[プロローグ]
――彼女は暗い夜の森を走っていた。 目の前を、一人の男の子が同じように走っている。彼女と彼は、その小さな手をつないでいた。二人はまるで、何かから逃げるように足を動かしている。 ごく幼い子供たちだった。どちらもまだ、小学生くらいだろう。男の子のほうがやや年齢が上だったが、もちろんその幼さには何の足しにもならなかった。 時刻は、春の宵といったところ。月の光は厚い葉の重なりに遮られて、地面にまではほとんど届いていない。湿り気を帯びた空気は不自然に冷たく、まるでそこにだけ冬がまだ残っているかのようだった。 森には鬱蒼と木々が茂り、藪のせいで足元もおぼつかない。風に揺れる梢は、ざわざわと盗賊の足音みたいに響いた。幾層にも重なった暗闇からは、今にも腹を空かせた狼や、首のない血塗れの幽霊が姿を現しそうである。 彼はその右手に、カンテラ型の電灯を掲げていた。その光は、森の暗闇を弱々しい魂みたいに照らしている。彼女のほうは左手に、絵本を抱えていた。二人の持ち物は、どうやらそれだけらしい。 「――!」 不意に、彼女は木の根につまずいて転びそうになる。けれどその手を、彼がしっかりと支えていた。彼女は少しよろめいただけで、倒れてしまうようなことはない。 「――大丈夫?」 と、彼は心配そうに訊いた。 「うん――」 彼女はその手を強く握りかえしながら答える。 何だかそれは、ヘンゼルとグレーテルに似ていた。いじわるな継母のせいで、深い森の奥に置き去りにされてしまった二人の子供たちに。 けれど―― それはあながち、間違いとはいえなかった。どちらも、この世界から放りだされてしまった、という点では。 もしも二人に例の童話と違うところがあるとすれば、それは彼らが自分たちの家への帰り道を探しているのではなく、そこから逃げだしている、という点だった。帰る場所さえ、この二人は失ってしまっている。 二人はつい今しがた、ある施設から脱けだしてきたばかりだった。 そこはある宗教法人によって作られた、特殊な施設だった。そこに住む大人たちは、世界の美しさしか語らなかった。ただ、きれいなだけの物語を。子供たちは大きな鳥籠にでも入れられるようにして、そこで暮らしていた。不完全な外の世界とは、一切の関わりを持たないまま―― そこは一種の、歪んだ形をしたエデンだった。知恵の樹のない楽園。 けれどそんな場所でさえ、世界は不完全だった。 正しい時計を持っている人間がいなければ、時間のずれが修正されることはない。それは時がたつほど、解離していく。小さな世界ほど、その狂いは大きくなった。 そして誰かが、犠牲になる。 彼女には、何の落ち度もなかった。この世界がどんなに不完全な場所なのか、彼女は知らなかったのだから。それを知るには幼すぎたし、それを教えてくれる人間も存在しなかった。 そしてある時、彼女は傷を負うことになる。それは魂に致命傷を与えるような出来事だった。心の原型が崩れ、精神にひび割れが生じるような。頭のまだ白紙だった部分が乱暴に塗りつぶされ、心の大切な部分に汚い黴の根がはるような。 もしもそのことが今も続いていたら、彼女は完全に壊れてしまっていただろう。それが二度と回復されることはない。例えどんな魔法を使ったとしても。 その夜も、彼女の部屋には顔のない黒い影がやって来た。鍵をかけても、扉をふさいでも無駄だった。それは形を持たない存在みたいに、どんな場所にでも侵入してくる。 けれど―― 気づいたとき、その影はいなくなっていた。代わりに、彼の姿がそこにあった。 そこには英雄のための祝典も、賢者による称賛も、詩人の作った頌歌も存在しない。 あるのはただ、いつもと同じ暗い夜の闇だけ。 彼女に何とか理解できたのは、もう怖いものはいなくなった、ということだけだった。絵本の中の怪物が、必ず最後にはいなくなってしまうみたいに。 だから彼にそう訊かれたとき、彼女の答えはもう決まっていたのだ。 「いっしょに行こう、ぼくと」 「――うん」 そして彼女は、その手をつかんだ。 二人の子供はそうして、施設をあとにした。外の世界のことなど何も知らず、身を守る術さえ持たないまま。一冊の絵本と頼りない明かりのほかには、ポケットに入れるための小さなパンさえもなく。 それは、何の用意もなく星空を目指すような、無謀で無意味な行為だったのだろうか? 常に暗闇しか存在しないその場所で、人は生きていくことはできない。そこには空気も水もなく、あるのは仮借ない炎熱と酷薄な冷気だけでしかない。足場すらないそこでは、人はどこにも導かれず、どこにも到達しない。 どれだけ不完全でも、人はその場所で生きていくしかない。例え魂を凍らせ、心を傷つかせても。世界はそこにしか、存在していないのだから。 けれど、それでも―― 二人はやがて、疲れて足をとめた。森の木が一時的に途切れ、あたりには洞窟の底を照らすように月明かりが射しこんでいる。二人の手はつながれたままだった。 「――かみさまはやっぱり、いないのかな?」 と、彼女はその幼い声で、とても静かに訊いた。誰にも聞かれることのない独り言でもつぶやくみたいに。 けれどその問いに、彼は何のためらいもなく答えている。 「だったら、ぼくが神様を作るよ」 そうだ―― 彼女は思った。 怖いことなんて、何もない。 永遠に、この暗い森は続いていくのかもしれない―― 運命は、少しも助けてはくれないのかもしれない―― 幸福は、いつまでも手に入らないのかもしれない―― 孤独は、消えもせずに続いていくのかもしれない―― でも、大丈夫。 ――彼女は知っていたから。
この世界で彼の手が離されることは二度とないのだ、と。
彼女はそれを、知っていたから――
※
完全世界は失われてしまった。 それが戻ってくることは、もう二度とない。人はあまりに多くのものを捨ててしまったし、あまりに多くのものを手に入れてしまった。それらを拾いなおすことも、放りなげてしまうことも、もう不可能なことでしかない。 世界そのものの重さが不変であったとしても、その均衡は崩れてしまう。例え魔法を使ったとしても、それを防ぐことはできない。 永遠を閉じこめ、運命を手なずけ、幸福を作りだし、孤独を支配したとしても―― 世界はやはり、不完全なままだ。 終わりは何かの始まりにすぎず、始まりは何かの終わりでしかない。 けれどただ一つ、死だけが終わることはない。生の終わりが、死の始まりでしかないのとは違って。 なら、誰かが死を終わらせるべきだと思ったとしても、不思議ではないだろう。 ――物語を、より完全なものにするために。 この世界では、どんなものでも失われてしまう。どんな大切な、かけがえのないものだったとしても。流れ星が消えるよりも早く。桜が散るのより簡単に。 けれどだからといって、それが許されていいというわけではない。 世界の片隅にようやく残されたような場所。ささやかな、どこまでも他愛のない時間。 それが壊されるというなら―― この不完全な世界がそれを許すというなら―― もはや、世界そのものを書き換えてしまうしかないのかもしれない。
いずれにせよ、この物語はここで終わる。 完全世界を求めた人々と、その誕生と終焉を巡る物語は。 四季は繰り返され、再び春がやって来た。すべてが新しく生まれ、作り変えられる季節。 終わりは終わり、始まりが始まる―― この世界に不完全でいられるのは、子供たちだけだ。彼らだけが、完全な魔法≠持っているのだから。 もはや不完全な魔法≠オか持たない人々は、この世界に耐えることはできない。彼らはどうしても、完全世界を求めずにいられない。 それがどれほど残酷で、不条理で、間違ったことだとしても。転がり落ちるとわかっている岩を、それでも頂上へと運ばずにはいられないように。
――では、始まりと終わりを語るとしよう。 この「不完全世界と魔法使いたち」を巡る、最後の物語のことを。 [一つめの始まり]
1
四月の、ある日のことだった。 何か上機嫌なことでもあったみたいに暖かく、気持ちのよい青空が広がっている。光を溶かしこんだような風が吹いて、息をするたびに体の中身が入れかわってしまいそうだった。 県道にあるバス停の前に、赤と白のバスがやって来ている。ブザーが鳴ってドアが開くと、並んでいた人々が次々と乗車していった。大抵の人がそのバスに乗るらしく、誰もが羊の群れみたいな大人しさで車内へと消えていく。 小さくクラクションを鳴らしてバスが出発すると、あとには二人の少年と少女だけが残っていた。 放課後らしく、二人とも中学校の制服を着ている。デザインがかなり違っているのは、通っている学校が別々だからなのだろう。 「次のバスかな?」 と、少女のほうが訊いた。 さっぱりとした短めの髪をしていて、それが時々風に揺れる。発見されたばかりの鉱石みたいな、きらきらした目をしていた。動作の一つ一つに、その年齢の少女らしい健康で自然なのびやかさがあった。草原で花摘みをしているよりは、思いきり駆けまわっているほうが似あいそうな少女でもある。 「――いや、もう少し先みたいだ」 時刻表を見ながら、少年が答えた。ややこみいった形の路線図が、そこには載っている。 少年は、少女より少し身長が高い程度のごく平均的な背格好をしていた。やや大人びた、落ちついた雰囲気をしている。そこからは夜の星座にも似た、いつも正しい位置にある賢さと優しさが感じられた。その瞳は透明で明るい、青空みたいな場所につながっているようでもある。 少年の名前は宮藤晴、少女は水奈瀬陽といった。 かつて小学生だった頃に知りあった二人は、中学になってからある出来事をきっかけにして、あらためて交流を復活させていた。今はアキの用事にハルがつきあう格好で、このバス停で落ちあった、という状況である。 