげて、二人のほうを眺めている。
「そうは言いますがね、お姫様」ナツは苦笑して言った。「俺はどっかの天才作曲家じゃないんで、人としゃべりながら楽譜を完成させるなんて真似はできないんだよ」
「あなたがそんなに謙虚だとは知らなかったわ」
 フユはあくまで、手厳しかった。ナツは嘆息する。
「……まったく、お前はアキのやつよりずっと難物だよ。あの単純なお嬢さんなら、もうちょっと相手が楽なんだがな」
 ナツは匙を投げるような格好で言った。とはいえ、フユにしてみればおそらく、アキを相手にするほうが厄介だと思っているだろう。一種の三すくみみたいなもので、それがハルにはおかしかった。
「――フユは、どう思う?」
 と、ハルはことのついでに訊いてみた。
 フユはけれど、そんなことには何の興味もない、というふうに軽く肩をすくめてみせるだけだった。
「魔法なんて、あってもなくても同じよ。そんなものがあったって、人は変わらない。人が変わらないなら、世界が変わることもない」
 それは、彼女のテーゼだった。人は変わらない。変わるのは、関係だけだ。なら、そこに魔法があってもなくても、結局は同じことだった。魔法に意味はない。
 けれど――
 そうでないことも、彼女は知っていた。ごく少数の例外を。でもそれは、十分に無視していい数値だった。魔法なんて、その程度のものなのだ。
「まあ、人それぞれってことだろう」
 ナツが軽く場をいなしたとき、向こうからアキがやって来るのが見えた。敷石が大きく磨り減りそうな、あまり軽々とはしていない足どりである。
「お疲れさま――どうだった、訓練のほうは?」
 と、まずはハルが声をかけてやった。
 アキは消沈した様子で、その隣のイスに座る。喜ぶにしろ悲しむにしろ、実に率直な少女だった。
「あんまり、うまくはいかなかったかな」
「今日も今日とて、か」ナツは笑った。
「でも今日はわりとうまくいきそうだったんだよ」アキは抗弁する。
「どのくらいにだ?」
「ちゃんと光がついた」
「明滅訓練のほうはどうだ?」
 揺らぎを作ったり消したりして、すばやく光を点滅させる訓練のことだった。
「う、それは、まだだけど――」
 まだどころか、揺らぎの強弱さえまともにはコントロールできていない。
「百年一日だな、やっぱり」
 やれやれ、というふうにナツが頭を振ると、アキは不満そうな顔をしている。が、事実は事実なので言いかえすこともできなかった。
 そんなアキに向かって、
「無理して急ぐことはないよ。アキはアキのペースでやればいいんだから」
 と、ハルは言った。もちろん、それだけでアキの機嫌は直ってしまう。素直な少女なのだ。
「――そうだよね、人それぞれなんだから。それに、わたしは魔法使いになってから一番日が浅いわけだし」
 自分で自分をなぐさめられる程度に、アキは回復している。それからこの少女はふと、テーブルの上に置いてあるスケッチブックに気づいた。そこに描かれた、フユの絵にも。
「これって、ナツが描いたんだよね?」
 スケッチブックを手に取ってしげしげと眺めながら、アキは訊く。
「そりゃそうだ」
「何で、わたしの絵は描かないの?」
「……何故、お前の絵を描かなきゃならないんだ」
 と、ナツは極めて合理的、かつ正当な反問を行った。
「だって、来理さんの絵だってあるのに」
 そう言って、アキは居間の壁にかかった油絵を見る。
 立派に額装された絵が、そこには飾られていた。十号程度のカンバスに、イスに腰かけた来理の上半身が描かれている。そこにはこの媼に特有の、傷跡のない月みたいな雰囲気が写しとられていた。
 もちろん、描いたのはナツである。半年ほどかかって完成した作品だった。
「お前は頼まれても描く気になれないからな」
 ナツは気の毒そうに宣言した。
「何で?」
「わざわざ俺に言わせる気か」
 その時、道具の片づけをしていた来理が部屋へと戻ってきている。
「何だか賑やかそうね」
 と、彼女は雲一つない空みたいな笑顔を浮かべた。誰もがその前で、わざわざ雨を降らせようとは思わない笑顔を。
「来理さんの絵のことについて、しゃべってたんです」
 アキはできるだけいつも通りにしようとして、つい二七〇度ほど回転してしまった笑顔を作った。少々、調節に失敗している。
「ああ、あの絵のことね」
 来理はいかにも嬉しそうな顔で、壁にかかった絵のほうを見た。
「こんなに素敵な絵を描いてくれて、私としては感激ね。絵の贈り物だなんて、はじめてだし。でも、こうして眺めていると、ふとドリアン・グレイの肖像画を思い出しちゃうわね」
「ドリアン・グレイ?」
「……オスカー・ワイルドの書いた小説よ」
 と、フユは不意に、横から口をはさんだ。
「美貌の青年、ドリアン・グレイはある画家の願いで肖像画のモデルになる。その日から、彼自身は歳をとらず、代わりに絵の中の自分だけが醜く年老いていくの。彼はそのために悪徳の沼にはまっていく、そういう話――」
 言ってから、案外それはナツの魔法で可能なのではないだろうか、とフユは思ってしまう。記号を現実化する、その魔法でなら。
 いや、しかし――
「あら、フユの絵もあるのね」
 不意にそんな声が聞こえて、フユの意識は戻された。見ると、来理はスケッチブックを持って、その中の絵をのぞきこんでいる。
「そうなんです。でもナツは、わたしの絵を描くのは嫌だって言うんですよ」
 せっかくとばかりに、アキは自分の不満を注進した。
「アキだって、きっと素敵なモチーフになるわよ。どうして描いてあげないの?」
「……考えておきます」
 さすがのナツも、この人にはいつもの軽口は返せなかった。
 来理はなおもその絵を興味深そうに眺めていたが、「あら?」と小さな間違いにでも気づいたような声をあげている。
「このフユの絵、何だか雰囲気が柔らかいと思ったら、少し微笑んでいるのね。ほんの少しだから、気づかなかったけど」
「微笑んでる……?」
 フユは黒猫が目の前をよぎった程度の、不吉そうな予感に襲われる。
「俺は約束したわけじゃないからな」とナツは空とぼけをした。「そのまま描くとも、絵をいじらないともな」
「む――」
 フユは表情を変えずに、ほんの少しだけ眉をしかめる。
(変な魔法がかかってるわけじゃないと思うけど)
 そう思うのだが、こうなってはフユとしてはそれを祈るしかない。
 四人の子供たちの日曜日の集まりは、大抵はこんなふうに、穏やかで賑やかなものだった。

 ――来理の用意したお茶とお菓子を囲んでいると、玄関のベルが鳴った。来理は席から立ちあがって、そちらのほうに向かう。
 しばらくすると、来理と訪問客の男が居間に姿を見せた。熊みたいな大男で、奇妙なデザインのトレンチコートを着ている。
「みんなはそのまま、お茶を続けてね」
 と、来理は言った。男は子供たちに向かって軽く会釈をして、二人はそのまま居間を通りすぎていく。
 二人が立ち去ったあとには、見慣れない空白に似た沈黙が残されていた。突然、知らない場所にでもやって来たみたいに。
「あの人、確か委員会の人間だよな」
 と、ナツは念のためという感じで訊いた。
「うん――室寺さんて、人だよ」
 ハルは答える。
「何しに来たんだ、あの人?」
「さあ――」
 ハルはかすかに首を傾げてから、カップを手に取って口をつけた。
 その紅茶は何だか、さっきまでとは少しだけ味が違っているような気がした。

 舞台袖から、出番を間違えて夏が顔を出したような陽気だった。じっとしていると、汗ばんできそうである。この気温が続けば、桜の見頃は短くなるかもしれない。
 乾重史(いぬいしげふみ)は市街地での探索にあたっていた。
