[不完全世界と魔法使いたちE 〜物語と終焉の魔法使い〜(下)]

[三つめの終わり]

 鴻城希槻の屋敷にある東屋では、佐乃世来理が〈福音再生〉によって魔術具の修復を行っている最中だった。
 東屋の床には、あまり価値のない貨幣みたいに割れたガラスが散らばっている。手を切らないよう軍手をして、来理はその前に座っていた。作業ははじまったばかりで、まだそれほどの進捗は見られていない。
 来理は拳ほどの大きさのガラスの塊を持って、それにあいそうな箇所を探していた。それらしいものを見つけて塊を近づけると、それは小刻みに振動しながら塊の端にくっついていく。ちょうど、手に持った磁石に鉄が引きつけられるように。
 それが、彼女の魔法〈福音再生〉だった。この魔法を使えば、罅割れや切断といった損傷を完全な形でつなぎあわせることができる。ただしそれには、破損箇所がある程度接近している必要があった。また、欠落部分を強制的に再生することも可能だったが、それには余計な時間と労力が要求されることになった。風呂敷一枚をかぶせてしばらく待てばいい、というものではない。
 接合された箇所を確認してから、来理は次の破片を探しにかかった。実際のところ、それはひどく手間のかかるジグソーパズルに似ていた。魔法を維持しながらの作業には集中力が必要だったし、触れあう程度まで接近しなければ、ピースがはまることはない。
 そうして来理が根気よく作業を続けていると、ふと東屋の端に人影がさしている。来理が顔をあげてみると、そこにはよく見知った少女が一人で立っていた。
「こんにちは、来理さん」
 と、少女――アキは頭をさげて挨拶した。いつもと同じ、花が咲くような明るさで。
 学校が終わって、一度帰宅してからやって来たのだろう。アキはこの少女らしい、ごく身軽な格好でそこに立っていた。春の空気をちょっと身にまとってみた、という感じの服装である。
「わざわざよく来たわね、アキ。でも、いったい何をしに来たのかしら?」
 来理はいったん作業を中断して、そちらのほうを向いた。午後もだいぶ時間がたって、どちらにせよ休憩に入ろうと思っていたところである。
「――実は、サクヤが来たいって言ったんです」
 アキはちらっと、中庭のほうに目をやってから答えた。
 視線の先、中庭に設置されたテーブルのところには、ウティマとサクヤの姿があった。二人ともイスに座って、何かを話している。

 ――来理のところを訪ねてきたサクヤは、そのままアキの家で厄介になることが決まっていた。来理がアキに、そう頼んだのである。これから鴻城の屋敷で寝泊りする彼女には、サクヤの世話はできなかったし、今のサクヤがこの屋敷に滞在するのは望ましいことではない、と判断したためだった。
 提案は、双方ともに受けいれられた。サクヤにはそもそも拒否できるほどの権利がなかったし、決定された終わりまでの時間をどこでどう過ごそうが、同じことだとも思っている。
 アキのほうでは、ちょっと奇妙な話だとは思いながらも了承した。ついこのあいだまで敵みたいな関係だった少女を自分の家で世話するというのも変な気はしたが、来理の願いではあったし、サクヤの境遇にはいくらか同情するところもあった。
 長靴を履いた猫みたいにうまい言い訳は思いつかなかったので、アキは家族に対しては彼女のことを友達として紹介した。ちょっと事情があって家に泊めて欲しいのだ、と。幸いというべきか、父親は海外出張中で、説得するのは母親だけでよかった。そしてアキの母親である水奈瀬幸美は、この手の話にはひどく寛容である。
「いいわよ」
 と、娘のほうが心配になるくらい、あっけなく承諾した。相手が宇宙人だとしても、娘の友達なら構わない、という感じである。
 とはいえ、サクヤはそれを特にありがたがる様子もなく、水奈瀬家へとやって来ていた。感謝も気おくれもしていない。どちらかというとそれは、職場にやって来た労働者、という感じである。荷物といってもたいしたものはなく、ナップサックが一つあるきりだった。
 幸美が気になってその中身を訊くと、サクヤは紐をほどいて中身を示している。
 そこには、ニニの集めていた例の玩具がいっぱいに詰まっていた。サクヤはそれを全部、持って来ていたのである。何故そんなことをしたのかは、自分でもよくわからなかった。ただ、あの少年がいなくなった以上、誰かが代わりにその世話をしてやるべきのような、そんな気がしたのである。
 何にせよそれは、居候が初対面の相手に見せるにはあまり都合のいい品とはいえなかった。眼球の欠落したやけにリアルな頭部やら、ぺしゃんこに潰れたらしい犬の人形で好感を抱かせるのは難しい。
 けれど幸美は、
「ずいぶん素敵なコレクションね」
 と、感心した。一つ一つ手に取ってしげしげと眺めている。古代の珍しい化石でも観察するみたいに。
「――うん、いいセンスね」
 何の屈託もない笑顔で、幸美は言った。むしろサクヤのほうが、反応に困ってしまうくらいである。
 そのあと、アキの部屋に行ってから、
「……あんたの母親って、ちょっと変わってるわね」
 と、聞きようによっては途轍もなく失礼なことを、サクヤは言った。
 けれど、アキはため息をついて同意している。
「実はわたしも、そんな気はしてた」
 ともかくもそんなふうにして、サクヤはアキの家で生活するようになった。

「――サクヤは、彼女に何の用があるのかしら?」
 中庭でウティマと話をするサクヤを見ながら、来理は言った。
 けれどそう訊いておきながら、来理にはその用が何なのか、ほぼ想像がついていた。彼女がこの世界で望むことは、たった一つしか残っていないのだから。
「頼みにきたんです、サクヤは」
 アキは試験で難しい問題が出てきたときみたいに、ちょっと困った顔をして言った。
「わたしたちといっしょに、向こう側に行きたいって」
 そう――
 ウティマにそのことを告げられたのは、つい先日のことだった。完全世界へおもむいて牧葉清織と対決するのは、子供たちの役目なのだと。それがこの世界の行く末を決めるうえで、もっとも公平なのだ、と。
 正直なところ、アキにはその理屈にうまく納得することはできなかった。どうしてこの世界の未来を決定するのが、自分たちなのだろう。わたしたちはただの子供で、それほど賢いわけでも、偉いわけでもない。もっと適当な人が、いくらでもいるはずなのに。
 けれど同時に、どこかでそのことが理解できていた。それはどちらのほうが強いとか、正しいとか、善良だとか、そんな話ではないのだ。それは本当にただ、サイコロを振るようなことでしかない――
「そう、サクヤが……」
 と、来理は予想していたとおりの言葉を聞かされ、小さくため息をついた。いくら読みなおしても本の内容が変わらないみたいに、それは決まっていたことではあったけれど。
 二人のいる場所から、ウティマとサクヤの会話を聞くことはできなかった。彼女の嘆願がどうなるかは、まだわからない。
「――ところで、これって本当に直るんですか?」
 アキは見るも無残なガラスの破片を眺めながら訊いた。
「時間はかかるけれど、直るでしょうね」
 と来理は畑に埋まった大きな蕪でも相手にするみたいに言う。
「でも、魂が入れられてたんですよね?」アキはあの時のウティマの話を思い出しながら言った。「それなのに、大丈夫なんですか?」
 来理はちょっと目をつむってから、穏やかな声で返事をした。大切なもののことを、手で触って確認してきたみたいに。
「魂は決して、壊れることはないわ。例え忘れられたり、どこかに隠れたりしてしまうようなことがあったとしても――」
 アキはもう一度粉々になったそれを眺めてみたが、本当にそれが元に戻るのかどうかはわからなかった。時計の針だけを見ても、夜か昼かわからないみたいに。
 それから少しだけ間があって、中庭の草花が風に揺れた。アキはその風が運んできたものを拾いあげるみたいにして、不意に口を開いている。
「――でも、わたしたちが世界の運命を決めるだなんて、何だかすごく変な感じです」
 アキは見知らぬ土地にでも旅をするときみたいな、そんな不安な声で言った。
 けれど来理は、そんなアキに向かって優しく首を振っている。
「いいえ、あなたたちにはそれだけの資格があるわ。この不完全世界と魔法使いたちのことを誰よりも強く経験してきた、あなたたちになら……ね」
 来理はそう言ってから、少しだけ悲しそうな顔で壊れた魔術具のほうに目をやった。
「それに結局のところ、これは魔法使いの問題でしかない。完全世界と、魔法のことを知っている人間たちの問題でしか。例えそれが月の裏側のような場所だったとしても、私たちにしかその問題をどうにかすることはできないのよ」
 粉々になった魔術具は何の返事をすることもなく、ただじっと元に戻るときを待ち続けていた。