「ハル君、学校のほうはどう?」 と、アキはバス停のベンチに腰かけながら言った。 「三年になったばかりだし、まだよくはわからないよ」 ハルも同じように、ベンチに座る。人はいないので、二人のあいだには余裕があった。 「勉強は?」 「今のところ問題ない」 「――今年は受験の季節だね」 アキはハルのほうをのぞきこんで、少しいじわるそうな笑顔を浮かべる。 「ぼくのほうはね」 とハルは苦笑した。 「アキのほうは、何も心配しなくていいんでしょ?」 「そりゃあ、わたしはもうすませちゃってますから」 県道にはまばらな量で車が走っていた。自動車も春の季節には気がゆるむのか、何となくのんびりした様子をしている。 「――でも、何だか変だね。もうすぐ十五歳になって、それから高校生になるなんて。そんなの、想像もしたことないのに」 親しい人からの便りみたいな風が吹いて、アキはちょっとのびをした。そんなセリフを聞いていると、この少女もこの少女なりに大人になりつつあるのだとわかる。 「世界は必ずしも、永遠を必要とはしないから……」 ハルは風の行方を目で追うみたいにして言った。かつての事件で出会った、ある人のことを思いだしながら。 そう―― 世界は変わっていくのだ。 それが、どれくらいの希望と残酷さを含んでいたとしても。 しばらくすると、もう一台バスがやって来て停まった。二人が座ったままでいると、今度は扉も開けず、ただ落し物の確認でもするみたいに少しだけ停車して、そのまま出発する。あとには、サイズのあわない空白だけが残されていた。 「――今度の日曜日、いつも通りの集まりを開くって」 その空白を埋めるみたいにして、ハルは言った。 「佐乃世さんの家?」 「うん」 「でもわたし、いまだにうまく使えないんだよね、魔法って……」 軽くため息をついて、アキは言う。 「何かコツとかってあるのかな?」 「訓練あるのみ、かな」 ハルはちょっと考えるようにして言った。 「ほかには?」 「たゆまぬ努力と練習」 「やっぱり、ハル君もそうだったの?」 「うん――母さんが死んでからは、ずっと」 「そっか」 と、アキは透明なガラス玉を手の平の上で転がすようにして言った。 「なら、わたしもがんばらないとね」 その時、不意に風が吹いてきて、桜の花びらが何枚か舞い落ちてきた。秒速五十センチほどで落下する白い花びらは、指先くらいの大きさしかないというのに、世界の色あいをすっかり変えてしまっているように見える。 「春だね――」 その小さな花片に手をのばして、アキは言った。 「――うん、春だ」 鈍い音の響きを乗せてバスがやって来たのは、それからほどなくのことだった。
丘の上に続く急な坂道を、バスは苦労して登っていく。ほとんど乗客はいなかったけれど、それでも青息吐息という感じだった。一度でも止まってしまえば、それっきり動けなくなってしまいそうである。 二人の目指す歴史博物館は、その坂道の上にあった。付近には美術館やミュージックホールもあって、ちょっとした文化スポットを形成している。市の中心部とはいえ緑が多く、あまり街中という感じはしない。 いくつめかの停留所で、二人はバスを降りた。目的地までは、徒歩であと数分というところである。人通りはほとんどなく、春の空気はひどく長閑だった。 「じゃあ、行きますか」 と言って、アキは歩きはじめた。遊歩道にはあちこちに緑陰が落ちて、誰かが窓でも開けたみたいに春の陽射しが注いでいる。 しばらくすると、目指す建物が見えてきた。歴史博物館は赤レンガでできた古びた建物で、元は兵器廠として使われていたものだった。それだけに、余計な重りを一つ分足したような、重厚な外観をしている。窓はどれも小さく、頑丈そうな鉄格子と扉がつけられていた。その無骨な居ずまいには、今でも実用に耐えられるのだという威厳めいたものが漂っている。 二人は小道を通って入口から中に入ると、受付けの前に立った。中学生以下は入場無料なので、学生証を見せるだけでよい。 「ようこそ、歴史博物館へ」 受付けの若い女性が、にこやかに声をかけてきた。何となく微笑ましいものでも見るような目で、二人のことを眺めている。 「――あの、久良野さんは在館ですか?」 そんな女性に向かって、ハルは訊いた。あまり中学生らしくはない礼儀正しさだった。 「あら、じゃああなたたちが宮藤くんと水奈瀬さん?」 女性はちょっと慌てたように言う。 「そうです」 アキが快活にうなずいた。 「そうか、考えたら気づきそうなものだったのにね――桐子さんから、話は聞いてます。今日は予定通りのはずだから、特別展示室のほうにいるはずよ。準備にもう少し時間がかかると思うけど」 「特別展示室は、向こうのほうですよね?」 アキが指さすと、女性は丁寧にうなずいた。その動作も、展示品の一部みたいに。 「――ええ。よければ、それまでは館内のほかの場所もまわってみるといいんじゃないかしら?」 「ありがとうございます」 二人はお礼を言って、受付けをあとにした。女性は二人の姿が見えなくなるまで、小さく手を振っている。 勧められたとおり、ハルとアキの二人は館内を巡回することにした。平日の午後という時間のせいか、あたりにはまばらにしか人の姿はない。空気がしんとして、耳を澄ますと少し前くらいの時間の音なら聞こえてきそうだった。 「……わたし、博物館ってわりと好きだな。静かで,落ちついてて、正しいものが正しい場所にあるって感じがするから」 木製の廊下を歩きながら、アキはちょっとした秘密でも囁くように言った。 元々、この場所を訪れたのはアキの取材のためだった。歴史博物館では今、幕末から明治期にかけての地元での動向をテーマとした特別展を開催していて、アキは新聞部でのレポートとして、それを参考にするために足を運んだのである。 その特別展の展示物を眺めながら、 「そろそろじゃないかな?」 と、壁にかけられた時計を確認して、ハルは言った。約束の時間までは、あと少しである。 「うん、行ってみようか」 アキもうなずいて、二人は別の部屋へと向かった。階段をのぼって、受付けで指示されたとおり北側二階の展示室へ移動する。 その部屋には入ってすぐ、大きな写真パネルが飾られていた。その頃に交流のあった、地元出身の武士と外国人商人のものらしい。端正だがやや目つきの冷たい男と、口髭を生やした顔を真横に向けた、何となく愛嬌のある外国人の姿が、そこには写されている。 やや広く空間をとった部屋の中央には、半円形になってイスが並べられ、その中心に机が一つ置かれていた。机の上には箱状のものが用意され、その傍らに目的の人物が立っていた。 「こんにちは、久良野さん」 と、アキはごく明るい調子で声をかけた。 何やら箱をいじっていた女性は、声に気づいて顔をあげた。しゃれた眼鏡に、シャツとジーンズという飾り気のない格好をしている。あくまで自然体な雰囲気だが、全体の動きはきびきびとしていた。胸元には、学芸員であることを示す身分証がつけられている。 「いらっしゃい、二人ともよく来たわね」 彼女はどっちにめくっても表になりそうな笑顔で言った。 「はい、お言葉に甘えて失礼させてもらいました――」 ぺこりと頭を下げて、アキは言う。 「いいのよ、遠慮なんかしなくて。うちのナツが、いつもお世話になってるんだから」 彼女――久良野桐子は、二人の共通の知人である久良野奈津の母親だった。ナツと二人は、いろいろな必要もあって親しくしている。今回は、その縁故を利用しての訪問だった。 「どちらかというと、お世話をされてる気がしますけど……」 桐子の言葉に、アキはあの人を食ったような少年のことを頭に思い浮かべながら答える。 「目に浮かぶような光景ね、それは」 と、桐子は悪びれもせずに、にやっと笑ってみせた。子供に関しては自由放任が、彼女の基本方針である。 「あんまりひどいようだったら、何発か殴ってくれていいわよ。もちろん、グーでね」 「たぶん、その前に逃げられちゃいますよ」 アキが言うと、桐子は軽くため息をついている。彼女にも彼女なりの、母親の悩みというのがあるようだった。 「……でしょうね。あの子にも博物館に来るよう言ってるんだけど、全然よりつかないのよね」 親の職場を訪ねにくいのは、中学生くらいなら当然のことではあるだろう。 「フユちゃんのほうも機会をうかがってるんだけど、あの子はなかなか隙を見せないわね。下手に誘っても、簡単に断わられちゃうでしょうし。まあ、そこがあの子の魅力的なところなんだけど」 そんなセリフを聞いて、アキは苦笑するしかない。この人にかかれば、壊れない壁もいつかは撤去されてしまいそうだった。 「……と、無駄話はこの辺にしとかないとね。そろそろ開演時間だから、準備しないと。二人とも席に座って、もちろん最前列で」 桐子はひどく嬉しそうな顔で、二人に告げた。 「特等席でゆっくり鑑賞していってね。本当に、こんな機会はめったにないんだから」
2