 ドレッドヘアに細面で角ばった顔だち。肌が色黒で長い手足をしているのは、ある種の鳥を思わせる格好だった。人目を引くはずのその風貌は、けれどどこか風景の中に溶けこんで、目立たないものになっている。
 彼は室寺や千ヶ崎、殺された千條と同じで、委員会の執行者だった。元々、天橋市には千ヶ崎朝美が執行者として派遣されていたのだが、最近の動きを警戒して人員を増加されている。通常では、ありえないレベルの対応だった。
 その矢先に、仲間である執行者の一人が殺されている。
 千條静は、そう簡単にやられるような男ではなかった。冗談好きでふざけた性格だったが、頭は悪くない。それに〈精霊工房〉は、想像するよりもずっと厄介な魔法だった。それが、何もできずに殺されている。
 だが、委員会の反応は魯鈍だった。人員の追加派遣も、具体的な行動指示もなく、ただ以前と同じ任務を継続するように、とだけ言ってきている。
(普通ならありえんことやけどな)
 と、乾は思っていた。
 今回の件に、鴻城という男が関わっていることはわかっている。そして、結社と呼ばれる組織とつながりのあるらしいことも。鴻城希槻の魔法にかけられた人間は、彼に逆らうことができなくなる。情報が極端に少ないのは、そのためだった。
 それだけのことがわかったのさえ、つい半年ほど前のことである。ある協力者のおかげで得られた情報だったが、その協力者とはすでに連絡がつかなくなっていた。
 全体として、後手にまわりすぎている状況だった。そもそも、六年前の爆発事故の件で何かが起きはじめているのはわかっていたのである。その時もやはり、執行者の一人が行方不明になっていた。経験も実力も十分だった男が、である。
 とはいえ、委員会も完全に手をこまねいていたわけではない。結社の中には委員会側のスパイが存在した。元々は結社の人間として委員会への潜入調査を行っていたが、ある事件をきっかけに寝返った人物である。俗に言う、二重スパイというやつだった。
 その人物自身には、鴻城の魔法はかけられていない。だからこその通敵行為だったが、同時に重要な情報は限られている、というのも事実だった。結局のところ、委員会はまだ結社の目的やその全貌をつかめずにいる。
 現在必要とされるのは、何よりもまず情報の集積だった。敵情を正確に把握しなければならない。
 市の中央に位置する城址からほど近いところに、武家屋敷地があった。入り組んだ小路に土塀が連なり、品のよい迷路といった風情を形作っている。塀のそばには融雪にも利用される水路があって、澄んだ水が流れていた。
 乾はその付近に敵の拠点施設とでもいうべきものが存在するという情報を元に、探索を行っていた。ありていに言えばただ歩きまわっているのだが、感知魔法≠ノよる揺らぎの調査を平行させている。
「…………」
 あたりを見まわして、乾はふと塀の上に目をやった。上方からなら、何か違ったものが見えるかもしれない、と思ったのだ。
 乾は小道の陰に入り、周囲に人影がないことを確認すると、魔法を使った。
 ――途端に、彼の姿は頭の部分から消えていく。まるで特殊な炎で燃焼させるみたいにして、その姿は完全に見えなくなっていた。
 彼の魔法、〈空想王国(ハイド・テリトリー)〉は自身の周囲を透明化する≠烽フだった。イメージとしては、透明な風呂敷のようなものを頭からかぶるのが近い。透明化、非透明化は部分的に行うことも可能だった。
(よし――)
 全身が透明化したことを確認すると、乾は適当な段差とでっぱりを利用して塀の上にのぼった。瓦を踏みながら、移動する。塀のすぐ下を観光客らしい数人が歩いていったが、乾の存在に気づいた様子はない。
 無理もなかった。
 乾は透明化するだけでなく、音の除去も行っていた。消音魔法(サイレンサー)≠フ魔術具によるものである。そのため、足音によって勘づかれる心配もない。存在の消去としては、ほぼ完璧だろう。直接触れるか、感圧装置でもなければ、その存在に気づくことはない。
 塀の上から屋根へと移り、乾は周辺を見渡した。ちょうど、迷路を上から眺めるような具合である。どこかくすんだ感じのする、春の風が吹きぬけていった。乾はついで、感知魔法≠フペンダントを垂らしてみる。
 どういうわけか、この近辺では魔法の揺らぎが錯綜していた。どうも、妨害用の魔法のようなものが使われているらしい。何らかの施設が存在することは確かなようだったが、これでは捜索はおぼつかなかった。
 屋根の上をいくつか移動したのち、乾は地面へと飛びおりた。着地の物音は一切しない。近くに人がいたとしても、気づくことはできないだろう。
 それから、乾は魔法を解こうとする。誰かに目撃されないようあたりを見まわすと、ちょうど一台の車がやって来るところだった。
 透明化の不便、もしくは危険なところは、まさしく透明なところにあった。相手から見えないのだから、道の真ん中にでもいようものなら気づかずに轢き殺されてしまう恐れがある。おまけに消音魔法≠フおかげで周囲の物音が聞こえない。この魔術具は自分から出る音も、外部から入ってくる音も同様に消してしまうのだ。
(面倒なところやな――)
 乾は細い小道で車と接触しないよう、脇によって注意した。実際にはエンジン音を響かせているのだろうが、車は無声映画でも見るように無音で近づいてくる。乾は何気なく、そばを通りすぎる自動車の車内をのぞきこんだ。
 ――そこに、鴻城希槻が乗っている。
 春の陽気を楽しもうとでもいうのか、後部席の窓は開いていた。そこに、写真で見たのと同じ鴻城の姿がある。その不吉さ加減は見間違いそうもない。春の光を逆に浸潤しかねないほどの稠密な暗闇が、そこには存在していた。
 むろん、鴻城が乾に気づくことはない。〈空想王国〉は魔法的にも透明化されるものだった。そうでなくとも、このあたりは魔法の揺らぎが混線状態にある。
 車はゆっくりと乾の前を通りすぎていった。すれ違ったのはほんの一瞬で、もちろんどこへ向かうのかなどわかるはずもない。
 乾は周囲の状況を確認することも忘れ、急いで走りだしていた。

 透明化すること自体危険だが、おまけに自転車に乗るとなればなおさらだった。
 乾重史はクロスバイクに乗って、車の追跡を行っている。魔法による透明化が可能で、かつできるかぎり危険を抑えた乗り物としては、それが最適だった。乾は普段から、これを移動手段として利用している。
(とはいえ、さすがに厳しいな――)
 と、乾はいささか皮肉っぽい笑みを浮かべる。
 追跡はすでに、数十分続いていた。鴻城の車は尾行を警戒しているらしく、不規則な動きを繰り返したり、同じ道を何度かまわったりしていた。乾は相当の注意を払いながら、周囲との不用意な接触は行わないように神経を使っている。
 結局、車は元の地点からそう離れてはいない、市内にある山間部に向かった。旧時代には城址と対になって存在した小山で、現在では高級住宅街になっている。
 情報にはなかったが、ここにも鴻城の拠点があるのかもしれなかった。あるいは、誰かに用事でもあるのかもしれない。
 乾はつらつらとそんなことを考えながら、ペダルをこいでいた。周辺の障害物はほとんどなくなっていたが、坂道で車を追うのは骨だった。たらたらと汗が頬を伝う。透明なので、自分でもそれは見えなかったが。
 やがて、車との距離が少し空く。追って道の角を曲がった乾は、けれどはたと足をとめた。
 ――車が見あたらない。
 住宅地の、やや広い通りだった。道はまっすぐ続いているだけで、すぐに隠れられる場所などない。両側には塀や前庭があって、車を入れるようなスペースもなかった。
(見失ったか……?)
