[最後の終わり]
1
春の陽射しは重さのない雨みたいに、柔らかく地上に注いでいた。仕事の途中だとでも言いたげに、風が急いで吹きすぎていく。空気の層が薄く剥がされたように、そこにはかすかな冷気が感じられた。 ハルは大きく、そっと息をすいこむ。そうすると、少しだけ体が軽くなったような気がした。もちろん、そんな気がするだけのことだ。地球の重力はそう簡単に変化したりはしない。でも、そんな気になれるのが春のよいところだった。 「――準備はいいのか?」 玄関の扉が閉まる音がして、父親の恭介が鍵を閉めながら声をかけてきた。ハルはその先に、一人で立っている。何となく、入学式に向かう日の朝みたいでもあった。 「うん――」 と、ハルは体の向きを変えてうなずく。 「父さんこそ大丈夫なの? 免許証とか、ガソリンとか」 「……うむ」 恭介は逆らいもせず、ポケットを探って財布を取りだし、車のドアを開けてメーターを確認した。「問題ないな」 「じゃあ、行こうか」 二人が車に乗ると、エンジンがかけられた。春の微睡みから覚まされたような鈍い音を響かせて、エンジンは回りはじめる。車はゆっくりと、玄関先から道路のほうへと向かった。 フロントガラスから射しこむ光が変化して、コップの水を傾けたみたいに影の位置が動いていく。粒の丸くて大きな光が、そこら中を輝かせていた。ちょうど、春の真ん中にでもいるような感じに。 「……俺は魔法使いじゃないから本当のところはわからないんだが、いくつか気になることがある。そもそも、その牧葉清織という男は何をしようとしているんだ?」 車が通りに入ったところで、恭介はハルに向かって訊いた。 「それはまだ、わからないんだ」ハルは前を向いたままで答える。「あの人にとってこの世界は不完全すぎる、ということ以外は。でも、だからといって何もかも壊してしまおうっていうわけじゃないと思う。あの人は、たぶん――」 「たぶん?」 「――物語の形を、正しくしたいんだよ」 恭介は道路のカーブにあわせて、わずかにハンドルを切った。もちろん魔法使いでない彼にとって、話のすべてを理解できるわけではない。 「しかし、その男は危険じゃないのか?」 坂道を降りた赤信号で、車はいったん停止した。 「よくわからんが、世界を自由にできるほどの魔法が使えるんだろう?」 ハルはちょっと眠るような姿勢でシートにもたれていたが、やがて口を開いた。 「それはたぶん、大丈夫だと思う」 「――何でだ?」 「力の差がありすぎるからだよ」 信号が変わって、車は発進した。 「ライオンはウサギを狩るのには全力を尽くすかもしれないけど、ハエを追うのに無駄な力を使ったりはしないだろうから」 道なりに進むうち、建物が増えて、車の数は次第に多くなっていった。いつもながら、世界には不思議なほど大勢の人間が暮らしていた。 「……未名がいれば、お前の力になってやれるんだろうがな」 と、恭介は不意に言った。ずいぶん昔、とある魔法使いからそんなことを言われたことがある。「ハル君の、力になってあげてください」と。けれど魔法使いだった母親とは違って、恭介にそれは無理な話だった。 街中で、ちょうど信号が赤に変わった。歩行者用の横断歩道で、くたびれた心臓みたいな電子音が響く。老人や若者や子供が、それぞれのペースで道を渡っていた。 「――父さんは、どうして母さんと結婚したの?」 空中に何かが書かれているのに気づいたとでもいうふうに、ハルは言った。 「ずいぶん唐突だな」 恭介は笑う。そして光の落下点でも追うように、前のほうを見つめた。 「今度ゆっくり話してやる、と言いたいところだが――さて、何でだったかな」 信号が変わり、時間はのろのろと流れはじめた。車は加速を終え、流れの速さは一定する。風景は同じ足どりで通りすぎていった。開いた窓から、音を立てて風が吹きこんでいる。 ――やがて、恭介は言った。本当なら、すぐにでも答えられたその言葉を。 「未名は確かに、世界を愛していたよ。それがどんなに不完全なものだったとしても――だから俺は、彼女のことを好きになったんだ」 世界は無言のまま、ただその役割と法則に従って運行され続けていた。重力は見えない力で働き、光は絶対速度で直進していく。季節はやがて、春の終わりへと向かうだろう―― その時、どこからか桜の花びらが一枚、車内に舞いこんできた。ほとんどの桜は散ってしまっていたけれど、どこかにまだ花が残っていたらしい。 「――春だな」 と、恭介はその小さな花片を見て言う。 「もう、しばらくはね――」 ハルは花びらをそっと手で受けとめて、答えた。
2
鴻城の屋敷には、すでにアキとナツの家族が到着していた。階段の下にある同じ場所に車をとめて、ハルと恭介は屋敷のほうへと向かう。 中庭に近づいたところで、何か言い争うような声が聞こえてきた。空中に釘でも打ちこむような、あまりこの場所にはそぐわない音声である。ハルと恭介はちょっと顔を見あわせてから、そのまま道を進んでいった。 その場所で声を荒げていたのは、アキの父親である水奈瀬慎之介だった。とはいえ正確には、それは一方的にしゃべりたてているのであって、言い争っているわけではない。 「何故、うちの娘がそんな危険なことをしなくちゃなんらんのだ?」 と、慎之介は言った。りゅうとした身なりで、いかにも頼りがいのありそうな風貌をしている。その物腰には、強風の前で身じろぎもしない鷹とか鷲に似た何かがあった。 底響きのするその声が向けられているのは、ウティマだった。世界そのものを怒鳴りつけるというのもたいしたものだったが、アキの父親にそれを気にした様子はまったくない。 「世界の行く末もけっこうだが、そんなものはどこか他所でやってくれ。少なくとも、うちの娘とは関係がない」 言われて、ウティマは閉口気味に沈黙している。彼女にも、馬の耳に聞かせるような言葉は持っていなかった。 「何度も言うておるが、そういうわけにはいかぬのじゃ」 ため息をつくように、ウティマは言った。 「――なら、せめて私を行かせてくれ」慎之介に引きさがる気配はまったくなかった。「そいつとは私が話をつけてくる」 「じゃから魔法使いでないお主には、それは無理な話じゃと言うておろう」 魔法のことについては、すでに水奈瀬慎之介には説明されてあった。何しろ彼は、出張先の海外からウティマに連れられて一瞬で自宅に移動する、という体験をしているのである。そのことについて、理解できていないはずはない。宇宙から地球を眺めて、それが平面だと思う人間がいないように。 にもかかわらず、この男は一貫してその主張を変えようとはしなかった。 「アキはまだ中学生なんだぞ。そういうことは、もっと責任ある立場の人間が対処すべきだ」 「――まあまあ、水奈瀬さん」 と、横から口を挟んだのは、ナツの父親である久良野樹だった。学者風の、いかにも穏やかな目をしている。慎之介とは好対照というところだった。 「僕らには信じられないような話ですけど、これは子供たちにしかできない役目なんですから」 「ですが、久良野さん。みんなまだ子供なんですよ」 「可愛い子には旅をさせろ、と言いますし」 「それとこれとは話が別です――」 ウティマの前で、二人は不毛な議論を続けていた。少し離れたところでは、母親たちが井戸端会議に興じている。平和なのか殺伐としているのか、よくわからない光景だった。 「俺は参加しなくてもいいよな?」 恭介はウティマのほうを見ながら、軽く冗談めかせて言った。ハルはちょっと肩をすくめるだけである。 その場には、アキとナツの家族がいた。本人や両親はもとより、アキの弟や、ナツの家で暮らす少女の姿もある。当然だが、サクヤも。ほかには、室寺と朝美、来理と神坂もそこにはいた。 二人は来理もいる母親たちのほうへと向かった。地雷原を避けるみたいに、ウティマたちは遠まきにしておく。もちろん、答えはもう出ているのだ。今さら何を話しあったところで、それを変えることなどできはしない。 全員と簡単な挨拶を交わしたあと、恭介は来理と少し話をした。ハルのほうは、アキやナツといっしょになる。フユは少し遅れているようだった。 「……何だか、いよいよだね」 アキはどちらかというと、ぼんやりとした声で言った。緊張していいのかどうかもよくわからない、というのが正直なところではある。 「まあ、どうなるかはやってみないとわからないからな」 概ね似たような口調で、ナツも言った。もう見えなくなった、紙ひこうきの行方を想像するみたいに。 「――けど、ぼくたちはここにいる」ハルはそっと、自分に向かってつぶやくように言った。「いくつも季節を越えて。それだけは、確かなことだよ」 ハルの言葉を聞いて、ナツはふと思い出したように口を開いた。 「そういえば、アニメの主人公が言ってたよ」 「……?」 「あの星がどんなに遠くにあるにしても、その光はここまで届いた。とてもとても長い時間と距離を旅して、それでもその小さな光の一粒は、僕たちのところにまで届いた、って――」 三人とも何となく、空を見あげた。青空に隠されて見ることのできない、けれど確かにそこにあるはずの遠い光を探して。 やがてフユと、彼女の母親である志条夕葵もやって来た。その頃には議論の火もほとんど消え、多少くすぶる程度になっている。慎之介にしたところで、結局はこれが魔法の問題なのだと理解するしかなかったのである。 必要な人間がすべてそろったところで、室寺が少し話をした。かなりの大所帯になってしまったが、これから世界の運命が決められることに変わりはない。 「――俺は魔法委員会の室寺という者です。今回のことには、不満や不服のあるかたもおられるでしょうが、残念ながら俺たちにはほかに方法がないのが現状です」 慎之介が何か言おうとしたが、隣で幸美がそれを制している。基本的に、水奈瀬家では女性のほうが強いようだった。室寺は咳払いを一つしてから、あらためてその場にいる全員を見渡して言った。 「牧葉清織が何を望んでいるのか、はっきりしたことはわかっていません。やつの言う世界の死がどんなものなのかは。けれど完全世界と不完全世界のどちらが選ばれるかは、公平に決められる必要がある。それができるのは、子供たちだけだ。完全魔法を持った、子供たちだけ。だから俺たちの運命は、この子たちに任せるしかない……いや、違うな。この子たちの存在が、運命そのものなんだ。俺たちはただ、その結末をここで待つことしかできない――」 室寺はそう言うと、ハルたち四人とサクヤを呼びよせた。何かの代表として訓示でも受けるみたいに、五人はそこに並ぶ。 「あとは、お前たち次第だ」 五人は顔を見あわせて、それからハルがみんなのほうを向いて口を開いた。 「――ぼくたちは、この不完全世界を守りたいんです。この世界であった、すべてのことを」 世界の在りかたを決定するサイコロは、もうすぐ振られようとしていた。
3
東屋の中には、アキが一人でいた。ほかの全員は、外からそれを囲んでいる。 アキはヴァイオリンを持って、ウロボロスの輪≠フそばに立っていた。ちょっとしたコンサートのような雰囲気だったが、あながち間違っているわけでもない。 まわりに向かって一礼したのち、アキは左肩と顎先でヴァイオリンを押さえた。調子を見るために何度か弓を動かし、空気を音に馴じませるように弦を振動させていく。音が響くほど、あたりは静かになっていった。アキは最後に、空気を整えるみたいに一音だけ長く弾いた。 それから弓を離して、十分な静寂が戻ってくるのを待つ。 ――やがてアキは、例の曲を弾きはじめた。 ヴァイオリンは正確に音を連ねていく。文字が文章になり、文章が物語になるように、音は旋律になり、旋律は曲へと変わっていった。それは楽譜通りの、やや単調で面白みのない音楽だった。甘く歌うことも、悲しく叫ぶこともない。どちらかといえばそれは、子守唄のような静かで穏やかな曲想をしている。 アキは曲にあわせながら、魔法の揺らぎを作っていった。ちょうど、来理との訓練でイメージしたような感覚で。揺らぎはウロボロスの輪≠ノ伝わり、次第にそれを活性化させつつある。訓練の成果は十分に発揮されているようだった。 演奏自体は、一分もかからずに終わってしまう。最後の一音を響かせると、アキはその行方を見届けるようにしてゆっくりと弦から弓を離した。 魔術具に変化が起きたのは、そのすぐあとである。 ガラスの輪が支柱からわずかに浮きあがり、緩やかに回転をはじめる。輪の中に光の濃度の違いが生まれ、シャボン液にでも通したような膜が張られていた。魔術具が活性化されるのは、一定時間だけである。ここからは、あまりのんびりはしていられない。ほかの四人も東屋の中に入って、ウロボロスの輪≠フ前に立った。 ウティマが、五人に向かって最後の忠告ともいうべき言葉をかける。 「念のために言っておくが、牧葉清織を倒すことは不可能じゃぞ。あやつには完全魔法≠ニソロモンの指輪≠ェあるからの。それがあるかぎり、あやつは文字通りの不死身じゃ。あの指輪には、向こう側で永遠を手に入れる力があるからの」 五人は了解したというふうにうなずいた。ナツでさえ、さすがに軽口を返すことはしない。 ウロボロスの輪≠ノ入る順番は、事前に決めてあった。サクヤ、ハル、ナツ、フユ、アキの順である。サクヤが最初なのは、戦闘能力を考えて。アキが最後なのは、魔術具の効果が切れたときのことを考えてだった。 手はず通りに、まずはサクヤが回転する光の輪の前に立った。 「――いってらっしゃい、サクヤちゃん」 と、アキの母親である幸美が声をかける。ここ数日、彼女はサクヤを連れまわしてご満悦だった。もちろん、彼女はサクヤの生命がもう尽きようとしていることなど知らない―― サクヤは幸美のほうを見て、けれど何も言わずに頭だけを下げた。擬態した昆虫みたいにわかりにくかったが、感謝の気持ちを込めた表情を浮かべて。 そしてそのまま輪をくぐると、サクヤの姿は手品のように消えてしまう。彼女の体は完全世界のある向こう側へと、移動したのだ。 次に、ハルがその前に立った。 「――ハル」 と恭介が少年に向かって声をかけている。 「用が済んだら、なるべく早く帰ってくるんだぞ」 ハルは少しだけ笑って、答えた。 「――うん、いってきます」 そしてハルは、光の膜を通り抜けた。 変わった感じは、どこにもない。 気温も、気圧も、湿度も、光量も、臭気も、音響も、触感も、時間も、重力も、光の速さも、およそ変わりはない。 ただ、そこには――