予定時間がやって来ると、席のほとんどは埋まっていた。どうやら、そのためにわざわざ来館した人もいるらしい。部屋の密度が急に変わって、元々そこにあったはずのものがいくつか、外に押しだされたようでもある。 座席の中心にある机の上には、一つの箱が置かれていた。ちょうど両手に抱えられるくらいの大きさで、表面には精緻な象嵌細工が施されている。そこには抽象的な二本の樹と、鮮やかな草花が図案化されていた。 久良野桐子は全員の着席を確認するために、あたりを見まわす。一瞬遠くのほうに視線をとめてから、けれどまた元の場所に向きなおった。それから書類の端を揃えるような咳払いを一つすると、口を開く。 「――このたびは、当歴史博物館の特別企画展にご来場いただき、まことにありがとうございます。歴史の主筋からは外れるとはいえ、巨大な転換期にあたって地元地域でいかなる動きがあったかを知ることは、新たな知見ともなりうるかと思われます。この部屋では幕末における東西交流と銘打って、ある人物へと焦点が当てられています。その一人は藩の下級武士であった柏崎(かしざき)、もう一人は外国人商人のシャムロック・L・ヘルンです。ヘルンは当時における典型的な、冒険的、投機的な商人の一人でしたが、二人の交流の特徴的なところは、それが経済面だけでなく、ごく私的な面にも及んでいたことです。 例えば、柏崎とヘルンはしばしば手紙や贈り物のやりとりをしています。手紙には現在から見るとやや不分明な箇所もありますが、非常に友誼に富んだ、濃やかなものといっていいでしょう。その交流は維新後にも継続され、結果としてこの地で客死することになったヘルンの墓が、柏崎によって建てられたりもしています」 桐子はそこまで言うと、いったん手元の箱に視線を動かし、それからまた話を続けた。 「ここにある箱は、当時の主流であったシリンダータイプのオルゴールです。これは柏崎の結婚を機に、ヘルンからその妻である櫻(えい)へと贈られたものでした。その時代としても大変高価なもので、装飾も見事な出来ばえです。当館は柏崎コレクション≠ニしてこうした品々を多く所蔵していますが、その大部分は彼からの妻への贈答品を寄贈されたものです。 ……では、口上はこの辺で終了として、あとはオルゴールの実演に移りたいと思います。言うまでもありませんが、史料保存という観点からすれば、このような機会はめったに訪れるものではありません。みなさん、どうか耳を澄ませて、百数十年前という時代の音をお聞きください」 桐子は箱の蓋を開くと、ラチェットレバーを何度か回して、さらにいくつかの操作を行った。それから最後にスイッチを入れると、自身は少し下がって用意してあったイスに腰を下ろす。 ――一瞬、どこか遠くで生命の回路がつながるような、そんな気配があった。 それからオルゴールは、静かに音を鳴らしはじめる。ゼンマイが定められたピッチでシリンダーを回し、打ちつけられたピンがコームと呼ばれる櫛歯を弾いていった。音楽がそのままの形で保存された箱の中からは、誰かが望んだとおりの変わらないメロディーが流れていく。 オルゴールの曲はやや異国的な、聞き覚えのないものだった。そこにはかすかな、石と土と風の気配があった。星の光をそっと並べたような、オルゴール特有の響きが世界を満たしてく。 眠りを集めるような―― 夢をろ過するような―― そんな、響きが。 結局、演奏は十五分ほどで終了した。最後の音が響き終わったとき、世界は少しだけきれいになっていたようでもある。
オルゴールがその短い目覚めを終えると、小さな夜空の下で眠るようだった人々は、席から立ちあがってそれぞれ散っていった。さきほどまでそこにあったはずの時間は、すでに跡形もなく消えてしまっている。 「わたしはちょっと、桐子さんと話があるから」 ということで、アキは演奏後もその場に残ることになった。もちろん、新聞部での仕事のためだろう。 アキの用事が終わるまではすることもないので、ハルはさっきの展示室に戻ることにした。歴史の勉強をするにはいい機会なのは間違いない。 廊下に出て、階段のほうに向かう。緋毛氈の敷かれた階段を降りていると、ハルは不意に声をかけられていた。 「――宮藤くん、だよね?」 ハルが振り向くと、そこには知らない少女が立っていた。 きれいな、たぶんそうとしか形容のしようがない少女だった。けれどそれは、しばらく眺めてみてようやくそうだとわかるような、ごく静かで控えめな種類のものである。何かを主張するのではなく、そっと手渡すような。年齢はおそらく高校生くらいで、長い髪は邪魔にならないようにまとめられていた。柔らかな若草みたいな表情をして、光でもすくいとれそうな、そんな感じの手をしている。ハードカバーくらいの大きさをした本を脇に抱えていた。 彼女はちょうど、踊り場にある窓の下に立っている。そこには、春の光がかすかな音を立てて注いでいた。 「そうですけど……あなたは、どなたですか?」 ハルは首を傾げるようにして訊いた。とりあえず、相手の様子に怪しげなところはない。 「ごめんなさい、やっぱり、こっちから名のるべきだったよね」 と、彼女は他意のない笑顔を浮かべて言った。ふわふわとした、たんぽぽの綿毛でも飛ばすような笑顔である。 「私は、牧葉澄花といいます。水奈瀬さんの先輩にあたる、衣織学園の高等部二年よ」 そう言われてよく見ると、彼女はアキとよく似た感じの制服を着ていた。 「えっと、牧葉さん――」 「澄花さん、でいいわよ」 ハルが口を開こうとすると、彼女はちょっと隙のないにこやかさで言った。どこかの赤い頭巾をかぶった少女なら、簡単におばあさんだと信じてしまいそうでもある。 「――それで、ぼくに何か用ですか、澄花さん?」 とハルは、少し戸惑いつつも訊いた。もしかしたら、手か口でも見せてもらったほうがいいのかもしれない。 「実は、ちょっと君と話をしてみたくて」 澄花は何の屈託もなさそうな顔で言っている。 「でも、ぼくは――」 ハルがなおもためらっていると、澄花は穏やかにそれを制した。 「でも私は、君のことを知っているんだよ。多少はね。例えば、宮藤晴くんが魔法使いだということも――」 「…………」 言われて、ハルは口を噤んだ。もしかしたら彼女は狼ではなくて、毒リンゴでも売りにきた魔女なのかもしれない。 「心配しなくても、私が君に危害を加えることはないよ」 澄花はそう、まるで変わりのない口調で言った。 「――というより、そんな力を私は持っていない、といったほうが近いかな」 澄花はごく自然な様子で、持っていた本を開いた。古い装丁本のような、少し重みのある本だった。持ち歩くのには、あまり便利とはいえない。凝った装飾が施されていたが、題名らしきものは見られなかった。もしかしたら、それは本ではないのかもしれない。 「私の魔法〈物語記憶(ミリオン・アーカイブ)〉は、ある固定座標から視た世界を文字に置き換える≠ニいうもの。それはこの世界を変える、どんな力も持ってはいない。私にできるのはただ、世界にインクを浸してそれを紙に写すことだけ――」 澄花はそう言って、本のページをハルのほうに示した。 何も書かれていなかった真っ白なページには、浮かびあがるようにして文字が刻まれていく。そこからはかすかな魔法の揺らぎが感じられた。鉛筆のたてる小さな音を聞くような、かすかな揺らぎが。 「ちなみにこの本自体も魔術具よ。無限にページが続く書籍魔法(ディスクリプト)=B私にぴったりだと思わない?」 にこっとして、澄花は本を戻した。そして陽射しがほんの少し翳るような調子で、彼女は言った。 「私にできるのは、そんなことだけ。こんな力しか、私にはない。それでも、少しでも彼の役に立てれば……」 館内は、誰もいなくなったように静かだった。耳を澄ませば、光の粒が窓ガラスを叩く音さえ聞こえてきそうである。 「あなたは、いったい――?」 ハルは彼女のまっすぐな目を見返しながら、けれど何を訊いていいのかわからなかった。彼女が何か、大切なことを伝えようとしていることはわかる。 でもそれは―― 文字の薄れて消えてしまった本を読むみたいに、判然としないものだった。 「――あなたにとっての完全世界≠ヘ何?」 不意に、澄花は言った。手の平にすくったものを、そっと零すみたいに。 「ぼくは……」ハルは小さく首を振って、それに答えている。「ぼくにとってそれは、もう失われてしまったものです。そしてそれが失われたことの意味を、ぼくは知っています。それは、ぼくが受けとったものでもあるんです」 その答えを聞いて、澄花はにっこりと笑って言った。 「君は強い子だね、宮藤くん」 そして、そのままの笑顔で続ける。 「私にとっての完全世界は、とてもシンプルなもの。そして、とても大切なもの。それがあるかぎり、私は幸せでしかいられない――もしも君にそれがわかれば、あの人に勝てるかもしれない」 どこかで物音がして、人のやって来る気配があった。急に時間が動きだしたみたいに、光の音も消えてしまう。 「オルゴール、素敵だったね」 澄花はまるで、さっきまでの会話などなかったかのように言った。 「水奈瀬さんには、君のほうからよろしく言っておいてくれるかな。私は後ろのちょっと離れたところにいたから、彼女は気づいてないと思うけど」 そう言って階段を降りると、彼女はハルの脇を通っていってしまった。柔らかな春の風が静かに消えていくみたいな、そんな気配だけを残して。
――もちろん、この時のハルには彼女の言っていることの意味などわかるはずはなかった。まだ何も書かれていない、白紙のページを眺めるのと同じで。そこからはどんな言葉も、読みとることはできない。 それがわかるのはずっと先の、もう物語が終わりを迎える頃のことだったのである。
3