 ウティマとサクヤは中庭に置かれた白いテーブルについて、向かいあって座っていた。
 テーブルの上には、室寺たちに振るまったのと同じティーセットが置かれている。二人の前に置かれたカップからは、ちょっとした芸術作品みたいに白い湯気が昇っていた。
「どうした、飲まぬのか?」
 とウティマは、自身は優雅に一口含みつつサクヤに勧めた。
「…………」
 サクヤがそれを飲まないのは、その紅茶が魔女の作った煎じ薬みたいに怪しいからでも、鼻の曲がるようなひどい臭いがするからでもなかった。逆にそれは、彼女のよく知った色や香りをしている。
 一口飲んでみると、やはりそうだった。サクヤは黙って、カップをテーブルに戻している。
「どうやら、口にあわなんだと見えるの」
 ウティマは意外ではなさそうに、そんなことを言った。
「……ちょっと悪趣味ってものじゃないかしら?」
 ごく温度の低い怒りを滲ませつつ、サクヤは言った。
「秋原が作ったのと、同じものを出すなんて」
 言われて、ウティマは少しだけ苦笑めいたものを浮かべる。
「これはすまなんだの。別に他意あってしたことではないのじゃ。お主の心が少しはほぐれるかと思っての」
 サクヤは無理に感情を隠そうとするみたいに、顔を横に向けた。それを見て、ウティマは軽くため息をついて、くるりと指をまわす。サクヤの前にあった紅茶は、従順な仕立て屋が衣装直しでもするかのように、その色と香りを変化させた。
「……あんたがこんなふうに何でもできるなら」
 サクヤは紅茶を一口飲んで、味が変わっていることを確認してから言う。
「希槻さまや秋原や――みんなを元に戻すことだってできるんじゃないの?」
 その問いかけに、ウティマは肩をすくめるだけだった。トランプで、カードを一枚ごまかせとでも強要されたみたいに。
「我の役目は、世界を善導することでも、幸福にすることでもない。何しろ我、即ち世界は、そんなふうにはできておらんからの。我の役目はただ、眺め、そこに積まれた賭け金をできるだけ公平に、均等にならすことなのじゃ。だから我の役目には、お主が望むようにあのニニという童を蘇らせてやる、などといったことは含まれてはおらぬ」
 概ね想像通りのことを言われたので、サクヤは特に憤慨も失望もしなかった。そもそも、こんなことは聞いてみただけなのだ。はじめから期待などしていない――
 ウティマはそんなサクヤには何も言わず、彼女が自分に会いにきた目的について話を移した。
「お主は我に、何か頼みごとがあるそうじゃの」
 訊かれて、サクヤは真剣な顔つきをする。野生の獣が草原の異変に意識を集中するみたいに。
「あんたはそれが何なのか、わかってるんじゃないの?」
 と、サクヤは言った。
 ウティマはちょっと間を置くように、紅茶に口をつける。「――まあの」
「なら、さっさと言わせてもらうけど」サクヤは目だけでにらむようにして言った。「あたしも向こう側に行けるようにして欲しい」
 その要求に、ウティマはすぐには返事をせず、時計のネジでも巻くように沈黙した。それから、ようやく針が動きだすみたいにして言う。
「――誰にも、牧葉清織に勝つことはできんのじゃぞ。物語の登場人物が、決して作者には逆らえんようにの。あの世界では、あやつが唯一の王なのじゃから」
「だから、どうしたっていうの?」
 サクヤは間髪いれずに答えた。
「あたしの望みは、もうそれしかないのよ。それができるかどうかなんて、まるっきり関係がない。選択肢なんてものは、はなから存在しない」
 ウティマは黙って、サクヤの瞳を見つめる。
 その場所に宿った光は、長い時間をかけて作られた結晶みたいに均質だった。誰にもそれを傷つけたり、組み変えたりすることはできない。
 けれどそのセリフは、誰かが口にしたのとよく似たものだった。彼女が心底憎みきっている、ある男が発したのと。あるいはこれは、一種の皮肉なのだろうか――
「お主の歳はいくつだったかの?」
 ウティマは突然、そんな質問をした。
「それは、あたしが造られてからという意味?」
 やや戸惑いながら、サクヤは訊きかえす。
「そうじゃ」
「――十四よ」
 人造魔法≠ノよって造られたホムンクルスは、誕生して十日ほどで成長を完了し、その外見は十二歳前後の子供のものに定まる。以降、原則としてその姿が変化することはない。ウティマとサクヤの外見上の年齢が似ているのは、あるいはそうした魔法に共通の特性なのかもしれなかった。
「ふむ――」
 通常の人間とは異なるのだから例外とすべきだったかもしれないが、十四歳という年齢に違いはない。つまりは、彼女も完全な魔法の持ち主なのだ。
「まあ、よかろう」
 と、ウティマは紅茶に砂糖を足すほどのそっけない口調で言った。
「お主にも世界の行く末を決める資格があるようじゃからの」
「……本当に?」
 サクヤははじめに紅茶を出されたときのような、警戒した表情をする。
「嘘ではない、疑念を持つ必要はないぞ」
 それを聞いて、サクヤは自然と目を輝かせていた。何かの都合で、星の光がいつもより明るくなるみたいに。
「――どうも、お主はホムンクルスらしくないようじゃの」
 と、ウティマはやや呆れるように言った。本来なら、その魔法によって造られるのは機械人形にも似た、役目に忠実なだけの心を持たない存在でしかない。喜んだり、悲しんだりといった感情は、その職掌には含まれていないはずだった。
 けれどサクヤは、至極当然のことのように答えている。
「どっかのお人好しが、あたしをそんなふうにしたのよ」
 その言葉が彼に聞かれる心配はなかったので、彼女は何かをためらう必要もなくそう言っていた。

 帰宅してから、ハルはフユの家に電話をかけてみた。滅多なことでそんなことはしないが、今は聞きたいことがあったのである。
 三回と半分くらいのコールで、相手は電話に出た。つながるというよりは何かが途切れる気配があって、受話器の向こうから相手の声が聞こえる。
……もしもし?
 森の奥から聞こえてくるような、ちょっと不思議な静けさのある声だった。フユのものではない。たぶん母親の、志条夕葵のものだろう。
「あの、ぼくは宮藤晴といいます。志条さんは在宅でしょうか?」
 と、ハルは丁寧に尋ねた。
在宅、ねえ♂ス故か少しだけ笑うように、志条夕葵は言う。ええ、いるわよ。ちょっと待ってもらえるかしら?
 受話器から保留音が流れ、ハルは少しだけ待った。舞い散る桜と揺れる想いを歌った、ポップソングのメロディーである。
 しばらくすると、音楽は小さな雑音で途切れた。マナーの悪い客に怒って、演奏を中止してしまうみたいに。
もしもし?
 今度は間違いなく、フユの声だった。
「急に電話してごめん」ハルはまず、礼儀正しく断った。「――実は、フユに聞きたいことがあるんだ。今、大丈夫かな?」
別に問題はないわ
 いつものように、フユの言葉はそっけない。
 ハルは一度、受話器を握りなおしてから、小さく息を吸った。暗闇の中で、一歩を踏みだすときみたいに。
「……結城季早の連絡先を知りたいんだ」
 電話口の向こうで、フユは黙っている。テントウムシが指先から飛びたつのを待つような、そんな沈黙だった。
どうして、そんなことを聞きたいのかしら?
「あの人に教えてもらいたいことがあるんだ。とても大切なことを」
……今度は笑うわけにはいかないでしょうね
 フユはどこか懐かしさを含んだ声で言う。四年前のあの冬の終わりと同じことを、もう一度頼まれるとは思ってもいなかったけれど。
ええ、いいわよ、教えてあげる。あの時と違って、もう気をつける必要はないと思うけど――
 少しだけ忠告するように、少しだけ心配するように、フユは言う。そして彼女は、その番号を教えてくれた。
 ハルはメモを取って一度確認し、それから礼を言った。たいしたことじゃないわ≠ニフユは言って、電話は切られる。どちらかというとそっと、眠る前の挨拶でもするみたいに。
 受話器を戻して、ハルはもう一度番号を確認した。時間帯としては少々問題があるかもしれなかったが、結局は電話をしてみることにした。あまり時間に余裕があるわけでもない。
 永遠と一瞬のあいだくらいの時間のあと、それは確かにつながっていた。結城季早のいる場所へと。
「すみません、ぼくです。宮藤晴です……ええ、お久しぶりです。番号はフユに教えてもらいました……実は、季早さんに聞きたいことがあったんです……できれば直接、これからすぐに」
 どこで会うのがいいだろうか、と訊かれてハルはすぐに答えた。
「――ぼくと季早さんが、最後に会った場所で」