――宮藤未名が、いた。
4
台所には、未名が立っていた―― いつも通りの、家の居間だった。朝のまだはじまったばかりの時間の中で、いろいろなものの存在がぼんやりとしている。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、やけにはっきりしていた。 「おはよう、ハル。今日もいい天気になりそうね」 と、未名は言った。太陽よりも少しだけ早く朝を告げる、その笑顔を浮かべて。 「――うん、おはよう」 ハルはパジャマ姿のまま、テーブルのイスに座った。用意されていたコップに、牛乳を注ぐ。 そのあいだ、未名は台所で鼻唄を歌いながら料理を続けていた。ハルは牛乳を飲みながら、何となくその姿を眺めている。 ちょっと癖のかかった髪は、今は邪魔にならないようにくくってあった。動作の一つ一つが軽快で、まるで何かの楽器を奏でているみたいでもある。表情は明るく、新鮮で、保存のために加工された形跡がなかった。その瞳は、見られているだけで温かくなりそうなまなざしをしている。 それはいつもの、未名の姿だった。 いつも通りの―― ハルが牛乳を飲み終えてしまう頃、未名が朝食を運んできた。 いただきます、と言ってから、ハルはそれらを口にする。朝食を食べるにつれ、体が徐々に朝に慣れてくるようでもあった。未名もその前で、自分の食事を進めている。 「……そういえば、夢を見たんだ」 不意に、ハルはそんなことを言っていた。 「へえ、どんな夢?」 未名は興味深そうにハルのことを見つめる。 それがどんな夢だったかを説明しようとして、けれどハルは何の言葉も出てこないことに気づいた。自分がどんな夢を見ていたのか、ハルにはうまく思い出せなかった。つさっきまでは、あんなにはっきりと覚えていたはずなのに―― 「どうかしたの、ハル?」 訊かれて、ハルは首を振った。 「……ううん、もう忘れちゃったみたい」 「変なハル――」 未名はそう言って、おかしそうに笑った。 やがて恭介が部屋から起きてきて、二人のテーブルに加わった。未名は恭介のぶんの朝食を準備するために、台所を行ったり来たりしている。それは確かに、いつも通りの母親だった。彼女が朝を連れてきてくれる。 そう―― 何に違和感があったのか、ハルは気づいた。それは夜空の星が数ミリだけずれているような、ごく些細なことではあったけれど。 「母さん、何だか歳をとった?」 言われて、未名はちょっと嫌そうな顔をして手をとめる。 「あんたそれ、罰金ものよ――」 そうして未名は小さく笑いながら、ハルの頭を軽く小突いてみせた。
中学校までは自転車だった。ごく普通の通学路で、怪物の棲む洞窟もなければ、頑固な渡し守や頭の三つある犬がいるわけでもない。ハルは自転車に乗って、ペダルをこぎはじめた。風景が動きだして、風が流れていく。 途中、横断歩道で待つ小学生の一団といっしょになった。子供たちは巣の世話をするミツバチみたいに一塊になっている。 やがて信号が変わると、子供たちは手を離された風船みたいにいっせいに駆けだしていった。向こう側で、先頭の子が誇らしげに後ろを振り返る。彼は自分の作った景色に満足しているようだった。 学校に着くと、ハルは駐輪場に自転車をとめて、何人かの知りあいと挨拶しながら三年の教室に向かう。自分の席に着くと、隣にいた女子生徒が話しかけてきた。 「――ねえ、昨日の数学の宿題やってきた?」 教科書やらノートを机の上に出しながら、ハルは答える。 「うん、一応は」 「このグラフの問題、よくわかんなかったんだけど」 と言って、彼女は配られたプリントのうちの一問を指さしてきた。二次関数のグラフに関する問題だった。 「これはまず、二点の座標を求めるんだよ――」 ハルはいったん荷物をそのままにして、丁寧に説明してやった。彼女はふむふむと、うなずきながら熱心に聞いている。 やがて午前中の授業が終わると、昼休みの時間がはじまった。ハルのところに、男子生徒の一人が昼食を持ってやって来る。二年から同じクラスで、昼休みは大抵この少年といっしょに食事をした。 適当に世間話をしながら、二人は昼食を進めていく。少年のほうは学校に来る途中で買ってきたパン、ハルのほうは母親の作ってくれた弁当だった。 「相変わらずうまそうだな、お前の弁当」 どこかのもの欲しそうなクマみたいに、少年はハルの弁当をのぞきこみながら言った。 「うん――」 ハルは半分ほどを丁寧に食べ終えたところである。 「……その卵焼き、俺に食われたがってる気がしないか?」 と、少年はやや油断のならないもの言いをした。 「得ようと欲すれば、まず与えよ――って誰かが言ってたよ」 気にせず、ハルは食事を続ける。 「愛ならあるぞ?」 言われると、しれっとした顔でハルは答えた。 「食べられるものでないと」 ――放課後になると、ハルは図書室に向かった。昔読んだことのある本で、ちょっと確認したいことがあったからである。 図書室までの廊下は静かで、何かが音もなく死んでいくような気配があった。時間が次第に速度をゆるめ、進むべきか戻るべきか、迷っているみたいに。 ハルが図書室のドアを開けると、室内はがらんとしていた。受付けで委員らしい女子生徒が一人、熱心に本を読んでいた。どこかの豪華客船が沈むときでも、おそらく彼女はそうしているのだろう。 本棚のあいだを静かに歩きながら、ハルは目的の本を探した。本たちは夜の星座みたいに、定められた場所に収まっている。探していた本は、きちんと見つかった。 ハルはその本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。もちろん、本の内容は昔と変わっていなかった。そのセリフも――『ぼくは死んだようにみえるかもしれないけど、でもそれは本当のことじゃないからね……』 それから、部活に参加する。友達とのつきあいで入った同好会のようなものだったが、それなりに熱心に続けていた。役に立つかどうかはともかく、体を動かすのは良いことである。 帰り道では、まだ青空が続いていた。何かが積みかさなって、重くなった空だった。ちょっと手を触れてみれば、音を立てて崩れてしまいそうに思える。そして誰かの復讐が完了したみたいに、やがて夕暮れがやって来るのだ。 ハルは家の近くまでやって来ると、自転車から降りて歩きはじめた――
――それからハルは、泣きはじめた。まるで体のどこかが切られて出血でもしたみたいに、涙がとまらなかった。誰かに見られたら困るのはわかっていたけれど、ろくに顔を拭うこともできなかった。 泣く理由なんて、どこにもないはずだった。何かが壊れたわけでも、何かを失ったわけでもない。そんな理由なんて、あるはずがなかった。 なのに―― なのに、どうしてだか―― 涙がとまらないくらい、悲しかった。 まるで、大切な本のページを破り捨ててしまったみたいに。 まるで、大切な記憶が失われていくみたいに。 ハルは声も立てずに、泣き続けた。道なんてろくに見えないまま、足だけを動かす。家まではもうすぐだった。それでも、誰かに胸でも押さえつけられているみたいに、涙がとまらなかった。 どうやって家に帰ったのかは覚えていない。 けれど気がつくと、ハルは未名の前に立っていた。涙を零しながら、それを我慢するように唇を固く結んで、うつむきながら。 床に落ちた涙は、驚くほど大きな音を立てた。 「どうかした、ハル――?」 宮藤未名はそう言って、ハルの涙にそっと指をあててやる。 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。 「――悲しいことが、あったんだね」 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。 「――辛いことが、あったんだね」 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。 未名は何も言わずに、そっとハルを抱きしめてやった。すべてのことから守るように。すべての災いを遠ざけるように。 「きっと大丈夫だから。ハルはきっと、大丈夫――」 その声を聞いて、ハルはとうとう声をあげて泣きだしてしまった。自分の中のどこから、そんなにたくさんのものが溢れてくるんだろうと不思議になるくらいに。そんなにたくさんのものを零してしまって、大丈夫なんだろうかと不安になるくらいに。 けれど、今は―― 今だけは―― 「ハルはおかしな子ね」 鈴の音を鳴らすみたいな、未名の声が聞こえる。 自分がどうして泣いているのか、ハルはようやくわかることができていた。 ハルはただ、嬉しかったのだ。涙以外では、表せないくらいに。悲しむこと以外、できないくらいに。 どうしようもないくらい―― ハルはただ、幸せだった。
※
ハルが目を覚まして一階に降りてみると、台所には未名が立っていた。 いつも通りの、朝の時間である。まだはじまったばかりの一日の中で、いろいろなものの存在がぼんやりとしていた。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、やけにはっきりしている。 「おはよう、ハル。今日もいい天気になりそうね」 と、未名は言った。太陽よりも少しだけ早く朝を告げる、その笑顔を浮かべて。 「――うん、おはよう」 ハルはパジャマ姿のまま、いつものようにテーブルのイスに座った。用意されていたコップに、牛乳を注ぐ。
………………
ハルは自転車に乗って、ペダルをこぎはじめた。風景が動きだして、風が流れていく。 途中、横断歩道で待つ小学生の一団といっしょになった。子供たちは巣の世話をするミツバチみたいに一塊になっている。 そのうち、二人だけがほかの子供たちとはどこか違っていた。別の惑星をまわる、二つの衛星みたいに。 「あんた、いつまでこんなところにいるつもりなの?」 二人のうちの一人が、どうしてだかハルに話しかけてくる。 「え……?」 ハルはその子を見た。勝気そうな瞳に、ついさっき気に食わないことでもあったみたいな、不機嫌そうな顔つきをしている。見覚えはないはずだった。少なくとも、ハルの記憶に彼女の姿はない。 やがて信号が変わると、子供たちは手を離された風船みたいにいっせいに駆けだす。けれど横断歩道のこちら側では、ハルと女の子だけが取りのこされたようにじっと佇んでいた。 「こんなことをしたって、意味なんてない。ニニはもうこの世界のどこにもいないし、どこを探したって見つかりはしない。それは、あんたのおばあさんだって知ってたことよ。だったら、あんただってそれは知ってるんでしょ?」 「…………」 「とりあえず、あんたが戻ってこなくちゃ、あたしはあいつに仕返ししてやることもできない。だからできるだけさっさと、こんな場所からは出てきてもらわないとね」 女の子はそう言うと、点滅しはじめた信号を向こうへ渡ってしまった。横断歩道の向こう側には、彼女とよく似た感じの男の子が待っている。二人は長い時間のはてにようやく会えたとでもいうふうに、親しげな様子でどこかへ歩いていく。 ハルの前で、信号はいつのまにかまた赤に変わっていた。
………………
学校に着くと、ハルは駐輪場に自転車をとめて、何人かの知りあいと挨拶しながら三年の教室に向かった。自分の席に着くと、隣にいた女子生徒が話しかけてきている。 「――おはよう、ハル君」 それは、いつもの女子生徒ではなかった。知らない女の子だ。さっぱりしたショートカットに、陽だまりの欠片を溶かしたような瞳をしている。ひどく元気そうな少女だった。 「……あれ、ハル君わたしのことも忘れちゃったの?」 「えっと、ごめん誰だったっけ?」 言われて、彼女は自分の姿を眺めている。知らないうちに、ロバの皮でもかぶっていたんじゃないかというふうに。 「まあ、無理もないよね」 彼女は諦めたように、軽くため息をついた。 「何しろこのお話だと、わたしたちとハル君が会うことはないんだから。ハル君がわたしたちのことを覚えてなくても、仕方のないことではあるんだよね」 「…………」 「ハル君がここにいたいのはわかるよ。何しろここは、一番の願いが叶った世界なんだから。でもね、ハル君。願いごとがみんな叶ってしまうっていうのも、考えものではあるんだよ」 彼女はそう言って、立ちあがった。魔法の解ける時間に気づいたみたいに。 「――わたしとしては、できればもう一度ハル君に会いたいと思うだけなんだけどね」 最後にちょっと微笑むと、彼女は教室の外に行ってしまった。それと入れ替わるようにして、いつもの女子生徒が姿を現す。彼女は当然のことみたいに訊いた。 「――ねえ、昨日の数学の宿題やってきた?」