学校の帰り、久良野奈津は駅の近くにある百貨店によってみることにした。市の中心部にある古いデパートは、それなりの人出で賑わっていた。春の季節は特殊な空気を製造する機械みたいに、あたりの雰囲気をいつもとは違ったものにしている。どこからか、桜と惜別を歌ったポップソングが聞こえた。 正面入口から入ってすぐ、ナツはフロアの中心にあるエスカレーターに向かった。 母親とは対照的な、シックな黒い眼鏡をかけた少年である。背は少し高めで、すらりとした手足をしていた。理知的な顔だちのわりに、どこかいたずらめいた、油断のならない雰囲気をしている。けれど、それも計算式としては正しいような、どこか不思議な印象を与えていた。心の中にある倉庫が人よりちょっと余裕を持って作られている、という感じでもある。 天国までにはいささか時間のかかりそうなエスカレーターに乗りながら、ナツはぼんやりとデパートの様子を眺めていた。この場所には多少の因縁めいたものがあって、そのことを考えていたのである。けれど今は、特別な運命が世界を支配しているわけではない。 六階のフロアには、雑貨屋や文房具店、おもちゃ売り場などが並んでいる。通路を歩いていたナツは、その途中でふと足をとめた。 意外な人物が、そこにいたからである。 ファンシーそうな小物の並んだ文房具屋に、その少女は立っていた。その光景は、あまりそぐわない感じがしている。雪の降る下で、五月祭の踊りでもおどるみたいに。 「――そんなところで、何をしてるんだ?」 ナツは近くまで行って、訊ねてみた。とはいえその相手との近くまでは、普段よりも半歩ほど下がった位置ではあったけれど。 声をかけられた少女――志条芙夕は、ゆっくりとナツのほうを向く。 透明で冷たい、名前のとおりの冬のような瞳をした少女だった。長い髪は、それが当然みたいにまっすぐのばされている。氷の結晶に似た細身の体は、どこか触れがたいもののような雰囲気をしている。けれど雪を象った髪留めは、彼女のそんな印象をずいぶんと和らげているようでもあった。 ナツとフユは、同じ中学校の生徒でもあった。学校から直接来たらしく、フユも制服姿のままという格好である。 「ああ、あなただったのね、久良野奈津――」 フユはそれが当然であるかのような、やや迷惑そうな口調で言った。そういう癖のようなものだったが、本心が含まれていないわけではない。 「残念ながら、な」 と、ナツはおどけた仕草で肩をすくめてみせた。この少年も、人とは少し違った性格をしている。 「俺はここでは、意外な人物に会う運命らしくてな」 「別に意外ということはないでしょ?」 フユはあくまで、無表情そうに言う。 「私がどこにいたって、私の自由なんだから」 「けど、一人で来たって感じじゃないな?」 言われて、フユは青葉にたまった朝露が零れるくらいのわずかさで、ため息をついた。どうやら、誰かとは違ってこの少年をごまかすことはできそうにない。 「……ええ、そうよ。友達といっしょ。たぶん、そう呼んで構わないと思うけど」 「その推定友達はどこにいるんだ?」 「二人とも部活の関係で遅くなるそうよ。私だけ、一足先にここに来たの」 少しうんざりした様子で、フユは言った。この少女がそんなふうに感情を露出させるのは、珍しいことではあったけれど。 「ずいぶん奇特な人間もいたもんだな。お前と友達だなんて」 ナツは素直に感心したように言う。そんなセリフが皮肉っぽく聞こえないところのある、不思議な少年だった。 「そうね――」 と、フユはやや自嘲気味にうなずいてみせる。 「天使の置き土産ってところかしら?」 かつて一人の少女が、孤独さえ届かない場所へと消えてしまった。フユが待ちあわせをしているのは、その少女の友人たちだった。時間的には、その時からまだ季節が四分の一だけ巡ったにすぎない。 例え雪が融けてしまったとしても、すべてが変わるわけではなかった。 「……それで、あなたのほうは何をしているのかしら?」 時間の流れを戻すようにして、フユは訊いた。 「俺がどこにいようと俺の勝手だ、と誰かに聞いたけどな」 「あなたのほうは一人みたいね」 指摘されて、ナツはとりあえず冗談はやめにして答えた。 「……俺はちょっと頼まれものをして、おもちゃ屋のほうに用事がある」 「頼まれものってことは、あの子に?」 現在、久良野家には一人の少女が仮寓中だった。運命の導くところによってナツと出会い、今ではもう六年生になっている。 「スターチャイルドってお気に入りのアニメの、プラモデルが欲しいって言われてな」 「プラモデル?」 あまり女の子らしくはない趣味だった。 「まあ、作るのは俺なんだけどな」 「……何なの、それ?」 ナツは軽く肩をすくめてみせた。そして淡々とした口調で言う。 「要するに、あいつはわがままを言いたいんだ。というより、俺たちに気を使わせないようにわがままな振りをしている、といったほうが近いかな? 貸し借りのあるほうが、関係の上手くいく場合もある、ってことだ。まあ、あいつの場合は元からの性格もある気はするけどな」 「…………」 フユはあらためて、この少年の性格を認識する気がしていた。寛闊というのか、細やかというのか、よくはわからなかったけれど。 とりあえずの話もすんで、二人は別れようとした。けれどそこで、ナツはふと思い出したように訊いている。 「――そういえば、今度の日曜はどうするんだ?」 「佐乃世さんのところでしょ?」フユはすぐに答えた。「たぶん、行くでしょうね」 「そりゃよかった、おかげで絵の続きが描ける」 「――確か、魔法の訓練をするための集まりだったはずだけれど?」 フユは呆れたように言った。 「アキのやつの特訓が終わればな」 言って、ナツはいじわるそうな顔でにやりとする。 「何であいつだけは、いつまでたっても初歩の訓練から上達しないんだろうな?」 「それが彼女の特質というものじゃないかしら」 誉めているのか貶しているのかよくわからないことを、フユは言った。実際、その点は自分でもいまいち判然とはしない。 それから今度は本当に別れると、ナツは予定通りにおもちゃ売り場へと向かった。フユは元のまま、文房具店で友達の到着を待ち続けている。 おもちゃ売り場にさしかかって、ナツが通路に面した棚の一つを横切っているときのことだった。コーナーのところから、子供が二人飛びだしてきている。 「おっと――」 ナツは一人目から危うく身をかわして、ついでに転びそうになったもう一人を支えてやった。小学校五年生くらいの、男女二人組である。 「危ないから、走るときはもうちょっと気をつけたほうがいいな」 丁寧に注意してやると、転びそうになった男の子のほうは深々と頭を下げた。ぶつかりそうになったのは、手前にいる女の子のほうではあったけれど。 「ごめんなさい。今度からは気をつけます」 ちょっと幼い感じはしたが、男の子は素直に謝っている。何となく、育ちのよさを感じさせる態度だった。 一方で、女の子のほうは特に反省するそぶりもなく、男の子にさっさと来るよう目で合図をしている。子供ながらに横暴さが板についていた。 「サクヤも謝ったほうがいいよ」 と、男の子は良識的にたしなめるが、女の子のほうは取りつく島もなかった。 「別にあたしは悪くないんだからね、ニニ。それより、早く行きましょ」 ニニと呼ばれた少年は、申し訳なさそうに悄然とうなだれている。ずいぶんと力関係がはっきりしているようだった。ナツはそれを見て、もういいよ、というふうに手で示してやる。男の子はもう一度だけ頭を下げて、女の子のあとを追った。 「…………」 どことなく似た雰囲気のある二人だったが、兄妹という感じではない。せいぜい仲のよい幼なじみ、というところだった。同じ惑星をまわる二つの衛星、というような。 けれど―― ナツはかすかな違和感を覚えていた。まるでその二人が、だまし絵か何かみたいに。本当はそう見えているだけで、本当はこの世界のどこにも存在などしていないのだ、というふうに。 それはたぶん、魔法によく似た感じでもあった。 「……いや」 と、ナツは小さくつぶやく。さすがにそれは、勘ぐりすぎというものだろう。そこにいるのはどう見ても、ごく普通の二人の子供でしかなかったのだから。 ナツは肩をすくめると、それっきり二人のことは忘れてしまった。黒板の落書きを、あっさりと消してしまうみたいに。そうして頼まれたプラモデルのあるコーナーへ、ゆっくりと歩いて向かった。
※
――だからもちろん、その二人があとでこんな会話をしていたなどとは、ナツには知るよしもないことだったのである。 二人は広いおもちゃ売り場の、別のコーナーのところに並んで立っていた。 「あれが、クラノナツ=H」 と、サクヤは訊く。ほとんど桜色の髪をした少女で、それを片側でくくっていた。どことなく、品のよい山猫といった雰囲気をしている。たった今、一欠片の夢の痕跡もなく目覚めたばかりのような、輪郭のくっきりとした瞳をしていた。 「――そうだよ。こんなところで会うなんて、ちょっと意外だったけど」 ニニと呼ばれていた少年のほうは、棚に並んだ商品を眺めながら答えた。 彼のほうは少女と違っていかにもおっとりとした、多少鈍重そうな表情をしている。ほっそりとした体格と、天使を思わせる顔つきをしていた。その容貌には、年季の入った古い機械で製造されたかのような不思議な柔らかさと温かみがあった。 「いいの、あのまま放っておいて?」 サクヤは前を向いたまま、唇を尖らせるように言った。見ため通りに感情表現の豊かな少女である。 「大丈夫だよ。その気になれば、いつでも殺せる。あの人の魔法については、もうわかってるんだから」 少年は無機質な表情とは裏腹の、ひどく物騒なもの言いをした。 傍から見れば、それは玩具を探すのに夢中になっている二人組の子供にしか見えなかった。仲のよい、どこにでもいそうな二人組。だが奇妙なのは、その会話が近くにいてもまったく聞きとれない、ということだった。 まるで、その二人のまわりからだけ、空気が抜きとられてしまったみたいに―― 「けど、意外なところで希槻さまの邪魔になるかもしれないわよ」 サクヤはあくまで、自説をひっこめようとしなかった。 「どうかなあ」 「それに、あのフユってのも何だか怪しいし」 「二人は同じ中学だし、別におかしくはないよ。どっちにしたって、それはボクらの仕事じゃない。放っておけばいいんだよ」 言われて、サクヤはうんざりした顔で首を振った。太平洋の真ん中にいても気づきそうな、わかりやすい表情である。