 乾はすばやくあたりの様子をうかがった。が、どこにも変わった様子は見られない。これでは、車が突然消えさったとしか思えなかった。
 透明化と消音魔法≠解くと、乾はペンダントを取りだして周辺の魔法の揺らぎに集中した。かすかに、手ごたえがある。けれどその揺らぎはひどく複雑で、位置や強弱さえつかむのが難しかった。ちょうど、入り組んだ坑道で音が反響するみたいに。おそらく、ここにも魔法の感知を妨害する何らかの仕掛けが施されているのだろう。
 鴻城の車を突然見失ったのは、魔法によるものと考えてよさそうだった。
 乾は携帯端末を取りだすと、電話をかけた。相手はそれを待っていたような早さで呼びかけに応じる。
「――室寺か?」乾は訊いた。
 もちろん相手は、同じ執行者の一人である室寺蔵之丞(くらのじょう)だった。今回の件に関しては、リーダーとしての役割を担っている。乾と室寺はほぼ同年齢で、執行者になったのも同じ時期だった。何度も仕事で組んだことがある。
そうだ、何かあったな?
 室寺は簡潔に訊いた。さすがに、これがただの電話でないことを理解しているらしい。
「ああ、鴻城希槻を見かけたわ」
 乾がその名前を口にすると、電話の向こうで沈黙が聞こえた。
……本当か?
「車に乗っとるのを偶然見かけた。一瞬やったけど、間違いないな。写真通りの恐ろしく不吉な顔やったから、すぐにわかったわ」
それで、どうした?
「追ったわ、そりゃな。途中で三度ほどは死にそうになった」
死なれちゃ困る
「そう思って、立派に生きとるわ」
 乾が鼻を鳴らすと、そいつはよかった、と室寺は小さく笑った。
「だが結局、見失った。どうやら魔法で隠蔽されとるらしい。急にいなくなったのはそうとしか考えられんな。感知魔法≠ナもようわからん。ジャミングみたいなものがかけられとる感じで、手が出んな」
そうか――
 室寺が口を閉ざすと、乾はすかさず言った。
「やけど、妙なことがある」
何だ?
「距離や。俺が最初にやつを発見したのは、所在候補地の一つやった。そこからここまでは、位置的にそれほど離れとらんな。何故、そんな近くに二つも拠点を作る必要がある?」
何かある、と?
「わからんが、可能性はあるな。ここはやつにとって、何か重要な場所なのかもしれん。あとで詳しい場所のGPSデータも送っとく」
了解した。今後の調査はそのあたりを中心に行うことにしよう――よくやったな
「お前に誉められても嬉しくはねえな」
 乾はからかうような感じで、少し笑う。
 それだけのやりとりを終えると、乾は電話を切った。
(さて――)
 乾は再び〈空想王国〉による透明化を行った。いくらか下調べを進めておく必要がある。場合によってはここが敵の「本陣」ということもありえた。
 そうしてあたりを調べようとしたとき、突然携帯が鳴っている。もちろん音は聞こえないので、バイブレーションだった。乾は画面部分だけ透明化を解除し、誰からの電話なのかを確認する。
 途端に、その表情はコップの水に墨汁をたらすみたいにして曇った。
 乾は通話ボタンを押す。消音魔法≠煢除していた。
「――もしもし?」
あ、先輩ですか。今、どこにいます?
「誰や、お前」
 いかにも友好そうな相手の調子を無視して、乾は言った。
ひどいな、先輩¢且閧ヘ笑った。確かに、その男にそっくりな声で。僕のこと、忘れたんですか? 僕ですよ、千條静です
 そう――
 着信画面に示されたのは、確かに千條静の名前だった。だがもちろん、その男はすでに死んでいるのだ。遺体は司法解剖にまわされていた。
 電話については、盗まれた携帯からだろう。だが、この声は――?
「お前が、千條を殺した魔法使いか?」
さあ、どうでしょう?
 とぼけた口調だった。が、それは死んだ本人にそっくりなもので、つい苦笑せざるをえない。乾は言ってやった。
「忘れとるみたいやけど、お前は死んどるんやぞ」
いえいえ、人の魂は不滅ですから、いくらでもリサイクル可能です。僕は魔法で生き返らせてもらったんですよ。完全世界さえ実現すれば、簡単なことです。先輩も、もう死にそうになる心配なんてしなくていいんですよ
 乾はちょっと黙った。相手の今の言葉には、さっきまでの室寺との会話を聞いていた、という含みがある。
「……お前、本当に何者なんや?」
嫌だな、だから言ってるじゃないですか――
「まあいいわ、この際お前が誰だろうと構わん」乾は相手の言葉を遮って続けた。「いったい、俺に何の用がある。目的は何や?」
 電話の向こうで、かすかな間があった。客に注文をつける怪しげなレストランで、舌なめずりの音が聞こえてくるみたいに。やがて、相手は言った。
僕に会いたくありませんか、先輩?
「――何やと?」
もしも今すぐこっちに来てくれるなら、お会いしてもいいですよ。僕としては、先輩に会いたいですからね。こんなチャンス、なかなかないと思いますよ。あ、もちろん来るならお一人でお願いします。室寺さんなんかが来たんじゃ、めちゃくちゃにされかねないですからね。力加減てものを知らないんだから、あの人は
 乾は再び、黙らざるをえない。
 どう考えても、これは罠だった。相手の意図が不明確すぎる。ただ会って話をするだけ、などということになるはずはなかった。
 けれど――
「まあいい、その話受けてやるわ」
 と、乾は言った。
さすが先輩、肝が据わってますね
 相手は誉めたが、乾としては、そんな言葉は室寺のそれと同じくらいに嬉しくはない。
では、待ちあわせの場所を送ります。念ために言っておきますが、くれぐれもお一人で。なるべく早めにお願いします。あまりぐずぐずしているようなら、約束はご破算になりますから――
 そう言って電話は切れ、続いてすぐに指定場所を示した地図が送られてきた。
 乾はそれを確認して、自転車に乗る。
 どうせ罠には違いないが、敵の正体を確かめる絶好の機会でもあった。今のやりとりからわかったこともある。多少の危険を冒してでも、ここはコールすべきだった。
 それにたった一つ、乾重史には絶対に自信のあることがあった。それだけなら、世界中の誰にも負けないと豪語しうるものが。
 ――それは、逃げ足の速さだった。

 指定された場所であるライブハウスは、地下形式になっていた。
 乾は地上口から幅のない、すべり台みたいな階段を降りる。あの世との境界にあるとされる黄泉比良坂にしては、ひどく味気ないものだった。
 ここに来るまでに室寺へ連絡してみたが、時間的には間にあいそうになかった。不本意ながら、約束は守るしかない。まあいい、と乾は気にしなかった。いざとなれば、全力で逃げるだけだ。
 〈空想王国〉は、その気になれば高度の暗殺能力を発揮するものだったが、乾は性格上、あまりそうしたことは考えていない。彼における戦闘行動とは、主として退却行為を意味するものだった。
「…………」
 階段を降りると通路があって、左手の遠方に控え室、正面すぐに店の入口があった。人の気配はない。昼なのでまだ準備にもかかっていないのか、それともこれから会うはずの相手が追いはらってしまったのか。
 乾はドアを開けて、店内に入る。バーカウンターらしきところがあって、その横が会場に続いていた。照明は閃光弾なみの明るさで、まるで何かに腹でも立てているようだった。どうやら、女神様は姿を隠す気はないらしい。
 奥に進んで、やや重い防音扉を開けると、大きめの教室くらいの空間が広がっていた。ライブハウスとしては、平均的なものだろう。イスが隅のほうに重ねて置かれているほかは、がらんとして何もなく、どこかにとっかかりさえあれば折りたたんで片づけられてしまえそうだった。ここにも人の姿はなく、照明だけが不満げに輝いている。
 いや――
 そこには一つだけ、人の姿があった。
 数十メートル先のステージに、たった一人だけ。そいつは明らかに、乾を待っていた。この距離からでも、その顔がかすかに笑っているのがわかる。
 乾は周囲への警戒を怠らずに、そいつのすぐそばまで移動した。
「やあ、お久しぶりですね、先輩」
 と、そいつは陽気に言った。
 なるほど、それは確かに千條静≠サのものの姿である。柔らかい癖っ毛に、猫みたいにくるくると表情の変わる目。童顔で、実年齢よりはいくらか若く見える風貌。その顔には、弦月に似た一種独特の皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
 声も見ためも、それはまぎれもなく千條本人のものである。
 だが、もちろん千條静は死んだのだ。
「――誰か知らんけど、少し趣味が悪いらしいな」
 乾は不機嫌に言った。
「感動の対面じゃないですか。可愛い後輩がこうしてわざわざ生き返って会いにきたんですよ。もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃないですか?」