 放課後の小学校に人気はなく、空っぽの校舎には墓地に似た静けさが漂っていた。それはたぶん、時間によって存在の密度に差があるからだろう。死は、そんなふうに再現することも可能なようだった。
 学校までやって来ると、ハルはまず職員室に向かった。かつての担任だった葉山美守はまだ現役で、ちょうどデスクのところに座っている。
 ハルが挨拶をすると、彼女はひとしきり懐かしんで歓迎してくれた。ある用事について頼むと、彼女はたいして事情も聞かずに許可してくれる。昔の生徒のことを信頼しているのか、ただいい加減なだけなのかは、判断に困るところではあったけれど。
 校舎の中を目的地まで向かっている途中、ハルは何だか不思議な気がしていた。ずいぶん長いことその場所にいたはずなのに、まるで知らないところを歩いているみたいに感じられる。そこはもう、ほかの誰かの場所だった。人にあげてしまった玩具が、すっかり別のものに変わってしまうみたいに。
 やがてその場所に到着すると、ハルは中央付近まで歩いていった。あの時と違って、イスは並んでいない。窓からは何かを囁くような春の陽射しが、ぼんやりと館内を照らしていた。
 そうしてしばらくすると、彼は同じ入口から姿を現している。あの時とは、ちょうど反対の格好だった。
「――ようこそ、季早さん」
 ハルはちょっとからかうように、そう言ってみる。
 季早は苦笑して、あたりを見渡しながらハルのほうへと歩いてきた。あの時の時間が、もしかしたらどこかに落ちていないか、とでもいうように。
「まさか、ここでまた君と会うことになるとはね」
 と、季早は複雑な表情をしてみせた。実際、奇妙な話ではある。四年前のあの時、彼は少年の魂そのものを奪いとろうとしたというのに――
 季早の様子はあの冬の季節とは、少しだけ違っていた。あの、何もかもを照らし続ける白夜のようなこわばりは薄れ、夕べを告げる太陽のような輪郭のくすみがあった。永遠の中にあったとしても、時間が経過しないわけではない。
「あの時の女の子は、いないみたいだね」
 と季早はそのことに気づいて言った。もちろん、今日のことは彼女には伝えていない。さすがの少女も、それを知るのは無理だったろう。
「今日は、彼女の助けはいりませんから」
「……そうだね」
 季早は簡単にうなずいた。
 体育館は、巨大な棺桶にも似た静けさだった。空気は定められたとおりに整列し、光は両手ですくいとれそうな速度で巡行している。世界にはきちんと、死を過ごすのにふさわしい場所というものが用意されていた。
「それで――」と季早は落ちついた声で言った。「今日はいったい、何のようなんだい?」
 ハルはちょっと呼吸を整えてから、小さく決心するように口を開いた。
「牧葉清織のことについて、季早さんに聞きたいことがあったんです」
 その名前を聞いて、季早は少しだけ目を細めた。まさか、この少年から彼の名前を聞かされることになるとは思ってもいない。
「どうして僕が、彼のことを知っているなんて思ったんだい?」
 季早は疑問を口にするというよりは、興味深そうに訊いた。
「理由はいくつかあります。でも、まずは車です」
 ハルはゆっくりと、積み木でも組みたてるように言った。
「――車?」
「そうです」ハルはうなずいて、続ける。「季早さんは知らないと思いますが、牧葉清織が向こう側に消えたあの日、屋敷の周辺は複数の映像に撮られていました。その一つに、屋敷に向かったとおぼしき車が一台、映っていたんです」
「…………」
「映像から車を特定するのは難しいことでした。でもぼくには、その車に見覚えがあったんです。四年前の冬、ちょうどこの学校の駐車場で」
「たいした記憶力だな」季早は少し笑う。「犯罪者がまず車を乗り換えるのも、当然のことらしい。確かに僕の車はあの時と変わっていない。幸いというべきか、あの車には事故も故障もなかったものでね」
 ハルは話が落ちつくのを待つように、少し間をとってから続けた。
「時間の前後関係から考えて、季早さんと牧葉清織のあいだに何らかのつながりがあったことは間違いなさそうでした。でも、二人はどんな関係だったというのか――?」
 続きの言葉を待つように、季早はただ黙っている。
「そのヒントになる事柄は、二つありました。そしてぼくの知っていたことが、二つ――ヒントの一つはまず、魔術具を作るために魔法使いの魂が必要だった、ということ。それからもう一つは、牧葉清織の〈神聖筆記〉が自由に文字を書き換えるものだった、ということ」
 ハルは少し言葉を切ってから、なおも続けた。
「ぼくの知っていたことは、牧葉澄花の〈物語記憶〉が世界を文字化するものだった、ということ。そしてこれは誰よりぼくが一番よく知っていることですが、季早さん、あなたの魔法が人の魂を取りだせるものだということ――」
 そこまでの話を聞いても、季早の表情に変化はない。
 いや――
 最初から、それはわかっていたのだ。この少年が、すべてを解いてここにいるのだということは。四年前の、かつてのあの時もそうだったように。
「……つまり君は、僕が牧葉清織に何らかの協力をした、と言いたいのかい?」
 季早はごく穏やかに、そう訊いた。
 ええ、とハルはうなずいて、最後の説明を加える。
「誰かの魂を魔術具に移せるというのなら、同じことを魔法使い同士で行うことも可能なはずです。牧葉澄花の魂を、その兄に移植するというようなことが。牧葉清織の魔法は、そうすることで大きく変化したはずです。そしてそんなことができるのは、季早さんの〈永遠密室〉くらいしか考えられない」
「…………」
 そう言われて、季早はしばらくのあいだ何も答えずに黙っていた。変化のない時間だけが音もなく過ぎていくと、やがて季早は言った。
「そう――その通りだよ。相変わらず見事なものだ、宮藤くん」
 季早は軽く首を振って、素直に感心したような表情を浮かべる。
「確かに僕は牧葉清織に頼まれ、彼女の魂を彼の体に移植した。それは可能なことだったし、二人の魂が拒絶反応を示すようなこともなかった。何しろ彼らの魂は、ずっと同じ場所で生き続けてきたんだから――そして、彼の魔法〈終焉世界(エンド・クロニクル)〉は誕生した」
「〈終焉世界〉……?」
 訊かれて、季早は小さくうなずく。
「二人の魔法――世界を記述し、その文字を操作すること――で可能になった魔法だ。〈終焉世界〉には、この世界を書き換えることができる=B様々な現象や法則、それらをね」
 そこまでを話してから、季早はふと笑うように言った。
「僕はね、宮藤くん。二人とは古くからつきあいがあるんだ。娘が亡くなるのより、だいぶ前のことだよ。実のところ、結社のことについて教えてくれたのは、彼らなんだ」
「……どうして、二人と?」ハルは訊いた。
「こう見えて、僕は小児科の医師でね。二人とは診察室で初めて会ったんだよ」
「病気だったんですか?」
「――牧葉澄花のほうが、ね」
 季早は目の前で生命が少しずつ消えていくのを眺めるような、そんな少しだけ悲しい目をした。
「事情はわからないが、彼女の脳には進行性の萎縮が認められた。何らかのPTSDによるものらしいが、詳しいことはわからない。萎縮が進めば、彼女はその記憶だけでなく、精神や人格さえ失うはずだった。外見はそのままで、果物の中身だけが虫に喰われてしまうみたいに」
「でも、だからってどうして牧葉清織は彼女の魂を……?」
 何をどう聞いていいのかわからないように、ハルは首を振った。
「彼の望みは、この世界を美しく死なせてやることなんだ」
 と、季早は言った。
「少なくとも、彼が言うにはね。それがどういうことなのかは、僕にもわからない。おそらくそれを知るには、直接本人に聞いてみるしかないだろう」
「……それがどんなことであるにせよ、牧葉澄花がそれを望んだとは思えません」
 ハルはたった一度だけ会ったことのある、彼女のことを思い出しながら言った。牧葉澄花が何を望むにせよ、それはこの世界の死などではなかっただろう。
「牧葉清織にしても、それはわかっていたはずだ」
 言って、季早は深く深くため息をついた。この世界が不完全になってから、消えることのないその亀裂を思いながら。それはこれから先も、決して閉じられることはないだろう。
「だが彼には、ほかの何かを望むことはできなかった。永遠に、絶対に。牧葉清織はただ、この世界が許せないだけなんだ。彼女を傷つけた、この不完全世界が――」
 不治の病でも宣告するように、結城季早は静かにそう言った。
 体育館は相変わらずの無関心な静けさの中で、誰かの死を待ち続けている。死だけがいつも、変わらない平穏さの中にあった。それは誰かを拒絶することも、否定することもない。