………………
やがて午前中の授業が終わると、昼休みの時間がはじまった。ハルのところに、男子生徒の一人が昼食を持ってやって来る。二年から同じクラスで、昼休みは大抵この少年といっしょに食事をした。 「よお――と言っても、お前には俺のことがわからないんだよな?」 と、その男子生徒はいきなりそんなことを言った。 確かに彼の言うとおり、ハルにその少年の記憶はなかった。黒いフレームの眼鏡をかけていて、理知的なわりには油断のならない雰囲気をしている。透明な服を作った、どこかの仕立て屋みたいに。 「確かにここはいいよな。同じ運命を、何度も繰り返すことができる。そしてそれを、少しずつ望むものに近づけていけるんだから」 「…………」 「でもここは、死んでいるのと同じだ。いや、死ぬことさえできないと言ったほうが正確なのか――それこそ、死の終わりってわけだ」 「君は……?」 ハルはどこかぼんやりと、その少年のことを見つめる。 「俺はあくまで、お前のイメージの反射にしかすぎない。つまり、これはお前が思っていることでもある。まあ、その辺は何とも言えないところだがな」 彼は軽く肩をすくめてから、おもむろに立ちあがった。 「何にしろ、ここはお前の世界だ。お前の望む世界。だから最後にどうするかは、お前が自分で決めればいい」 そう言うと、彼はまだ混雑している教室を抜けて、どこかへ行ってしまった。ちょうど彼だけが、みんなとはねじれの位置にあるみたいに。
………………
ハルが図書室のドアを開けると、室内はがらんとしていた。受付けで委員らしい女子生徒が一人、熱心に本を読んでいた。どこかの豪華客船が沈むときでも、おそらく彼女はそうしているのだろう。 本棚のあいだを静かに歩きながら、ハルは目的の本を探した。本たちは夜の星座みたいに、定められた場所に収まっている。探していた本は、きちんと見つかった。 ハルはその本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。もちろん、本の内容は昔と変わっていなかった。そのセリフも―― 「……いいえ、あなたが本当に探しているものは、ここにはないわね」 不意に、ハルの隣から声が聞こえる。 本から手を離して振りむくと、そこには見覚えのない女子生徒が立っていた。彼女は本を一冊手に取って、ぱらぱらとページをめくっている。海岸の砂粒を手に取って、指のあいだから零すみたいに。 それは、夜空をきれいに磨いたような少女だった。長くまっすぐな髪をしていて、不思議なほど不純物の少ない表情をしている。 「もう、わかっているんでしょ? 間違っているわけではないにしろ、ここは正しい世界とはいえない。私たちがこうしてここにいるのが、いい証拠よ。あなたも本当は気づいている。そりゃそうよね。あなたがそれに気づかないはずなんてないんだもの」 「…………」 「人と人との関係を、切ったりなかったことにするなんてできないわ――その逆も。それこそ、魔法を使ってでも。私たちにできるのは、その関係の意味を変えることだけ。失われてしまったものに、意味がないわけじゃないのだから」 彼女はぱたんと、音を立てて本を閉じた。そして本を元の棚に戻すと、それと同じようにして自分自身もその場から去っていく。 あとにはハルだけが、もの言わぬ本のあいだに残されていた。見つけたはずの本を手にとってみると、そこには何も書かれていない白紙のページが最後まで続いているだけだった。
………………
部活が終わると、ハルは自転車に乗って家まで帰っていった。頭の上では、まだ青空が続いている。それは何かが積みかさなって、重くなった空だった。ちょっと手を触れてみれば、音を立てて崩れてしまいそうに思える。そして誰かの復讐が完了したみたいに、やがて夕暮れがやって来るのだ。 自転車をとめると、ハルはただいまと言いながら玄関のドアを開けた。そして、居間のほうへと向かう。そこには未名がいて、簡単な繕いをしているところだった。糸を通した針を、丁寧な手つきで生地に刺しこんでいく。彼女は―― 「どうして、死んだりしたの――?」 と、ハルは訊いた。 「…………」 未名は縫い物の手をとめて、座ったままハルのほうを向いた。二人のあいだを遮るものはない。その距離はまっすぐつながっている。 二人はしばらく、無言のまま向かいあっていた。世界は知らないあいだに終わってしまったみたいに、急速に物音を失いつつあった。いや、実際にそれは終わりへと向かっているのだ。電源が落とされてしまえば、遊園地の光や音は失われてしまうのだから。 やがて、未名は言った。すべての光と音がなくなって、もう暗闇だけしか残っていないことを確認したみたいに。 「――ごめんね、ハル。でもあの時は、ああするしかなかったの」 ハルは鋭い痛みに耐えかねたように、少しだけ顔をそらした。それが、どうにもならないことだったのは、世界がそういう場所なのだということは、ハルにも十分にわかっていることではあったけれど。 「でも、ぼくだけがいたって……母さんがいっしょじゃなきゃ、意味なんてないよ」 未名はその言葉を両手で大事に受けとめるみたいに、ほんの少しのあいだ目を閉じた。 「ハルがどんな気持ちになるか、本当はわかってた」 と、未名は目を開けて言った。それは悲しいことじゃないのだと示すために、強く笑顔を浮かべながら。 「あの魔法が決して、ハルを正しい場所には導かないことも。あなたが完全世界を失うことも。でもあの時、私にはそれくらいしか、あなたにあげられるものがなかったの」 「でも、ぼくは――」 ハルの言葉に、未名は優しく首を振った。 「私は後悔なんて、していないわ。そんな必要なんてなかったから。もしも、もう一度同じことが起こっても、私はやっぱり迷いなく同じことをするでしょうね。そうしないと、きっと私は一生後悔してしまうだろうから」 「…………」
「ごめんね、ハル。私はあなたを愛しているの――」
愛することは、人を悲しくさせる。 けれどその悲しみのぶんだけ、人はこの世界で生きていくことができる。悲しみは変わらなくても、その意味を変えることはできるのだから。 彼女の言葉は―― 長い長い時間をかけて―― ようやく、ハルに届いていた。 「……これは、ぼくの夢なの?」 ハルは今にも零れてしまいそうな何かをそっと押さえるようにして、訊いた。 「そう、これはあなたの夢。牧葉清織が彼の完全世界を実現するために用意した、最初の段階――」 未名はそれから、ちょっと笑った。今度は決して、無理のない笑顔で。 「でも忘れたの、ハル? 私の魂は、あなたにあげたんだってことを。私の魂はずっとあなたといっしょにいた。それは消えたり、なくなったりはしない。ただちょっと忘れられたり、どこかに隠れたりしていただけ……だから、彼には感謝しなくちゃいけないかもしれない。こうしてもう一度だけ、ハルにちゃんとした形で会えたんだから」 未名はそう言うと、立ちあがってハルのそばに近づいた。そうして瞳の中に正しい形で残るように、自分の子供をじっと見つめる。 彼女の前で、ハルはほんの少しだけ泣いた。重力がかろうじて働くぶんだけ。一番最後に、情けない顔は見せたくなかったから。 「本当はわんわん泣かせてあげたいところだけど、君は強い子だから」 未名はにっこりと微笑って、その頬に触れた。目の見えない人が、その形を確かめるみたいに。 「――だからハルには、これを渡しておく。これは私が最後に力になってあげられる、ほんの小さなこと。私がハルにあげられるものは、やっぱりこんなものでしかないけれど」 そう言って未名は―― 自分の魂とずっといっしょにあったものを、ハルに手渡してやった。 ハルはそれを、しっかり受けとる。地上まで届いた流れ星の光を、両手で大事に受けとめるみたいに。 「――ねえ、ハル。大切なことを一つ教えてあげる」 と、未名は最後に言った。 「どんなこと?」 ハルはたった一筋の涙を拭いて、未名のことを見た。 「この世界は不完全かもしれない。でも、だからといって愛していけないわけじゃないんだよ――」 それから未名は、ハルのことをそっと抱きしめてやった。朝の太陽みたいに、夜の暗闇みたいに。 「……大きくなったね、ハル」 子供の頃と違って背ののびたハルを抱きしめながら、未名は本当に嬉しそうに言った。 「――――」 ハルはただ目をつむって、もうすぐ消えてしまうはずの彼女の存在を感じている。 それはやっぱり、幸せで―― 少しだけ、悲しいことだった。
5
目が覚めると、ハルは自分が床の上で横になっていることに気づいた。 何となく、見覚えのある場所だった。けれどそれがどこなのかは、すぐにはわからない。逆さまになった文字を読もうとするみたいに、まだ意識がはっきりとは戻っていなかった。 「――ハル君、大丈夫?」 不意に、声が聞こえた。 それがアキのものだということは、すぐにわかる。自分の席の隣にいた女子生徒のものではない。ここはもう、母親のいた夢の世界ではないのだから。 「うん――」 と言って、ハルは上体を起こす。まだ体が半分眠っているみたいに、力がうまく入らなかった。ハルは軽くうつむいて、額に手をあてる。 どんな夢を見ていたのかは、はっきり覚えていた。そこに誰がいて、何を受けとったのかも。それは決して、朝露といっしょに消えてしまうようなものではない。 ハルは何かを確認するように、じっと自分の手を見つめた。そこには、何の痕跡も残っていない。小さな温もりの一欠片さえ。 けれど―― ハルは確かに、それが今も自分の中にあることがわかっていた。 「本当に大丈夫、ハル君?」 と、もう一度アキが訊く。 「うん、大丈夫」 ハルはうなずく。 「でも――」アキはハルのことをのぞきこむようにして言った。「ハル君、泣いてるよ?」 気がつかなかった。 自分で頬に指をあてると、ようやくそのことに気づく。まるで何かの忘れ物みたいに、そこにはかすかな涙の跡があった。 「……心配ないよ」 と、ハルは涙を拭いながら言った。夢の小さな名残りは、それだけで簡単に消えてしまう。 「ちょっと、悲しい夢を見てただけだから」 そう言ってから、ハルはあらためて周囲を見渡した。 白い円柱に、ヴォールト式の天井、外側に広がる緑の庭――見覚えがあるのも当然だった。そこはウロボロスの輪≠くぐる前にいた東屋と、まったく同じだったのだから。 「ここは――?」 一瞬、ハルは妙な錯覚に陥る。実はまだ、輪をくぐっていなかったのだろうか。それとも、いったんくぐってから、また元の世界に戻ったのか。 「いや、そういうわけじゃない」 ナツの声が聞こえた。 「俺たちはまだ向こう側≠ノいる。というより、こちら側≠ニいったほうがいいのかな」 その言葉通り、東屋にいるのは魔術具をくぐった子供たちだけだった。さっきまでいたはずの、ほかのみんなはいない。そこにはひどく不自然な感じのする空白が広がっていた。 「でも、どうして――?」 自分は眠っていたのか。 「あんただけじゃない」 一番最初に輪をくぐったサクヤが言う。 「たぶん、あいつが何かしたんでしょうね。あたしたち全員が、夢を見ていた。何しろここは、あいつの世界といっていいんだから」 「…………」 やはり、あれは牧葉清織の見せた夢のようだった。未名によれば、完全世界を実現するための最初の段階。清織はおそらく、輪をくぐった人間に対してそうなるような仕掛けを施しておいたのだろう。 しかし、だとすればどうしてみんなが起きているのか。その時点で、すべては決まっていたはずだった。わざわざ夢から覚まさせる必要はない。 ハルは立ちあがってから、そのことを訊いてみた。 「私の魔法が夢を遮ったのよ」 質問に答えたのは、フユだった。彼女は何かを確かめるみたいに、額の髪留めに手をやった。雪の結晶を象った、その髪留めに。そこに残されていた、ある魔法のことを思いながら。 フユはどこか不機嫌な、どこか懐かしそうな表情をしている。 「まったく、あのお節介のおかげね」 髪留めから手を離すと、フユはほんの少しだけ微笑んで言った。雪が音もなく融けるくらいのかすかさで。 「あいつの魔法が、私の〈断絶領域〉に作用したのよ。それが、牧葉清織の魔法を遮った」 奈義真太郎の〈幻想代理〉―― それは人に魔力を与える≠烽フだった。奈義はかつてその力を使い、鴻城への復讐を企てた。その過程である少女の魔法を変化させ、そして最後にはそのすべてがフユに手渡されている。それ以上に大切なものと、いっしょに。 奈義のその魔法によって、フユの〈断絶領域〉が強化されたのだった。それは自動的にフユたちを守り、牧葉清織の魔法に対して防御壁を作っている。 彼女がどんな夢を見ていたのかは、誰も知らない―― 「今、壁は大体この東屋全体を囲んでいるわ」 とフユは言った。 「この中にいるあいだは、とりあえず牧葉清織の影響から逃れることができる。でも私にできるのは、これだけ。壁を消してしまえば、また同じ夢を見ることになるでしょうね」 ハルは少しだけ、自分の手を見つめた。たぶん今度見る夢には、母親が登場することはないだろう。 「何にせよ、どうするか決めなくちゃならないだろう」 少し難しい顔をして、ナツは言った。 