「戯れがすぎとるわ」
 乾はつきあわない。だけでなく、口調どころか話しぶりまでそっくりなその様子に、嫌悪感を覚えてもいた。
「……仕方ないな」
 と、自称千條静はため息をついて言った。
「もう少し旧交を温めておきたかったんですけど、先輩がそう言うんじゃしょうがない――ニニ!」
 最後の言葉と同時に、ライブ会場の防音扉が音を立てて閉じられていた。
 乾がそちらを向くと、距離があるのでわかりにくいが、どうやら子供らしい人影がそこにはあった。扉の少し前で、通せんぼでもするように立っている。もちろん、ただの子供ではないだろう。
 それから振りかえって、乾は驚く。
 すでに、そこには千條の姿はなかった。ステージ上の同じ場所には、見知らぬ女の子が一人立っているだけである。年齢的には向こうの子供と同じくらいだろう。桜色をした髪を、片側でくくっている。
 乾は顔をしかめながらも、油断なくその様子をうかがった。
「それが、お前の本来の姿ってわけか?」
「どうかしらね」
 と、女の子――サクヤは言った。
「これだって、誰かになりすましてるだけかもよ」
(……いや、おそらく違うな)
 何となくだが、乾はそう思った。変身前の姿を見せられるくらい余裕がある、ということだろう。が、
「いずれにせよ、それがお前の魔法ってわけや」
 そう――
 すでに乾も推理しているとおり、サクヤの魔法〈妖精装置(トリック・アカウント)〉は別の生きものに変身する≠ニいうものだった。声とその姿を認識すれば、他人になりすますことも可能である。
「ま、別に否定はしないわ」
 サクヤは意外にもすんなりと認めた。
 けれどそこには、兎がわざと足跡を残すような調子があった。おそらく、他人の姿を借りるだけの魔法ではないのだろう、と乾は留意しておく。
 現れたのは、その子供たち二人だけのようだった。ほかにも仲間がいるのかもしれないが、確認はできない。ニニと呼ばれた子供のほうも、いつのまにか近くにまで来ていた。乾はその二人に挟まれた格好である。
「それで、どうするんや?」
 二人の様子を確認できるよう、乾は少し位置を変えた。
「約束通り、俺は一人で来てやっとるんやぞ」
「だからこうやって、あたしたちも会ってあげたんでしょ?」
 サクヤは多少、馬鹿にしたような口調で言う。
「なら、親睦を深めるためにトランプでもするか?」
「そこまでの仲じゃないわね」
「――ボクらが知りたいのは、あなたの魔法についてです」
 不意に、ニニが言葉を挟んできた。
 乾はちらりと、そちらのほうを見る。「俺の魔法やと?」
「あの時、どういうわけかあなたの存在はボクの魔法にひっかからなかった。その秘密を知りたいんです」
 朴訥というか倣岸というか、少年の態度は少し形容に迷うところがあった。とはいえ、無茶な質問には違いない。カードゲームの相手に、一方的に手札を見せろと要求しているようなものだった。
「そう言われて、答えると思っとるんか?」
「答えてもらえなければ、死んでもらうまでです」
 ニニは実に物騒な発言をした。
「見かけによらず、横暴なやつやな。もしも教えたら、お前たちのほうは何をくれるんや?」
 乾は苦笑しながら、落ちついて訊きかえす。
「あなたに許される選択肢は楽に死ぬ≠ゥ苦しんで死ぬ≠ゥ、です」
 ますます物騒な話だった。
「――お前たちは交渉の仕方ってものを知らんみたいやな」
 乾はけれど、軽く一笑してみせた。
「自分たちの優勢を、まるで生かそうとしとらん。勝てさえすれば、賭け金のことなんぞ眼中にないって感じやな……お前たちはどうせ、俺の魔法が透明になるものやって知っとるんやろう? そのくせ、秘密を教えろと言う。それにあの時、お前たちから電話がかかってきたのは、俺が魔法を解いて連絡をしてからやった。つまりそれまでは、お前たちは俺のことに気づいとらんかった、ということになる。どうやらそっちの少年の魔法は、その辺にヒントがあるみたいやな」
 二人は黙ったまま、何も言いかえしてはこない。どうやら、図星のようだった。その点は、見ため通りの子供らしい反応といえる。
「それから、ほかにもわかることがある」乾は続けた。「それはお前たちが結社に関わりのある人間で、あそこは結社にとって重要な場所らしい、ということや……お前たちの本当の目的を教えてやろうか? わざわざ俺をこんな場所に呼びだした本当の目的や。それは俺の秘密とやらを探ることにもあったんやろうけど、もっと切迫した理由があった。それは正体不明の魔法使いである俺を、あの場所からできるだけ早く遠ざけておくこと、や。誰から聞いたかは知らんけど、お前たちは何でも知っとるってわけじゃないみたいやな――」
 そう言って、乾は〈空想王国〉を発動させた。またたく間に、その姿は背景へと溶けこんでいく。
「ニニ――!」サクヤは叫んだ。
「わかってる」
 途端に、見えざる衝撃波が飛んで乾のいた場所を直撃した。
 だが、乾はすでに動いている。ニニの攻撃はコンクリートの床を激しく打ち鳴らしただけだった。
(なるほど、な――)
 乾はそれを見て、ニニの魔法特性をほぼ正確に理解していた。
 〈迷宮残響(ハッキング・ノイズ)〉――その魔法はあらゆる振動をコントロールする≠烽フだった。だから振動糸を作って鳴子のように使用したり、衝撃波のような振動攻撃を加えることが可能なのである。
 あの時、ニニが乾の存在に気づけなかったのは、消音魔法≠フ効果によるものだった。音とは、振動のことである。ニニはそれを拡大して、広範囲の音声収集を行うことで侵入者の検知を実施していた。そのため、音が消されることによって、乾はステルス戦闘機のようにレーダーにひっかからなくなっていたのである。
 そして乾が読みとったもう一つ重要なことは、ニニのその魔法が必ずしも殺傷能力には優れていない、ということだった。今の光景がいい証拠である。攻撃速度や精度には秀でていても、コンクリートの床を砕くような力はない。直接相手と接触しなければ、例えば心臓の鼓動を停止する、といったことはできないのだろ。
 ――乾は冷静に、それだけの分析を行っている。
 一方で、ニニとサクヤの二人は、乾の所在を完全に見失っていた。
「気をつけて、サクヤ!」
 ニニは鋭く言った。乾の存在はやはり、彼の検知にはひっかかってこない。
「わかってる」
 周囲の警戒をしながら、サクヤは答える。けれど、何を警戒すればよいというのか。
 しばらく不自然な間があってから、不意に部屋の隅で物音がした。
 ニニはすばやく、攻撃を行う。積まれていたプラスチック製のイスは、窓をハンマーで叩きわるみたいにして粉々になって吹き飛んでしまった。
 が、それだけで特に何の反応もない。
 ニニが慎重に近づいてみると、心ならずもパズルのピースに変わってしまったイスに混じって、十円玉が一枚床に転がっていた。どうやら、物音の正体はそれだったらしい。
「姿を現せ!」
 〈迷宮残響〉を一気に解放して、ニニは部屋中に衝撃波を放った。
 小さな落雷でも受けたみたいに残ったイスが砕け散り、壁や床が激しく音を立て、照明のいくつかが壊れた。けれどそれだけで、乾の姿が出現するような兆しはない。
「あいつがどこに行ったかわかる、サクヤ?」
 ニニは少し呼吸を乱しながら言った。不用意に魔法を使いすぎたせいだった。
「わかるわけないでしょ」サクヤは怒ったように唇を尖らす。「でも、向こうの扉は開いてないわね」
「じゃあ、控え室のほうは?」
 ニニが言って、二人はそちらのほうに向かった。
 舞台袖から楽屋部分に移ると、鏡ばりの壁と丸イスの置かれた狭い空間に出る。そこから通路につながる扉は、蹴破られるかして完全にドアノブが壊れていた。絵の具を乱雑に塗りつけたような、ひどく暴力的な痕跡だった。
「やられたわね。でも何で、音が聞こえなかったのかしら? これくらいなら、よほど派手な音がしそうなものだけど」
 サクヤは八つ当たりでもするみたいに壊れたドアを蹴った。
「――ああ、そうか」とニニはようやく閃いている。「音を消してるんだ。そういう魔法を使ってるんだよ。だからボクの〈迷宮残響〉にひっかからないんだ」
「ということは、今のあんたは役立たずってことね」
 特に面白くもなさそうに、サクヤは言った。
「まあ、そういうことになるのかな」
「なら――」
 サクヤはちょっと、偉そうな口調で言った。
「あたしの出番てわけね」

 路地裏で、乾はいったん自転車をとめて魔法を解除した。色の着いた気体でも注入されたみたいに、その姿はすぐさま浮かびあがってくる。
 携帯端末を取りだすと、すぐに電話をかけた。相手はかかってくるのがわかっていたような早さで電話に出る。そういう男でもあった。
「今、連中に会ってきたところや」
 と、乾は単刀直入に告げた。
無事なのか?