目印としては便利かもしれなかった。 「あんたって、本当に面白みってものに欠けた性格してるわよね」 「そうかな」 別に罵倒される趣味があるのではないだろうが、ニニは平気でにこにこしている。どうやら、この二人は普段からそんな調子らしい。 「ボクにはよくわからないけど、でもサクヤはどっちかというと熱血漢て感じだよね」 「どうかしらね」 相手をするのも面倒そうに、サクヤは投げやりに答える。 「でも、そのほうが人間らしくていいよ」 そんなふうに言われて、サクヤは黙ってしまう。急に手の平に乗せられた、きれいな色の花びらの処遇に困るみたいに。 「……あ、これなんて可愛くないかな?」 不意にそう言って、ニニは天使みたいな無邪気さで玩具の一つを手に取った。 サクヤがのぞきこんでみると、そこには脳天を割られて血反吐をはきだしているような、熊か何か正体不明のおもちゃがあった。何に使うのかもよくわからなかったが、ひどく不気味なことだけは確かである。 「本気で言ってるの、それ……?」 いっそ悪夢でも見ているほうがましだとでも言いたそうな、サクヤの口調だった。 「うん、せっかくだから買っていこうかな。今日は何でも好きなものを買っていいって言われてるし」 サクヤはため息といっしょに、いくつかの言葉も力なく飲みくだした。たぶん、そのうち胃がうまく分解してくれるだろう。もしも自分の体に、そういう器官が備わっていればの話ではあったけれど。 「心配しなくても、ちゃんと仕事はするよ」 少女の表情をどう解釈したのか、ニニは励ますように言った。まるで、朝の挨拶でも交わすような気軽さで。 「執行者をやっつけるのなんて、本当にたいしたことじゃないんだから」
4
千條静(せんじょうしずか)は焦っていた。 仲間からの呼びだしだと思って指定された場所へ向かうと、いきなり魔法での攻撃を受けたのである。彼はすぐさま逃走に移ったが、敵の追撃は続いていた。おまけに、その正体は不明である。 千條は魔法委員会の執行者≠セった。 世界における魔法の存在を統轄するのが、魔法委員会の役目である。完全世界の失われたこの世界において、魔法の使用はその均衡を著しく危険に曝す。その力は、正しく制御されなければならない。 執行者は、そのための処置を実際に行う人間たちのことだった。魔法に関わる案件の調査、監視、処理が、その主な任務である。彼らには調査対象に関しての生殺与奪の権限さえ認められている。 そのため、本来なら彼らに対抗しようとする人間など存在しないはずだった。 はずだった、が―― (くそっ……!) 千條は路地裏を走りながら、道の分岐に差しかかるたびに幻≠出現させた。自分と同じ姿をしたそれを、別の方向へと走らせる。古典的な表現を借りるなら、それはいわゆる分身の術≠ニいうやつだった。見ためには、完全に区別はつかない。ただし魔法の揺らぎでは判別可能なので、自身にも一部に幻を重ねていた。 彼の魔法〈精霊工房(メルヘン・ビジョン)〉は、好きな幻を作りだすことができる≠ニいうものだった。幻像には動きをつけることも可能だったし、視認範囲でならリアルタイムでのコントロールを行うこともできる。ただしそうでない場合は、幻は数分で消滅してしまう。呼びだしの待ち伏せを回避したのも、この魔法によるものだった。 角を曲がるときに壁や障害物といった幻像も作りだしてみるが、追跡者を振りきれた様子はなかった。多少の距離はあったが、糸でもたぐりよせるような正確さであとをつけてくる。 時刻は真夜中で、街に人気はない。月の光はひどく無関心そうに空の上にあった。暗闇は迷惑そうに足音をやりすごすだけである。 逃走は不可能と判断して、千條はやがて覚悟を決めた。こうなった以上、相手を迎え撃つしかない。場合によっては相手の無力化――つまり、殺傷ということもありえた。 もう営業の終了したらしいアミューズメント施設の、立体駐車場へと足を入れる。三階部分まで階段をのぼると、明かりこそつけられていたが、駐車されている車はほとんどない。千條はすばやく幻の車をいくつか作りだすと、そのうちの一つに身を隠した。外周の付近で、そこからなら駐車場の全体を見渡すことができる。 執行者として、千條は魔法以外にも様々な訓練を受けていた。ピアノの消音ペダルでも踏むみたいに呼吸を整えると、腰に装着したヒップホルスターからH&K・USPを抜きだす。下手な魔術具を利用するよりは、こちらのほうがよほど実用的だった。 (さあ、来るならこい……) 千條は心音さえ低くなるように、息を殺している。今までの様子からして、おそらく相手はこの近くまではやって来ているだろう。 駐車場の電灯が、軽く音を立てて明滅した。飛んでいた蛾が、何かの拍子に地面へと落ちる。暗闇がいっそう深くなっていく気配があった。まるで、海の底へと世界が沈んでいくみたいに。 「……?」 と、不意に千條は奇妙なことに気がついた。 自分が隠れている幻の、その一部に不自然な歪みが生じている。水面に釣り糸をたらしたときの、ごく小さな波紋に似たものがそこにはあった。その場所で空気の屈折率がわずかに変化している、という感じである。 特に考えることもなく、千條はその歪みに手をのばした。 触れても、何の感触もない。指を離しても、状態は同じである。床にできた光の点に指を置いても、何の変化もないのと同じで。 けれど―― そこには、かすかな魔法の揺らぎがあった。 「――!」 気づいて、千條が立ちあがったときにはもう遅い。 彼の背後で、鉄柵の上に足を降ろすかすかな音が聞こえた。追跡者はどういう方法を使ってか、階段も使わずに直接その場所に飛んできたらしい。 もちろん、千條の潜伏位置を正確に把握して。 そう―― 千條が気づき、そして不用意にも触れてしまったかすかな空間の歪み。 それは、やはり古典的な表現を借りるなら鳴子≠ニ呼ぶべきものだった、追跡者は魔法を使って微細な糸状の振動波をはりめぐらし、触れたものの位置を検出していたのである。 だが、千條静がそこまでのことを理解したかどうかはわからない。 何故なら背後を振り向いた瞬間、胸に当てられた誰かの手によって、その心臓の鼓動は永遠に停止させられていたからである。まるで、ストップウォッチのタイマーを止めるみたいに。 彼が最後に理解できたのは、自分を殺したその相手が子供みたいな姿をしている、ということだけだった。 天使みたいに、ひどく無邪気な顔をした子供の姿を――
5
それから、数時間後のことである。 すでに深夜をまわり、ほとんどの人間は眠りについている。立体駐車場にはまだ明かりが残っていたが、それもやがては消えるだろう。どんなものにも、休息は必要だった。 駐車場の三階部分には、二人の男がいた。 あまり、柄のよくなさそうな二人組である。一人はコートに安物のスーツを着た、目つきだけがやけに鋭い小太りの中年男だった。もう一人はパーカーに派手な金髪をした、いかにも軽薄そうな若者である。 二人のあいだには、死体が一つ転がっていた。 それはもちろん、千條静のものだった。心臓は完全に停止している。体は死後硬直によって冷たく固まり、皮膚は間違った服でも着せられたみたいに白く変色していた。とはいえ、外傷も血の跡もないため、あまり死体らしい感じはしない。 もう四月とはいえ、夜になればそれなりに冷えこんだ。月の光は世界を温めてはくれない。じっとしていると、今にも息が白く凍りつきそうだった。 「……で、こいつはいったい何をしたんすか?」 金髪のほうが、しきりに体を揺すりながら訊いた。寒いせいもあったが、本物の死体を前にして緊張しているせいもある。 「さあな」 小太りのほうは、それに比べるとひどく落ちついていた。場馴れしている、という感じでもあった。 「売り上げ金でもくすねたんすかね?」 「いいや、こいつは俺たちなんかとはまるっきり違った理由によるらしいぞ」 金髪の質問に、小太りはかすかに含み笑いをして答えた。 「違う理由って、何すか?」 「魔法らしい」 言われて、金髪はきょとんとした顔をする。ひどく間の抜けた表情だった。 「何かの冗談すか、それ?」 「いいや、百パーセントまじらしい。詳しいことは俺も知らんがな。まあ、俺たちみたいな下っ端にゃわからん話だし、知る必要もないってことだろう――」 その二人組は、ある非合法組織の末端としてここにやって来ていた。単純な使い走りで、詳細などについては知らされていない。ただ小太りのほうは、この仕事が内容ほど疎かなものではないことは察していた。上のほうの幹部と何らかのつながりのある人物からの依頼で、そいつは「コウジョウ」という名前らしかった。わかるのはそれだけで、あとは男か女かも判然とはしなかったが。 それからしばらくして、スロープをのぼって車が一台やって来ていた。特にどうということのない白いワゴン車だったが、もちろん遊びに来たわけではない。 男たちに与えられた仕事は、死体の見張りとその処理だった。処理といっても、コンクリートで固めて海に沈める、といったことではない。それはこれから、ワゴン車に積んできたものによって行われる予定だった。 二人の前でワゴン車が停まると、中から男が一人降りている。二人と同じ組織に属する人間で、陰気そうな雰囲気に能面のような顔つきをしていた。男は指定された場所まである物を受けとりに行き、それからここまでやって来たのである。ひどく手間のかかる話だった。 「……例のものはもらってきたのか?」 小太りが訊くと、能面は黙ってうなずいている。 「ええ、後ろに積んであります」 後部ハッチを開くと、そこには倒したシートの上に細長い箱のようなものが置かれていた。何か複雑な装飾が施され、表面には漆塗りのような艶があった。