「このままだと、俺たちは牧葉清織のところにまでたどり着くこともできないんだからな」 けれど五人は一様に、沈黙した。この世界と牧葉清織の〈終焉世界〉のことを考えれば、それは難しい問題だった。神様の目をごまかすようなものなのだから。 「いったん元の世界に戻って、対策を立てなおすっていうのは?」 とアキが半分だけ手を挙げて発言する。 「それは無理ね」 フユは即座に却下した。 「私の魔法が今みたいな効果を発揮するのは、おそらくこの一度だけ。もう一度かけなおすようなことはできない。何しろ、ほとんどの力を使ってしまっているから」 「この壁がもつのは、あとどのくらい?」 ハルが確認する。 「しばらくは大丈夫でしょうけど、そう長くはないわね」 それから、サクヤがアキと同じように挙手をして言った。 「何とかして眠らないようにすれば、いけるんじゃないの?」 「例えば?」ナツが訊く。 「……頬をつねるとか」 「人魚の歌なら耳に蝋をして防げるだろうけど、俺はそんな痛いめにあうのはごめんだな」 冗談ぽく笑いながら、ナツは首を振った。 「それに、問題は夢を見ることだけじゃない」フユが補足するように言った。「牧葉清織の魔法からは誰も逃れられない。それこそ、首だけにされて生かされるようなことだってありうる」 「首切り勝負を挑まれたときには便利そうだけどね――」 アキは虚しくつぶやいてみた。 「確かにここはいったん、戻るしかないのかもな」ナツはちょっと顔をしかめながら言う。「フユの魔法が続くあいだは、向こうと行き来ができるはずだ。大人たちに相談して、有効な手段を考えるしかないかもしれない」 「室寺さんたちは、ずっとそれを探してたはずだよ」ハルは小さく首を振った。「今さら、うまい方法が見つかるとは思えない」 再び、五人のあいだに沈黙が降りている。計量器の針を振りきりそうな、重い沈黙だった。事態は切迫している。実質的には、もうチャンスはなかった。目の前に配られたカードで勝負をするしかない。 「ちょっと無理なんじゃないかな」 と、アキは弱音を吐いた。 「だって、小説でいうなら作者に歯向かうようなものでしょ? 立場が違いすぎるよ」 それを聞いて、ハルは何かを決意するように顔をあげた。神々から火を盗んでくることを決意した、どこかの巨人ほどではないにしろ。 「――もしかしたら、あれでうまくいくかもしれない」 と、ハルはつぶやくように言った。 「何か考えがあるの?」 フユに訊かれて、ハルはうなずく。そうしてハルは、ナツのほうを見た。 「ナツの魔法で、やって欲しいことがあるんだ」 「……名案なんだろうな、きっと?」 茶化すように、ナツは言う。 「たぶん、ぬいぐるみにジッパー≠描くよりはね」 そう言って、ハルは少しだけ笑ってみせた。
※
牧葉清織は樹の根元に座りながら、奇妙なことに気づいていた。 こちら側に来たはずの五人の子供たちが、本の記述から消えてしまったのである。まるで、どこかの不埒な鼠捕りに連れさられてしまったみたいに。 志条芙夕の魔法によって〈終焉世界〉の影響から逃れたことはわかっている。清織の魔法はこの世界のすべてを記述し、書き換えることができたが、完全魔法を自由にすることはできなかった。それは、この世界と同等の存在だからである。 しかし清織の手元にある本には、魔法の壁による不干渉領域が消滅したあとでも、新しい記述は発生しなかった。スランプに陥った作家が、一行の文章も書けなくなってしまうみたいに。 「いったい、どんな魔法を使った……?」 つぶやいてから、清織は小さく笑った。まさしく子供たちは、魔法を使ったのだ。この完全世界を支配する力そのものからさえ、自由になって。 (まあいい……) と清織は目をつむって、心の中で思った。 あの子供たちが何をしたところで、この世界を変えることなどできはしない。彼には永遠の時間があった。そして彼を変えることは、どんな魔法を使ってもできはしない。 牧葉清織にはすべての物語を書き換えるだけの時間と、動機が用意されていた。 そして何より―― そのための、魔法が。
6
「完全世界といっても、向こう側と変わらないんだね」 と、アキは縁石の上でバランスをとりながら言った。 道には車も人通りもなく、がらんとしていた。建物や街路樹、電柱やポストといったものはそのままだったが、そこには人の姿だけが存在しない。知らないうちに、世界中の人間が遠くの星に向かって旅立ってしまったみたいに。 無人の都市に余計な雑音はなく、足音の反響だけが聞こえた。静寂の密度があまりに高くなりすぎて、どこかに結晶化して転がっているようでもある。それを拾いあげて、粉々に砕いてしまうことさえできそうだった。 完全世界の様子はアキの言うとおり、向こう側とまったく同じだった。ばらばらにした本をコピー機にあてて、再構成したみたいに。それは鏡の向こう側とでもいうべきもので、ウロボロスの輪≠ヘその両方を跨いで存在しているようだった。五人がまず同じ東屋にいたのは、そういう理由によるのだろう。 ただし、この世界と向こう側は完全に同一というわけではない。鏡に映したというよりは、ある時点での写真として撮影された、というべきだった。 それは、屋敷や街の様子を見て推測できることだった。屋敷では、焼け焦げた跡や、手入れが間にあわなくなって荒廃したはずの庭の姿が元に戻っていた。街中では、生物はともかくとして、道路上を走っていたはずの車が存在していない。 おそらくこの世界は、ある時点での向こう側の世界を写しとったものなのだろう。その時点では屋敷は壊れてはいなかったし、一定以上の動きをするものはピンぼけとして処理されて存在しないことになった。そして以降、この世界では時間は経過していない。 だが厳密に言えば、この世界での時間は停止しているわけではなかった。もしそうなら、写真の風景を動かすことができないように、五人もここには存在できないはずである。 試しに何かを移動させるなり、破壊するなりすれば、その仕組みはすぐにわかった。しばらくすると、まるでパズルが最初の状態にリセットされるみたいに、すべては元通りになっている。この世界に変化というものは存在しない。池の水をいくら波立てたところで、また元のまっすぐな水面に戻ってしまうみたいに―― 鴻城の屋敷を出たあと、五人はそんな世界を目的地まで歩いていた。今のところ、ナツの〈幽霊模型〉による魔法は有効に働いているようである。少なくとも、つむに刺されて眠りについたり、首を斬られて盆に捧げられるといったことは起こっていない。 幸い、目的の場所まではそう遠くはなかった。例の壁の円周から割りだしておいた、その中心地である。屋敷からは十分に歩いていける距離だった。 五人は誰もその場所は知らなかったが、わざわざ探すような必要はなかった。簡単な地図も持っていたが、それを見るまでもない。何しろ、太陽を見つけるのに苦労がないように、その場所を見落とすことはないはずだったから。 ――そこには、巨大な樹が生えていた。 天を掃くバベルの塔にも似た、神話的な巨木である。樹の先端は青空に接し、ほとんど雲に触れんばかりのところに達していた。花か葉かはわからないが、全体が光のような桜色に包まれている。もしも始原の巨人を苗床にしたという世界樹があれば、こんなふうかもしれなかった。 五人はぶらぶらと、散歩でもするように無人の通りを歩いていた。徒歩以外に移動手段はない。縁石の上でアキがバランスを崩して、ナツがそれをからかう。世界の終わりにしては、ひどくのんきな光景だった。 ハルがそんな景色を眺めていると、隣からサクヤが話しかけている。 「――あんたなら、何か考えがあるんじゃないの?」 と、この少女は刃物の切れ味でも確かめるような、どことなく不穏な言いかたをした。 「考えって?」ハルは訊きかえす。 「とぼけないで」 二人は互いの顔も見ずに、並んで歩いていた。 「このままあいつのところまで行っても、あたしたちは全滅するだけよ。よくて、追い返されるのが関の山ね。あいつの魔法と、ソロモンの指輪≠ェあるかぎり、誰もあいつに勝つことはできない」 実際に、サクヤは自分の目でそれを見ているのだ。ニニの〈迷宮残響〉は打ち消され、強力な雷撃が襲ってきた。しかもウティマによれば、指輪と完全魔法≠ェあるかぎり、牧葉清織は不死身で、その指輪を強制的に外すこともできない。 「まさか、あいつを説得できるなんて考えてないわよね?」 サクヤは不機嫌そうに言った。 「それはわからないけど……サクヤの言いかただと、何だか説得できないほうがいいみたいだね?」 むっとした顔で、サクヤは口を閉ざす。 「ごめん、茶化してるわけじゃないんだ」 ハルは子供の駄々にでもつきあうみたいに、少しだけ笑う。 「でも本当なら、戦いなんてしないほうがいいんだ。サクヤの言うとおり、ぼくたちに勝ちめなんてないんだし。だからもしもあの人を説得できるなら、そのほうがいいんだと思う」 サクヤは黙って、ハルの話を聞いている。人に馴れない獣が、渋々ながらも従うみたいに。 「話しあいをするのは、確かに難しいと思う。あの人の決意は固い。物語を殺せるくらいに。だからぼくも一応、最後の手段みたいなものは用意してるんだ」 「それであいつを倒せるの?」 「倒すわけじゃないんだ」まるでそれが本当は何かの罪であるかのように、ハルは沈んだ口調で言った。「ぼくはただ、バランスをとるだけだから――」 サクヤはさっぱりわからない、というふうにハルのことを見た。けれどハルはいつものような顔で、前を見ているだけである。 「具体的には、どうするわけ?」 サクヤはあらためて訊いてみた。 「それは言わないほうがいいと思う」 と、ハルは少しだけ真剣な声で言った。 「もしかしたら、この会話だってあの人には聞こえているのかもしれない。ぼくたちのことを書き換えられなくても、声を聞くだけなら。だから念のために、ここでは話さないことにしておく」 「あたしが手助けできることはないの?」 訊かれて、ハルはちょっと考えた。 「ぼくが魔法を使うための、ほんの数秒があればいいかもしれない……でもそれだって、難しいと思う。あの人がそれに気づけば、すぐにでも対処されてしまうだろうから」 「あいつの注意をそらす、ほんの数秒があればいいのね?」 サクヤは何故か、強い口調で確認してきた。契約書のサインでも迫るみたいに。 「それは、そうだけど。いったい、どうするつもりなの?」 ハルは首を傾げて、彼女のほうを見る。 「それは言わないほうがいいでしょうね」 と、サクヤはハルの口調をそっくり真似て言った。 「でもはっきり言っておくわ。あいつはあたしがそれをすれば、必ずほかのことを忘れる。例えそれが、世界の運命を決めるほんの数秒だとしても」 「…………」 「だからあんたは、その時が来たらあたしのことには構わず、その最後の手段とやらを使って」 ハルは深い森の中で、別れ道にでも立ったみたいに首を振った。 「よくわからないけど、何か危険なことをするつもりなんじゃないの?」 「どっちにしたって、あたしの生命はもうもたないのよ」 サクヤはどちらかといえば、穏やかといっていいくらいの笑顔を浮かべて言った。 「そのことを、あんたが気にする必要なんてないわ。だからその時になったら迷ったり、躊躇したりしないで」 「――うん」 と、ハルにはうなずいてやることしかできない。 「それから、この話はみんなにはしないで。特に、アキには」 「どうして?」 「言ったら、きっと止めるからよ」 サクヤはほんの少しだけ、何かを恥ずかしがりでもするように言った。 「そうでなくとも、巻き添えになるような真似はさせたくない。これはあたしだけの問題でしかないんだから」 ハルはやっぱり、うなずくしかなかった。彼女の決意に、口出しするわけにはいかないだろう。魂の形を勝手に変えるわけにはいかないみたいに。そして何より、ほかに良い方法などないのも事実だった。 五人はそのまま、物語の終焉が待つ場所へと歩いていく。 「ねえねえ、二人とも」 と、前にいたアキが、後ろむきに歩きながら言った。 「何だか、お花見にでも行くみたいだね――」 ひどくのんきな口調で、彼女はそう言って笑った。
7
丘を登る坂には、真新しい遊歩道がつけられていた。 おそらく、牧葉清織がその魔法で作ったものだろう。住宅地を少し外れた、ただの雑木林が続くだけの場所に、そんなものがあるとは思えなかった。 五人はその遊歩道を登っていく。あたりは、ほとんど真空といっていいような静寂で覆われていた。鳥や虫といった生き物も存在しないのだろう。それに、写真に音が写るようなことはない。 空を見あげると、雑木のあいだから例の桜に似た巨樹を望むことができた。近くで見ると、その花らしい部分はかすかな燐光を帯び、ほんの少しだけ明滅しているようでもあった。ある種の波の繰り返しや、心臓の鼓動みたいに。 その桜色の樹そのものが完全魔法≠フ魔術具であり、そこには牧葉清織がいるはずだった。 坂を登る途中で、ハルは言った。 「あの人とはまず話をするつもりだけど、もしもその時が来たらぼくに任せて欲しい」 ハルはもちろん、サクヤのことは言わなかった。目をあわせることもしない。そういう約束だった。 「どうなるかはわからないけど、それしか方法はないと思うから――」 五人はただ黙って、ハルの言葉を聞いている。牧葉清織との対峙がどんな結果に終わるかは、誰にもわからなかった。本当に、サイコロを振るみたいに。 遊歩道を登りきると、雑木林はなくなって視界が開けていた。空にほんの少しだけ近いその場所には、下草の生える平坦な地面があって、その先には例の巨樹が天涯を押しつぶすような格好で梢を広げている。 本来なら大きな影ができるのだろうが、樹から射す燐光のような白い光によって、あたりは問題なく明るかった。ちょうど、月夜の明るい晩に広い平原で佇むみたいに。 そしてその樹の根元には、二つの人影があった。 五人が近づくと、そのうちの一つが地面へと降りてくる。 それはもちろん、牧葉清織だった。彼は孤独な王様みたいに、一冊の本だけを手に持っている。財宝も、衣装も、城館も、家来もなく。 清織の後ろには、牧葉澄花がいた。彼女は頭に花冠をかぶり、まるで樹とよりそうようにして眠っている。終わることのない夢と、始まることのない目覚めのあいだで。 二人の姿はまるで、神話の登場人物みたいに見えた――