 その家は、川沿いの古い住宅地にあった。
 かつて、牧葉清織と澄花が暮らしていたという場所である。
 あたりはガラクタをつめこんだような雑然とした雰囲気で、道というよりは何かの隙間に似た狭い道路が走っている。家々はひどく密集していて、何となく公園の空き地に生えた雑草を思わせる景観だった。
 二人の家は、誰かが置き忘れていったような慎ましさでその中にあった。木造平屋の小さな家で、降りるべき駅を二つか三つ間違えたような古めかしさをしている。とはいえよく手入れされているらしく、構えや造りはしっかりしていた。
 室寺と、サクヤを含む五人の子供たちは、その家の前までやって来ていた。
 そこまで案内してきたのは、もちろん室寺である。向こう側に行って牧葉清織と会う前に、子供たちはできるだけのことを知っておいたほうがいいだろう、という判断だった。
「どっちにしろ、今の俺では役立たずだからな」
 と、室寺はやや自嘲気味に言う。あの日から、〈英雄礼讃〉を含めて魔法の力が戻ってくる気配はなかった。だからといって、この男がへこたれるというほどのことはなかったが。
 二人の家は年季の入った板塀に囲まれていた。六人はその塀のあいだを通って玄関へ向う。塀と家の狭い隙間の向こうには中庭らしきものがあって、湿った土がそこまで続いていた。玄関は古い引き戸になっていて、時代物の電球がその上から様子をうかがっている。
「でもこんなふうに、勝手に人の家に入るなんて――」
 あまり熱心にではないが、ハルは一応抗議した。人倫に悖るというほどではないが、不法侵入には違いない。
「俺たちにはやつのことを知る必要がある」室寺はあっさりとそれを却下した。「贅沢は言ってられん」
「……扉の鍵はどうするんです?」
 とナツは現実的な質問をした。
「念のために、佐乃世さんから開錠魔法≠フ魔術具を借りてきている」
 室寺は鍵といっていいのか、知恵の輪といっていいのかよくわからないものを取りだした。
「俺が物理的にやってもいいんだが、まあ魔法のほうが早いな。ただし今の俺にはこいつは使えんから、誰かお前たちでやってくれ」
「あ、わたしやりたいです」
 いの一番に、アキが挙手した。
「……アキか」
 室寺はいまいちぱっとしない控え投手でも見るような目をした。
「何ですか、その言いかた。名誉毀損ですよ」
 アキは憤慨する。
 その時、がらがらと音がして扉が開いていた。サクヤは引き戸に手をかけたまま、みんなのほうを振りむいている。
「鍵ならかかってないみたいよ」
「ずいぶん不用心だな」室寺はちょっと肩をすくめて、魔術具をしまった。「あるいは、この世界に残してきたものは全部捨てた、というところか――」
 六人は玄関にあがって、廊下を進んだ。ひっそりとして屋内には、人の息づかいや体温といったものが、まだいくらか残っているようでもある。隅に沈んだ暗闇は誰かが身動きするたびに、海底の砂が撹拌されるみたいにして宙を漂った。
 外観通りのこぢんまりとした家で、中には片手で数えられるくらいの部屋数しかない。必要最低限のものだけを残して、あとはどこかに捨ててしまった、という感じでもある。小さな縁側の向こうには、まるで光を溜めておく容器みたいにして中庭があった。
 神坂の話によれば、牧葉清織と澄花は二人でこの家に暮らしていた、ということだった。同居人や親類といったものはいない。数年前までは牧葉総志という老人がいっしょだったそうだが、その人物もすでに鬼籍に入っていた。
「――とりあえず、全体を隈なく調べるしかないだろうな」
 と、室寺は言った。それから、各自が分担して部屋を調べることに決まる。
 ハルは担当に従って、台所のほうに向かった。居間といっしょになったその部屋には、妙に歴史を感じさせる卓袱台と、座布団が置かれている。ただしほかには何もなく、テレビやラジオといったものの姿さえなかった。何だか、砂時計の落ちる速さがずいぶんゆっくりになりそうな空間である。
 台所のほうを調べてみると、きれいに掃除がされていて、整理された調理器具が無駄なく収められていた。ちょっと見習いたいくらいの整頓ぶりである。冷蔵庫を開けてみると、中は空になってコンセントも抜かれていた。ゴミの類はすべて捨てられている。何もかも、貴人を埋葬するみたいにきちんと処理されていた。一応、まだ水道やガスは使えるらしい。
 一通りのことを調べてしまうと、ハルは居間に戻った。わかったことといえば、牧葉清織と澄花が、ごくささやかできちんとした日常を送っていたらしい、ということくらいである。
 ちょうどその時、廊下のほうからアキが顔をのぞかせていた。何か発見したらしく、手に四角いものを抱えている。
「ハル君、こんなの見つけちゃった」
 と嬉しそうに言って、アキは持ってきたそれを卓袱台の上に置く。
 それは、絵本だった。かなり読み古されているようで、ひどくくたびれた感じがしている。とはいえ丁寧に扱われてきたらしく、表紙やページはしっかりしていた。ごく最近にも読まれたことがあるのか、埃などの跡はない。
「……これは?」
「澄花さんの部屋で見つけたんだ。何だかずいぶん大事そうに置いてあったから」
 その絵本をちょっとめくってみながら、ハルは言った。
「……でも、これがどうしたの?」
 言われて、アキは「え?」ときょとんとした顔をする。
 絵本そのものに、特に変わったところは見られなかった。秘密の暗号が書かれているわけでも、余白に難しい証明の問題が残されているわけでもない。なのにどうして、わざわざ持ってきたりしたのだろう。
「何となく、気になったから」
 アキにはけれど、あまり反省した様子は見られなかった。この少女のこういうところは、昔から変わらないようである。
 苦笑して、ハルは仕方なくアキといっしょにその絵本を読んでみることにした。どちらにせよやることはなかったし、大切そうな本だから確かに何かあるかもしれない。ついでに、アキの名誉のために配慮してやる必要もあった。
 二人は座布団に座って、卓袱台の上でその絵本を開いてみた。表紙には主人公らしい子供と、その子供が住んでいるらしい小さな惑星の絵が描かれている。どういうわけか、作者の名前は書かれていない。薄く壊れやすい時間の層をそっと剥がしていくみたいに、二人はページをめくっていった。
 本の内容は、名前のない子供が自分の名前を探して旅に出る、というものだった。長い道のりのはてに、その子供は神様のところにたどり着く。その子供は最後に、神様に向かって一つの願いごとをする。それは――
 けれどそこで、本は途切れていた。最後のページが破りとられてしまっている。続きはどこにもなく、神様の前に立つ子供の絵で時間は完全に停止していた。
「それで、この子はどうなっちゃうの? 神様へのお願いって?」
 と、アキが不満そうに訊く。けれどハルにしたところで、そんなことなどわかるはずもない。
 ページは跡形もなく失われていて、結末を暗示する部分はどこにも見つけられなかった。特殊な事情で作られた本らしく、奥付けもなく、一般的な書籍の作りとは少し違うようである。その辺の書店を探せば見つかるというものでもなさそうだった。
「――アキの〈生命時間〉なら、何とかなるんじゃないかな?」
 少しして、ハルはそう言ってみた。
 アキはしぼんだ風船みたいにぺたっと卓袱台に頬をつけていたが、ハルに言われて目をぱちくりさせる。それから、がばっと勢いよく起きあがった。
「そうだよ、ページがなくなっても、絵本自体なら内容を覚えてるよね」
 嬉々として、アキは再び絵本に向きなおった。
 アキは表紙に手を置き、魔法の揺らぎを作る。それを形にしていくと、世界の仕組みは少しだけ変更されていた。置いていた手を離すと、アキは絵本に向かって話しかける。
「絵本さん、聞こえてるよね? 実は、あなたのお話の最後が知りたいんだけど――」
 アキがそう言うと、絵本のページは風に吹かれるみたいにしてぱらぱらとめくれていった。何か話をしているらしく、アキは何度もうなずいている。その話がほかの人間に聞こえることはない。言葉は、それを聞こうとする相手にしか伝わらないものだ。
 蛇足ではあるが、博物館にあったオルゴールにも同じことを試してあった。ただしその場合は、オルゴール自体が古すぎて記憶が定かでないのと、結局は何も知らないということで、特に成果はあがっていない。
「うん、うん……なるほど」
 やがて話は終わったらしく、絵本はまた元のようにひとりでに閉じている。
「――それで、どうだった?」
 黙ったままなかなか話そうとしないアキに向かって、ハルは訊いてみた。
 アキはそれでもなお、しばらく口を閉ざしている。手渡されたものの扱いに、自分でもちょっと困っている、というふうに。
「とりあえず、この本も自分の最後は知らないんだって」
 と、アキはまずそのことを言った。それはまるで、本が健忘症にでもかかったみたいに奇妙な話ではあったけれど。
「どうして、そんなことに?」
「よくわからないけど、本の最後のページはどこかに捨てられちゃったみたい。二人がまだ、子供だった頃」
 ハルはちょっと考えてから、訊いてみた。
「ページを破いたのは?」
「牧葉清織みたい」と言って、アキは続けた。「澄花さんが牧葉清織に頼んで、二人はつい最近までこの絵本を読んでたんだって。その時は、牧葉清織がいつも話の最後を自分でしゃべってたみたい。それだと、その子供は最初の星に帰ることになるんだって。もう名前のない子供なんかじゃないんだと気づいて。それが本当の話かどうかはわからないけど……」
 アキの話を聞いて、ハルは少し考えていた。どうして、牧葉清織は最後のページを破いたりしたのだろう。そしてそんな絵本を、どうして牧葉澄花は何度も聞きたがったりしたのだろう。
 二人にとって、この絵本は何だったのか――
 その表紙に描かれた一人ぼっちの子供は、いったい誰なのだろう――
 ハルがそんなことを考えながらじっと絵本の表紙を見つめていると、不意に向こうから室寺の声が聞こえていた。
「――おい、日記を見つけたぞ」

 その日記は、清織でも澄花のものでもなく、牧葉総志のものだった。
 彼はこの家の持ち主であり、書類上は二人の養父ということになっている。元裁判官という経歴で、二人を養子に迎えたときには、すでにかなりの高齢だったようである。妻を亡くして以来、実の子供たちとは疎遠なまま、この古い家に一人で寡夫暮らしを続けていた。死後、遺産のすべては実子のほうへと渡っているが、この家だけは清織と澄花の二人に残されている。
 日記には、職業柄を思わせる恬淡とした文字で日々のことが記されていた。気候や出来事や雑感が、一連の手続きでも踏むようにして几帳面に綴られている。それは何となく、管理の徹底した工場で休むことなく記録を生産している、という感じだった。
 内容については相当古くまで遡れるが、二人のことについてはあまりはっきりとした記述は得られなかった。
 牧葉総志によれば、二人と出会ったのは偶然だという。住所不定の子供たちを見つけ、一時的のつもりで保護することにした。一時は、毛糸の玉でも転がすように次第にのびていき、結局は養子として引きとることになった。ただし全体としては、牧葉総志が二人と過ごした時間はそれほど長くはない。
 二人が浮浪児になった経緯や、その事情について、総志の日記は特に語ってはいない。あえて書き残さなかったのか、何か不都合があったのかはわからなかった。
 けれど――
 その日記を読むかぎりでは、老人と二人の子供は幸せに暮らしていたようだった。ちょうど、昔話のその後みたいに。清織と澄花という名前は、老人がつけてやったものらしい。あの二人の少なくとも半分くらいは、この場所で誕生したといってもよさそうだった。
 結局、牧葉総志という老人は、二人に家と名前を与えてやったことになる。