その黒さは、夜の一番深いところからすくいとってきたようでもある。 それは一般的には、棺桶と呼ばれる形状をしていた。 消失魔法(バニッシュメント)≠フ魔術具―― それがそういうものであることを、むろん三人の誰もが知らない。知っていたとしても、理解することなどできなかっただろう。すでに魔法はかけられていたため、この場に魔法使いがいる必要はなかった。 「――で、こいつをどうするんすか?」 三人がかりでその箱を地面に降ろすと、金髪がいかにも頭の鈍そうな訊きかたをした。 「死体を放りこめって話だ」と、小太りが答える。 「そりゃ棺桶ですからね」 「ところがそいつに死体を入れると、体だけ消えてなくなっちまうらしい」 「……まじすか」 金髪は初めて見る昆虫でも目にしたみたいに、気味悪そうな顔で棺桶をのぞきこんでいる。 「ともかく、俺たちは指図通りに仕事をするだけだ――ところで、お前煙草持ってないか?」 小太りは能面のほうを向いて言った。 「ありますが、車の中ですね」 「悪いが、取ってきてくれるか。ちょうど切らしちまってな」 能面は文句も言わず、運転席へ戻っていった。そのあいだ、残った二人は死体と棺桶を見比べている。小太りが何か冗談を口にしようとした、その時―― 突如、轟音が鳴り響いた。 ほんの数メートル先に落雷が直撃したかのような破砕音である。空気を無理やり引き裂き、空間に風穴を開ける、そんな音の衝撃だった。 二人の心臓は幸いにして停止することはなかったが、もちろん同じくらいに驚いている。二人とももぐら叩きでもするみたいにすばやく、後ろを振り向いた。 そこには、一人の男が立っている。 ひどく、体格のよい男だった。身長は一メートル九十ほどもあるだろうか。ひきしまった体つきをしていたが、鈍重そうな感じは少しもない。そのたたずまいには、古代のギリシャ彫刻を思わせる力感があった。癖のある縮れた髪をして、顎髭を生やしている。全体としては、巨岩を割って根を張った樹木のようでもあった。 やや奇抜なトレンチコートに、真紅のレザーグローブ、それにワークブーツに似た靴をはいている。一見すると正体不明の人間だったが、それが妙に似あっているようでもある。 だが、異常なのは男の目の前にある光景だった。 そこにはフロントが大きく陥没し、フレームそのものも無残にひしゃげてしまったワゴン車の姿があった。まるで、一つ眼の巨人にでも踏みつぶされたような格好である。もはやドアなど開きそうもなかったが、そもそも運転席の男は茫然自失でしばらくは動けそうもない。 その異様な光景を作りだしたのが、目の前の男なのは間違いない。 が、それに類するどんな破壊兵器も、男が持っている気配はなかった。というより、こんな状況をどうやれば引き起こせるというのか。 「――誰だ、てめえは?」 混乱の中でもっとも早く我に返ったのは、小太りの男だった。とはいえ、歯車の狂った時計みたいに、声がうわずってしまうのはどうしようもない。 「お前らが、俺の名前を知る必要なんぞあると思うか?」 男は嘲笑うように告げた。 (くそっ――) 舌打ちしながら、小太りの男は胸元から拳銃を引き抜いた。こんな話は聞いていない。よくわからない話だとは思ったが、まさかここまでとは。 銃を向けられても、男に動揺する気配はない。むしろ、呆れたような表情を浮かべている。 ――おやおや。 とでも、言うように。 「おい、動くんじゃねえぞ。俺は脅しでやってるんじゃない。お前が何者か知らんが、舐めた真似しやがると、ぶっ放すぞ!」 小太りは恫喝した。が、 「やってみろ」 「……何?」 「やってみろ、そうすりゃわかる」 男は、不遜としか言いようのない顔をしている。 「この――」 恐怖や不審よりも、かっと来るほうが先だった。小太りは引き鉄を引いた。派手な炸裂音を響かせて、弾丸が発射される。小太りには自信があった。弾は間違いなく男に命中する。次の瞬間には、男は地面に倒れてうめき声をあげているだろう。 弾丸は確かに、命中した。 だが―― 小太りはもう一度、信じられないものを目にした。 高速度で射出された鉄の塊は、男の体に衝突すると甲高い音を立て、衝撃のほとんどを吸収して地面に落ちた。まるでパチンコ玉か、何かみたいに。 「どうだ、わかっただろう。そんなことをしても無駄だってな」 男は不敵に笑う。 続く小太りの判断は、早かった。この男は闇雲に銃を撃ちながら、急いで逃げようとした。もはやこれは、彼の手に負える話ではない。 けれど男の反応は、それよりなお早かった。 ボクシングでいう追い足とか、そういう次元の問題ではない。まるでカードゲームで一つ飛ばしを食らうように、一瞬後には小太りの襟首は締めあげられ、宙吊りにされていた。片腕で、スーパーの買い物袋でも掲げるみたいに楽々と。 小太りは空しく足をばたつかせ、苦しそうにうめいた。締めあげられたときに、銃は落としてしまっている。 「……は、離せ」 「こいつを殺したのは、お前たちじゃないな」 男は小太りの苦悶を頭から無視して言った。 「誰がお前たちをここに呼んだんだ? こいつを殺したのはどこのどいつだ?」 「――おい! 手を離しやがれ」 その時、不意にそんな怒鳴り声が響いている。 頭を向けると、そこには金髪の男が立っていた。手には、拳銃が握られている。小太りの落としたトカレフではなく、千條静の持っていたH&Kだった。どうやら、どさくさにまぎれてその銃を自分のものにしようと狙っていたらしい。 金髪はぎこちない顔で凄んでみせた。鏡がないのは幸いだったろう。 「や……めろ」小太りは苦しい息の下で言った。「俺が……いるんだ、ぞ」 「――――」 男は小太りを抱えたまま、無造作に後ろを向いて歩きだした。金髪の存在など目に入らないかのようである。 なめんじゃねえ、とお決まりのセリフを吐きながら、金髪は引き鉄を引いた。 が、かちかちと音がするだけで、いっこうに銃弾が発射される気配はない。慌てる金髪を尻目に、男は外縁の鉄柵へと近づいていった。そうして、一列に並んだ縦棒の一つを手につかむ。 どうするつもりかと小太りが訝っていると、聞いたこともないような音を立てながら、男は力任せにその棒を折りとってしまった。もはや、人間の仕業とも思われない。 その棒を片手に、男は小太りを地面に放り投げる。例え空っぽのスーツケースだったとしても、文句を訴えたくなるような手荒さだった。 地面に背部を強打した小太りは、すぐには身動きがとれない。金髪はまだ銃の扱いに窮したままだった。男は小太りのコートの裾を踏みつけると、その上から狙いを定めた。 小太りは慌てて後ずさろうとするが、男の足はコートの上でびくともしない。振りあげられた腕の先で、棒の先端がはっきりと体をとらえていた。暗がりで、男の表情は読めない。小太りは思わず目をつむった。 「待てっ、やめ――」 悲鳴は異様な物音で遮られている。 小太りは激痛を覚悟したが、意外にも何の痛みもない。恐る恐る目を開くと、もはや驚く気力もなくしてしまう光景が、そこには待っていた。 駐車場のコンクリートの床に、何の変哲もない鉄棒が深々と突きささっている。どこかの岩に刺しこまれていたという、由緒ある聖剣よろしく。 鉄棒はコートの股下のあたりを串刺しにしているため、小太りは身動きが取れない。冷静に対処すれば上着を脱げばいいだけなのだが、もはやそんな意志さえ喪失してしまっていた。 それだけのことをすませてしまうと、男は金髪のほうへと向かった。英雄に追われる亀ほども慌てた様子はない。 「使えもしないものを使おうとするのは、よすんだな」 それだけを言うと、男は金髪の首を抱えて強烈な膝蹴りをみまった。丹田を一撃されて、金髪は意識を保つのもおぼつかなくなる。 「――さて、あらためて質問だ」 男は死神に似た足どりで小太りのほうへと戻った。 「お前たちの依頼主は誰で、こいつを殺したのは何者だ?」 「知らねえ、知らないんだよ。俺たちはただ死体の処理を頼まれただけで、詳しいことは何も知らねえんだ」 小太りは刺さった鉄棒にすがって、細かく体を震わせながら喚いた。 「……本当か?」 「嘘じゃねえ。頼んできたのは、コウジョウとかいうやつだ。本当にそれ以上のことは知らねえ。もう勘弁してくれ――」 小太りの言葉に、男は顔をしかめた。その「コウジョウ」という言葉に。 なおも命乞いを続ける相手を無視して、男は死体の――千條静のほうへ近づいた。同じ執行者としての仲間だった彼のところへと。 それから携帯端末を取りだすと、男はどこかへ電話をかける。相手はすぐに出たらしく、「……千ヶ崎だな? 俺だ、室寺(むろでら)だ」と短く告げて、男はすぐに会話をはじめた。 「……ああ、千條のやつはやはり殺されちまったらしい。方法はわからん。見たところ外傷はない……わかってる。事態は思っていたよりずっと深刻だ……それから、もう一つ確定したことがある。相手はやはり、あの鴻城希槻らしい。例の情報源のこともあるが、たった今その名前を聞いたところだ……そうだな、早急な対策が必要だ」 それからさらに二言三言つけ加えて、男は通話を切った。途端に、夜の沈黙があたりを覆っている。鳥が、樹上の巣にでも戻ってくるみたいに。 「――今日のことは忘れろ」 男はそう言うと、棺桶と死体のそれぞれを担ぎあげた。 「それが、お前たちのためだ。魔法使いでない人間が、魔法に関わる必要はない」 「…………」 忘れろと言われたところで、そもそも誰一人目の前の事態を信じることなどできていなかった。朝、眠っているあいだに見たはずの夢を、思い出せないのと同じで。こんなことが、現実であるはずがなかった。 男が去っていくと、そこには半壊の車と、地面に突き刺さった鉄棒、狐につままれたような三人の男たちという現実のほかは、何も残っていない。 ――すべてのことは、幻でしかなかったように。