「――まず、はじめに確認しておこう」 と、清織は言った。 そこには歓迎の辞も、恫喝の言葉もない。五人は招待されたわけでも、侵入してきたわけでもなかった。それはただ、同じ電車の中でたまたま席が隣あっていた、というだけにすぎないのだから。 「君たちはウティマの言うサイコロを振るためにここまでやって来た、そうだね?」 「――はい」 五人を代表して、ハルが答える。 「自分たちの意志で、ということにも間違いはない?」 訊かれて、ハルは一度ほかの四人を見まわす。けれどもちろん、そんな必要はなかった。ハルはただ、無言でうなずく。 「…………」 清織はちょっと黙ってから、五人を見た。それからどこか遠くのほうに目を向ける。そこに、小さなパン屑が点々と落ちているのを眺めるみたいに。 「まあ、僕がとやかく言うようなことではないだろう」 そう言って、清織はかすかに笑ってみせた。 「君たちの物語は読ませてもらっている。わざわざ試験をする必要はないだろう。僕は鴻城希槻のような趣味はないしね。君たちには、十分な動機がある――」 ゆっくりとした、穏やかとさえいっていいような口調で話す清織の前で、五人は緊張していた。ここはあくまで、この男の領土なのだ。フユはいつでも魔法の展開が可能なように、注意深く構えている。 だが、清織はそんな五人のことなど歯牙にもかけないといった様子だった。 「君たちが何かしないかぎり、僕のほうから危害を加えるつもりはない」清織はまるで、退屈な伺候の相手でもするように言った。「そして君たちも知ってのとおり、この世界では誰も僕に勝つことはできない」 「…………」 「ただ、一つ聞いておきたいことがある」 清織は時計の針が少しだけ遅れているのに気づいたとでもいうような、そんな口調で訊いた。 「些細なことだし、全体としては何の問題もないだろう。でも、気になるのでね。できれば教えて欲しいんだ。君たちが僕の〈終焉世界〉の記述対象から外れたことについて」 ハルは少しのあいだ、考える。もちろん、その方法をわざわざ教える必要はなかった。そんなことをしても、何のメリットもない。しかしハルには、この機会に確認しておきたいことがあった―― 「その方法を教える前に、ぼくにもいくつか聞いておきたいことがあります」 と、ハルは言った。 「――いいだろう」清織はハルの発言を咎めることも、嚇怒することもなかった。「僕としても、譲歩せざるをえないだろうからね」 話が決まったところで、ハルはこちらから口を開いている。ほかの四人は、黙ってハルにすべてを任せていた。 「まずはあなたの魔法〈終焉世界〉について、聞きたいことがあります」 「……その口ぶりだと、もうこの魔法については知っているみたいだね」 訊かれて、ハルはうなずく。ただ、それ以上のことを言うべきかどうかについては迷いがあった。 けれど、清織には当然ながら見当がついている。 「結城季早、か」 「――ええ」 ハルはためらいながらも、そう答えるしかなかった。 「季早さんには、特に口止めをしたわけじゃない」清織はまるで気にすることなく言った。「僕のことを誰にしゃべっても、それはあの人の自由だ。ただ、君がそこまでのことについて気づいたのは面白いな。いや、君だからこそ気づいた、というべきなのか――」 清織の言葉には答えず、ハルは話を先に進める。 「あなたの〈終焉世界〉が澄花さんの魂を必要としたこと、その魔法がこの世界を書き換えることができる≠烽フだということは、季早さんから聞きました。でも、その魔法は必ずしも万能というわけじゃありません」 「――それは興味深いな」 清織は驚きもせずに言う。 「厳密に考えれば、あなたの魔法が何でもできる≠ヘずはないんです。そもそも、そのこと自体が矛盾しているんだから。例えば、どこかの塀の上にでもある卵を、絶対に割れないようにするとします。そうしたら、何でもできるはずのあなたは、その卵を割ることも、割らずにいることもできなくなってしまう。嘘つきなクレタ島の人間みたいに」 「確かに、そういうことになるだろうね」 と清織は逆らいもせず、素直にうなずいた。 「あなたの魔法が万能でないなら、問題はあなたの魔法には本当は何ができて、何ができないのか、ということです」 ハルは言って、話を核心部分に進めた。 「あなたの〈終焉世界〉には四つ、できないことがあるはずです――その一つは、人の魂や自由意志に干渉すること。それができるのなら、あなたは秋原という人にあんなことをする必要はなかったはずです。ただ単に、自分からしゃべらせてしまえばいいだけなのだから。そして、人を死なないようにすることはできても、生き返らせることはできない」 清織は黙って聞いている。 「二つめは、自分自身を書き換えの対象にすること。あなたの家には、つい最近まで生活していた跡がありました。自分のことを書き換えられるなら、そんなことをする必要はなかったはずです。それにそれができたなら、こんなまわりくどいことをしなくても、自分を神様に近い存在にもできていたはずです」 「…………」 「三つめは、完全魔法そのものを無効化すること。これは、フユの魔法が機能したこともそうですけど、ニニとの戦闘の時にもいえることです。あなたはニニの攻撃に対して、振動そのものを打ち消しはしたけど、魔法そのものを打ち消したりはしなかった。それは、それができなかったからです。ウティマがぼくたちを選んだのには、そういう理由もあるのかもしれない。あなたの〈終焉世界〉は完全魔法と拮抗しているんです。つまり、サイコロの目に細工するようなことはできない」 清織はただ、少しだけ笑った。「――四つめは?」 「あまり神がかったことはできない、ということです」ハルは急に、ひどく大雑把な言いかたをした。「小説の作者にしたって、何でもできるというわけじゃありません。あくまでそれは、小説≠ニいう形式なり枠組みなりに収まっている。たぶんそれは、世界そのものが持っている問題なんです。例えそこが、完全世界だったとしても――」 清織はハルの言葉を吟味するように、しばらく黙っていた。完全魔法≠フ樹だけが、かすかなざわめきを続けている。やがて清織は、花でも揺らすみたいに小さく笑った。 「――君の言うことは概ね正解だ、宮藤晴」 と清織はどこか愉快そうに言う。 「驚くほどに、ね。僕の魔法を、ほぼ正確に理解している。この世界のことについても――そう、たぶんこの世界は神様を許容するようにはできていない。少なくとも、それが全能の神であるなら」 「だからあなたが、条件つきの神様になると?」 「僕はそんなものを気どるつもりはないさ」 清織は小さく首を振った。 「だがそれより、今度は君の話を聞かせてもらおう。君たちがどうやって、僕の魔法から逃れられたのか」 ハルはその心の底を探るように、清織の瞳をじっと見つめた。宇宙空間で見るような、空気の揺らぎを欠いた純粋な星の光に近い輝きが、そこにはあった。その瞳に、嘘やごまかしはない。 かすかにため息のようなものをついてから、ハルは言った。 「あなたの魔法の二つめと三つめの特徴を考えれば、それは可能かもしれませんでした。ただ、確証というほどのものはなかったんです。でも今の状況では、とにかくやってみるしかなかった」 清織は黙って、話の続きを待っている。 「ぼくはナツに頼んで、あるものを描いてもらいました。三つめのことで完全魔法を無効化できないのは想像できていたので、それがうまくいきさえすれば、あとは大丈夫なはずでした」 「いったい、何を描いてもらったと?」 「――これです」 と言って、ハルは自分の左手を広げて清織のほうへと向ける。 「……?」 そこには、マジックで何かの線が描かれていた。ごく単純な、図形のようなものである。 「これは、本≠ナす」 言われて、清織は歯車の壊れた機械人形のような、どこか戸惑った表情を浮かべた。それも無理のないことではあったけれど。 「二つめのことで、どうしてあなた自身は書き換えの対象にならないのかを考えていました」 ハルは左手をひっこめながら、説明を続けた。 「もしかしたらそれは、あなたが作者≠セからなんじゃないのか、と思ったんです。もちろん、ぼくたちはみんなこの世界の登場人物といっていい存在です。あなた自身も、それは変わらない。けれどあなたの存在は、それとは少しずれたところにある。その一部だけだったとしても、物語よりも上のところに。なら、ぼくたちも同じように物語の上のところに行ければ? そうすれば、あなたと同じように記述対象から外れられるかもしれない」 「…………」 「だからぼくたちは、読者≠ノなったんです。つまり、本を読む人間は必ず持っているものですよね――本≠」 ハルがそう言うと、清織ははじめ、かすかにだけ笑った。それから、新聞紙をくしゃくしゃに丸めでもするように哄笑する。 「――なるほど」 清織はようやく笑いを収めながら言った。 「たいしたものだ。さすがに、澄花や季早さんが誉めるだけのことはあるよ、君は」 それには答えず、ハルはふと清織の後ろにいる澄花のほうを見つめた。そこで人形のように――いや、人形そのものとして眠る牧葉澄花のことを。 「……あなたは、どうして澄花さんをそんなふうにしてまで?」 訊かれて、清織は少しのあいだ目を閉じる。もう忘れてしまった夢を、無理に思い出そうとするみたいに。 「そう、そのことを説明しないといけないだろうね」
8
「まずはこの一週間ほどのあいだに、僕がこちら側で何をしていたのかを説明することからはじめよう」 清織はまるで、丁寧に授業を進める教師みたいな口調で言った。 「鴻城希槻が百年以上前に、この場所に完全魔法≠フ種を埋めた。それは知っているね?」 訊かれて、ハルはうなずく。ウティマの話によれば、鴻城はそれをシャムロック・L・ヘルンという人物から受けとったはずだった。 「だが、それだけの時間をかけても完全魔法≠フ樹は十分には成長しなかった。せいぜい、都市一つぶんというところだ。鴻城希槻はそれでもまだ待ち続けるつもりだったが、僕には別の手段があった」 「――まさか、時間を?」 ナツが顔をしかめながら言う。 「君は勘がいいな、久良野奈津」 清織はやはり、教師みたいな口ぶりで誉めている。 「そう、僕はまず完全世界の拡大を停止してから、樹を十分な大きさまで成長させた」 「ええと、室寺さんの話では、壁の拡大は一日に二十センチほどだってことでしたよね」アキがちょっと慌てて思い出しながら言った。「世界全体を含めるのに、いったいどれくらいの時間が必要なんですか?」 「完全世界は今、光速による事象の地平線を越えているよ」 「えっと……」 アキは助けを求めるように、まわりを見た。 「つまり宇宙の果てまで含んでいる、ということ?」 フユが眉をひそめる。その助け舟は、アキを乗せずにそのままどこかへ行ってしまったようではあったけれど。 「要するに、そういうことだ。完全世界は文字通り、世界のすべてを包含している」 「けど、そんな時間が……?」 ハルは首を傾げた。何しろ、一日二十センチで宇宙の果てまで届くのだろうか。 「君たちは、ある学者の話を知っているかな?」 清織は急に、迂遠な話をはじめた。 「古い話だよ。チェス盤を発明したその学者は、王から褒美がもらえるというので、こんなお願いをした。チェス盤の一マス目に一粒、ニマス目に二粒、三マス目に四粒、そんなふうに小麦を二倍ずつ増やしていく。それを褒美に欲しいと。最終的に彼がどれだけの小麦をもらうことになるか、わかるかい?」 「いくつになるんですか?」 アキは素直に降参した。 「二の六十四乗マイナス一――」清織はあっさり教えてくれる。「計算すればわかるが、これは常識的な範囲を越える数値だ。直感的には単純な初期条件でも、計算結果は膨大な数字になるというのはよくある話だ。宇宙のすべてを含められるくらいにね。僕がやったのは、そういう時間の進めかただよ」 清織の話から、アキはふとウティマの解いていたパズルを思い出した。限られた数の円盤を移動するのに、無限に等しい時間が必要とされる。 「でもそんなふうに時間を進めて成長させたら、この樹そのものが世界を押し潰しちゃうんじゃないの?」 サクヤは気に食わない顔で、巨大な樹を見あげた。巨大といっても、宇宙より大きくなるはずがない。小さな箱に、大きな箱を入れられないみたいに。 「正確には、僕が無限大まで増やしたのは樹そのものではなく、花のほうだ。体積ではなく、その面積を」 清織はそう言って、自分でも桜色の空を見あげた。 「コッホ曲線、というのを知っているかな?」 