 質問は短い。
「まだ死んどらんなら、生きとるんだろうよ」乾は笑いもせずに言った。「だがいくつか、わかったことがあるぞ。やつらの魔法についてな。それから、例の場所にはやはり何かあるみたいやな――」
 二人に会ってからのいきさつや、その魔法についての推測を、乾は簡潔に伝えた。それから、もう一つ、
「その二人の写真を送る。見ためは子供やけど、どうも普通じゃないな。特別な訓練を受けたとか、そういうレベルじゃないわ」
 写真というのはあの時、十円玉を投げる前に撮ったものだった。乾はそれだけの時間をかけてから、逃走のための布石として二人の注意をそらしたのである。
「わかったのは、それくらいやな。あるいは結社の純粋な戦闘要員は、あの二人だけなのかもしれん。何にせよ、あとはいつものとおり逃げるだけや。まだあの世の食い物は口にしとらんから、大丈夫やとは思うけどな」
こっちも今、そっちに向かっているところだ。もう少し時間はかかりそうだがな
「ああ、信号魔法(シグナリング)≠ナ確認できとる」
 乾は懐から、卵くらいの大きさの球体を取りだした。透明な水晶を金色の縁で十字に囲み、中心にはコンパスの針に似たものが宙空に浮かんでいた。よく見ると、その針は方向と形状を微妙に変化させている。
 信号魔法≠ヘ発信器と受信器で構成された、対象の現在位置を知ることのできる魔術具だった。あらかじめ周波数のようなものさえ知っておけば、複数者を対象にすることも可能である。室寺が千條静の死体を見つけたのも、この魔術具によるものだった。
「あの連中が筍や葡萄を食っとるとは思えんから、できるだけ早めに助けに来てくれるとありがたいな」
わかった。すぐに向かう
 室寺は断固とした口調で言った。頼りがいのある男なのだ。
「――俺としても、十拳の剣を抜くような真似はしたくないしな」
 と、乾は最後に言って電話を切った。
 それから乾は再び透明化して、ともかく遠くへ行こうとした。二人の追跡を振りきったかどうかはわからない。少なくとも、あのニニとかいう子供のほうの魔法では、検知不可能なはずだった。そしておそらく、室寺の魔法でなら戦闘力の面であの二人を圧倒できるはずだった。
 そうして自転車のペダルを踏みだそうとしたとき――
 乾はふと、足をとめた。
 路地の向こうから、一匹の犬が現れている。耳のたれた、毛並みのなめらかな中型犬だった。背中が塗料を塗ったように黒く、全体は赤茶色をしている。いわゆる、ブラッドハウンドと呼ばれる犬種だったが、乾はそこまでは知らない。
 ただ、その犬が何かを探していでもいるかのように、ふんふんと鼻を鳴らしていることには、嫌な予感を覚えた。
(――何や?)
 乾は一瞬、判断を迷う。ただの気のせいなのか、それとも――
 もちろん乾は知らなかったが、ブラッドハウンドの最大の特徴は、その嗅覚にあった。数ある犬種の中でも最高のもので、二日たったあとの臭いでも正確に判別することができる。その能力は例えば、自転車に乗った人間のあとをつけるといったことさえ可能だった。
 その犬は不意に顔をあげると、じっと乾のいるあたりに目を凝らした。あまりよいとはいえない犬の視覚以前に、透明な乾の姿が見えるはずはない。にもかかわらず、その視線は明らかに乾のほうを指していた。
 音や姿を消すことはできても、臭いまで隠すことはできない。
 ブラッドハウンドの目に、何かを捉える確かな気配があった。継ぎめのない箱の蓋を、ぴったりと閉じあわせたみたいに。そして身を低くしていきなり走りだすと、まっすぐ乾のほうへと向かってきた。
(くそっ――)
 乾には、二つの選択肢があった。一つは今すぐ逃走に移ること。いつもと同じ基本戦術だった。だが今回の場合、追跡を振りきることは不可能である。
 そしてもう一つは、応戦すること。
 千條と同じく、乾も銃を携帯している。十分な訓練も受けていた。彼の魔法を使えば完全な無音で発砲することもできる。
 けれど――
 乾はすでに、その機会を逸していた。本来ならあのライブハウス会場で、それをすべきだったのである。あの状況でなら、完全に二人を始末することが可能だった。
 それをしなかったのは、相手が子供だったからである。
 見ためがそうだというだけのことは、わかっていた。それが無用の情けだということも。すでに千條静は殺されている。躊躇や容赦をする必要はない。
 しかし、乾にとって戦闘とは、主として負けないことに意味があった。相手に勝つことは、それほど重要ではない。少なくとも、あの二人を殺してしまうほどには。
 それだけの逡巡が、乾の行動を遅らせた。
 構えた銃から放たれた二発の弾丸は、かすりもせずに回避されてしまった。どうやら、わずかな臭いの変化で発砲を察知されてしまったらしい。消音魔法≠フ範囲を外れた銃弾が、地面に跳ねて甲高い音を立てた。
 ブラッドハウンドは闘争に向くような犬ではなかったが、この場合そんなことは問題にならない。サクヤが〈妖精装置〉で変身したその犬は、乾の喉笛めがけてまっすぐ襲いかかった。彼女の変身能力は他人への偽装だけでなく、その能力も含めたあらゆる生き物の完全なコピーを実現する。さらにその変身範囲は、必ずしも実在を問わない。
「がはっ!」
 体重六十キロほどの犬にのしかかられて、乾は激しく地面に叩きつけられる。はずみで、銃を手放し透明化も解除されてしまった。浮かびあがったその姿は、首筋をがっしりと犬の口元に咥えこまれている。
 喉元をぎりぎりと締めつけられているおかげで、息ができない。ひゅうひゅう、と乾はか細い呼吸を繰り返した。このままでは、遠からず首の骨が砕かれてしまうだろう。
(ちきしょう――)
 相手を呪う気はなかったが、自分の甘さについては笑いたかった。どうやら、これ以上の逃走は不可能らしい。
「サクヤ、もういいよ。あとはボクがやる」
 不意にそんな声が聞こえた。乾にはもうそれを判断する力もなかったが、ニニという少年のほうが追いついたらしい。
 ふっ、と喉にかかっていた力が消える。同時に、どろりとした液体がそこから流れだすのがわかった。世界の底にあった栓のようなものが抜けて、重要なものが排出されていくようでもある。光が急速に失われつつあった。
 少年の手が胸に触れるのを、乾は感じた。
 それから、本の綴じかたがばらばらになっていくみたいに、心臓が停止して体の機能が消滅していく。スイッチを一つ一つ消していくのと同じ要領で、やがて世界は暗闇に沈み、乾重史の魂は跡形もなく失われてしまっていた。

「死体はどうするの?」
 と、変身を解いて元の姿に戻ったサクヤが言った。その口元には、かすかな血の跡が残っている。
「信号魔法≠ェあるから、たぶんすぐに仲間が来るよ」
 ニニは死体の懐から魔術具の球体を取りだしながら言った。発信機の揺らぎの特徴がわかれば、それでほかの執行者の居場所を知ることもできるはずだったが、もちろんそこまでの情報は持っていない。
 それから念のために、ニニは消音魔法≠フ魔術具も回収しておいた。乾以外の人間にはそれほどの使い道はなさそうだったが、それでも使用されると厄介な場合はある。
「……このままにしておくってこと?」