 ――というのが、翌日に室寺がまとめた日記についての概要だった。
 しかしその中で、二人の前歴についてわかったこともある。それが光の教団≠セった。

 その年配の女性は、ふくよかな体つきに、よく発酵したパンみたいに丸々とした顔立ちをしていた。小さな丸眼鏡をかけて、ゆったりとしたローブのような白いワンピースを着ている。
 彼女は自分の名前を、「アフラ」と名のった。表札には笠島と書いてあったはずだが、どうやらそれは仮の名前らしい。少なくとも彼女の信奉する教えに従えば、そういうことになる。
 光の教団について室寺たちが調べたところ、その宗教組織はすでに瓦解し、消滅しているらしい、ということが判明した。教祖は行方不明で、関係者の多くは離散している。清織と澄花の二人がいた当時のことを知っていて、なおかつ壁≠フ内側に在住している人物ということで、彼女、アフラ=笠島に白羽の矢が立てられた、というわけだった。
 例によって室寺と五人の子供が彼女の自宅を訪ねたのは、午後の半ばというところである。 案内された部屋は、全体が白色で統一されていた。天井や壁紙はともかくとして、床や柱、家具や小物の類にいたるまで、可能なかぎりのものに白が使われている。注意書きのあるベンチみたいに、気がつくとべっとりその色がくっついてしまいそうだった。
 室寺は名刺を渡すと、まずは彼女のことについて確認している。
「――確かに昔、私はそこでシスターをしていました」
 と、彼女は何の気負いも後ろめたさもない声で言った。
「教団そのものはなくなってしまいましたが、私は今でも教義を守り続けています。それが正しい教えであると、信じているからです」
「なるほど……」
 室寺はあたりを見まわしながら、注意深く同意した。何種類かの細菌なら殺せそうなこの部屋を見れば、それはよくわかることだった。
 彼女と室寺たちは、ガラス製らしい白いテーブルを囲んで、当然のように真っ白なソファに座っている。
「教団が解散してから、もう十年近くになります。正直なところ、今さらそのことで人が訪ねてくるとは思っていませんでした」
 彼女は目の前に火のついたロウソクでも立っているような、ゆっくりとしたしゃべりかたをした。少なくとも、狂信的なところや、暴力的な気配は微塵も感じられない。
「我々も関係者のかたをほうぼう探しまわったんですが、見つけだすのには苦労しました」室寺は適当な嘘を混ぜつつ、礼儀正しく言った。「それで、ご迷惑とは思いましたが、こうして訪ねさせてもらった次第です」
「それは構いませんが――」彼女はやや当惑気味に訊ねた。「いったい、どのようなご用件でしょうか?」
「実は、人を探しているんです」
 そう言って、室寺は二枚の写真を彼女の前に並べた。手に入った中で一番古い、清織と澄花の写真である。
「その二人に、見覚えはありませんか? あなたが教団に勤めていた頃、その施設にいたはずなんですが」
 彼女はしばらく写真を凝視していたが、やがて静かに言った。何かの鍵を、そっと開くみたいに。
「――ずいぶん大きくなってはいますが、この二人なら間違いないでしょう。実に印象的な子供たちでしたから」
「よく覚えている、と?」
「ええ、ですが――」
 と、彼女は室寺から、五人の子供たちまでを巡り見ながら言った。
「失礼ですが、いったい二人にどのようなご用件があるのでしょう。正直なところ、あなたがたと二人の関係については見当もつかないのですが……」
「申し訳ないが、事情について細かいことをお話しすることはできません」室寺は友好的な笑みを浮かべつつ、何食わぬ顔で強弁した。「ある特別な調査に関わること、とでも思っていただければ――それ以上の説明は、どうか宥恕ください」
 彼女は室寺を見て、子供たちを見て、二人の写真を見て、それから最後に室寺から渡されてテーブルの上に置いてあった名刺を見た。そしてちょっとだけため息のようなものをついてから、何割か諦めも混ざった顔でうなずく。
「わかりました、ともかく知っていることはすべてお話しましょう」
 室寺は感謝したが、彼女の承諾がこの男の笑顔のせいでないことだけは明白だった。
「その頃の写真を入れたアルバムがあるはずですから、ここにお持ちしましょう」
 と彼女は言うと、立ちあがってどこか別の部屋へと向かっている。
「――俺もああいう名刺が一枚、欲しいところだな」
 ナツは半分くらい冗談の口ぶりで、ハルに向かって囁いた。
 やがて彼女が戻ってきて、手に持っていたアルバムをテーブルの上に広げている。当然のように、そのアルバムも真っ白だった。
「あなたがたがお探しの二人は、おそらくこの子たちで間違いないでしょう」
 彼女がそう言って指さしたのは、一枚の写真だった。
 その写真には、縦に切りとられた空間に二人の子供が写しとられていた。室内のようだが、吹き抜けの広場になった場所で、二人の背後には何かの機械をばらばらにして積みあげたような、奇妙な形の巨大なオブジェが飾られていた。
 子供たちはオブジェのある台座に腰かけて、何かを熱心にのぞきこんでいる。二人とも、紙を切りとっただけみたいな装飾性のない白い服を着ていた。
「これは?」
 と、室寺が訊ねる。
「当時、私が撮ったものです」
 彼女は十年近く前のそのことを、どちらかという比較的最近のことみたいにして言った。
「廊下を歩いていたときに、たまたま見かけたのです。別の用事でカメラを持っていたのですが、気づいたときにはシャッターを押していました。二人は絵本を読んでいるところでした」
 写真の中の二人は、とても幸福そうに見えた。たった今、神様から特別の贈り物でも受けとったみたいに。写っているのは横顔だけだったが、その二人の面影は清織と澄花のものに間違いはない。
「この二人は教団の施設で暮らしていた、ということでいいんですね?」
 室寺は確認した。
「ええ――」
「施設というのは、どのような?」
 訊かれて、彼女は少し考えるように間をとった。箱の奥にしまっておいたものを、丁寧に一つずつ取りだしていくみたいに。
「教団の教えによれば、私たちにとってこの世界は一種の通り道にしかすぎません。本当の世界は、その先に訪れるものなのです。ですから、それをすでに知っている者として、私たちは本当の世界での名前を名のっています」
 つまり彼女がアフラと名のっているのは、そういう理由によることのようだった。当然ながら清織や澄花にもそれがあって、彼女はその名前も教えてくれる。
「私たちがいずれ到ることになる本当の世界には、この仮住まいとは違って、怒りや悲しみ、憎しみや苦しみといったものは存在しません。そこは清浄無垢な、生まれる前の卵が見る夢のような世界です。ですからその世界に到るまでは、私たちはできるかぎりこの世界の毒気を避けなければなりません。いわば、悪い種をできるだけ取りのぞく必要があるのです。そうしたものは、本当の世界にはふさわしくないものですから」
「だから孤児や引きとった子供たちを、隔離施設で育て、世界との接触を断とうとした――?」
 彼女は首肯する。ごく簡単に。
「光の教団が白を最高色とするのも、同じ理由によります。ご存知のとおり、光はすべての色を混ぜあわせると白色になります。それはすべての穢れを超越した、神聖にして冒されざる色なのです。だから我々は、できるだけその色を尊び、親しむようにしています」
 この部屋や彼女の格好を見れば、それは十分に理解できることだった。
「教義についてのお話もけっこうですが、二人のことについて詳しく聞かせてもらっても構いませんか?」
 言われて、彼女は機械が何かにつっかえるように口を噤んだ。おそらく、教えについてまだいろいろと話したいことがあったのだろう。けれど思いなおすように一呼吸してから、質問について答えはじめた。
「――前にも言いましたが、この二人は実に印象的な子供たちでした。血はつながっていないのに、本当の兄妹みたいに仲がよくて。メーテルリンクの『青い鳥』に出てくる、未来の王国の恋人のことを知っていますか?」
「あいにくと……」
 室寺は肩をすくめた。
「『青い鳥』には、これから生まれてくる子供たちの国を訪ねる一幕があります」彼女はごく静かな声で話しはじめた。「そこでは、未来の英雄や医者、科学者といった子供たちが生まれるときを待っているのです。そうして送りだされる子供たちの中に、恋人同士と呼ばれる二人がいます。ですが二人はいっしょには生まれられないのです。一人は早すぎ、一人は遅すぎます。それで二人は、お互いを見つけるための印を求めます。その印として、一人は愛を、一人は悲しみを約束します。二人は結局のところ、一人ぼっちでしかいられないのです」
 彼女はちょっとためらうように言葉を切って、それから続けた。
「――あの二人は、その恋人同士に似ていました。もしも二人が同じ世界で生を受けていれば、こんなふうになっていたのではないか、というふうに」
 部屋の中に、何かがそっと置かれるような沈黙が流れた。白い色は、まるで自分で自分を傷つけるみたいに明るい光を放っている。
 その沈黙を静かに脇へどけて、室寺は言った。
「だが、二人は施設を出ていった……何故です?」
 彼女は何か困ったような、戸惑ったような表情を浮かべている。
「実は、そのことについてはよくわかっていないのです」
「わかっていない?」
「ええ、二人がいなくなる直前……いえ、いなくなったその夜に、ある事件が起きました。殺人事件です。あれは、あれは、本当に恐ろしい出来事でした」
「そのこと、しかるべき機関には?」
 彼女は首を振った。
「私たちは、外部の組織とはできるだけ接触を断っていました。その時も、同じです。捜査と呼べるようなことはほとんど行いませんでした。遺体は施設に埋葬され、事件としてはそれっきりです」
「――殺したのは、いなくなった二人だと?」
「それはわかりません」彼女はどちらかというと、混乱気味に首を振った。「とても、そんなことをする子供たちではありませんでしたから。被害者は頭部を金属バットで叩き潰されていました。非常に念入りに、です。もう原型はとどめておらず、部屋は――そこは女の子の部屋でしたが――一面が血の海でした。凶器は残されていましたが、犯人につながる明確な証拠はありませんでした。あんなことが……あんなことがあの子たちにできるなんて、私には信じられません」
「殺されたという相手は?」
「同じ施設にいた子供たちの一人です」
 彼女はそう言うと、アルバムから別の写真を取りだした。そこには二人よりいくらか年上の、特にどういう特徴もない平凡な少年が写っている。その少年の名前も、彼女は教えてくれた。
「施設にいる子供としてはごく普通の、何の問題もない男の子でした。社交的で、教えにも忠実で――どうして殺されたのか、私にはまるでわかりません」
「教団が解散したのは、それから間もなくのことですね?」
「そうです、教祖様が突然いなくなられて……残された私たちでは、教団の運営すらままなりませんでした。何しろ、ほとんどのことをお一人でなされていましたから」
「事件とそのことに、何か関係があると思いますか?」
「それはどうでしょう」彼女は慎重に言葉を選んで言った。「直接的なつながりがあったようには思えません。ですが、私はそれをある種の天罰のように感じています。清浄無垢であるべきはずのあの場所で、そのように恐ろしいことが起こったのですから」
 室寺は質問を切りあげ、子供たちのほうに顔を向けた。聞くべきことは概ね聞き終わったので、そっちから何か知っておきたいことはないか、というのである。
 少しだけ時間があってから、ハルが訊いた。
「その施設というのは、今はどうなっているんですか?」
 室寺は質問を取り次ぐように、彼女のほうを見る。
「――おそらく、ほとんど当時のまま残されているはずです。つまり、事件のあった直後のまま。土地や建物は教祖様個人のものでしたし、山奥なので誰も興味を持ったりはしないでしょう。今は光の教えと同じく、一種の廃墟になっているはずです」