その言葉については、ハルに聞き覚えがあった。確か、ナツの父親のことについても書かれていた、例の複雑系の本に出ていた単語である。 「ある線分に対して、正三角形を加える操作を無限に繰り返すことで得られる、フラクタルな図形の一種――」 確か、そんなものだったはず。 「そう」清織はうなずいた。「そのコッホ曲線をつなぎあわせると、雪の結晶によく似た図形ができあがる。これは面積は一定の値に収束するが、長さは無限になる、というものだ」 「大きさは同じで、長さは無限?」 アキはきょとんとした。 「この樹にもそれと同じことを行っている。体積は一定だが、面積や長さは無限に等しい」 清織はそう、こともなげに言った。 「――小難しい話はともかく」 と、サクヤは不機嫌な顔で、今までの話をばっさり切り捨てるように言った。 「結局、あんたは何をするつもりなの? 宇宙の果ての、その向こう側にまで手をのばして」 言われて、清織はあらためて五人の子供たちと向きあった。天秤の片側に置かれた、完全な魔法の所持者たち―― 「君たちには夢を見てもらったはずだ」 と清織は言った。 「……それはあの、くだらない一日を繰り返す世界のことかしら?」 フユはどことなく、怒ったように言った。今頃になってまた、失ったものを見せられるというのは、愉快なこととは言えなかった。 「どうやら、気に入らなかったらしいね」清織は澄ました顔で言う。「僕としては、君たちにはサンプルになってもらいたかったんだよ」 「サンプル?」 ナツは怪訝な顔をした。 「同じことを、世界全体で行う前に――ね」 「つまりあんたは世界中の人間を眠らせて、夢を見させようっていうわけ? ただ幸せなだけの夢を……」 サクヤは笑おうとしてうまくそれができなかったような、奇妙な表情を浮かべた。この男には、確かにそれができるのだ。そしてそれは、あるいは完全世界といっていいのかもしれない―― 「いや、それでは世界は眠っただけで、死んだことにはならない」 清織は恐ろしく落ちついた声で言った。 「僕が望むのは、この世界をできるだけ美しく死なせてやることなんだ。人々がただ眠って夢を見るだけの世界は、死んだことにはならない」 「だから、夢を見るのは最初の段階にすぎない――?」 とハルはつぶやくように、未名に聞かされた言葉を口にした。 清織はそんなハルを見て、少しだけ笑う。 「君たちは、サンプルとしてはあまり適当とは言えなかった。余計なノイズのせいで思ったような実験過程にはならなかったからね。しかし段階としては、同じことだ。まずは夢の繰り返しから、黄金の一日≠作るための材料を抽出する」 「黄金の一日……?」 アキは初めて聞く言語の発音でも確かめるみたいに言った。 「そう――」 うなずく清織に、ほとんど感情らしいものはうかがえなかった。演劇者の昂奮も、科学者の冷徹も。そこには、何も―― 「たいしたことじゃない」と、清織は言った。「それはただ、不幸や傷のない世界にすぎない。あるいは、一日の最後にその醜い痕跡が残らない世界、という程度のものでしか。そこは、最高の世界とは呼べない。夢や奇跡にあふれているわけでも、幸運や成功に恵まれているわけでもない。そこはただ、一日の終わりにきれいなものだけが残る世界。昨日と同じで、そして明日も同じ一日が続けばいいと願うような世界――」 「バカげてる」 と、サクヤは吐き捨てるように罵った。 「そうかな?」 清織は気にせず、穏やかに続けた。 「少なくとも、それは唯一可能な完全世界だ。結局は、そういうことなんだ。例え完全世界を作ったとしても、それは決して完全になることはない。この世界で神様がすでに、それを試しているようにね。世界というのは、そういうものなんだ。宮藤くんの言うとおり、何でもできる存在などありはしない。世界は完全を許容しない。 ――けれど、近似値なら得ることができる。ごく限られた、一定の範囲と条件でなら。何百回でも、何千回でも試行することが可能で、その最適解が求められるような世界でなら。それにはまず、すべての人間に実現しうるレベルでの黄金の一日≠夢見てもらう。そしてその物語を僕がすべて読んで、一つ一つの文章を最適なものに書き換えていく。そうすれば、完全な黄金の一日≠ヘ完成する。ただきれいなものだけが残る、そんな世界――この世界をこの世界のまま、それでも美しく死なせてやるには、それしか方法がない」 ハルは清織の話を聞いて、ただ力なく首を振った。海岸の砂粒を一つずつ、手で拾って数えあげろとでも言われたみたいに。 「そんなのは無理です。すべての人間の物語を読むだなんて」 「忘れたのかい? 僕には永遠の時間と、何よりその動機があるんだよ――」 牧葉清織はどちらかというと、もうすべてが終わってしまったかのように言った。
9
桜色だけが蠢く世界の中で、一人と五人は対峙を続けていた。風も音も写しとられなかったその世界では、完全な無音だけが存在している。 牧葉清織の言う、完全世界――黄金の一日 それは永遠に傷つけられることのない、終わることのない一日だった。そこではすべての、どんな人間もが、穏やかな眠りにつくことができる。その一日の夢の中に、苦悶や悲嘆の影が残ることはない。すべてがただきれいなだけの、生まれる前の卵が夢見るような世界―― そしてその繰り返しに、誰も気づくことはない。人々はただ、同じ一日を新しくはじめ続けるだけだった。太陽や星々でさえ、そうだ。その完全世界は、宇宙全体を含んでいるのだから。 永遠と絶対に保障された、黄金の一日=B けれど、それは―― そんなものは―― 死んでいるのと、同じだった。 「どうして――」 と、ハルはつぶやいている。 「どうして、あなたはそんなことを望んだんですか?」 今までに会ったどんな魔法使いでも、そんなことを望んだりはしなかった。彼らは一様に完全世界を求めはしたが、それは失われたものを取り戻すことであって、新しく作りだすことではない。 ましてや、世界の死を望む魔法使いなど―― 清織はどこか、遠くを見つめた。まるでその視線の先に、すべての答えが存在しているかのように。 「世界が美しくなれないというなら――世界からすべての悲しみや醜いものがなくならないというなら、そんな世界は死んでしまうべきなんだ」 と清織は風にでも囁くようにして言った。 「この世界はもう十分に傷ついてきたし、悲しみを増やし続けてきた。もうこれ以上、耐えられないくらいに。誰かが、それを終わらせるべきなんだ。この世界があくまで美しくなれないというなら、僕がそうしてやるまでだ」 「けど、それは――」 ハルは混乱するように首を振った。 「それには、もっと別の方法があるはずです」 「かもしれない」 と、清織は逆らわなかった。 「そう望むのなら、僕はこの世界に対して一種の調停役のようなものにもなれるだろう。すべての不幸や悲劇を秤に載せ、そのバランスを調整するようなことだって。手で触れられる範囲において、みんなの幸福と運命を守り、不幸や過誤を是正する――」 けれど、と清織は言った。 「けど僕は、この世界に対してどんなささやかな贈り物もするつもりはないんだ。澄花を救わなかった、この世界に対して。例え神様が許しを乞うたって、僕はそれを許してやったりはしない」 「議論の余地はない、ということですか……?」 ハルは死に至る病に冒された人を見るようにして、清織に向かって言った。 「世界が変わらないかぎり、僕が変わることはない」清織は淡々と、ただ星の座標を計測するように言った。「だったら、僕が世界を変えるしかない」 「どうして――?」 「残念だけど、これはもうずっと前に決まっていたことなんだ。あるいは、もう終わってしまっていたこと……九年前の、あの日の夜に。僕は物語を書き換えて、世界に完全な魔法をかける。永久に解けることのない魔法を」 「…………」 「そして君たちに、勝ち目はない。例え僕の〈終焉世界〉に直接記述されないとしても、君たちがこの世界に存在していることに変わりはないのだから。僕は今すぐに地球を消滅させることも、月を墜とすことも、太陽を爆発させることもできる。君たちを片づけるのにたいした時間はかからない。僕はそのあとで、ゆっくり仕事にかかればいい」 「…………」 「君が僕を倒すために何かの方法を考えていることも知っている。記述されなくても、音を聞くことは可能だからね。君たちの会話を盗み聞くのは、別に難しくはなかったよ」 ハルにはもう、言葉はなかった。 牧葉清織は確かに、それをするだろう。黄金の一日≠作りだし、もう誰も傷つくことのない、美しく死んだ世界を実現する。彼を説得するのは、不可能だった。彼があの生まれることのない卵のような場所を旅立ったとき、それはもう決まっていたのだ。 彼の作ろうとしている世界は、完全だろうか――? それは、優しさやきれいなものだけが存在する世界。抗いがたい不幸や、醜い傷跡の追放された世界。誰かが飢えや渇きに苦しむことも、銃火や災厄に倒れることも、悲憤や煩悶に駆られることもない。すべての神々を支配し、すべての物語を書き換え、たった一日だけ可能な、完全世界。 母親が子供にせがまれて何度でも読み聞かせてやる、一番のお気に入りの絵本みたいな―― そんな、世界。 あるいは、人々はそんな世界を望むのかもしれない。すべてに絶望し、疲弊し、困惑してしまった人々なら。ただささやかな幸福を、平穏を、希望を願う人々なら。 何故なら、世界はそういう場所なのだから。 けれど―― けれど牧葉清織の作ろうとしているその世界に、不完全世界で得られるものは含まれていない。 悲しみや、苦しみや、喪失、代償、後悔、心の傷や、叶わぬ願い、救われることのない過去、失われていく大切なもの―― それらのものに、意味はないのだろうか? いや―― ハルはそれを、知っている。 だから、宮藤晴はまじろぐこともなく牧葉清織のことを見つめて、言った。 「もう言葉では無理だというなら、魔法で決めるしかないでしょうね」 それはおそらく、もっとも魔法使いらしい宣告ではあっただろう。
――そしてその瞬間に、サクヤは動いていた。
※
そこからの時間は、実際の経過としては十秒にも満たなかっただろう。
※
サクヤは四人から少し離れると、〈妖精装置〉によってあるものに変身した。 もちろんそれは、魔法の鎖でつながれた狼でも、海の底に沈められた大蛇でもない。そんなものは、牧葉清織の前では無意味だった。どんな物語を用意しても、彼にはそれを書き換えることができる。 けれど―― たった一つだけ、彼には書き換えられない物語があった。彼はそれを、殺すしかなかったのである。 ――サクヤは魔法によって、ある少年の姿に変身した。 それは、あの施設で働いていたというシスターに見せてもらった、例の写真の少年だった。牧葉清織がその顔の原型も残さないほどに叩き潰した、どうという特徴もない平凡な少年―― その姿を確認したとき、清織は反応した。 ……反応せざるを、えなかった。 彼にはそれを無視することも、放置することもできなかったのだから。 例え贋物とわかっていても、彼にその存在を許すことなどできはしなかった。その存在の一欠片さえ、世界に残してはいけない。そのために、世界を殺すことになったとしても。 清織は指輪をかざし、その少年を足元から焼尽せしめた。 地獄の業火に等しい炎が、一瞬でその体を包みこむ―― その、直前。 ほぼ同時に、ハルもまた動いていた。 牧葉清織に魔法をかけるために。 けれどそのためには、ハルは清織に直接触れる必要があった。走っても、もちろん間にあいなどしない。ソロモンの指輪≠ヘ、刹那の時もなくすべてを灰にするだろう。そうすれば、魔法をかけるどころか、ハルもまた同じように焼尽せしめられるはずだった。 だが、その瞬間―― 宮藤未名の魔法が発動した。
〈真理変換(ワールド・ロジック)〉
それは、自分以外の時間を停止させる*v@だった。あの最後の夢の中で、ハルが彼女から受けとった魔法。彼女が残してくれた、ほんの小さな力―― その魔法が今、すべての時間を固定させていた。 ――牧葉清織は、偽者の少年に向かって手をかざしている。 ――サクヤは、まさにその足元から焼き尽くされようとしている。 ――アキ、ナツ、フユの三人は、突然のことに為す術もなく立ち尽くしている。 そして牧葉澄花だけが、そのことを知っているかのように同じ表情を続けている。 「…………」 ハルはその中を、清織のほうに向かって歩いていった。 この魔法が使えるのは、この一度きりのはずだった。それも、あまり長い時間は停めていられない。これはあくまで、もういなくなった未名の魔法なのだ。 けれど―― 運命を決めるのに、それは十分な時間だった。 途中、ハルはサクヤのほうに顔を向ける。 「ごめんね――」 と、ハルは小さくつぶやいた。彼女を助ける暇はなかった。約束したとおりに、彼女のことは見捨てるしか方法がなかった。 ハルは清織の後ろに立つと、その心臓のあたりに手をあてた。 あとは、その鼓動が再び動きだすのを待つだけだった。 ハルは深呼吸をして、その時を待った。陸上選手が、スタートラインで合図を待つみたいに。 桜色の樹とその下の澄花だけが、静かにそれを見つめていた。
※