 サクヤは重ねて訊いた。
「死体を処理しようとして、また魔術具ごと持っていかれるのも困るしね」
 とニニは立ちあがりながら言う。
 路地裏には昼間だというのに人通りもなく、まるで地面を割ってはいだしてきたような薄闇がにじんでいた。空までの距離さえ、いつもより遠い。
「――何であの時、あたしにとどめをささせなかったの?」
 サクヤは鎖のないブランコにでも腰かけているような、静かな声で言った。
「殺してほしくなかったからだよ」
 と、ニニはすぐさま答える。光が鏡に反射するほどの早さで。
「何で、あたしに殺してほしくないわけ?」
「だって、そのほうが人間らしいと思うから」
 ニニの言葉に、サクヤは黙った。宛て先の間違った手紙でも受けとってしまったみたいに。
「――あたしたちは人間じゃないのよ」
 サクヤはつまらない数学の証明でも口にするように言った。
 けれど、ニニは微笑って、はっきりと答えている。
「ボクと違って、サクヤは人間だよ――ちゃんとした、人間なんだ」
 太陽の角度が変わって、ビルのあいだから小さな光が落ちた。サクヤはまるでそれが気に食わないかのように、かすかに顔をしかめている。

 路地裏には、乾の死体と自転車だけが転がっていた。
 室寺と千ヶ崎朝美が、その前に立っている。乾の所持品からは魔術具の類が奪われていた。持ちさったのは、もちろん例の二人組だろう。ただし信号魔法≠フ発信機は体内に埋めこまれているので、さすがにこれはその場に残されている。
 ビルに挟まれた道は暗く湿っていて、何かの粘性動物が這っていったかのようだった。通りをいくつか離れるだけで、繁華街の喧騒は遠い異国の物音みたいに隔絶してしまう。
 朝美はかがみこんで、死体の状況を詳しく検分した。
「……首のところに噛み跡のようなものがありますね。かなりの出血も見られます」
 と、彼女は努めて冷静に言った。
「だが人間のものじゃないな」
 室寺も上からのぞきこみながら言う。
「ええ、詳細は不明ですが、獣の牙みたいですね」
「たぶん、変身能力を持った魔法使いのほうだろう。サクヤとかいう少女のほうだ。人間だけじゃなく、動物への変身も可能らしい」
 乾が最後に撮影した二人の写真は、もちろんすでに転送されていた。逃走するにしても、ただでは逃げないところが乾らしい、と室寺は苦笑するしかない。
「とすると、狼とか犬にでもなって臭いを追跡した、というところでしょうか? 傷跡とも一致しますね」
「そんなところだろう。こいつを追いかけられるとしたら、それしか考えられん。見てくれだけじゃなく、中身も真似られるわけだ」
 室寺はそう言ってから、乾の首の具合を確かめた。
「だが噛み殺されたというわけじゃなさそうだな。頚椎は折れていないし、出血も少ない。鬱血が見られないから、窒息したわけでもないらしい」
「千條さんと同じ、ですか?」
「おそらくは、な。もう一人の、ニニってやつのほうだろう。心臓を直接停止させられるらしい。解剖所見とも整合性がとれる」
 二人は立ちあがって、しばし沈黙した。事態としては最悪だったが、状況としては最悪というわけではない。これからは十分な反撃が可能だった。
「――でもまさか、あの乾さんが殺されるなんて」
 朝美はつぶやく。
「委員会本部に応援要請だ」
 室寺は極度に感情を抑えた声で言った。死んだ乾重史も知っていたとおり、頼りがいのある男なのである。
「乾が発見した例の場所を徹底捜索、それから敵対勢力の排除を行う」
「二人の敵討ち、ですか」
 朝美が訊くと、室寺はその鉄のような首を横に振った。
「――いいや、これは戦争だよ」

 二人の報告を、鴻城は屋敷にある客間で聞いていた。
 部屋の床には市松模様のタイルが敷かれ、古風ながらもモダンな雰囲気を漂わせている。外からの光をたっぷり取りいれた室内は明るく、壁の漆喰や年月を経た木材は、空間を柔らかく溶かしていた。音の響きさえ、この場所ではどこか丸くなっている。
 そこは鴻城希槻の、秘密の屋敷の一つだった。が、乾の推察通り、ほかとは性格が異なっている。ここでは誰かと会見を行うこともないし、通常の結社の面々を招くこともない。厳重な隠蔽措置が施され、あらゆる記録からも抹消されていた。
 この場所は鴻城にとってもっとも個人的なものであり、かつ結社にとっての最重要拠点でもあった。
 その屋敷の客間で、ニニとサクヤの二人は長イスに腰かけていた。応接用の背の低い机を囲んだもので、アンティーク調の落ちついたデザインをしている。
 鴻城のほうは立ったまま、マントルピースのほうを見ていた。二人には背中を向けている。雰囲気としては、校長室に呼びだされた二人の生徒、というふうでもあった。
「……というわけで、乾重史の撃退には成功しましたが、かなりの情報を敵に渡すことになってしまいました」
 サクヤはいつもの調子を潜め、事務的な口ぶりで報告した。この少女にしても、逆らえないものくらいはある。
「――――」
 鴻城はしかし、無反応だった。話など耳に入っていないかのようにじっとしている。その様子は、特殊な時間の計りかたをする時計に似ていた。
「あの、希槻さま?」
 ニニが躊躇するように声をかけると、
「――そうか」
 とだけ、鴻城は言った。それだけで、叱責も皮肉の言葉もない。
「申し訳ありません。あたしたちが迂闊だったばっかりに」
 サクヤが言うと、鴻城はようやく二人のほうを向いている。
「いや、お前たちはよくやった。気にするほどのことはない。誰が行ったところで、同じような結果にしかならなかっただろう。むしろ、お前たちだからこその成果だったと言っていいだろう」
 もしもほかの結社の人間がこの言葉を聞いていれば、意外なことに驚くだろう。鴻城希槻という人間は、常に相手を冷笑するか罵倒するかで、誉めるということはしない。少なくともそれは、神様が預言者に言葉を与えるのと同じ程度には稀なことだった。
「多少の失敗を気に病む必要はない。お前たちはこれからも必要だ、その調子でがんばってくれればいい。期待をしているぞ」
 鴻城の言葉に、ニニはかすかに頬を紅潮させた。
(…………)
 その嬉しそうな様子を横目でうかがって、サクヤは何故か複雑な気分になっていた。あの時、乾重史にとどめをさしたのは、あるいはこんなふうに誉めてもらいたかったからではないのか、と変な邪推をしてしまう。
(まあ、いいんだけどね――)
 サクヤは頭の粘りをこすり落とす。そもそも、そんなのはどうでもいいことなのだ。
「……でもこうなると、委員会の増援が派遣されたり、この場所の秘密に気づかれてしまうんじゃないですか?」
 と、サクヤは念のために訊いてみた。やや差しでがましい質問ではあったが。
「いや、その心配はない」
 何故か、鴻城は断言した。音もなく風船を破裂させるみたいに。
「どうしてですか?」
 ニニが質問する。
「もう、この町に新しい魔法使いが入ってくることはなくなる」
 言われて、二人は顔を見あわせる。鴻城の言葉の意味はわからなかった。
「今はまだ無理だが、そうなってみればお前たちにもすぐにわかる。完全世界の境界が、この世界に越えることのできない壁を作る。計画としては、いささか不完全なものになってはしまうがな……」