 玄関のチャイムが鳴ったのは、ハルが朝食を終えてテレビのニュースを見ているときのことだった。
 休日の朝は時間がゆっくり流れていて、光の具合もどこかのんびりとしている。父親の恭介は何かの仕事で徹夜だったようで、まだ眠っていた。テレビのニュースに特に変わったところはなく、当然ながら完全世界のことについてなど誰も気づいてはいない。
 チャイムの音が聞こえると、ハルはテレビを消して玄関へ向かった。扉を開けると、そこにはアキの姿がある。
「こんにちは、ハル君」
 とアキはいつものような声で言った。
 そして、その隣には――
 見覚えのない女性が立っている。
 さっぱりした短めの髪に、大抵の人間は気を許してしまいそうな明るい笑顔を浮かべていた。古い宮殿に描かれた壁画みたいに、長く人の印象に残るタイプの女性である。そうして彼女は、どこかアキに似ていた。
「こんにちは、あなたが宮藤晴くんね?」
 その女性はひどく気さくな調子で言った。そんなところも、どこかアキに似ている。
「そうですけど、えと――すみませんが、どなたですか?」
「おっと、これは失礼したわね」
 彼女はひどく堂に入った戯けかたをした。
「私はアキの母親で、水奈瀬幸美といいます。よろしくね、宮藤くん」
 そう言って差しだされた手を、ハルは反射的に握ってしまう。何かを放り投げられたとき、ついそれを受けとめてしまうみたいに。
 彼女がアキの母親だということは、はじめから何となくわかっていることだった。けれど問題は、どうして彼女がここにいるのかということである。今日は廃墟になっているという例の施設を訪ねる予定だった。そのことに無関係のアキの母親を連れてくる必要はどこにもない。
「何で、アキのお母さんがここに?」
 当然ながら、ハルはその質問をした。
「だって、車の運転をする人がいるでしょ?」
 アキはにこにこした顔のまま言う。
「確か、朝美さんが送ってくれるはずだったけど?」
「――何か、うちの母親が面白そうだからって」
 ちょっと苦しげなアキの言葉を聞いて、ハルはもう大体のことが想像できてしまっていた。
「サクヤは、どこに……?」
「ええと、車のほうかな」アキの笑顔はだいぶ怪しかった。
「すぐわかることだけど、本当に?」
 アキは困ったように、母親だという相手のほうを見る。けれど相手は軽く、肩をすくめるだけだった。
「――何でわかったの、ハル君?」
 降参するように、アキは言った。彼女が母親だという相手はやはり、サクヤの変身した姿らしい。
「そりゃわかるよ、どう考えても変だし。アキこそ、何でこんなことを?」
「えっと、驚くかと思って」
 特に反省したふうもなく、アキは言った。ハルは少しだけため息をついて、確認する。
「ということは、車の運転もサクヤがするってことなの?」
「うん、まあそういうこと。わたしが魔法を使ってもいいけどね」
 アキは気にした様子もなくうなずいた。いくら大人に変身しているからといって、サクヤはまだ未成年のはずではあったけれど。
「――あら、私運転は得意なのよ」
 そう言って微笑むサクヤが、きっと本物の水奈瀬幸美そっくりなのだろうということは、ハルにも何となく信じることができた。

 アフラ=笠島に教えられたその施設は、市内でも郊外にあたるかなりの山奥にあった。
 ほとんど民家もない山道を走っていくと、両側には木々が林立するだけの森が広がっている。木立の奥には、太陽を拒否するような湿った暗闇が身を潜めていた。こんな場所を二人の小さな子供が逃げていったというのは、現実的には想像しにくいことでもある。
 道路はしばらくすると本筋から離れ、森の隙間を無理に押しひろげたような細い道へと入っていった。火星にある川床のようなどこか秘密めいた間道を進んでいくと、しばらくして不意に視界が開けている。
 そこはかなりの面積の敷地に、様々な施設が点在している場所だった。いくつもの建物や、田畑らしいものも認められる。とはいえそれらは、今はもうすっかり荒れ放題になって緑が繁茂していた。周囲はフェンスで囲まれ、その上には有刺鉄線が巡らされている。
 入口にあるフェンスは閉じられ、鍵がかけられていた。
「どうするんだ?」
 と、ナツが訊いた。侵入するのはそれほど難しくはないだろうが、ちょっと面倒なのには違いない。
「あ、ちょっと待ってて。わたしがお願いしてみるから」
 助手席に座っていたアキはそう言うと、さっさと車から降りてしまっている。入口のところまで行って、アキは何やらはじめているようだった。
「お願いって、何のことだ?」
「少なくとも私には聞かないで」フユがため息をつくように言う。
 やがてアキは同じ足どりで戻ってくると、ドアを開けて助手席に座った。
「お願いしたら、通ってもいいって」
 その言葉と同時に、フェンスの入口が勝手に開いている。どうやら、〈生命時間〉で魔法をかけたらしい。車はそのあいだを何の問題もなく通り抜けた。気のいい老門番か何かに見送られるみたいにして。
「……こりゃ、人のいないところでも迂闊なことはしゃべれないな」
 ナツはぞっとしない顔で嘆息した。
 施設の中を、車は走っていく。当然だがあたりに人の気配はなく、建物にはあちこちに時間の傷跡があった。深海に沈んだ鯨の骨みたいに、この場所もこのままゆっくりと朽ちはてていくのだろう。
 そのまましばらく走っていくと、明らかにほかとは違う建物が見えてきた。施設の中心部であり、子供たちが暮らしていたという住居である。
 一言でいうと、それは卵殻に似ていた。半球状のドーム型建造物で、異常に滑らかな表面をしている。ほかの建物同様に真っ白で、地面と平行な丸窓が二列だけ並んでいた。何の装飾性も色彩もないその建物は、何かを暗示するための夢から抜けだしてきたようでもある。
 入口部分まで行くと、五人は車から外へ降りた。半球状の建物からは、エントランスだけが小さく突きだしている。土の露出した部分では、いたるところに植物がのび蔓延っていた。
「……何か、不気味だね」
 アキが白い卵殻を見あげながら、直截的な表現をした。
「人がいなくなって、もうずいぶん経ってるから」
 とハルは注意深くあたりの様子をうかがいながら言う。
「――幽霊とか、出ないよね?」
 アキが不安な顔をすると、
「魔法使いならいいのか?」
 と、ナツが混ぜかえした。
 エントランスは両開きのガラス戸になっていたが、ハルが押してみると簡単に開いた。後ろの四人に確認するように振りむくと、全員がうなずいている。この先に何が待っているのか、確かなことはわからなかったけれど。
 五人は入口ロビーを抜けると、建物の中へと入った。外壁もそうだったが、屋内にも破損の跡はなく、少なくとも見ためだけは概ね当時のままで残されているようだった。それでも空気は澱んで埃っぽく、ここがもう死んだ場所なのだと教えている。
 廊下は入ってすぐのところで、三方に別れていた。中央をまっすぐ進む道と、外周にそって湾曲してのびる左右の道。無数の丸窓から射しこむ光は、海底に沈んだ遺跡でも照らすようにして、外周部を静かに浮かびあがらせていた。
「手分けして探したほうがよさそうね」
 フユは廊下の先に目を凝らしながら言った。廊下はどれも、かなりの長さがある。
「けどそうすると、お互いの居場所がわからなくなるんじゃないかな?」
 ちょっと考えてから、ハルは言った。
「――なら、こいつを持っていくといい」
 そう言うと、ナツはいつものウエストバッグからメモ帳とマジックを取りだした。そして〈幽霊模型〉を使って、何やら描きこんでいく。
「何、それ?」アキが訊いた。
「ハンドベル=v
 言って、ナツは破りとったメモ用紙を揺らしてみせた。からん、からん、と角の鈍くなった鈴の音が、かなりの音量で響きわたる。これなら、建物のどこにいても聞こえそうだった。
「何かあれば、こいつを鳴らせばいい。それから、これも――」
 ナツはもう一度、メモ用紙に何かを描きこんだ。それをまた破りとって、前方に向けて何かのスイッチでも押すような仕草をする。すると、メモ用紙から黄色い光がのびてあたりを照らした。どうやら、懐中電灯≠描いたらしい。
「あんまり長くはもたないだろうから、必要な時だけ使うようにしてくれ」
 そうしてナツは、残り四人分のベルと電灯を用意した。
 道が三方に別れているので、ナツとフユが左右に、残る三人が中央の道に進む。当然ながら建物に明かりは一つもなく、あたりは雪にでも埋まったように暗く、静かだった。ただ採光に何か工夫でもあるのか、ナツの電灯をつけるほど暗黒ではない。
 ハルたち三人は廊下をまっすぐ進むうち、中央部らしい広場へとやって来ていた。吹き抜けの円形になった空間で、大きな天窓から光が射しこんでいる。斜めになったその光線は、まるで傾いた柱みたいにも見えた。
 広場の真ん中には、例の写真でも見たことのあるオブジェが鎮座している。
「これ、二人が座ってたところだよね?」
 とアキがオブジェに近づきながら言った。
「――みたいね」
 廊下のほうを振り返りながら、サクヤが言う。写真の構図からして、シャッターが切られたのはそのあたりのようだった。
 オブジェは写真で見たものと、あまり変わりがないように感じられた。汚れや欠損もなく、位置的なずれもない。太陽があくまで、その中心にあり続けるみたいに。
 写真ではわからなかったが、広場からはさらに二つの道がのびていて、ほかにも二階に続く階段が円形の壁にそって設置されていた。
「ぼくが上を調べてみるよ。二人は右と左の道に、それで構わないかな?」
 ハルが言うと、二人は簡単にうなずいた。これで、全員がばらばらに別れることになる。
 軽く手を振って右の道に進んでいくアキに応えながら、ハルはその場に残っていた。二人が廊下の先に姿を消すと、あらためてオブジェのほうに向きなおる。ハルはその、写真で二人が座っていたはずの場所に近づいてみた。
 もちろん、そこには白い台座があるだけで、何の痕跡も残っていない。二人の男の子と女の子がそこでどんなことを思っていたのか、ということは。この世界では、悲しみや苦しみのほうがずっと残りやすくできている。たぶん、そのほうが生存上有利だったからだろう。
「…………」
 ハルはそっと、その場所に触れてみた。
 けれどそこには、温もりのない白い石の冷たさがあるばかりで、何かが伝わってくるようなことはなかった。
 清織と、澄花――
 あの二人が手にしていたはずのものは、どこに消えてしまったのだろう。星の光がある日、突然届かなくなるみたいに、それはずっと以前に失われてしまったのだろうか。
 ハルはそっと、天井を見あげる。
 何もかもが白く覆われたこの建物は、まるで生まれることのない卵みたいだった。そこで見る夢は、きっときれいで、傷一つなく、幸福なものだ。そこではすべてが、完全なままでいられる。
 でも――
 もしそれが、壊れてしまったら。
 ハルは何かの痛みを感じたように、ぎゅっと手を握った。
 結局のところ、人は完全世界には耐えられないのかもしれない。そこはあまりに、きれいすぎる場所だから。