清織はその少年の姿を完全に滅却した。髪の毛の一本まで、あまさず灰と化すように。灼熱はほとんど一瞬に、まるで新聞紙に火でもつけるようにして、その姿を消し去った。 炭化し、もはや魂を持てない物質となったその体は、光の欠片となって完全世界に溶けていく。かつて鴻城やニニが、そうしてこの世界から去っていったように。 けれど―― その最後の一瞬、元の姿に戻ったサクヤは微笑を浮かべていた。 彼女の瞳だけが、清織の後ろに立つハルの姿を映していた。それだけで、十分だった。その少年はたぶん、自分を助けられないことを、犠牲にしてしまったことを、悔やんでいるだろう。そんな必要はないのだとしても。それ以外に良い方法などないのだとしても。 だがサクヤにとって、これで望みは叶えられたのだった。あの少年なら、きっとうまくやるだろう。そのことは、心配していない。だからサクヤは、もしもこれからニニのいる場所に行けるのだとすれば、満足して彼に会いにいくことができる―― サクヤを消滅させるその直前、清織は自分の中で魔法の揺らぎが発生していることに気づいていた。どうやったのかはわからないにせよ、それがいつのまにか自分の背後にいた人物によるものだということも。 けれど、一秒にも近いその時間のあいだに、清織は後ろを見ることも、その場から動くことも、魔法で周囲一帯を消滅させてしまうことも――何も、できなかった。 彼には、それを見届ける必要があったのである。 その不完全世界が、この完全世界から一欠片さえ残さず排除されるところを。 だからハルはその時間を使って―― 調律を終了することができていた。 そしてハルは、清織に触れていた手をそっと離す。読み終えた本を、静かに本棚に戻すみたいに。 調律の終了した清織からは―― 〈終焉世界〉の力が失われていた。 空から落ちてきた水の一雫が、いつかどこかへ消えてしまうみたいに。 清織はただその事実を確認するように、自分の手を見つめた。そのどこにも、雨粒の消えた跡は見つからなかったけれど。 そう―― 十秒にも満たないその時間のあいだに、すべては終わっていたのである。 彼の敗北が、決定した。 「…………」 牧葉清織は手をおろすと、ハルのほうに向きなおった。彼の表情には、どんな感情もうかがうことはできない。星のない夜空を見あげたときみたいに。 「……君は、僕に何をしたんだ?」 と、清織は訊いた。怒りも嘆きもなく、ただ少しだけ不思議そうに。 「ぼくは調律したんです」 この少年の魔法〈絶対調律〉がすべてのバランスを零に戻す≠烽フだということは、清織も知っている。結城季早と、彼自身をさえ調律するような。 けれど―― けれど今、何と何のバランスをとったというのか? 「ヒントは、澄花さんにもらいました」 とハルは言う。 「澄花から……?」 それはあの一つめの始まりの、博物館でのことだった。光の音さえ聞こえてきそうなその場所で、ハルが澄花から教えられたこと。 ――もしも君にそれがわかれば、あの人に勝てるかもしれない。 「ぼくはただ、あなたの望みと彼女の願いを調律しただけなんです」 「……?」 「つまり――」と、ハルは言った。「彼女といっしょに世界が死ぬことを望んだあなたと、世界といっしょにあなたが生きることを願った彼女――その二つを」 「…………」 「何しろあなたたちの魂は、同じ場所にあったんですから」 そう言って、ハルは自分の胸に手をあてた。その、心臓のあたりに。 清織は言葉も出ないまま、何かが自分の中でゆっくりと溶けていくのを感じた。 そしてようやく、ほんの少しだけ笑う。 彼は長い旅を終えた人のように、肩の力を落とした。最後の場所で、その風景をぼんやりと眺めるみたいに。 「なるほど、僕は君には勝てないだろうな。僕が澄花に勝つことなんて、できないのだから」 ハルはそんな清織を直視できないまま、つぶやくように言った。 「――本当なら、あなたは最初にぼくたちを全滅させるべきだったんです。あんな夢を見せるくらいなら、いっそ」 言われて、清織は肯定するような、否定するような、そんなかすかなため息をついた。 「確かに、そうだったろうな。君を宮藤未名に会わせたのは失敗だった。けど、そうすることは澄花の願いじゃなかった」 「…………」 「できることなら、澄花は過去のすべてを忘れるべきだった。物語のすべてを破り捨てて。でも彼女にはそれができなかった。彼女がそれを忘れてしまうことを拒んだから」 清織は、少しだけ笑う。 「彼女がそんな魔法を持っていたことは、皮肉だと思わないか? この世界を記憶しておくだなんて、そんな魔法を」 「……ええ、そう思います」 ハルは素直に同意した。かつて宮藤未名が、その瞬間をいくら停止したところで、何も変えられなかったのだということを思いながら。 そんなハルを見て、清織は軽い負け惜しみのような、ちょっとしたいじわるのような、そんな質問をした。 「君は僕に勝った。完全魔法≠ウえ打ち破って――だが、そのことにいったい何の意味がある? あの不完全世界をこれからも続けていくことに。終わらない悲劇を、新しい傷口をただ増やし続けるだけのあの世界を。かつての完全世界に帰って、すべての物語を書き換えてしまうことの、何がいけないというんだ?」 ハルは少しだけあいだを置いて、そして答えた。 そのためのヒントは、すでに未名からもらっていたから。 「この不完全世界のすべてに、意味がないわけじゃありません。ぼくたちはまだ、この物語を閉じてしまうわけにはいかないんです。どうしてぼくたちが完全世界をあとにしたのか、それはわかりません。でも――ここはまだ、試されている可能性だから。だからぼくたちはまだ、この世界を捨ててしまうわけにはいかないんです」 清織は静かな夢にでも触れるみたいに、そっと目をつむった。その言葉がこの物語にどんな意味を与えるのかを、ゆっくりと考えながら。 「――ぼくには一つ、試したいことがあるんです」 と、ハルは少ししてから言った。 清織は目を開けて、この少年のことを見返す。 「いったい、何をだい?」 「この完全世界と、不完全世界を調律します」 言われて、清織はよくわからないという表情を浮かべる。珍しい天体現象についてでも説明されたみたいに。 「それは、どういう意味なんだ?」 「ぼくはぼくの魔法、〈絶対調律〉について考えてきました」 と言って、ハルは説明をはじめた。 「複雑系の考えかたの一つに、アトラクタというのがあります。一見ランダムな振るまいも、観測条件によっては一定の平衡状態に陥る、というものです。例えば、熱運動が最終的には均質化されるみたいに。そういう点のことを、アトラクタと言います――〈絶対調律〉は要するに二つのものをそのアトラクタに導く*v@なんじゃないか、とぼくは思うんです。二つのもののバランスをとるというより、二つのものが何らかのアトラクタに落ちつくまでの時間を飛ばしているんじゃないか、と」 「それで、完全世界と不完全世界のアトラクタを求める――と?」 清織はそれを理解して、けれど力なく首を振った。 「だが、何のために……?」 「そのことはやっぱり、ぼくたちだけでは決められないことだと思うんです」 ハルはそう言って、アキたち三人のほうに顔を向ける。その頃には、三人とも二人のすぐ近くまでやって来ていた。 「それは世界が、みんなが決めることです。どちらの世界を望むのか。かつてあった完全世界と、今ここにある不完全世界……サイコロを公平に振るためには、そうするのが一番だと思いませんか?」 「つまり、みんなに決めさせようというのか?」 清織はちょっと信じられないように言った。 「そうです。それでどうなるかは、本当のところはわかりません。世界はただ、もっと混乱するだけかもしれません。あるいは、少しは良くなるのかも。どんなアトラクタに落ちつくのか、少しずつ変化していくのか、急激に変わっていくのか、それとも何も起こらないのか、本当のところは何も――」 「…………」 「でもそれは、やってみる価値のあることだと思うんです。ぼくたちがここに来た本当の意味は、そこにあるのかもしれない、って」 この不完全世界に魔法が残されたのは、あるいはそのためなのかもしれなかった。かつての完全世界を取り戻すためではなく、この不完全世界の可能性を試すために―― 「……いいだろう」 清織は言いながら、王の証であるその指輪を外した。 「君たちに、すべてを任せる」 そしてソロモンの指輪≠、ハルのほうへと放り投げる。 世界の法則に従って描かれた放物線は、ハルの手元へと収まった。ハルは指輪を、右手の人さし指に装着する。 そして彼は、二つの世界の調律にかかった。 両手を軽く開くと、それを体の前で構える。何か大切なものを、そっと抱えるみたいに。 ハルは静かに目を閉じて、その人工の暗闇の奥を見つめる。 二つのもの―― 完全世界と不完全世界―― それらに両手で触れ、魔法の揺らぎを作りだす。 本来なら、その二つはあまりに大きすぎるものだった。月や太陽をその手に乗せようとするみたいに。けれど今は、完全魔法≠フ助けがあった。魔法の力は無限化され、何の制約も受けることはない。月や太陽であっても、親指を翳すだけで隠してしまうことができる。 ハルは二つの世界をゆっくりと、慎重につなぎあわせた。 はるか遠くの天体に、望遠鏡の照準をあわせるみたいに―― 神様が一番最初に、地球の位置を決めるみたいに―― そして、それは完成した。 〈絶対調律〉は発動し、その効果が執行される。 瞬間―― 世界の基盤そのものが組み変えられるほどの、大きな大きな揺らぎが発生する。 それは、宇宙全体を揺らすような―― それは、魂の形を少し変えてしまうような―― すべての人の耳に届くほどの、大きな揺らぎだった。
――完全世界と不完全世界は今、調律された。
ハルはゆっくりと、目を開ける。 世界に、目に見えるような変化はなかった。そこはさっきまでとまったく同じ場所で、清織やアキたちにも変わりはない。 ただ―― 右手にはめていたソロモンの指輪≠ェ、音もなく砕けつつあった。その形は風の中で砂が崩れるようにしてなくなり、光の欠片となって散っていく。 それと同時に―― 完全魔法≠フ桜色をした花もまた、散りはじめていた。 「……どうやら、この世界も終わりらしいな」 と、清織はその花片にそっと手をのばしながら言った。手の平に乗ったその小さな桜色は、雪が融けるようにして光の中へと消えていく。 どこからか吹いてきた風に巻きこまれ、花びらは吹雪のように舞いはじめた。 「この花がすべて散って、樹も枯れたとき、この世界は消えてなくなるだろう――」 清織は目を細めるようにして、桜色の乱舞を眺めながら言った。 「そうなる前に、君たちは元の世界に帰ったほうがいい」 「清織さんは――?」 その答えはもうわかっていたけれど、ハルは訊いた。 「僕はここに、澄花と残る。あの不完全世界に彼女は渡せない」 清織は当然のことのように言った。 ハルは何か言おうとして―― けれど、どんな言葉も出てくることはなかった。それこそ、真空中では言葉が伝わらないのと同じで。 「――じゃあ、ぼくたちは行きます」 ハルにかろうじて言えたのは、それだけだった。 「ああ、急いだほうがいい。本当なら僕が送ってやるべきなんだが、もうそれだけの力はないしね」 「…………」 「それから、悪いがこれを持っていってくれないか?」 清織がそう言って差しだしてきたのは、一冊の本だった。書籍魔法≠フ魔術具。かつて牧葉澄花が愛用し、その物語のすべてを記録してきたもの。 「これには、世界についての今までの記述がすべて残っている。僕たちにはもう不要のものだし、できれば君たちに持っていてもらいたい。澄花なら、きっとそう望むだろうから」 ハルは黙って、その本を受けとった。 そうして最後の別れを告げようとしたとき、 「――あの、ちょっといいですか?」 と言って、アキが手を挙げている。 清織は別にどういう反応もなく、小さくうなずいた。 「先輩に、澄花さんにお別れしておきたいんです」 言われて、清織は少し考えるように澄花のほうを見た。けれど、特に断わるほどの理由はない。「……ああ、構わない」と清織は言った。 「ありがとうございます」 アキはにっこりして、樹の幹によりかかって眠る澄花のところへ近づいた。 そして言葉はかけずに、ただその手をちょっと握って別れの挨拶をすませる。何かをそっと、手渡していくみたいに。 四人は今度こそ、本当にその場所を離れていった。 「――さようなら」 とだけ、最後に告げて。 牧葉清織に対して、残しておくべき言葉などなかった。彼はどちらにせよ、すべてを終わらせるつもりだったのだから。 四人が去っていくのを、清織はその姿が見えなくなるまで追い続けた。空の上をまわる孤独な衛星が、地上の一点を見つめるように。 「…………」 それから清織は、また元のように樹の根のそばまで歩いていった。すぐそこには、澄花がいる。彼女はただ眠るように、穏やかな顔をしていた。世界が終わり、自分たちが消えるのだとしても、これ以上望むことなどありはしなかった。 桜色の花片は、地上に積もることもなく光となって消えていく。世界は今、美しく死につつあった。ある意味では、清織の望んだとおりに―― 「実に豪勢な花見じゃな」 と、不意に声が聞こえてきたのは、その時だった。 見ると、少し離れたところにウティマの姿があった。彼女はまるで、そこにいるのが当然のような顔で散りゆく花を眺めている。 「――何をしに、ここへ?」清織はたいして意外そうな顔も見せずに言った。「敗者に対して、審判を下しに来たとでも」 「そのような役目は、我には含まれておらぬ」 ウティマは軽く肩をすくめて微笑した。 「我がここに来たのは、お主に渡すものがあったからじゃ」 「渡すもの?」 清織が訊くと、ウティマは近づいて、それを彼の目の前に差しだした。 それは、一冊の絵本だった。 清織と澄花がよく知っている内容の。 「それはお主のものじゃ。もっとも、最後のページはあの童どもが佐乃世来理に頼んで修復してもらっておるがの」 清織は何も言わず、それを受けとった。あの場所に捨ててきたはずの、清織と澄花にとっての不完全世界のすべて。それをまた、この場所で拾うことになるとは思ってもいなかったけれど―― 「我の用事は、それだけじゃ」 ウティマはまるで、買い物の伝言でも頼まれたような口調で言った。 「あの童どもは、我が責任を持って向こう側まで送りとどけよう。もっとも、あの小僧の使った魔法のおかげで、我もどうなるかはわかったものではないがの」 清織は黙ったまま、ただうなずく。その視線はずっと、絵本の上に注がれていた。 もうその場を去りかけていたウティマは、ふと思い出しように清織に向かって言う。 「……お主は気づかなかったかもしれんが、あの最後の時に、水奈瀬陽がその魔法をかけたことは知っておるかの?」 清織は怪訝な表情で顔をあげた。 「おそらくは、今だからこそできたことじゃろう。完全世界が崩壊し、細かな破片となりつつある今だからこそ。そうでなければ、あの娘の魔法といえど、それは叶わぬことじゃ」 「それは、いったい何の――?」 清織が問いただそうとしたときには、この世界そのものである少女は、すっとその姿を消してしまっていた。謎めいた、何かを祝福するような微笑を残して。 そして、その時――