 鴻城はそれだけを言うと、窓の外に視線を移した。
 屋敷の庭では、様々な種類の草花が繁茂している。そのあいだに、秋原の姿があった。この老人は自身も庭の一部であるかのように、そこで働いている。
「お前たちは秋原のお茶でも飲んでしばらく休んでいけ。これからのことについてはまたあとで話す。俺は少し席を外すぞ」
 そう言って、鴻城は部屋を出ていった。
 途中、秋原に声をかけて指示を出しておく。そうして自分はそのまま、屋敷の南側にある一室に向かった。屋敷は平屋の開放的な建物で、上から見ると十字に近い形をしていた。丘の中腹にあって、斜面から見える景色を遮るものはほとんど存在しない。
 鴻城はその部屋までやって来ると、ドアをノックして中へ入った。返事のないことはわかっていたが、そうしないとおそらく、中の人物は承知しないだろうから。
 部屋は誰かの居室らしく、簡素な造りになっていた。室内には、小物などが品よく配置されている。窓からは陽光が惜しげもなく注いで、空間全体を満たしていた。それは何だか、鴻城希槻がいつもいる執務室を、きれいに裏返してしまったようでもある。
 その部屋の中央には、寝台に似たものが置かれていた。
 けれどそれは、ひどく奇妙なものだった。大理石と同じような重量感のある石材で作られていて、表面には紋様とも図像ともつかないものが浮き彫りにされている。ちょうど人の身長ほどの大きさで、平らな直方体になっていた。寝台のようでもあるが、どちらかというとそれは、供物を捧げるための祭壇といったほうが印象に近い。
 そしてその石壇の上には、一人の女性が横たわっていた。
 彼女は紅葉を散らした鮮やかな緋の小袖をまとい、大和撫子然とした風貌をしていた。項くらいまでの髪に、ほっそりとした顔だちをしている。純粋な、彫琢された種類の美しさを持つ人だった。その口元には、桜の花の色のようなかすかな微笑が浮かんでいる。
「…………」
 鴻城は無言のまま、そっと彼女に手を近づけた。
 けれどその手は、見えない壁にでも阻まれるようにして、宙空でとまってしまう。どれだけ力を入れたところで、その先へと進むことはできない。手の進行を妨げるどんなものも、そこにあるようには見えない。だが、あるのだ。そこには壁が。時間という壁が。
 停止魔法(エンデュアリング)
 そう呼ばれていた。あるいは希少系としてオシリスの棺≠ニも。この魔術具は上部の空間を四角く切りとり、その時間を停止してしまう。断裂した時間は空間の障壁と同じで、外からの干渉を一切受けつけることはない。
 鴻城希槻が彼女に触れることはなかった。小人たちの作ったガラスの棺とは違って。そしてこの魔法の効力は、一日程度しか持たなかった。その効果を持続させるためには、毎日一度はこの場所を訪問する必要がある。決して触れることのできない、彼女のところへと。
「……そろそろ時間切れらしいぞ、櫻」
 と、鴻城は言った。
 もちろん、彼女が返事をすることはない。それでも、この男はどこか楽しげだった。月の光が射しているあいだは、白鳥から元の姿に戻れる、とでもいうように。
「完全世界を取り戻すには、いささか時間が足りなすぎるようだがな」
 鴻城は自嘲するような、どこか気弱な声で言った。この男らしくない、というよりは、それが本来の鴻城希槻という人間でもあるかのようだった。
「しかし――」
 と、鴻城は続ける。
「よく百年以上ももったと思わないか、櫻?」
 彼女の微笑みは、魔法がかけられたその時からずっと変わっていない。そして、鴻城希槻の心も。彼の感情は、彼女の微笑と同時に永遠に停止している。
 例え世界がその姿をどれほど変えたとしても、この二人が変わることだけはなかった。

 神坂柊一郎は、私立衣織学園に勤める数学教師だった。
 同時に、魔法使いでもある。彼は本来は結社の協力者だったが、魔法委員会への潜入活動を通じてそちら側へと寝返っていた。もちろん、その事実はまだ露見していない。現在は、二重スパイとして結社に所属している形だった。
 彼の魔法〈精神研究〉は、人の思考を読むことができる≠ニいうものだった。内偵者としては理想的な能力だったが、必ずしも万能というわけではない。同じ魔法使い同士では、魔法の揺らぎによって思考の読みとりに気づかれてしまうのである。そのため、その力が使える対象は限られていた。
 とはいえ、その魔法の使い手自身であるため、彼に疑いがかけられることは少ない。そしてその場合も、簡単には判決を下されることはなかった。結社に対して委員会側が持つ、数少ないアドバンテージの一つと言っていい。
 けれど、結社の人間のすべてがそのことに気づいていないわけではなかった――

 神坂は学園にある講堂で、演劇部の練習を監督していた。ホールにある観客席には、彼一人しかいない。照明の落とされたその場所は、人工の夜によって一時的に世界から切り離されていた。
 舞台上では『テンペスト』が演じられている。本番と同じ形での通し稽古だった。劇はすでに終幕に近い。魔法を究めたプロスペローは、もうすぐその場所から去っていくだろう。
「…………」
 と、神坂の隣に誰かが座る気配があった。神坂はそちらを見ようともしない。確認しなくとも、それが誰なのかはわかっていた。
「『あらし』ですか?」
 その人物は言った。
「ああ、そうだ。俺はこの劇の最後の場面が好きでね」
 神坂はセリフほどには感情のこもっていない声で返事をする。
「私も好きですよ、あの場面。『何卒、みなさまの呪いをお解き下さいますよう』――」
「そいつはよかった。が、今日はいったい何の用だ、牧葉?」
 言われて、澄花はちょっと笑う。蝶が身を翻すくらいの軽さで。
「用がなくちゃ来ちゃいけませんか、先生? それとも、恋人である葉山さんへの遠慮ですか?」
 澄花は星ヶ丘小学校に勤める、その教師の名前を口にした。二人はつきあっている。
「お前に余計な心配や詮索をされるいわれはないぞ」神坂はかすかに眉をひそめて言った。「それとも、お前の〈物語記憶〉に何か書かれているのか?」
「いえいえ、そんなことはありませんけど」
 澄花はどこかの妖精みたいに、いたずらっぽく笑う。
 舞台上では、魔法の衣をまとったミラノ公が咎人たちに対する許しを与えようとするところだった。『だが、この怒りの魔法を、わたしは今日限り投げ棄て、二度とは行うまい』彼は言う。『わたしはこの杖を折り、地の底深く沈め、さらにこの書物を、人の手の届かぬ深海の水底に沈めてしまおう――』
「それで、本当は何を聞きに来たんだ?」
 神坂は舞台のほうを見たままで言った。そうすれば、自分の行為の不穏当さが少しでも薄れるとでもいうふうに。
「委員会のことについて、少し」
 と、澄花は言った。彼女も同じように、何気ないそぶりで舞台のほうに目をやっている。
「――どんなことだ?」
 すべてに終焉を迎えさせるため、舞台では老いた王が一人一人に語りかけていた。もうすぐ、一切のことに幕切れが行われる。
「……執行者が二人ほど殺されたそうですね。本当ですか?」
「事実だ」