 ライトの先に人影を見つけて、アキは声をあげそうなくらいびっくりした。まさか、本当に幽霊が出るなんて。やっぱりナツに頼んで、幽霊用の掃除機でも作ってもらうべきだったろうか――
 けれどよく見ると、それはサクヤだった。どうやら調べていた部屋がつながっていたらしい。
 最初の暗い部屋をおおかた調べてしまうと、アキは扉を開けて次の部屋へと移っていた。その場所を見渡すため、アキはあちこちをライトで照らしたのである。それで、暗闇にいくつも穴を開けている最中に、サクヤをみつけたのだった。
(――きっと、光が弱すぎたせいだ)
 八つ当たり気味に思いつつ、アキは電灯のスイッチを消した。こちらの部屋は窓が多く、暗闇も灰色程度まで薄くなっている。特に明かりがなくとも支障はなさそうだった。
 アキがあらためて見まわしてみると、部屋は大きく、教室がいくつか入りそうなほどの広さがあった。レクリエーションルーム、という感じで、障害物はなく、好きな遊びに利用できそうだった。隅にある収納棚には、もう使われることのない遊具が詰めこまれ、文句も言わずに大人しくしている。
「サクヤ、どうかしたの?」
 言いながら、アキはそちらのほうに近づいてみた。
 サクヤはぬいぐるみのようなものを持って、立ったままじっとしているところだった。その足元には、片づけられずにいたらしいぬいぐるみが転がっている。ぬいぐるみはどれも真っ白だった。白いヒツジ、白いウサギ、白いクマ――
 そのぬいぐるみ――白いネコを、サクヤは体からちょっと離して眺めていた。できあがったばかりの試作品を検査するみたいに。
「――ここにいるやつらってさ」
 と、サクヤは独り言でもつぶやくように言った。
「何を考えてたのかな?」
 訊かれて、アキは床に放置されたままのぬいぐるみに目を落とす。白一色のぬいぐるみたちは、どれも仲がよさそうだった。世界が終わったような場所でも、少なくともそこには仲間たちがいる。
「さあ、わたしにはわかんないよ」
 アキは屈みこんで、ぬいぐるみの一つに指を触れてみた。たぶん、手作りなのだろう。よく見ると、所々にちぐはぐしたところがあった。
 目が慣れてきたせいか、薄闇は水を足したみたいに透明に近づきつつあった。サクヤは何か気にいらないことでもあるかのように、まだぬいぐるみを眺めている。アキは地面のぬいぐるみをつつきながら、訊いてみた。まるで、ぬいぐるみに向かって話しかけるみたいに。
「サクヤはさ……サクヤは、どんなふうに生まれてきたの?」
 ここ数日いっしょに暮らしてきて、アキは彼女とだいぶ親しくなっていた。少なくとも外見や性格に関しては、この少女はその辺の女の子と大差はないようである。
 けれど彼女が魔法で造られた存在なのだということも、事実ではあった。鴻城希槻がいなくなって、遠からず死んでしまうのだということも。そのあたりのことについて、アキはあまり詳しくは質問していない。少なくともアキにとって、彼女は普通の女の子と変わりがなかった。普通の女の子みたいに、友達になることだって可能だ。
 でも、卵の中にある人工の夢みたいなこの場所で、アキは何故かその質問をした。
 サクヤはまだぬいぐるみを眺めていたが、
「……生まれた瞬間のことについては、よく覚えてない」
 と、雨粒がぽつぽつと降ってくるみたいに話しはじめた。
「あたしが最初に覚えてるのは、希槻さまの前に立っていたときのこと。この人があたしの仕える人、あたしを世界につなぎとめておく人なんだと、その時のあたしは誰に言われるでもなく理解できていた。どうしてそんなふうに思ったのかはわからないし、別に不思議だとも思わなかった――あんたたちだって、そうでしょ? 自分がどうやって言葉をしゃべるようになったかなんて、自分でも覚えていない」
 アキもサクヤも、特に相手のほうを見ようとはしなかった。話をしているのは、あくまで暗闇か、ぬいぐるみに対してなのだというふうに。
「ニニって子も、同じだったの?」
 そう、アキは訊いてみる。
「あいつとあたしは、同じ時に生まれたから」サクヤは何か不満そうな、何か満足そうな、おかしな声で言った。「でもあいつとあたしは、全然違ってた。あいつはロボットみたいに希槻さまのことが何より優先で、それが当然みたいだった。いつも温かくも、冷たくもない感じで。それは希槻さまとよく似てた。泣いたり、怒ったりすることがなくて、せいぜいちょっと悲しそうな顔をするだけ。だからあたしはずいぶんいらいらしたし……不思議な気持ちになったりもした」
「…………」
「あんたは、あのハルってやつのことが好きなの?」
 急に訊かれて、「ん――」とアキは考えてしまう。あまり真剣に悩んだことはなかった。
「さあ、どうなんだろう……」
 自分でもよくわからないまま言って、アキはサクヤのほうを見る。この少女は相変わらずぬいぐるみを眺めたままで、アキの言葉など聞いていないかのようだった。
「あたしはさ、好きっていうのがどういうことなのか、よくわからないんだ」
「――うん」
「好きって、何なの?」
 かなり深遠にして、難解な質問だった。
「……それは、わたしには答えられないよ」
 当然のように、アキは肩をすくめるしかない。
 サクヤはぬいぐるみを眺めるのをやめて、言った。
「あいつは、ニニは希槻さまがいなくなったとき、逆上して牧葉清織に襲いかかった――それは、あいつが希槻さまのことを好きだったからだ」
「うん――」
「それで、思うんだ。あたしはニニを殺した牧葉清織のことが許せない。例えどうなっても、あいつだけは殺してやる、って」
 サクヤは何かを確かめるように、アキのほうに顔を向けた。
「これって、あたしがあいつのことを好きってことなのかな?」
 アキは嘆息するように、息をついてから言った。
「そうかもしれない」

 ――何かを発見したベルの合図が聞こえたのは、そのすぐあとのことだった。

 広場から階段でつながった二階部分は、内側に廊下がぐるりと回り、そこから放射状に部屋が配置されていた。どうやらそこは子供たちの個室だったらしく、扉には名前の書かれたプレートがつけられている。それらはどれも、アフラ=笠島のいう「本当の名前」だった。
 天窓からの光で十分に明るく、そこは施設のほかの部分とはだいぶ印象が違っていた。それに、円形になった部屋の配置には、見知らぬ人間にでも取り囲まれているような妙な圧迫感が存在している。まるで、童歌の中にでも迷いこんだみたいに。
「――で、何があったんだ?」
 と、ナツはちょっと落ちつかない気持ちであたりを眺めながら言った。アキに言われたせいでもないが、この場所にはどこか墓場めいた雰囲気があった。ロウソクの火か消えても、光だけが残り続けるみたいに。
「澄花さんの部屋を見つけたんだ」
 ある部屋の前に、ハルは立っていた。ほかの四人はそれを囲む格好になっている。
「――つまり、殺人のあった現場を」
「そりゃ喜ばしいな」
 あまり威勢のよくない身ぶりで、ナツは言った。
「ほかの二人の部屋は?」
 念のために、フユは確認する。名前は聞いているので、部屋が残っているなら見つけられるはずだった。
「そっちはもう調べたけど、特にめぼしいものは何も……部屋はそのままの形で残されてたみたいだけど」
「ということは」
 アキは扉の向こうをのぞきこむようにして言う。
「こっちには、何かあったってこと?」
「――うん、それをみんなにも見てもらいたくて」
 そう言うと、ハルはドアノブをひねって扉を開けた。施錠可能なようにできてはいたが、今は鍵はかかっていない。
 部屋は概ね四角い形をして、それなりの広さがあった。ベッドに机、簡単な戸棚があって、外から見たとおりの丸窓がつけられている。当然だが、すべてのものが白く塗られていた。おそらく、同じ形状の部屋がずっと続いているのだろう。
 見たところ、室内に異常なところは見られなかった。血の海だったという床も、頭部が原型を留めていない死体も、凶器になった金属バットも――何も。それらの痕跡はきれいに片づけられ、過去の一切は消し去られていた。
「ハル君が見つけたものって?」
 とアキは訊いた。
「――これが、ごみ箱の中にあったんだ」
 そう言って、ハルは入口近くにあったスチール製のごみ箱から何かを拾いあげた。それは、一枚の紙だった。少し固めの、色の着いたもの――
 ハルが差しだしたその紙をのぞきこんだ四人は、それが何なのかにすぐ気がついた。
「これって、もしかしてあの絵本の最後のページ?」
 アキがちょっと意外そうに訊く。
 ごみ箱に捨てられていたその紙は、確かにあの絵本の最後のページだった。破りとられたそのページには、いくつもの血痕らしきものが残されている。その状態から考えて、過去に殺人事件があったその日、そのページはここであったすべてのことを目撃していたようだった。
「ごみ箱にあったのは、それだけだった」
 言いながら、ハルはそれを机の上に置いた。
「――今度は誰も拾わなかったみたいだね」
 アキはそう言って、ちょっといたずらっぽく笑う。もうだいぶ昔にはなるが、ハルとアキが出会うきっかけになった事件でも、同じようなことが起きていた。
「何で、最後のページだけを破ったりしたんだ?」
 机の上に置かれたページを見ながら、ナツは言った。内容の判読は可能だったが、その表面には金属の錆び跡みたいにして点々と血の跡が刻まれている。
「血痕が付着したせいで殺害の証拠になってしまうから、残していったんじゃないかしら?」
 フユはちょっと考えてから言った。
「なら、絵本ごと置いていくなり、全部持っていけばいいはずだ。何も一枚だけページを残していく必要なんてない」
 とナツは納得しなかった。
「何か事情があったのかも……大切な絵本だったから、とか」
 あまり自信はなさそうに、フユは言った。その時に何があったのかがわからなければ、そんな理由など推測のしようもない。
「ぼくも、このことには何か意味があるんじゃないかと思うんだ」
 ハルは部屋の中を見渡しながら言った。死体も、物証も、当時の状況も、ここには残っていない。あるのは年月の経過と、殺人事件があったという事実だけだった。
 けれど――
「わざわざページを破り捨てていったのには、やっぱり何か理由があるんだ。この絵本と二人には、深いつながりがあるんだから。その時に本当に殺されたのは、何だったのか――」
 たった一枚だけ残されたページは、もちろん何も語らない。そこにはどんなダイイングメッセージも発見することはできなかった。
「けど血痕がある以上、こいつがその場にいたことは間違いないんだよな」
 ナツはとんとん、と机を指で叩きながら言った。
「――うん、そうだと思う」
 少し離れたところで、ハルはうなずいた。
「なら、目撃者の証言を聞くのが筋というものじゃないかしら?」
 フユがそう言うと、全員がアキのほうを向いた。そのためには、彼女の〈生命時間〉が必要である。
「――え、ああ、わたしか」アキははっとしたように口を開いた。「うん、そうだよね。わたしの魔法がいるんだよね。わかってたよ、もちろん」
 怪しげな発言を繰り返しながら、アキはこくこくとうなずく。基本的に、魔法使いであるという自覚に欠ける少女だった。
 ちょっと気を取りなおすようにしてから、アキは絵本のページに向かって手をのばした。その表面に手をかざし、魔法の揺らぎを作る。物体に宿った、生命を呼び起こすために。
 けれど――
 しばらくして、アキは手を離した。魔法の揺らぎは、箒で掃かれでもしたみたいに消えてしまう。
「どうかしたの?」
 フユが気づいて、声をかけた。揺らぎを見るかぎりでは、魔法が失敗したという感じではない。
「……だめだよ、この子」
 アキはちょっと困った顔でみんなを見渡し、それからもう一度絵本のページに視線を戻した。
「だってこの子、もう死んでるもの……」
 その場の全員が、口を閉ざした。どういうことなのか、すぐにはわからない。ページにはもちろん汚れはあったが、読めないほどのものではなかった。切れたり破れたりしているわけでもなく、何か問題があるようには見えなかった。
 ――なのに、どうしてそのページが死んでいるのか?
 しばらくして、ハルがそっと口を開いた。
「……つまり、牧葉清織はその時に殺したんだ」
「何を?」アキが訊く。
 ハルはちょっと息をすってから、手から何かを零すようにして言った。
「――物語を」