6
渋河弘章(しぶかわひろあき)は、政治家だった。 やや太鼓腹で頬のたるんだ、あまり健康的とはいえない風貌をしている。歳は六十近く。髪はすでに薄くなりはじめていた。地方議員を十五年ほど務めたのち、国会議員として当選。現在、三期を順調に重ね、近々行われるはずの解散総選挙においても、当選確実と言われていた。いわゆる、中堅議員というやつである。 多くの議員と同じで、渋河弘章は政治的理想など持ちあわせていなかった。国家機構は理想論では動かない、ということを知っていたからである。政治に必要なのはあくまで、実利と安定だった。 あくまで現実的なその彼は現在、来期に向けて忙しいはずの地方遊説を放りだして、ある屋敷を訪ねようとしている。 その人物の屋敷を訪れるときは、必ず相手の用意した車に乗せられることになっていた。車を運転するのは、秋原尚典(あきはらひさのり)といういかにも執事然とした初老の男である。ボンネットには、特徴的なマスコットが飾られていた。その車はあまりに静かで振動の少ないため、まわりの景色のほうだけが移動して、自分は少しも移動していないような錯覚に陥るくらいだった。 渋河はその人物の屋敷を何度か訪れたことはあったが、そのたびごとに案内される道順が違っているようだった。どうやら、そうした場所をいくつも持っているらしい。屋敷はどれも似たような造りで、人里からは離れていた。ローマ皇帝の別荘地でも思わせるような閑雅さである。あるいは、渋河の知らない屋敷がまだほかにもあるのかもしれなかったが、それをわざわざ知りたいとも思わなかった。 渋河を乗せてきた車は、やがて森に囲まれた屋敷の玄関でとまった。運転席の秋原が、わざわざ席から降りてドアを開けてくれる。渋河が車から降りると、その老人は車に戻ってそのままどこかへ行ってしまった。 一人残された渋河が屋敷の玄関に向かうと、そこにはある青年が待っていた。 大学生、というところだろう。この場にはちょっと不釣りあいな若さだった。そのくせ、かけ違えたボタンみたいな、浮ついた感じのするところはない。雰囲気や格好からして、使用人という感じではなく、古い言葉での書生というところだった。 「お待ちしてました。ここからは僕が案内します」 と青年は慇懃な態度で言う。けれどそこには、どこか相手の存在を軽視するところがあった。星々の距離や地質年代に比べれば、人間などたいしたものではない、というふうに。 渋河は青年に案内されて、屋敷の中を歩いていった。館内は恐ろしく静かで、まるでその静寂を作るためにこの屋敷があるかのようだった。たいそうなものだ、と渋河はこうした屋敷を訪問するたびに同じ感想を抱いた。 ほどなく、渋河は一室に通されている。青年はノックをしてから、返事も待たずに扉を開けた。そういうふうに指示されていたのだろうが、いかにも平然としすぎている。まるで禅の境地だな、と渋河は内心で青年のことを皮肉っぽく笑った。 彼のような人間に言わせれば、この場所はあまりに現実離れしすぎていた。芸術家気どりの連中がいくら真善美を主張したところで、世界の実勢はあくまで現実によって支配されているのだ。歴史がそれを証明している。世界は恐ろしく頑丈なのだ、と。 (……ふん、まあいい) 青年に続いて、渋河も室内に足を入れた。 執務室、とでもいうところだろう。飾り気のない部屋には、重厚な机だけが威圧的ともいえる質量で構えていた。調度品の類はほとんどなく、窓からの光だけが唯一の装飾とでもいうようである。明かりはつけられていなかったが、そのせいだけとは思えない、奇妙な種類の暗闇がその部屋にはあった。 「連れてきました、鴻城さん」 と、青年は告げた。まるで罪人を連行してきたような口ぶりである。書生にしても、こんなひどい口上はしないだろう。 「――ああ、ご苦労だったな」 机の向こうに座った人物は、それを咎めもせずに軽く手を振る。青年はうなずくと、部屋の隅へと下がっていった。 渋河は一瞬だけ、自分の気持ちを整理しなおした。そうしないと、この人物の前では何をされるかわかったものではなかったからである。まるで、悪魔とでも取り引きを交わすみたいに。 その男は悠然とした態度で、渋河のほうに目をやった。路傍の石を見るほどの好意さえ、そこからはうかがえない。その顔には冷笑という言葉さえ生ぬるいほどの、氷点以下の温度しか持たない笑みが浮かんでいる。 ――鴻城希槻。 それが、男の名前だった。 外見的には渋河と比べてまだ若い、四十にもなっていない年齢に見える。オールバック風の髪型に、ほとんど隙のない服装をしていた。その右手の人さし指には、特異な意匠の指輪がはめられている。心身ともに鋼か何かで鍛造されたような雰囲気で、恐れや反抗心を抱くまえに、それを諦めてしまいそうだった。もしも途方もない時間をかけて暗闇の一番深いところが結晶化すれば、こんな男ができあがるのかもしれない。 「久しぶりだな、渋河さん」 イスに座ったまま、鴻城は言った。渋河はもちろん立ったままである。位置的には見おろしているはずだったが、渋河には少しもそんな気はしなかった。 「ええ、半年ぶりほどになりますかね」 渋河はかみ終わったガムみたいに強ばりそうになる顔を、無理に微笑ませて言った。 およそ十年ほど前――それが渋河と鴻城が初めて対面したときである。その際、渋河は選挙戦に関するいくつかの援助を受けとっていた。主に、資金と人脈についてである。当選するのは当たり前の話だった。ダーツの矢を的まで歩いていって刺したようなものだ。 とはいえ、その援助がどこから湧いてでたのかは、渋河は知らない。打ちでの小槌か、例の触ったものが黄金になる王様の手でも持っているのかもしれない。渋河にとって、それは今もって謎でしかなかった。 そして何より、鴻城希槻というこの男は、その頃から少しも歳をとっていないように見える。まるで時間が停止して、十年という歳月など存在しなかったかのように。 (俺はやはり、悪魔とでも取り引きしようとしてるんじゃなかろうか) と、渋河は思う。だがそんな内心の疑懼を、彼は飲みくだした。ここが現実であることは間違いない。そして現実は決して崩れさることはない。 この世界に、魔法でも存在しないかぎりは―― 「今日お伺いしたのは、折りいってお頼みしたいことがありまして」 渋河は平身低頭の態度で言った。 「だろうな」 それに対して、鴻城はあくまで悠然としている。 「でなけりゃ、多忙な国会議員がわざわざこんな僻地にまで足を運んでくるわけがない」 鴻城の言葉に、渋河は眉一つ動かさない。この程度のことを気にする必要はなかった。 「……ところで、ここから先は内密の話をお願いしたいのですが」 そう言って、渋河は部屋の隅にいる青年のほうに目をやった。が、鴻城はにべもない。 「いや、そいつのことをあんたが気にする必要はない。というより、あんたのお頼みとやらにはおそらく、そいつが必要になるだろうからな」 渋河はやや不審そうな顔をしたが、もちろん文句を言える立場ではない。不承不承、そのことを受けいれた。 それから渋河は、一枚の封筒を取りだす。ごく一般的な、事務用のものである。彼はそこから、一枚の便箋を抜きだして机の上に進めた。 鴻城は面白くもなさそうな顔で、その便箋を手にする。 「やつの遺書だろう」 と、それが何なのか、この男はすでに予見していたらしい。 「おわかりなら、話は早い」渋河は言って、一挙にまくしたてた。「そいつは確かに、うちの親父が書いた遺書です。本来なら持ちだせる物ではないんですが、まあ特例というやつです。ところが、その遺書の内容というのが話にならないんですな。生前持っていた財産はすべて破棄、もしくは慈善団体へ寄附しろ、というんです。家族やお袋にも何も残さずに、です。どうやらあの男は、天国か地獄へでも財産を持っていけると勘違いしたらしいですな。ふざけた話だが、遺書は法的に正式なもので、私には手の出しようがないんですよ」 鴻城はやはり興味のなさそうな顔で、指に挟んだ紙をひらひらさせている。 「それで、俺にどうにかして欲しい、と」 「聞いていますよ」 と渋河は急にずるそうな顔つきをした。「あなたには、そういう力があると。それが何のことなのかは、私には見当もつきませんがね」 「…………」 鴻城は少し、黙っていた。秤に載せれば重さが量れそうな沈黙である。 「――あんたは、祖父江周作(そぶえしゅうさく)という男を知っているな」 「祖父江?」 知っているも何も、大学の同期で渋河にとっては一種の子分だった男である。何かと世話をしてやったことがあり、国家試験に合格して官僚になった今でもつきあいがあった。 「ああ、そうだ、その祖父江だ。あんたからそいつに、あまり派手な動きはするな、と伝えてくれ」 「派手な動き?」 反問は、しかし鴻城によって拒否されている。 「あんたがそのことを知る必要はない。あんたはただ、伝えてくれればいいんだ。俺のことを口にする必要もない――それが、あんたの頼みとの交換条件だ」 「……たった、それだけのことが?」 渋河は戸惑った。しかし、 「不満か?」 と訊かれて、壊れた人形みたいに大慌てで首を振る。そんな条件でいいのなら、渋河としてはこちらからお願いしたいくらいのものだった。 「もちろん、構いませんよ。これでも私は、あの男とは懇意ですからな」 まるで恩を着せるような口ぶりで、渋河は言った。 それはけっこう――と、鴻城はかすかな笑みを浮かべる。相変わらず温度というものを持たない、そんな笑顔を。