「……お兄ちゃん」
清織の後ろから、声が聞こえた。 その声が誰のものなのか、清織には確認するまでもなくわかっていた。どんなに遠くからでも、どんなに騒がしい場所でも、清織にはその声を聞きわけることができただろう。 どれだけの時間と距離があっても、彼方の星の光がここまで届くように。 「澄花――」 清織は振りむいて、その名前を呼んだ。 樹の根元から起きあがった彼女は、まだ夢の跡が残る足どりで慎重に地面へと体を降ろしていた。 清織は今すぐにでも駆けよりたいのを我慢して、彼女のそばまで歩いていく。大切な何かが、壊れてしまわないように。 桜色の花びらだけが、それまでと同じように散り続けていた。 「どうして、澄花が?」 と、清織はまずそのことを訊いた。 彼女はついさっきまで眠っていただけのような、ごく自然な状態でそこに立っていた。白い花冠をかぶり、それまでと同じ格好で。その魂は、まだ清織の中にあるはずだというのに。 「あの子が魔法をかけてくれたんだよ」 澄花はそっと、自分の胸に手をあてて答える。おそらくは仮のものとしてそこで動いている、心臓の鼓動を感じながら。 「水奈瀬陽の魔法で――?」 清織が訊くと、澄花はうなずいた。 「あの子の魔法〈生命時間〉が、私にほんの少しのあいだだけ時間をくれたの。つまりね、人形そのものみたいだった私に、あの子の魔法が作用したの。ちょっと強引だけど、完全世界が解けていく、今だけは――」 言われて、清織は千々に乱れていく桜色の花を見つめる。どちらにせよ、これは魔法の話なのだ。人々の望みや願いを叶えてくれる。 それから二人は、あらためて向かいあった。もうすぐ終わってしまう、この世界の真ん中で。 「――たぶん、これでよかったんだと思うんだ」 澄花はそっと、海岸で貝殻でも拾いあげるようにして言った。 「どうして?」 と、清織は訊く。 「あの子も言ってたとおり、ここはまだ試されている可能性だから」 そう言って、澄花は笑う。世界で最初に開いた花みたいに。 「その可能性はほんの少しだけ、世界が終わるのより大きかった。たぶん、そういうことなんだと思う。世界は、そういう場所だから――」 彼女の言葉に、清織はかすかに首を振った。もう止まりかけた、古い時計みたいに。 「でもその可能性の中に、澄花が幸せになることは含まれていない」 「……お兄ちゃん、まだそんなこと言ってるんだね」 澄花はそう言って、くすりと笑った。 「私の可能性は、ほかの人に移っただけ。それは失われたわけでも、壊れてしまったわけでもない。それがなくなったりすることはない――この世界が続いてくかぎり。私がやりたかったこと、やろうとしたこと、やるべきだったことは、その人がやってくれる。いつかどこかで、きっとほかの誰かが」 「…………」 「それに、私は幸せだったんだよ」 牧葉澄花はそして、じっと清織の瞳を見つめた。夜空に星の光が届くような、ありふれた奇跡みたいなものとして。 「あの日の夜から、私は幸せでしかいられなかった。あの暗い森を抜けた日。だって、清織がその手を離すことはないんだって、知っていたから。どんなに暗い場所でも、どんなに恐い場所でも、その手が離されることはないんだって。だから――」 澄花は笑顔を浮かべた。とても自然に、とてもきれいに。 「――ありがとう、清織。ずっといっしょにいてくれて。ずっと私を守ってくれて――」 彼女の言葉を、清織は確かに受けとった。そのままの形で、どこかがほんの小さくでも損なわれることなく。 そう―― 牧葉澄花は、世界を愛していた。 この不完全な世界を、それでも―― 「…………」 だから、清織も―― 「ねえお兄ちゃん、最後にその絵本を読んでくれる?」 と、不意に澄花が言った。 清織は手元の絵本に、目を落とす。結局、最後まで捨てきれなかったその絵本に。ずっと読み続けてきたそれは、あちこちが傷んでもう完全には元に戻せなくなっていた。 「ああ、いいよもちろん」 そして二人は、樹の根元に並んで座る。あいだに、一冊の本を広げて。 桜色の花は、もうほとんどが散ってしまっていた。完全世界は、もうすぐ閉じられようとしている。そこにある、最後の時間を見守りながら。 二人はずっとそうしてきたように、絵本を読みすすめていった。あの時、清織が破り捨てたはずのページには、こう書かれている。
名前ノナイ子供ハ自分ニドウシテ名前ガナイノカヲ思イ出シマシタ。ソノ子供ハ自分デソレヲ捨テタノデス。ドコカコノ世界デハナイ、自分ノイナイ場所ヘト行キタクテ。ダカラ名前ノナイ子供ハ神様ニ向カッテ、ミンナノ幸セノタメニ残ッタ命ヲ燃ヤスコトヲオ願イシマシタ。ソシテソノ子供ハ輝ク星トナッテ、ホカノドノ星ヨリモ明ルク美シク、今デモ夜ノ空ヲ飾ッテイルノデス――
物語は、そして終わる。 ――完全世界とともに。 [エピローグ]
もうすぐ、春も終わろうとしていた。 山の斜面を造成して作られた市営墓地には、誰かがきれいに折りたたんだような静寂が漂っていた。そこでは、永遠と絶対が静かに保証されている。死者はもう、何も語ることはない。 ハルたち四人の子供は、誰もいないその市営墓地を訪れていた。 平地と違って、山間部にはまだ少しだけ春が残されている。散りそこなった花をわずかにつけた桜が、ただ控えめに春の名残りを告げていた。風は冷たく、陽射しもどこか透明だった。しかしいずれにせよ、季節は次の場所へと進もうとしている。
――あれからのことを、少し語っておかなければならない。 崩壊中の完全世界から、四人はウティマに導かれて無事に元の世界へと帰還した。親たちはもちろん喜んだが、すべてをただ手放しで祝福するというわけにもいかなかった。特にサクヤのことは、アキの母親にとってはショックだったようである。 事件そのものは解決したが、問題はまだ山積していた。室寺たちは魔法委員会の本部へと戻り、事後対応や詳しい調査を続けるようだった。「――賞状の一枚くらいはやりたいところだがな」と、室寺は苦笑いをしている。 鴻城希槻の不在は、はっきりとはしない形ながら、かなりの影響を及ぼしているようだった。不可解なニュースがいくつも流れ、今までは問題にならなかった不祥事が続発した。誰かがずっと停めていた時間が、動きだしたみたいに。 同時に、結社は解散し、再結成の動きなどは見られていない。しばらくは委員会による監視が続けられる予定だったが、もうほとんど脅威はなくなっているようだった。魔法に関する事件は、それでもどこかで起こってはいたけれど。 ウティマはまだしばらく、この世界に存在しているようだった。本来なら完全世界が消滅した時点で世界の揺らぎも消えるはずだったが、彼女の存在は何故か今も残り続けている。〈絶対調律〉による何らかの影響があるのかもしれなかった。 その〈絶対調律〉によってつなぎあわされた完全世界と不完全世界は、今のところ目に見える形での変化は示していない。世界には相変わらず混乱と不和があり、一方で真実や奇跡があった。すべての人間が完全世界を望めば、あるいはそれも変わるのかもしれなかったが。 牧葉清織と澄花の失踪は、一部の人間を除いて話題にもならなかった。この世界ではよくあることの一つとして、それは処理されてしまったらしい。アキの母親はいまだに、サクヤの持ってきた玩具を眺めている―― 世界に大きな変化はなく、すべてのことは日常に戻ろうとしていた。結局のところ、この不完全世界にとって魔法は存在しないものでしかないのだから。 この物語が世界に残したものは、本当にごくわずかだ。 それでもアキによれば、時々不思議な魔法の揺らぎを感じることがあるという。例の調律がこの世界に残した、完全世界の切れはしのようなものを。 「ハル君は、感じないかな?」 そう訊くと、けれどハルは首を振った。 「ぼくにはもう、魔法の揺らぎがわからないみたいなんだ」 「……?」 ハルは淡々と、事実だけを告げた。 「たぶん、〈絶対調律〉による魔法のせいだと思う。美乃原さんの魔法のこと、覚えているかな?」 訊かれて、アキはうなずく。彼女の魔法は、周囲の願いを自動的に叶えてしまうというものだった。 「人の願いを叶えているあいだ、彼女は魔法が使えなくなっていた。それと同じように、ぼくも魔法が使えなくなっているみたいなんだ。ぼくの魔法は、今でも働き続けている。あるいは、室寺さんみたいに強力な力を使いすぎたせいかもしれないけど」 「つまり――」 「うん、そうなんだ」 ハルは今日の天気についてでも話すみたいにして言った。 「ぼくのことはもう、魔法使いとは呼べない」 アキはちょっと考えるようにしてから言った。 「そのこと、残念だと思う?」 「魔法がなくったって、人は生きていけるよ」ハルは軽く首を振った。「それにアキも言ったみたいに、魔法でできることなんてたかが知れてるんだ」 「わたし、そんなこと言ったっけ?」 「言ったよ、確かにね」 ハルはそう言って、からかうように少し笑った。
――その二人は今、未名の墓の前に立っている。もう四年も前に、そうしていたのと同じように。あの時と違って、もう桜はほとんど散ってしまっていたけれど。 ハルは墓の前で、最後に母親と会ったときのことを思い出していた。あの夢の、黄金の一日でのことを。そこで確かに伝えられた、言葉のことを。 おそらくこれから、ハルは母親のことを忘れていくだろう。その匂いや、まなざしや、手の温もり、声の響き、言葉使い―― そしてそのことは、小さな痛みとなって残るだろう。それが失われ、壊れていくのだということが。 けれどそれは―― この不完全世界で、生きているということでもあった。 ナツとフユの二人は、少し離れたところで街の様子を眺めていた。アキはハルのすぐ隣で、そんな二人に目をやっている。 その時、アキはふと気づいてハルのほうを見た。 「ハル君、泣いてるの?」 「うん」 「そういう時って、あるよね」 「――うん」 アキはそっと、ハルの手をとって握った。相変わらず少し冷たくて、それは誰かの温もりを必要としている。 「大丈夫、ハル君?」 と、アキは訊いた。 「うん、ありがとう――」 二人の子供たちは、この不完全世界で手をつないでいる。 それはたぶん―― いつかの暗い夜に、誰かと誰かがつないでいたのと同じ種類のものだった。少なくとも、それと同じだけの可能性を持った――
季節は巡り、すべてはまた新しく始まろうとしている。
※
かつて、世界は完全だった。 そこには悲しみもなければ苦しみもなく、一切の不幸はほんの小さな一欠片さえ見いだせなかった。争いも、諍いも、間違いも、そこにはない。 それは生まれる前の卵が夢見るような、完全な世界だった。 けれどいつしか、人はその世界を捨ててしまった。どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。何しろそこは、完全な世界なのだ。そこを出る理由なんて、どこにあっただろう――?
――それは、人が新しい可能性を求めたからだ。 完全世界では得られない、新しい可能性を。そして可能性とは常に、善きものにも悪しきものにも開かれている。人はたくさんのものを失い、たくさんのものを得た。それはきっと、これからも続いていくだろう。 人が魔法を失い、言葉を得てまで求めたものが何なのかは、まだわかっていない。それはこれから、わかるはずのことだからだ。 いずれにせよ、これで物語は終わる。 四つの季節と四人の子供たち、そして完全世界と二人の魔法使いを巡る――この「不完全世界と魔法使いたち」は。 本はもう、閉じられるべきなのだ。 始まりを終えるために。あるいは――
――魔法使いのいない、もう一つの不完全世界へ戻るために。
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