 その同じ日の午後半ば、アキは自転車で鴻城の屋敷へと向かっていた。背中にはヴァイオリンのケースを背負っている。本当なら車で送ってもらいたいところだったが、母親はサクヤと弟を連れて遊びに出かけてしまっている。ひどい話だった。
 何とか屋敷までやって来ると、アキは自転車をとめて階段をのぼった。あたりはもう、夏の訪れを感じさせるほどの気温である。光の弾む音が聞こえてきそうな陽射しで、自転車をこいでいるとちょっと汗ばむくらいだった。
 屋敷の中庭を通りぬけようとすると、そこにはウティマがいた。以前と同じようにテーブルに座って、何かを手元で動かしている。机の上には何だかよくわからない、奇妙なものが置かれていた。
「――何をしてるんですか?」
 アキはちょっと足をとめて、訊いてみた。
 テーブルの上に置かれているのは、三本の細い杭が立てられた台だった。杭の一番左には、何枚もの円盤がピラミッド状に差しこまれている。右の二つの杭にも同じように円盤が積んであったが、こちらは左よりも山が小さかった。
「パズルじゃよ」
 と、ウティマは短く答える。
「……パズル?」
 言われて、アキはなおも作業を続けるウティマを観察してみたが、どういうルールがあるのかはさっぱりわからなかった。
「簡単に言うと、山を左から右に移すゲームじゃな」
 ウティマは手をとめて、アキのために説明してくれた。
「動かせる円盤は一度に一枚だけ。円盤は必ず杭に差しこまねばならん。ただし小さいものの上に大きなものを置くのはルール違反じゃ。その条件で、山をそっくり別の場所に移してしまう。『ハノイの塔』とも呼ばれておる」
 実際に、ウティマはそれをやってせた。三本の杭をうまく使って、大きい円盤を徐々に移動させていく。二歩進んで一歩下がる要領だった。
「ああ、なるほど。左の山も置き場所に利用するんですね」
 とアキは何となく納得した。
「そうじゃ、作業そのものは単純で、機械的にこなすことができる。ところが、このパズルを解くことはできないんじゃよ」
「どうしてですか?」
 アキは首を傾げた。解法がわかっているのに解けない問題なんてあるのだろうか。
「――あるのじゃ、それが」
 円盤は右に動き、左に動き、また右に動き、また左に動く。盆に載せられた水を、零してはまた、すくいとっていくみたいに。
「この一つの円盤を動かすのに、常に一定の時間を消費すると仮定しよう。パズルを完成させるために必要な最小手数はわかっておる。すると必然的に、完成までに要する時間が算出されるわけじゃ」
「なるほど」
 わかっているのか、いないのか、アキはうなずいている。
「円盤の数によっては、計算された時間は人の一生どころか、地球がなくなるまでの時間がかかっても終わることはない。つまり、事実上完成は不可能ということじゃ。完成することはわかっておってもな」
 ウティマの話を聞いて、アキはあらためてテーブルの上に置かれたパズルを見つめた。妙な話だった。神様がいても、できないことはあるらしい。
「――でも、だったらどうしてそんなパズルをしてるんですか?」
「何、ただの暇つぶしじゃ」
 そう言って、ウティマはまた円盤の一つを動かす。アキは首を振って、とりあえずその場を立ち去ることにした。少なくとも今のアキには、解けないパズルにつきあうほどの時間はない。
 中庭を抜けて、アキは東屋のほうに向かった。庭の草花は自分勝手に成長しているようで、どこか乱雑な印象がしている。暇を見て来理が世話をしているはずだったが、片手間の仕事としては手に余るのかもしれない。
 アキが東屋をのぞいてみると、ちょうどそこには来理がいた。例の魔術具はほとんど修復が完了していて、あとは大きなパーツ同士をつなぎあわせるだけになっていた。
「来理さん、こんにちは」
 と、アキは声をかけた。来理が気づいて、顔をあげる。そこにいるのがアキだとわかると、彼女はひどく自然な笑顔を浮かべた。
「ずいぶん久しぶりな感じね、アキに会うのも。ここでずっと作業をしてると、自分の知らないうちに何年も時間が過ぎてるような気がするわ」
「タイやヒラメが舞い踊ってくれるとよかったんですけどね」
「ええ、本当に」
 来理は同意して、おかしそうに笑う。それから、
「魔術具のほうはすぐにでも完成するわ。でも、今日はサクヤはいないみたいだけど、どうしたの?」
「サクヤはうちの家族とお出かけです」アキはちょっとため息をつくように言った。「それで、わたしだけが仕事に来たんです。わざわざヴァイオリンのケースをしょって、自転車で」
「それはご苦労だったわね――でも、ということは本当にわかったのね? あの暗号のことが」
「もちろんです。そのためにここまで来たんですから」
 アキは言って、背中のケースを床に降ろした。そうしてその中から、一枚の楽譜を取りだす。
 わざわざアキがここまでやって来たのは、魔術具の試験運転をするためだった。暗号の解読には成功したはずだったが、実際に試してみなければわからない。
「その楽譜が、あの暗号の答えということ?」
 と来理は訊いた。解読のことも、試験運転のことも室寺から聞いてはいたが、詳しいことまでは知らない。
「そうです、実はあれは音楽だったんです」
 アキは自信満々で言った。

「Βρείτε τα τρία μάτια του δέντρου.
 12・9・8・6
 1‐72|10 / 551|D.C.720
 Α’|ΣΝΔ’|Ξ’|ΜΒ’|ΣΓ ’| ΦΑ’|ΤΟΘ ’|……」

 ――これが、例の暗号だった。
 冒頭の一文がオルゴールの曲を指していることは、間違いなさそうだった。そして結局、その楽器からの連想が数字の意味を解くヒントになっている。
 二行目の数字は、ピタゴラスの音律を示す数字だった。和音を得るための弦の比率を表していて、ここから十二音階を得ることができる。
 三行目の数字に関しては、オルゴールを調べたところ、櫛歯の数が七十二列、ピンの本数は問題の曲で総計、五百五十一本が数えられた。「1‐72」は櫛歯に割りあてられた数字、「10 / 551」はその櫛歯を弾くピンに関するものだと推測できる。
 そして「D.C.」は音楽記号の「最初に戻る」だった。つまり、十ピンぶんで弾かれる櫛歯の数字を合計して、「720」で一回りさせろ、ということである。わざわざ「720」にしたのは、櫛歯の最大合計値がそれ以下になることを示唆してのヒントのようだった。
 最後のギリシャ文字は、数字を表している。「Α’」は「1」、「ΣΝΔ’」は「254」そんなふうに。それが五十組、用意されていた。これとオルゴールから得られた数字を合計してやれば、正しい数値が得られるのである。
 ただし最初の数字が「1」なのは、それが基準音になるからだった。ピンの数が一本だけ余るのも、それが理由である。最初のピンを除いて同一処理を実行すると、数字はすべて「12」以下に収まった。すなわち、十二音階である
 基準音の決定と記譜作業は、アキの母親が行った。彼女には音大の卒業生という肩書きがある。音色についての指定はなかったので、拍子や強弱といったものは彼女が適当に加味した。正確な音階を鳴らせば、曲としての体裁は必要ないのだろう。
 そうしてできあがったのは、平板で単純ではあったが、ひどく古代的な感じのする曲だった。どこかの遺跡や古い墓でなら、今でも発見できるかもしれない。
「――ずいぶん大変だったのね」
 かいつまんだ説明を聞いたあと、来理は大きく息をついた。話を聞くだけでも、なかなか大変そうである。
「すごく苦労した――って言ってました」
 アキはにこにこして答える。実際に苦労したのは、彼女の友達と数学教師である神坂柊一郎ではあったけれど。
 やがて魔術具の修復が完了して、実際に試してみることになった。そうしてアキがヴァイオリンを取りだそうとすると、室寺が東屋にやって来ている。この男はいつになく重々しい雰囲気で、そこに立っていた。
「何かあったんですか、室寺さん――?」
 来理はそのことに気づいて、やや慎重な口調で訊いている。
 ちょっと迷うように口を閉ざしていたが、室寺はやがて言った。
「今入った報告によると、例の壁が消滅したらしい」
 まるで独り言でもつぶやくみたいにして、室寺は続けた。
「ただしウティマによれば、それは消滅したんではなくて拡大したんだそうだ。世界全体が、完全世界の領域にすっぽりと収まるくらいに、な。つまり、もう時間はないということだ。牧葉清織の言いぶんに従えば……世界はもうすぐ死ぬことになる」

 ――そして、最後の日はやって来た。

――Thanks for your reading.

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