 神坂は短く告げる。
「鴻城希槻の秘密の居場所について、何かわかったとか?」
「正確な位置はまだ不明だが、一応の目星だけはついているらしい」
「となると――」
 澄花は音の響き具合でも確かめるみたいにして言った。
「もう、あまり時間は残っていない、ということになりますね」
「おそらくは、な。鴻城もかなり追いつめられている形だ」
 舞台では、もうすぐ例の場面がはじまるところだった。作者の分身でもある魔法使いが、客席に向かって許しと憐れみを乞う場面。それが終われば、舞台の照明は観客席へと移っていく。彼らがそれぞれの劇中へと帰っていくために。
「……お前がどうして俺に協力するのかは知らん」
 と、神坂は言った。もちろんそれは、二重スパイのことを指している。
「〈悪魔試験〉を受けているにもかかわらず、どうやっているのかも、だ。詳しいことはわからん。だがお前たちは本当に、それをするつもりなのか」
「委員会にとっても、悪い話じゃないですよね?」
 澄花はまるで、ごく何でもないことのように言う。
「――お前たちが鴻城希槻を倒してくれる、というならな」
 けれど神坂は、見たことのない暗闇にでも手をのばすような、そんなためらいがちの口調で言った。澄花の態度は少しも変わらないまま、何も答えようとはしない。
「だが、何故そんなことをする必要がある?」神坂は続けて訊いた。「鴻城に対して恨みがあるわけではない。完全世界を求める目的も同じ。お前たちの本心は不明だ。おそらく、お前たちは鴻城とは違う形での完全世界を求めているんだろう。だからこそ、あの男が邪魔になる。だがいったい、それはどんな世界だ? お前たちと鴻城のどちらがより危険かは、一概には判断できん」
 そう言われても、澄花の表情に特に変化はない。その場所が極北でも砂漠でも、そんなことは彼女にとっては何の違いもない、というふうに。
「先生の〈精神研究〉で読んでみますか?」
 と、澄花は言った。軽い微笑を浮かべて。
 けれど――
「いや」
 と神坂は苦笑するように首を振っている。
「それはやめておこう。こう言っては何だが、お前の精神にはいささか問題があるみたいなんでな。俺にはお前がこうして普通でいられることのほうが不思議だ。もしお前の精神に深く立ちいってしまえば、俺のほうがどうにかなってしまうだろう。三人の魔女に唆されるような趣味は、俺にはないんでな――」
 そんな神坂に向かって特に何を言うでもなく、澄花は一枚の紙片を取りだした。ごく普通の、何の変哲もない白い紙である。
「先生にはこれを渡しておきます」
「何だ、これは?」
 小さく折りたたまれたその紙を受けとって、神坂は訊く。
「恋文じゃないから、安心してください」
 澄花はもう一度、いたずらっぽく笑った。
「期待はしていないがな」言いながら、神坂は紙を開いてみた。中には、いくつかの奇妙な数字と文字が記されている。「……何だ、これは? 何かの暗号か?」 
「もしかしたら、それが必要になるときがあるかもしれませんから――」
 多くを語ろうとはせずに、澄花はただそれだけを告げておいた。
 いつのまにか舞台の明かりは消え、光は客席に移っている。眠りから無理に覚まされたようなとげとげしい光が、あたりを照らしていた。
 話はこれですんでしまったので、澄花は客席をあとにしようとした。この場所に、もう用はない。
「最後に一つだけ、聞いてもいいか?」
 呼びとめられると、澄花は立ちどまって神坂のほうを見た。
「お前はいったい、どんな世界を望んでいるんだ。ほかの魔法使いたちと同じように、かつてそこにあって、そして失われたどんな完全世界を。それを取り戻すためなら、お前はやはりすべてを犠牲にするつもりなのか?」
 その問いかけに、澄花はしばらく黙っていた。大切な何かを、手の平の上でそっと確かめるみたいに。
「――私はもう、完全世界を手に入れたんです。世界が終わって、そして始まったあの日の夜に。でもそれは、私だけのものでしかない。兄には……清織にとっては、世界はやっぱり不完全なままです。絶対に、許せないくらい。だからきっと、このままでいれば清織は壊れてしまう。ほかのすべてのものを、いっしょに壊して」
「だから、お前がそうはさせない、と……?」
 牧葉澄花は星の光がようやく届くみたいに、ゆっくりとうなずく。
「私にとっての願いは、できるだけ彼のそばにいることなんです。ただ、それだけ。だって完全世界は、もうもらったんだから――」

 そこは何の変哲もない、橋の上だった。すぐ下を、市内を貫く一級河川である白砂川が流れている。交通量はそれなりに多く、ひっきりなしに車が行きかっていた。
 春の陽気は一転して、冬の肌寒さに逆戻りしている。太陽は忘れ物にでも気づいたように少し遠くへ離れ、風はひどく冷たかった。音の響きさえどこか虚ろで、大切なものをどこかに置いてきてしまったようでもある。
 歩行者用の通路には、室寺のほかに誰の姿もなかった。傍らを、自動車が鈍い響きを立てて通りすぎていく。室寺は橋のちょうど半ばあたりで、仁王立ちしていた。川面を眺めて哲学的な思考にふけっている、というわけではない。まるでボードゲームの一旦休憩のマスにでもとまってみたいに、ただじっとしていた。
 やがて室寺は、おもむろに構えを取った。
 足の開きを肩幅にとって、軽く腰を落とし、脇を閉めて、握りを上に向けて右拳を地面と平行に置く。そのまま息を整え、打撃の一瞬を準備する。
「――!」
 と、室寺は空気を圧縮するようにして拳を突きだした。
 その腕は何もない空間をただ素通りするだけのはずだった。
 はずだった、が――
 室寺の一撃は、空中のある場所でぴたりと静止している。自分で打突をとめたわけではない。打撃音も衝撃波もありはしなかったが、その拳は確かに何かを殴りつけていた。
 本来なら、魔法の力をこめたその一撃は、どんなものでも破壊できるはずだった。鋼鉄の扉だろうが、ぶ厚いコンクリートの壁だろうが、室寺にはコピー用紙を突き破るくらいの容易さで粉砕できるはずだった。
 とはいえ、それが「世界そのもの」ということになれば、話は別である。
 鴻城希槻がどんな手段を使ったのかはわからなかったが、そこには見えない境界ができあがっていた。一種の結界といってもいいだろう。それは都市一つをまるごと包みこんでしまうほどの、桁違いの大きさだった。その境界線を越えて、魔法使いが移動することはできない。あたかも、物語と物語のあいだを、その登場人物が行き来することはできないように。
 それはつまり、もはや外部からの応援を期待することはできない、ということでもあった。
「くそっ」
 室寺は見えない世界の壁を殴りつけた。手応えすら感じないというのに、そこには厳然とした世界の違いが存在している。
「これで俺たちは、密室の中ってわけだ――」
 と室寺はつぶやく。
 その傍らでは魔法使いでないものたちが、世界の違いなど気にもせずに往来を続けていた。

――Thanks for your reading.

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