「――あれで、魔法委員会への牽制になるんですか?」 秋原に案内されて渋河が部屋から去ったあと、青年は訊いた。 「なるのさ」 鴻城は見慣れた文字の並んだ便箋を眺めながら言った。人生の最後に残すものとしては、頼りないほどの薄さである。 「俺は委員会という組織をよく知っているんだよ。何しろ、あれの創設に関わったのは俺自身なんだからな」 青年はその言葉に、返事をするのは控えておいた。魔法委員会が正式に発足したのがいつにせよ、相当の昔であることは間違いない。いったいそれに、どう鴻城が関わったというのか。 「それはともかくとして、だ」 と、鴻城はその紙を青年のほうに差しむけた。 「こいつはお前の仕事だ、清織。お前の〈神聖筆記(ヘヴン・デバイス)〉のな――」 〈神聖筆記〉 それは、記された文字を自由に編集する*v@だった。それが文字でさえあれば、肉筆、印字、刻字、いずれの種類も問わず、材質にも左右されない。古代の石版であろうと、電子書籍であろうと、完璧な改竄が可能だった。 「あの人とは、どういう知りあいなんです?」 清織は文章にざっと目を通すと、書き換えるべき文章のあたりで魔法の揺らぎを作った。ワープロでの編集作業でも行うように、何の痕跡もなく既存の文字列が変更されていく。 「やつとはじいさんの頃からのつきあいだ」 と、鴻城はこともなげにそんなセリフを口にした。 「三代そろってろくでなしだが、まあ俺にとってはどうでもいいことだ。実に現実的な連中だよ。反吐が出るくらいにな」 「父親のことを、憎んでいたようですね」 「ああ、無理もないな。憎まれて当然だろう。息子に輪をかけた、エゴの塊みたいな男だったからな。一種の精神異常というところだ。だが遺書に関しては、やつは読み違いをしている」 「読み違い、ですか?」 「あれはやつが突然、慈悲の心に目覚めたなんてものじゃない。おそらく、嫌になったんだろうよ。実業家として散々稼いできたが、虚しくなったのさ。気づくのが少々遅かったがな。やつにすれば、もう天国にも地獄にも持っていきたくなかったんだろう」 「何をです?」 「俺と関わったことを、だよ」 鴻城は即答した。 「…………」 清織は無言のまま、便箋を差しだす。鴻城は黙読でそれをチェックした。文言は、「遺産は法の定めたるところに従って分配されるべし」という毒にも薬にもならないものに変わっている。もちろん、改変の痕跡はどこにもない。いくら調べたところで、そんなものが見つかることはないだろう。 それから文章の末尾に、こんな一言が加えられていた。「本当の財産は、我が胸のうちに眠る――」 「何だ、この最後の一文は」 と、鴻城は吹きだして言った。 「少し花を添えておこうかと思ったんです」 清織はごくまじめな顔で、笑いもしない。 ふん、と鴻城は鼻を鳴らし、「――まあいいだろう」と便箋を机の上に放りだした。あの男がそんなことをいちいち気にするとは思えなかった。それどころか、最初からそう書いてあったのだと思うかもしれない。 「ところで、お前が結社に来てどれくらいになる?」 不意に、鴻城は話題を変えた。 「……七年ほど、ですね。懐かしいというような時間でもありませんが」 新月みたいな表情のない憎まれ口を、けれど鴻城はあっさりと無視した。 「何故、俺がお前を重用するかわかるか――?」 「便利だから、でしょう」 清織はしれっと、自らそんなことを口にする。 「そうだな、暇なときにはつまらん憎まれ口も聞ける」鴻城はにやっと笑った。「だが本当の理由は、わかってはいないだろう」 「何ですか、それは?」 「……聞きたいか?」 猫が鼠をいたぶるような鴻城の表情に、清織は軽く肩をすくめた。時計を見てどこかへ急ぐ兎を追いかけるような趣味を、清織は持っていない。 「どうせ教えてはくれないんでしょう?」 鴻城はその通りだというふうに、ふっと笑った。 「だがそうだな、これは言っておいてやろう。お前は俺によく似ている。心の芯から凍りついているところがな。それはいくら季節が巡っても、決して融けることのない氷だ。永遠と絶対の名においてな。そしてもう一つ、お前は何かを企んでいる」 「ずいぶんな言われようですね」 と清織はとぼけた。が、鴻城は言う。 「奈義真太郎のこと、俺が気づかないとでも思ったのか?」 「…………」 「まあいい」鴻城は何故か、それ以上詰問はしなかった。「お前は俺のいい退屈しのぎになる。お前はほかの連中とは違った形で完全世界≠求めているようだからな」 清織はやはり、返事をしなかった。井戸に放りこんだはずの石が、いつまでたっても何の音も立てないように。 紙を手に取って立ちあがり、鴻城は部屋を出ていこうとした。けれどその途中、ふと気づいたみたいにして口を開く。 「委員会の執行者として、室寺のやつが来ているらしい。俺が言うのもなんだが、あの男の〈英雄礼讃(モンスター・スペック)〉は少々厄介だ。委員会本部のほうには釘を刺しておいたが、場合によっては全面戦争になりかねん。その辺のことは、お前も覚悟しておくんだな――」 それだけのことを告げると、鴻城は今度こそ部屋から出ていった。 小さな音を立ててドアが閉まると、あとには清織と、いくらか密度の薄くなった暗闇だけが残されている。 清織はふと、窓の外に目を凝らした。春の陽射しは、こんな場所でも祝福するように輝いている。 「――覚悟なら、もうできている」 清織は誰に向かってでもなく、つぶやいた。 そう―― そんなものは、とっくの昔にできあがっているのだ。あの日の夜から、すでに。 永遠と絶対の名において。
7
河川敷には、ほとんど満開の桜が咲き誇っていた。その桜色は、風景そのものに色をにじませるような色調をしている。風が吹くと、まるであたりを彩色するみたいにして花片が散っていった。すべてのものを淡く、白く、世界の成り立ちそのものを柔らかく揺らしながら。 「…………」 牧葉清織はそんな土手ぞいの道を、ゆっくりと歩いていた。 春の世界とは対照的に、この男の周囲だけがどこか暗かった。まるで夜の一部が、そこにだけ残っているかのように。 華奢というよりは、普通の人間なら必要とするものを身につけなかった、という体つき。月の光で描いたかのような、怜悧な面立ち。どこといった変わったところがないにもかかわらず、その存在は零と一のあいだほども世界と隔たっている。その顔には笑顔を作っただけでも壊れてしまいそうな、そんな表情が浮かんでいた。 土が剥きだしになった道を、清織は歩いていく。両側の桜の木から影が落ちて、空気は少しひんやりとしていた。春の陽気は、その向こう側にある。 しばらくすると、そこにはベンチが置かれていた。誰かが忘れていったような、くすんだ色をしたプラスチック製のベンチである。 そこに、少女が一人座っていた。 「――遅いよ、お兄ちゃん」 彼女――牧葉澄花は、口調だけは怒ったようにして、けれどその表情は間違って崩してしまったドミノみたいに、どうしようもなく笑っていた。 「秋原さんに近くまで送ってもらったんだ。でも確かに、ちょっと遅れたね」 清織は時計を確認しながら言った。 「いつから一時間≠フことをちょっと≠チて言うようになったのかしら?」 そう言われて、清織は苦笑するしかない。 「だから、たぶん時間通りには来れないって言ったのに」 「でも遅刻は遅刻だからね」 澄花は容赦しなかった。 「ごめん、謝るよ」 素直にそう言って、清織は澄花と同じベンチに座った。そこからは、一段下がった河川敷と、天橋市の中心を流れる白砂(しらさ)川が見てとれる。頭上では、桜の木が風に揺れていた。 「あんまり遅いから、お団子全部食べちゃおうかと思ってたところだよ」 澄花は言って、持っていたプラスチック容器を清織のほうに差しだした。 容器の中にはちょうど半分だけ、和菓子が残っている。澄花らしいと思って、清織にはおかしかった。例え飛行機が砂漠に墜落して死にそうになったときでも、彼女はやはり、持っている水をみんなで分けるのだろう。 「どう、美味しい?」 清織が串団子を食べるのを見て、澄花は訊く。 「……まずくはないよ」 けれど返ってきた感想は、ひどくそっけなかった。大体においてこの青年は味音痴で、食べものの味にはまるでこだわらなかった。一種の健啖家だったが、料理人としてはもっとも腕の振るいがいのない相手でもある。 それでも澄花は、飽きもせずにいつも感想を求めた。 「――総志じいちゃんがいたら、喜んだだろうな」 清織は河川敷を眺めながら、ぽつりとつぶやくように言った。 「うん、そうだね。おじいちゃん、こういうのが好きだったもんね」 澄花もどこか遠い目をして、それに答える。 二人のあいだを、古くて懐かしい時間が流れていた。河川敷では兄妹なのか、二人の子供が走って遊んでいる。そんなすべてを、春が桜色に包んでいた。 「……そういえば、宮藤くんに会ったよ」 と、澄花は不意に言った。 「ああ、どうだった?」 清織は桜餅を葉っぱごと頬ばりながら訊いた。その様子は、裁断機が紙を細かくしているのにどこか似ている。澄花はちょっと笑いながら言った。 「いい子だったよ。強くて、素直で――私たちとは違ってる」 「そうか――」 河川敷では二人の子供が、舞い散る桜の花びらに手をのばしていた。まるで、幸福の欠片でも摑もうとするみたいに。一人の指先が、その小さな花片を手にする。けれどそれはやっぱり、ただの何の変哲もない白い花びらであるにすぎない―― それから少しだけ、時間が流れた。世界がより桜色に染まるだけの時間が。 「――もうそろそろ、終わりかもしれない」 清織はそっと、もう壊れてしまった玩具でも手渡すように言った。 それに対して澄花は何の迷いもなく、北極星が今もそこにあるのと同じくらいの確かさで答えている。 「清織といっしょなら、私は何も怖くなんてないんだよ――」
はじまったばかりの季節の中で、桜は確かに散っていく。
|